はじめに
今日の広勝寺は霍山の上下に分かれている。上寺には飛虹塔があり、下寺は霍泉に近い。しかし現存する文献で最も早く現れるのは二つの寺院ではなく、山上の一か所の古塔の基壇である。麟徳元年(664)、道宣は霍山を遊歴し、遠近の僧俗が育王塔と称する「大堆塔」を見た。大暦四年(769)の寺牒もなおここを「古育王塔院」と称している。李光瓚は旧塔の地に寺を建てることを請い、朝廷はその請いを許し、「広勝」の名を賜った。
元代以後の碑刻は、視線を山頂から霍泉のほとりへと運ぶ。至元二十年(1283)、広勝寺の僧・道開は霍泉のほとりに明応王廟を再建し、僧徒はまた廟の傍らに屋を構えた。成化十二年(1476)には、「霍山山南脚下」にすでに広勝寺の前仏殿があった。これらの碑はまだ「下寺」の名を用いていないが、霍泉のほとりの僧舎と山南脚下の仏殿を次々と記録している。
山頂の現存する飛虹塔は、明代に再建されたものである。「建塔僧達連生平碣」によれば、達連は正徳十一年(1516)から建塔を主し、嘉靖六年(1527)に落成した。塔身は煉瓦で砌られているが、角柱・斗栱・檐瓦・仏像はいずれも琉璃で塑られている。多くの琉璃部材にはなお「正徳十年」の年号が残り、碣文の記す着工の時期より一年早い。
塔の落成から七年後、石州一帯で飢饉による民変が起きた。王世隆は兵千人を率いて増援に赴き、途中で塔の下に飯を用いた。事が平らぐと、彼はこの経緯と一首の詩を塔壁に刻し、眼前の塔を「碧甃金塔」と称した。天啓二年(1622)、塔の最下層に木廊が増築された。康熙十二年(1673)に至り、碑文は山上と山下を明確に「上寺、下寺」と称し、両者は「本一寺而分之为两」(もと一寺で、これを分かちて二つと為す)であると述べた。1934年、梁思成・林徽因は琉璃と木廊にある二組の年款に基づき、塔身と木廊の年代の異なることを見分けた。
歴史文献
『集神州三宝感通録』
十一晋州北霍山南原大堆塔者,远近道俗咸称是育王塔。余曾游焉。地居爽垲,南望迥敞。示是古基。村落稀远。
十一。晋州の北、霍山の南原に大堆塔というものがあり、遠近の道俗はみなこれを育王塔と称す。余はかつてここに遊んだ。地は爽垲(高く乾いた地)に居り、南に望めば迥(はる)かに敞(ひら)けている。これは古基を示すものである。村落は稀にして遠い。
「趙城県広勝寺牒」
晋州赵城县城东南三十里,霍山南脚上,古育王塔院一所。右河东□观察使司徒□兼中书令汾阳郡王郭子仪奏;臣据□朔方左厢兵马使,开府仪同三司,试太常卿,五原郡王李光瓒状称;前件塔接山带水,古迹见存,堪置伽蓝,自愿成立。伏乞奏置一寺,为国崇益福田,仍请以阿育王为额者。臣准状牒州勘责,得耆寿百姓陈仙童等状,与光瓒所请,置寺为广胜。因伏乞天恩,遂其诚愿。如蒙特命,赐以为额,仍请于当州诸寺选僧住持洒扫。中书门下牒河东观察使牒,奉敕故牒。大历四年五月二十七日牒。住寺阇梨僧□切见当寺石碣岁久,隳坏年深,今欲整新,重标斯记。治平元年十一月二十九日。
晋州趙城県城の東南三十里、霍山の南脚の上に、古育王塔院一所あり。右、河東□観察使・司徒□兼中書令・汾陽郡王郭子儀が奏す。臣は□朔方左廂兵馬使・開府儀同三司・試太常卿・五原郡王李光瓚の状に拠りて称す。前件の塔は山に接し水を帯び、古跡は見存(現に存)し、伽藍を置くに堪え、自ら願い成立せんとす。伏して乞う、奏して一寺を置き、国のために福田を崇め益し、なお請うて阿育王をもって額とせよ、と。臣は状に准じて州に牒して勘責させ、耆寿の百姓陳仙童らの状を得、光瓚の請うところと同じく、寺を置いて広勝と為す。よって伏して天恩を乞い、その誠願を遂げしめんとす。もし特命を蒙らば、賜りてもって額と為し、なお請うて当州の諸寺より僧を選びて住持・洒掃せしめよ、と。中書門下、河東観察使に牒す。牒、敕を奉ず、ゆえに牒す。大暦四年五月二十七日、牒す。住寺の闍梨僧□は、切に当寺の石碣の歳久しく、隳壊すること年深きを見る。今、整え新たにして、重ねてこの記を標さんと欲す。治平元年十一月二十九日。
李曼「題広勝寺」
寺隐藏山腹,山高绝杳冥。浓岚春发黛,岑塔晓开屏。岭上云无着,松根茯有灵。访求忠武迹,不复见丹青。
寺は山腹に隠れ蔵れ、山は高くして杳冥(ようめい)に絶す。濃き嵐は春に黛(あお)を発し、岑(たか)き塔は暁に屏(かき)を開く。嶺上の雲は着(つ)くところなく、松根の茯(ふくりょう=茯苓)は霊あり。忠武(郭子儀)の跡を訪ね求むれど、復た丹青(画かれた遺影)を見ず。
麻秉彝「題広勝寺」
盘云梯石上崇冈,殿阁峥嵘古道场。寺纪汾阳亲奏额,塔传阿育久腾光。檐前山耸千螺秀,槛外溪分二带长。种种尘缘都洗尽,祗因身在白云乡。
雲を盤(めぐ)る梯石(石段)を上りて崇岡(高き岡)に至れば、殿閣は峥嵘(そびえ)たる古道場なり。寺は汾陽(郭子儀)の親しく額を奏せしを紀(しる)し、塔は阿育(阿育王塔)の久しく光を騰げしを伝う。檐前に山は聳えて千螺(ちぢれた峰々)秀で、檻外に溪は分かれて二帯長し。種種の塵縁ことごとく洗い尽くすは、ただ身の白雲の郷に在るに因る。
「張商英霍山詩」
张商英霍山诗。
張商英の霍山詩。
霍山诗一首:
霍山の詩一首:
本路提点刑狱公事张商英。
本路提点刑獄公事・張商英。
鹫翅垂三晋,鳌趺距一方。丹书亡智伯,白发诣秦王。展定成姑射,回峦揖太行。水极千顷富,源酾四渠长。鸟不栖灵木,云常入帝乡。柏根蟠老石,瓜蔓散平冈。叱咤生雷雹,鞭笞役𬯻狼。𬅬知雄气象,卫霍出平阳。
鷲翅(しゅし)は三晋に垂れ、鰲趺(ごうふ)は一方に距(ささ)える。丹書は智伯を亡ぼし、白髪は秦王に詣(まう)でたり。展げ定めて姑射を成し、回る巒は太行に揖す。水は極まりて千頃の富、源は酾(わ)かれて四渠の長。鳥は霊木に棲まず、雲は常に帝郷に入る。柏根は老石に蟠(わだかま)り、瓜蔓は平岡に散ず。叱咤すれば雷雹を生じ、鞭笞すれば𬯻狼(まうろう)を役す。𬅬(あ)に知らん、雄なる気象、衛・霍は平陽より出でたるを。
卫青,霍子孟,此土人也。
衛青・霍子孟(霍去病)は、この土の人なり。
元祐戊辰正月十七日,被旨决狱,道过是刹,乃作此句。天觉。
元祐戊辰(元祐三年)正月十七日、旨を被りて獄を決し、道この刹を過ぎ、すなわちこの句を作る。天覚(張商英の字)。
崇宁二年癸未九月二十日,前山主僧清智。
崇寧二年癸未九月二十日、前山主の僧清智。
大定巳酉岁重九月,寺主僧源仲,知客僧道悟立石。
大定己酉の歳、重九(九月九日)の月、寺主の僧源仲、知客の僧道悟、石を立つ。
桉:碑前刻本路提点刑狱公事张商英五言排律一首,有云:丹书亡智伯,白发诣秦王者。史记:智伯率韩、魏攻赵,赵襄子惧,保晋阳。原过从后至,有三神与过竹二节,令遗毋恤。襄子斋三日,剖竹,有朱书曰:予霍太山山阳侯,天使也。予将使汝反灭智氏。卒如其言,遂祠三神,使过主之。太平寰宇记:晋州霍邑县,隋末丧乱,武牙郎将宋老生屯兵于此。义师之至也,老生陈兵据险,师不得进。忽有白衣老父诣军门曰:霍山神遣语大唐皇帝,若向霍邑,当东南傍山取路,我当助帝破之。帝遣人视之,果有微道。高祖笑曰:此神不欺赵襄子,岂当欺我耶?即其事。
〔胡聘之の〕案ずるに、碑の前に本路提点刑獄公事張商英の五言排律一首を刻む。云うあり、「丹書は智伯を亡ぼし、白髪は秦王に詣でたり」と。『史記』に、智伯は韓・魏を率いて趙を攻め、趙襄子は懼れて晋陽を保した。原過が後より従い至ると、三神あり、過に竹二節を与え、毋恤に遺(おく)らしめた。襄子は三日斎して竹を剖くと、朱書ありて曰く、「予は霍太山山陽侯、天使なり。予は汝をして反(かえ)りて智氏を滅ぼさしめん」と。卒にその言のごとくなり、ついに三神を祠り、過にこれを主らしめた、と。『太平寰宇記』に、晋州霍邑県は、隋末の喪乱に、武牙郎将の宋老生がここに兵を屯した。義師(唐の起兵)の至るや、老生は兵を陳べて険に拠り、師は進むことを得なかった。忽ち白衣の老父あり、軍門に詣りて曰く、「霍山神が遣わして大唐皇帝に語らしむ。もし霍邑に向かわば、当に東南より山に傍(よ)りて路を取るべし。我当に帝を助けこれを破らん」と。帝は人を遣わしてこれを視しめたるに、果たして微道(細き道)あり。高祖は笑って曰く、「この神、趙襄子を欺かざりしに、あに当に我を欺かんや」と。すなわちその事である。
其云展定成姑射者,太平寰宇记:晋州赵城县姑射山,在县西二十里。其曰水涵千顷富,源酾四渠长者,寰宇记:洪洞县霍山,在县东北三十里,霍水出焉。水经注云:发源成潭,涨七十步,不测其深。金天眷年,都总管定赵城、洪洞两县水利碑:平阳府东北九十余里有山曰霍山,山阳有泉曰霍泉,涌地以出,居民因而导之,分为两渠。一名南霍,一名北霍。山西通志:霍泉北渠,溉永乐等四十六村田五百九十二顷有奇。南渠分五道:一即南霍,一曰九成,与南霍实一道,以上下流分二名:一曰小霍,溉田一百六十余顷;一曰大霍,一曰清水,溉田一百三十五顷有奇。宋庆历五年,有司推勘户籍水数若干。商英诗。四渠者,当指宋庆历以后霍渠言。通志谓霍泉引渠始贞观。据天眷碑,则宋已立碑,可补新唐书地理志之阙。
その「展げ定めて姑射を成す」と云うは、『太平寰宇記』に、晋州趙城県の姑射山は県の西二十里に在り、と。その「水は涵(ひた)して千頃の富、源は酾かれて四渠の長」と曰うは、『寰宇記』に、洪洞県の霍山は県の東北三十里に在り、霍水ここに出づ、と。『水経注』に云く、源を発して潭を成し、涨りて七十歩、その深さを測るべからず、と。金の天眷年間、都総管が趙城・洪洞両県の水利を定めたる碑に、平陽府の東北九十余里に山ありて霍山と曰い、山陽に泉ありて霍泉と曰い、地に涌きて以て出づ。居民は因りてこれを導き、分かちて両渠と為す。一は南霍と名づけ、一は北霍と名づく、と。『山西通志』に、霍泉の北渠は、永楽ら四十六村の田五百九十二頃余を溉う。南渠は五道に分かる。一はすなわち南霍、一は九成と曰い、南霍と実に一道で、上下流をもって二名に分かつ。一は小霍と曰い、田一百六十余頃を溉う。一は大霍と曰い、一は清水と曰い、田一百三十五頃余を溉う。宋の慶暦五年、有司が戸籍と水数若干とを推勘した、と。商英の詩の「四渠」は、当に宋の慶暦以後の霍渠を指して言うのであろう。通志は霍泉の渠を引くは貞観に始まると謂う。天眷の碑に拠れば、すなわち宋においてすでに碑が立てられており、『新唐書』地理志の闕を補うべきである。
其曰卫、霍出平阳者,史记汉书传:卫青、霍去病皆平阳人。寰宇记:晋州人物有卫青、霍去病。末题元祐戊辰正月十七日,被旨决狱,道过是刹,乃作此句。天觉。桉:长编:商英以元祐二年自开封推官提点河东刑狱,戊辰者莅河东之次年。广胜寺在霍山,道过是刹者,当指谓广胜寺。天觉好佛故也。
その「衛・霍は平陽より出づ」と曰うは、『史記』『漢書』の伝に、衛青・霍去病はともに平陽人なり、と。『寰宇記』に、晋州の人物に衛青・霍去病あり、と。末に題して「元祐戊辰正月十七日、旨を被りて獄を決し、道この刹を過ぎ、すなわちこの句を作る。天覚」と。案ずるに、『長編』(『続資治通鑑長編』)に、商英は元祐二年をもって開封推官より河東の刑獄を提点した。戊辰とは河東に莅む次年である。広勝寺は霍山に在り、「道この刹を過ぎ」るは、当に広勝寺を指して謂うのであろう。天覚は仏を好みし故である。
碑立金大定已酉,实大定二十九年。
碑は金の大定己酉に立つ、実に大定二十九年なり。
「重修明応王廟之碑」
重修明应王庙碑。
重修明応王廟碑。
赵城县教谕刘茂实撰。
趙城県教諭の劉茂実撰す。
霍溪逸人赵希祖书。
霍溪逸人の趙希祖書す。
从仕郎山东东西道提刑按察司知事张思诚篆额。
従仕郎・山東東西道提刑按察司知事の張思誠篆額す。
海神播气,式敷利物之功;源府开缄,爰衍泽民之庆。注灵源于千古,苏旱岁于一方。滔滔余波,流而尽溉;汪汪弘润,用无废流者,霍泉之水也。其泉出于霍太山西南之麓,惊涛汹涌,莫测其涯。源之初分,名曰北渠、南渠。下面拾遗,又曰清水、小霍。赵城、洪洞二境之间,四渠均布,西薄汾隩,方且百里,乔木村墟,田连阡陌,林野秀,禾稻丰,皆此泉之利也。其神祠峙乎泉上,有自来矣。□章之古木阴森,半顷之寒潭浩荡。山峰佛刹,参差乎其左;朝云暮雨,晦暝乎其间,实神明之奥区也。按《寰宇记》,则自唐宋以来,目其神曰大郎,然明应王号,传之亦久。其褒封遗迹,遭时劫火,寂无可考。庙初瞰于水边,前金时已经颓毁。泰和间补修者,意其湫隘,顿正殿于后,其余门廊如故。每岁季春中旬八日,谓神降日,箫鼓香楮,骈阗来享者甚众。
海神は気を播き、式(そこな)いに物を利するの功を敷き、源府は緘を開き、ここに民を沢するの慶を衍(ひろ)ぐ。霊源を千古に注ぎ、旱歳を一方に蘇(よみがえ)らす。滔滔たる余波は流れて尽く溉い、汪汪たる弘潤は用いるに廃流なき者は、霍泉の水である。その泉は霍太山の西南の麓より出づ。驚濤は汹涌として、その涯を測ること莫し。源の初めて分かるるや、名づけて北渠・南渠と曰う。下は拾遺〔山〕に面し、また清水・小霍と曰う。趙城・洪洞二境の間、四渠は均しく布き、西は汾隩(汾水の隈)に薄(せま)り、方(ほう)なること且(ちか)く百里、喬木の村墟、田は阡陌に連なり、林野は秀で、禾稻は豊かなり。みなこの泉の利である。その神祠は泉の上に峙ち、自(よ)り来たること久し。□章の古木は陰森、半頃の寒潭は浩蕩。山峰の仏刹はその左に参差とし、朝雲暮雨はその間に晦暝(くらが)る。実に神明の奥区である。『寰宇記』を按ずるに、すなわち唐宋以来、その神を目して大郎と曰う。然れども明応王の号も、伝うることまた久し。その褒封の遺跡は、時の劫火に遭い、寂として考うべきなし。廟は初め水辺に瞰(みおろ)していたが、前金の時にすでに頹毀した。泰和の間に補修した者は、その湫隘(狭く低き)を意(おもんぱか)り、正殿を後ろに頓(す)え、その余の門廊は故(もと)のごとし。毎歳、季春中旬の八日を神降の日と謂い、簫鼓・香楮をもって、駢阗(ひしめ)き来享する者甚だ衆し。
金季兵戈相寻,是庙煨烬,居民遑遑,孑遗者生有不给,奚暇水神之祀哉!涂□圣像,倾颓瓦砾之门;玉砌瑶阶,埋没荆榛之下。自时厥后,广胜寺戒师、前平阳僧录道开,悯兹荒废,有修复之志,乃叹曰:“是庙济人之源,祀典所载,虽责在有司,亦我寺之福田也,忍使久而堙废乎?”乃鸠材命工,筑以新基,弃其旧址。有北霍渠长陈忠等附益之,创为正殿,十有八楹,又□僧徒构屋其旁,以备洒扫,时大元甲午岁也。以故基犹为卑隘,再适于此矣。地之广袤,绰有余裕,庙之宏敞,焕然一新。方将图工于后宫,惜乎志未遂而僧录卒。其后,典庙僧惟贞、惟能、德聚等,相承以继其业。渠长赵城前尉郭祖义、李概,交代以赞其功。瓦殿、砌基、立像及采□、丹艧、胶漆之作毕举者,凡有数载。
金の季(末)、兵戈相い尋(つ)ぎ、この廟は煨燼(灰)と化し、居民は遑遑(あわただ)しく、孑遺(生き残り)の者は生に給せず、いずくんぞ暇あらん水神の祀りをや。塗□の聖像は瓦礫の門に傾頹し、玉砌・瑤階は荊榛の下に埋没した。この時厥の後、広勝寺の戒師・前平陽僧録の道開は、この荒廃を憫み、修復の志ありて、すなわち嘆じて曰く、「この廟は人を済うの源にして、祀典に載するところなり。責は有司に在りといえども、また我が寺の福田なり。忍びんや久しくして堙廃せしむるを」と。すなわち材を鳩め工に命じ、新基をもって筑き、その旧址を棄てた。北霍渠長の陳忠らありてこれに附益し、創めて正殿を為すこと十有八楹、また□僧徒にその旁(かたわら)に屋を構えさせ、もって洒掃に備えた。時に大元の甲午の歳なり。故基をもってなお卑隘と為し、再びこの地に適(うつ)れた。地の広袤は綽々として余裕あり、廟の宏敞は焕然として一新した。まさに後宮に工を図らんとしたが、惜しいかな志はいまだ遂げずして僧録は卒した。その後、典廟の僧惟貞・惟能・徳聚らが、相い承けてもってその業を継いだ。渠長の趙城前尉郭祖義・李概は、交代をもってその功を賛(たす)けた。殿を瓦き、基を砌り、像を立て、および采□・丹艧(赤い塗装)・膠漆の作を畢(ことごと)く挙げし者は、およそ数載を有した。
中统建元也,本路总管府指挥下两县使修后宫、三门,有司虽奉行,而终无成绩。至元戊寅夏旱,吏民祷诸神祠者多矣,卒无一应。适从仕郎赵城县宰张公佑赴任之始也,公来祈雨,于是见其庙孑然独峙,□不曰修,而有许心。拜祝间不逾踵而□,一境沾足。公喜其感应,锐意修之。始自两廊,陶甓运木,命张用、李成、李明等各执其事,公屡躬敦匠督役,惟恐不工。十手所指,百堵皆兴,方砥是度,其绳则直,整整乎风动云合,不日成之。凡三间为一司,左右分司者八。继而将兴三门,南渠之役也。南渠所溉民田隶属两县,公移牒洪洞,以给其役,令有不遵者行之,民有不齐者一之,使渠长胡源、师甫等伐材辇木,楼梓挥斤。越明年,六月不雨,本府治中李汝明于此取水,□遂而作,因之指挥屡下,该庙之有未建者,普令四渠共建。名山胜地,美誉斯闻,高士官僚,来游者众。河东山西道提刑监司也儿撒合大使姜公,嘉其伟绩,赐以奖成,公意益壮。此功之兴,然委其人,每听政之隙,虽祁寒暑雨亦来,视之若为己任。役夫感其勤而效力,匠氏服其诚而尽能。
中統の建元の時、本路総管府の指揮が両県に下りて後宮・三門を修めしめたが、有司は奉行すといえども、終に成績なし。至元戊寅(至元十五年)の夏の旱に、吏民の諸神祠に祷る者多しといえども、卒に一応なし。ちょうど従仕郎・趙城県宰の張公佑の赴任の始めなり。公は来たりて雨を祈り、ここにおいてその廟の孑然として独り峙つを見、□修むと曰はざれども、許(ゆる)す心有り。拝祝する間、踵を逾(うご)かざるに□、一境は沾足(うるお)いたり。公はその感応を喜び、鋭意これを修めた。両廊より始め、甓を陶(や)き木を運び、張用・李成・李明らに命じて各々その事を執らせ、公は屡々躬(みずか)ら匠を敦(あつ)くし役を督し、ただ工ならざるを恐れた。十指の指すところ、百堵みな興り、砥を方(なら)べてこれを度(はか)り、その縄は則(すなわ)ち直し。整整乎として風動き雲合し、日ならずしてこれを成した。およそ三間を一司と為し、左右に分司すること八。継いでまさに三門を興さんとす、南渠の役なり。南渠の溉うところの民田は両県に隷属す。公は牒を洪洞に移し、もってその役に給し、令に遵(したが)はざる者あればこれを行い、民の斉(ととの)わざる者あればこれを一にした。渠長の胡源・師甫らをして材を伐り木を輦(ひ)かせ、楼梓(大工)斤(おの)を揮(ふる)わしめた。明年を越え、六月雨降らず、本府治中の李汝明がここにおいて水を取り、□遂にして作(な)り、これに因りて指揮は屡々下り、当該の廟に未だ建たざる有る者は、普く四渠に令して共に建てしめた。名山の勝地、美誉ここに聞こえ、高士・官僚の来游する者衆し。河東山西道提刑監司・也児撒合大使の姜公は、その偉績を嘉し、賜りてもって奨成し、公の意はいよいよ壮なり。この功の興るや、しかもその人に委(まか)せ、聴政の隙(ひま)ごとに、祁寒・暑雨といえどもまた来たり、これを視ること己が任のごとし。役夫はその勤に感じて力を効し、匠氏はその誠に服して能を尽くした。
三门之基,旧在泉北,公将廓然更新其制,乃曰:“吾观旧迹,阻渠偏浅,道不前通,岂庙庭之深邃乎?固当前开正路,南树应门,且有王宫壮丽之威,又得地形雄瞻之宜。”遂建于渠南。落成之日,识者无不叹服。门之间架同于殿,而材用过焉。其层檐累栱,华桷藻井,义负致密,规模远矣。□于后宫中门,一一完具,皆公之志。奈何瓜期迅速,狠无能为,未几而改任。公诚懿识量,鲜能及者,其临事贞固,确乎不可拔,人知动作非为己也,皆乐而忘劳,至今思之。噫!立非常之功,待非常之人。观此庙自僧录重建以来,四十余年,岂无人耶?逮及张宰成之,谋同计合,舍旧图新,致雄巍之业,兼倍于前,不谓待非常之人乎?必也灵德感人,阴功被物,使之然乎?一日,命仆文于碑,仆非其才,固辞不已,勉为录其实而继之以□。铭曰:
三門の基は、旧く泉の北に在り。公はまさに廓然としてその制を更新せんとし、すなわち曰く、「吾、旧跡を観るに、渠に阻(はばま)れて偏く浅く、道は前に通ぜず。あに廟庭の深邃たらんや。固(もと)より当に前に正路を開き、南に応門を樹(た)つべし。しかも王宮の壮麗の威あり、また地形の雄瞻の宜しきを得ん」と。遂に渠の南に建てた。落成の日、識者は嘆服せざるなし。門の間架は殿に同じくして、材用はこれに過ぎたり。その層檐・累栱、華桷・藻井、義負(組み合わせ)は致密にして、規模は遠大なり。□後宮・中門に於いて、一一完具せしは、みな公の志なり。奈何(いかん)ぞ瓜期(任期の満ちる時)迅速にして、狠(はなは)だ能くする無く、未几(ほどな)くして改任した。公は誠に懿(うるわ)しき識量にして、鮮(すくな)し能く及ぶ者。その事に臨むや貞固にして、確乎として抜くべからず。人はその動作の己が為にあらざるを知り、みな楽しみて労を忘れ、今に至るまでこれを思う。噫(ああ)!非常の功を立つるは、非常の人を待つ。この廟を観るに、僧録の重建より以来四十余年、あに人なからんや。張宰のこれを成すに逮ぶに及び、謀は同じく計は合い、旧を捨て新を図り、雄巍の業を致し、前に兼ねて倍した。待ちて非常の人を得たと謂わざらんや。必ずや霊徳の人に感じ、陰功の物に被(およ)ぶ、これをしからしめたるか。一日、仆(わたくし=劉茂実)に命じて碑に文せしむ。仆はその才にあらざれども、固辞して已まず、勉めてその実を録し、これに□を以て継ぐ。銘に曰く、
霍山苍苍,霍泉洋洋,神明降瑞,珠玉流光。大田多稼,维泉之利,裂壤建庙,报功之祀。遭世纷扰,斯缘荡空,谁修复之,时惟二公。开创其迹,张继其功,作是神宫,拟于王室。应门将将,长廊翼翼,官既责成,民亦竭力。公之规为,神其见之,敬以名迹,镌于砺碑。千秋万古,以永昭垂。
霍山は蒼蒼、霍泉は洋洋。神明は瑞を降し、珠玉は光を流す。大田に稼多きは、ただ泉の利なり。壤を裂きて廟を建つるは、功に報ゆるの祀りなり。世の紛擾に遭い、この縁は蕩空(うつろ)とせり。たれかこれを修復した、時にただ二公なり。〔僧録道開が〕その跡を開創し、張〔公佑〕がその功を継ぐ。この神宮を作りて、王室に擬す。応門は将将(そびえ立ち)、長廊は翼翼(整い)。官すでに責めて成し、民もまた力を竭くす。公の規為、神これを見給いしや。敬みて名跡を以て、礪碑(石碑)に鐫る。千秋万古、もって永く昭垂せん。
至元二十年岁次癸未仲冬朔日。
至元二十年歳次癸未、仲冬の朔日。
典庙修造寺主德聚资助,妙存立石。
典廟修造寺主の徳聚が資助し、妙存が石を立つ。
尚座僧行寂、次座祖净、戒师温吉祥。
尚座僧の行寂、次座の祖浄、戒師の温吉祥。
众执事僧惟湛、惟宜、惟宣、惟颜、惟远、德万、德祥、德喜、德玉、德咏、惟海、□□、和吉、仲宽、郑温刊。
衆執事僧の惟湛・惟宜・惟宣・惟顔・惟遠・徳万・徳祥・徳喜・徳玉・徳詠・惟海・□□・和吉・仲寛・鄭温刊す。
奉议大夫、平阳路总管府治中姚炜。
奉議大夫・平陽路総管府治中の姚煒。
昭勇大将军、平阳路总管兼府尹兼诸军奥鲁耶律刚吃答。
昭勇大将軍・平陽路総管兼府尹兼諸軍奥魯の耶律剛吃答。
通议大夫、平阳府达鲁花赤兼管诸军奥鲁廉希义。
通議大夫・平陽府達魯花赤兼管諸軍奥魯の廉希義。
「重修明応王殿之碑」
明应王殿碑。
明応王殿碑。
重修明应王殿之碑。
重修明応王殿之碑。
承事郎、晋宁路赵城县尹兼管本县诸军奥鲁劝农事王剌哈剌撰,并书,
承事郎・晋寧路趙城県尹兼管本県諸軍奥魯勧農事の王剌哈剌撰し、并びに書す、
将仕郎晋宁路赵城县主簿崔友闻题额。
将仕郎・晋寧路趙城県主簿の崔友聞題額す。
赵城之为邑,其来尚矣。斯东有山巉嵓,积而能大,峻而能乔者,霍岳也。其下有波汹涌,挠之不浑,用之不竭者,霍泉也。山之兴宝,藏育品物。主中之镇,崇德应灵,王爵褒封,皇帝遣使,岁时致祭,壮国阜民,兴云泄雨。非南山有台有莱。兴乐贤之比,实能为邦家立太平之基矣。夫泉之始渠,曰南北二霍,而所由来者有渐也。其大如天如渊,泛涛不口乎昼夜,溉田何啻乎亿余。洛民岂不溥博者与?而觱沸流淇,浸彼苞稂,奚又同时而语耶?南北二渠,七之而三,土人相传,此例比定,尝经朝廷争理,数年而后已。见有丰碑在县,可考定其陡门、来口堤堰,设其渠长、沟头水巡,俾富豪强不敢恣其情,次上中下,乃得即其便。岁中值霖雨涨溢,防凌缺壤,验民之富贫,役力之多寡,即塞实之,颇有少缓而堕者,科罚无𮓡示也。而旧立条款,班班若日星,又谁敢增减一字哉?泉之北,古建大刹,精蓝揭名曰广胜,不虚誉耳。视其佳丽绝秀,非大雄能栖此乎?殿廊斋舍,仅可百楹,僧行称是世祖薛禅皇帝御容,佛之舍利,恩赐藏经在焉,乃为皇家祝寿之所。由右松杉㥛异,花竹参差;左山色重重,前水声沥沥,砌重而基峻,昼栋含烟,珠箔蔽日,璘珣𥵌瓦,璨烂龙文。金碧著乎榱题,镂雕鲜乎科栱。重檐翚而飞直如棘者,
趙城の邑たる、その来(きた)ること尚(ひさ)し。この東に山ありて巉嵓(険しく)、積もりて能く大なり、峻くして能く喬(たか)き者は、霍岳なり。その下に波ありて汹涌(とどろ)き、これを撓(かきみだ)すとも渾(にご)らず、これを用うとも竭(つ)きざる者は、霍泉なり。山は宝を興し、品物を蔵育す。中〔州〕を主るの鎮〔山〕として、徳を崇び霊に応じ、王爵に褒封せられ、皇帝は使いを遣わし、歳時に祭を致し、国を壮(さか)んにし民を阜(ふと)らしめ、雲を興し雨を泄(くだ)す。「南山に台あり莱あり」(詩経)、賢を楽しむを興すの比(たぐい)にあらずして、実に能く邦家のために太平の基を立つるなり。それ泉の渠を始むるや、南北二霍と曰う。その由来する有るは、漸(ようや)くにしてなり。その大なること天のごとく淵のごとく、泛涛は昼夜に□〔絶え〕ず、田を溉うこと何ぞ億余に啻(とどま)らんや。〔かの地の〕民、あに溥博ならざる者あらんや。しかるに觱沸(湧き上が)りて淇に流れ、かの苞稂(雑草)を浸すを、なんぞまた同時に語らんや。南北の二渠は、七をもって三とす。土人相伝えて、この例の比定せるは、かつて朝廷の争理を経て、数年にして後に已んだ。見るに豊碑が県にあり、その陡門(水門)・来口・堤堰を考定し、その渠長・溝頭・水巡を設け、富豪の強きをして敢えてその情を恣にせしめず、上中下に次(じゅん)して、乃ちその便に即くを得たりと。歳中、霖雨の涨溢に値い、防凌(護岸)の缺壤するや、民の富貧・役力の多寡を験(しら)べ、すなわちこれを塞実し、頗る少しく緩みて堕(おこた)る者有れば、科罰𮓡(ゆる)しを示すこと無きなり。しかして旧立の条款は、班班として日星のごとく、またたれか敢えて一字を増減せんや。泉の北に、古く大刹を建て、精藍は名を揭げて広勝と曰う。虚誉にあらざるなり。その佳麗絶秀を視るに、大雄(仏)にあらずして能くこれに栖まんや。殿廊・斎舎は、僅かに百楹ばかり。僧行はこれ世祖薛禅皇帝の御容、仏の舎利、恩賜の蔵経ここに在りと称し、すなわち皇家のために寿を祝する所と為す。右より松杉は㥛(ぐ)異にして、花竹は参差、左は山色重重、前は水声沥々。砌は重(かさ)なりて基は峻(たか)く、昼の棟は烟を含み、珠箔は日を蔽い、璘珣(玉の光)たる𥵌瓦は、璨爛たる龍文なり。金碧は榱題(すいたる)に著るく、鏤雕は科栱(斗栱)に鮮やかなり。重檐は翚(かげろうが飛)ぶがごとく、直(とが)り立つこと棘のごとく者は、
明应王殿也。度其境,真降神之乡;语其方,尽祈福之地。惟
明応王殿なり。その境を度(おもんぱか)るに、真に神の降るの郷、その方(ほう)を語るに、尽く福を祈るの地。ただ
王洛黎元之利大也,非宫不可居;报家国之功深也,非王不可爵。钟其山名水秀,必如是而后得庶几也。询之故老,每岁三月中旬八日,居民以令节为期,适当群卉含英,彝伦攸叙时也。远而城镇,近而村落,贵者以轮蹄,下者以杖屦,挈妻子,舆老羸而至者,可胜既哉!争以酒肴香纸,聊答神惠。而两渠资助乐艺,牲币献礼,相与娱乐数日,极其厌饫,而后顾瞻。忍忍犹忘归也,此则习以为常。佥曰:古今之胜游嘉赏,根其人心所同然,设以厉禁,莫能也。此与神之格思,不可度思,矧可𭣧思不侔矣。
王の黎元に洽(およ)ぶ利の大なれば、宮にあらざれば居るべからず。家国に報ゆるの功深ければ、王にあらざれば爵すべからず。その山の名(あ)らたか、水の秀(すぐ)れたるを鍾(あつ)むれば、必ずかくのごとくにして後に庶幾(こいねが)うを得るなり。故老に詢ぬるに、毎歳三月中旬の八日、居民は令節を以て期と為す。ちょうど群卉の英を含み、彝倫の攸(ところ)叙ぶの時に当たる。遠くは城鎮、近くは村落、貴き者は輪蹄(車馬)を以てし、下れる者は杖屨(杖と沓)を以てし、妻子を挈げ、老羸を輿(か)きて至る者、勝(あ)げて既(つ)くすべけんや。争うて酒肴・香紙を以てし、聊か神恵に答ゆ。しかして両渠は楽艺を資助し、牲幣・献禮を以てし、相与に数日娯楽し、その厭飫(あきた)るを極めて、後に顧瞻す。忍忍(あとを惜しみ)としてなお帰るを忘るるなり。これ則ち以て常と為す。僉(みな)曰く、古今の勝游・嘉賞は、その人心の同然とする所に根ざす。設(も)し厲禁を以てすとも、能(よ)くする莫(な)し、と。これ神の格(きた)るを思うに、度るべからず、矧(いは)んや𭣧(うと)んや思うに侔(ひと)しからざるなり。
缘其旧殿宇门廊,像绘尤备,不幸至大德七年八月初六日夜,地震,河东,本县尤重,靡有孑遗。书云:火炎昆岗,玉石俱焚,奚尝有二哉?上下渠堰陷坏,水不得通流。当年十一月,渠长廊下郭髦,告蒙本路总管府差委霍州倅李承务、县尹刘卼事董其役开淘,依旧浇灌。至大德九年秋,本路万僧都宣差祀香,省会渠长史圭并本县官,将殿即便重盖,县委主簿申公提调,圭与南霍杜玉、胡福、渠长鸠工,各量使水村分计置修造。富有者施财,贫薄者出力,创起正殿木装,始经营之也。
その旧の殿宇・門廊に縁るに、像・絵は尤(いやま)して備わりていたが、不幸にして大德七年八月初六日の夜に至り、地震あり、河東〔にありて〕、本県は尤も重く、孑遺ある靡(な)し。書に云く、「火は昆崗に炎(も)え、玉石俱に焚かる」と。なんぞかつて二つあらんや。上下の渠堰は陷壊し、水は通流することを得ず。当年十一月、渠長の廊下の郭髦が、告げて本路総管府の差委を蒙り、霍州倅の李承務・県尹の劉卼事にその役を董(かしら)せ、開淘して旧に依りて浇灌した。大德九年秋に至り、本路の万僧都(僧官)が宣差して香を祀るに、省会は渠長の史圭ならびに本県の官に会し、殿を将(まさ)にすなわち重蓋(再建)せんとし、県は主簿の申公に委ねて提調せしめ、圭と南霍の杜玉・胡福・渠長とが工を鳩め、各々水を使う村の分を量りて修造を計置した。富有の者は財を施し、貧薄の者は力を出し、創めて正殿の木装(木造)を起こし、これを始めて経営したのである。
时有寺僧聚提点,亦尝施工,继而刘思直塑像结𪜂,郭景信造门成趣。至延祐六年,渠长高仲信募工,殿内砌囗造沙壁完备。南霍渠长王显、许亨同心津助,及山之僧妙潜添力赞成其事,焕然为之一新,谤者杜其万口。仲信切思之曰:从草创讨论修饰润色者,非出一手,恐久而湮没,刊诸金石,以寿其传,庶有激劝于将来。
時に寺僧の聚提点あり、またかつて工を施し、継いで劉思直が像を塑り𪜂(にかわ)を結び、郭景信が門を造りて趣を成した。延祐六年に至り、渠長の高仲信が工を募り、殿内に□を砌り沙壁を造りて完備せり。南霍渠長の王顕・許亨は心を同じくして津助(助け)し、および山の僧妙潜が力を添えてその事を賛成し、焕然としてこれがために一新した。謗る者はその万口を杜(ふさ)がれたり。仲信は切にこれを思いて曰く、草創・討論・修飾・潤色に従(したが)った者は、一手より出ず。久しくして湮没せんことを恐れ、これを金石に刊し、もってその伝を寿(なが)からしめ、ほとんど将来に激勧(励まし勧む)あらんと。
府吏段士良屡注意于是,一日,率老而德者史圭、郭景文、郭翊、高仲实、石克明、翟天锡、天宁宫提点赵思玄等,踵门求记于予。予辞之曰:吾家本东鲁泰山农业,滥得尹是邑,已及半任,殊无异政,膏泽加民,于治体兼无小补,常有愧于同列。始习译字,不解作文,恳至于再,聊采所见,故书之,仍系之以铭曰:
府吏の段士良は屡々これに注意し、一日、老いて徳ある者史圭・郭景文・郭翊・高仲実・石克明・翟天錫、天寧宮提点の趙思玄らを率いて、門に踵(きびす)を接ぎて予に記を求めた。予はこれを辞して曰く、吾が家はもと東魯・泰山の農業(農家)なり。濫りにこの邑の尹を得、すでに半任に及べども、殊に異政なく、膏沢を民に加えることなく、治体に於いて兼ねて小補なし。常に同列に愧(は)ずる有り。始めて訳字(蒙古字)を習い、文を作るを解せず、と。懇(ねんご)ろなること再びに至り、聊か見る所を采(と)り、故にこれを書し、仍(よ)ってこれに銘を以て系(つ)ぐ。曰く、
惟中之镇,其山曰霍。德泽所生,养物溥博。岳麓涌泉,浩浩其渊。兴我国利,溉我民田。为浆愈疾,蕴秀含灵。岁时致祭,黍稷非馨。尽水之达,往古来今。地非爱宝,胜布兼金。相彼巨泉,非浊即清。远沾品类,大慰群生。兴于明时,摧于地震。
ただ中〔国〕の鎮(名山)、その山を霍と曰う。徳沢の生ずる所、物を養うこと溥博。岳麓は泉を涌かし、浩浩たるその淵。我国の利を興し、我民の田を溉う。漿(みず)と為りて疾を愈やし、秀を蘊(うみ)し霊を含む。歳時に祭を致すに、黍稷は馨(かぐは)しにあらず〔徳を馨しと為す〕。水の達するを尽くし、往古より来今に至る。地は宝を愛(け)しむにあらず、勝(すぐ)れて兼金(倍の金)を布く。かの巨泉を相(み)るに、濁にあらず即ち清なり。遠く品類に沾(およ)ぼし、大いに群生を慰む。明時に興り、地震に摧(やぶ)られたり。
殿宇以空,不余煨烬。前人草创,后继润色,一手难成,众皆竭力。大殿重檐,金翠光辉。美乎黻冕,绣裳袗衣。谚语大郎,王封明应。亿万斯年,永居广胜。
殿宇は以(もっ)て空しく、煨燼を余さず。前人は草創し、後は継いで潤色す。一手は成り難く、衆みな力を竭くす。大殿の重檐、金翠光輝す。美しきかな黻冕(礼服)、繍裳・袗衣(重ね衣)。諺語は大郎と曰い、王封は明応と。億万の斯(こ)の年、永く広勝に居らん。
延祐六年八月初六日,
延祐六年八月初六日、
北霍渠长高仲信、渠司翟天锡、水巡孔兴、南霍渠长许亨、王泽、渠司王温立石。
北霍渠長の高仲信、渠司の翟天錫、水巡の孔興、南霍渠長の許亨・王沢、渠司の王温、石を立つ。
广胜寺尊宿胜提点住持春讲主宝严寺尚座行开
広勝寺尊宿・勝提点・住持の春講主、宝厳寺尚座の行開
登仕郎晋宁路洪洞县主簿刘思孝、
登仕郎・晋寧路洪洞県主簿の劉思孝、
晋宁路洪洞县尉贾邦杰、典史郭景行、
晋寧路洪洞県尉の賈邦傑、典史の郭景行、
晋宁路赵城县尉许谅、典史田广、司吏赵宇、王通、冯居孝,
晋寧路趙城県尉の許諒、典史の田広、司吏の趙宇・王通・馮居孝、
将仕郎、晋宁路赵城县主簿崔友闻,
将仕郎・晋寧路趙城県主簿の崔友聞、
承事郎、晋宁路赵城县尹,兼管本县诸军奥鲁劝农事。王剌哈剌,
承事郎・晋寧路趙城県尹、兼管本県諸軍奥魯勧農事。王剌哈剌、
从仕郎、前晋宁路赵城县达鲁花赤,兼管本县诸军奥鲁劝农事。麦力吉沙
従仕郎・前晋寧路趙城県達魯花赤、兼管本県諸軍奥魯勧農事。麦力吉沙
本县孔村下郭信男郭玫瑛刊
本県孔村・下郭の信男、郭玫瑛刊す
桉。碑题:承事郎赵城县尹王剌哈喇撰,并书,将仕郎赵城县主簿崔友闻题额。碑为重修霍泉神明应王殿而立。赵城志:水神庙一曰明应王庙,一在县东南四十里霍山之麓。庙前即霍水所出,以碑内有前水声𤃉𤃉文证之,即此庙。其曰泉之北古建大刹,名曰广胜者,霍州志:赵城县广胜寺,寺二,一在霍山上,一在下。唐大历间建。下有霍泉,上有飞虹塔,为阿育王藏舍利处,相传为中原第二塔。与碑言佛之舍利在焉合。其云世祖薛禅皇帝。者。元史世祖纪:至元三十一年五月戊午,上尊谥曰圣德神功文武皇帝,庙号世祖,国语尊称曰薛禅皇帝。其曰:大德七年八月初六曰夜,地震,河东本县尤重。元史五行志:大德七年八月辛卯夕,地震,平阳、太原尤甚。平阳赵城县范宣义郇保徙十余里,即本县尤重之证。碑言:地震,渠堰陷坏,当年十一月,本路总管委霍州倅李承务、县尹刘承事开淘,依旧浇灌。大德九年秋,渠长县官将殿重盖,县委主簿申公提调。延祐六年殿成,应府吏段士良等之请为记。碑末题延祐六年八月初六日立石。有登仕郎、洪洞县主簿刘思孝、洪洞县尉贾邦杰、典史郭景行、赵城县尉许谅、典史田广、主簿崔友闻、县尹王剌哈剌、从仕郎、前赵城县达鲁花赤麦力吉沙。以碑文家本、东鲁、泰山考之,王盖泰安人。
〔胡聘之の〕案ずるに、碑に題して「承事郎趙城県尹王剌哈喇撰し、并びに書す。将仕郎趙城県主簿崔友聞題額す」と。碑は霍泉の神・明応王殿を重修するために立てられたもの。『趙城志』に、水神廟は一に明応王廟と曰い、一つは県の東南四十里、霍山の麓に在り。廟前はすなわち霍水の出づる所。碑内に「前は水声𤃉𤃉(せいせい)」の文あるを以てこれを証すれば、すなわちこの廟である。その「泉の北に古く大刹を建て、名づけて広勝と曰う」は、『霍州志』に、趙城県の広勝寺は寺二つ、一つは霍山の上に在り、一つは下に在る。唐の大暦間に建つ。下に霍泉あり、上に飛虹塔あり、阿育王の舎利を蔵する処と為し、相伝えて中原第二の塔とす、と。碑の「仏の舎利ここに在り」と言うに合す。その「世祖薛禅皇帝」と云うは、『元史』世祖紀に、至元三十一年五月戊午、尊諡を上りて「聖徳神功文武皇帝」と曰い、廟号を世祖とし、国語(蒙古語)の尊称を「薛禅皇帝(セチェン・ハーン)」と曰う、と。その曰く「大德七年八月初六日の夜、地震、河東、本県尤も重し」と。『元史』五行志に、大德七年八月辛卯の夕、地震、平陽・太原尤も甚だし。平陽趙城県の范宣義・郇保は十余里を徙(うつ)れた、と。すなわち本県の尤も重きの証。碑に言う、「地震に渠堰は陷壊し、当年十一月、本路総管が霍州倅の李承務・県尹の劉承事に委ねて開淘せしめ、旧に依りて浇灌す。大德九年秋、渠長・県官が殿を将に重蓋す。県は主簿の申公に委ねて提調せしむ。延祐六年に殿成る。府吏の段士良らの請に応じて記を為す」と。碑の末に「延祐六年八月初六日立石」と題す。登仕郎・洪洞県主簿の劉思孝、洪洞県尉の賈邦傑、典史の郭景行、趙城県尉の許諒、典史の田広、主簿の崔友聞、県尹の王剌哈剌、従仕郎・前趙城県達魯花赤の麦力吉沙あり。碑文に「家はもと東魯・泰山」とあるを以てこれを考うるに、王はけだし泰安の人であろう。
「重修前仏殿落成記」
盖闻佛生西域,乘祥光呈露于周朝;教启东方,振大道流行于汉室。玄妙奥理之难窥,法轮幽深之莫测。被人愚者可进于明,恶者复于善,不待言动而人自信服焉,释教有补于世有如是乎!逮至我朝龙飞淮甸,肇造区夏,益隆佛教。切近京畿之内,建殿立塔者不下千百;远播八方之间,修祠设庙者岂计万亿。其所以尊崇者无他,盖以上祈皇图之巩固,下佑生民之锡福焉。
けだし聞く、仏は西域に生まれ、祥光に乗じて周朝に呈露し、教は東方に啓け、大道を振い漢室に流行した。玄妙奥理の窺い難く、法輪幽深の測る莫きこと。人の愚なる者をして明に進ましめ、悪なる者をして善に復らしめ、言動を待たずして人自ずから信服するは、釈教の世に補する有ることかくのごとし。我が朝(明)の淮甸に龍飛し、肇めて区夏(天下)を造るに逮ぶや、いよいよ仏教を隆らしめた。切近なる京畿の内には、殿を建て塔を立つる者千百を下らず。遠く八方の間に播れて、祠を修め廟を設くる者、あに万亿を計らんや。その尊崇する所以は他なし、けだし上は皇図の鞏固を祈り、下は生民の福を錫(たま)うを佑(たす)けんがためである。
爰自赵城简郡东南四十里许,霍山山南脚下,古有广胜寺一座,起自大唐之际,其佛之验,常现五色祥光,晴岚秀气。正有雨华堂为之镇,两有东西廊为之辅,南有前三门为之观,知中少前佛殿,则庙貌之不全矣!本寺僧官贾觉怀,门徒了彬,发心岁久,启愿时深,渴欲重建鸠工,奈梁栱栋楹之繁多,费用钱帛之浩大,不免仰干本郡官僚、耆老、众庶、临境向善贤人玉成胜事,则见修崇梵刹者,获见世之福田;严饰经轮者,得将来之果报。兹有本县道觉里致仕官田忠、耆老王杰等二十余众,同发虔心,各施资财,既塑佛像,又塑诸天,用意于事,不惮朝夕,翕然齐整,焕然一新。故殿宇有外观之美,神像现金容之瞻。大工既构,神妥灵安。
ここに趙城簡郡の東南四十里ばかり、霍山山南の脚下に、古く広勝寺一座あり。大唐の際より起こり、その仏の験(しるし)は、常に五色の祥光・晴嵐の秀気を現ず。正(まんなか)に雨華堂ありてこれが鎮(しずめ)と為り、両(わき)に東西廊ありてこれが輔(たすけ)と為り、南に前三門ありてこれが観(みはり)と為る。中に前仏殿を少(か)くを知れば、則ち廟貌の全からざるなり。本寺僧官の賈覚懐、門徒の了彬、発心すること歳久しく、啓願すること時深し。渇して重建・鳩工を欲するも、奈何せん梁栱・棟楹の繁多、費用銭帛の浩大。免れず本郡の官僚・耆老・衆庶・臨境の向善の賢人に仰ぎ干(もと)めて、勝事を玉成せしめんことを。すなわち梵刹を修崇する者は見世(現世)の福田を獲、経輪を厳飾する者は将来の果報を得ん。ここに本県道覚里の致仕官田忠、耆老の王傑ら二十余衆あり、同じく虔心を発し、各々資財を施し、すでに仏像を塑り、また諸天を塑り、事に用意して朝夕を憚らず、翕然として斉整、焕然として一新した。故に殿宇には外観の美あり、神像には金容の瞻(あお)ぎを現ず。大工すでに構(つく)られ、神は妥(やす)んじ霊は安んず。
然不著以芳名,则用力向善之心无传于悠久,若题于壁间,则风吹雨湿之常,必遭于剥落,借曰莫若镌之于石,则此殿知何时之建,人心慎向善之心。故请予为文,以纪其事。予圣门弟子也,此释教胜事也,辞之弗克,言之非经,故述此中之事以律之,岂敢以文云。然褒不溢美,贬不溢恶,但处时耳。谨识。
しかし芳名を以て著(あら)わさざれば、則ち力を用いて善に向かうの心は悠久に伝わらず。若し壁間に題せば、則ち風吹き雨湿るの常、必ず剥落に遭わん。借(し)いて曰く、石に鐫るに若(し)くはなし、と。則ちこの殿のいつの時にか建てられしを知り、人心は善に向かうの心を慎まん。故に予を請いて文を為さしめ、もってその事を紀せんとす。予は聖門(儒門)の弟子なり、これは釈教の勝事なり。これを辞するは克(あた)わず、これを言うは経に非(あら)ず。故にこの中の事を述べてもってこれを律(おさ)む。あに敢えて文を以て云わんや。しかれども褒めて美を溢(こ)さず、貶めて悪を溢さず、ただ時に処するのみ。謹んで識す。
赵城县
趙城県
承事郎知县李瓒。迪功郎县丞王琼。将仕郎主簿康胜。典史杨仲璋。儒学教谕陈清。训导黄宪。阴阳训术兰体。医学训科汤广。僧会司署印妙宣。道会司许希然。
承事郎・知県の李瓚。迪功郎・県丞の王瓊。将仕郎・主簿の康勝。典史の楊仲璋。儒学教諭の陳清。訓導の黄憲。陰陽訓術の蘭体。医学訓科の湯広。僧会司署印の妙宣。道会司の許希然。
施财助缘众社人桂林坊:田忠、王杰、校沉、李雄、孙大渊、贾恭、田贵、董宁、邢轨、吉全、贾义、李兴、李原、李玉、李奈、董方。
財を施し縁を助くる衆社人・桂林坊:田忠、王傑、校沉、李雄、孫大淵、賈恭、田貴、董寧、邢軌、吉全、賈義、李興、李原、李玉、李奈、董方。
洪洞县施财助缘众社人:刘得、贾政、贾兴、李琰、□珍、杨铎、逯蛮、王沉、尉况、辛胜、张贵、刘晟。
洪洞県・財を施し縁を助くる衆社人:劉得、賈政、賈興、李琰、□珍、楊鐸、逯蛮、王沉、尉況、辛勝、張貴、劉晟。
修造主了斌。
修造主の了斌。
时大明成化十二年岁次丙申中秋菊月吉旦日立。
時に大明成化十二年歳次丙申、中秋菊月(九月)の吉旦日に立つ。
河津县石匠王干刊。
河津県石匠の王干刊す。
「建塔僧達連生平碣」
建塔僧达连,襄陵柴村里人。少出家,有僧行。嘉靖六年建塔落成,工起于正德十一年也。享年六十二岁,生于成化五年八月十四日,卒于嘉靖十一年十月十一日。姓王氏。徒曰圆寿、圆万、圆富云。
建塔の僧達連は、襄陵・柴村里の人。少なくして出家し、僧行あり。嘉靖六年に建塔落成す。工は正徳十一年に起これり。享年六十二歳。成化五年八月十四日に生まれ、嘉靖十一年十月十一日に卒す。姓は王氏。徒に円寿・円万・円富と曰う、と云々。
「題霍山広勝寺塔」
题霍山广胜寺塔。
霍山広勝寺塔に題す。
时灵石报警,隆领胜兵千人自岳阳赴援,午饭塔下。贼平,赋此勒之塔。
時に霊石が警を報じ、隆は勝兵千人を領し、岳陽より赴援し、午、塔下に飯す。賊平らぎ、これを賦して塔に勒(きざ)む。
霍山山顶广胜寺,碧甃金塔高崔巍。泉分海眼地不渴,石起云雾天为衣。
霍山山頂の広勝寺、碧甃(みどりのいしだたみ)の金塔は高く崔巍(そび)えたり。泉は海眼を分かち地は渇せず、石は雲霧を起こし天は衣(ころも)と為る。
岳阳烽火近日熄,楚客登临愿未违。好镇山门无一物,何时玉带解腰围。
岳陽の烽火は近日熄(や)み、楚客(われ)は登臨して願い未だ違(そむ)かず。好く山門を鎮むるに一物無し、いずれの時か玉帯を解きて腰囲を〔寛げん〕。
嘉靖甲午岁四月十七日。
嘉靖甲午の歳四月十七日。
钦差兼理兵备分巡河东道山西等处提刑按察司佥事六酉洞王世隆。
欽差兼理兵備分巡河東道山西等処提刑按察司僉事、六酉洞の王世隆。
晋升父书。
晋升父書す。
「重修勅建広勝下寺碑記」
この碑が追述する「開元年間」の建寺説は、唐・大暦四年の「趙城県広勝寺牒」と合わない。以下はなお康熙十二年の碑文の原録に従って収める。
赵邑东南距城三四十里,古有广胜寺,创建于盛唐开元年间,越廿余年,叨汾阳王之请而赐额焉。上有阿育宝塔,下有霍泉胜水,南北奇柏数里,枝皆南向。盖地广而景胜也,广衍胜因,寓其中矣。本一寺而分之为两,有上寺、下寺之名。其上寺幽深闲静,人迹罕到,四方参禅习静之僧多往焉。下寺近明应王之水利本地,恶喧喜寂之僧咸避焉。故上寺绀殿宏敞,视昔不啻加倍,而下寺则落落然,仍是旧时规模也。且以年深日久,渐次摧残至今,而倾圮特甚。寺僧广思等,谨募十方大力贤善长者各输资财,起工修理。斯役也,经始于康熙之壬子,告成于康熙之癸丑。爰勒诸石,以志时日。倘异日增修而扩大之,仍以俟之有志者。
趙邑の東南、城を距(へだ)つこと三四十里に、古く広勝寺あり。盛唐開元年間に創建し、廿余年を越え、忝(かたじけな)くも汾陽王の請に由りて額を賜った。上に阿育の宝塔あり、下に霍泉の勝水あり、南北に奇柏数里、枝はみな南に向かう。けだし地は広くして景は勝れたり。「広衍勝因」(広く勝れた因縁を衍ぐ)、その中に寓す。もと一寺にしてこれを分かちて両(ふたつ)と為し、上寺・下寺の名あり。その上寺は幽深閑静にして、人跡罕(まれ)に到らず、四方の参禅・習静の僧は多くここに往く。下寺は明応王の水利の本地に近く、喧を悪(にく)み寂を喜ぶ僧はことごとくここに避く。故に上寺は紺殿宏敞にして、昔を視るに啻(ただ)ならず加倍し、しかるに下寺は則ち落落然として、仍(な)おこれ旧時の規模なり。しかも年深く日久しきを以て、漸次摧残され今に至り、傾圮特に甚だし。寺僧の広思ら、謹みて十方の大力の賢善・長者に募り、各々資財を輸(だ)し、工を起こして修理す。この役は、康熙の壬子に経始し、康熙の癸丑に告成す。ここに諸(これ)を石に勒して、もって時日を志す。倘(も)し異日増修してこれを拡大するは、仍以てこれを有志の者に俟(ま)たん。
公逊居士阎承宠撰。
公遜居士の閻承寵撰す。
平阳府督粮厅署赵城县事卢仲魁施银拾两。
平陽府督糧庁・署趙城県事の盧仲魁、銀拾両を施す。
赵城县知县袁鼎先施银拾两。
趙城県知県の袁鼎先、銀拾両を施す。
本县乡绅士庶共施银伍拾两。
本県の郷紳・士庶、共に銀伍拾両を施す。
柴村三十八头共施银伍拾两。
柴村三十八頭、共に銀伍拾両を施す。
道觉三十头共施银叁拾两。
道覚三十頭、共に銀叁拾両を施す。
北霍渠:高崖、郇堡、郭壁、郭家脚、方堆、大棘、李若、师屯、双头、明姜、伏牛、东安、王乐、胡坦、西安、新堡、董村、大胡麻、上纪落、宋杨、杨堡、王开、兴屯、侯村、永丰、于村、弯里;
北霍渠:高崖、郇堡、郭壁、郭家脚、方堆、大棘、李若、師屯、双頭、明姜、伏牛、東安、王楽、胡坦、西安、新堡、董村、大胡麻、上紀落、宋楊、楊堡、王開、興屯、侯村、永豊、于村、弯里。
南霍渠:曹生、马头、下庄、方堆、南秦、南杨、石桥头、粪里、周壁、冯堡、苏堡;
南霍渠:曹生、馬頭、下荘、方堆、南秦、南楊、石橋頭、糞里、周壁、馮堡、蘇堡。
清水渠:小李岩、枣觉、北秦、巨家堡、永□;
清水渠:小李岩、棗覚、北秦、巨家堡、永□。
在城首事卫士美、王其庆、卫淑文;
在城の首事、衛士美、王其慶、衛淑文。
柴村首事贾俾、完玉;
柴村の首事、賈俾、完玉。
道觉首事王敷锡、贾光俊;
道覚の首事、王敷錫、賈光俊。
双头首事高国光;
双頭の首事、高国光。
本寺输资僧人(芳名略);
本寺の資を輸する僧人(芳名は略す)。
监司道实、道□;
監司の道実、道□。
化主道兴、道□、道□;
化主の道興、道□、道□。
同立。
同じく立つ。
时康熙岁次癸丑仲冬吉旦。
時に康熙歳次癸丑、仲冬の吉旦。
主事术士史应征。
主事術士の史応徴。
『山西通志』
广胜寺二,一在霍山上,一在下,汉建和元年建。柏万株,枝尽南向,所谓广胜奇柏也。下有霍泉,旁有有本、观澜二亭。山上有飞虹塔,为阿育王藏舍利处。明永乐十四年修,正德间僧达连重修,高三百六十尺。寺有唐太宗御制赞,宋李曼、王笋、王渊亭,监炼矾王说、张传新、若通、曹量,元麻秉彝诗。
広勝寺は二つ、一つは霍山の上に在り、一つは下に在る。漢の建和元年に建つ。柏万株、枝は尽く南に向かう。いわゆる広勝の奇柏である。下に霍泉あり、旁(ほとり)に有本・観瀾の二亭あり。山上に飛虹塔あり、阿育王の舎利を蔵する処と為す。明の永楽十四年に修め、正徳間に僧達連が重修す。高さ三百六十尺。寺に唐太宗御制の賛、宋の李曼・王笋・王淵亭、礬を監錬する王説・張伝新・若通・曹量、元の麻秉彝の詩あり。
「晋汾古建築預査紀略」
一、琉璃宝塔(图版拾捌甲)。
一、琉璃宝塔(図版拾捌甲)。
就平面的位置上说,塔立在垂花门之内前殿之前的正中线上,本是唐制。塔平面作八角形,高十三级,塔身砖砌,饰以琉璃瓦的角柱、斗栱、檐瓦、佛像等等。最下层有木围廊。这种做法,与热河永佑寺舍利塔及北平香山静宜园琉璃塔是一样的。但这塔围廊之上,南面尚出小抱厦一间,上交十字脊。
平面上の位置から言えば、塔は垂花門の内、前殿の前の正中線上に立つ。これはもと唐制である。塔の平面は八角形をなし、高さ十三級。塔身は煉瓦砌りで、琉璃瓦の角柱・斗栱・檐瓦・仏像などをもって飾る。最下層には木造の囲廊がある。この手法は、熱河の永佑寺舎利塔および北平香山の静宜園琉璃塔と同じである。ただしこの塔は囲廊の上、南面になお小さな抱厦一間が出て、上は交差して十字脊となる。
全部的权衡上看,这塔的收分特别的急速,最上层檐与最下层砖檐相较,其大小只及下者三分之一强。而且上下各层的塔檐轮廓成一直线,没有卷杀(entasis)圜和之味。各层檐角也不翘起,全部呆板的直线,绝无寻常中国建筑柔和的线路。
全体の権衡(プロポーション)から見ると、この塔の収分(テーパー)は格別に急速で、最上層の檐と最下層の煉瓦檐とを較べると、その大きさは下の者の三分の一強に及ぶのみである。しかも上下各層の塔檐の輪郭は一直線を成し、巻殺(エンタシス)の圜和の味がない。各層の檐角もまた反り上がらず、全部が生硬な直線で、尋常の中国建築の柔和な線路を絶対に持たない。
塔之最下层供极大的释迦坐像一尊,如应县佛宫寺木塔之制。下层顶棚作穹窿式,饰以极繁细的琉璃斗栱。塔内有级可登,其结构法之奇特,在我们尚属初见。普通的砖塔内部,大半不可入,尤少可以攀登的。这塔却是个较罕的例外。塔内阶级每步高约六七十公分,宽约十余公分,成一个约合六十度的陡峻的坡度。这极高极狭的踏步每段到了终点,平常用“休息板” landing 的地方却不用 landing,竟忽然停止,由这一段的最上一级,反身却可迈过空的 landing,攀住背面墙上又一段踏步的最下一级(插图十);在梯的两旁墙上,留下一小砖孔,可以容两手攀扶及放烛火的地方。走上这没有半丝光线的峻梯的人,在战栗之余,不由得不赞叹设计者心思之巧妙。
塔の最下層には極めて大きな釈迦坐像一尊を供え、応県仏宮寺木塔の制のごとし。下層の頂棚は穹窿式をなし、極めて繁細な琉璃斗栱をもって飾る。塔内には登るべき階級があり、その構造法の奇特さは、我々にとってなお初見に属する。普通の煉瓦塔の内部は、大半は入るべからず、とりわけ攀登できるものは少ない。この塔はしかし、比較的罕(まれ)な例外である。塔内の階級は一歩ごとに高さ約六七十センチ、幅約十余センチで、合わせて約六十度の陡峻な勾配を成す。この極めて高く極めて狭い踏步は、一段が終点に至るごとに、平常は「休息板」(ランディング)を用いるところ、ここではランディングを用いず、竟(つい)に忽然として停止する。この一段の最上級より、身を反らして空のランディングを跨ぎ越え、背面の壁上のまた一段の踏步の最下級を攀じ掴む(挿図十)。梯の両旁の壁上には小さな煉瓦孔を留め、両手で攀扶し、および烛火を置くべき所とすることができる。この半糸の光線もない峻梯を上り歩く人は、戦慄の余り、設計者の心思の巧妙を讃嘆せずにはいられない。
关于这塔的年代,相传建于北周,我们除在形制上可以断定其为明清规模外,在许多的琉璃上,我们得见正德十年的年号,所以现存塔身之形成,年代很少可疑之点。底层木廊正檩下,又有“天启二年创建”字样,就是廊子过大而不相称的权衡看来,我们差不多可以断定正德的原塔是没有这廊子的。
この塔の年代については、相伝えて北周に建てられたというが、我々は形制の上でその明清の規模なることを断定できるほか、多くの琉璃の上に正徳十年の年号を見ることを得た。ゆえに現存する塔身の形成について、年代に疑うべき点はほとんどない。底層の木廊の正檩の下には、また「天啓二年創建」の字样がある。この廊子が大きすぎて相称しない権衡から見れば、我々はほぼ、正徳の原塔にはこの廊子がなかったと断定することができる。
虽然在建筑的全部上看来,各种琉璃瓦饰用得繁缛不得当,如各朵斗栱的耍头,均塑作狰狞的鬼脸,尤为滑稽;但就琉璃自身的质地及塑工说,可算无上精品(图版拾捌乙)。
建築の全部の上から見れば、各種の琉璃瓦飾は繁縟で当を得ない用いられ方をしている。例えば各朵の斗栱の耍頭は、いずれも猙獰たる鬼の顔に塑られ、とりわけ滑稽である。しかし琉璃自身の質地および塑工から言えば、無上の精品と算すべきである(図版拾捌乙)。
古写真
1940年以前
常盤大定・関野貞編『中国文化史蹟』第八輯に収められた趙城広勝寺飛虹塔の旧影。同輯は1940年に出版され、原書はこの図の具体的な撮影年を記していない。

1934年9月頃
林洙編『中国古建築図典』第一巻・第三巻には、趙城広勝寺の下寺山門、明応王殿、および上寺飛虹塔、塔内仏像と一層藻井の旧影が収められている。同書は総題として「梁思成ら撮」と署するが、各図には一枚ごとのネガの日付が記されていない。党晟・丁垚は、費慰梅(ウィルマ・フェアバンク)の書簡および中国営造学社記念館蔵の写真に基づき、梁思成・林徽因一行が1934年9月5日に広勝寺に到着し、9月6日から上下寺および明応王廟の調査を始め、約二日間続いたと考定した。この一連の写真の撮影対象は「晋汾古建築預査紀略」に記された現地調査と合致するため、ここでは撮影時期を1934年9月頃と仮に標す。1999年は整理本の出版年にすぎない。





参考文献
- 梁思成・林徽因「晋汾古建築預査紀略」、『中国営造学社彙刊』第五巻第三期、1935年初刊。民国三十年(1941)十一月改訂本に拠って照合した。
- 劉沢民総主編、李玉明執行総主編、汪学文主編『三晋石刻大全・臨汾市洪洞県巻(上)』、三晋出版社、2009年。
- 王錦萍「『宗教組織と水利システム:蒙元期山西水利社会における僧道団体の考察』」、『歴史人類学学刊』2011年第9巻第1期。
- 党晟・丁垚「『晋汾後記:林徽因・梁思成「晋汾古建築預査紀略」研究』」、『建築史学刊』2024年第3期。
- 楊富学・王書慶「『敦煌文献 P.2977 に見える初期舎利塔考——あわせて阿育王塔の原型を論ず』」、『敦煌学輯刊』2010年第1期。