法興寺

法興寺はかつて慈林寺、広徳寺と呼ばれ、旧地は山西省長子県の慈林山にある。唐代の「鄭恵王石塔記」、宋・元代の寺記、清代の県志は石造舎利塔、仏殿の再建、寺名の変遷を伝える。1958年掲載の写真と1962年の調査写真には、移築前の舎利塔、燃灯塔、円覚殿、梁組み、彩色塑像が写されている。

時代
唐
地域
山西省
所在地
山西省長治市長子県
法興寺の石造舎利塔、1958年掲載
法興寺の石造舎利塔、1958年掲載

紹介

伝承によれば、北魏の時代には山西省長子県の慈林山にすでに仏寺があり、慈林寺と呼ばれていた。これが法興寺の前身である。唐の貞観年間、高祖李淵の第十三子で潞州刺史を務めた鄭恵王李元懿は、寺内に石造舎利塔を築き、朝廷から賜った舎利と経巻を納めた。砂岩で築いた塔には内外二重の壁があり、その間の通路から中心の石室を巡ることができる。咸亨四年(673年)、造営に携わった僧の洪満は、後世に「陵谷変移」が起こることを案じ、造塔の経緯と李元懿の十人の息子の名・爵号を石に刻んだ[1]。

大暦八年(773年)、仏教信者の董希璇と家族が、仏前に灯明を供えるため、消えない灯をともす灯台を造った。青石を彫った灯台で、灯室は八角の小亭を模し、柱間には扉や窓が刻まれる。蓮華形の台座に支えられ、基壇には楽器を奏でる人物や瑞獣も彫られている。董家の人々の名と造灯の日付は、基壇の龕を隔てる短い柱に刻まれた[2]。

五代の戦乱の際、隠士の王景純は晋陽から慈林山寺へ逃れ、山中で余生を過ごそうとした。寺の仏殿は後晋の開運二年(945年)に建てられ、後の円覚殿の前身となった。宋の初めには僧の凝誨が寺を修理し、王景純が寺の碑文を撰した。慈林山で生まれたその息子の王曙は、仕官した後、土地を買って僧に寄進し、継続して耕作できる寺領とした。

天聖五年(1027年)、潞州知州を務める王曙は帰郷して詩を作り、幼い日の山河の記憶、荒れた園地、文字の欠けた寺碑を詠んだ。翌年、住職の法信が王景純の撰した寺碑の拓本を持って王曙を訪ねた。父の文章を読んだ王曙は養育の恩を思い、もう父に孝養を尽くせないことを「欲養不待」と嘆いた。天聖八年(1030年)、法信に紫衣を賜るよう朝廷へ願い出たと手紙で伝え[3]、紫色の綾絹三匹と勅牒を同封し、父と故郷への思いを託した。

元豊二年(1079年)、住職の紹栄は王曙の帰郷詩を碑にし、高平の李厳が刻字した。後晋以来の仏殿は百三十年以上を経て壁が破損し、垂木も傾いていた。紹栄は施主から寄付を募り、人手を集めて旧殿を取り壊し、新殿を建てた。殿は三間で、周囲に廊を巡らせ、柱と扉を石造とした。完成後、紹栄は王曙の息子の王益柔に手紙で記文を依頼した。当時の王益柔は龍図閣直学士で、吏部の事務を主管していた[4]。祖父が遊び憩い、父が生まれた山寺からの手紙を読み、王益柔は思わず涙を流した。元豊四年(1081年)、新殿の造営を記した。紹栄の率いる僧たちが朝夕焼香して読経するなか、王益柔は参拝者が経声を聞き、仏像を見ることで、争いや欺きの心を抑えるよう願った。

政和元年(1111年)、塑像師の馮宗本が仏殿の像を造り、絵師の陳道栄と呂栄が彩色した。殿内の十二体の円覚菩薩はこの時の塑像である。

十三世紀、住職の曇珂は沢州・潞州一帯の戦乱と飢饉のため食を求めて寺を離れ、十年後ようやく慈林山へ戻った。荒れ果てた寺で曇興らの僧を率い、茨や雑草を除き、腐朽して傾いた建物を修理し、雨漏りを塞ぎ、仏像と彩色を清め、境内の壁を整えた。寺の経費は耕作で賄った。至元十年(1273年)、八十歳近い曇珂は長子県の文人・宋道に寺の沿革と修復の経緯を書いてほしいと頼んだ。石に刻むことで事績が長く伝わり、「山門の事績を永く伝える記録」となることを望んだのである。曇珂は宋家の三代と面識があり、宋道も幼い頃から彼を知っていた。宋道は依頼を引き受けたが、石刻による永続という考えには疑問を投げかけた。仏典が世界は幻のように生滅するというのに、石碑が永遠に残ることなどあるのか。曇珂はその議論をひとまず置くよう求め、「記不可不作也」と記文を必ず書くよう言った。宋道は修寺の経緯とこの問答をともに寺記に収めた。

正徳十四年(1519年)、寺では大殿の仏像を修理し、金剛像の胸の内部にある支持材に「大明正徳十四年」「重修慈林山法興寺大殿仏像一堂」と記した。師弟五代の僧の名と、絵師・塑像師の名も列記されている[5]。

清代から民国期にかけて円覚殿の外観は改変され、軒下の斗栱と殿を囲む廊が取り除かれ、屋根は入母屋造から切妻造へ変更された。一方、内部の宋代の梁組みは残された[6]。

1970年代以降、慈林山の旧地では石炭採掘後の地下空洞により地盤が沈下し、殿の壁が割れ、架構が変形した。建築と塑像を救うため、山西省の文化財主管部門は寺全体を翠雲山へ移すことを決定した。工事は1984年春に始まり、主要部分の移築は1996年秋に完成した。円覚殿の宋代の主要な梁組みは維持され、外側の軒構造は山西省古建築保護研究所が宋代の遺構、『営造法式』、同時代・同類型の地域の建築をもとに推定復元した。新地の殿では仏壇の正面に釈迦牟尼を祀り、左右に弟子・菩薩・善神を配し、背面には観自在菩薩を祀る。十二体の円覚菩薩がその周囲に並ぶ。

歴史文献

鄭恵王石塔記

大唐故赠司徒、荆州大都督、兖、安二州都督、郑、绛、潞三州剌史、上柱国郑惠王石记:

大唐の故人で、司徒・荊州大都督を追贈され、兗・安二州都督、鄭・絳・潞三州刺史、上柱国を務めた鄭恵王の石記。

王讳字,陇西狄道人也。曾祖太祖景皇帝,祖元皇帝,父高祖太武皇帝,王即太武皇帝之第拾叁子,往任潞州日,于此山奉为先圣敬造石舍利塔壹所。下井有敕赐舍利骨终漆粒,造藏经三千卷。观夫大造远契,洪猷永贞,庶绩咸熙,彝伦式叙,莫不分茅土,建诸侯,延帝子于维藩,降天孙于伯牧者矣。伏惟大王通源圣泽,宠位皇华,松姿孤坚,玉气柔润,镇静方岳,声政洽闻,都督荆安,惟德是顺。出守绛、潞,非贤勿居,即何暮海沂之谣,不足俦其匹也。而乃洗心觉路,虔诚妙门,慈林山中,雕砻宝塔,智乘寺所,装饰真容,藻绘具周,庆赞将毕。洪满亲承教旨,躬奉绘言,以拙补勤,猥当检校。恐河海倾竭,陵谷变移,谨件先皇子孙,勒诸贞石。

王の諱について本文は「讳字」と記す[姓名の記載は不明瞭]。隴西狄道の人である。曾祖父は太祖景皇帝、祖父は元皇帝、父は高祖太武皇帝で、王は太武皇帝の第十三子に当たる。かつて潞州に赴任した際、この山で先聖のために石造舎利塔一基を敬造した。下の井には勅賜の舎利骨「终漆粒」[数量の文字は不明瞭]を納め、経蔵三千巻を造った。大いなる造化は遠い契りにかない、宏大な計画は永く正しく、諸事は栄え、人倫は秩序立つ。封地を分け、諸侯を立て、帝子を藩屏に、天孫を地方の長官に据えないことはない。大王は聖なる恩沢を源として受け、栄誉ある位にあり、松のように堅く、玉のように温潤で、地方を鎮め、その善政は広く知られた。荊・安を都督して徳に従い、絳・潞を治めた。賢者でなければ就けない職であり、「何暮」「海沂」の歌も比べるに足りない。悟りへの道で心を清め、妙なる教えに誠を尽くし、慈林山で宝塔を彫り整え、智乗寺で尊像を荘厳した。彩色の仕事も済み、慶讃が終わろうとしていた。洪満は教旨を直接受け、言葉を奉じ、不才を勤勉で補い、恐れ多くも監督に当たった。河海が尽き、山陵と谷が変わることを恐れ、先皇の子孫を一人ずつ記し、堅固な石に刻む。

嗣郑王郢州刺史璥,第二王子吕国公琛,第三王子乐平公圭,第四王子尚庸公琰,第五王子乐陵公囗,第六王子武安公琨,第七王子南海公璇,第八王子安德公琳,第九王子新平公璲,第十王子邵陵公珩,

鄭王を継ぐ郢州刺史の璥、第二王子の呂国公琛、第三王子の楽平公圭、第四王子の尚庸公琰、第五王子の楽陵公囗[名の欠字]、第六王子の武安公琨、第七王子の南海公璇、第八王子の安徳公琳、第九王子の新平公璲、第十王子の邵陵公珩。

咸亨四年十月八日,检校功德僧洪满建。

咸亨四年十月八日、功徳を監督する僧の洪満が建立した。

右郑惠王石塔记释洪满以王曾任潞州,为造石舍利塔一所,而自为之记。郑王元懿,新旧唐书有传。初授兖州刺史,在贞观七年,次历郑、潞二州剌史,在贞观十年。最后之绛州剌史,在总章中,而不见有安州刺史之官,则传略也。时称小郑王,亦曰郑惠王,以别于郑王亮云。元懿十子世系表吕国公下脱琛字,又脱第六王子武安公琨一人,新平郡公璲作遂,则史之误。而此记第五王子乐陵公下脱一字,据表则球字也。是传与表未尝不可互补矣。

僧の洪満が撰した右の「鄭恵王石塔記」は、かつて潞州を治めた鄭王に関わる石造舎利塔一基を記す。鄭王元懿には新旧『唐書』に伝がある。貞観七年に初めて兗州刺史となり、貞観十年には鄭・潞二州刺史を歴任した。最後の絳州刺史は総章年間だが、安州刺史の職は見えず、伝の省略であろう。当時は小鄭王、また鄭恵王と呼び、鄭王亮と区別したという。元懿の十子を記す世系表は呂国公の下に「琛」を欠き、第六王子の武安公琨も一人欠落し、新平郡公の璲を「遂」とする。これは史書の誤りである。反対に、この記では第五王子の楽陵公の名を一字欠くが、表によれば「球」である。伝と表は相互に補うことができる。

《山右石刻丛编》(山西石刻集成)巻四「鄭恵王石塔記」、清・胡聘之撰

法興寺

法兴寺旧名慈林寺,在县东南三十里,则慈林山之佛院也。魏神鼎元年建。唐郑惠王元懿为潞州刺史时,建石塔,藏舍利二十一粒,及藏经千卷,释洪满为撰碑。至宋元丰四年重修,王益柔为之记。

法興寺の旧名は慈林寺で、県の東南三十里にある慈林山の仏院である。魏の神鼎元年に創建された。唐の鄭恵王元懿が潞州刺史であった時、石塔を築き、舎利二十一粒と経蔵千巻を納め、僧の洪満が碑文を撰した。宋の元豊四年に再修し、王益柔が記を撰した。

《长子县志》(長子県志)巻十三「法興寺」、清・劉樾編修

慈林山法興寺僧堂再修記

一林山法兴寺重修僧堂记并序,僧惠陌述,并书。

一林山法興寺の僧堂再修記と序。僧の恵陌が述べ、書いた[題名と人名は原文表記に従う]。

粤维天元地像,圣之阶也。上栋下宇,道之基也,故能立。三朝于妙躅,显无事以崇贞。既而教拯编言,故得僧严丽境者,岂非福圣乎?邦有此寺者,故唐郑惠王之所再□也。王乃亲临福景,仰奉徽交,安塔藏贞,广崇佛事,洗尘边于定水,长解脱于慈林1此因历星华,圣摽遐泯。今乃厥有当寺山主僧所谓净持惑律,寒洁冰霜,夙蕴香风,□□筠竹。群方仰侍,遐迩潜皈,结乡党之缘,备云堂之址。并乃星楣映像,月拱吞鲸,玉梵凝烟,琼檐夺暑。即于咸平二年九月二十八日,崇斋庆赞毕。都维那邑众郭赟等,是曰恭心息虑,仰志口瘦,俯信容颜,潜资圣影。所冀国圆弥茂,府郡昭舒。圣日同佛高悬,皇风与慧风永扇。

天の元と地の象は聖なるものへ至る階段であり、上の棟と下の屋宇は道の基礎であるから、立つことができる。「三朝于妙躅」[文意不明瞭]、無為を示して正しさを尊ぶ。教えを説く文章が人を救い、美しい境内を荘厳できたのは、聖なる福徳ではなかろうか。この地にある寺は唐の鄭恵王が再び□した所である[欠字]。王は自らこの福地へ来て尊い教えを仰ぎ、塔を安置して真なるものを蔵し、仏事を盛んにした。禅定の水で塵を洗い、慈林で解脱を育んだ[この後の原文に数字1がある]。歳月を経て聖なる標は遠く消えた。今、寺の山主である僧は清浄に戒律を守り、氷霜のように潔く、早くから香風を蓄え、□□筠竹[欠字で不明瞭]。人々は各地から仰ぎ、遠近の者が帰依し、郷里と縁を結んで僧堂の敷地を整えた。星のような楣が像を映し、月のような栱が鯨をのみ、玉の梵音に煙が凝り、瓊の軒が暑さを奪う。咸平二年九月二十八日に斎会と慶讃を終えた。都維那の郭贇らの邑衆は心を慎み、思いを休め、志を仰ぎ[「口瘦」など不明瞭な箇所あり]、聖なる影にひそかに資する。国がいよいよ栄え、府郡が明るく安らかとなり、聖なる日が仏とともに高く懸かり、皇化と智慧の風が永く吹くことを願う。

乃述词曰:道广灵踪,凝用理性。寒谷生风,云堂集圣。身润慈舟,心悬净镜。厥搆殊因,位摽明证。开慈上善,利乐全身。口崇云室显,是为泄。悟帛无坚,观缘绝尘。陵谷迁变,刊名常真。

そこで詞を述べる。道は霊跡を広め、理と性に働きを凝らす。寒い谷に風が生じ、僧堂に聖者が集まる。身は慈悲の舟に潤い、心は清浄の鏡を懸ける。造営は特別な因縁により、その位置は明らかな証を示す。慈悲と最善を開き、全身を利益と安楽に導く。「口崇云室显,是为泄」[原文不明瞭]。悟りの「帛」に堅さがないことを悟り[語義不明瞭]、縁を観じ塵を離れる。山陵と谷は移り変わっても、刻んだ名はいつも真実である。

都维那邑人郭赟、花进、宋赟、郭琛、宋贞、宋澄、尚座僧善兴、绍讷院主僧法郎,山主僧崇达。

都維那を務める邑人は郭贇、花進、宋贇、郭琛、宋貞、宋澄。上座の僧は善興、紹訥院の院主は法郎、山主は崇達。

大宋咸平二年,岁次己亥九月庚辰朔二十八日丁未。

大宋咸平二年、己亥の年、九月庚辰朔、二十八日丁未。

《长子县志》(長子県志)巻七「慈林山法興寺僧堂再修記」、宋・咸平二年、僧恵顒撰、清・豫謙編修

潞州長子県慈林山寺先賢堂記

长子治境,地势夷衍,南有慈林,实襟冯之镇,与紫云山连麓对峙,归然在乎其右。周览形势,不甚壮观,粗有可探。孤峰峭拔,林壑邃幽,其踞地掘起,则骧首偃蹇,其分势掩抱,则交臂拱揖。樵竖纪其胜槩。麻衣目为福地,秀气所钟,挺生贤哲。

長子の領域は平坦で広く、南に慈林山がある。地勢の要であり、紫雲山と麓を連ねて向かい、その右にそびえる。全体の景観はきわめて壮観とはいえないが、探勝すべきものはある。孤峰は険しく、林と谷は深く静かで、地上から立ち上がる姿は首を高く上げ、周囲を抱く山勢は腕を交差させて拱揖するようである。樵人はその景勝を伝え、麻衣は福地と見なした。秀気の集まるところで賢者が生まれた。

有宋名臣,曰文康公,实生其问。自公童稚时,秀颖不凡,及长,文章深醇,蔚为儒宗。践更胙什,及登台辅,佐佑仁宗,勋在王室。㛎公之父,来自晋阳,五季兵乱,卜幽避地,遂隐居山寺,为终焉之计。逮文康衣锦,追念遗迹,忾然兴怀,买地施僧,永充常业,恋恋于□梓之情。自天圣二年迄今凡一百余年。

宋の名臣、文康公がここに生まれた。幼い頃から才気が非凡で、成長すると文章は深く円熟し、儒者の模範となった。諸職を歴任し[「胙什」は不明瞭]、宰相となって仁宗を補佐し、王室に功績を残した。父は晋陽から来て、五代の戦乱に際し静かな避難地を選び、山寺に隠居してそこで終生暮らそうとした。文康公が栄達して故郷へ戻ると、父の遺跡を思って感慨を抱き、土地を買って僧に寄進し、永続する寺産とした。故郷への思いは深い[「□梓」に欠字]。天聖二年から今まで百余年となる。

寺僧耕植自养,可度岁脑口饱口口私自念言:我大雄世尊,尚有乞食之劳。今我比丘食指稍众,所仰哺者,岁有仓箱之望。此大檀越所赐,其利无穷。相与讽呗作礼,荐以冥福。

寺の僧は耕作して自給し、年を越して食を得る[この部分に不明瞭な文字と欠字]。ひそかに思うには、大雄世尊さえ托鉢の苦労があった。今、比丘の人数は増え、食料には毎年倉を満たす収穫を期待できる。これも大施主の賜物で、利益は尽きない。ともに読経し礼拝して冥福を薦める。

旧有祠堂,绘像王氏,自隐士而下至不疑,凡五人。隐士讳景纯,字太朴,赠太子太师,文康公名犯庙讳,字晦叔。长士讳𪾊恭,官至司农少卿,赠特进。次子讳益柔,官至龙图阁直学士。特进子讳慎言,字不疑,官至中散大夫,居洛社,为九老。又有孙尚书冲升伯,及其孙永曼叔,亦居其巾。本阳翟人,俱以文章擅名。初升伯为本路漕使,继守是邦,以谓慈林山地产巨贤,博节来游,赋诗作记,称述凤美。曼叔帅并门,亲题榜额,屡贻竿牍,严护仪像。

以前から祠堂があり、隠士から不疑まで王氏五人の肖像を描いていた。隠士の諱は景純、字は太朴で、太子太師を追贈された。文康公の名は廟諱に触れるため記さず、字は晦叔という。長子の諱は𪾊恭[原文表記]で、司農少卿に至り特進を追贈された。次子の益柔は龍図閣直学士に至った。特進の子の慎言、字不疑は中散大夫となり、洛社に暮らす九老の一人であった。さらに尚書孫沖、字升伯と、その孫の永、字曼叔も祠に祀られた。もとは陽翟の人々で、ともに文章で名を得た。升伯は初めこの路の漕使を務め、のち当地を治め、慈林山から偉大な賢者が出たとして訪れ、詩や記を作ってその美をたたえた[訪問頻度等の原文は一部不明瞭]。曼叔は并州を治め、額を自ら書き、たびたび書状を送り、肖像を厳重に保護した。

客有居士,面山而居,慕林泉之乐,因以为号。逍遥神刹,徘徊祠宇。主僧告居士曰:某甲自幼出家,受檀越供养,为粥饭僧,德公之赐,铭感于心,惧有遗忘,或书题漫灭,来者不知。愿居士记其本未,刻之坚珉,以告夫后之人,以祢子之下,忘本也。

山を望んで暮らす居士があり、林泉の楽しみを慕ってそれを号とした。寺で逍遥し、祠堂を巡っていたところ、住持が告げた。「私は幼い頃に出家し、施主に養われて食を得る僧となった。公の恩を心に刻んでいるが、忘れ去られ、あるいは題字が消えて後の人が知らなくなることを恐れる。どうか居士に始末を記し、堅い石に刻んで後世に伝えてほしい」[結末の「以祢子之下,忘本也」は不明瞭]。

居士曰:汝谈空之流乎?有形者终坏,有象者终灭。祠有象也,祠存则思其人,既隳则已。石有形也,石存则规其石,既勒则已。惟有德者感八也深,而其传无所终穷,又奚待于鄙文哉?虽然,无字碑寓意于无书,或谓无字安用碑,亦太高之论。夫有有则有无无有。则亦无无。有之则其利而无之亦其用石者,其有也。记以文者,盖托其所无耳。惠人之恩德,因垂不朽,又其所托耳。佛子知恩,以记报恩,口口情之所喜也,遂因以书。藤林居士张口记。

居士は答えた。「あなたは空を説く者ではないか。形あるものはいずれ壊れ、像あるものはいずれ滅ぶ。祠に像があれば、存する間はその人を思い、壊れれば終わる。石に形があれば、存する間は石を見る[「规」の意味は不確か]、既に刻めば終わる。徳ある者の感化は深く、その伝わりには終わりがなく、私の拙文を待つ必要があろうか。しかし無字碑は書かぬことに意味を託す。文字がないならなぜ碑が必要かというのも、高すぎる議論である。有があれば無がある[以下の有無の論述は原文が不明瞭]。有は利益となり、無も用となる。石は有であり、文章による記はその無に託すのである。人に恩を施した徳を不朽に伝えるのも、その託すところである。仏弟子が恩を知り、記によって報恩することは、□□の情が喜ぶところである[欠字]」。こうして文章とした。藤林居士張口記す[名の末字は原文表記]。

《长子县志》(長子県志)巻七「潞州長子県慈林山寺先賢堂記」、清・豫謙編修

法興寺新修仏殿記

潞郡上与天党,号天下之脊,而慈林挟右壶口,居太行之肩,陟其峻绝莽苍杳霭之间,可以南望山川,北顾汾、浍。其崇山峻岭,穹谷大畎,草木茂密,云霞万状,轩豁叫窱,气象熊熊,乃一山之秘奥,而天下之形胜也。佛寺经始于后魏之神鼎,易新于唐之咸亨,厥后或兴,或废或葺,浸以颓陀。逮皇朝建隆之初,有僧曰凝诲,缔搆复完,家,太师令君尝为之碑镕。天圣中,释法信与麻衣从深又辟其基,敞三门于其前,给事中孙公冲刻其辞于石。今继主其事者曰绍荣,以佛殿始作于晋开运二年,距今一百三十余载,垣穿城夷,榱桷倾北,于是募檀施,鸠力役,发于至诚,心身信向,崇坛广宇,撤旧谋新,经之营之,成于不日。

潞郡は上党と結び、天下の背骨と呼ばれる。慈林は右に壺口を抱き、太行の肩に位置する。険しい山と深い霞の中を登れば、南の山河を望み、北の汾・澮を眺められる。高山と深い谷、茂る草木、万様の雲霞、開けたところと奥深いところ、盛んな気象は、一山の秘奥で天下の勝地である。仏寺は後魏の神鼎に始まり、唐の咸亨に新しくなった。その後は興廃や修理を重ね、次第に衰えた。宋の建隆初め、凝誨という僧が再建を成し遂げ、わが家の太師令君が碑の文章を作った[「碑镕」は不明瞭]。天聖年間、僧の法信と麻衣従深がさらに敷地を開き、前に三門を設け、給事中の孫沖が文を石に刻んだ。いま後を継ぐ紹栄は、晋の開運二年に造られた仏殿が百三十余年を経て、壁は破れ、垣は崩れ、垂木は傾いたのを見て、施捨を募り人手を集めた。誠心から信仰を尽くし、壇を高く、屋宇を広くし、旧を撤して新を図り、計画と造営を進め、ほどなく完成した。

其为殿三楹,周以廓腰,袭珉以为柱,伐石以为扉,高广壮严,可以为他屋冠。备像设之庄严,穷绘景之精妙。率其徒朝夕焚香赏呗,发其书而诵习之,使来者闻声而悟,睹相而信,革斗怒鄙悖之心,而向于和顺,消欺诞险害之虑而趋于夷易。外则渐摩于上之仁义教化,而恐畏于礼法刑典,俾之暗然日迁善远罪,论有厚元元之性,辅宴宴之化。由是而言,则兴废系乎其时,而得失存乎其人矣。荣师生而朴愿,幼袭佛服,其见闻董修,未始不仿依于其教,游泳于其业,顾世俗贪冒没溺者,宜不一动其心。且其诚悫得乡闾欣慕,以能就其所愿,则其精进智识,可以副予向所陈为不疑矣。殿既成,使以书来请记。予以大父尝所游息,先子诞育之地也,阅其书,不知涕泗之横集,自托不腐,实素愿焉。

殿は三間で周囲に廊を巡らせ、石を柱とし、石を切って扉とした。高く広く荘厳で、ほかの建物をしのぐ。尊像を十分に荘厳し、彩色の精妙を極めた。弟子を率いて朝夕焼香し梵唄を唱え、経を開いて読誦し学ぶ。訪れる者が声を聞いて悟り、像を見て信じ、争い・怒り・卑しさ・道に背く心を改めて和順へ、欺きや害をなす思いを消して平易へ向かうようにする。外には君主の仁義の教化を受け、礼法や刑典を畏れ、知らず知らず日々善へ移り罪から離れる。民の性を厚くし、安寧の教化を助ける[一部字句不明瞭]。このように興廃は時にかかり、得失は人にかかる。栄師は生来素朴で誠実、幼くして仏衣を着け、その見聞と修行は常に教えに従い、仏業に遊泳していた。世俗の貪欲に沈むことは心を動かさないはずである。誠実さは郷里の人の敬慕を受け、願いを果たせたのだから、精進と智慧は先の私の言葉に違わない。殿が完成すると手紙を届けて記を請うた。祖父が遊び憩い、亡父が生まれ育った場所なので、読むうち知らぬ間に涙が溢れた。不朽の文章に託すことは、もとより私の願いである。

于为之记。元丰四年正月五日。

そこで記を作った。元豊四年正月五日。

《长子县志》(長子県志)巻十七「法興寺新修仏殿記」、宋・元豊四年、王益柔撰、清・劉樾編修

潞州長子県法興寺記

法兴寺碑。

法興寺碑。

至元十年宋道撰,今在长子县慈林山。

至元十年に宋道が撰し、いま長子県慈林山にある。

谨案:宋道,长子人,元史有传。所箸秬山集十卷,今不传。碑称道七岁侍先大父上马武京,迁洛西,去国五十年近,始能归葬大父于先茔。又称其祖兵部公拄笏轩留题,今犹未沬。本传道金兵部员外郎元吉之孙,年十七,避地襄阳云云。据金史:兴定四年庚辰,上党公张开壁马武寨。由庚辰至是年甲戌,凡五十五年,是其避地即在兴定时。自述年七岁,史言十七,似史有误。至所言元吉拄笏轩留题诗已不传,当是书之寺壁者,故云未沬,非有石刻也。

謹んで考えるに、宋道は長子の人で『元史』に伝がある。著書『秬山集』十巻は現存しない。碑には七歳で祖父に侍して馬武京へ上り、洛西へ移り、郷里を離れて五十年、近頃やっと祖父を先祖の墓へ帰葬できたという。また祖父である兵部公が拄笏軒に残した題詩が、今も消えていないとする。本伝は、金の兵部員外郎元吉の孫で、十七歳に襄陽へ避難したなどと記す。『金史』によると興定四年庚辰に上党公張開が馬武寨に陣した。庚辰からこの甲戌年まで五十五年であり、避難は興定年間となる。自述は七歳、史書は十七歳といい、史書の誤りらしい。元吉の拄笏軒題詩はもう伝わらず、寺壁に書いたものであろう。だから「未沬」といい、石刻ではなかった。

《山右金石记》(山西金石記)金石記八「法興寺碑」、清・王軒著、張煦編

长子县东南一舍而远,有山曰慈林,不峻不卑,石涧愁洌,东峰拔萃,岗阜拱揖,绝壁西断,平原下开,掖峰据璧,是为法兴寺。长松古柏,植列森严,棫朴榛灌,绵络弥望。若夫阳舒阴惨之交,云霞烟霭之变,光风霁月,雨昏雪缟之际,千状万态,不可胜言。故贵游才士,登临舒眺,赋诗称道者颇多。八百余年,恒为潞州名刹。今山主大比邱昙珂,高平宿儒仇文昌之子,净性不昧,潜心义天,遂为唯识论。屿公之高弟,讲圆觉修多罗了义,得圭峰言外意,读书能诗,喜与士大夫游。一日,来谓仆日:此寺肇寝艺文,迹于元魏神鼎元年,历齐、周、隋,钟鱼不废。唐咸亨四年,高祖第十三子郑惠王元懿为潞州剌史,于寺中造石塔,藏所赐佛舍利三七粒,及写大藏经为卷者三千,以报罔极之恩。

長子県の東南一舎余りに慈林という山がある。高すぎず低すぎず、石の谷川は冷たく[「愁洌」の字義は不明瞭]、東峰は抜きんで、丘は拱揖し、断崖が西を切り、平原が下に開ける。峰と崖に拠るところが法興寺である。長松と古柏が厳然と並び、棫朴や灌木が見渡す限り続く。陽の明るさと陰の暗さが交わり、雲霞が移り、晴れた風と月、暗い雨や白い雪の時には、数えきれない姿を見せる。貴人や才士が登って眺め、詩で称した例は多い。八百余年、潞州の名刹であった。いまの山主、大比丘曇珂は高平の儒者仇文昌の子で、清浄な本性を失わず、教義に心を潜め、唯識論の屿公の高弟となった[文の区切りは不確か]。円覚経の了義を講じ、圭峰の言外の意を得、書を読み詩を作り、士大夫との交遊を好む。ある日私に言った。「この寺の始まりは元魏神鼎元年に遡り[冒頭字句不明瞭]、斉・周・隋を経ても鐘と木魚は絶えなかった。唐咸亨四年、高祖の第十三子で潞州刺史の鄭恵王元懿が寺に石塔を築き、賜った仏舎利二十一粒と書写した大蔵経三千巻を納め、尽きない恩に報いた」。

金界光华,自此尤盛。上元元年,改广德。五代麻衣道者特建三门。宋治平中,改法兴。祥符中,高士王景纯隐居此山,与晦禅师为莲社友,其子文康公曙。佐仁宗,号贤相,奕叶贵显,各绝名衔。若其璇题之更革,法筵之隆替,住持师资之源委,则具载于历代之碑。国朝岁壬午,泽、潞兵荒,予就食东土,十载方归,山川如昔,人物萧条。礼窣堵之神奇,瞻招提之芜圯,慨叹既为佛子,当报佛恩,遂率首座昙兴等,刜荆棘,燹草莱,枝易朽欹,补幂罅漏,汛拂绘塑,缮完阐垣,晨香夕灯,以赞皇图,寒耕热耘,以足常住。众心协敬,克保前修。今年将八十,可谓老矣。恒虑化理密移,功缘难毕,为没齿恨。君家三世,予皆识之,令祖兵部公拄笏轩留题,今犹未沬,是故欲得君文,勒诸贞石,为山门不朽之传。

「仏の境域の輝きはここからいっそう盛んになった。上元元年には広徳と改め、五代には麻衣道者が特に三門を建てた。宋の治平中に法興と改称した。祥符中、高士王景純がこの山に隠居し、晦禅師と蓮社の友となった。その息子の文康公曙は仁宗を補佐し賢相と呼ばれ、子孫も代々栄達して立派な官名を持った。寺名の変更、法会の盛衰、住持と師弟の系譜は歴代の碑に詳しい。当朝壬午年、沢・潞の戦乱と飢饉で私は東の地へ食を求め、十年後ようやく帰った。山河は同じだが、人影はまばらになっていた。塔の神奇に礼し、寺の荒廃を見て、仏弟子である以上仏恩に報いねばと思い、首座曇興らを率いて茨を払い草を焼き、腐朽・傾斜した部材を替え、屋根の隙間と漏りを補い、彩画と塑像を清め、境内の垣を修理した。朝に香を、夕に灯を供えて皇業を助け、寒中に耕し暑中に除草して寺の糧を賄った。皆が敬意を合わせ、先人の修業を守れた。今年は八十近く、老いたといえる。時が密かに移り、功徳の事業を終えられず終生の悔いとなることを常に案ずる。君の家の三代を私は知り、祖父の兵部公が拄笏軒に残した題詩もまだ消えない。ゆえに君の文章を得て堅い石に刻み、山門の不朽の伝えとしたい」。

仆曰:道七岁侍先大父上马武京,迁洛西,丁壬辰乱,登女凡,历嵩、少,涉丹、浙,渡汉沔,寓武当,抵南郡。间关险阻,百死一生。去国五十年,近,始能归葬大父于先茔,抚高祖手植庭槐,与邑中父老子弟相劳问,悲感交集。若其识不肖于童稚,令艺文之间,能道吾家尊显行辈及姻亲之氏族者,惟珂公及邑令张君逸卿在焉。道虽孤陋不文,亦安敢拒命?然尝闻佛经云:幻灭灭尽,非患不灭。又云:变者变,不变者不变。师何虑齿发之衰乎?栽松道者身先老,放下锄头好再来。古德如斯,师行若是,又何虑功缘之难毕乎?三千大千世界,犹如空花,乱起乱灭,而乃琢磨再石,镌刻空文,欲以为山门不朽之传,无乃近于妄乎?呵公曰:兹事且置无论,记不可不作也。满日,谓已童矣,而其刻之。

私は答えた。「宋道は七歳で祖父に侍して馬武京へ上り洛西へ移った。壬辰の乱に遭い、『女凡』へ登り[地名不明瞭]、嵩・少を経て丹・浙を渡り、漢・沔を越え、武当に住み、南郡へ至った。険しい道で百死に一生を得た。故郷を離れて五十年、近頃やっと祖父を先祖の墓へ帰葬できた。高祖が手植えした庭の槐に触れ、邑の父老や子弟と慰め合い、悲しみと感動が交じった。幼い私を知り、家の尊長の世代や姻戚まで語れるのは、珂公と県令張逸卿だけである[途中の字句不明瞭]。孤陋で文才のない私も、どうして拒めよう。ただ仏経には『幻滅滅尽、非患不滅』[「患」は原文どおりで意味不確か]、また変わるものは変わり、変わらぬものは変わらぬという。師はなぜ歯や髪の衰えを憂えるのか。松を植える道者は先に老い、鍬を置いてまた来ればよい。古徳がそうで師の行いもそうなら、なぜ功縁の完遂を案ずるのか。三千大千世界さえ空の花のように生滅するのに、石を磨き空しい文章を刻んで不朽の山門の伝えとしようとは、妄に近くはないか」。珂公[原文は「呵公」]は「その事はひとまず論じるのをやめ、記は必ず作ってほしい」と言った。末尾「满日,谓已童矣,而其刻之」は判読が不明瞭で、刻むことを述べる。

至元十年癸酉十月朔日。

至元十年癸酉、十月一日。

《长子县志》(長子県志)巻十七「潞州長子県法興寺記」、元・至元十年、清・劉樾編修

慈林山寺に留めた詩

右谏议大夫、知潞州年州事孙冲述。

右諫議大夫・潞州知州の孫沖が述べる[官職の原文に「年」の字あり]。

秋宿山中寺,泠然洗宦心。况当衰髦发,消得卧云林。泉涩石沟浅,灯昏松屋深。上方清梦寐,晓谷飏钟音。

秋、山寺に泊まれば、ひんやりと官吏の心が洗われる。髪も衰えた今だからこそ、雲の林に臥すにふさわしい。泉の流れは滞り、石溝は浅く、灯は暗く松の家は深い。高い仏堂では夢も清く、暁の谷に鐘の音が響く。

其二:山中古佛寺,暂到觉神情。扫地云粘帚,敲钟谷应声。诵经僧坐石,下树鸟寻生。白日尘寰内,劳劳徒利名。

第二首。山中の古い仏寺に少し来ただけで、心が目覚める。地を掃けば雲が箒にまとわり、鐘を鳴らせば谷が応じる。読経する僧は石に座り、木を下りる鳥は生を求める。白日の塵世では、ただ利益と名声のために忙しくしている。

天圣五年八月五曰题。男前进士景上:总辔连高顶,名区得赏心。身闲除五盖,地福亚双林。梵逐松风远,香飘夜涧深。堂中有多士,一一卜知音。

天聖五年八月五日に題した。息子で元進士の景が献ずる。手綱をとって高い頂へ連なり、名所で心ゆくまで楽しむ。身が閑なら五蓋を除き、福地は双林に次ぐ。梵声は松風と遠くへ行き、香は夜の深い谷へ漂う。堂には多くの士がいて、一人ずつ理解し合う友を求める。

其二:半空山叠翠,满耳松风清。楼高入浓碧,泉落飞寒声。世路有穷尽,佛法无死生。会当冥至理,不复狥浮名。

第二首。空半ばの山は緑を重ね、耳いっぱいに清い松風。高楼は濃い碧へ入り、泉は落ちて冷たい音を飛ばす。世の道は尽きるが、仏法には死生がない。深い理を悟り、浮名を追うのをやめよう。

家君大谏以慈林山寺地产巨贤,故有院记。及游胜境,遂留二诗。景今到此,辄次元韵以和。明道二年十一月八日谨志。

父の大諫は慈林山寺の地から大賢が出たことにより院記を作り、勝景に遊んで二首を残した。景も今ここに来て、原韻に次いで和した。明道二年十一月八日、謹んで記す。

元丰二年二月初五曰,院主僧绍荣立石。

元豊二年二月五日、院主の僧紹栄が石碑を建てた。

《长子县志》(長子県志)巻七「慈林山寺に留めた詩」、宋・孫沖、孫景の詩、清・豫謙編修

王曙「帰郷七言四韻詩」

王曙が潞州知州の在任中に作り、天聖五年(1027年)仲春十七日に題した。元豊二年(1079年)仲春五日、院主紹栄が石碑を建立し、高平の李厳が刻字した。題名、署名、年紀は豫謙編修の『長子県志』巻七に見え、以下の詩は劉樾編修本巻二十の記録による。

昔曰垂髫今作翁,山川犹忆赋征东。头陀碑在遗或缺,靖节园荒旧业空。遮道野人窥衣锦,𬴐迎竹马拜凭熊。吾乡信美归来宴,都似无何两字中。

昔は幼子、今は老翁となった。山河にはなお東征の詩を賦した思いがある。頭陀の碑は残るが欠けたところもあり、靖節の園は荒れ、昔の業は空しい。道を塞ぐ村人は錦をまとった帰郷の姿を見、竹馬を迎えて太守の車に拝礼する[「𬴐」の字義は不明瞭]。わが郷里はまことに美しく、帰って宴を開けば、すべて「無何」の二字のようだ。

《长子县志》(長子県志)巻二十「慈林寺石刻詩」、宋・王曙の詩、清・劉樾編修

『長子県志』に収められた詩文

苜年樵𥪡隐斯山,名振京师世所贤。今日我来还避乱,愿同八鹿老林泉。

「苜年」[冒頭の語は不明瞭]、樵人[原文「樵𥪡」]はこの山に隠れ、都に名を響かせ、世の賢者とされた。今日私も乱を避けてここへ来た。八鹿とともに林泉で老いることを願う。

《长子县志》(長子県志)巻二十「慈林寺石塔裏の詩」、劉龍の詩、清・劉樾編修

秋风脱叶绕禅龛,缥缈慈云紫翠涵。几字云鸿迷塞北,一声山鸟起杖南。断崖古树传幽磬,落日孤云送晚岚。我亦无心留色相,好将虚寂问瞿昙。

秋風が葉を落として禅の龕を巡り、霞む慈雲には紫と緑が含まれる。文字を描くように飛ぶ雁は塞北に迷い、一声の山鳥が杖の南に起こる。断崖の古木は静かな磬の音を伝え、落日の孤雲は夕霞を送る。私も色相を留める心はなく、虚寂について瞿曇に問いかけたい。

《长子县志》(長子県志)巻二十「慈林の秋景」、賈見陛の詩、清・劉樾編修

古写真

1958年(掲載)

酒冠五「山西長子県慈林山法興禅寺」は『文化財参考資料』1958年第11号に掲載された。九枚の写真は、移築前の慈林山旧地の舎利塔、燃灯塔、円覚殿、梁組み、彩色塑像を記録している。

1962年

張馭寰『上党の古建築』に収録された1962年の山西省東南部古建築調査写真には、移築前の慈林山旧地の二基の石塔、大殿の梁組みと塑像が写されている。

参考資料

  • 『国の至宝――長子の法興寺・崇慶寺』、中国建築工業出版社、2011年、89頁。
  • 酒冠五「山西長子県慈林山法興禅寺」、『文化財参考資料』1958年第11号。
  • 胡聘之『山西石刻集成』巻四。
  • 王軒著、張煦編『山西金石記』金石記八。
  • 豫謙編修『長子県志』巻七。
  • 劉樾編修『長子県志』巻十三・十七・二十。