HERITAGE RECORD

啓母闕

啓母闕は河南省登封・嵩山太室山の下、啓母石の真南に位置し、漢安帝延光二年(123)潁川太守の朱寵が造営した神道闕である。啓母石は大禹の妻・塗山氏の化身とされる——禹は治水中に熊に化し、塗山氏は恥じて去り、嵩高山の麓で石と化し、石が北側で割れて啓が生まれたという。闕身左側に大篆銘文があり、禹の治水事績を述べる。

時代
後漢
地域
河南
LOCATION
河南省登封市
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啓母闕 - 东阙的北面
东阙的北面 IMAGE ARCHIVE · 01

概要

嵩山南麓に啓母石がある。『漢書・武帝紀』顔師古注が引く『淮南子』によれば、「禹は洪水を治め、轘轅山を通じ、熊に化した。塗山氏に謂いて曰く、’饗せんと欲せば、鼓声を聞きて乃ち来れ’と。禹は石を跳び、誤りて鼓に中てり。塗山氏は往きて、禹が方に熊と作るを見て、慚じて去れり。嵩高山下に至りて石に化し、方に啓を生む。禹曰く、’我が子を帰せ!’と。石は北方に破れて啓生まる。」啓母廟は石に因りて立てられたが、『嵩書』によれば「廟は石の傍にあり、その始まりを考うるなし」。

嵩山三闕——太室・少室・啓母——はもともと各祠廟の前に立ち、「太室・少室・開母三神道相望む」(『金石図』)。啓母闕は啓母石の真南百余歩の処にあり、『嵩書』によれば漢安帝延光二年(123年)、潁川太守朱寵の造営である。闕体は石条を積み重ねて壁の如くし、その中を空にして、東西双闕が対峙する——「三闕の制度相類し、倶に石を畳みて之を為し、相去ること各二丈許り」。『崇陽石刻集記』はその「石質甚だ粗劣にして、空地の間に雑花紋を刻むも、亦工細ならず」と評し、銘文の字体は「未だ尽善ならず」と認めつつも、「嵩山に漢時の碑碣絶えて無く、此れ少室石闕と同じく最古を為し、悉く之を録して備考に供す」と指摘している。

闕身左側の大篆銘文は夏禹及びその父鯀の治水の物語を記し、「百川柏鯀称遂」「洪泉浩浩、下民震驚」、末尾に「延光二年」と署す。

啓母闕が属する啓母廟は、『嵩書』の記すところ「今亡し」。

歴史文献

嵩書

启母庙

啓母廟

在太室山下。

太室山の下にあり。

启母化石,事详载灵绪篇。

啓母が石と化したことは、霊緒篇に詳しく載っている。

庙在石傍,莫考其所自始。

廟は石の傍らにあり、その起源は不明である。

古亦称开母祠,见嵩高山记。

古くは開母祠とも称され、嵩高山記に見える。

唐高宗幸嵩山,敕令重修,命崔融作碑铭,见章成篇。

唐の高宗が嵩山に行幸した際、勅命により再建され、崔融に碑銘を作らせた。章成篇に見える。

文内有云:红葩夺日,飞累榭于山间;绮缀冲风,架回廊于木末,可想见其壮丽矣。

文中に曰く、「紅葩は日を奪い、累榭は山間に飛び、綺綴は風を衝き、回廊は木末に架かる」とあり、その壮麗さが偲ばれる。

今亡。

今はない。

《嵩书》卷三 (嵩書 巻三)

启母庙石阙

啓母廟石闕

在启母石正南百步许,汉安帝延光二年,颍川守朱宠等造。

啓母石の真南百歩許にあり、漢安帝延光二年、潁川太守朱寵らが造営した。

阙左有大篆书,铭二篇,取其字可辨者录之于后。

闕の左には大篆書があり、銘文二篇は、その字が判別できるものを後に記録する。

铭曰:工范防百川柏鲧称遂原。

銘に曰く:「工范は百川を防ぎ、柏鲧は遂原と称される。」

洪泉浩浩,下民震惊。 功疏河写,玄九山甄旅文,爰纳汉山。

「洪泉は浩浩として、下民は震驚する。 功は河を疏通し、玄九山を巡り、文を甄し、漢山に納める。」

辛癸之间,人寔勤斯民,同心,济正缯赞又遭乱秦。

「辛癸の間、人は斯民に勤め、同心して正缯を助け、また乱秦に遭う。」

圣汉福亨于兹。 冯神褊彼,飞雉其庭。 贞祥符瑞,灵支梃生化,阴阳穆清。

「聖漢は茲に福亨する。 馮神は彼に偏り、飛雉はその庭にいる。 貞祥符瑞、霊支は生化し、陰陽は穆清である。」

兴云降雨宁,守一不歇。 比性乾坤。 福禄来宥我君。 千秋万祀,子子孙孙。 金碣铭功,昭视后昆。

「雲は興り雨は降り、寧は一を保ちて歇まず。 乾坤に比性する。 福禄は我が君に宥められる。 千秋万祀、子子孫孫。 金碣は功を銘じ、後昆に昭視する。」

延光二年重曰。

延光二年、重ねて曰く。

作廦德洋溢而溥优,口则文燿以消担时雝皇极正而降休颖。

「徳は洋溢して溥優、口は文燿を以て消担し、時に雝皇極は正にして休穎を降す。

芬兹楙于圃畴,木连理于芊条,盛胙日新,而累熹而慕化,咸来王而会朝。

芬茲は圃疇に楙り、木は芊条に連理し、盛胙は日新にして累熹し、慕化して咸来王し、会朝する。」

清静九域,其修治祈福,祀圣母乎山隅,神亨而饴格,厘我后以万祺。

「清静九域、その修治祈福、聖母を山隅に祀る。神は亨して飴格し、我が後に万祺を厘す。

于乐而罔极,永历载而保之。

楽にして罔極、永く載を歴て之を保つ。」

《嵩书》卷三 (嵩書 巻三)

崇陽石刻集記

开母庙 阙

開母廟 闕

神道阙。太守。朱宠、丞零。

神道闕。太守。朱寵、丞零。

泉陵薛政、五官掾阴林、户曹史夏效、监掾陈修、长西河圜阳冯宝、丞汉阳冀秘俊、廷掾赵穆、户曹史张诗、将作掾严寿、佐左福。

泉陵薛政、五官掾陰林、戸曹史夏效、監掾陳修、長西河圜陽馮宝、丞漢陽冀秘俊、廷掾趙穆、戸曹史張詩、将作掾厳寿、佐左福。

百川柏鲧称遂。浩浩下 众多河流像柏鲧治水成功一样,浩浩荡荡地向下流淌。

百川柏鲧称遂。浩浩下 多くの河川が柏鲧の治水成功のように、滔々と流れ下る。

民震惊。写玄九山甄旅。

民震驚。写玄九山甄旅。

汉山辛癸之间阙。斯民同心济僭。又遭乱秦阙。冯神翩彼飞雉。

漢山辛癸之間闕。斯民同心済僭。又遭乱秦闕。馮神翩彼飛雉。

符瑞灵支挺生。穆清兴云降雨。不歇比性乾坤。

符瑞霊支挺生。穆清興雲降雨。不歇比性乾坤。

我君千秋万祀。铭功昭视后昆。延光二年阙。重日。

我君千秋万祀。銘功昭視後昆。延光二年闕。重日。

德洋溢而溥优。则文燿以消摇。皇极正而降休。芬兹楙于圃畴。木连理于芊条。

徳洋溢而溥優。則文燿以消揺。皇極正而降休。芬茲楙于圃疇。木連理于芊条。

胙日新而累熹。咸来王而会朝。九域其修治。祀圣母虖山隅。

胙日新而累熹。咸来王而会朝。九域其修治。祀聖母虖山隅。

右开母庙石阙题铭。今见存篆书,凡三十二行,前题名十行,行七字,内第三行止六字,以少室石阙所列衔名参考之,则此各行之上无阙文也。

右開母廟石闕題銘。今見存篆書、凡三十二行、前題名十行、行七字、内第三行止六字、以少室石闕所列銜名参考之、則此各行之上無闕文也。

后二铭,共二十二行,内前铭十行,年月一行,行十二字,今止存六字。后铭今止存九行。 每行以志载本文考之,所阙多寡不齐,今亦止存六字。

後二銘、共二十二行、内前銘十行、年月一行、行十二字、今止存六字。後銘今止存九行。 每行以志載本文考之、所闕多寡不斉、今亦止存六字。

按嵩高志云:「启母庙石阙在启母石正南,汉安帝延光二年,颍川守朱宠造。阙铭载艺文。」

按嵩高志云:「啓母廟石闕在啓母石正南、漢安帝延光二年、潁川守朱寵造。闕銘載藝文。」

今以志载本文考之,前铭每行又阙三字,盖又亡其原石一层矣。

今以志載本文考之、前銘毎行又闕三字、蓋又亡其原石一層矣。

后铭尤参差,并阙后「神阙亨而饴格厘我后以万祺于阙乐而罔阙永历载而保之」四句。

後銘尤参差、並闕後「神闕亨而飴格厘我後以万祺于闕楽而罔闕永歴載而保之」四句。

又志未载「木连理于芊条」六字及前题名,附记于此。

又志未載「木連理于芊条」六字及前題名、附記于此。

又按阙式以石条累砌如墙,而阙其中,石质甚粗劣,空地间刻杂花纹,亦不工细,即本篆文,亦未尽善也。

又按闕式以石条累砌如牆、而闕其中、石質甚粗劣、空地間刻雑花紋、亦不工細、即本篆文、亦未尽善也。

但嵩山绝无汉时碑碣,此与少室石阙同为最古,悉录之以备考。

但嵩山絶無漢時碑碣、此与少室石闕同為最古、悉録之以備考。

《崇阳石刻集记》开母庙 (崇陽石刻集記 開母廟)

平津読碑記

嵩山开母庙石阙铭

嵩山開母廟石闕銘

金石文字记:延光二年。

金石文字記:延光二年。

右开母庙石阙铭,在登封县北十里崇福观东,依翁氏所释。

右開母廟石闕銘、登封県北十里崇福観東にあり、翁氏の釈するところによる。

下层十一行前尚有一行有字,隐隐可辨。

下層十一行の前には、まだ一行の文字があり、かすかに判別できる。

祀圣母虖山隅后,上下层脱一行,所未释字尚多,盖所得拓本有优劣也。

聖母を山隅に祀った後、上下層から一行が脱落しており、未解読の文字が多く、得られた拓本の優劣によるものと思われる。

太守朱宠以下题名,其十一人,与少室神道石阙同者八人:佐即庙佐,隘作□,胥作□,伯鲧作柏鲧,逍遥作消摇。

太守朱寵以下の題名、その十一人、少室神道石闕に同じ者八人:佐即廟佐、隘作□、胥作□、伯鲧作柏鲧、逍遥作消揺。

九山刊旅作九山甄旅,皆异文。延光残碑延光四年六月。右延光残碑,康熙年间,诸城县修超然台出土中,今移置县署。

九山刊旅作九山甄旅、皆異文。延光残碑延光四年六月。右延光残碑、康熙年間、諸城県修超然台出土中、今移置県署。

碑文五行,皆有界画直线。碑首界画外有字似。碑额横书,碑唯下段可辨。末行有延光四年六月卅日庚戌字,极分明。

碑文五行、皆有界画直線。碑首界画外有字似。碑額横書、碑唯下段可辨。末行有延光四年六月卅日庚戌字、極分明。

第三行中段尚有郡字、孙字可辨。金石萃编、山左金石志俱未释。

第三行中段尚有郡字、孫字可辨。金石萃編、山左金石志俱未釈。

《平津读碑记》卷一 (平津読碑記 巻一)

金石図

崇福观者,在登封县北十里,观东二十步,相传为开母庙旧址。

崇福観者、在登封県北十里、観東二十歩、相伝為開母廟旧址。

开母石阙者,延光五年造,题名而铭禹绩。铭文四言,重曰以下六言俪如赋语。

開母石闕者、延光五年造、題名而銘禹績。銘文四言、重曰以下六言儷如賦語。

别又有四言,铭为季度作,所谓季度铭是也。

別にまた四言あり、銘は季度作、いわゆる季度銘である。

阙高八尺五寸,阔六尺,厚一尺六寸。

闕高八尺五寸、闊六尺、厚一尺六寸。

开母铭刻于其阴及东侧。 高二尺三寸,字径一寸八分。 季度铭刻于开母铭下。 高七寸五分,阔二尺三寸,字径一寸五分。 开母铭及季度铭刻文皆北向。

開母銘刻于其陰及東側。 高さ二尺三寸、字径一寸八分。 季度銘は開母銘の下に刻まれている。 高さ七寸五分、幅二尺三寸、字径一寸五分。 開母銘および季度銘の刻文はすべて北向きである。

褚峻千峰云:开母石阙,亦有东阙,如太室、少室双阙者。

褚峻千峰云:開母石闕、亦有東闕、如太室、少室双闕者。

东阙无刻文,非金石事所重,故弗著。

東闕には刻文がなく、金石事の重きをなさないため、著されていない。

峻又云:太室、少室、开母三神道相望也。

峻はまた曰く:太室、少室、開母の三神道は相望む。

《金石图》第一册 (金石図 第一冊)

古写真

1907

1907年、フランスの中国学者エドゥアール・シャヴァンヌが河南省登封で撮影。現在、画像は『北中国考古図録』に収録されている。

1920年

1920年に日本の建築史家・安野貞と仏教史家・常盤大定が河南省登封で撮影。現在は1939年発行の『中国文化史蹟(法蔵館)』に収録されている。