はじめに
月輪山は銭塘江の咽喉を扼し、潮汐は昼夜二度押し寄せ、堤を掠め岸を突き、千年途絶えることがない。開宝三年(970年)、呉越王銭俶は南果園に寺を建て塔を造営した。智覚禅師延寿と僧統贊寧が営建を主持し、塔は九層・高さ五十余丈に及び、江潮を鎮めることを目的とした。曹勛の記によれば、塔の完成後「潮は旧い水路に従い、江沿いの石岸は決壊を免れ、堤沿いの住民は溺死の恐怖から解放された」という。宣和年間に塔は兵火で焼失し、潮が再び害をなした——「巨大な洪水と激しい飛沫が瞬く間に堤を破壊し家屋を倒し、江に面した陸地を数十から百丈も侵食した」。
紹興二十二年、朝廷は塔の再建を詔した。僧智曇は官費を受けず、自ら衣鉢をもって募縁し、紹興二十三年に着工、隆興元年(1163年)に七層が完成した。塔内の壁面には『金剛経』と『四十二章経』の石刻が環状に刻まれ、『金石萃編』は「字跡は新品同然」と称し、南渡期石刻の精妙な傑作とする。塔はまた夜間航行の灯台としても用いられた——「星月が沈み舟人が行き先を知らぬとき、必ず塔の方角を望み、塔中の灯火を指南とした」。その後、元末・嘉靖年間に幾度も焼失と修復を経た。乾隆十六年(1751年)、弘暦は南巡の折に塔に登り「親ら頂に陟り」、江潮の源流を溯り、七層それぞれに額を題した——「初地堅固」から「七宝荘厳」まで。ギャンブルが1917年から1919年に撮影した写真では、木造の廊下はすでに朽ち、煉瓦の芯体が江岸に独り立ちながらも、航行者が識別できる地標であり続けている。
歴史文献
曹勛「臨安府重建月輪山寿寧院塔記」
尝谓天下之事,利害相若,惟能因利以除害,则利斯得而害乃去。钱塘昔号都会,既天子建翠凤之旗,为驻跸之地,可谓据东南天设之险。而浙江介于吴越,一昼一夜,涛头自海而上者再,掠堤突岸,摧陷莫测,甚至捲民庐舍,冲坏田亩,为临安之患久矣。虽智者远谋,巧者述之,莫能御也。钱氏时,有僧智觉禅师延寿,同僧统赞宁创建斯塔,用以为镇。相传自尔潮习故道,边江石岸无冲垫之失,缘堤居民无惊溺之虞,闻者德之。迨宣和三祀,塔与寺为寇盗所𦶟,潮复为患,巨浸怒沫,顷刻间捣堤坏屋,侵附江之陆数十百丈。民虽寔苦其害,然迄无以措手。
嘗て謂う、天下の事は、利害相半ばなるも、ただ能く利に因りて害を除かば、利は斯に得て害は乃ち去ると。銭塘は昔より都会と号し、天子すでに翠鳳の旗を建て、駐蹕の地となす。東南天設の険に拠ると謂うべし。而して浙江は呉越に介在し、一昼一夜、濤頭は海より上ること再なり。堤を掠め岸を突き、摧陥すること測り難し。甚だしくは民の廬舎を捲き、田畝を沖壊し、臨安の患となること久し。智者の遠謀、巧者のこれを述ぶるも、御する能わず。銭氏の時、僧・智覚禅師延寿あり、僧統贊寧と同にこの塔を創建し、用って鎮となす。相伝う、爾来潮は故道に習い、辺江の石岸に沖墊の失なく、堤に縁る居民に驚溺の虞なし。聞く者これを徳とす。宣和三年に迨び、塔と寺は寇盗の焚く所となり、潮復た害をなす。巨浸怒沫、頃刻の間に堤を搗ち屋を壊し、江に附く陸を侵すこと数十百丈。民寔にその害に苦しむといえども、手を措く所なし。
绍兴岁在壬申,天子忧之,思所以制其害者。在廷之臣首以复兴斯塔为请,诏赐可,下有司计度,意将官给金币,庀工治材。而都下守臣择可主持斯事,得僧智昙,戒行精洁,道业坚固,可任以干缘。乃缕陈砖石土朩、方隅广袤,所以复塔之意。昙口诺心然,愿以身任其劳,仍不以丝毫出于官请,得募民众,毕兹胜事。都守即日命往住持是院。昙自被命,和义郡王杨存中率先众力,出俸资助,居士董仲永以家之器用衣物舍以供费。先造僧寮、库司、水陆堂、藏殿,安存新众,俾来者有归,以致中堂莲社闻风乐施,云臻雾集,虽远在他路,亦荷担而来。
紹興歳壬申に在り、天子これを憂い、その害を制する所以を思う。廷に在る臣、首ずこの塔を復興するを以て請いとなし、詔して可を賜い、有司に下して計度せしむ。意は官の金幣を給して、工を庀め材を治めんとす。而して都下の守臣、この事を主持すべき者を択び、僧・智曇を得たり。戒行精潔、道業堅固、干縁を任ずべし。乃ち磚石土木・方隅広袤を縷陳し、塔を復するの意とす。曇は口に諾し心に然りとし、身を以てその労に任ぜんことを願い、糸毫も官に請い出ずること無く、民衆を募り得て、この勝事を畢えんとす。都守即日命じて是の院を住持せしむ。曇、命を被りてより、和義郡王・楊存中は衆に率先して力を出し、俸を出して資助す。居士・董仲永は家の器用衣物を以て舎して費に供す。先ず僧寮・庫司・水陸堂・蔵殿を造り、新衆を安存し、来る者をして帰する所あらしむ。中堂蓮社に至るまで風を聞いて楽施し、雲のごとく臻り霧のごとく集まる。遠く他路に在るといえども、また担を荷いて来たる。
自癸酉仲春鸠工,至癸未之春,五层告成。是年晚岁,则七级就绪,巍然揭立,成数十寻。跨陆俯川,阑楯层橑,面面开敞,宝网鸣铎,光动山海,撑空突兀,已立于风烟之上。外则规制壮丽,气象雄杰,日以万众观喜瞻仰,得未曾有。内则磴道以登,环壁刊金刚经,列于上下,及塑五十三善知识,备尽庄严。至于佛菩萨众,各以次位置。凡所以镇静山川,护持法界者,莫不阂而存焉。
癸酉の仲春より工を鳩め、癸未の春に至りて五層告成す。この年の晩歳に至れば則ち七級就緒し、巍然として揭立し、数十尋を成す。陸を跨ぎ川を俯し、欄楯層橑、面面開敞す。宝網鳴鐸、光は山海を動かし、空を撑えて突兀、已に風煙の上に立つ。外は則ち規制壮麗、気象雄傑にして、日に万衆を以て観喜瞻仰し、未だ曽て有らざるを得。内は則ち磴道を以て登り、壁を環りて金剛経を刊し、上下に列ぬ。および五十三善知識を塑し、荘厳を備え尽くす。仏菩薩衆に至りては、各々次を以て位置す。およそ山川を鎮静し、法界を護持する所以の者、闔として存せざるは莫し。
塔兴之初,土石未及百篑,而潮势虽仍汹涌,已不复向来之害。以故衣冠缁黄,耆艾士民,德昙甚深,拱手赞叹。是塔也,不特镇伏潮不为害,又航于海者,寅夕昏晦,星月沉象,舟人未知攸济,则必向塔之方,视塔中之灯光以为指南,则海航无迷津之忧矣。致富商大舶,尤所归向,而喜舍无难色,此又塔之利也。
塔興るの初め、土石未だ百簣に及ばざるに、潮勢なお洶湧たるも、已に向来の害を復せず。故を以て衣冠・緇黄・耆艾・士民、曇を徳とすること甚だ深く、手を拱して賛嘆す。この塔や、特に潮を鎮伏して害をなさざるのみならず、また海に航する者、寅夕昏晦にして星月沈象するとき、舟人いまだ済る攸を知らざれば、則ち必ず塔の方に向かい、塔中の灯光を視て以て指南となす。則ち海航に迷津の憂いなし。富商大舶をして、尤も帰向する所なりて、喜んで舎すること難色なし。これまた塔の利なり。
塔将圆满,寺众以事之始末,求予文以记其实。昙,东人也。体识深敏,早受律仪,持教临坛,已逾三纪。信心之士,往往联芳咀妙,割缚导迷,作大方便,护于群生。顾予知昙之戮力,乃申利害之所出,陈上圣之忧劳,纪廷臣之建言,道昙之率众,与夫工徒用度之数,皆摭其实,庶知不假声势,成兹利益,备诸难事,而尽未来际千百载下,僧俗当共谨护,以为此邦植福,岂不美哉?约用工费百万𦈏钱二十万云。
塔まさに円満ならんとするに、寺衆は事の始末を以て、予に文を求め以てその実を記さんとす。曇は東人なり。体識深敏、早くより律儀を受け、教を持し壇に臨むこと已に三紀を逾ゆ。信心の士、往々にして芳を聯ね妙を咀み、縛を割り迷を導き、大方便を作して群生を護す。顧みるに予は曇の戮力を知る。乃ち利害の出ずる所を申べ、上聖の憂労を陳じ、廷臣の建言を紀し、曇の衆を率いるを道い、工徒用度の数に与す。皆その実を摭い、庶わくは声勢を仮らずして茲の利益を成し、諸般の難事を備え、未来際千百載の下に尽きて、僧俗当に共に謹護し、以てこの邦に福を植うべきことを知らん。豈に美ならずや。約、工費に百万緡銭二十万を用いると云う。
六和塔『四十二章経』刻石
佛说四十二章经:
仏説四十二章経:
以下は、経文を各一章ずつ書写した南宋朝廷官僚四十二名の官職と姓名の列記である。
特进尚书左仆射、同中书门下平章事、吴兴郡开国公沈该,
左正奉大夫、守尚书右仆射、同中书门下平章事、缙云郡公汤思退,
左中大夫、知枢密院事陈诚之,
左中大夫、参知政事陈康伯,
左太中大夫、同知枢密院事王纶,
左太中大夫、权吏部尚书贺允中
左朝请、试尚书吏部侍郎、史馆修撰兼侍讲叶义问。
左朝请试尚书兵部侍郎兼侍讲兼直学士院杨椿
左朝散郎、试给事中兼直学士院兼同修国史。周麟之
左朝散郎、试中书舍人兼权枢密院都承旨洪遵
左朝散大夫、充敷文阁待制、提举佑圣观杨契
右朝奉大夫、权尚书吏部侍郎沈介
左中奉大夫、权尚书户部侍郎赵令𬣳
左朝奉大夫、权尚书礼部侍郎兼侍讲孙道夫
左朝请郎、权尚书工部侍郎王晞亮
左朝请郎、权尚书刑部侍郎兼权详定一司敕令黄祖舜
左宣教郎、试起居舍人兼权中书舍人张孝祥
左朝请大夫、太常少卿兼权中书门下省捡正诸房公事宋榧
左朝请大夫、守宗正少卿金安节
右朝请郎、守大理少卿李洪
右朝议大夫,司农少卿董苹
右中大夫、行太府少卿钱端礼
左朝奉大夫,将作监张宗元
左朝请大夫,军器监张运
左朝请大夫,尚书吏部郎中杨朴
右朝奉郎、守尚书户部郎中兼权金部郎中莫蒙
右奉直大夫,尚书刑部郎中路彬
左朝散郎、守尚书工部郎中张廷实
左奉议郎,尚书吏部员外郎兼权尚书右司郎官周操
左朝奉郎、尚书吏部员外郎兼国史院编修官兼权枢密院检详诸房文字。叶谦亨
左朝奉郎、尚书吏部员外郎兼国史院编修官胡汸
右朝散郎,尚书司勋员外郎陈俊卿
右宣教郎、守尚书司封员外郎鲍彪
左朝请郎,尚书考功员外郎陈棠
左朝散郎,尚书礼部员外郎杨邦弼
左朝奉郎,尚书□部员外郎兼权国子司业张洙
右承议郎、尚书刑部员外郎黄子淳
左朝请郎、尚书都官员外郎兼玉牒所检讨官兼权户部员外郎杨倓,
左奉议郎、守尚书比部员外郎沈枢,
左朝请大夫、行尚书屯田员外郎韩彦直
左承议郎、秘书丞兼国史院编修官兼尚书兵部员外郎虞允文
右奉议郎、秘书省校书郎兼国史院编修官兼权尚书驾部员外郎洪迈。
维神宗盛时,文物彬彬,郁然有典谟之风。是时搢绅巨儒,若富公弼、贾公昌朝辈,分写金刚经,刻琢坚珉三十二分,至今蛟龙蛇蜃,翱翔踊跃,挹之而疑其飞去也。恭惟盛时,文章制作,上跨三代,下峙两汉,道术奇士辈推明盛典,命智昙法师修六和塔以折海势,各分写四十二章经,镌石龛山下,作江湖间,旷代绝无,而仅有一胜事。盖散则一大藏演之不足,聚则四十二章藏之有余,其言与大易、庄、老相表里,旨哉淡而不隐,中而不滥也。迦叶、竺法译于前,智圆训于中,骆偃序于后,咸未足以传其大哉!惟众贤举坠典而一新之,故夷齐虽仁,得孔子而德益彰;颜渊虽笃学,附骥尾而行益显。是经虽微妙宏深,际盛时而理益明,其趋一也。时圣宋绍兴己卯冬十一月旦跋。
惟うに神宗の盛時、文物彬彬として、鬱然として典謨の風あり。この時の搢紳巨儒、富公弼・賈公昌朝の輩のごとき、分かちて金剛経を写し、堅珉に刻琢すること三十二分。今に至るまで蛟龍蛇蜃、翱翔踊躍し、これを挹みて飛び去らんかと疑う。恭しく惟うに盛時、文章制作は上に三代を跨ぎ、下に両漢に峙つ。道術の奇士、輩出して盛典を推明し、智曇法師に命じて六和塔を修し以て海勢を折り、各々四十二章経を分写し、石を龕山の下に鐫り、江湖の間に作す。曠代絶えてなく、僅かに一の勝事あるのみ。けだし散ずれば一大蔵もこれを演ずるに足らず、聚むれば四十二章これを蔵するに余りあり。その言は大易・荘・老と相表裏し、旨なるかな、淡にして隠ならず、中にして濫ならず。迦葉・竺法は前に訳し、智円は中に訓じ、駱偃は後に序す。咸くその大を伝うるに足らず。ただ衆賢、墜典を挙げてこれを一新す。故に夷斉は仁なりといえども、孔子を得て徳益々彰わる。顔淵は篤学なりといえども、驥尾に附して行い益々顕わる。この経は微妙宏深なりといえども、盛時に際して理益々明らかなり、その趣一なり。時に聖宋紹興己卯冬十一月旦、跋す。
西蜀布衣武翃撰。
西蜀布衣・武翃撰す。
『金石萃編』考釈
右四十二章经凡四十二人,人各写一章,字体大小疏密不等,唯允中、端礼、朴操四人行书,余皆真书。后有西蜀布衣武翃跋,题绍兴已卯十一月。以史考之,是岁六月,沈该罢左相,陈诚之亦罢枢密,其七月,贺允中自吏部尚书参知政事矣。此经盖书于五月以前,至仲冬始勒之石也。自绍兴已卯至今六百余年,字迹完好如新,惟思退名为后人磨去。南渡石刻工妙若此者,亦不易得矣。按四十二章经在杭州钱塘江岸六和塔内,下层嵌壁。咸淳临安志:六和塔,开宝三年,智觉禅师始于钱氏南果园开山,建塔九级,后废。绍兴十二年奉旨重造。二十六年僧智昙因故基成之,七层而止。据曹勋𢷣重建月轮山寿宁院塔记云:自癸酉仲春鸠功,至癸未之春,五层告成。是年岁晚,七级就绪。
右、四十二章経は凡そ四十二人、人各々一章を写す。字体の大小疏密等しからず、ただ允中・端礼・朴・操の四人のみ行書、余は皆真書なり。後に西蜀布衣・武翃の跋あり、紹興己卯十一月と題す。史を以てこれを考うるに、この歳の六月、沈該は左相を罷め、陳誠之もまた枢密を罷む。その七月、賀允中は吏部尚書より参知政事となる。この経は蓋し五月以前に書かれ、仲冬に至りて始めてこれを石に勒するなり。紹興己卯より今に至るまで六百余年、字跡完好にして新しきがごとし。ただ思退の名は後人の磨り去る所となれり。南渡の石刻にして工妙かくのごときもの、また得やすからず。按ずるに四十二章経は杭州銭塘江岸の六和塔内にあり、下層壁に嵌む。咸淳臨安志に曰く、六和塔は開宝三年、智覚禅師始めて銭氏の南果園に開山し、塔を建つること九級、後廃す。紹興十二年旨を奉じて重造す。二十六年僧智曇故基に因りてこれを成す、七層にして止む、と。曹勛の重建月輪山寿寧院塔記に拠れば、癸酉の仲春より功を鳩め、癸未の春に至りて五層告成す。この年の歳晩に七級就緒す、と。
癸酉是绍兴二十三年,癸未则隆兴元年,是塔之成非二十六年也。武翃跋但言镌石龛山下,作江湖间旷代胜事,不云在塔。曹勋记亦云此经嵌壁环壁,刊金刚经,列于上下,而不及此经,意与金刚经同时,而经书于巴卯岁,在塔成之前四年,勋记不及者,或嵌壁在塔成之后。然武林石刻记但云在六和塔,不详嵌壁岁月,不知何年。此碑幸在塔内,无一字缺蚀。独思退之名,后人磨去,殆以其在相位效秦桧所为,犹七十二贤赞磨去桧记之例,然犹存系衔及汤字,得以知其为思退也。
癸酉はこれ紹興二十三年、癸未は則ち隆興元年なり。これ塔の成るは二十六年に非ざるなり。武翃の跋はただ石を龛山の下に鐫り、江湖の間に曠代の勝事を作ると言うのみにて、塔に在りとは云わず。曹勛の記もまたこの経は壁に嵌み、壁を環りて金剛経を刊し、上下に列ぬと云い、この経には及ばず。意うに金剛経と同時なるも、経は己卯の歳に書かれ、塔の成るに先立つこと四年。勛の記の及ばざるは、あるいは壁に嵌むること塔の成りたる後に在ればか。しかれども武林石刻記はただ六和塔に在りと云うのみにて、壁に嵌むる歳月を詳らかにせず、何年なるかを知らず。この碑は幸いにして塔内に在り、一字の欠蝕なし。独り思退の名のみ後人磨り去る。殆どその相位に在りて秦檜のなす所に効えるを以て、なお七十二賢贊の檜の記を磨り去る例のごとし。しかもなお繋銜および「湯」の字を存す。以てその思退たるを知るを得るなり。
西湖志
慈恩开化教寺咸淳临安志:开宝三年,吴越王就南果园建寺,造六和塔。宣和间毁于兵。绍兴二十二年,北僧智昙以衣钵募缘重造,十载始成。隆兴二年赐今额。有金鱼池。成化杭州府志:元末毁,重建。西湖游览志:嘉靖十二年,寺与塔俱火。
慈恩開化教寺。咸淳臨安志に曰く、開宝三年、呉越王南果園に就きて寺を建て、六和塔を造る。宣和の間、兵に毀たる。紹興二十二年、北僧・智曇、衣鉢を以て募縁し重造す。十載にして始めて成る。隆興二年、今の額を賜う。金魚池あり。成化杭州府志に曰く、元末に毀ち、重建す。西湖遊覧志に曰く、嘉靖十二年、寺と塔倶に火す。
六和塔咸淳临安志:即旧宁寿观。开宝三年,智觉禅师延寿始于钱氏南果园开山建塔,因即其地造寺,以镇江潮。答高九级,长五十余丈,内藏舍利,或时光明焕发大江中,舟人瞻见之。后废。绍兴十二年奉旨重造。二十六年,僧智昙因故基成之,七层而止。武林梵志:嘉靖三年毁。万历间,袾宏重修。
六和塔。咸淳臨安志に曰く、すなわち旧の寧寿観なり。開宝三年、智覚禅師延寿始めて銭氏の南果園に開山し塔を建て、因りてその地に即して寺を造り、以て江潮を鎮む。塔は高さ九級、長さ五十余丈、内に舎利を蔵す。時に光明大江中に煥発し、舟人これを瞻見す。後廃す。紹興十二年旨を奉じて重造す。二十六年、僧智曇故基に因りてこれを成す、七層にして止む。武林梵志に曰く、嘉靖三年に毀つ。万暦の間、袾宏重修す。
咸淳臨安志
慈恩开化教寺,
慈恩開化教寺、
开宝三年,吴越王就南果园建寺,造六和宝塔,以镇江潮。宣和毁于兵。绍兴二十二年,北僧智昙以衣钵募缘重造,十载始成。隆兴二年赐今额。有秀江亭、金鱼池
開宝三年、呉越王南果園に就きて寺を建て、六和宝塔を造り、以て江潮を鎮む。宣和に兵に毀たる。紹興二十二年、北僧・智曇、衣鉢を以て募縁し重造す。十載にして始めて成る。隆興二年、今の額を賜う。秀江亭・金魚池あり。
成化杭州府志
慈恩开化寺即六和塔寺在城南龙山月轮峰下瞰大江唐开宝三年即钱氏南果园建寺塔以镇江潮有金鱼池秀江亭宋宣和中恼于方腊之乱绍兴间重建隆兴二年赐是额元末寺废重建寺南旧有铁井栏刻八卦其上以镇水怪
慈恩開化寺は即ち六和塔寺、城南龍山月輪峰の下に在り、大江を瞰む。唐の開宝三年即ち銭氏の南果園に寺塔を建て以て江潮を鎮む。金魚池・秀江亭あり。宋の宣和中、方臘の乱に悩まさる。紹興の間に重建す。隆興二年この額を賜う。元末に寺廃し、重建す。寺の南に旧と鉄井欄あり、八卦をその上に刻して以て水怪を鎮む。
六和塔在龙山月轮峰即旧寿宁院开宝三年智觉禅师始于钱氏南果园建塔因即其地造寺以镇江潮塔高九级五十余丈后废绍舆二十二年春重造七层而止
六和塔は龍山月輪峰に在り、即ち旧の寿寧院なり。開宝三年、智覚禅師始めて銭氏の南果園に塔を建て、因りてその地に即して寺を造り、以て江潮を鎮む。塔は高さ九級・五十余丈。後廃す。紹興二十二年春に重造す、七層にして止む。
万暦杭州府志
六和塔院即六和寺在龙山月轮峰旧名寿宁院唐
开宝三年僧智觉于钱氏南果园建塔因即其地
造院以镇江潮后废宋绍兴二十二年重建归并
于此曰保和寺
六和塔院は即ち六和寺、龍山月輪峰に在り。旧名は寿寧院。唐の開宝三年、僧・智覚、銭氏の南果園に塔を建て、因りてその地に即して院を造り、以て江潮を鎮む。後廃す。宋の紹興二十二年に重建し、ここに帰併して保和寺と曰う。
南宋尚書省牒碑
札付开化寺
札付、開化寺。
开化寺六和塔住持讲唯识因明等论僧智昙状。伏都临安府开化寺六和塔,开宝四年,请创建斯塔,以镇江潮。后因绍兴二十二年十月内奉圣旨:塔庙令礼部看详兴工,令临安府转运司同其措置。至绍兴二十六年内,蒙临安府委官劝请,给帖付智昙住持修建。当时不愿申请官中钱物,并是智昙用自己衣钵教化钱物建置。今来宝塔垂成在即,委是江潮平善,舟楫无虞。欲望特与本寺蠲免借科敷,及指占安泊,伏候指挥。七月二十六日奉圣旨,特依。
開化寺六和塔住持・唯識因明等論を講ずる僧・智曇の状。伏して都臨安府開化寺六和塔、開宝四年に請いてこの塔を創建し、以て江潮を鎮む。後、紹興二十二年十月内に聖旨を奉ずるに因る。塔廟は礼部に令して詳しく興工を看しめ、臨安府転運司に令して同にその措置をなさしむ。紹興二十六年内に至りて、臨安府の委官の勧請を蒙り、帖を給して智曇に付し住持修建せしむ。当時、官中の銭物を申請するを願わず、並びにこれ智曇自ら衣鉢の教化銭物を用いて建置す。今来、宝塔の垂成在即、委ねてこれ江潮平善にして舟楫に虞なし。望むらくは特に本寺に蠲免・借科敷、および指占安泊を与えられんことを。伏して指揮を候つ。七月二十六日聖旨を奉ず、特に依れ、と。
右札付开化寺。
右、札付開化寺。
乾道元年七月日,又札付智昙月轮山六和塔,伏候指挥。闰十一月二十八日奉圣旨,依所乞。右札付僧智昙。隆兴二年十二月日。右第三层军府准尚书省札子,开化寺六和塔住持至,伏候指挥。七月二十六曰奉圣旨,特依。右札付临安府者。右除已帖钱塘仁和县僧司,仰遵依已降圣旨指挥施行外,今帖开化寺六和塔,仰照会乾道元年入月初三曰帖使。右右碑高七尺,广三尺四寸,分四层。
乾道元年七月日、また札付す、智曇月輪山六和塔に、伏して指揮を候つ。閏十一月二十八日聖旨を奉ず、乞う所に依れ。右、札付僧智曇。隆興二年十二月日。右第三層、軍府尚書省札子に准じ、開化寺六和塔住持至る、伏して指揮を候つ。七月二十六日聖旨を奉ず、特に依れ。右、札付臨安府。右、已に銭塘仁和県僧司に帖し、已に降す聖旨指揮に遵依して施行せしむるの外、今開化寺六和塔に帖す。乾道元年八月初三日の帖使に照会せよ。右、碑の高さ七尺、広さ三尺四寸、四層に分かつ。
吴尺凫跋云:宋制,尚书省牒皆横□。牒用大字行书,本事用小字真书,衔径一条,大字粗细文。此碑横分四段,皆依省式,惟加题额。中间二、三两题皆先左后右。隆兴二年之明年为乾道改。元也。
呉尺鳧の跋に云う、宋の制、尚書省牒は皆横式なり。牒には大字行書を用い、本事には小字真書を用いる。銜は径に一条、大字粗細文なり。この碑は横に四段に分かち、皆省式に依る。ただ題額を加うるのみ。中間の二・三の両題は皆先ず左にして後に右なり。隆興二年の明年は乾道の改元なり、と。
宰辅表云:中书平章为宰相,枢密使权任惟均,谓之两府,皆谓之执政。如此,则中书门下平章事为宰相,应先于两枢密矣。按钱为端礼,虞为允文。年表:隆兴二年十一月辛丑,端礼除端明殿学士、签书枢密院事。明日壬寅,允文除端明殿学士、同签书枢密院事。十二月辛卯,端礼除参知政事。同日,允文除同知枢密院事。至明年乾道元年三月庚申,允文始除参知政事。据此,则隆兴牒上,允文不得书参知政事,或因乾道后牒,而僧家之刻有误与?又左一行有官阙姓。考本纪:隆兴二年十一月戊戌,以陈康伯为尚书仆射、同中书门下平章事。本传康伯复相,即其家除拜,舆疾就道,至阙,以疾免朝谒。是因康伯不至中书,故其下有免押字也。首辅不书姓,特例也。
宰輔表に云う、中書平章は宰相為り、枢密使は権任惟均にして、これを両府と謂い、皆これを執政と謂う。かくの如くんば、中書門下平章事は宰相にして、両枢密に先んずべし。按ずるに銭は端礼、虞は允文なり。年表に曰く、隆興二年十一月辛丑、端礼は端明殿学士・簽書枢密院事に除す。明日壬寅、允文は端明殿学士・同簽書枢密院事に除す。十二月辛卯、端礼は参知政事に除す。同日、允文は同知枢密院事に除す。明年乾道元年三月庚申に至りて、允文始めて参知政事に除す。これに拠れば、隆興の牒上、允文は参知政事を書くを得ず。あるいは乾道後の牒に因りて、僧家の刻に誤りあるか。また左の一行に官ありて姓を闕く。本紀を考うるに、隆興二年十一月戊戌、陳康伯を以て尚書僕射・同中書門下平章事と為す。本伝に康伯復た相となり、即ちその家に除拜し、疾を輿して道に就き、闕に至る。疾を以て朝謁を免ぜらる。これ康伯の中書に至らざるに因り、故にその下に押字を免ずるあるなり。首輔にして姓を書さざるは特例なり。
咸淳临安志称赐额慈恩开化教寺。慈恩字省中略去。又云:开宝三年,吴越王就南果园建寺,造六和塔,以镇江潮。方腊毁。绍兴二十二年,北僧智昙重造,十年始成。今牒称绍兴二十六年始工,至隆兴二年凡九年,塔庙皆成。于是住僧等论智昙功状,故有是牒,而明年住僧复请蠲免。又有后札并府帖,时府尹为薛良明,其文中铲去最始建塔之名,是误书智昙而去之者。
咸淳臨安志に額を慈恩開化教寺と賜うと称す。「慈恩」の字は省中に略去す。また云う、開宝三年、呉越王南果園に就きて寺を建て、六和塔を造り、以て江潮を鎮む。方臘に毀たる。紹興二十二年、北僧・智曇重造す。十年にして始めて成る、と。今の牒には紹興二十六年に始めて工し、隆興二年に至るまで凡そ九年、塔廟皆成ると称す。ここに於いて住僧等、智曇の功状を論じ、故にこの牒あり。而して明年、住僧復た蠲免を請う。また後札並びに府帖あり。時に府尹は薛良明なり。その文中に最初の建塔の名を鏟り去る。これ智曇と誤書してこれを去りたる者なり。
余从曹勋松隐集搜得六和塔记,称吴越时智觉禅师延寿,同僧统赞宁创建。今考阙名必居其一。灵隐旧志:延寿字冲玄,赐号智觉,后迁永明道场,撰宗镜录。侍者赞宁,钱王署为两浙僧统,归朝复赐号通慧,撰高僧传内与。外学等集,余从数百年下,得补其阙,而此寺自吴越名寿宁院,塔又名六合,皆足备异闻也
余、曹勛の松隠集より六和塔記を搜し得たり。呉越の時、智覚禅師延寿、僧統贊寧と同にして創建すと称す。今闕名を考うるに必ずその一に居る。霊隠旧志に曰く、延寿字は冲玄、号を智覚と賜い、後に永明道場に遷り、宗鏡録を撰す。侍者贊寧は銭王に署して両浙僧統と為し、朝に帰りて復た号を通慧と賜い、高僧伝内と外学等の集を撰す。余、数百年の下より従いてその闕を補うを得たり。而してこの寺は呉越より寿寧院と名づけ、塔はまた六合と名づく。皆異聞に備うるに足るなり。
夢粱録
临安风俗,四时奢侈,赏玩殆无虚日。西有湖光可爱,东有江潮堪观,皆绝景也。每岁八月内,潮怒胜于常时,都人自十一日起,便有观者,至十六、十八日倾城而出,车马纷纷,十八日最为繁盛,二十日则稍稀矣。十八日盖因帅座出郊,教习节制水军,自庙子头直至六和塔,家家楼屋,尽为贵戚内侍等雇赁作看位观潮。
臨安の風俗は四時奢侈にして、賞玩殆ど虚日なし。西に湖光の愛すべきあり、東に江潮の観るに堪うるあり、皆絶景なり。毎歳八月内、潮の怒ること常時に勝る。都人は十一日より起こりて観る者あり、十六・十八日に至りて傾城して出で、車馬紛々たり。十八日最も繁盛を為し、二十日は則ち稍稀なり。十八日は蓋し帥座郊に出て、水軍を教習節制するに因る。廟子頭より直ちに六和塔に至るまで、家々の楼屋はことごとく貴戚・内侍等の雇賃して看位観潮と作す。
向有白乐天《咏潮》诗曰: “早潮才落晚潮来,一月周流六十回。不独光阴朝复暮,杭州老去被潮催。”
先に白楽天の『咏潮』詩あり、曰く、 「早潮才に落ちて晩潮来たる、一月周流すること六十回。独り光陰の朝復た暮なるのみにあらず、杭州老い去りて潮に催さる。」
又苏东坡《咏中秋观夜潮》诗: “定知玉兔十分圆,已作霜风九日寒。寄语重门休上钥,夜潮留向月中看。万人鼓噪骇吴侬,犹似浮江老阿童。欲识潮头高几许,越山浑在浪花中。江边身世两悠悠,人与沧波共白头。造物亦知人易老,故教江水更西流!吴儿生长狎涛澜,冒利轻生不自怜。东海若知明主意,应教斥卤变桑田。江神河伯两醯鸡,海若东来气吐霓,安得夫差水犀手,三千强弩射潮低。”
また蘇東坡の『咏中秋観夜潮』詩あり、 「定めて知る玉兎十分に円かなるを、已に霜風と作りて九日寒し。語を寄す重門、上鎖するを休めよ、夜潮留めて月中に向いて看ん。万人鼓噪して呉儂を駭かす、なお浮江の老阿童に似たり。潮頭の高きこと幾許なるかを識らんと欲せば、越山渾べて浪花の中に在り。江辺身世両つながら悠悠、人は滄波と白頭を共にす。造物もまた人の老い易きを知る、故に江水をして更に西に流れしむ。呉児生長して涛瀾を狎る、利を冒し生を軽んじて自ら怜まず。東海もし明主の意を知らば、応に斥鹵をして桑田に変ぜしむべし。江神河伯は両つの醯鶏、海若東来して気は霓を吐く、安んぞ夫差の水犀の手を得て、三千の強弩もて潮を射て低からしめん。」
林和靖《咏秋江》诗云: “苍茫沙嘴鹭鸶眠,片水无痕浸碧天。最爱芦花经雨后,一篷烟火饭鱼船。”
林和靖の『咏秋江』詩に云う、 「蒼茫たる沙嘴に鷺鸞眠る、片水痕なくして碧天を浸す。最も愛す芦花雨を経たるの後、一篷の煙火、魚を飯す船。」
治平郡守蔡端明诗: “天捲潮回出海东,人间何事可争雄?千年浪说鸱夷怒,一汐全疑渤空;浪静最宜闻夜枕,峥嵘须待驾秋风。寻思物理真难到,随月亏圆亦未通。”
治平の郡守・蔡端明の詩、 「天捲き潮回りて海東を出ず、人間何事か争雄すべき。千年浪に鴟夷の怒りを説くも、一汐全く渤海の空しきかと疑う。浪静かにして最も宜し夜枕に聞くに、峥嶸として須く秋風の駕するを待つべし。尋思するに物理真に到り難し、月に随いて虧円するも亦た未だ通ぜず。」
其杭人有一等无赖不惜性命之徒,以大彩旗,或小清凉伞、红绿小伞儿,各系绣色缎子满竿,伺潮出海门,百十为群,执旗泅水上,以迓子胥弄潮之戏,或有手脚执五小旗浮潮头而戏弄。
その杭人に一等の無頼にして性命を惜しまざる徒あり。大彩旗、あるいは小清涼傘・紅緑の小傘児を以て、各々繍色の緞子を竿に満たして繋ぎ、潮の海門を出ずるを伺い、百十を群となし、旗を執りて水上を泅ぎ、以て子胥弄潮の戯を迓う。あるいは手脚に五小旗を執りて潮頭に浮かびて戯弄する者あり。
向于治平年间,郡守蔡端明内翰见其往往有沉没者,作《戒约弄潮文》云:“斗、牛之外,吴、越之中,惟江涛之最雄,乘秋风而益怒。乃其俗习,于此观游。厥有善泅之徒,竞作弄潮之戏,以父母所生之遗体,投鱼龙不测之深渊,自谓矜夸,时或沉溺,精魄永沦于泉下,妻孥望哭于水滨,生也有涯,盍终于天命;死而不吊,重弃于人伦。推予不忍之心,伸尔无家之戒。所有今年观潮,并依常例,其军人百姓,辄敢弄潮,必行科罚。“自后官府禁止,然亦不能遏也。
先に治平年間、郡守・蔡端明内翰、その往々沈没する者あるを見て、『戒約弄潮文』を作りて云う、「斗・牛の外、呉・越の中、ただ江濤の最も雄なるのみ、秋風に乗じていよいよ怒る。乃ちその俗習、ここに観游す。厥に善く泅ぐの徒ありて、競いて弄潮の戯を作す。父母の生ずる所の遺体を以て、魚龍不測の深淵に投ず。自ら矜誇と謂うも、時にあるいは沈溺す。精魄は永く泉下に沦み、妻孥は水濱に望みて哭す。生くるや涯あり、蓋し天命に終わらんか。死して弔わず、重ねて人倫を棄つ。予の忍びざるの心を推し、爾の家なきの戒めを伸ぶ。今年の観潮に有する所は、並びに常例に依る。その軍人百姓、輒ち敢えて弄潮せば、必ず科罰を行う。」と。自後官府禁止するも、しかもまた遏むること能わざるなり。
向有前辈作《看弄潮诗》云:“弄罢江潮晚入城,红旗白旗轻。不因会吃翻头浪,争得天街鼓乐迎。”
先に前輩の『看弄潮詩』を作る者あり、云う、「弄び罢みて江潮晩に城に入る、紅旗白旗軽し。翻頭浪を喫するに会するに因らずんば、争でか天街の鼓楽の迎うるを得ん。」
且帅府节制水军,教阅水阵,统制部押于潮未来时,下水打阵展旗,百端呈拽,又于水中动鼓吹,前面导引,后抬将官于水面,舟楫分布左右,旗帜满船,上等舞𬬰飞箭,分列交战,试炮放烟,捷追敌舟,火箭群下,烧毁成功,鸣锣放教,赐犒等差。盖因车驾幸禁中观潮,殿庭下视江中,但见军仪于江中整肃部伍,望阙奏喏,声如雷震。余扣及内侍,方晓其尊君之礼也。其日帅司备牲礼、草履、沙木板,于潮来之际,俱祭于江中。士庶多以经文,投于江内。是时正当金风荐爽,丹桂飘香,尚复身安体健,如之何不对景行乐乎?
且つ帥府は水軍を節制し、水陣を教閲す。統制部は潮の未だ来らざる時に押し、水に下りて陣を打ち旗を展べ、百端呈拽す。また水中に鼓吹を動かし、前面に導引し、後に将官を水面に抬す。舟楫は左右に分布し、旗幟は船に満つ。上等は舞戈飛箭し、分列交戦す。試砲放煙し、捷く敵舟を追い、火箭群がりて下り、焼毀成功す。鑼を鳴らし教を放ち、犒を賜うこと等差あり。蓋し車駕禁中に幸して観潮するに因り、殿庭より下に江中を視るに、但だ軍儀の江中に部伍を整粛し、闕を望みて喏を奏するを見る。声は雷震のごとし。余、内侍に扣して及び、方にその尊君の礼を暁る。その日帥司は牲礼・草履・沙木板を備え、潮来の際に於いて倶に江中に祭す。士庶は多く経文を以て江内に投ず。この時まさに金風荐爽・丹桂飄香に当たり、なお身安く体健やかなり。如之何ぞ景に対して行楽せざらんや。
御製登開化寺六和塔記
杭州月轮峰六和塔,宋开宝中创建,以镇江潮。开化寺,其塔院也。自宋以来,屡毁屡复,毁则有惊浪之虞,复则有安澜之庆。是以雍正十三年,我皇考世宗宪皇帝特发帑金,命有司鸠工庀材,是轮是奂,越二年而告成。又十有四年,而朕以南巡之便,亲陟其顶,且为之记焉。盖浙之潮,人所共知为雄巨,浙之塘,人所共知为要害,然非目击,终为耳食。且沿江以来,亦不辨其曲折之形也。造塔颠而后审其所以称浙江者。溯流东睎,又悉其亹龛赭,迳溟渤,顿挫汀蓄,迭荡掀激,斯所以为广陵之潮者。我皇考居九重之穆清,运万宇于几席,留意海塘,福彼苍赤,葺斯穹塔,资厥佑相。予小子景仰前烈,深惟爱民之心既诚,故为民之虑无所不至,而必中其綮。夫必待身患而后图之,斯不已迟乎?是皇考之圣神,而予小子瞠乎其后者也。故勒贞珉以识之。乾隆十有六年,岁在辛未春三月之吉,御制并书。复于塔上钦赐御书扁额,第一层曰初地坚固,第二层曰二谛俱融,第三层曰三明净域,第四层曰四天宝网,第五层曰五云扶盖,第六层曰六鳌负戴,第七层曰七宝庄严。
杭州月輪峰の六和塔は、宋の開宝中に創建し、以て江潮を鎮む。開化寺はその塔院なり。宋より以来、屢々毀ち屢々復す。毀つれば則ち驚浪の虞あり、復すれば則ち安瀾の慶あり。ここを以て雍正十三年、我が皇考・世宗憲皇帝、特に帑金を発し、有司に命じて工を鳩め材を庀め、輪奐たらしめ、二年を越えて告成す。また十有四年にして、朕南巡の便を以て、親ら頂に陟り、且つこれが為に記す。けだし浙の潮は人の共に雄巨と知る所、浙の塘は人の共に要害と知る所なり。しかれども目撃に非ざれば、終に耳食となる。且つ江に沿いて以来、またその曲折の形を辨ぜず。塔の顛に造りて、然る後にその浙江と称する所以を審らかにす。流を溯りて東に睎れば、またその亹龛赭、溟渤を迳り、頓挫汀蓄、迭荡掀激の、これ広陵の潮たる所以を悉す。我が皇考は九重の穆清に居り、万宇を几席に運び、海塘に留意し、かの蒼赤を福し、この穹塔を葺き、その佑相に資す。予小子前烈を景仰し、深く惟うに愛民の心既に誠なり。故に民の為に慮ること至らざる所なく、必ずその綮に中る。それ身の患を待ちて後にこれを図らば、これ已に遅きに非ずや。これ皇考の聖神にして、予小子瞠乎としてその後に在る者なり。故に貞珉に勒してこれを識す。乾隆十有六年、歳辛未に在り、春三月の吉、御製並びに書す。復た塔上に御書の扁額を欽賜す。第一層に曰く「初地堅固」、第二層に曰く「二諦倶融」、第三層に曰く「三明浄域」、第四層に曰く「四天宝網」、第五層に曰く「五雲扶蓋」、第六層に曰く「六鰲負戴」、第七層に曰く「七宝荘厳」。
古写真
1917〜1919年
ギャンブルは1917年から1919年にかけて、江岸・村落・塔上から六和塔を複数回撮影した。写真集第一輯には塔身と江岸の集落が収録され、第三輯には岸辺からの遠望が残り、第五輯には江上の帆船を背景とした塔影、および塔上から俯瞰した之江大学と銭塘江の眺望が含まれる。




1920〜1930年代頃
常盤大定・関野貞『中国文化史蹟』第四輯に六和塔の正面全景・道路からの遠望・塔内部の構造が収録されている。これらの写真は近代修繕前後の塔身外観、山麓の道路環境、および内部の煉瓦構造を記録している。


