概要
風穴寺は河南省汝州市の北東、風穴山の斜面に沿って建つ仏教寺院で、白雲寺・千峰寺とも呼ばれる[1]。創建年代には諸説があり、明代の碑記は北魏に遡らせる一方、隋代・唐代とする記録もある。唐代には貞禅師が山中で修行し、開元二十六年(738)に『開元寺貞和尚塔銘』が建てられた。五代の飢饉では僧たちが離散し、仏像や鐘・太鼓と、山沿いの数軒の草庵が残った。
後唐の長興二年(931)、延沼禅師が汝州に来た。草庵について農夫に尋ねると、古い風穴寺だという。住んでもよいかと問うと許され、そのまま留まった。昼は村々で托鉢し、夜は松脂を燃やして明かりとし、七年間独りで暮らした。その後、地方官や町の僧俗に請われて説法を始めたが、戦乱が起こると僧衆とともに郢州へ避難した。
戦乱が収まると、汝州の宋太師と呼ばれる人物が自宅を寺に改めて寄進し、延沼を住持として迎えた。後周の広順元年(951)、朝廷はこの新寺に「広慧」の寺額を与えた。延沼は以後二十二年間ここを率い、常に百人余りの僧がいた。『五灯会元』はこれを「新寺」と呼び、以前に暮らした山中の古寺と区別している。
北宋の宣和七年(1125)、山寺の殿堂と回廊の間に懸鐘閣が増築され、同年に大きな鉄鐘が鋳造された。金代の中仏殿は境内の毘盧殿前方に位置する。正面・奥行とも三間の木造仏殿で、軒は一重、屋根には灰色の丸瓦を葺く。
元代には寺の周囲に高僧を記念する墓塔が建った。至元十七年(1280)、上塔林に松斉慧公塔が建立された。六角四層の煉瓦塔で、木造楼閣を模し、各層の軒下に木組みを表す煉瓦彫刻を施す。初層には扉や窓、幾何学的な格子も刻まれる。至正二年(1342)には下塔林の沼公塔が再建され、山寺で暮らし説法した延沼を記念した。
明の成化十一年(1475)、古い毘盧殿は荒廃していた。住持の円証は弟子たちと造営を始めたが、完成を見ずに没した。その後、清秀とその師の満巍、寺僧の清流らが工事を継ぎ、僧の浄書らが地元の長老・王福善らと募財した。正徳二年(1507)、着工から三十二年を経て殿が完成した。儒者の李興がかつて講義した堂の前に建ち、高く広く奥行きがあり、「毘盧」の額を掲げ、坐像と立像合わせて六尊を祀った。円証の未完の事業は、弟子と孫弟子の二代によって成し遂げられた。
完成後、僧たちはかつて寺で教えた李興に記文を求めた。同年の友人[2]の子・盛瑞が手紙で依頼し、清秀も百里を二度訪ねて催促した。正徳四年(1509)、李興は『毘盧殿記』を書き、師から孫弟子に至る積み重ねの苦労を嘆賞した。僧たちは専心し、粗雑な完成や即効を求めず、数十年かけて先人の願いを果たしたと評価する。それに比べ、独りで聖賢の書を読んで理解したつもりになりながら、公務では真摯さと持続力を欠き、集まれば目先の利益しか語らない儒者を省みた。僧の功績を記すとともに自らの学問の実践の難しさを恥じ、「筆を停めて三たび嘆く」と結んだ。
現在も境内に七祖塔・中仏殿・毘盧殿が残る。懸鐘閣は後世に損傷と修復を重ねたが、宣和七年の鉄鐘を吊り、周囲の塔林にも元代の高僧の記念塔が伝わっている。
歴史資料
『夢渓筆談』
解州盐泽之南,秋夏间多大风,谓之盐南风。其势发屋拔木,几欲动地。然东与南皆不过中条,西不过席张铺,北不过鸣条,纵广止于数十里之间。解盐不得,此风不冰。盖大卤之气相感,莫知其然也。又汝南亦多大风,虽不及盐南之厉,然亦甚于他处,不知缘何如此。或云:自城北风穴山中出,今所谓风穴者已夷矣,而汝南自若,了知非有穴也。方谚云:汝州风,许州葱。其来素矣。
解州の塩湖の南では秋と夏に強風が多く、塩南風という。屋根を飛ばし木を抜き、大地まで動かすほどだが、東と南は中条山、西は席張鋪、北は鳴条を越えず、広さは数十里にすぎない。この風がなければ解州の塩は結晶しない。塩湖の気が感応するのだろうが理由は分からない。汝南にも強風が多く、塩南風ほどではないが他所より強い。城北の風穴山から出るともいう。しかし風穴とされた場所はすでに平らになったのに風は変わらず、穴によるのでないと分かる。「汝州の風、許州の葱」という諺は古くからある。
『五灯会元』
汝州风穴延沼禅师,余杭刘氏子。幼不茹荤,习儒典,应进士,一举不遂,乃出家,依本州开元寺智恭披削受具,习天台止观。年二十五,谒镜清。清问:近离甚处?师曰:自离东来。清曰:还过小江也无?师曰:大舸独飘空,小江无可济。清曰:镜水秦山,鸟飞不度子,莫道听途言。师曰:沧𬈑尚怯艨䑳势,列汉飞帆渡五湖。清竖拂子曰:争柰这个何?师曰:这个是甚么?清曰:果然不识。师曰:出没卷舒,与师同用。清曰:杓卜听虚声,熟睡饶𬤛语。师曰:泽广藏山,理能伏豹。清曰:舍罪放愆,速须出去。师曰:出去即失。便出。到法堂,乃曰:夫行脚人,因缘未尽其善,不可便休去。却回曰:某甲适来辄陈小𫘤,冒渎尊颜,伏蒙慈悲,未赐罪责。清曰:适来言从东来,岂不是翠岩来?师曰:雪窦亲栖宝盖东。清曰:不逐忘羊狂解息,却来这里念篇章。师曰:路逄剑客须呈剑,不是诗人莫献诗。清曰:诗速秘却,略借剑看。师曰:𭾡首甑人携剑去。清曰:不独触风化,亦自显颟顸。师曰:若不触风化,争明古佛心。清曰:如何是古佛心?师曰:再许允容,师今何有?清曰:东来衲子,菽麦不分,秪闻不已而已,何得抑己而己?师曰:巨浪涌千寻,澄波不离水。清曰:一句截流,万机寝削。师便礼拜。清曰:衲子俊哉!衲子俊哉!
汝州風穴の延沼禅師は余杭の劉氏。幼い頃から肉を食べず儒典を学び、進士試験に一度落ちて出家した。地元の開元寺の智恭に剃髪・受戒し、天台の止観を学んだ。二十五歳で鏡清を訪ねる。「どこから来た」「東から」「小江を渡ったか」「大船は独り空に浮かび、小江を渡る必要はない」。鏡清は鏡水・秦山を鳥さえ越えられぬ、伝聞を言うなと諭す。延沼は軍船の勢いと五湖の帆の詩句で答えた。鏡清が払子を立てて「これはどうだ」「これは何か」「やはり分からぬ」「出没し巻舒する、その働きを師とともに用いる」。空言を責められ、広い沢は山を隠し、理は豹を伏せると答える。「罪は許す、早く出よ」「出れば失う」。一度出たが、修行者は因縁を十分に尽くさず帰ってはならないと思い、戻って非礼を認め慈悲に礼を述べた。翠岩から来たのかと問われ、雪竇と宝蓋の詩句で答える。迷いを止めず詩を唱えるのかと責められ、「剣客に会えば剣を示し、詩人でなければ詩を献じない」「詩はしまい、剣を見せよ」。次の詩句は伝本文に難解な字がある。鏡清は無謀と愚かさを指摘する。「危険に触れずどうして古仏心を明かせよう」「古仏心とは」「もう一度許されたい、師はいま何を持つ」。鏡清は東の僧は豆と麦も区別せず、口を慎まぬと叱った。「大波は千尋に湧き、澄む波は水を離れない」「一句が流れを断ち、あらゆる機は静まる」。延沼が礼拝すると、鏡清は二度「見事な僧だ」と称えた。
师到华严,严问:我有牧牛歌,辄请阇黎和。师曰:羯鼓掉鞭牛豹跳,远村梅树觜卢都。师参南院,人门,不礼拜。院曰:入门须辩主。师曰:端的请师分。院于左膝拍一拍,师便喝。院于右膝拍一拍,师又喝。院曰:左边一拍且置,右边一拍作么生?师曰:瞎。院便拈棒。师曰:莫盲枷瞎棒,夺打,和尚莫言不道。院掷下棒曰:今日被黄面浙子钝置一场。师曰:和尚大似持钵不得,诈道不饥。院曰:阇黎曾到此间么?师曰:是何言欤?院曰:老僧好好相借问。师曰:也不得放过。便下。参众了,却上堂头礼谢。院曰:阇黎曾见甚么人来?师曰:在襄州华严,与廓侍者同夏。院曰:亲见作。家来。院问:南方一棒,作么商量?师曰:作奇特商量。师却问:和尚,此间一棒作么商量?院拈拄杖曰:棒下无生忍,临机不见师。师于言下大彻玄旨,遂依止。六年,四众请主风穴。又八年,李史君与阖城士庶再请开堂演法矣。上堂:夫参学眼目临机,直须大用现前,勿自拘于小节。设使言前荐得,犹是滞壳迷封;纵然句下精通,未免触途狂见。应是从前依他作解,明昧两岐,与你一时扫却,直教个个如师子儿,咤呀地哮吼一声,壁立千仞,谁敢正眼觑著?觑著即瞎却渠眼。时有僧问:如何是正法眼?师曰:即便戳瞎。曰:戳瞎后如何?师曰:捞天摸地。
華厳で牛飼いの歌に和すよう求められ、鼓と鞭、跳ぶ獣、遠村の梅の句を返した。南院のもとでは入室して礼拝しない。「入門すれば主を見分けよ」「明確に示されたい」。南院が左膝を打つと喝し、右膝でも再び喝した。「左はおこう、右は何だ」「盲だ」。棒を取ると「むやみに打つな、告げなかったとは言わせぬ」。南院は棒を投げ「浙江の黄面に今日は参った」と言う。「托鉢できず空腹でないと装うようだ」「以前来たことがあるか」「何を言う」「丁寧に尋ねた」「見逃せぬ」。僧衆に会った後、礼に戻り、襄州華厳で廓侍者と夏を過ごしたと話す。「本物に会ってきたな」。南方の一棒をどう解すかと問われ、奇特と答え、南院の一棒を問い返した。南院は杖を取り「棒下に無生忍、機に臨んでは師を見ない」。深く悟り、六年従った。四衆に請われ風穴を主宰し、さらに八年後、李使君と町の人々に請われ開堂した。修行者は小節に拘らず大いに働くべきだ、言葉以前の理解も殻に閉じこもり、句の理解も妄見を免れぬ、と説く。他者から借りた解釈と明暗の分岐を払拭し、皆を獅子の子の咆哮、千仞の壁のようにする。直視すれば目が潰れる。僧が正法眼を問うと「即座に潰せ」「その後は」「天を探り地を撫でる」。
师后因本郡兵寇作孽,与众避地于郢州,谒前请主李史君,留于衙内度夏,普设大会,请师上堂。才升座,乃曰:祖师心印,状似铁牛之机,去即印住,住即印破。秪如不去不住,印即是,不印即是,还有人道得么?时有卢陂长老出问:学人有铁牛之机,请师不搭印。师曰:惯钓鲸鲵澄巨浸,却嗟蛙步𩨍泥沙。陂伫思,师喝曰:长老何不进语!陂拟议,师便打一拂子曰:还记得话头么?试举看。陂拟开口,师又打一拂子。牧主曰:信知佛法与王法一般。师曰:见甚么道理?牧主曰:当断不断,反招其乱。师便下座。
戦乱のため僧衆と郢州に避難し、以前迎えた李使君を頼り、役所内で夏を過ごした。大会で座に上ると「祖師の心印は鉄牛の機のようだ。去れば印は留まり、留まれば印は破れる。去らず留まらぬなら押印すべきか、誰か言えるか」。盧陂長老が鉄牛の機に印を押すなと求める。「清い大海で鯨を釣る者が、なぜ蛙のように泥に迷う」。長老が考えると喝し、話せと促し、さらに考えようとすると払子で打って話頭を繰り返せという。口を開くと再び打つ。李使君は仏法と王法は同じだといい、理由を問われ「断ずべき時に断じなければ乱を招く」と答えた。禅師は下座した。
至九月,汝州太师宋侯舍宅为寺,复来郢州,请师归新寺住持。至周广顺元年,赐额广慧。师住二十二年,常余百众。
九月、汝州の太師宋侯が自宅を寺として寄進し、郢州へ来て新寺の住持に迎えた。周の広順元年、「広慧」の額を賜る。禅師は二十二年住み、常に百人余りがいた。
『仏祖綱目』
延沼禅师住风穴。
延沼禅師、風穴に住む。
延沼依止南院,六年,辞去。长兴二年,至汝州,见草屋数椽,依山如逃亡人家。问:田父:此何所?曰:古风穴寺。岁饥,众弃之而去,余佛像钟鼓耳。沼曰:我居之,可乎?曰:可。沼乃留止,日乞村落,夜燃松脂,单下者七年。
南院に六年従い、辞して去った。長興二年、汝州で山沿いの数軒の草屋を見ると、逃亡者の家のようだった。農夫に問うと「古い風穴寺だ。飢饉で僧たちは去り、仏像・鐘・太鼓だけが残る」「住んでもよいか」「よい」。留まり、昼は村で乞い、夜は松脂を燃やし、七年独りだった。
延沼避寇郢州,寇平,汝州有宋太师者,施第为宝坊,迎沼居焉。广顺元年,赐寺名广慧,法席冠天下。
延沼は郢州へ避難した。乱が平定されると汝州の宋太師が邸宅を寺とし、延沼を迎えた。広順元年に広慧の名を賜り、その法席は天下に冠した。
『汝州志』
萧寺秋风竹树清,石林瑶井水初澄。楼台远近笼轻霭,山阜高低照晚晴。芳草有情依路长,幽花无侣背岩生。谬符此地应为主,聊逐宾僚谩引觥。
寺の秋風に竹木は清く、石林の玉井の水は澄む。遠近の楼台は薄靄に包まれ、高低の丘は夕晴れに映える。芳草は情あるように長い道に沿い、孤独な花は岩陰に生える。ふさわしくもなくこの地の長となり、賓客や僚友と杯を挙げる。
『白雲寺興造山門記』
余谪倅钓州,逾两年,帝命守汝之官。闻汝有白云寺者,亦曰风穴寺,甚奇绝,因假途而馆焉。信宿将行,徘徊周视,见林木幽深,土宜柏,所产皆柏木,不杂他植,苍翠森郁,石泉脉脉从石罅间出,聚而为涧,委蛇流爱之投辖焉。风穴去州治十余里,政务之暇,时一登览。
釣州の副官に左遷され二年余り、帝命により汝州の長官となった。白雲寺、別名風穴寺が奇勝と聞き、赴任の途上に宿した。二泊後、名残惜しく見回すと林は深く、土地に適した柏だけが茂り、石の裂け目から泉が出て曲がる谷川となり、旅人を引き留めた。州治から十余里なので、公務の合間にたびたび訪ねた。
窃佘浮屠氏自汉明帝延入中国,立精舍以处之,而僧寺之肇昉于此,渐及于晋、宋、齐、梁、陈、隋、唐之代,尊信其教,其徒浸盛,而缁流净侣,往往全真了觉于深岩穷谷之中,著灵显异,以神其教。而禅家者流,多即其处创居以奉之。是以金刹遍于名山,琳宫建于胜地,而其殿宇堂室,门户榱桷,与王者埒。以为不如是,不足以宏三乘之化,而崇三藏之宝也。
漢の明帝が仏教を招き精舎を建てて以来、晋・宋・斉・梁・陳・隋・唐にわたり信仰と僧侶が増えた。深山の僧は悟りを得て霊験を示し、禅僧はそこに住まいを築いた。名山の寺々の殿堂・門・梁は王宮に匹敵した。三乗を広め三蔵を尊ぶにはその壮麗さが必要だとしたのである。
若汝之风穴,元魏常建白云寺于其麓,在唐则七祖贞禅师卓锡于此,曜慧于灵岩,转法轮于祗舍,由是神僧阐教,法宝不磨,天龙护持,诸像瞻仰,香火特盛,遂为丛林。寺旧无山门,今住持僧满增者,始议建焉。庇材鸠工,无所吝惜,不惮劳瘁。斧斤既运,轮奂聿兴,梓匠毕技,高厂宏丽。及落成,僧正日清流者嘉增之志,走使须文于余,记其兴理岁月,以余常守是邦故也。余素稔清流之宿行,更美住持之有兹举也,其州博襄阳王君廷相,累书以速。昔𭦌子固为道凌齐晔作三门记,其日齐晔,里人也。为里人而与之记,人之情也。以礼、春秋义而告之,又下之公也。然则余为之言,固非无谓。
汝州の風穴では北魏に山麓の白雲寺が建ち、唐には七祖貞禅師が錫を留め、智慧と仏法を広めた。神仏の加護と信仰により僧林が栄えたが、山門はなかった。住持満増が造営を発願し、材と工人を集め、費用も労も惜しまず高く広麗な門を完成した。僧正清流はその志を称え、元長官の私に記を求めた。清流の修行を知る私は満増の企ても喜び、州学の王廷相もたびたび書簡で促した。かつて曽子固は同郷の道凌斉曄に三門記を書き、人情に応えつつ礼と春秋の義を教えて公にも資した。私の文にも理由がある。
命持归,俾击鼓集众,告增并其徒曰:诸佛难值,人身难得,好时难逢,大善难修。今汝比恤者,宏大誓愿,思忆四难,广滋功德,以成此门。尔等弟子,由此门者益坚此志,钦崇三宝,厚答四恩,则心身无失,名立教宣,称为高僧。由此门者益坚此志,磨砖成镜,感石点头,则五蕴皆空,即心见佛,称为佛阻。由此门者,益坚此志,默契大乘,深入禅定,则形神俱空,悟真超胜,称为法王。如此,则虽黄金为瓦,白玉为屋,如来之法宝常存,护法之金刚常镇,贞师衣钵传于无穷,而胜地山门垂于不朽,永为汝等方便利益之途,而常有此门矣。若不然者,则欲火灼衷,苦海难测,玄门启而复合,慧路辟而复湮,升堂入室,殆若望洋,汝尚何由哉?
使者に持ち帰らせ、鼓で衆を集め、満増と弟子に告げさせた。仏に会い、人として生まれ、よい時代に会い、大善を修めることは難しい。この四難を思って大願を立て、功徳を増す門を建てた。門をくぐる者は志を堅め、三宝を尊び四恩に報い、心身を守って教えを広め、高僧となれ。磚を磨いて鏡とし石を頷かせ、五蘊を空として即心に仏を見よ、仏となれ。大乗に黙契し禅定を深め、形神を空として悟りを超え、法王となれ。そうすれば金瓦玉屋であっても法宝と護法は常住し、貞師の衣鉢は尽きず、この門は永く利益をもたらす。そうでなければ欲火は燃え苦海は深く、開いた門は閉じ、智慧の道は塞がる。大海を前にするように入る術を失おう。
余美增僧之志,故为学道之士识之,以告将来者。
満増の志を称え、学道の士と後世のために記す。
『汝州千峰白雲寺重修毘盧殿記』
白云寺去州二十里,俗呼风穴,创于后魏,历隋唐而宋而元,以迄于今。其地秀接嵩、少,众流蜿蜒,交注汝、颖,峰峦拱叠,林壑蓊郁。余往见王苍谷诗赋,知为汝州胜地。寺故有毗卢殿,寝废,成化乙未,僧正清流、住持满巍举清秀句工,其徒净书等与乡耆王福善等募众缘修复之。是殿也,凡栋梁、榱棋之属二千有奇,础砺三百有奇。乃先修者饶劈、鸱吻之类五万有奇,钉铁以斤计三千有奇,石灰以石计四万有奇,咸今置之。材为梓者、砺者、鍜者、绘者、塑者、漆者、匋者、污墁者,佣役者,縻钱百万,食粟六百余斛,为崇三十有二尺,为广七十有四尺,廓如巍如,美哉轮奂,辉映碧落。寺为改观。累岁历人而后成。施者靡吝厥费,工者靡爱厥力,非僧之行感而有是哉?爰勒诸石,俾后来者有所考焉。
白雲寺は州から二十里、俗に風穴と呼び、後魏に創建され隋・唐・宋・元を経て今に至る。嵩・少室に連なる秀景と汝・潁へ流れる水、峰と深林がある。王滄谷の詩文で名勝と知った。毘盧殿が荒廃し、成化乙未に僧正清流と住持満巍が清秀を工事監督に挙げ、弟子の浄書らと郷老王福善らが募縁した。梁・柱・垂木・組物は二千余、礎石など三百余、屋根材や鴟吻など五万余、釘鉄三千余斤、石灰四万余石をすべて調達した。木工・石工・鍛冶・彩色・塑像・漆・陶・左官・人夫に銭百万、穀六百余斛を費やした。高さ三十二尺、幅七十四尺の広壮な堂が空に映え、寺は一新した。歳月と人を重ねてようやく成り、施主は費を惜しまず工人は力を惜しまなかった。僧の行いに感応したのであろう。後人が考証できるよう石に刻む。
『毘盧殿記』
汝颍盛克修,余同年友也。其子瑞走书嘱余曰:州之白云寺,先生讲道处也。逮今三纪,流风余韵,犹有存焉。昔年讲堂前今构六楹,高广深靓,扁曰毗卢,复为像于中,面背而座,左右而立,总六像释家之说,想有意义。经营于成化乙未,住持圆证率徒以始之,工未讫而卒,落成于正德丁卯,徒孙清秀偕师满巍、僧正清流辈以终之。凡费钱十八万,计日万八百有奇。历匠氏三百有余指,食米麦四百有余斛。由祖及孙,积累缔造,厥维艰哉!群僧愿一记之久矣,敢代以请。既而清秀复不远百里而速之者再,辞不获,乃为之言曰:佛之道不可知,然每观其徒有所兴作,皆用心勤,注意专,不屑苟成,不求速效,故能以小致大,因卑而高。岂其法之蕃昌,言之祸福,足以动人哉?其中亦有坚忍不拔者然也。今若辈以数十年之劳,克成先志,其所以自致者,宁不近是也耶?鸣呼!佛教方盛行于天下,而其学者善自封殖之又如此。至于世儒穷居学圣人之道,口诵心维,自以为得矣,及出而任天下事,未见有恳笃之志,坚持之撡,群居相语者,不过苟一时之利而已,安能必世百年为教化之渐,得持久之功哉?由是观之,反不如佛之学者远甚,则彼之所以盛,不由此之所自守者衰欤?与之记,不独以著其能,亦以媿吾道之难行也。停笔三叹。
汝潁の盛克修は私の同年の友である。子の瑞が書簡を寄せた。「州の白雲寺は先生の講道の地、三紀を経ても余韻が残ります。昔の講堂前に六楹の高く広く奥深い堂が建ち、毘盧と題し、前後に坐り左右に立つ六像を置きました。仏教の配置には意味があるのでしょう。成化乙未に円証が弟子と始め、未完のまま没し、正徳丁卯に孫弟子清秀が師満巍・僧正清流らと完成しました。銭十八万、延べ一万八百余日、工匠三百余指の労働、米麦四百余斛を費やしました。師から孫へ積み重ねた艱難です。僧たちのため記をお願いします」。清秀も百里以上を二度訪ね、断れず書いた。仏の道は知らないが、僧の造営は勤勉専心で、粗雑な完成や速効を求めず、小を大に低きを高きにする。仏教の盛行は禍福の言葉で人を動かすだけか。不抜の忍耐者もいる。数十年で先志を成したのはそのためだろう。仏教は盛んで、その徒はよく自らを育てる。儒者は独り聖人の道を読誦して得たと思いながら、世に出ると篤志と持操を欠き、集まれば一時の利しか語らない。何代もの教化と持久の功をどう得よう。仏学者に及ばぬ。我々の守る道の衰えが彼らを盛んにするのではないか。その能力を記すとともに我が道の行い難さを恥じ、筆を停めて三たび嘆く。
『重修鐘楼碑』
东里子巡汝之二年,矿靖氛清,条风徐兴,寒夜坐听,有声铿鍧,隐隐从东北山来,类大吕流铃之音,顾左右而问焉,对曰:此风穴寺钟鸣也。盖寺钟之设久矣,繇隋、唐、宋以千峰、白云名寺,传者谓于此山义无当,爰更风穴为号。北宋宣和七年,复于寺殿庑间增置阁焉,名曰悬钟。然形势峭绝壁立,不耐风雨,历世递为兴废。嘉隆以还,浸陵夷倾圮,几数十载,希声探风穴者,往往太息之。迩幸一方无事,物力稍充羡,寺之住持僧净通辈,得休暇,募善缘,次筑葺故址,重修钟楼,有状。落成,悬钟如初,于是鸣始闻声云。
東里子が汝州を巡察して二年、鉱山の騒動は鎮まり風も穏やかだった。寒夜、東北の山から大呂のような鐘音を聞き、尋ねると風穴寺の鐘という。鐘の設置は古く、隋・唐・宋は千峰・白雲と称したが、山にふさわしくないとして風穴に改めたと伝える。北宋宣和七年に堂廊の間へ懸鐘閣を増した。険しい立地で風雨に耐えず興廃を重ね、嘉靖・隆慶以来数十年は荒廃し訪問者を嘆かせた。近頃は平穏で物資も増し、住持浄通らが募縁して旧址を修めた。完成すると鐘は再び吊られ鳴った。
东里子嘿然良久,起席退。越宿,乃偕郡守陆厚躬君率其僚吏师生往观焉。维时瑞雪拥郊,万山拱壁,田翁野叟,遮呼绕膝,具道始末最详。东里子引裾登楼,喟然抚掌叹曰:甚哉!废兴之时,可以悟官常矣。且畴亦知斯之。为义乎?寺以风名,君子德也。风以穴名,风所自也。因寺为钟,播风声也。盖钟于楼藏,有声于无声也。昔者有虞氏风动四方,墨胎、展禽氏风闻百世,而孔思子推风之自,近及乎孔昭屋漏,远及乎劝威形辟,其究乃讫乎无声。夫风非声也,不显其德,所以不显其声也。抑风之象,莫辨乎易,易有之:申命省方,设教议狱。余巡兹土,每深致意焉。载观山下有风,坏极复治之说,而味所谓振民育德云者,叉类不可不知也。
長く黙って退き、翌朝は陸厚躬郡守と役人・師生を率いて訪れた。雪に覆われた郊外、巡る山々、老人が経緯を語る。楼に上って感嘆した。興廃の時は官の務めを教える。寺が風で名づけられるのは君子の徳、風が穴で名づけられるのは出る所。寺に鐘を置けば風声を播き、楼に蔵せば無声に有声を蔵す。舜の風は四方を動かし、墨胎・展禽は百世に名高い。子思は屋漏の密事から勧威刑辟まで風の源を求め、無声に至った。風は声で徳を顕すが、その源は無声だ。易は命を重ね地方を巡り、教えを設け獄を議すと説く。私は巡察のたびに思う。山下の風、壊極まって治に復すことも、民を振るい徳を育てる義に通じる。
夫风自穴出,与钟俱鸣,其德可以振民;钟以楼藏,与𡧆俱寂,其义可以育德。乡者钟阁坏盖极矣,今兹重修,坏复治矣。势太重则易坏,故待乎修。坏非时不治,故今始修。阁坏而基不坏,故易于修。尔
穴から出る風は鐘と鳴って民を振るわせ、楼に蔵した鐘は穴と黙して徳を育てる。荒廃の極みにあった楼は今修復した。重過ぎれば壊れるので修理を要し、時が来るまで治せず今修理できた。楼は壊れても基は残り修理しやすかった。諸君よ、
庶官环楼谛观之,夫崇上必厚下,蔽外必虚中,四面欲阔以达,毋令壅阏;重檐欲壮以固,毋为巧饰。其出声欲远,毋不叩而遂鸣;其藏形欲完,亦毋叩而不鸣。兴必虑废,毋以喜事酿速坏;废必急修,毋以畏事滋大坏。庶几永永风声,隆施靡极,与此名山并传盛美,以无忝今日登临雅谊。
役人たちはよく楼を見よ。高きを崇めるなら基を厚く、外を蔽い内を空けよ。四方は広く通じ、重檐は強固にし、技巧の飾りに走るな。音は遠く届けるが叩かず鳴らしてはならず、形は保つが叩いても鳴らぬのもならぬ。興れば廃を思い、好事で壊れを早めるな。廃れれば急ぎ修め、事を恐れて損傷を広げるな。永い風声と恩恵が名山と伝わり、今日の登臨に恥じぬように。
于是郡守而下罗拜谢曰:谨受教,愿书其言为记,爰勒石而去。
郡守以下は並び礼して謝し、教えを受け、記文を求めた。そこで石に刻ませて去った。
『河南通志』
风穴寺,在州城东北二十里风穴山,一名白云寺。唐大中初创建,明弘治间重修。
風穴寺は州城の東北二十里、風穴山にあり、白雲寺ともいう。唐の大中初年に創建され、明の弘治年間に重修された。
『開元寺貞和尚塔銘』
开元寺贞和尚塔铭
開元寺貞和尚塔銘
开元二十六年七月立沈兴宗撰隶书在汝州
開元二十六年七月建立、沈興宗撰、隷書、汝州に所在。
碑云禅师讳贞兹郡京兆人也京兆郡名上云兹郡者其义不可详或唐以洛为东都亦可称京兆欤又云俗姓张氏自轮奂规唐貂蝉蔚汉姜宋莫齿裒扬前伦规唐犹云规晋姜宋盖谓姜望宋微子袁扬盖谓袁安扬震也又有前剌史故丞相齐八崔日用吏部尚书李嵩皆顶奉山字云云按崔曰用李暠刘响唐书有传贞禅师者驻锡风穴山尝习衡阳三昧其化大行一夕溘然示寂守宰李暠阇维之得舍因千泣明皇谥为七祖碑隶书甚劣惟用肯为前即业字之省用巳为以尚有古意年号贰拾陆字用代二十六与五经交字九经字样同余碑少见
碑は禅師諱貞、この郡の京兆人という。京兆は郡名で「この郡」の意味は詳らかでない。唐は洛陽を東都としたので京兆と称せたのか。俗姓張氏とし、唐漢以来の家の栄えを姜宋・袁楊に比して称える。「規唐」は規晋のような語、姜宋は姜望と宋微子、袁楊は袁安・楊震だろう。元刺史・宰相の崔日用と尚書李某も記すが、伝本文の一部は不明。崔日用・李暠は唐書に伝がある。貞は風穴山に住し衡陽三昧を修め、広く教化した。一夕に没し、李暠が荼毘して舎利を得、明皇が七祖と諡した。隷書は拙いが、前や業の省画、巳を以とする用法など古意がある。二十六の字形は五経文字・九経字様と同じで、他碑では稀だ。
『憨休和尚敲空遺響』
原夫灵岳降灵,薄伽应缘而设化;名山卓锡,古德示迹以传宗。法苑固支那攸崇,中原推风穴为最。人惟地杰,地以人彰。沼祖开创于昔,吾师振响于今。门庭高峻,海内趋风。若无志载,曷识端由。不揣缶声,谬裁韵语。倘获披卷神游,洞见白云深处。法流东注,碧眼西来。一花始绽,五叶弘开。丛席棋布,宇内弥该。偏汝坟之毓秀,擅灵岳之崔嵬。道树冠神州而卓荦,石壁洒藻翰以雄才。称伟观于天中,列舆纪而最推。维彼风穴,近接嵩高。深邃叵测,怒吼惊虓。先闻有声,风起林稍。嘘两间之元气,鼓万物而炮烋。山鬼啸而助响,草木震以长号。艮维坤向,刹创隋朝。运当五季,锡驻征沼。乘夙愿兮非偶,投簪笏兮缁袍。应悬谶兮是止,于傍陬兮缚茅。苦单丁兮七载,兴百废兮一朝。弘济宗兮大振,绳祖武兮独超。应真辈出,香火斯饶。山则嵂崒,千峰插天半之芙蓉;水则潺湲,双涧绕十里之幽松。孤嶂列屏兮,拟匡庐之云锦;岚亭叠翠兮,记孟阳之词宗。慈泉济亢兮,观音变相;古洞窈窕兮,哲士遗踪。仙人桥畔兮,想飞化龙之竹;望州亭际兮,思齐洗耳之风。一径高危兮,纡盘白云之顶;中峰峻极兮,缥缈紫微之宫。石状琼台而峭拔,岩嵌法洞以玲珑。乃若西峦蓊欎,东岭巃嵷。双峰环抱,万柏苍葱。仿佛清虚之上,徘徊翠微之中。瀑泻珠帘,寒飞千尺之雪;桥横玉带,𫝑吞万丈之虹。绿竹凌霄,挺廉宪之高节;清流开沼,振太史之词锋。层台玩月兮,识盈虚之有数;重崖登眺兮,觉宇宙之无穷。毗卢千寻兮,任餐霞而浴日;声闻五百兮,随驯虎以降龙。铎振丹霄,坛竖开元之塔;阁耸青汉,鲸鸣宣和之钟。壮金庭而增丽,对宝藏以飞雄。瑮璑腾辉,周王镌牟尼之玉像;镠葟散彩,锦轴悬水陆之金容。再瞻殿宇,榱桷轮囷。嵯峨林表,璀璨凌云。丰碑记载,历朝志文。庭柯交荫,薝卜氤氲。说法堂前,桧附凌霄之蕊;饭田谷口,岁储绿野之耘。庙祀玄天,星旗将溪光而闪烁;庵曰自在,祖塔下花雨而缤纷。甲中原之巨刹兮,少林犹让其左;传五灯之慧焰兮,风穴特萃其群。慨夫!玄黄易位,沧桑变更;缁侣寥寂,佛面蒙尘。会际鼎辈,祖道维新;席虚谁尸,蜀伯有陈。传通玄林野之法胤,系天童密云之嫡孙;本渊源于麟湖,受付嘱于栖真。一杖飘然兮北迈,七坐名蓝兮轶伦;是宜中州之应响,幸兹汝海以垂纶。搢绅曲垂而加护,缁素径筏以归仁;挽滹沱三十一世颓流之脉,继沼师七百余年无尽之灯。羡祖庭恢复于今日,冀昙华永茂乎千春。吁嗟兮!法幢崛起,祖叶弥芳;凤毛麟角,虎骤龙骧。美英才之济济,发嫩桂之昌昌;拓旧模以广大,俾宗社而益长。法化昭于日月,声光齐乎天壤;第见此山亘恒沙浩劫而不朽兮,又何殊乎鹫岭之与雁堂?
霊山は霊を降ろし、世尊は縁に応じて教えを施す。名山に古徳が住し宗を伝える。中国で法苑は尊ばれ、中原では風穴が勝る。人と地は互いを顕し、沼祖は昔創め、我が師はいま声を振るう。高い門に天下が集う。志がなければ端緒を知れまい。拙い韻を裁し、読む人が白雲の奥へ神遊することを願う。法は東へ流れ碧眼の祖は西から来、一花五葉が開き、禅席は天下に広がる。汝の谷では峰々が天の芙蓉、道樹が中原を覆い、石壁に雄文を刻む。嵩に近い風穴は深く、怒号して先に音がし、風が天地の元気を吐き、山鬼と草木も和す。東北を背に西南を向き、寺は隋に創建された。五代には沼師が来て官服を僧衣に替え、宿願と予言に応じ、辺隅に茅を結んだ。七年独居に耐え百廃を興し、臨済を広め祖武を継いだ。応真が出て香火が栄える。千峰は天半の蓮、双渓は十里の松を巡る。孤峰は廬山の錦屏に似、霞む亭は孟陽の詩を思わせる。慈泉は旱を救い、観音は相を変え、古洞に哲人の跡がある。仙人橋で化す竹を思い、望州亭で耳を洗う清風を偲ぶ。高い道は白雲を越え、峰は紫微の宮へ。岩は玉台、洞は法窟の輝き。西嶺と東峰が万柏を抱き、清虚と翠微に遊ぶようだ。瀑布は千尺の雪、玉帯橋は万丈の虹。竹は廉官の節を、清流は史家の筆を映す。月台で盈虚を知り、崖で宇宙の無窮を覚える。毘盧は朝霞と日を浴び、五百の声聞は虎龍を従える。開元の塔の鈴は丹霄に響き、宣和の鐘は高閣に鳴る。金庭と宝蔵が競い、周王の玉仏と水陸の金像を描く絹軸が輝く。殿宇の梁は林上にそびえ、碑は歴朝を記す。庭樹が交わり薝蔔が香り、説法堂の柏に凌霄が咲き、谷口の田は僧を養う。玄天の廟、自在人の庵、祖塔には花雨。中原の巨刹として少林も譲り、五灯の慧焔を風穴が集める。ああ、王朝が替わり世が変わり、僧は散り仏面に塵が積もった。新時代に祖道が復興し、空席を誰が継ぐか。蜀の陳氏、通玄林野の法嗣、天童密雲の孫で、麟湖に源をもち栖真に付嘱された師だ。一杖で北へ来て七名藍を主宰し、中州が応じて汝に住した。官紳は守り僧俗は帰依し、滹沱三十一世の衰流を支え、沼祖七百年の灯を継いだ。祖庭はいま復し、曇華よ千春に咲け。法幢が立ち祖葉は栄え、人材は鳳凰や龍、若桂のように盛んだ。旧模を広げ国を益し、日月と光り、霊鷲山や聖堂のように無数の劫を存せよ。
古写真
1979年頃
以下は孔夫子旧書網の出品者「紫金山書院」が所蔵・販売した新華社ニュース展示写真で、販売目録では1979年とされる。
風穴寺全景。七祖塔と殿堂・楼閣が山の斜面に並ぶ。戚大林撮影。 写真出典.
懸鐘閣と周辺の斜面。戚大林撮影。 写真出典.
木立と塀の間に立つ観音閣。戚大林撮影。 写真出典.
七祖塔と塔前の碑。 写真出典.
風穴寺塔林。高低の墓塔の間に草木が茂る。戚大林撮影。 写真出典.
参考文献
- 譚世宝・譚学超「五代後漢『風穴七祖千峰白雲禅院記』碑の新釈文研究」、『文化雑誌』第115号、2022年、44–63頁。原碑写真・釈文と寺名の考証を含む。
- 常法亮「汝州風穴寺の創建年代を探る」、『中原文物』2011年第6号。
- 麻天祥「汝州風穴寺考―荊三林の研究への貢献を兼ねて」、『ハルビン工業大学学報(社会科学版)』2019年第6号。
- 湯文興編著『風穴寺』(河南名勝古跡叢書)、中州書画社、1982年。
- 「風穴寺と塔林」、汝州市人民政府。『汝州市文物志』より。
- 「風穴寺」、汝州市人民政府、2022年7月1日。懸鐘閣・中仏殿・上下塔林を紹介。
- 「平頂山風穴寺」、福宝網、2015年2月3日。境内配置の項で毘盧殿を中仏殿の後方とする。