はじめに
白鹿洞書院は江西省九江市廬山市(旧称・星子県)、廬山五老峰の南麓にある。唐の貞元年間(785—805)、洛陽の書生・李渤は兄の李渉とともに廬山に隠れて読書した。李渤は一頭の白鹿を飼い、人は彼を「白鹿先生」と呼んだ。宝暦年間(825—826)、李渤は江州刺史として赴任し、旧居に立ち戻って台榭を築き、流れを引き、花木を植えた。この地はそれから白鹿洞と呼ばれるようになった。白居易は詩を李渤に贈り、その中で「君家白鹿洞、聞道亦生苔」(あなたのお宅の白鹿洞も、聞けば苔を生じたという)と詠んだ。
唐末の戦乱の後も、ここにはなお読書し講学する者がいた。南唐の昇元年間(937—942)、朝廷はこの地に学館を建て、学田[1]を給し、国子監[2]の九経学官・李善道を洞主——すなわち書院の責任者——に任じ、「廬山国学」と名づけた。当時の人は「白鹿国庠」とも呼んだ。伍喬・江為ら、のちに名を成した士人もかつてここで学んだ。南唐の後主の代には、また良田が割かれ、その租を収めて学生を養った。北宋の初め、学館は書院となり、睢陽・石鼓・岳麓と並んで四大書院と称され、学生は常に数十から百人に及んだ。太平興国二年(977)、宋の太宗は江州知州・周述の願いを聞き入れ、国子監が刻印した九経を駅馬で洞に届けさせた。ところが三年後、洞主の明起が書院名義の学田を官に納めることを提案し、朝廷はその褒賞として彼に褒信県主簿の官を与えた。書院は学田を失い、これによって衰えた。大中祥符の初め、史館に在職していた孫冕は白鹿洞で老後を送らせてほしいと朝廷に願い、許されたが、到着しないうちに亡くなった。皇祐年間(1049—1054)、その子の孫琛は父の志を継ぎ、洞のそばに学舎十余間を増築して「白鹿洞書堂」の扁額を掲げ、子弟を教え、四方から来る求学者にも給した。北宋の末年には、書院は完全に荒廃した。
星子県一帯は宋代には南康軍に属した。南宋の淳熙六年(1179)、朱熹が南康軍の知軍——この地方の長官——として赴任した。水利を巡視した際に廬山に沿って東へ進み、荒草の中に書院の遺址を見つけると、すぐに軍学教授[3]の楊大法・星子県令の王仲杰を指名して再建を主導させ、翌年三月に完成した。朱熹は自ら「白鹿洞書院揭示」を学規として定め、堂上に掲示した。呂祖謙は招かれて「白鹿洞書院記」を記した。朱熹はまた朝廷に上奏し、岳麓書院の先例に倣って書院の扁額を賜るよう請い、あわせて高宗御書の石経と国子監の刻本経書の下賜を求めたが、当初は棚上げにされた。淳熙八年(1181)二月、金溪の儒者・陸九淵が訪ねて来て、堂に登り『論語』の「君子は義に喻り、小人は利に喻る」の一章を講じた。聴く者は感動して涙を落とし、朱熹は彼に講辞を書き留めるよう請い、洞に留めた。朱熹が浙東提挙に転任する際には、なお銭三十万を残し、後任の郡守・銭聞詩に礼聖殿の建立と孔子像の造営を託した。のちに入朝して延和殿で奏対した折、あらためて直接請い、宋の孝宗はようやく賜額・賜書を許可した。
元の大徳年間、南康郡守の崔翼之は書院のために学田を増置した。元末の兵乱で、歴代の建築はことごとく荒草と化した。元明の易代の際、王禕は南康府同知として白鹿洞を訪ねたが、書院はすでに毀れて十五年、瓦礫の間に生えた樹木は幾囲りもの太さになり、濯纓・枕流の二つの石橋だけが残り、山岡の大杉も官府が宮殿の材木にするため伐採しているところだった。明の正統元年(1436)、南康知府の翟溥福は自らの俸禄を捐じ、先頭に立って礼聖殿・大成門・貫道門・明倫堂・両斎・三賢祠などを再建した。成化年間には提学の李齢、弘治年間には提学の蘇葵と邵宝が相次いで大修し、正徳年間には李夢陽が江西提学として学田を調査整理し、洞志を重修し、釣台亭を建てた。白鹿洞の名は数百年伝わったが、書院の後山には実は本物の山洞はなかった。嘉靖九年(1530)、知府の王溱は書院の後山に石洞を開き、その上に台を築いた。嘉靖十三年(1534)、知府の何岩はまた石鹿を一尊彫って洞の中に置いた。万暦七年(1579)、首相の張居正が「偽学」の禁止を奏請すると、朝廷は天下の書院の取り毀しを命じ、学田は売却して辺防の軍費に充てられた。いわゆる「偽学」とは、当時の書院が徒を集めて講学する風潮を指す。白鹿書院は朝廷下賜の扁額を蔵し、先賢の遺像を祀っていたため取り毀しを免れ、祭田の一部を残すに留まった。万暦十一年(1583)、給事中の鄒元標の題請によって、書院の田産は回復された。
清の順治十二年(1655)、巡撫の蔡士英が修復を唱導し、南康府県に檄して洞田の整理と経費の調達を命じた。十四年(1657)、大成殿を再建し、講修堂を彝倫堂と改称し、建昌人の熊維典を聘して講席を主らせた。康熙七年(1668)、また両廡を再建した。十六年(1677)、知府の倫品卓が大修を主導し、彝倫堂・文会堂・先賢祠・三先生祠などを新築し、改修分を合わせて屋舎はあわせて百三十九間に及んだ。二十二年(1683)、巡撫の安世鼎は朝廷に奏して十三経・二十一史の下賜を請った。二十四年(1685)、知府の周燦は御書閣の建立を請った。二十六年(1687)、康熙帝は御書「学達性天」の扁額を賜り、経書とともに閣中に納められた。四十八年(1709)、また紫陽祠を専ら建てて朱熹を祀った。雍正四年(1726)、巡撫の裴𢡟度は旧文会堂の狭いのを嫌い、その東側に講堂三間を別建し、堂の後ろに春風楼五間を増築し、両脇に学生の号舎四十間を設けた。乾隆三十一年(1766)、知府の陳子恭は文会堂を重修し、堂前の泮池に橋を架け、池の南に貫道門を建て、常熟の学者・顧鎮を聘して院事を主らせた。この後十余年、学びに来る者は日ましに増え、その盛況は東南第一とされた。
乾隆末年以降、洞田の租息は次第に欠損した。嘉慶九年(1804)、巡撫の秦承恩は銀二千両を調達して大修に着工した。道光三年(1823)、巡撫の程含章は銀八百両を給して院宇を重修し、さらに奏准して毎年塩務の充公款项から銀一千両を給し、学生の生活補助を増やした。道光十八年(1838)、都昌人の余泰が資金を寄進して大成殿五間を新造した。咸豊三年(1853)に兵乱に遭い、学生は四散し、一部の房舎は倒壊し、あるものは取り毀された。咸豊七年(1857)、星子の挙人・潘先珍は本県の団練の経費を割いて春風楼・独対亭を修葺した。同治五年から九年(1866—1870)、歴任知府の黄廷金・王之藩・劉清華は相次いで銀を給して院宇を修理し、洞に蔵していた四本の石柱を大成殿に立てた。今日、礼聖殿・御書閣・彝倫堂・白鹿洞・思賢台などの建築は貫道溪に沿って並び、基本的に清代の格局を保っている。
歴史文献
『白居易集』
曾住𬬻峰下,书堂对药台。斩新萝径合,依旧竹窗开。砌水亲开决,池荷手自栽。五年方𫏐至,一宿又须回。纵未长归得,犹胜不到来。君家白鹿洞,闻道亦生苔。
かつて𬬻峰(香炉峰)の下に住み、書堂は薬台に対したり。斬新(いとあらた)なる蘿径(らけい)は合し、旧(もと)に依る竹窓は開けり。砌(みぎり)の水は親(みずか)ら開決(かいけつ)し、池の荷は手ずから栽えたり。五年にして方(はじ)めて暫(しばら)く至り、一宿してまた須(すべから)く回(かえ)らん。縦(たと)い長く帰ることを得ずとも、猶(なほ)到来らざるに勝れり。君が家の白鹿洞、聞くならく亦(また)苔を生ずと。
『新唐書』
李渤,字濬之,魏横野将军、申国公发之裔。父钧,殿中侍御史,以不能养母废于世,渤耻之,不肯仕。刻志于学,与仲兄涉偕隐庐山。尝以列御寇拒粟,其妻怒,是无妇也;乐羊子舍金,妻让之,是无夫也。乃摭古联德高蹈者,以楚接舆、老莱子、黔娄先生、於陵子、王仲孺、梁鸿六人图象赞其行,因以自儆。久之,更徙少室。
李渤、字は濬之、魏の横野将軍・申国公〔李〕発の裔(すえ)なり。父の鈞は殿中侍御史であったが、母を養う能わざるを以て世に廃れ、渤は之を恥じて仕え肯(あえ)てせず。志を学に刻み、仲兄の渉と偕(とも)に廬山に隠れたり。嘗(かつ)て〔念ふらく〕、列御寇は粟を拒めば其の妻怒れり、是れ無婦(むふ)なり。楽羊子は金を捨てれば妻之を譲(せ)めたり、是れ無夫(むふ)なり。乃ち古の徳を聯(つら)ね高蹈(こうとう)せし者を摭(あつ)め、楚の接輿・老莱子・黔婁先生・於陵子・王仲孺・梁鴻の六人を図象(ずぞう)して其の行を賛し、因(よ)りて以て自儆(じけい)とせり。久しくして、更に少室に徙(うつ)る。
「白鹿書院奏」
臣窃尝伏读国朝会要,恭睹太宗皇帝尝因江州守臣周述之奏,诏以国子监九经赐庐山白鹿洞书院,又以其洞主明起为蔡州褒信县主簿,以旌儒学。每恨无由一至其处,仰观遗迹。及蒙圣恩假守兹土,到任之初,考按图经,询究境内民间利病,乃知书院正在本军星子县界。而陈舜俞庐山记又载:真宗皇帝咸平五年,尝敕有司重加修缮。间因行视陂塘,始得经游其地,见其山川环合,草木秀润,真閒燕讲学之区,而荒凉废坏,无复栋宇。因窃念太宗皇帝、真宗皇帝所以幸教多士,垂裕万世之意,其盛如彼,而下吏浅陋,弗克称报万一,骇惧震慴,不遑启居。
臣、窃(ひそ)かに嘗(かつ)て国朝の会要を伏読し、恭(うやうや)しく太宗皇帝が嘗て江州の守臣周述の奏に因り、国子監の九経を以て廬山白鹿洞書院に賜ふを詔し、また其の洞主明起を以て蔡州褒信県主簿と為し、以て儒学を旌(あらは)されしを睹(み)たり。每(つね)に恨(うら)むらくは其の処に一至る由(よし)無きを、仰ぎて遺跡を観んと〔欲するも叶はざりし〕。聖恩を蒙りて茲(こ)の土を仮守(かもり=知事として臨む)するに及び、到任の初め、図経を考按し、境内の民間の利病を询究(じゅんきゅう)して、乃ち書院が正に本軍星子県の界に在るを知る。而(しか)るに陳舜俞の『廬山記』にまた載せて曰く、真宗皇帝の咸平五年、嘗て有司に敕して重ねて修繕を加へしむ、と。間(あひだ)、陂塘(はとう)を行視するに因り、始めて其の地に経游することを得、其の山川の環合し、草木の秀潤(しゅうじゅん)なるを見るに、真に閒燕(かんえん)・講学の区なり。而るに荒涼として廃壊し、復た棟宇無し。因りて窃かに念ふに、太宗皇帝・真宗皇帝の多士を幸教(こうきょう=導き恵み)し、万世に裕(ゆたか)を垂れんとする意、其の盛んなること彼(か)の如し。而るに下吏は浅陋(せんろう)にして、万一に称報(こた)ふること克(あた)はず。駭懼震慴(がいくしんしょう)して、启居(けいきょ=安んじ居る)に遑(いとま)あらず。
既又按考此山,佛老之祠,盖以百数,兵乱之余,次第兴葺,鲜不复其旧者。独此儒馆,莽为荆榛。虽本军巳有军学,足以养士,然此洞之兴,远自前代,累圣相传,眷顾光宠,德意深远,理不可废。况境内观寺,钟鼓相闻,殄弃彝伦,谈说空幻,未有厌其多者。而先王礼义之宫,所以化民成俗之本者,乃反寂寥希阔,合军与县仅有三所而已。然则复修此洞,盖末足为烦。于是始议即其故基,度为小屋二十余间,教养生徒一二十人,节缩经营,今已了毕。但其敕额官书,皆已烧毁散失,无复存者,不敢擅行收置,辄昧万死,具奏以闻。
既にまた此の山を按考するに、仏老の祠は、蓋(けだ)し百を以て数ふ。兵乱の余、次第に興葺(こうしゅう)して、其の旧に復せざる者鲜(まれ)なり。独り此の儒館のみ、莽(ぼう)として荊榛(けいしん=いばら)と為る。本軍巳(すで)に軍学有り、以て士を養ふに足れりと雖(いへ)ども、然れども此の洞の興りは、遠く前代より、累聖相伝へ、眷顧光寵(けんここうちょう)、徳意深遠なり。理として廃すべからず。況(いは)んや境内の観寺(かんじ)は、鐘鼓相聞え、彝倫(いりん)を殄(ほろ)び棄て、空幻を談説して、未だ其の多きを厭(いと)ふ者有らず。而るに先王の礼義の宮、民を化し俗を成す所以の本たる者は、乃ち反(かへ)つて寂寥希闊(せきりょうきかつ)として、軍と県を合せて僅かに三所有るのみ。然らば則ち此の洞を復修するは、蓋し煩(はん)と為すに足らず。是に於て始めて其の故基に即き、小屋二十余間を度(はか)りて、生徒一二十人を教養せんことを議し、節縮して経営し、今已(すで)に了畢(りょうひつ)せり。但し其の敕額・官書は、皆已に焼燬散失(しょうきさんしつ)して、復た存する者無し。敢て擅(ほしいまま)に収置(しゅうち)することを行はず。輙(すなは)ち万死を昧(おか)し、具(つぶさ)に奏して以て聞かしむ。
欲望圣明,俯赐鉴察,追述太宗皇帝、真宗皇帝圣神遗意,特降敕命,仍旧以白鹿洞书院为额。诏国子监仰摹光尧寿舜宪天体道性仁诚德经武纬文太上皇帝御书石经,及印版本九经疏、论语、孟子等书,给赐本洞,奉守看读,于以褒广先烈,光阐儒风,非独愚臣学子之幸,实天下万世之幸。谨录奏闻,伏候敕旨。
欲望らくは聖明、俯(ふ)して鑒察(かんさつ)を賜り、太宗皇帝・真宗皇帝の聖神の遺意を追述し、特に敕命を降し、旧に仍(よ)りて白鹿洞書院を以て額と為さんことを。国子監に詔し、光堯寿舜憲天体道性仁誠徳経武緯文太上皇帝(高宗)の御書の石経を仰ぎ摹(うつ)し、および印版本の九経疏・論語・孟子等の書を、本洞に給賜し、奉守して看読せしめ、于(ここ)を以て先烈を褒め広め、儒風を光闡(あきら)かにせんことを。独り愚臣・学子の幸のみに非ず、実に天下万世の幸なり。謹みて録して奏聞し、伏して敕旨を候(うかが)ふ。
「白鹿洞書院記」
淳熙六年,南康军秋雨不时,高卬之田告病。郡守新安朱侯熹行视陂塘,并庐山而东,得白鹿洞书院废址,慨然顾其僚曰:是盖唐李渤之隐居,而太宗皇帝驿送九经,俾生徒肄业之地也。书院创于南唐,其事至浅鲜,太宗于汛扫区宇日不暇给之际,奖劝封殖,如恐弗及,规模远矣。中兴五十年,释老之宫圮于寇戎者,斧斤之声相闻,各复其初,独此地委于榛莽,过者太息,庸非吾徒之耻哉?郡虽贫薄,顾不能筑屋数楹,上以宣布本朝崇建人文之大指,下以续先贤之风声于方来乎?乃属军学教授杨君大法、星子县令王君仲杰董其事,又以书命某记其成。
淳熙六年(1179)、南康軍に秋の雨時(とき)ならず、高卬(こうぎょう=高燥の地)の田は病(やま)ひを告ぐ。郡守の新安の朱侯熹(しゅうこうき)、陂塘を行視し、廬山に并(なら)びて東し、白鹿洞書院の廃址を得、慨然として其の僚を顧みて曰く、是は蓋し唐の李渤の隠居にして、太宗皇帝が九経を駅送し、生徒をして肄業(いつぎょう)せしめし地なり、と。書院は南唐に創められ、其の事は至って浅鲜(せんせん=微か)。太宗は区宇(くう=天下)を汛掃(じんそう=平定)し日に暇(いとま)あらざるの際に於て、奨勧封殖(しょうかんふうしょく=励まし育てる)して、恐るる如く及ばざるを〔憂ふ〕。規模遠きなり。中興五十年、寇戎(こうじゅう=兵乱)に圮(やぶ)れたる釈老の宮は、斧斤(ふきん=おの)の声相聞え、各々其の初に復す。独り此の地は榛莽(しんぼう)に委(す)てられ、過ぐる者は太息す。庸(もつ)て吾徒の恥に非(あら)ずや。郡は貧薄なりと雖ども、顧みて屋数楹を筑くこと能はざらんや。上を以て本朝の人文を崇建する大指(たいし)を宣布し、下を以て先賢の風声を方来(ほうらい=未来)に続がんとするに〔あらずや〕。乃ち軍学教授の楊君大法・星子県令の王君仲杰に其の事を董(ただ)させ、また書を以て某(それがし=呂祖謙)に其の成を記すを命ず。
某窃尝闻之。诸公长者,国初斯民新脱五季锋镝之阨,学者尚寡。海内向平,文风日起,儒先往往依山林,即閒旷以讲授,大帅多至数十百人。嵩阳、岳麓、雎阳及是洞为尤著,天下所谓四书院者也。祖宗尊右儒术,分之官书,命之禄秩,锡之扁榜,所以宠之者甚备。当是时,士皆尚质实,下新奇,敦行义而不偷,守训故而不凿,虽学问之渊源统纪,或未深究,然甘受和,白受采,既有进德之地矣。庆历、嘉祐之间,豪杰并出,讲治益精,至于河南程氏、横渠张氏,相与倡明正学,然后三代孔孟之教始终条理,于是乎可考。熙宁初,明道先生在朝,建白学制、教养、考察、宾兴之法,纲条甚悉,不幸王氏之学方兴,其议遂格,有志之士,未尝不叹息于斯。
某、窃かに嘗て之を聞く。諸公長者〔に曰はく〕、国初に斯の民は五季(五代)の鋒鏑(ほうてき=戦乱)の阨(あい)を新たに脱し、学者は尚(なほ)寡(すく)なし、と。海内平に向かひ、文風日に起こり、儒先(じゅせん=先学の儒者)は往往にして山林に依り、閒曠(かんこう=閑静の地)に即きて以て講授し、大帥(たいすい)は多きは数十百人に至る。嵩陽・岳麓・雎陽および是の洞を尤(もつと)も著(あらは)れりと為し、天下の所謂(いはゆる)四書院なり。祖宗は儒術を尊右し、之に官書を分かち、之に禄秩を命じ、之に扁榜(へんぼう=額)を錫(たま)ふ。寵する所以の者甚だ備はれり。是の時に当たり、士は皆質実を尚(たつと)び、新奇を下(いや)しみ、行義を敦(あつ)くして偸(ぬす)まず、訓故を守りて鑿(うが)たず。学問の淵源統紀は、或ひは未だ深く究めずと雖ども、然れども甘は和を受け、白は采を受く。〔素地あれば〕既に徳を進むるの地有り。慶暦・嘉祐の間、豪傑並び出で、講治は益々精(くは)しく、河南の程氏・横渠の張氏に至りて、相与に正学を倡明し、然る後に三代・孔孟の教の始終条理は、是に於て考ふべし。熙寧の初、明道先生(程顥)朝に在りて、学制・教養・考察・賓興の法を建白し、綱条甚だ悉(つぶさ)なり。不幸にして王氏(王安石)の学方(まさ)に興り、其の議遂に格(とどこほ)る。有志の士、未だ嘗て斯(ここ)に於て嘆息せざること無し。
当建炎再造,典刑文宪浸远旧观,关洛绪言,稍出于毁弃剪灭之余,晚进小生,骤闻其语,不知亲师取友,以讲求用力之实,躐等凌节,忽近慕远,未能𬮭程、张之门庭,而先有王氏高自贤圣之病。如是,洞之所传习道之者或鲜矣。然则书院之复,岂苟云哉?此邦之士,盖相与揖先儒淳固悫实之余风,服大学离经辨志之始教,由博而约,自卑而高,以答扬熙陵开迪乐育之大德,则于贤侯之劝学,斯无负矣。至于考方志,纪人物,亦有土者所当谨,若李渤之遗迹,固不得而略也。侯于是役,重民之劳,赋功己狭,率损其旧十七八,力不足而意则有余矣。兴废始末,具于当涂郭祥正所记者,皆不书。
建炎の再造(再興)に当たり、典刑文憲(てんけいぶんけん=制度文物)は浸(ひた)りて旧観より遠く、関洛(関中・洛陽の理学)の緒言(しょげん=残された言説)は、稍(やや)毀棄剪滅(ききせんめつ)の余より出でたり。晩進小生、驟(には)かに其の語を聞き、師に親しみ友を取り、以て講求用力の実を為すを知らず。躐等凌節(りょうとうりょうせつ=順序を飛び越え)し、近きを忽(ゆるが)せにし遠きを慕ひ、未だ程・張の門庭に𬮭(のぼ)る能はずして、先に王氏の自らを賢聖に高うするの病有り。是の如くにしては、洞に於て伝習して之を道ふ者は或ひは鲜(すく)なからん。然らば則ち書院の復興は、豈(あに)苟(いやしく)も云はんや。此の邦の士は、蓋し相与に先儒の淳固悫実(じゅんこかくじつ)の余風を揖(と)り、大学の離経辨志(りけいべんし)の始教を服し、博よりして約に、卑よりして高きに至り、以て熙陵(きりょう=太宗の陵、太宗を指す)の開迪楽育(かいてきらくいく)の大徳に答え揚げば、則ち賢侯の勧学に於て、斯(こ)に負くこと無からん。方志を考へ人物を紀するに至りては、亦た土を有つ者の謹むべき所なり。李渤の遺跡の如きは、固より略することを得ざるなり。侯は是の役に於て、民の労を重んじ、賦功(ふこう=工事の規模)を己(すで)に狭(せば)め、率(おほむ)ね其の旧より十七八を損(へ)らせたり。力は足らずして意は則ち余り有り。興廃の始末は、当塗の郭祥正の記す所に具(つぶさ)なり。皆書さず。
「白鹿洞書院揭示」
父子有亲,君臣有义,夫妇有别,长幼有序,朋友有信。
父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に序有り、朋友に信有り。
右五教之目。尧舜使契为司徒,敬敷五教,即此是也。学者学此而已。而其所以学之之序,亦有五焉,其别如左:
右は五教の目。堯舜は契(せつ)をして司徒と為し、敬みて五教を敷(し)かしむるは、即ち此れ是なり。学ぶ者は此を学ぶのみ。而(しか)して其の学ぶ所以の序も、亦た五有り。其の別は左の如し。
慱学之,审问之,谨思之,明辨之,笃行之。
博学(はくがく)し、審問(しんもん)し、謹思(きんし)し、明弁(めいべん)し、篤行(とくこう)す。
右为学之序。学、问、思、辨四者,所以穷理也。若夫笃行之事,则自修身以至于处事接物,亦各有要,其别如左:
右は学を為すの序。学・問・思・弁の四者は、理を窮むる所以なり。若(も)し夫(そ)れ篤行の事は、則ち身を修むるより以て事を処し物を接するに至るまで、亦た各々要有り。其の別は左の如し。
言忠信,行笃敬,惩忿窒欲,迁善改过,右修身之要。
言は忠信、行は篤敬、忿(いかり)を懲(こ)らし欲を窒(ふさ)ぎ、善に遷(うつ)り過を改むるは、右は身を修むるの要。
正其义不谋其利,明其道不计其功,右处事之要。
其の義を正しくして其の利を謀らず、其の道を明らかにして其の功を計(はから)ざるは、右は事を処するの要。
己所不欲,勿施于人,行有不得,反求诸己,右接物之要。
己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ。行ひて得ざる所有らば、反つて諸(これ)を己に求むるは、右は物を接するの要。
熹窃观古昔圣贤所以教人为学之意,莫非使之讲明义理,以修其身,然后推以及人,非徒欲其务记览、为词章,以钓声名、取利禄而已也。今人之为学者,则既反是矣。然圣贤所以教人之法,具存于经,有志之士固当熟读深思而问辨之。苟知其理之当然,而责其身以必然,则夫规矩禁防之具,岂待他人设之,而后有所持循哉?近世于学有规,其待学者为已浅矣,而其为法又未必古人之意也。故今不复以施于此堂,而特取凡圣贤所以教人为学之大端,条列如右,而揭之楣间。诸君其相与讲明遵守,而责之于身焉。则夫思虑云为之际,其所以戒谨而恐惧者,必有严于彼者矣。其有不然,而或出于此言之所弃,则彼所谓规者,必将取之,固不得而略也。诸君其亦念之哉!
熹、窃かに観るに、古昔の聖賢の人を教へ学を為さしむる所以の意は、之をして義理を講明し、以て其の身を修め、然る後に推して以て人に及ぼさしむるに莫(あら)ず。徒(いたづら)に其の記覧を務め、詞章を為し、以て声名を釣り利禄を取らんことを欲するのみに非ず。今の人の学を為す者は、則ち既に是に反せり。然れども聖賢の人を教ふる所以の法は、経に具(まつた)く存す。有志の士は固より熟読深思して之を問弁すべし。苟(いやしく)も其の理の当然を知りて、其の身に責めて必然を以てせば、則ち夫の規矩禁防(きくきんぼう)の具は、豈(あに)他人の之を設くるを待ちて、然る後に持循(じじゅん)する所有らんや。近世は学に於て規有り。其の学者を待つこと已(すで)に浅しと為るも、其の法を為すこと亦た必ずしも古人の意に非ず。故に今復た以て此の堂に施さずして、特に凡そ聖賢の人を教へ学を為さしむる所以の大端を取り、条列すること右の如くして、之を楣間(びかん=まぐさの間)に揭(かか)ぐ。諸君は其れ相与に講明し遵守して、之を身に責めんことを。則ち夫の思慮云為(うんい=言動)の際、其の戒め謹みて恐懼(きょうく)する所以の者は、必ず彼(かの規)より厳なる者有らん。其れ然らざる有りて、或ひは此の言の棄つる所より出づれば、則ち彼の所謂規なる者は、必ず将(まさ)に之を取らんとす。固より略することを得ざるなり。諸君は其れ亦た之を念へや。
「白鹿洞書院講義」
某虽少服父兄师友之训,不敢自弃,而顽钝疏拙,学不加进,每怀愧惕,恐卒负其初心。方将求针砭镌磨于四方师友,冀获开发,以免罪戾。此来得从郡侯秘书至白鹿书堂,群贤毕集,瞻睹盛观,窃自庆幸。秘书先生、教授先生不察其愚,令登讲席,以吐所闻。顾惟庸虚,何敢当此?辞避再三,不得所请,取论语中一章,陈平生之所感,以应嘉命,亦幸有以教之。
某(それがし=陸九淵)、少(わか)くして父兄師友の訓に服すと雖(いへ)ども、敢て自ら棄てず。而(しか)るに頑鈍疏拙(がんどんそせつ)にして、学は進を加へず、每(つね)に愧惕(きてき)を懐(いだ)き、卒(つひ)に其の初心に負(そむ)かんことを恐る。方(まさ)に四方の師友に針砭鐫磨(しんぺんせんま=切磋琢磨の指摘)を求め、開発を獲て以て罪戾を免(まぬか)れんことを冀(こひねが)はんとす。此の来(このたび)、郡侯の秘書〔先生=朱熹〕に従ふことを得て白鹿書堂に至り、群賢畢(ことごと)く集まり、盛観を瞻睹(せんと)し、窃かに自ら慶幸す。秘書先生・教授先生、其の愚を察せず、講席に登らしめ、以て聞く所を吐かしむ。顧みて惟(おも)ふに庸虚(ようきょ=平凡で空疎)なり、何ぞ敢て此に当たらんや。辞避すること再三、請ふ所を得ず。論語の中の一章を取り、平生の感ずる所を陳べ、以て嘉命に應(こた)ふ。亦た幸ひに以て之を教へんこと有らんことを。
子曰:君子喻于义,小人喻于利。
子曰く、君子は義に喻(さと)り、小人は利に喻る。
此章以义利判君子小人,辞旨晓白,然读之者苟不切已观省,亦恐未能有益也。某平日读此,不无所感。窃谓学者于此,当辨其志。人之所喻,由其所习,所习由其所志。志乎义,则所习者必在于义,所习在义,斯喻于义矣。志乎利,则所习者必在于利,所习在利,斯喻于利矣。故学者之志,不可不辨也。科举取士久矣,名儒巨公皆由此出,今为士者,固不能免此。然场屋之得失,顾其技与有司好恶如何耳,非所以为君子小人之辨也。而今世以此相尚,使汨没于此而不能自拔,则终日从事者,虽曰圣贤之书,而要其志之所乡,则有与圣贤背而驰者矣。推而上之,则又惟官资崇卑、禄廪厚薄是计,岂能悉心力于国事民隐,以无负于任使之者哉?从事其间,更历之多,讲习之熟,安得不有所喻?顾恐不在于义耳。诚能深思是身,不可使之为小人之归,其于利欲之习,怛焉为之痛心疾首,专志乎义而日勉焉,博学、审问、谨思、明辨而笃行之。由是而进于场屋,其文必皆道其平日之学、胸中之蕴,而不诡于圣人。由是而仕,必皆共其职,勤其事,心乎国,心乎民,而不为身计,其得不谓之君子乎?秘书先生起废以新斯堂,其意笃矣。凡至斯堂者,必不殊志,愿与诸君勉之,以毋负其志。
此の章は義利を以て君子・小人を判(わか)つ。辞旨は暁白(ぎょうはく=明らか)なり。然れども之を読む者、苟(いやしく)も切(せつ)に己を観省せずんば、亦た恐らくは未だ益有ること能(あた)はざるなり。某、平日此を読みて、感ずる所無きにあらず。窃かに謂ふ、学者は此に於て、当に其の志を辨(わきま)ふべし。人の喻る所は、其の習ふ所に由り、習ふ所は其の志す所に由る。義に志せば、則ち習ふ所は必ず義に在り。習ふ所義に在れば、斯(ここ)に義に喻る。利に志せば、則ち習ふ所は必ず利に在り。習ふ所利に在れば、斯に利に喻る。故に学者の志は、辨ぜざるべからざるなり。科挙の士を取ること久し。名儒巨公皆此に由りて出づ。今士を為す者は、固より此を免るること能はず。然れども場屋(じょうおく=試験場)の得失は、顧みて其の技と有司の好悪と如何なるかのみ耳(のみ)。君子小人の辨を為す所以に非ず。而るに今世は此を以て相尚(たふと)び、此に汩没(こつぼつ)して自ら抜くこと能はざらしむるときは、則ち終日従事する者は、曰く聖賢の書と雖ども、其の志の郷(むか)ふ所を要するに、則ち聖賢と背きて馳する者有らん。推して之を上れば、則ち又た惟(た)だ官資の崇卑(すうひ=官位の高下)・禄廩(ろくりん)の厚薄のみ是を計る。豈(あに)能く心力を国事・民隠に悉(つく)し、以て任使する者に負かざらんことを得んや。其の間に従事し、更歴(こうれき)の多く、講習の熟(じゅく)するは、安んぞ喻る所有らざるを得んや。顧みて恐るらくは義に在らざるのみ耳。誠に能く是の身を深思し、之をして小人の帰と為らしむべからず。其れ利欲の習に於ては、怛焉(だつえん)として之が為に痛心疾首(つうしんしっしゅ)し、志を義に専らにして日に勉めん。博学し、審問し、謹思し、明弁して篤行す。是に由りて場屋に進まば、其の文は必ず皆其の平日の学・胸中の蘊(うん)を道(の)べて、聖人に詭(そむ)かず。是に由りて仕ふれば、必ず皆其の職を共(ともの)にし、其の事に勤め、国に心し、民に心して、身の為に計らず。其れ君子と謂ふことを得ざらんや。秘書先生は廃を起こし以て斯の堂を新たにす。其の意は篤(あつ)し。凡そ斯の堂に至る者は、必ず志を殊(こと)にせず。願はくは諸君と之を勉め、以て其の志に負くこと毋(な)からんことを。
淳熙辛丑春二月,陆兄子静来自金溪,其徒朱克家、陆麟之、周清叟、熊鉴、路谦亨、胥训实从。十日丁亥,熹率寮友诸生与俱至于白鹿书院,请得一言以警学者。子静既不鄙而惠许之。至其所以发明敷畅,则又恳到明白,而皆有以切中学者隐微深痼之病,盖听者莫不悚然动心焉。熹犹惧其久而或忘之也,复请子静笔之于简,受而藏之。凡我同志,于此反身而深察之,则庶乎其可不迷于入德之方矣。新安朱熹识。
淳熙辛丑(淳熙八年・1181)の春二月、陸兄子静(陸九淵)、金溪より来たる。其の徒の朱克家・陸麟之・周清叟・熊鑑・路謙亨・胥訓、実に従ふ。十日丁亥、熹、寮友・諸生を率ゐて与(とも)に白鹿書院に至り、一言を得て以て学者を警(いまし)めんことを請ふ。子静は既に鄙(いや)しまずして恵み許せり。其の発明敷暢(はつめいふちょう=明らかに論じ展べる)する所以に至りては、則ち又た懇到明白(こんとうめいはく)にして、皆よく学者の隠微深痼(いんびしんこ)の病に切中す。蓋(けだ)し聴く者は悚然(しょうぜん)として心を動かさざる莫(なか)りし。熹は猶(なほ)其の久しくして或ひは之を忘れんことを懼(おそ)れ、復た子静に請ふて之を簡に筆(ふで)せしめ、受けて之を蔵(しま)ふ。凡そ我が同志、此に於て身に反りて深く之を察すれば、則ち庶(ほふ)幾(ほとん)ど徳に入るの方に迷はざるべきか。新安の朱熹識す。
「遊白鹿洞記」
余到郡已数月,欲至白鹿洞,甚渴,左右为余言:往时荆棘塞路,不可往。顷因伐大木,往者众,路乃始通。然路上虎纵横,苟欲往,非多拥驺从不可。用是欲行辄复止。会行省符檄郡府取大木,余因挟星子令及都昌主簿彭能,领丁夫与同往。
余、郡に到りて已(すで)に数月。白鹿洞に至らんと欲すること甚だ渇(かわ)くが如し。左右、余の為に言ふ、往時は荊棘(けいきょく)路を塞(ふさ)ぎ、往くべからず。頃(ごろ)は大木を伐るに因り、往く者衆く、路は乃ち始めて通ず、と。然れども路上に虎縦横(じゅうおう)す。苟(いやしく)も往かんと欲せば、多く騶従(すうしょう=随兵)を擁するに非ざれば可ならず。是を用ゐて行かんと欲すれば輙(すなは)ち復た止む。会(たまたま)行省が符檄を郡府に下して大木を取る。余は因りて星子令および都昌主簿の彭能を挟(ともな)ひ、丁夫を領して与(とも)に往く。
去郡北行十五里,至罗汉寺。路分两歧,由东入栖贤谷,西则至白鹿洞也。比至,两山势回合,当其合处,涧水出焉。过涧逾小岭,岭有缺,若关门然。入关路循涧北,并山转涧南,皆良田也。约二三里,乃至书院遗圳,正当五老峰下。书院毁已十五年,树生瓦砾间,大且数围。前有石桥曰濯缨,其左又有石桥曰枕流。过枕流,则从列女庙登北冈,冈上有大杉木,六七百年物也。有司今尽伐为御殿物矣。于是书院所存者,独此二桥。从卒指殿堂斋庐及风泉云壑楼故处以告,甚历历,慨想昔日规制不可见,惟闻山鸟相呼,鸣山谷虚,余韵悠扬,恍类弦歌声。或云:从此右折东南,逾重冈,行二三里,乃至所谓白鹿洞,却从洞后复右折陟岭,乃可到寻真观,望水帘也。不果往,徘徊久之而还。
郡を去りて北行すること十五里、羅漢寺に至る。路は両歧(りょうき)に分かれ、東より棲賢谷に入り、西は則ち白鹿洞に至るなり。比(およ)そ至れば、両山の勢ひ回合し、其の合する処に当たりて澗水(かんすい)出づ。澗を過ぎ小嶺を逾(こ)ゆ。嶺に缺(かけ)有りて、関門の若(ごと)し。関に入れば路は澗の北に循(したが)ひ、山に并(なら)びて澗の南に転ず。皆良田なり。約(おほよ)そ二三里にして、乃ち書院の遺圳(いしん)に至る。正に五老峰の下に当たる。書院毀(やぶ)れて已に十五年。瓦礫の間に樹生じ、大きさ且(あはせ)て数囲(すうい)。前に石橋有りて濯纓(たくえい)と曰ひ、其の左に又た石橋有りて枕流(ちんりゅう)と曰ふ。枕流を過ぐれば、則ち列女廟より北岡に登る。岡上に大杉木有り、六七百年の物なり。有司今尽く伐りて御殿の物と為す。是に於て書院の存する所は、独り此の二橋のみ。従卒、殿堂・斎廬および風泉雲壑楼の故処を指して以て告ぐ。甚だ歴歴(れきれき)たり。慨然として昔日の規制の見るべからざるを想ひ、惟だ山鳥の相呼び、谷虚(たにうつろ)に鳴くを聞く。余韻悠揚(ゆうよう)として、恍(は)て類(に)たること弦歌(げんか)の声の如し。或る者云く、此より右折して東南、重岡(ちょうこう)を逾え、行くこと二三里にして、乃ち所謂白鹿洞に至る。却(かへ)りて洞の後より復た右折して嶺に陟(のぼ)れば、乃ち尋真観に到り、水簾を望むべし、と。果して往かず、徘徊すること久之(ひさ)しくして還る。
按白鹿洞,唐李勃读书处也。南唐升元中,始即其地为学,给田以食其徒,所谓庐山国学也。宋初,天下未有学,惟有四书院,睢阳、石鼓、岳麓及白鹿洞也。太平兴国二年,皆赐白鹿洞九经,当时学者数百人,至崇宁末,乃尽废。及淳熙七年,考亭朱文公为郡,始斥其旧而大之,又定为学规,示学者,来学者益众,而白鹿洞之盛出他书院右。自后守其成规,二百年如一日也,而隳废今乃如此,余亦无如之何也。
按ずるに白鹿洞は、唐の李勃(李渤)が読書の処なり。南唐の昇元中、始めて其の地に即きて学を為し、田を給して以て其の徒を食(ふ)ましむ。所謂廬山国学なり。宋の初、天下未だ学有らず。惟だ四書院有り。睢陽・石鼓・岳麓および白鹿洞なり。太平興国二年、皆白鹿洞に九経を賜ふ。当時の学者数百人。崇寧の末に至り、乃ち尽く廃す。淳熙七年に及び、考亭の朱文公(朱熹)郡を為(おさ)め、始めて其の旧を斥(ひら)きて之を大きくし、又た学規を定めて、学者に示す。来たり学ぶ者益々衆くして、白鹿洞の盛んなるは他の書院の右に出づ。自(それ)より後、其の成規を守ること、二百年一日の如し。而るに隳廃(きはい)して今乃ち此の如し。余も之を如何ともすること無きなり。
余尝怪世之为佛、老氏之学者,其宫室一废坏,辄修举之不旋踵。岂佛、老氏之学能盛于儒者哉?盖为其徒者有勤行之意,坚持之操,能必其成故也。至于世儒习圣人之道,常骫骳不自振,不能以有为,而圣人之道顾因委弃郁塞而不得行。呜呼!此其弊也,非一日之积矣。余于是盖重叹之也。
余は嘗(かつ)て怪(あや)しむ、世の仏・老氏の学を為す者は、其の宮室一たび廃壊すれば、輙(すなは)ち之を修挙して踵を旋(めぐ)らさず(直ちに修める)。豈(あに)仏・老氏の学の儒者より盛んなること能はんや。蓋し其の徒たる者は勤行の意・堅持の操有りて、能く其の成を必(かなら)ずとするが故なり。世の儒の聖人の道を習ふに至りては、常に骫骳(いひ=なよやかにして振るはざるさま)として自ら振るはず、以て有為(ゆうい)なることを能はず。而して聖人の道は顧(かへり)みて因(よ)りて委棄郁塞(いきうっそく)して行はるることを得ず。嗚呼(ああ)!此れ其の弊なり。一日の積に非ず。余は是に於て蓋し重ねて之を歎(なげ)くなり。
『白鹿書院志』
白鹿洞者,唐李渤读书处也。贞元中,渤与兄涉隐庐山,蓄一白鹿甚驯,行尝随之,人称白鹿先生。宝历中,渤为江州剌史,就今书院地创台榭,引流植花,遂以白鹿名洞。先是,鲁公颜真卿寄居郡之五里牌,厥后裔孙颜翊率子弟三十余人授经洞中。南唐升元,即其地聚徒,建学置田,乃命国子监九经李善道为洞主,号曰庐山国学。
白鹿洞とは、唐の李渤が読書の処なり。貞元中、渤は兄の渉と廬山に隠れ、一の白鹿を蓄(か)ふこと甚だ馴(な)れ、行けば嘗(かつ)て之に随(したが)ふ。人は白鹿先生と称す。宝暦中、渤は江州剌史(刺史)と為り、今の書院の地に就きて台榭を創り、流を引き花を植ゑ、遂に白鹿を以て洞に名づく。是より先、魯公の顔真卿、郡の五里牌に寄居し、厥(そ)の後裔孫の顔翊(がんよく)、子弟三十余人を率ゐて洞中に経を授く。南唐の昇元、其の地に即きて徒を聚(あつ)め、学を建て田を置き、乃ち国子監の九経〔学官〕李善道を命じて洞主と為し、号して廬山国学と曰ふ。
朱初置书院,与雎阳、石鼓、岳麓三本院并名,天下学徒常数十百人。太平兴国丁丑,诏从知江州周述请,俾国子监给印本、九经,驿送至洞,号曰白鹿国学。官其洞主明起为褒信县主簿。壬午,置南康军,遂属焉。咸平壬寅,诏有司修缮。祥符初,直史馆孙冕请归老于洞,许之,未至而卒。皇祐中,冕子郎中琛,因父志,增置学舍十余间,以教其子弟,扁曰白鹿洞书堂,并给四方之来学者。当涂郭祥正有记刻石。后馆毁于兵,石徒天庆观。观废,刻竟不存。
朱(宋)初めて書院を置き、雎陽・石鼓・岳麓の三本院と并び名づけられ、天下の学徒常に数十百人。太平興国の丁丑(二年・977)、詔して江州を知る周述の請に従はせ、国子監をして印本の九経を給し、洞に駅送せしむ。号して白鹿国学と曰ふ。其の洞主明起を官して褒信県主簿と為す。壬午(太平興国七年)、南康軍を置き、遂に属せり。咸平の壬寅(五年)、詔して有司に修繕せしむ。祥符の初、直史館の孫冕、洞に帰老せんことを請ふ。之を許す。未だ至らずして卒す。皇祐中、冕の子の郎中の琛、父の志に因り、学舎十余間を増置し、以て其の子弟を教へ、扁(へん=額)して白鹿洞書堂と曰ひ、并(あは)せて四方の来たり学ぶ者に給す。当塗の郭祥正に記有りて石に刻す。後に館は兵に毀れ、石は天慶観に徙(うつ)る。観廃れて、刻は竟(つひ)に存せず。
淳熙己亥,朱子守是军,复拓其址,檄军学教授杨大法、县令王伸杰董建书院。吕祖谦记之,援岳麓书院例,疏请敕额,并高宗御书石经与监本九经于其中,列圣贤为学次第,以示学者。一时名人如陆子静、刘子澄、林泽之皆从游焉。既而学徒日众,乃于建昌县置东源庄,拨没入田以给之。后迁浙东提举,复遗钱三十万,属郡守钱闻诗,建圣殿并塑像。后二年,郡守朱端章加板璧,绘从祀诸贤像,仍拨浮屠没入田以盆之。嘉定辛巳,郡守黄桂辟三门,重建圣殿,又增置定西源庄田。咸淳间,郡守刘传汉增置贡士庄。元大德间,燕山崔翼之为守,又增置上壤庄田百𤱔,学士虞伯生有记。
淳熙の己亥(六年・1179)、朱子是の軍を守り、復た其の址を拓(ひら)き、軍学教授の楊大法・県令の王伸杰に檄して書院を建てしむ。呂祖謙之を記し、岳麓書院の例を援(ひ)き、疏(そ)して敕額を請ひ、并せて高宗の御書の石経と監本の九経とを其の中に〔賜はらんことを請ひ〕、聖賢の学を為す次第を列ね、以て学者に示す。一時の名人、陸子静・劉子澄・林澤之の如き、皆従ひて游べり。既にして学徒日に衆く、乃ち建昌県に東源荘を置き、没入の田を撥(は)ねて以て之に給す。後に浙東提挙に遷(うつ)り、復た銭三十万を遺(おく)り、郡守の銭聞詩に属(しょく)し、聖殿を建て并せて像を塑(つく)らしむ。後二年、郡守の朱端章、板璧(はんぺき=板塀)を加へ、従祀の諸賢の像を絵(えが)き、仍(よ)りて浮屠(ふと=仏寺)の没入田を撥ねて以て之を盆(うづ=増やす)。嘉定の辛巳(十四年・1221)、郡守の黄桂、三門を辟(ひら)き、聖殿を重建し、又た定西源荘田を増置す。咸淳の間、郡守の劉伝漢、貢士荘を増置す。元の大徳の間、燕山の崔翼之守と為り、又た上壌荘田百𤱔(ほ=畝)を増置す。学士の虞伯生(虞集)記有り。
元季兵毁,累世兴搆,鞠为茂草,而学田之疆畛尽亡矣。明正统戊午,翟溥福来守,始剪荆棘,以复其制。景泰中,郡守陈敏政再修,及塑圣贤像。成化三年,督学李龄增廓之,置学田、祠器、书籍,聘为未布衣胡居仁主教,四方宗之。后御史陈铨、唐龙、提学苏葵、邵宝、蔡清、李梦阳相继兴理,如唐龙奏起蔡宗兖主洞事,尤称特典焉。嘉隆以来,增置田庐有差,详载各志。至万历乙卯,大学士张居正议禁书院、洞田官鬻。岁癸未,给事中邹元标题请复之。参政程拱宸檄知府潘志伊修祠宇,赎田𤱔,规制粗定。己丑,提学朱廷益礼聘南昌布衣章潢,讲明正学。知府田琯复改创桥梁、门路,立鹿洞、憩馆,以五里牌立帝香资,增置田七百余𤱔,赡给生徒。甲寅,参议葛寅亮捐俸三百金,大加修葺,增置号舍数十间。丁巳,郡侯袁懋贞条画规制,甄收劝课,厘然有章。士无滥收,租无冒破。申聘南昌舒曰敬,大开讲筵,学者云集。暨舒先生以读礼还公,复谬推予董率其事焉。
元の季(すゑ)、兵に毀れ、累世の興搆(こうこう=建てた構え)は鞠(つひ)に茂草と為り、而して学田の疆畛(きょうしん=境畔)は尽く亡(う)せたり。明の正統の戊午、翟溥福来たりて守と為り、始めて荊棘を剪(き)り、以て其の制を復す。景泰中、郡守の陳敏政再び修め、聖賢の像を塑るに及ぶ。成化三年、督学の李齢、之を増廓(ぞうかく=拡張)し、学田・祠器・書籍を置き、未布衣(まだ布衣=官に在らざる)の胡居仁を聘して主教と為す。四方之を宗(むね)とす。後に御史の陳銓・唐龍、提学の蘇葵・邵宝・蔡清・李夢陽、相継ぎて興理す。唐龍が奏して蔡宗兖を起こして洞事を主らしめたる如きは、尤も特典と称せり。嘉隆(嘉靖・隆慶)以来、田廬を増置すること有差(いさ=等差あ)り。詳しくは各志に載す。万暦の乙卯(七年・1579)に至り、大学士の張居正、書院を禁じ洞田を官に鬻(ひさ)ぐを議す。歳癸未(十一年・1583)、給事中の鄒元標、題して之に復すを請ふ。参政の程拱宸、知府の潘志伊に檄して祠宇を修め、田畝を贖(あがな)ふ。規制粗(ほぼ)定まる。己丑(万暦十七年)、提学の朱廷益、南昌の布衣の章潢を礼聘し、正学を講明す。知府の田琯、復た橋梁・門路を改創し、鹿洞・憩館を立て、五里牌を以て帝香資を立て、田七百余畝を増置し、生徒を贍給(せんきゅう)す。甲寅(万暦四十二年)、参議の葛寅亮、俸三百金を捐(す)て、大いに修葺を加へ、号舎数十間を増置す。丁巳(万暦四十五年)、郡侯の袁懋貞、規制を条画し、甄収勧課(けんしゅうかんか=選別収用し奨励課督す)、厘然(りぜん)として章有り。士に濫収無く、租に冒破(ぼうは=ごまかしの支出)無し。南昌の舒曰敬を申聘(しんぺい=重ねて聘)し、大いに講筵を開く。学者雲集す。舒先生が読礼(どくれい=父母の喪で職を退く)を以て公に還るに暨(およ)び、復た謬(あやま)りて予を推して其の事を董率(とうそつ=統率)せしむ。
『続資治通鑑』
六月己亥,以江州白鹿洞主明起为蔡州袖信县主簿。白鹿洞在庐山之阳,常聚生徒数百人,江南后主时,割善田数十,岁取其租廪给之,选太学通经者授以它官,俾领洞事,日与诸生讲诵。至是起建议,以其田入官,故爵命之。白目鹿洞由是渐废。
六月己亥、江州白鹿洞主の明起を以て蔡州袖信県(褒信県)主簿と為す。白鹿洞は廬山の陽に在り、常に生徒数百人を聚(あつ)む。江南の後主の時、善田数十を割き、歳に其の租を取りて廩給(りんきゅう)し、太学の経に通ずる者を選びて以て它官を授け、洞事を領せしめ、日に諸生と講誦せしむ。是に至りて起、建議して其の田を以て官に入る。故に爵命せり。白目鹿洞(白鹿洞)は是に由りて漸(ようや)く廃れたり。
『皇華紀聞』
庐山南碑刻题石,惟白鹿洞、开先寺最多。白鹿最古者朱文公之古本、大学、中庸、白鹿洞赋、陆文安公义利说、王忠文公游记,开先最古者黄文节公七佛偈。余明人如王文成、湛甘泉、李空同、邵文庄、乔庄简诸公笔迹甚伙,不能悉录也。归宗、栖贤、万杉,虽古刹寥寥矣。
廬山の南の碑刻題石は、惟(た)だ白鹿洞・開先寺に最も多し。白鹿の最古の者は、朱文公(朱熹)の古本・大学・中庸・白鹿洞賦・陸文安公(陸九淵)の義利説・王忠文公(王禕)の游記。開先の最古の者は黄文節公(黄庭堅)の七仏偈。余の明人、王文成(王守仁)・湛甘泉・李空同(李夢陽)・邵文荘(邵宝)・喬荘簡の諸公の如き、筆跡甚だ夥(おびただ)しく、悉(ことごと)く録すること能はざるなり。帰宗・棲賢・万杉は、古刹と雖ども寥寥(りょうりょう=さびれ)たり。
白鹿洞书院,创于南唐升元中,以国子监九经李善道主洞事。至宋太平兴国中,以明起为白鹿洞主。朱文公知南康,学规始备。明代多巡抚督学,礼聘名儒充之。其最著者胡敬斋先生居仁、蔡希渊宗兖,刘给事世扬、赵给事参鲁、吴明卿国伦、章斗津潢、舒碣石曰敬、李忠毅应升、朱勋、黄佑。蔡为唐御史龙特疏,以兴化府教授改南康,主洞席。胡、章、舒皆江西理学名儒,吴、李则南康府推官。其聘而不至者,陈白沙先生献章也。今当路聘汤惕𤲅来贺主之。惕𤲅南丰人,崇祯庚辰进士,前给事中,今年八十。顺治中,巡抚蔡襄敏公士英聘建昌熊约𤲅维典主之。熊,崇祯辛未进士,亦前给事中。
白鹿洞書院は、南唐の昇元中に創められ、国子監の九経〔学官〕李善道を以て洞事を主(つかさど)らしむ。宋の太平興国中に至り、明起を以て白鹿洞主と為す。朱文公南康を知りて、学規始めて備はる。明代は多く巡撫・督学が、名儒を礼聘して以て之に充つ。其の最も著はる者は、胡敬斎先生居仁・蔡希淵宗兖、劉給事世揚・趙給事参魯・呉明卿国倫・章斗津潢・舒碣石曰敬・李忠毅應升・朱勲・黄佑。蔡は唐御史龍の特疏(とくそ=特別の上奏)にて、興化府教授より南康に改め、洞席を主れり。胡・章・舒は皆江西の理学の名儒。呉・李は則ち南康府推官。其の聘して至らざる者は、陳白沙先生献章なり。今、当路(とうろ=当局)、湯惕𤲅来賀を聘して之を主らしむ。惕𤲅は南豊の人、崇禎庚辰の進士、前の給事中。今年八十。順治中、巡撫の蔡襄敏公士英、建昌の熊約𤲅維典を聘して之を主らしむ。熊は崇禎辛未の進士、亦た前の給事中。
『江西考古録』
陈舜俞庐山记曰:唐李渤与兄涉偕隐白鹿洞,后为江州刺史,乃即洞创台榭,环以流水,杂植花木,为一时之胜。南唐升元中,因洞建学馆,置𫩏以给诸生,学者大集。乃以国子监九经李善道为洞主,掌其教授。故江南野史云:当时谓之白鹿国庠。朱子白鹿洞赋亦云:自升元之有土,始变塾而为庠。今人但知鹿洞在宋与石鼓、嵩阳、岳麓为天下四大书院,而不知当南唐时尝为白鹿国庠也。
陳舜俞の『廬山記』に曰く、唐の李渤は兄の渉と偕(とも)に白鹿洞に隠れ、後に江州刺史と為り、乃ち洞に即きて台榭を創り、流水を以て環(めぐ)らし、花木を雑植して、一時の勝(せい=名勝)と為す。南唐の昇元中、洞に因りて学館を建て、𫩏(ちん=廩食)を置きて以て諸生に給し、学者大いに集まる。乃ち国子監の九経〔学官〕李善道を以て洞主と為し、其の教授を掌(つかさど)らしむ。故に江南野史に云く、当時は之を白鹿国庠と謂へり、と。朱子の『白鹿洞賦』にも亦云く、昇元の土を有つより、始めて塾を変じて庠(しょう=学校)と為す、と。今の人は但(た)だ鹿洞が宋に於て石鼓・嵩陽・岳麓と天下の四大書院と為るを知るのみにして、南唐に当たりて嘗て白鹿国庠と為りしを知らざるなり。
陶谷清异录曰:庐山白鹿洞,游士辐凑,每冬寒,醵金市乌薪为御冬备,号黑金社。十月旦日,命酒为毡𬙎会。盖御密窗家张置毯褥,以是日始也。此事颇僻,可存作鹿洞佳话。
陶谷の『清異録』に曰く、廬山白鹿洞、游士輻湊(ふくそう=集まる)す。毎冬(まいとう=毎年冬)寒く、金を醵(あつ)めて烏薪(うしん=炭)を市(か)ひ、御冬の備へと為す。号して黒金社と曰ふ。十月の旦日(たんじつ=一日)、酒を命じて毡𬙎会(せんじゅかい=毛毡を敷く会)と為す。蓋(けだ)し密窓(みっそう=暖かい部屋)を御する家は毯褥(たんじょく=毛布と褥)を張置するは、是の日を以て始めと為すなり。此の事頗(すこぶ)る僻(へき=珍らし)。存して鹿洞の佳話と作(な)すべし。
古写真
1917年から1919年
アメリカの社会学者シドニー・D・ギャンブル(甘博)は、江西廬山一帯を調査した際に白鹿洞書院を撮影し、写真は『ギャンブル写真集』に収められた。一葉は書院の殿内に祀られた孔子像で、像は雕花の神龕の中に設けられ、前に供卓を陳ね、上に「万世師表」の扁額が懸かる。もう一葉は白鹿洞で撮られ、石洞は煉瓦の券(アーチ)をなし、洞内に碑が立ち、碑の前に石鹿が静かに佇む。
1920年代から1930年代
常盤大定・関野貞一行は江西の古跡を調査した際に白鹿洞書院を撮影し、1941年に法蔵館刊行の『中国文化史蹟』第十輯に収められた。第一・二葉の図版説明は「五老峰及白鹿洞書院」と題し、洞外の田疇と林間から遠望し、五老峰の下に院舎が錯落と建ち並ぶ。第三葉は「白鹿洞書院前景」と題し、一孔の石橋が澗を跨ぎ、橋の後ろは松林に門亭が隠れ映る。第四葉は「白鹿洞」と題し、石洞内に碑が立つ。第五・六葉は「孔子像」「朱子像」と題し、殿内に祀られた塑像で、朱子像の前には「晦庵文公朱子神位」の牌が立つ。