はじめに
保国寺は現在の寧波市江北区に位置し、かつては慈渓県に属した。『寧波府志』『慈渓県志』は、この寺院が唐代に初め霊山と称され、会昌年間に「廃」され、広明元年(880)に「保国」の額を賜ったことを記す。嘉慶『保国寺志』はより具体的に記す。会昌五年に寺は廃され、広明元年に県丞の王軻が郷人とともに「名藍圮毀(名だたる伽藍が崩れ壊れた)」ことにより「再興」を図り、朝廷に額を請い、また可恭・宝定の二僧を住持に招いた、と。
北宋に至り、『保国寺志』は徳賢が大中祥符四年(1011)に来て寺務を主宰し、その後、山門・大殿を「悉く鼎新(ことごとく一新)」したと記す。「仏殿」の条は殿の造営を祥符六年(1013)に繋ける。現代の文化財保護資料は、現存する大殿を1013年に再建された木造遺構として記録する。治平元年(1064)、寺額は精進院に改められた。南宋『宝慶四明志』はその旧名を「霊山保国」とし、明代の地方志はさらに「今も仍お保国と名づく」と記す。以後、「保国」の名は今日まで用いられ続け、現存する北宋の大殿もまた近現代に体系的な調査記録を残している。
1954年、南京工学院中国建築研究室が保国寺大殿を調査・実測し、外檐の斗栱、正面の檐柱、梁組、藻井などの画像を残して、この北宋木造が体系的な調査を受けた時点における部材の状態を記録した。
歴史文献
『宝慶四明志』
骠骑山,县东三十里。会稽典录云:“汉世祖时张意为骠骑将军,其子齐芳历中书郎,尝隐于此,故以为名。俗呼为马鞍山,乃州之后坐山也。
驃騎山は、県の東三十里にある。『会稽典録』に云う、「漢の世祖の時、張意は驃騎将軍となり、その子の斉芳は中書郎を歴任し、かつてここに隠棲した。ゆえにこれを名とした。俗に馬鞍山と呼び、すなわち州の後坐の山である。
精进院,县东三十里。旧名“灵山保国”,唐广明元年置。皇朝治平元年改赐今额。
精進院は、県の東三十里にある。旧名を「霊山保国」といい、唐の広明元年に置かれた。本朝の治平元年に改めて今の額を賜った。
『寧波府志』
保国教寺县东二十里。始建于唐,名灵山。会昌中废。广明元年,赐保国额。宋治平元年改。
保国教寺は県の東二十里にある。唐に始めて建てられ、霊山と名づけられた。会昌年間に廃された。広明元年、保国の額を賜った。宋の治平元年に改められた。
精进院,今仍名保国。
精進院は、今も仍お保国と名づく。
『慈渓県志』
保国寺
保国寺。
县东二十里。始建于唐,名灵山寺,其西峰名骠骑山。会昌中废。广明元年,赐保国额。
県の東二十里にある。唐に始めて建てられ、霊山寺と名づけられ、その西峰は驃騎山と名づけられる。会昌年間に廃された。広明元年、保国の額を賜った。
宋治平元年,改精进院额,今仍名保国,定成丛林。
宋の治平元年、精進院の額に改められた。今も仍お保国と名づけ、定めて叢林となった。
登临何处好,古刹对沧江。行脚僧归渡,迎风香满窗。疏狂怜我独,金碧羡君双。击剑高秋夜,应知鬼胆降。
登り臨むにいずこか好き、古刹は蒼江に対す。行脚の僧は渡しに帰り、風を迎えて香は窓に満つ。疏狂にして我が独りなるを憐れみ、金碧にして君が双なるを羨む。剣を撃つ高秋の夜、応に鬼胆の降るを知るべし。
兰若隐云端,折旋路百盘。诧人蹲怪石,奔壑迸哀湍。僧磬竹阴晚,佛台花雨寒。更期观海曙,留宿待更残。
蘭若は雲端に隠れ、折旋して路は百盤す。人を詫かしめて怪石は蹲り、奔る壑より哀しき湍が迸る。僧の磬は竹陰の晩に鳴り、仏台に花雨は寒し。更に海の曙を観んことを期し、宿を留めて更の残るを待つ。
『続文献通考』
则全孚叔平,姓施氏,慈溪人。落发于邑之保国寺,住三学三十年,太守郎简礼之,尝谓人曰:叔平才气凛凛然若儒冠,使职谏诤,岂下汉汲黯、唐魏征、我朝王元之乎?庆历五年,州众坐亡,世号三学法师。
則全、孚は叔平、姓は施氏、慈渓の人なり。邑の保国寺に落髪し、三学に住すること三十年、太守の郎簡はこれを礼遇した。かつて人に謂いて曰く、「叔平の才気は凛凛然として儒冠のごとし。もし諫諍を職とせしめば、あに漢の汲黯、唐の魏徴、我が朝の王元之に下らんや」と。慶暦五年、州衆のなか坐して亡じ、世に三学法師と号す。
『両浙名賢外録』
则全,字叔平,姓施氏,慈溪人。落发于保国寺。南湖竞推十六大弟子,则全为之首。旁通诸史,尤工著述。性直气刚,敢言人过。识者每言:“直心是道场,若叔平,真出家儿也。”住三学三十年,郡守郎简尤礼重之。尝语人曰:“叔平才气凛凛然,若衣儒衣、冠儒冠者,使簪笔荷橐,立柱下以职谏诤,岂遂不若汉汲黯、唐魏征哉?”庆历五年夏,别众坐亡,世号三学禅师。
則全、字は叔平、姓は施氏、慈渓の人なり。保国寺に落髪す。南湖が競って推す十六大弟子のうち、則全はその首たり。傍ら諸史に通じ、尤も著述を工みとした。性は直く気は剛く、敢えて人の過ちを言う。識者は毎に言う、「直心は是れ道場なり、叔平のごときは真の出家児なり」と。三学に住すること三十年、郡守の郎簡は尤もこれを礼重した。かつて人に語りて曰く、「叔平の才気は凛凛然たり。もし儒衣を衣、儒冠を冠する者にして、簪筆荷橐せしめ、柱下に立ちて諫諍を職とせしめば、あに遂に漢の汲黯、唐の魏徴に若かざらんや」と。慶暦五年の夏、衆に別れて坐して亡じ、世に三学禅師と号す。
『句章徴文録・保国寺志』
保国寺志二卷德也
『保国寺志』二巻、徳也。
国朝余兆灏著住僧敏庵编辑嘉庆乙丑淳序
本朝の余兆灝の著、住僧敏庵の編輯、嘉慶乙丑に淳の序あり。
『浙江通志』
保国教寺。成化四明郡志:“县东二十里。始建于唐,名灵山,会昌中废。广明元年,赐保国额。宋治平元年,改精进院。今仍名保国,成丛林。
保国教寺。成化『四明郡志』に云う、「県の東二十里にある。唐に始めて建てられ、霊山と名づけられ、会昌年間に廃された。広明元年、保国の額を賜った。宋の治平元年、精進院に改められた。今も仍お保国と名づけ、叢林となった。
『四明談助』
保国教寺县东二十里,始建于唐,名灵山。会昌中废。广明元年,赐保国额𡧯。治平元年改精进院,今仍名保国。成化志。保国寺藏在山腹,从溪边石径盘曲而上,松林阴翳,至半山亭少憩,再上数折,入山门,殿宇修整,花木楚楚,寺僧殷富,颇知礼教。
保国教寺は県の東二十里にあり、唐に始めて建てられ、霊山と名づけられた。会昌年間に廃された。広明元年、保国の額を賜った。治平元年に精進院に改められ、今も仍お保国と名づく。『成化志』による。保国寺は山腹に隠れて在り、渓辺の石径より盤曲して上り、松林は陰翳とし、半山亭に至りて少しく憩い、再び数折を上りて山門に入る。殿宇は修整せられ、花木は楚楚とし、寺僧は殷富にして、頗る礼教を知る。
翁洲丁鹤年诗:一径野云深,僧房閟绿阴。雨腥龙出涧,风劲虎过林。澹泊资禅味,清凉养道心。三生如不寐,石上一来寻。
翁洲の丁鶴年の詩に云う、一径 野雲深く、僧房 緑陰に閟づ。雨は腥く龍は澗を出で、風は勁く虎は林を過ぐ。澹泊にして禅味を資け、清涼にして道心を養う。三生 如し寐ねずんば、石上に一たび来り尋ねん。
『鶴年詩集・慈渓に夏を度り報国寺にて甬東の椿上人に寄す』
一径野云深,僧关閟绿阴。雨腥龙出涧,风劲虎过林。澹泊资禅味,清凉养道心。三生如不昧,石上一来寻。
一径 野雲深く、僧関 緑陰に閟づ。雨は腥く龍は澗を出で、風は勁く虎は林を過ぐ。澹泊にして禅味を資け、清涼にして道心を養う。三生 如し昧からずんば、石上に一たび来り尋ねん。
『十菊山人雪心草』
石磴攀萝上,登高景自赊。相看惟傲睨,俯视忽惊呀。身受千江月,口吞五色霞。有僧同杖履,一笑得诗葩。
石磴 蘿に攀じて上り、高きに登れば景は自ずから賖なり。相看て惟だ傲睨し、俯視して忽ち驚呀す。身は千江の月を受け、口は五色の霞を呑む。僧の杖履を同じくする有り、一笑して詩の葩を得たり。
古写真
1954年
1954年、南京工学院中国建築研究室が保国寺大殿を調査・実測した。残された調査写真は、外檐の斗栱、正面の檐柱と雀替、補間鋪作の後尾と外檐の梁組、梁組、および二つの藻井の視点を記録している。






1970年代
1970年代の記録写真は、それぞれ保国寺大殿と寺院建築群を記録する。前者は浄土池の一方から大殿を正面に望み、後者は山林のあいだから寺院建築群を俯瞰する。


参考文献
- 清 余兆灝ら纂、釈敏庵輯『保国寺志』、中国仏寺志デジタルアーカイブの画像および翻刻。
- 王書林・徐新雲・徐怡濤「両宋時期における両浙路地域の建築形制の変遷と地域間相互関係の研究」、『故宮博物院院刊』2021年第10期。
- 清華大学建築学院・郭黛姮・寧波保国寺文物保管所編著『東来第一山——保国寺』、北京:文物出版社、2003年。