はじめに

嵩岳寺塔は、河南省登封市城の北西、太室山の南麓に位置し、嵩岳寺建築群の主要な建物であり、中国初期仏教建築の重要な象徴的実物でもあります。

『魏書』の記載によると、北魏の宣武帝がその労働力を提供し、当時の全国最高の僧官である沙門統の僧暹と地元の最高行政長官である河南尹の甄琛に命じ、多くの書物を読み、仏教の理を深く好み、山水を愛し、巧みな思考を兼ね備えた隠士の馮亮と共に嵩高の景勝地を視察させ、泉や森が素晴らしく、構造が美しく、山居の妙を極めた閑居仏寺の中に仏塔を建設させました。

その建設は北魏の永平4年(511年)12月から延昌2年(513年)11月の間に始まり、北魏の正光元年(520年)に完成しました。完成年から計算すると、2020年までに中国のこの古い密檐式高層煉瓦塔はすでに1500歳になっています。

嵩岳寺塔が位置する場所は、天地が合わさり、四季が交わり、風雨が集まり、陰陽が和する風水の宝地です。周囲の環境は、嵩嶺を背負い、抱くように寄り添い、虚に臨んで陽に向かい、二熊を見下ろし、山々がアーチのように並び、渓流が門を巡り、青々とした松や柏が茂る、嵩山太室の景勝地です。

嵩山は五岳の尊であり、宗教の名山であり、中国仏教の発祥地であり、仏教の伝播に大きな推進的役割を果たしました。嵩岳寺塔は実物の証拠の中の輝かしい星です。

歴史文献

広弘明集

嵩州于闲居寺起塔,人众从舍利者万余。有兔逆坂走来,历舆下而去。天时阴云,舍利将下,日便朗照。始入函,云复合。

嵩州の閑居寺に塔を建てる際、舎利に従う人々は一万余りいた。兎が坂を逆走して来て、輿の下を通って去っていった。天は曇り空であったが、舎利を下ろそうとした時、日は明るく照り輝いた。箱に入れ終わると、雲はまた元通りになった。

『広弘明集』舎利感応記

李北海集

凡人以塔庙者,敬田也,执于有为;禅寂者,慧门也,得于无物。 今之作者,居然异乎! 至若智常不生,妙用不动,心灭法灭,性空色空,喻是化城,竟非住处。 所以平等之观,一洗于有无;自在之心,大通于权实。 导师假其方便,法雨任其根茎。 流水尽纳于海壖,聚沙俱成于佛道。 大矣广矣,不可得而谈也。

凡そ人の塔廟を以てするは、敬田なり、有為に執す。禅寂なる者は、慧門なり、無物に得たり。 今の作者は、居然として異なるかな! 智常生ぜず、妙用動かず、心滅し法滅し、性空にして色空なるに至っては、喩へば是れ化城にして、竟に住処に非ず。 所以に平等の観は、有無を一洗し;自在の心は、権実を大通す。 導師其の方便を仮り、法雨其の根茎に任す。 流水尽く海壖に納まり、聚沙倶に佛道と成る。 大なるかな広なるかな、得て談ず可からざるなり。

嵩岳寺者,后魏孝明帝之离宫也。 正光元年,牓闲居士广大佛刹,殚极国财。 济济僧徒,弥七百众;落落堂宇,逾一千间。 藩戚近臣,逝将依止;硕德圆戒,作为宗师。 及后周不祥,正法无绪。

嵩岳寺とは、後魏の孝明帝の離宮なり。 正光元年、閑居士広大仏刹と牓(ぼう)し、国財を殚極(たんきょく)す。 済済たる僧徒、七百衆に弥(わた)り;落落たる堂宇、一千間を逾(こ)ゆ。 藩戚近臣、逝(ゆ)いて将に依止せんとす;碩徳円戒、宗師と為る。 後周の不祥に及び、正法緒無し。

宣皇悔祸,道叶中兴,明诏两京,光复二所。 议以此寺为观,古塔为坛。 八部扶持,一时灵变,物将未可,事故获全。

宣皇禍を悔い、道中興に叶い、明らさまに両京に詔し、二所を光復す。 議して此の寺を以て観と為し、古塔を壇と為す。 八部扶持し、一時の霊変、物将に未だ可ならず、事故に全きを獲たり。

隋开皇五年,隶僧三百人。 仁寿载,改题「嵩岳寺」,又度僧一百五十人。

隋の開皇五年、隷僧三百人。 仁寿の載、「嵩岳寺」と改題し、又僧百五十人を度す。

逮豺狼恣睢,龙象凋落,天宫坠构,劫火潜烧。 唯寺主明藏等八人,莫敢为尸,不暇匡辅。

豺狼の恣睢(しき)なるに逮(およ)び、龍象凋落し、天宮構を墜(おと)し、劫火潜かに焼く。 唯だ寺主明蔵等八人のみ、敢て尸(し)と為ること莫く、匡輔するに暇あらず。

且王充西拒,蚁聚洛师,文武东迁,凤翔岩邑,风承羽檄,先应义旗,挽粟供军,悉心事主。 及傅奕进计,以元嵩为师,凡曰僧坊,尽为除削。 独兹宝地,尤见褒崇。

且つ王充西に拒み、洛師に蟻聚し、文武東に遷り、鳳岩邑に翔(かけ)り、風羽檄を承け、先に義旗に応じ、粟を挽いて軍に供し、悉心主に事(つか)う。 傅奕計を進むるに及び、元嵩を以て師と為し、凡そ僧坊と曰うは、尽く除削せらる。 独り茲の宝地のみ、尤も褒崇を見る。

实典殊科,明敕瀳及,不依废省,有录勋庸,特赐田碾四所。 代有都维那惠果等,勤宣法要,大壮经行,追思前人,髣髴旧贯。

実典殊科、明勅瀳(しき)りに及び、廃省に依らず、勲庸を録する有り、特(こと)に田碾四所を賜う。 代々都維那恵果等有り、勤めて法要を宣べ、大いに経行を壮にし、前人を追思し、旧貫を髣髴(ほうふつ)とす。

十五层塔者,后魏之所立也。 发地四铺而耸,陵空八相而圆。 方丈十二,户牖数百。 加之六代禅祖,同示法牙,重宝妙庄,就成伟丽。 岂徒帝力,固以化开。

十五層の塔は、後魏の立つる所なり。 地を発して四鋪(しほ)して聳え、空を陵(しの)いで八相にして円なり。 方丈十二、戸牖(こよう)数百。 之に加うるに六代の禅祖、同じく法牙を示し、重宝妙庄、就ち偉麗を成す。 豈に徒(た)だ帝力のみならんや、固より以て化開す。

其东七佛殿者,亦曩时之凤阳殿也。 其西定光佛堂者,瑞像之戾止。 昔有石像,故现应身,浮于河,达于洛,离京毂也,万辈延请,天柱不回,惟此寺也。 一僧香花,日轮俄转。

其の東の七仏殿は、亦た曩時(のうじ)の鳳陽殿なり。 其の西の定光仏堂は、瑞像の戾止(れいし)なり。 昔石像有り、故に応身を現じ、河に浮び、洛に達し、京毂(けいこく)を離るるや、万輩延請すれども、天柱回らず、惟だ此の寺のみなり。 一僧香花すれば、日輪俄かに転ず。

其南古塔者,隋仁寿二年,置舍利于群岳,以抚天下,兹为极焉。 其始也,亭亭孤兴,规制一绝。 今兹也,岩岩对出,形影双美。

其の南の古塔は、隋の仁寿二年、舎利を群岳に置き、以て天下を撫するに、茲を極と為す。 其の始めや、亭亭として孤興し、規制一絶なり。 今茲や、岩岩として対出し、形影双び美なり。

后有无量寿殿者,诸师礼忏诵念之场也。 则天太后护送镇国金铜像置焉。 今知福利所资,演成其广。 珠幡宝帐,当阳之铺有三;金络花鬘,备物之仪不一。 皆光满秋月,色陵渥丹,穷海县之国工,得人天之神妙。

後ろに無量寿殿有り、諸師礼懺誦念の場なり。 則天太后鎮国の金銅像を護送して置けり。 今福利の資する所を知り、演べて其の広きを成す。 珠幡宝帳、当陽の鋪三有り;金絡花鬘、備物の儀一ならず。 皆光は秋月に満ち、色は渥丹を陵ぎ、海県の国工を窮め、人天の神妙を得たり。

逍遥楼者,魏主之所构也。 引流插竹,上激登楼,菱镜漾于玉池,金虹飞于布水。

逍遥楼は、魏主の構うる所なり。 流を引き竹を挿(さしはさ)み、上激して楼に登り、菱鏡玉池に漾(ただよ)い、金虹布水に飛ぶ。

食堂前古铁钟者,重千斤,函二十石,正光年中,寺僧之所造也。 昔兵戎孔殷,寇攘偕作,私邑窃而为宝,公府论而作仇。 后有都维那惠登,发夕通梦,迟明独往,以一己之力,抗分众之徒,转战而行,逾晷而止。 虽神灵役鬼,风雨移山,莫之捷也。

食堂前の古鉄鍾は、重さ千斤、函二十石、正光年中、寺僧の造る所なり。 昔兵戎孔(はなは)だ殷(さかん)にして、寇攘偕(とも)に作(おこ)り、私邑窃んで宝と為し、公府論じて仇と作(な)す。 後に都維那恵登有り、夕を発して夢に通じ、遅明独り往き、一己の力を以て、分衆の徒に抗し、転戦して行き、晷(とき)を逾(こ)えて止む。 神霊鬼を役し、風雨山を移すと雖も、之より捷(はや)きは莫きなり。

西方禅院者,魏八极殿之余趾也。 时有远禅师,座必居山,行不出俗,四国是仰,百福攸归,明准帝庸,光启象设。

西方の禅院は、魏の八極殿の余趾なり。 時に遠禅師有り、座必ず山に居り、行俗を出でず、四国是れ仰ぎ、百福攸(ここ)に帰し、明准帝庸、光(おお)いに象設を啓く。

南有辅山者,古之灵台也。 中宗孝和皇帝诏于其顶,追为大通秀禅师造十三级浮图。 及有提灵庙,极地之峻,因山之雄,华夷闻传,时序瞻仰。

南に輔山有り、古の霊台なり。 中宗孝和皇帝其の頂に詔し、追って大通秀禅師の為に十三級の浮図を造る。 提霊廟有るに及び、地の峻を極め、山の雄に因り、華夷聞き伝え、時序瞻仰す。

每至献春仲月,讳日斋辰,鴈阵长空,云临层岭,委郁贞柏,掩映天榆,迢进宝阶,腾乘星阁。 作礼者便登师子,围绕者更摄蜂王。 其所内焉,所以然矣。

献春仲月、諱日斎辰に至る毎に、鴈陣長空、雲層嶺に臨み、委鬱たる貞柏、掩映たる天榆、迢(はるか)に宝階に進み、騰りて星閣に乗ず。 礼を作(な)す者は便ち獅子に登り、囲繞する者は更(こもごも)蜂王を摂す。 其の内(い)る所、然る所以なり。

若昔以达摩菩萨传法于可,可付于璨,璨受于信,信恣于忍,忍遗于秀,秀钟于今,和尚寂。 皆宴坐林间,福润宇内。 其枕倚也,阴阳所启,居四岳之宗;其津梁也,密意所传,称十方之首。 莫不佛前受记,法中出家,湛然观心,了然见性。 学无学,自有证明;因非因,本末清净。 开顿渐者,欲依其根;设戒律者,将摄乎乱。 然后微妙之义,深入一如;广大之功,遍满三界。 则知和雅所训,皆荷法乘;慈悲所加,尽为佛子。 是以无言之教,响之若山;不舍之檀,列之如市。

若し昔達摩菩薩法を可に伝え、可璨に付し、璨信に受け、信忍に恣(ほしいまま)にし、忍秀に遺し、秀今に鐘(あつ)め、和尚寂す。 皆林間に宴坐し、福宇内を潤す。 其の枕倚や、陰陽の啓く所、四岳の宗に居り;其の津梁や、密意の伝うる所、十方の首と称す。 仏前に受記し、法中に出家し、湛然として心を観じ、了然として性を見ざるは莫し。 学無学、自ら証明有り;因非因、本末清浄なり。 頓漸を開く者は、其の根に依らんと欲し;戒律を設くる者は、将に乱を摂せんとす。 然る後に微妙の義、深く一如に入り;広大の功、三界に遍満す。 則ち知る和雅の訓うる所、皆法乗を荷(にな)い;慈悲の加うる所、尽く仏子為(た)るを。 是を以て無言の教え、之を響かすこと山の若く;不捨の檀、之を列ぬること市の如し。

则有和尚侄寺主坚意者,凭信之力,统僧之纲,崇现前之因,鸿最后之施。 相与上座崇泰、都维那昙庆等,至矣广矣,经之营之。 身田底平,福河流注。 今昔纷扰,杂事伙多。 是以功累四朝,法崇七代。 感化可以函灵应,缘起所以广玄成。 故得尊容赫曦,光联日月;厦屋弘敞,势蹙山川。 回向有足度四生,钟重有足安万国。 岂伊一丘一壑之异,一水一石之奇,禅林玲珑,曾深隐见,祥河皎洁,丹雘澄明而已哉!

則ち和尚の姪寺主堅意有り、信の力に憑(よ)り、僧の綱を統べ、現前の因を崇(たっと)び、最後の施を鴻(おお)いにする者なり。 相与に上座崇泰、都維那曇慶等、至れり広なり、之を経し之を営む。 身田底平にして、福河流注す。 今昔紛擾し、雑事伙(すこぶ)る多し。 是を以て功は四朝に累(かさ)なり、法は七代に崇し。 感化は以て霊応を函(い)る可く、縁起は玄成を広むる所以なり。 故に尊容赫曦として、光日月を聯(つら)ね;厦屋弘敞として、勢山川を蹙(ちぢ)むるを得たり。 回向は四生を度するに足る有り、鍾の重さは万国を安んずるに足る有り。 豈に伊(か)れ一丘一壑の異、一水一石の奇、禅林玲瓏、曾(かつ)て深く隠見し、祥河皎潔、丹雘(たんかく)澄明なるのみならんや!

咸以为表于代者,业以成形;藏于密者,法亦无相。 非文曷以陈大略,非石曷以示将来? 乃命道奂禅师千里求蒙,一言书事。 专积每极,临纸屡空。 媿迷津之未悟,期法主之可通。 其词曰:「西域传,耆阇山,世尊成道于其间;南部洲,嵩岳寺,达摩传法于兹地。 天之柱,帝之宫,赫奕奕兮飞九空;禅之门,觉之径,密微微兮通众圣。 镇四国,定有力,开十方,惠有功;立丰碑之隐隐,表大福之穰穰。」

咸(みな)以為(おも)えらく代に表るる者は、業以て形を成し;密に蔵する者は、法亦た相無しと。 文に非ずんば曷(なん)ぞ以て大略を陳べん、石に非ずんば曷ぞ以て将来に示さん? 乃ち道奐禅師に命じて千里蒙を求め、一言事を書せしむ。 専積毎に極まり、紙に臨んで屢(しばしば)空し。 迷津の未だ悟らざるを媿(は)じ、法主の通ず可きを期す。 其の詞に曰く:「西域に伝う、耆闍山(ぎじゃせん)、世尊道すること其の間;南部洲、嵩岳寺、達摩法を伝うること茲の地。 天の柱、帝の宮、赫奕奕(かくえきえき)として九空に飛び;禅の門、覚の径、密微微として衆聖に通ず。 四国を鎮め、定力有り、十方を開き、恵功有り;豊碑の隠隠たるを立て、大福の穰穰(じょうじょう)たるを表す。」

『李北海集』嵩岳寺碑 李邕撰 胡英書 唐

崇陽石刻集記

中天嵩岳寺常住院新修感应圣竹林寺五百大阿罗汉洞记

中天嵩岳寺常住院新修感応聖竹林寺五百大阿羅漢洞記

西京永宁县熊耳山空相寺住持传法吉祥大师赐紫释有挺撰奉议郎知永安县事王道书。

西京永寧県熊耳山空相寺住持伝法吉祥大師賜紫釈有挺撰、奉議郎知永安県事王道書す。

原夫大法界中,支那东震旦大国圣宋寿山,得其最高胜妙者,惟中岳嵩山。 卓然耸拔青云之表,林峦阙秀,四季嘉木岑崟,群山趋揖,长时异花芬芳,玉镜珍宝辉然是处光明岩洞泉源清流,千古澄澈。 谷风松韵,时呼万岁之声;瑞气祥云,昼锁千寻之境。 是国家禀佛戒福神中天玉英崇圣帝领镇之地,宫庙之所也。 是山之中有圣竹林寺,何知之乎?

原(もと)大法界の中、支那東震旦大国聖宋の寿山、其の最高勝妙なる者を得たるは、惟だ中岳嵩山のみ。 卓然として青雲の表に聳え抜き、林巒(りんらん)秀で、四季の嘉木岑崟(しんぎん)たり、群山趨揖(すうゆう)し、長時異花芬芳(ふんぽう)たり、玉鏡珍宝輝然として是の処に在り、光明岩洞泉源の清流、千古に澄澈(ちょうてつ)たり。 谷風松韻、時に万歳の声を呼び;瑞気祥雲、昼千尋の境を鎖す。 是れ国家仏戒を禀(う)け、福神中天玉英崇聖帝領鎮の地、宮廟の所なり。 是の山の中に聖竹林寺有り、何ぞ知らんや?

古传记云:唐蜀僧法藏来游是山,长安道稠桑店,逢一梵僧,持盂肩锡,问曰:「上人胡来而欲何往?」 曰:「云游嵩岳圣景。」 曰:「可附一书与竹林寺堂中上座。」 曰:「我久闻彼刹是圣寺罗汉所居,尝憾未闻其因,可愿伫听高论,开发前去。」 曰:「上人岂不闻吾佛当年灵山会上,以正法眼藏分付大迦叶,传芳流布,授记付嘱大国圣主贤臣,兴崇外护,无令断绝。敕诸大菩萨、天龙八部一切神祇,保卫国界。 敕五百大阿罗汉不得入灭,长在人间,天上赴供,为大福田。 今诸尊者将诸眷属止住其中,是寺随机缘,或隐或现,缘熟者尝见。」 曰:「今日得闻未闻?」 接书分卫而行。

古伝記に云う:唐の蜀僧法蔵来たりて是の山に遊ぶ、長安道稠桑店にて、一梵僧に逢う、盂を持し錫を肩にし、問うて曰く:「上人胡(いずく)より来たりて何(いずく)にか往かんと欲す?」 曰く:「嵩岳の聖景に雲遊す。」 曰く:「一書を竹林寺堂中の上座に附し与う可し。」 曰く:「我久しく聞く彼の刹は是れ聖寺羅漢の居する所と、嘗て其の因を聞かざりしを憾む、願わくば佇(たたず)んで高論を聴き、開発して前き去らん。」 曰く:「上人豈に聞かずや、吾が仏当年霊山会上に在り、正法眼蔵を以て大迦葉に分付し、伝芳流布し、大国聖主賢臣に授記付嘱し、外護を興崇し、断絶せしむる無からしむ。諸大菩薩、天竜八部一切の神祇に勅し、国界を保衛せしむ。五百大阿羅漢に勅し、入滅すること得ず、長く人間に在りて、天上の供に赴き、大福田と為らしむ。今諸尊者諸眷属を将(ひき)いて其の中に止住す、是の寺機縁に随って、或いは隠れ或いは現わる、縁熟せる者は嘗て見る。」 曰く:「今日未聞を聞くを得んや?」 書を接し分衛して行く。

法藏来至嵩前,问人曰:「竹林寺何所是?」 答曰:「但去到嵩岳寺,入石三门,登逍遥台望之,山腹是也。」 来至岳寺,入三门常住院,礼谒众僧,安衣盂毕,问曰:「竹林寺门从何处入?」 曰:「我等尝闻是圣寺,未曾得见。但观山腹三洞,深邃无穷。每有信士沿岩登险,阙幸虽得入圣寺。瞻敬,又随诸尊者赴帝释斋,因得嚫三铢绢,心生爱著,不觉身坠岩前,圣境都失矣。」 时耆年僧曰:「人间天上,荣显富贵,真奇异物,积之山岳。若非是大权菩萨,具正见,晓达明了,应缘利生,授用自在,心常离欲。 示现贪染爱著,心圆梵行,示现有诸阙患。 心常清净,示现随类生死。心行佛行,示现逆顺境界。心无取证,深悟禅理妙道。 或不如然,则为少分梦幻境物,耽染爱著,恃之迷醉,漂荡生死,三界流转,更阙少暇回光自照,究乎真实妙道,大患为障,莫过此也。 汝今为出家上人,同圣寺诸尊者授天主供养,事非小缘,何故未除流俗爱物心? 非唯窃服圆顶,犯戒律章条重,亦乃自昧真心妙道,玷吾门何多乎?今此天绢,亦非汝用之物,当献至尊,颇为佳矣。」

法蔵来たりて嵩前に至り、人に問うて曰く:「竹林寺は何れの所か是なる?」 答え曰く:「但だ嵩岳寺に去り到り、石三門に入り、逍遥台に登り之を望まば、山腹是れなり。」 来たりて岳寺に至り、三門常住院に入り、衆僧を礼謁し、衣盂を安んじ畢(おわ)りて、問うて曰く:「竹林寺の門は何れの処より入るや?」 曰く:「我等嘗て聞く是れ聖寺なりと、未だ曾て見るを得ず。但だ山腹の三洞を観るに、深邃にして窮まり無し。信士有りて岩に沿いて険を登る毎に、闕幸にして聖寺に入るを得ると雖も。瞻敬し、又諸尊者に随って帝釈の斎に赴き、因って三銖の絹を嚫(ほどこ)し得て、心に愛著を生じ、覚えず身岩前に墜ち、聖境都(すべ)て失う。」 時に耆年僧曰く:「人間天上、栄顕富貴、真奇异物、之を山岳に積む。若し是れ大権菩薩にして、正見を具し、暁達明了し、縁に応じて生を利し、授用自在にして、心常に欲を離るるに非ずんば。 貪染愛著を示現するも、心梵行を円(まど)かにし、諸の闕患有るを示現す。 心常に清浄にして、類に随って生死を示現す。心仏行を行い、逆順の境界を示現す。心取証無く、深く禅理妙道を悟る。 或いは然らざれば、則ち少分の夢幻境物の為に、耽染愛著し、之を恃(たの)んで迷酔し、生死に漂蕩し、三界に流転し、更に少暇を闕(か)いて回光自照し、真実妙道を究む、大患障と為る、此に過ぐるは莫きなり。 汝今出家の上人と為り、聖寺の諸尊者と同(とも)に天主の供養を授く、事小縁に非ず、何故未だ流俗愛物の心を除かざるや? 唯だ服円頂を窃(ぬす)み、戒律章条を犯すこと重きのみに非ず、亦乃(すなわ)ち自ら真心妙道を昧(くら)まし、吾が門を玷(けが)すこと何ぞ多きや?今此の天絹、亦た汝が用の物に非ず、当に至尊に献ずべし、頗る佳と為さん。」

法藏具表进。 时明皇在位,圣恩抚问,倍加宣赐。 尔后岩洞圣境光明,至今求者应现愈多。 院主崇政诱掖檀信,施财运土木等,欲依山上洞样建造一所。 斤斧才兴,感五罗汉诣虢州卢氏县畅氏家,托梦家长曰:「嵩岳寺今造罗汉洞,汝家当铸铁像五百身。」 畅氏梦觉,令人至寺,果见兴工造洞,还报畅氏,乐然铸施五百余尊。 像成,随喜信士之家,愿各以香花幡盖,依次经从迎接,送至洞完像到,奉安之次,陈、蔡二善友挈袈裟五百余条至,披挂像身,应量齐等。 于是四方崇信,一至春首,香花供送,驾肩隘道,然灯烧烛,盘迎品馔,供养精诚,得其感应,灯未点之火光自然,斋食异香,圣像先现。 是洞今有三经藏花塔状三圣洞,香花供献,施者齐陈,获之感应,三处俱有。 夫圣境无边,顺机各异。 无欺纵目可观,有昧触途莫见。 名山太室佛刹隐现其中,圣凡交参,昼夕往来无间。 登临香火,万口一称。 获斯圣境光明,盖今日之盛时,一人圣德圣感之至化。

法蔵具(つぶさ)に表して進ず。 時に明皇位に在り、聖恩撫問し、倍宣賜を加う。 爾後岩洞聖境光明、今に至るまで求むる者応現愈(いよいよ)多し。 院主崇政檀信を誘掖(ゆうえき)し、財を施し土木等を運び、山上の洞の様に依って一所を建造せんと欲す。 斤斧才(わず)かに興り、五羅漢を感じて虢州盧氏県暢氏の家に詣り、夢を家長に託して曰く:「嵩岳寺今羅漢洞を造る、汝が家当に鉄像五百身を鋳るべし。」 暢氏夢覚め、人をして寺に至らしめ、果たして工を興して洞を造るを見、還りて暢氏に報ず、暢氏楽しく五百余尊を鋳施す。 像成り、随喜信士の家、各々香花幡蓋を以て、次(つい)で経て従い迎接し、洞完(な)り像到る所に送り、奉安の次(ついで)、陳、蔡二善友袈裟五百余条を挈(さ)げて至り、像身に披掛け、量に応じて斉等なり。 是に於いて四方崇信、一たび春首に至れば、香花供送し、肩を隘道に駕し、灯を然(とも)し燭を焼き、盤もて品饌を迎え、供養精誠にして、其の感応を得、灯未だ点ぜざるの火光自然、斎食異香、聖像先ず現わる。 是の洞今三経蔵花塔状の三聖洞有り、香花供献し、施者斉しく陳ね、之が感応を獲ること、三処倶に有り。 夫れ聖境無辺にして、機に順(したが)い各々異なり。 欺くこと無くんば目を縦(ほしいまま)にして観る可く、昧きこと有らば途に触るるも見る莫し。 名山太室仏刹其の中に隠現し、聖凡交参し、昼夕往来間無し。 登臨香火、万口一称す。 斯の聖境光明を獲るは、蓋し今日の盛時、一人の聖徳聖感の至化ならん。

伏愿圣寿无疆,金枝玉叶永茂,帝道佛道同兴,金轮法轮并转,亲白仙族同固盘维,文武贤臣皆存忠烈,风调雨顺,军民康安,四海晏清,万邦率服,群生遂性,三教长隆。 知洞悟言,丐记传于金石,永久无坠。 有挺因普为缺正见佛行,执有生死轮转,不了根本清净者,修进圆之,仍集佛教眼目,兼以禅宗中妙旨,录作明证,俾令一切悟明了达根本清净,具足正见佛行,修进证大菩提缘斯曾住是圣寺前白莲庵将乎十年,时亲瞻睹圣境光明殊胜,不思议事,非笔舌可穷。 今固敢简略一二,以塞其命。 颂曰:「天下名山孰后先,嵩高神著混元前。 圣凡共聚宁分别,庙刹相依亦混然。 蓬岛三山根不固,华胥一境梦非坚。 宝光玉柱擎云汉,春色峰峦戴晓天。 几柏倒生垂洞谷,千松偃盖覆岩巅。 登临香火心同愿,上祝今皇万万年。」

圣宋崇宁元年壬午岁十月初十日中天嵩岳寺常住院前住持僧崇政院主僧法应知洞僧悟言知库僧悟达同勾当修造僧阙用清信弟子焦泰施财刊字刘友谅刻

伏して願わくは聖寿無疆にして、金枝玉葉永く茂り、帝道仏道同じく興り、金輪法輪並び転じ、親白仙族同じく盤維を固くし、文武賢臣皆忠烈を存し、風調い雨順い、軍民康安、四海晏清、万邦率(ことごと)く服し、群生性を遂げ、三教長く隆ならんことを。 知洞悟言、記を丐(こ)い金石に伝えて、永久に墜つること無からしめんとす。 有挺因って普く正見仏行を欠き、生死輪転有るに執し、根本清浄を了(さと)らざる者の為に、修進して之を円かにし、仍て仏教の眼目を集め、兼ぬるに禅宗中の妙旨を以て、録して明証と作(な)し、一切をして根本清浄を悟明了達し、正見仏行を具足し、修進して大菩提を証せしむ。斯の曾て是の聖寺の前の白蓮庵に住すること将に十年ならんとするに縁(よ)り、時に親しく聖境光明殊勝、不思議事を瞻覩(せんと)するも、筆舌の窮むる可きに非ず。 今固(まこと)に敢て一二を簡略にし、以て其の命を塞ぐ。 頌に曰く:「天下の名山孰(たれ)か後先なる、嵩高神著るわるること混元の前。 聖凡共に聚まり寧(いずく)んぞ分別せん、廟刹相依って亦た混然たり。 蓬島三山根固からず、華胥一境夢堅からず。 宝光玉柱雲漢を擎(ささ)げ、春色峰巒暁天を戴く。 幾柏倒生して洞谷に垂れ、千松偃蓋(えんがい)して岩巓を覆う。 登臨香火心同じく願い、上(たてまつ)って祝す今皇万万年。」

聖宋崇寧元年壬午歳十月初十日、中天嵩岳寺常住院前住持僧崇政、院主僧法応、知洞僧悟言、知庫僧悟達、同勾当修造僧闕用、清信弟子焦泰施財刊字、劉友諒刻す。

『崇陽石刻集記』大金重修中岳廟碑

嵩書

嵩岳寺神妇蹋泉显异

嵩岳寺の神婦、泉を蹋(ふ)んで異を顕わす

神僧传云:嵩岳寺僧有百人,泉水才足,忽见妇人敝衣挟帚,却坐阶上,听僧诵经。 众不测为神也,便诃遣之。 妇有愠色,以足蹋泉立竭,身亦不现。 众以告僧稠,稠呼优婆夷,三呼乃出。便谓曰:众僧行道,宜加拥护。妇人以足拨放,故泉水即上涌。

『神僧伝』に云う:嵩岳寺には僧が百人おり、泉水は才(わず)かに足りていた。忽ち婦人が敝衣(へいい)を着て箒を挟み、階上に却坐(きゃくざ)して、僧の誦経を聴くを見る。 衆は神と為すを測らざるなり、便ち之を訶遣(かけん)す。 婦愠色(うんしょく)有り、足を以て泉を蹋めば立ちどころに竭(つ)き、身も亦た現われず。 衆以て僧稠(そうちゅう)に告ぐ、稠優婆夷(うばい)と呼ぶに、三たび呼んで乃ち出づ。便ち謂(かた)って曰く:衆僧道を行う、宜しく擁護を加うべしと。婦人足を以て撥ね放てば、故(もと)の泉水即ち上涌す。

『嵩書』巻十一

李北海邕以书法名于唐,若秦望山、法华寺及东林寺、岳麓寺诸碑,俱传于世。而嵩岳寺旧志载碑文一篇,为李邕作,想亦其所自书也。

李北海(李邕)は書法を以て唐に名あり、秦望山、法華寺及び東林寺、岳麓寺の如き諸碑、倶に世に伝う。而して嵩岳寺の旧志に碑文一篇を載せ、李邕の作と為す、想うに亦た其の自ら書する所ならん。

寺废已久,予屡觅无所得,徘徊瞻眺,惟见荒烟野草,弥漫山谷而已。言之黯然。

寺廃して已に久し、予屢々覓(もと)むれど所得無し、徘徊瞻眺(せんちょう)するに、惟だ荒煙野草の、山谷に弥漫するを見るのみ。之を言えば黯然たり。

『嵩書』巻二十

宣和画譜

嵩岳寺唐吴道元画壁内四真人像,其眉目风矩,见之使人遂欲仙去。设色非画工比,所施朱铅多以土石为之,故世俗之所不能知也。方国家阐道之初,雠校琼文蕊芨,得柔首被其选,议论品藻,莫不中理。今为紫虚大夫、凝神殿校籍。

嵩岳寺に唐の呉道元壁内に四真人像を画く、其の眉目風矩、之を見れば人をして遂に仙去せんと欲せしむ。設色は画工の比に非ず、施す所の朱鉛は多く土石を以て之を為(つく)る、故に世俗の知ること能わざる所なり。国家道を闡(ひら)くの初めに方(あた)り、瓊文蕊芨(けいぶんずいきゅう)を雠校(しゅうこう)し、得柔首(はじ)めて其の選を被(こうむ)り、議論品藻(ひんそう)、理に中(あた)らざるは莫し。今紫虚大夫、凝神殿校籍と為る。

『宣和画譜』武洞清

古写真

1920

1920年頃、日本の建築史家関野貞と仏教史家常盤大定が河南登封で撮影。現在1939年発行の『中国文化史蹟(法蔵館)』に収録されている。