001 建築 広勝寺 今日の広勝寺は霍山の上下に分かれているが、唐代の文献には育王塔の古基が一か所現れるのみである。その後、霍泉のほとりに屋宇が現れ、山の南麓に仏殿が営まれ、山頂には琉璃塔が再建された。嘉靖十三年、王世隆は兵を率いて赴援する途上、塔の下で飯を用い、事が平らぐと詩を塔壁に刻した。碑の上に「上寺、下寺」の名が明確に現れるのは康熙年間に至ってからである。現存する飛虹塔は、達連が正徳から嘉靖年間にかけて建立を主導したものである。 北周 山西省臨汾市洪洞県 仏教建築 · 北周 · 唐代 →
002 建築 隆興寺 隋の開皇六年、恒州刺史が勅を奉じて州人一万を勧奨し、共に龍蔵寺を建てた。寺名の「蔵」は zàng と読み、仏教では大乗経典または龍宮の経蔵を指す。後に寺額は龍興寺と改められ、明代の都穆は殿前に半ば土に埋もれていた隋碑から、両者がもとは一つの寺であることを見抜いた。康熙四十九年にはさらに「隆興寺」の額を賜った。三つのよく似た名前は、今なお寺内に残る一通の隋碑によって結び合わされている。 隋朝 河北省正定県 仏教建築 · 隆興寺 · 大悲閣 →
003 建築 仏光寺 仏光寺は山西省五台県にあり、寺は「仏光」の瑞応にちなんで名付けられた。唐の大歴五年、法照はここで寺の南に数条の白光を遥かに望み、元和年間には「仏光寺の側らに慶雲現る」との奏報もあった。敦煌『五台山行記』はその大仏殿七間、弥勒閣三層七間を記す。会昌の廃仏の後、僧の願誠が「仏光寺を重ねて尋ね」、次第に新たに成した。今に残る東大殿はこの再建の遺物である。 唐朝 山西省五台県 仏光寺 · 大仏光寺 · 五台県 →
004 建築 広恵寺華塔 正定南門の内側に立つ広恵寺華塔。華塔寺・多宝塔とも呼ばれる。寺史は隋唐に遡るが、塔身の年代は金大定年間の重修説と1990年代に発見された北宋題刻との間で揺れている。乾隆帝は塔に登って詩を題し、梁思成は「あるいは海内の孤例」と称し、1947年の戦闘では趙生明が塔を護るために殉じた。 唐 / 宋金 河北省正定県 広恵寺華塔 · 広恵寺 · 華塔寺 →
005 建築 善化寺 南宋の使臣・朱弁は金国に抑留された後、大普恩寺に移り住み、遼末の兵火で焼け残った瓦礫の中で十四年を過ごした。僧侶の圆満が資金を募り八十余楹を再建する全過程を目の当たりにし、その体験を碑記に書き残した。彼自身の囚われの生活が、この唐代古刹の再生の証人となったのである。 唐代 山西省大同市 善化寺 · 大普恩寺 · 開元寺 →
006 建築 独楽寺 独楽寺はかつて薊州に属し、旧志は寺が州治の西南にあると記す。寺中の観音閣の遼代における重修は、主に劉成碑の転引によって伝わる。統和二年、談真大師が入寺して重修し、閣は上下二層、東西五間、南北八架であった。『京畿金石考』は今なおこの碑を著録し、清代の方志はさらに乾隆十八年に帑を賜って重修したことを記す。近代の図録は山門・観音閣・金剛力士・観音像の旧影を残している。 遼 天津市薊州区(旧・河北省薊県) 独楽寺 · 薊州独楽寺 · 薊県独楽寺 →
007 建築 華厳寺 華厳寺の年代は一つの記録から始まるのではない。薄伽教蔵殿の梁には1038年の造営題記が残るが、『遼史』は建寺を1062年に記す。以後、兵火による焼失、金代の再建、元代の復興、近代の写真調査、そして21世紀の拡張が、幾重にも文字と映像を積み重ねてきた。今日の寺院は遼金の旧構と新たに広げられた院落とに同時に向き合い、千年近い興廃を結びつけている。 遼朝 山西省大同市 華厳寺 · 大同 · 遼代建築 →