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🏛️ 漢代 📍 河南

概要

太室闕は中岳廟の前身である太室祠の前の神道闕であり、登封市区の東、太室山の黄蓋峰の下、中岳廟天中閣から600メートル以上離れた中軸線上に位置し、後に歴代中岳廟の導入空間における重要な建築物となった。太室闕は中国に現存する最古の廟闕であり、古代の太室山神祭祀の重要な実物証拠であり、中国古代祭祀礼制建築の模範である。

太室闕は漢の安帝の元初五年(118年)に建立され、青灰色の塊石で築かれ、東西二つの闕に分かれ、間隔は6.75メートルで、門のように相対しており、太室祠の象徴的な大門である。闕身は平面が長方形で、上には出檐のある四阿頂があり、石造の模木構造である。東西両闕はそれぞれ母闕と子闕からなり、各通高3.96メートル、長さ2.13メートル、厚さ0.7メートルで、子闕は母闕より1.31メートル低い。闕の題額は西闕の南面上部に陽刻され、「中岳太室陽城」の六字のみが残っている。銘記は西闕の北面に陰刻され、計27行、各行7字で、内容は主に中岳神君の霊応と陽城県長呂常らが闕を建てた理由を賛美するものである。

闕身の四周には漢代の社会風俗と信仰を反映した画像が彫られており、保存状態の良いものは50余幅ある。その中で、鋪首銜環は獰猛な顔つき、巨大な口と牙、口に円環を銜えた獣面の画像で、商周の青銅器の紋様によく見られ、戦国時代にはこの獣面を饕餮と呼んだ。漢代には饕餮は財物を守るのが得意だとされたため、門や器物に多く彫られ、守衛とされた。

比目魚は一目三尾の鯉の画像で、神格化された吉祥物である。『史記・封禅書』には比目魚の記載がある。

鯀の画像は夏禹の父である鯀の画像で、全部で三幅あり、一幅は巨大なスッポン、二幅は人のようでもありスッポンのようでもあり、実は夏氏族のトーテムであり、嵩山一帯の鯀を祭る遺風を反映している。

歴史文献

全後漢文

嵩岳太室石阙铭

嵩岳太室石闕の銘

元初五年四月

元初五年四月

惟中岳□□,崇高神君,冢土□□,岱气最纯,春生万物,肤寸起云,润施源流,洪沛宣,普天四海,莫不蒙恩。

惟中岳□□、崇高なる神君、冢土□□、岱気最も純粋なり。春には万物を生じ、膚寸より雲を起こし、潤いを源流に施し、洪を沛宣す。普天四海、恩を受けざるはなし。

圣朝肃敬,众庶所尊,斋试奉祀,战尽勤,以颂功德,刻石纪文,垂显□□,以传后贤。

聖朝は粛敬し、衆庶の尊ぶ所なり。斎試して奉祀し、戦して勤を尽くす。以て功徳を頌し、石に刻みて文を紀し、□□を垂顕して、以て後賢に伝う。

元初五年四月,阳城□长左冯翊万年吕常始造作此石阙。

元初五年四月、陽城□長左馮翊萬年呂常、此の石闕を造作し始める。

『全後漢文(全上古三代秦漢三国六朝文)』嵩岳太室石闕銘

平津読碑記

嵩山太室神道石阙铭元初五年四月。

嵩山太室神道石闕銘、元初五年四月。

右嵩山太室石阙,在登封县中岳庙南百余步。

右の嵩山太室石闕は、登封県中岳廟の南百余歩に在り。

前后两铭。碑额中岳泰室阳城□□□九字,阳文篆书。

前後に両銘あり。碑額に「中岳泰室陽城□□□」の九字、陽文篆書。

前铭二十七行,以后不可计。元初五年四月刻。后铭四十六行,延光四年三月刻。字不甚大,每行俱有界画直线,依翁阁学两汉金石记所释。

前銘は二十七行、以後は計るべからず。元初五年四月刻。後銘は四十六行、延光四年三月刻。字は甚だ大ならず、毎行に俱に界画の直線あり、翁閣学の『両漢金石記』の釈に依る。

其未举者,前铭十八行第三是史字,十九行第九是之字。后铭首脱四行,二行有地字。四行有三字,五行有十字、三字,七行有孝字,九行孔子上是公字,十一行有阳字,十二行有北海相字,十四行有属字,十七行有县字,二十二行有双字,二十六行藐上是存字,三十行有是字,三十二行有亲字,四十行有置字。

其の未だ挙げざる者は、前銘十八行の第三は史字、十九行の第九は之字なり。後銘の首は四行を脱し、二行に地字あり。四行に三字あり、五行に十字、三字あり、七行に孝字あり、九行の孔子の上は公字なり、十一行に陽字あり、十二行に北海相字あり、十四行に属字あり、十七行に県字あり、二十二行に双字あり、二十六行の藐の上は存字なり、三十行に是字あり、三十二行に親字あり、四十行に置字あり。

后铭有颍川太守字。访碑录,题为颍川太守题名,即此碑。

後銘に潁川太守の字あり。『訪碑録』に、題して潁川太守の題名と為すは、即ち此の碑なり。

『平津読碑記』巻一

金石図

由太室石阙而西,过登封县十里,又西南三里许,有两崇阙峨峨,东西峙田间。

太室石闕より西へ、登封県を過ぎて十里、又西南三里許り、両崇闕峨峨として、東西に田間に峙つ。

西阙三面皆有刻文,北面刻曰少室神道之阙,知是少室石阙也。

西闕は三面に皆刻文あり、北面に「少室神道の闕」と刻す、是れ少室石闕なるを知るなり。

少室庙今不可见,存此阙云,刻额,高七寸,阔七寸五分,字径二寸三分。

少室廟は今見るべからず、此の闕を存す云う。刻額、高さ七寸、闊さ七寸五分、字径二寸三分。

刻额下画两人走马而舞,为角抵戏。

刻額の下に両人馬を走らせて舞うを画く、角抵の戲と為す。

又画两螭龙,一龙入于𥧹中,一龙逐而衔其尾,亦不知其所谓也。

又両螭龍を画く、一龍は𥧹中に入り、一龍は逐いて其の尾を銜む、亦其の謂う所を知らず。

铭与题名刻于阙之南面及西侧,凡十九行,横阔三尺八寸,并侧为四尺四寸,纵高一尺,字径一寸四分。

銘と題名は闕の南面及び西側に刻す、凡そ十九行、横闊三尺八寸、並びに側は四尺四寸、縦高一尺、字径一寸四分。

铭文可识,不可读,疑有断文也。西侧画一环月,为蟾兔杵臼捣药之形。

銘文は識る可きも、読む可からず、断文有るを疑うなり。西側に一環月を画く、蟾兔杵臼搗薬の形と為す。

南面画索𨱇而蹋踘者二人,坐而睨视者一人,跪者一人。

南面に索𨱇にて蹋踘する者二人、坐して睨視する者一人、跪く者一人を画く。

东阙去西阙五六步,东阙画一猎犬逐兔,兔趯趯然可及也。

東闕は西闕を去ること五六歩、東闕に一猟犬兔を逐うを画く、兔は趯趯然として及ぶ可し。

又画一独角兽,一人,左手引之,而右持钩钩象者。

又一独角獣を画く、一人、左手に之を引き、而して右に鉤を持ちて象を鉤する者。

画像下有一石刻,高一尺,阔六寸,刻二十四字,可见者十九字,字径一寸二分,所谓少室东阙题名者也。

画像の下に一石刻あり、高さ一尺、闊さ六寸、二十四字を刻す、見る可き者十九字、字径一寸二分、所謂少室東闕の題名者なり。

刻文寖下,前人皆未及见,见而表之者,雒阳董金瓯相函。

刻文寖く下にあり、前人皆未だ及見せず、見て之を表す者は、雒陽の董金甌相函なり。

金瓯好古士,善篆隶。

金甌は好古の士、篆隷を善くす。

东阙刻文画像之迹皆北向。

東闕の刻文画像の跡は皆北向す。

凡少室东西两阙,高厚阔之数皆相等。

凡そ少室東西両闕、高厚闊の数は皆相等し。

凡两阙,画像七人二,马一、犬一、兔一、象一,独角兽二,螭龙及月中玉兔、蟾蜍之属诸像,极古拙。

凡そ両闕、画像七人二、馬一、犬一、兔一、象一、独角獣二、螭龍及び月中の玉兔、蟾蜍の属諸像、極めて古拙なり。

『金石図』第一冊

古写真

1907年

1907年にフランスの漢学者シャヴァンヌが河南省登封で撮影。現在、写真は『北中国考古図録』に収録されている。

1920年

1920年に日本の建築史家・安野貞と仏教史家・常盤大定が河南省登封で撮影。現在は1939年発行の『中国文化史蹟(法蔵館)』に収録されている。