概要
北魏の酈道元が晋水の源を記したとき、ここは「唐叔虞祠」であった。沼は西に山に際し水に枕し、涼堂は飛梁を水上に架け、左右には雑樹が交わって蔭をなし、晋川で最も勝れた地であった。貞観二十年、唐の太宗は遼東より軍を凱旋させて并州を経たとき、自ら『晋祠之銘并序』を撰し、御筆で書して碑に刻んだ。碑額には飛白書で「貞観廿年正月廿六日」の九字がある。碑身は高さ一丈ばかり、広さ四尺で、後世これを「貞観宝翰」の亭で覆って保護したが、清末にはすでに「字多く漫滅し、下截(下半分)は特に甚だし」い状態であった。
太平興国九年、朝廷は勅して晋祠を修め、祠内の配置は変わり始めた。天聖年間、聖母殿が晋水の源の上に創建され、殿前の八本の柱には金龍が蟠り、「頭はみな外を向き、口には珠を銜え、金碧が相交わり、牙を張り爪を舞わせ、あたかも飛動の状を含む」ものであった。熙寧年間、太原の守臣が殿内の聖母は「祈祷すればすなわち応じるが、いまだ封号がない」と奏し、朝廷は「昭済聖母」の号を加え、廟額もまた宋の賜うところとなった。かくして、もと唐叔虞を記念するために設けられたこの祠廟は、後から現れた聖母殿にその中心を奪われた。祠の名は改まらぬまま、主神はすでに換わっていたのである。
聖母が祀るのは何者か。宋の宣和五年の謝雨碑は「惟れ聖母の発祥、晋室を肇めて基を開く。王の文の手に在るや、其の神霊の知るべし」という――「文有りて手に在る」とは『左傳』に記される唐叔虞が生まれたときに手の紋様が「虞」の字をなしたという事で、晋室を肇めえた母は邑姜のほかにない。清初の閻若璩は残碑から系統的に考証し、聖母は唐叔虞の母、姜太公の女である邑姜だと断定し、そして「傍らの方に唐叔虞廟があり、南向きである。これは子が母に屈するものだ」と指摘した。叔虞は唐に封ぜられて晋を立て、晋水はその封地に発源し、民間は晋の発祥を夢で命を授かった母に帰し、先に女郎祠を立て、のち祈雨の霊験によって次第に封を加えていった。殿宇はますます盛んに修められ、ついには客が主を凌ぐに至った。閻若璩はこれを「祀典の訛(あやまり)」だとしたが、母が子に取って代わる配置は今日まで続いている。
歴史文献
『水経注・晋水』
晋水出晋阳县西悬瓮山。
县,故唐国也。春秋左传称,唐叔未生,其母邑姜梦帝谓己曰:余名而子曰虞,将与之唐,属之参。及生,名之曰虞。吕氏春秋曰:叔虞与成王居,王援桐叶为珪,以授之,曰:吾以此封汝。虞以告周公,周公请曰:天子封虞乎?王曰:余戏耳。公曰:天子无戏言。时唐灭,乃封之于唐。县有晋水,后改名为晋。故子夏叙诗称此晋也,而谓之唐,俭而用礼,有尧之遗风也。晋书地道记及十三州志并言晋水出龙山,一名结绌山,在县西北,非也。山海经曰:悬瓮之山,晋水出焉。今在县之西南。昔智伯之遏晋水以灌晋阳,其川上溯,后人踵其遗迹,蓄以为沼。沼西际山枕水,有唐叔虞祠,水侧有凉堂,结飞梁于水上,左右杂树交荫,希见曦景,至有淫朋密友,羁游宦子,莫不寻梁契集,用相娱慰,于晋川之中,最为胜处。
晋水は晋陽県の西の懸甕山より出る。
この県は、もとの唐国である。『春秋左傳』にいう、唐叔がまだ生まれぬ前、その母の邑姜は帝が自らに告げる夢を見た、「余は汝の子を名づけて虞といい、これに唐を与え、参の星に属させよう」と。生まれるに及んで、これを名づけて虞といった。『呂氏春秋』にいう、叔虞が成王とともに居たとき、王は桐の葉を取って珪(玉器)とし、これを授けて「吾はこれをもって汝を封ずる」といった。虞がこれを周公に告げると、周公は請うて「天子は虞を封ぜられますか」といった。王は「余は戯れただけだ」といった。公は「天子に戯言はありません」といった。時に唐が滅んだので、これを唐に封じた。県には晋水があり、のち名を晋と改めた。ゆえに子夏が詩を叙して、これを晋というのに唐と称するのは、倹約でありながら礼を用い、尭の遺風があるからだ、といった。『晋書地道記』および『十三州志』はいずれも晋水は龍山(一名を結絀山、県の西北にある)より出ると言うが、誤りである。『山海経』にいう、懸甕の山、晋水これより出る、と。今は県の西南にある。昔、智伯が晋水を堰き止めて晋陽に灌ぎ、その川が上へ遡り、後人がその遺跡を踏襲して、水を蓄えて沼とした。沼は西に山に際し水に枕し、唐叔虞祠がある。水のかたわらに涼堂があり、飛梁を水上に結び、左右には雑樹が交わって蔭をなし、日の光を見ることはまれで、遊び仲間や親しい友、旅の官人に至るまで、みな梁を尋ねて集い、互いに娯しみ慰め合わぬ者はなく、晋川の中で最も勝れた地であった。
『元和郡県志・太原府』
晋祠,一名王祠,周唐叔虞祠也,在县西南十二里。
水经注曰:“昔智伯遏晋水以灌晋阳,其川上溯,后人蓄以为沼。”沼西际山枕水,有唐叔虞祠。水侧有凉堂,结飞梁于水上,晋川之中,最为胜处。
序行记曰:“高洋天保中,大起楼观,穿筑池塘,自洋以下,皆游集焉。”至今为北都之胜。
晋祠は、一名を王祠といい、周の唐叔虞の祠であって、県の西南十二里にある。
『水経注』にいう、「昔、智伯が晋水を堰き止めて晋陽に灌ぎ、その川が上へ遡り、後人が水を蓄えて沼とした」と。沼は西に山に際し水に枕し、唐叔虞祠がある。水のかたわらに涼堂があり、飛梁を水上に結び、晋川の中で最も勝れた地である。
『序行記』にいう、「高洋(北斉の文宣帝)が天保年間に、大いに楼観を起こし、池塘を穿ち築き、高洋以下、みなここに遊び集った」と。今に至るまで北都の名勝である。
『晋祠之銘并序』
晋祠之铭,御制御书。夫兴邦建国,资懿亲以作辅;分圭锡社,寔茂德之攸居。非亲无以隆基,非德无以𢓜化。是知功侔分陕,奕叶之庆弥彰;道洽留棠,传芳之迹斯在。惟神诞灵周室,降德酆都,疏派天䵃,分枝璇极,经仁纬义,履顺居贞,揭日月以为躬,丽高明之质,括沧溟而为量,体弘润之资。德乃民宗,望惟国范,故能协隆鼎祚,赞七百之洪基;光启维城,开一匡之霸业。既而今古革运,舟壑潜迁,虽地尽三分,而余风未泯;世移千祀,而切烈犹存。玄化旷而无名,神理幽而靡究。故歆祠利祷,若存若亡,济世匡民,如显如晦。临汾川而降祉,櫿仁智以栖神。金阙九层,鄙蓬莱之已陋;玉楼千仞,耻昆闾之非奇。落月低于桂筵,流星起于珠树。若夫崇山亘时,作镇未墟,襟带边亭,标临朔土。悬崖百丈,弊日亏红;绝岭万寻,横天耸翠。霞无机而散锦,峰非水而开莲。石镜流辉,孤岩霄朗,松萝曳影,重溪昼昏。碧雾紫烟,郁古今之色;宦霜绛雪,皎冬夏之光。其施惠也则和风。溽露是生,油云有雨斯起。其至仁也,则霓裳鹤盖息焉,飞禽走兽依焉。其刚节也,则治乱不改其形,寒暑莫移其拯;其大量也,则育万物而不倦,资四方而靡穷。故以众美攸归,明抵是宅。岂如罗浮之岛,拔岭南迁,舞阳之山,移基北转。以夫挺秀之质,而无居常之资,故知灵岳标奇,托神威而为固。加以飞泉涌砌,激石分湍,萦氛雾而终清,有英俊之贞撡;住方圆以成像,体圣贤之屈伸。日注不穷,类芳猷之无绝;年倾不溢,同上德之诫盈。阴涧怀冰,春留冬镜;阳岩引溜,冬结春苔。非疏勒之可方,岂瀑布之能拟。
晋祠の銘、御製御書。それ邦を興し国を建てるには、懿親(近しい親族)に資して輔けとなし、圭を分かち社を錫(たまわ)るは、実に茂徳の居るところである。親にあらざれば基を隆くするに由なく、徳にあらざれば化を成すに由なし。ここに知る、功は分陝(周公・召公の分治)に匹敵し、代々の慶びがいよいよ明らかとなり、道は留棠(召公の遺愛)に洽く、芳を伝える跡がここに在ることを。惟うに神は霊を周室に誕(う)み、徳を酆都に降し、派を天より疏(わ)かち、枝を璇極(北極星)より分かち、仁を経とし義を緯とし、順を履み貞に居り、日月を掲げて躬(からだ)となし、高明の質に麗しく、滄溟(大海)を括りて量となし、弘潤の資を体す。徳は民の宗、望は国の範なり、ゆえに能く鼎祚を協え隆くし、七百年の洪基を賛け、維城を光り啓き、一匡の覇業を開いた。既にして今古は運を革め、舟壑(万物の変遷)はひそかに移り、地は三分に尽きたとはいえ、余風はいまだ泯びず、世は千年を移したとはいえ、切烈(激しい忠烈)はなお存する。玄化は曠(ひろ)くして名なく、神理は幽くして究めがたい。ゆえに祠を歆(う)け祷りに利あるも、存するがごとく亡きがごとく、世を済い民を匡すも、顕れるがごとく晦(くら)きがごとし。汾川に臨んで福を降し、仁智に依って神を栖ませる。金の楼閣九層は、蓬莱がすでに陋しいと鄙み、玉の楼千仞は、昆閬が奇でないと耻じる。落ちる月は桂の筵に低く、流れる星は珠の樹より起こる。かの崇山は時を亘(わた)って鎮をなして墟とならず、辺亭を襟帯とし、朔土(北方)に標として臨む。懸崖は百丈、日を弊い紅を虧き、絶嶺は万尋、天に横たわり翠を聳やかす。霞は機なくして錦を散らし、峰は水にあらずして蓮を開く。石鏡は輝きを流し、孤岩は霄(そら)に朗らかで、松蘿は影を曳き、重なる渓は昼も昏(くら)い。碧の霧・紫の煙は、古今の色を鬱くこめ、宦(きよ)き霜・絳(あか)き雪は、冬夏の光に皎(あき)らかである。その恵みを施すや和風となる。溽(うるお)える露はここに生じ、油(むらむら)たる雲は雨あればここに起こる。その至仁たるや、霓裳・鶴蓋(仙人の乗物)がここに息い、飛禽・走獣がここに依る。その剛節たるや、治乱もその形を改めず、寒暑もその救いを移さず、その大量たるや、万物を育んで倦まず、四方に資して窮まらぬ。ゆえに衆美の帰するところとなり、明らかにこの宅に至る。豈に羅浮の島が嶺を抜いて南に遷り、舞陽の山が基を移して北に転じたごときであろうか。かの挺秀の質をもって、しかも常に居る資なく、ゆえに知る、霊岳が奇を標すのは、神威に托して固くなるのだと。加えて飛泉は砌(きざはし)に涌き、激流は石に分かれ、氛霧を萦(めぐ)らせても終に清く、英俊の貞なる操を有し、方円に住して像をなし、聖賢の屈伸を体す。日々注いで窮まらぬは、芳猷(善き道)の絶えぬに類し、年々傾いても溢れぬは、上徳の盈つるを戒めるに同じ。陰の澗(たにがわ)は氷を懐き、春に留まりて冬の鏡となり、陽の岩は溜りを引き、冬に結んで春の苔となる。疏勒(かの名水)の比べうるところにあらず、豈に瀑布の擬しうるところであろうか。
至如浊泾清渭,岁岁同流;碧海黄河,时时一变。以夫括地之纪,横天之源,不能泽其常,莫能殊其撡。信乃兹泉表异,带仙宇而为珍,仰神居之肃清,想徽音其如在。是以朱轮华毂,接称于坛衢,玉币丰索,连箱于庙阕。氤氲灵气,仰之而弥高;昭晰神光,望之而逾肃。潜通固化,不爽于锱铢;感应明征,有逾于影响。惟贤是辅,非黍稷之为馨;唯德是依,岂筐篚之为惠。
かの濁れる泾水と清き渭水のごときは、年々同じく流れ、碧海と黄河は、時々に一変する。かの地を括る紀(すじ)、天に横たわる源をもってしても、その常を泽うことはできず、その操を殊にすることもできぬ。まことにこの泉が異を表し、仙宇を帯びて珍となし、神の居の肃清なるを仰ぎ、その徽音(善き名声)がなお在るかのように想う。ここをもって朱塗りの車・華やかな轂(こしき)が、壇のちまたに続いて連なり、玉の幣・豊かな索(供物)が、廟の門に箱を連ねる。氤氲たる霊気は、仰げばいよいよ高く、昭晰たる神光は、望めばいよいよ肃(おごそ)かである。ひそかに通じて固く化し、錙銖(わずか)にも違わず、感応の明らかな徴は、影や響き以上である。ただ賢のみをこれ輔とし、黍稷(供物の穀物)を馨(かんば)しとせず、ただ徳のみをこれ依とし、豈に筐篚(供物の籠)を恵みとしようか。
昔有随昏季,缙纪崩沦,四海腾波,三光藏曜。先皇袭千龄之徽号,膺八百之先期,用竭诚心,以祈家福。爰初鞠旅,发迹神祠,举风电以长驱,宠天地而遐掩。一戎大定,六合为家。虽膺箓受图,彰于天命,而克昌洪业,寔赖神功。
昔、隋の末世の昏乱があり、綱紀は崩れ沦(おち)び、四海は波を騰らせ、日月星の三光は輝きを蔵した。先皇(高祖)は千年の徽号を襲ぎ、八百年(周の国祚)の先例に膺(あた)り、誠心を竭くして、家の福を祈った。ここに初めて軍を鞠(あつ)め、跡を神祠より発し、風や電のごとく長駆し、天地を宠(おお)いて遠く掩った。一たびの戦で大いに定まり、六合(天下)を家とした。図籙を膺け受け、天命に彰れたとはいえ、しかも洪業を克く昌にしたのは、実に神功に頼ったのである。
故知茫茫万顷,必俟云雨之泽;巍巍五岳,必乃尘壤之资。虽九栋登年,由乎播种;千寻耸日,本藉崇基。然则不雨不云,则有炎枯之害;非尘非壤,则有倾覆之忧。虽立本于自然,亦成功而假助,岂大宝之独运,不资于灵福者乎?故无言不酬,无德不报,所以巡往迹,赛洪恩,临汾水而濯心,仰灵坛而肃志。
ゆえに知る、茫茫たる万頃(田畑)も、必ず雲雨の恵みを俟ち、巍巍たる五岳も、必ず塵壌の資(つみかさね)によることを。九棟の建物が年を重ねて立つのも、種を播くことにより、千尋の高さが日に聳えるのも、もとは崇い基に藉る。しからば雨降らず雲なければ、炎枯の害があり、塵にあらず壌にあらざれば、倾覆の憂いがある。本を自然に立てたとはいえ、また功を成すには助けを假り、豈に大宝(帝位)が独りで運び、霊福に資せぬものであろうか。ゆえに酬いぬ言なく、報いぬ徳なく、そこで往時の跡を巡り、洪恩に報い、汾水に臨んで心を濯ぎ、霊壇を仰いで志を肃(ただ)す。
若夫照车十二,连城三五,币帛云委,珍羞山积,此乃庸鄙是享,恐非明神所歆。正当竭丽水之金,勒芳猷于不朽;尽荆山之玉,镌美德于无穷。召彼雨师,见兹惠泽,命斯风伯,扬此清尘。使地秪仰德于金门,山灵受化于固阙,括九仙而警卫,拥百神以前驱,俾洪威振于六幽,令誉光于千载。岂若高唐之庙,空号朝云,陈仓之祠,虚传夜影。式刊芳烈,乃作铭曰:
かの車を照らす十二の珠、城に連なる三五の璧、幣帛が雲のごとく委ねられ、珍羞が山のごとく積まれるもの、これは庸鄙(凡俗)が享けるもので、恐らくは明神の歆けるところではない。まさに丽水の金を竭くして、芳猷を不朽に勒し、荊山の玉を尽くして、美徳を無窮に镌るべきである。かの雨師を召してこの恵沢を見せ、この風伯に命じてこの清塵を揚げさせる。地祇をして金門に徳を仰がせ、山霊をして固い門闕に化を受けさせ、九仙を括りて警衛とし、百神を拥して前駆とし、洪威を六幽(あらゆる冥界)に振るわせ、令誉を千載に光らせる。豈に高唐の廟が空しく朝雲を号し、陳倉の祠が虚しく夜影を伝えるごときであろうか。もって芳烈を刊し、すなわち銘を作っていう。
赫赫宗周,明明哲辅。诞灵降德,承文继武。启庆留名,翦桐颁土。逸翮孤映,清飙自举。藩屏维宁,邦家攸序。传晖竹帛,降灵没晋。惟德是辅,惟贤是顺。不罚而威,不言而信。玄化潜流,洪恩遐振。沉沉清庙,肃肃灵切。松低羽盖,云挂仙冠。雾筵霄碧,霞帐晨丹。户花冬桂,连芳夏兰。代移神久,地古林残。泉涌端萦,泻砌分庭。非搅可浊,非澄自清。地斜文直,涧曲流平。翻霞散锦,倒日澄明。冰开一镜,风激千声。既瞻清洁,载想忠贞。濯兹尘秽,莹此心灵。猗欤胜地,伟哉灵异。日月有穷,英声不匮。天地可极,神威靡坠。万代千龄,芳猷永嗣。
赫赫たる宗周、明明たる哲輔(賢明な輔佐)。霊を誕み徳を降し、文を承け武を継ぐ。慶びを啓き名を留め、桐を翦(き)って土を頒(わか)つ。逸翮(すぐれた鳥の翼)は孤(ひと)り映え、清き飙(つむじ風)は自ら挙がる。藩屏はこれ寧く、邦家はこれ序(ととの)う。輝きを竹帛(史書)に伝え、霊を降して晋に没す。ただ徳をこれ輔とし、ただ賢をこれ順とす。罰せずして威あり、言わずして信あり。玄化はひそかに流れ、洪恩は遠く振るう。沉沉たる清廟、肃肃たる霊切。松は羽蓋(鳥羽の飾り)に低く、雲は仙冠に挂かる。霧の筵は霄(そら)に碧く、霞の帳は晨(あさ)に丹(あか)い。戸の花は冬の桂、芳を連ねる夏の蘭。代は移り神は久しく、地は古く林は残る。泉は涌いて端(まさ)に萦(めぐ)り、砌に泻(そそ)いで庭に分かれる。搅(か)いても濁らず、澄まさずして自ら清い。地は斜めでも文(あや)は直く、澗(たにがわ)は曲がっても流れは平らか。霞を翻して錦を散らし、日を倒(うつ)して澄み明らかである。氷は一つの鏡を開き、風は千の声を激す。既に清潔を瞻(あお)ぎ、また忠貞を想う。この塵穢を濯ぎ、この心霊を莹(みが)く。ああ勝地よ、偉なるかな霊異よ。日月に窮まりありとも、英声は匮(つ)きず。天地に極まりありとも、神威は坠(お)ちず。万代千齢、芳猷は永く嗣がん。
贞观廿年正月廿六日。
貞観二十年正月二十六日。
『晋祠謝雨文碣』按語
桉:通志金石记:宋谭稹祭汾东王庙文,宣和五年,姜仲谦撰,赵令畤行书。今拓本维宣和五年五月初七日己未,起复太尉、武信军节度使云云,致祭于显灵昭济圣母汾东王之祠,有云:访往古之丛祠,考故事于丰碑。惟圣母之发祥,肇晋室而开基,有文在手,神灵可知。是谓圣母为邑姜也。
太原县志:晋源神祠在晋祠,祀叔虞之母邑姜,宋天圣间建。熙宁中以祷雨应,加号昭济圣母。引国朝阎若璩说,定为邑姜。所云访得宋宣和五年残碑姜仲谦谢雨文者,即此碑。今志刻本讹作政和。
按ずるに、『通志金石記』にいう。宋の譚稹の汾東王廟を祭る文は、宣和五年、姜仲謙が撰し、趙令畤が行書で書した。今の拓本には、ただ宣和五年五月初七日己未、起復太尉・武信軍節度使うんぬん、顕霊昭済聖母汾東王の祠に致祭す、とあり、こう述べる、「往古の叢祠を訪ね、故事を丰碑に考える。惟れ聖母の発祥、晋室を肇めて基を開く。文有りて手に在り、神霊知るべし」と。これは聖母を邑姜とするものである。
『太原県志』にいう。晋源神祠は晋祠にあり、叔虞の母・邑姜を祀り、宋の天聖年間に建てられた。熙寧年間に祈雨が応じたことによって、昭済聖母の号を加えた。国朝(清)の閻若璩の説を引いて、邑姜と定めた。宋の宣和五年の残碑・姜仲謙の謝雨文を訪ね得たというのは、すなわちこの碑である。今の志の刻本は誤って政和に作る。
『金石録・唐晋祠銘』
右唐晋祠铭,太宗撰并书。晋祠者,唐叔虞祠也。高祖初,起兵祷于叔虞祠。至贞观二十年,太宗为立碑。
右の唐の晋祠銘は、太宗が撰し、あわせて書した。晋祠とは、唐叔虞の祠である。高祖の初め、兵を起こして叔虞祠に祷った。貞観二十年に至って、太宗がこれのために碑を立てた。
『晋祠謝雨文』
维宣和五年岁次癸卯五月癸丑朔七日已未,河东、燕山府路宣抚使谭祯谨以清酌庶羞之奠,致祭于显灵昭济圣母汾东王之祠。兹衔命而出使兮,总燕晋之抚绥。并并州之故垒兮,访往古之丛祠。乃乘传而修谒兮,历山路之透迤。询遗迹于父老兮,曰祸福惟神之所司。属常旸之稍愆兮,渴霈泽之甘祁。虽地偏而节晚兮,惧南亩之失时。念密云之或布兮,久屯膏而未施。顾无路以讼风伯兮,又力不能鞭夫雷师。乃潜心而默祷兮,薄精神之上驰。达龙香之芬苾兮,耸冠佩之陆离。
維れ宣和五年、歳は癸卯に次り、五月は癸丑の朔、七日己未、河東・燕山府路宣撫使の譚禎(譚稹)が謹んで清酌と庶羞(供物)の奠をもって、顕霊昭済聖母汾東王の祠に致祭する。ここに命を衔(う)けて出使し、燕・晋の撫綏(安撫)を総べる。并州の故垒(旧塁)に赴き、往古の叢祠を訪ねる。すなわち伝馬に乗って謁を修め、山路の遠く透迤(うねうね)たるを歴る。遺跡を父老に询(と)えば、禍福はただ神の司るところだという。折しも常旸(ひでり)がやや度を過ぎ、霈沢(大雨)の甘きを渇望していた。地は偏り節は晩(おそ)いとはいえ、南畝(田畑)が時を失うことを懼れた。密雲があるいは布(し)くかと念ずるも、久しく膏(うるおい)を屯(とど)めて施さず。顧みるに風伯を訟(うった)える路なく、また力は雷師を鞭打つこと能わず。すなわち心を潜めて黙禱し、精神を薄(せま)らせて上へ馳せた。龍香の芬苾(かんばし)きを達(とど)け、冠佩の陸離(きらびやか)なるを耸(そばだ)てた。
步长廊之回环兮,考故事于丰碑。惟圣母之发祥兮,肇晋室而开基。王有文之在手兮,其神灵之可知。顾林薄之映带兮,发岩岫之英奇。泉出于堂下兮,作万顷之宏陂。信灵仙之窟宅兮,宜庙食之在兹。矧归禾之盛德兮,惠故土而不疑。曾未逾于浃辰兮,遂渗漉于灵厘。初霡霖而裛尘兮,欻檐溜之已垂。散郁结为欢愉兮,回清润于赫曦。谅挟才于大泽兮,起高卧之潜螭。何作霖于肤寸兮,被远近而不遗。麦酣酣而将秀兮,万绿净其纷披。助朱明之长养兮,验丰年之可期。惟灵鉴之盛昭兮,实大庇于黔黎。念何以报贶兮,乃诹日而灼龟。奠葡萄之佳酿兮,奉蕴藻以荐词。冀明灵之终惠兮,盛百谷之如茨。惟菲薄之是媿兮,惟神听之无私。伏惟尚飨。
長廊の回環(めぐり)を歩み、故事を丰碑に考える。惟れ聖母の発祥、晋室を肇めて基を開く。王(叔虞)の文有りて手に在り、その神霊の知るべし。林薄(草木の茂み)の映帯(いろどり)を顧み、岩岫(いわあな)の英奇を発する。泉は堂の下より出でて、万頃の宏(おおい)なる陂(つつみ)をなす。まことに霊仙の窟宅であり、廟食(廟で祀られること)がここに在るのがふさわしい。いわんや禾(いね)を帰らせる盛徳は、故土に恵んで疑いなし。いまだ浃辰(十二日)を過ぎぬのに、遂に霊厘(霊験)が渗漉(しみとお)った。初め霡霖(こまかな雨)が塵を裛(うるお)し、たちまち軒の雨だれがすでに垂れた。鬱結(心のわだかまり)を散らして歓愉となし、清潤を赫曦(かがやく日ざし)に回らせた。まことに大沢に才を挟(いだ)き、高臥する潜龍を起こしたのだ。いかにして肤寸(わずか)から霖雨をなし、遠近に被って遺さぬのか。麦は酣酣(さかん)として秀(ほさ)きんとし、万緑は浄くその紛披(みだれひろが)る。朱明(夏)の長養を助け、豊年の期すべきを験(しる)す。惟れ霊鑑の盛んに昭らかにして、実に黔黎(民衆)を大いに庇う。何をもって贶(たまもの)に報いんと念じ、すなわち日を诹(えら)びて亀を灼(や)いて占う。葡萄の佳酿(よき酒)を奠(そな)え、蕴藻(水草)を奉げて詞を荐(すす)める。明霊の終(つい)に恵んで、百穀の茨(つ)むがごとく盛んならんことを冀う。惟れ菲薄(そまつ)なるをこれ愧じ、惟れ神の聴くこと私なきを(たのむ)。伏して惟れ尚(ねが)わくは飨(う)けたまえ。
『太原県志・祠廟』
晋源神祠在晋祠,祀叔虞之母邑姜。宋天圣间建。熙宁中,以祷雨应,加号昭济圣母。崇宁初,敕重建。元至正二年重修。明洪武初,复加号广惠显灵昭济圣母。四年,改号晋源之神。天顺五年,按院茂彪重修,岁以七月二日致祭。
晋源神祠は晋祠にあり、叔虞の母・邑姜を祀る。宋の天聖年間に建てられた。熙寧年間に、祈雨が応じたことによって、昭済聖母の号を加えた。崇寧の初め、勅して重建された。元の至正二年に重修された。明の洪武の初め、あらためて広恵顕霊昭済聖母の号を加えた。四年、晋源之神と号を改めた。天順五年、按院の茂彪が重修し、毎年七月二日に致祭することとなった。
阎若璩曰:邑姜为十乱之一,齐太公望女,唐叔虞母,叔虞之封唐也,亦发梦于其母,故今晋水源有女郎祠,实邑姜之庙。旁方为唐叔虞庙,南向,此子为母屈者也。母封曰圣母,子封日汾东,正祀典之讹。自明洪武四年,诏革天下神祇封号,止称以山水本名,于是圣母庙改而为晋源神祠矣。当时礼官不学如此。余从草间搜出宋政和五年残碑,乃姜仲谦谢雨文,首云致祭于显灵昭济圣母汾东王之祠,中云:惟圣母之发祥兮,肇晋室而开基;王有文之在手兮,其神灵之可知。喜得一典,证属有司,当上闻于朝,以厘正之,而别建晋源神祠。又日女郎祠之建,实始于天圣,而封号之加,则自熙宁祷应始宣和五年,上距天圣甫百年,其建祠之故与所祠之人,必历历有据,故仲谦得之于传闻,而载之于撰著。不然,岂牵合傅会遂至此也。
閻若璩がいう。邑姜は十乱(周の十人の治世の臣)の一人で、斉の太公望の女、唐叔虞の母である。叔虞が唐に封ぜられたのも、またその母に夢が発せられた(ことによる)。ゆえに今、晋水の源に女郎祠があるが、実は邑姜の廟である。傍らの方には唐叔虞廟があって南向きで、これは子が母に屈するものだ。母の封を聖母といい、子の封を汾東といい、まさに祀典の訛(あやまり)である。明の洪武四年より、天下の神祇の封号を革めるよう詔し、ただ山水の本来の名で称するにとどめたので、ここに聖母廟は改まって晋源神祠となった。当時の礼官の不学なることかくのごとし。余(閻若璩)は草間より宋の政和五年の残碑を搜し出したが、これは姜仲謙の謝雨文で、首に「顕霊昭済聖母汾東王の祠に致祭す」といい、中ほどに「惟れ聖母の発祥、晋室を肇めて基を開く。王の文の手に在るや、その神霊の知るべし」という。一つの典拠を得たことを喜び、証は有司に属し、まさに朝廷に上聞して、これを厘正(是正)し、別に晋源神祠を建てるべきである。また女郎祠の建立は、実は天聖に始まり、封号の追加は、熙寧の祈雨の応から始まる。宣和五年は、上は天聖からわずか百年で、その祠を建てた理由と祀る人物は、必ずや歴々として拠るところがある。ゆえに仲謙はこれを伝聞に得て、撰著に載せたのである。しからずんば、豈に牽合傅会(こじつけ)してここに至ろうか。
『永楽大典・廟』
惠远庙即昭济圣母庙,在祠中,东向晋水源上,旧经谓之女郎祠。南有难老泉,北有善利泉,中有八角池,其泉溉田百顷。宋熙宁中,太原守臣奏:“晋祠庙内有圣母殿,虽图经不载,祈祷即应,未有封号,诚为阙典。”事下太常以闻,乃加号昭济圣母,有中书门下黄牒刻石宝墨堂中,庙额亦宋世所赐也。国朝洪武四年,改为晋源之神。
恵遠廟はすなわち昭済聖母廟で、祠の中にあり、東に晋水の源の上に向き、旧経(旧図経)はこれを女郎祠という。南には難老泉があり、北には善利泉があり、中には八角池があって、その泉は田百頃を灌漑する。宋の熙寧年間、太原の守臣が奏していう、「晋祠廟内に聖母殿があり、図経には載らないとはいえ、祈祷すればすなわち応じるが、いまだ封号がなく、まことに欠けた典礼です」と。事は太常に下されて奏聞され、そこで昭済聖母の号を加え、中書門下の黄牒(勅令の文書)が宝墨堂の中に刻石されており、廟額もまた宋の世に賜ったものである。国朝(明)洪武四年、晋源之神と改めた。
『晋祠志・晋祠簡説』
晋祠即唐叔虞祠也,今附祀于内之庙凡十有三:曰圣母殿,祀叔虞之母邑姜也。
晋祠はすなわち唐叔虞祠である。今、その内に附祀される廟はおよそ十三あり、その一を聖母殿といい、叔虞の母・邑姜を祀る。
『晋祠志・晋祠銘碑』
唐贞观二十年春,太宗御制序文及铭并行书。文二十一行半,铭四行半,字多漫灭,下截尤甚。碑额贞观廿年正月廿六曰九字,系飞白书。石高丈许,广四尺,厚七寸,阴侧均有题名,上覆以亭,颜曰贞观宝翰,在唐叔虞祠东南隅,无所谓晋使。初邑志晋祠碑铭,贞观二十一年太宗御制碑文及铭,阴有唐臣衔名。大鹏案:碑额贞观廿年正月廿六日九字,而曝书亭集、铁函斋书跋、金石萃编皆言贞观二十一年七月八字,悉与碑额不符。所可异者,朱竹坨五过晋祠,亲摩唐碑,犹且有误,何况未到晋祠,仅据简编而言,目未亲见碑石,果何如书者乎?孟于曰:尽信书则不如无书。于斯概见。父老传言,唐碑凡戈字均虞世南代书者。乾隆年山西冀宁道徐浩游晋祠诗,有唐碑剥落虞戈在之句,则是碑间戈字皆为虞世南代书者似也。
唐の貞観二十年春、太宗が序文および銘を御製し、あわせて行書で書した。文は二十一行半、銘は四行半で、字は多く漫滅し、下截(下半分)は特に甚だしい。碑額の「貞観廿年正月廿六日」の九字は、飛白書である。石は高さ一丈ばかり、広さ四尺、厚さ七寸で、碑の陰側にはいずれも題名があり、上を亭で覆い、額を「貞観宝翰」といい、唐叔虞祠の東南隅にあって、いわゆる晋使(の記述)はない。初め邑志(県志)は晋祠の碑銘を、貞観二十一年に太宗が碑文および銘を御製し、陰に唐臣の衔名があると(記した)。大鵬(劉大鵬)が按ずるに、碑額は「貞観廿年正月廿六日」の九字であるのに、『曝書亭集』『鉄函斎書跋』『金石萃編』はみな「貞観二十一年七月」の八字というが、ことごとく碑額と符合しない。怪しむべきは、朱竹坨(朱彝尊)は五たび晋祠を過ぎ、自ら唐碑を摩したのになお誤りがあり、まして晋祠に到らず、ただ書物に拠って言い、目で親しく碑石を見ていない者は、いったいどうで���ろうか。孟子はいう、「書を尽く信ずればすなわち書なきに如かず」と。ここにおいて概ね見られる。父老の伝言では、唐碑のおよそ「戈」の字はみな虞世南が代書したものだという。乾隆年間、山西冀寧道の徐浩が晋祠に遊んだ詩に「唐碑は剥落するも虞の戈は在り」の句があり、しからばこの碑の間の「戈」の字はみな虞世南の代書したものであるようだ。
然考虑书,太宗于贞观十九年征辽返驾,十二月幸并州,二十年正月制文及铭,亲书于石,而世南巳于贞观十三年先卒,何尝有代书铭碑戈字之事?谓唐碑戈字,太宗得法于虞则可,谓戈字系世南代书,则不可。奥信矣。
しかし考え察するに、太宗は貞観十九年に遼を征して駕を返し、十二月に并州に幸し、二十年正月に文および銘を製し、自ら石に書した。しかるに虞世南はすでに貞観十三年に先に没している。どうして銘碑の「戈」の字を代書した事があろうか。唐碑の「戈」の字は、太宗が虞世南に法を得たというなら可であるが、「戈」の字が虞世南の代書だというなら、不可である。奥深く(この理を)信ずべきである。
『晋祠志・新松記碑』
唐宪宗元和元年立石。邑志云:新松记碑在晋祠。今碑与记沦胥以亡。
唐の憲宗の元和元年に石を立てた。邑志(県志)にいう、新松記碑は晋祠にある、と。今、碑と記はともに滅び失われた。
通志:晋祠新松记碑,元和元年,令狐楚撰记,颜颙书。见金石录。旧在太原县。
『通志』にいう。晋祠の新松記碑は、元和元年、令狐楚が記を撰し、顔顒が書した。『金石録』に見える。もとは太原県にあった。
『晋祠志・修晋祠碑』
石高丈许,广可三尺,字皆剥落,可辨者无几。宋太宗太平兴国九年甲申丁丑朔,将仕郎、尚书职方员外赵昌言奉敕撰,翰林院待诏、中大夫、司农少卿赐绯鱼袋张仁庆书。在胜瀛楼北阶上。
石は高さ一丈ばかり、広さは三尺ほどで、字はみな剥落し、判読できるものはほとんどない。宋の太宗の太平興国九年、甲申、丁丑の朔、将仕郎・尚書職方員外の趙昌言が勅を奉じて撰し、翰林院待詔・中大夫・司農少卿にして緋魚袋を賜った張仁慶が書した。勝瀛楼の北の階上にある。
『晋祠志・聖母殿』
圣母殿,宋仁宗天圣间创建,位兑向震,初名女郎祠,继号晋源神祠,今名圣母庙。历代屡修,崇宏壮丽,独冠中居。有堂,有陛,槛皆白石,望之杰然。殿内妥广惠显灵昭济沛泽翊化圣母像。神厨有木质霹雳车二,形如圆月,边尽锋铓,若火焰向上。其下有座,高二尺许,传言行冰电所用。左右有站殿将军二,高各丈余,一形容雄壮,一象貌狰狞,均秉𫓧钺。其前八楹,佥蟠金螭,头皆向外,口内衔珠,悉属朱色,用彩金丝贯串,金碧相间,负柱萦绕,张牙舞爪,俨含飞动之状。东立沼滨,凭栏俯视,龙影倒印水中,随波漾涌,宛似活龙踊跃。乐平乔庄简公宇所谓殿前皆饰金龙于柱是也。
聖母殿は、宋の仁宗の天聖年間に創建され、兌(西)に位し震(東)に向き、初め女郎祠と名づけ、継いで晋源神祠と号し、今は聖母廟と名づける。歴代しばしば修められ、崇宏壮麗で、ひとり中に冠たり。堂があり、陛(きざはし)があり、欄はみな白石で、これを望めば杰然(そびえたつさま)である。殿内には広恵顕霊昭済沛沢翊化聖母の像を安置する。神厨には木質の霹靂車が二つあり、形は満月のようで、縁はすべて鋒鋩(刃)で、火焰が上を向くかのようである。その下には座があり、高さ二尺ばかりで、伝えでは冰電を行う(水を降らせ雷を起こす)のに用いたという。左右には站殿将軍(守護の将軍)が二体あり、高さはそれぞれ一丈余りで、一体は容貌が雄壮、一体は形貌が狰獰(すさまじい)で、いずれも斧鉞を秉(と)る。その前の八本の柱には、みな金の螭(みずち)が蟠り、頭はみな外を向き、口には珠を銜え、ことごとく朱色で、彩りある金糸を用いて貫き串ね、金碧が相交わり、柱を負(お)うて萦(まと)い繞(めぐ)り、牙を張り爪を舞わせ、あたかも飛動の状を含む。東は沼のほとりに立ち、欄によって俯し視れば、龍の影が水中に倒(さかさ)に印(うつ)り、波にしたがって漾(ただよ)い涌(わ)き、あたかも活きた龍が踊躍するかのようである。楽平の喬荘簡公・喬宇のいわゆる「殿前はみな金龍を柱に飾る」とはこれである。
古写真
1906〜1909年
ドイツの建築学者エルンスト・ベルシュマン(Ernst Boerschmann)が中国での調査中に撮影し、『Baukunst und Landschaft in China』に収めたもの。二枚の旧影は、それぞれ晋祠の祠廟群の主殿の外観と、主殿一階の内部景を記録している。


1914年
アメリカの地質学者フレデリック・クラップ(Frederick G. Clapp)が中国西北の地質調査の途上で撮影し、現在はウィスコンシン大学ミルウォーキー校図書館が所蔵する。写真は晋祠の入口、聖母殿正面、殿前の古樹、および当時の訪問者を記録している。





1920年代〜1930年代
常盤大定・関野貞『中国文化史蹟』第八輯は、晋祠の客堂と泉源の旧影を収録している。

