HERITAGE RECORD

太室闕

太室闕は河南省登封の中嶽廟南百余歩に位置し、中嶽太室山廟の神道闕である。漢安帝元初五年(118)陽城長の呂常が造営した。闕額には陽文篆書で「中嶽泰室陽城」とあり、前銘は「冢土□□、岱気最も純、春は万物を生じ、膚寸にして雲を起こす」と神君を称える。延光四年に後銘が追刻され、少室闕・啓母闕と合わせ嵩山漢代三闕と称される。

時代
後漢
地域
河南
LOCATION
河南省登封市
READING
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太室闕 - 1920太室阙正面
1920太室阙正面 IMAGE ARCHIVE · 01

概要

『史記・封禅書』によれば、元封元年(前110年)三月、漢武帝は「遂に東して緱氏に幸し、礼して中岳太室に登る。従官山下にありて若し’万歳’と言う有るが如しと聞く……ここに三百戸を以て太室に封じ祠を奉ぜしめ、命じて崇高邑と曰う」。太室闕は中岳廟南百余歩の処に位置する。

銘文と『平津読碑記』によれば、闕は漢安帝元初五年(118年)四月に造営が始まった。銘文は神君を頌して「冢土□□、岱気最も純、春は万物を生じ、膚寸より雲を起こす」と述べ、末に「陽城□長左馮翊万年呂常始めて此の石闕を造作す」と署す。七年後の延光四年(125年)三月、さらに闕上に第二篇の銘記を追刻した。

西闕南面上部に闕額が残り、『平津読碑記』によれば「中岳泰室陽城□□□」の九字で、陽文篆書である。闕は石条を畳みて築き、東西が門の如く対峙する。

太室闕には銘文内容が残っている:前銘二十七行、後銘四十六行。漫漶が甚だしいが、建闕年代と建造者は今なお判読できる。

歴史文献

全後漢文

嵩岳太室石阙铭

嵩岳太室石闕の銘

元初五年四月

元初五年四月

惟中岳□□,崇高神君,冢土□□,岱气最纯,春生万物,肤寸起云,润施源流,洪沛宣,普天四海,莫不蒙恩。

惟中岳□□、崇高なる神君、冢土□□、岱気最も純粋なり。春には万物を生じ、膚寸より雲を起こし、潤いを源流に施し、洪を沛宣す。普天四海、恩を受けざるはなし。

圣朝肃敬,众庶所尊,斋试奉祀,战尽勤,以颂功德,刻石纪文,垂显□□,以传后贤。

聖朝は粛敬し、衆庶の尊ぶ所なり。斎試して奉祀し、戦して勤を尽くす。以て功徳を頌し、石に刻みて文を紀し、□□を垂顕して、以て後賢に伝う。

元初五年四月,阳城□长左冯翊万年吕常始造作此石阙。

元初五年四月、陽城□長左馮翊萬年呂常、此の石闕を造作し始める。

『全後漢文(全上古三代秦漢三国六朝文)』嵩岳太室石闕銘

平津読碑記

嵩山太室神道石阙铭元初五年四月。

嵩山太室神道石闕銘、元初五年四月。

右嵩山太室石阙,在登封县中岳庙南百余步。

右の嵩山太室石闕は、登封県中岳廟の南百余歩に在り。

前后两铭。碑额中岳泰室阳城□□□九字,阳文篆书。

前後に両銘あり。碑額に「中岳泰室陽城□□□」の九字、陽文篆書。

前铭二十七行,以后不可计。元初五年四月刻。后铭四十六行,延光四年三月刻。字不甚大,每行俱有界画直线,依翁阁学两汉金石记所释。

前銘は二十七行、以後は計るべからず。元初五年四月刻。後銘は四十六行、延光四年三月刻。字は甚だ大ならず、毎行に俱に界画の直線あり、翁閣学の『両漢金石記』の釈に依る。

其未举者,前铭十八行第三是史字,十九行第九是之字。后铭首脱四行,二行有地字。四行有三字,五行有十字、三字,七行有孝字,九行孔子上是公字,十一行有阳字,十二行有北海相字,十四行有属字,十七行有县字,二十二行有双字,二十六行藐上是存字,三十行有是字,三十二行有亲字,四十行有置字。

其の未だ挙げざる者は、前銘十八行の第三は史字、十九行の第九は之字なり。後銘の首は四行を脱し、二行に地字あり。四行に三字あり、五行に十字、三字あり、七行に孝字あり、九行の孔子の上は公字なり、十一行に陽字あり、十二行に北海相字あり、十四行に属字あり、十七行に県字あり、二十二行に双字あり、二十六行の藐の上は存字なり、三十行に是字あり、三十二行に親字あり、四十行に置字あり。

后铭有颍川太守字。访碑录,题为颍川太守题名,即此碑。

後銘に潁川太守の字あり。『訪碑録』に、題して潁川太守の題名と為すは、即ち此の碑なり。

『平津読碑記』巻一

金石図

由太室石阙而西,过登封县十里,又西南三里许,有两崇阙峨峨,东西峙田间。

太室石闕より西へ、登封県を過ぎて十里、又西南三里許り、両崇闕峨峨として、東西に田間に峙つ。

西阙三面皆有刻文,北面刻曰少室神道之阙,知是少室石阙也。

西闕は三面に皆刻文あり、北面に「少室神道の闕」と刻す、是れ少室石闕なるを知るなり。

少室庙今不可见,存此阙云,刻额,高七寸,阔七寸五分,字径二寸三分。

少室廟は今見るべからず、此の闕を存す云う。刻額、高さ七寸、闊さ七寸五分、字径二寸三分。

刻额下画两人走马而舞,为角抵戏。

刻額の下に両人馬を走らせて舞うを画く、角抵の戲と為す。

又画两螭龙,一龙入于𥧹中,一龙逐而衔其尾,亦不知其所谓也。

又両螭龍を画く、一龍は𥧹中に入り、一龍は逐いて其の尾を銜む、亦其の謂う所を知らず。

铭与题名刻于阙之南面及西侧,凡十九行,横阔三尺八寸,并侧为四尺四寸,纵高一尺,字径一寸四分。

銘と題名は闕の南面及び西側に刻す、凡そ十九行、横闊三尺八寸、並びに側は四尺四寸、縦高一尺、字径一寸四分。

铭文可识,不可读,疑有断文也。西侧画一环月,为蟾兔杵臼捣药之形。

銘文は識る可きも、読む可からず、断文有るを疑うなり。西側に一環月を画く、蟾兔杵臼搗薬の形と為す。

南面画索𨱇而蹋踘者二人,坐而睨视者一人,跪者一人。

南面に索𨱇にて蹋踘する者二人、坐して睨視する者一人、跪く者一人を画く。

东阙去西阙五六步,东阙画一猎犬逐兔,兔趯趯然可及也。

東闕は西闕を去ること五六歩、東闕に一猟犬兔を逐うを画く、兔は趯趯然として及ぶ可し。

又画一独角兽,一人,左手引之,而右持钩钩象者。

又一独角獣を画く、一人、左手に之を引き、而して右に鉤を持ちて象を鉤する者。

画像下有一石刻,高一尺,阔六寸,刻二十四字,可见者十九字,字径一寸二分,所谓少室东阙题名者也。

画像の下に一石刻あり、高さ一尺、闊さ六寸、二十四字を刻す、見る可き者十九字、字径一寸二分、所謂少室東闕の題名者なり。

刻文寖下,前人皆未及见,见而表之者,雒阳董金瓯相函。

刻文寖く下にあり、前人皆未だ及見せず、見て之を表す者は、雒陽の董金甌相函なり。

金瓯好古士,善篆隶。

金甌は好古の士、篆隷を善くす。

东阙刻文画像之迹皆北向。

東闕の刻文画像の跡は皆北向す。

凡少室东西两阙,高厚阔之数皆相等。

凡そ少室東西両闕、高厚闊の数は皆相等し。

凡两阙,画像七人二,马一、犬一、兔一、象一,独角兽二,螭龙及月中玉兔、蟾蜍之属诸像,极古拙。

凡そ両闕、画像七人二、馬一、犬一、兔一、象一、独角獣二、螭龍及び月中の玉兔、蟾蜍の属諸像、極めて古拙なり。

『金石図』第一冊

古写真

1907年

1907年にフランスの漢学者シャヴァンヌが河南省登封で撮影。現在、写真は『北中国考古図録』に収録されている。

1920年

1920年に日本の建築史家・安野貞と仏教史家・常盤大定が河南省登封で撮影。現在は1939年発行の『中国文化史蹟(法蔵館)』に収録されている。