001 建築 隆興寺 隋の開皇六年、恒州刺史が勅を奉じて州人一万を勧奨し、共に龍蔵寺を建てた。寺名の「蔵」は zàng と読み、仏教では大乗経典または龍宮の経蔵を指す。後に寺額は龍興寺と改められ、明代の都穆は殿前に半ば土に埋もれていた隋碑から、両者がもとは一つの寺であることを見抜いた。康熙四十九年にはさらに「隆興寺」の額を賜った。三つのよく似た名前は、今なお寺内に残る一通の隋碑によって結び合わされている。 隋朝 河北省正定県 仏教建築 · 隆興寺 · 大悲閣 →
002 建築 奉国寺 遼金交替の際、兵火が蔓延し、東北に割拠した遼代の寺院は一炬のもとにほぼ焼き尽くされたが、ただ義州の奉国寺のみが孤然として残った。大徳七年の碑はその因を追う。金紫光禄大夫の王珣は麾下に命じて常に巡衛させ、僧正の楊公はまた資財を尽くして修繕した。ゆえに殿中の七仏と九間の大殿は、そのままかの戦火を無事にくぐり抜けたのである。 遼 遼寧省錦州市義県 遼代建築 · 仏寺 · 大雄殿 →
003 建築 普寧寺 乾隆二十年(1755)、オイラト(衛拉特)四部の首領は避暑山荘で封を受け、賞賜を賜り、宴席で酒を奉じて万寿を祝った。普寧寺はまさにこの背景のもとで建てられた。「普寧」には雪山・葱嶺から西海に及ぶ臣庶をして「其の居に安んじ其の業を楽しましめる」との意が込められ、寺院は西蔵のサムイェ寺に倣って営まれた。乾隆二十七年(1762)、普寧寺の工事は竣工した。五十年後の嘉慶十七年(1812)には、大雄宝殿にすでに雨漏り、椽望の腐朽、檐椽の脱落が現れ、月台の石料にも酥鹼による破碎があった。翌年の奏報は殿頂の葺き替え、石料の換安、牌楼と牆体の粘補を予定している。柏葰が寺を訪れて詠んだところでは、首を仰いでもなお大仏の腹に及ばず、「更に一層の楼に上って」初めてその面容を見ることができた。 清朝 河北省承徳市 普寧寺 · 外八廟 · 大乗の閣 →