HERITAGE RECORD

泉州開元寺

黄守恭は「桑の木に蓮が咲いてから屋敷を施そう」と条件を掲げたが、数日後、桑の枝には白蓮が咲き満ちた。二世紀後、仏殿・経楼・鐘楼は一夜のうちに焼失した。その後、開元寺はたびたび再建され、木塔は煉瓦塔に、煉瓦塔は石塔へと代わり、ついには短刀を携えた「猴行者」が仁寿塔に刻まれた――百回本『西遊記』より約三百年も早い。さらに後には、飢饉の群衆が長い廊下に坐り込み、明代の遊人は月の下で双塔を巡った。

時代
唐朝
地域
福建
LOCATION
福建省泉州市鯉城区
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泉州開元寺 - quanzhou kaiyuansi old 01
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概要

伝承によれば、唐の垂拱二年(686)、黄守恭は夢の中で一人の僧に会い、屋敷の地を仏寺として施すよう請われた。黄守恭はすぐには承諾せず、桑の木に蓮の花が咲いてから改めて議しようと言っただけだった。数日後、桑の枝にはなんと白蓮が咲き満ち、彼はこれでようやく屋敷を捨てて寺を建て、蓮花寺と名づけた。これは一つの伝説だが、「蓮花寺」が開元寺の最も早い名前であったことは確かである。その後、寺院は興教寺、龍興寺と呼ばれ、唐の開元二十六年(738)に開元寺と改められた。

咸通六年(865)、文称禅師は寺院の東側に九層の木塔を建て、鎮国塔と名づけた。唐末、寺の仏殿・経楼・鐘楼はまた一夜のうちに灰燼と化した。再建を主導した者は俸銭三千緡を出し、工匠を集め、木材を調達すると、一年を待たずして新しい仏殿が再び落成した。大殿はなお旧制どおり五間両厦で造られ、鐘楼は東北に立ち、経楼は西北に立った。落成後、千余名の僧が寺に来て斎会に参加した。五代梁の貞明二年(916)、寺院の西側にもまた七層の木塔が建てられ、初めは無量寿塔と名づけられ、後に仁寿塔と改められた。紹興年間、東西二基の木塔は火災に遭い、その後の再建の際、僧たちは次々とこれを煉瓦塔に改め、南宋に入ってからは石材での造り替えが始まった。

先に完成したのは西塔の仁寿塔だった。紹定元年から嘉熙元年(1228—1237)にかけて、石塔は一層ずつ築き上げられ、仏・菩薩・護法神も塔身に刻まれた。第四層の東北壁には、猿の頭に人の身をもつ行者が刻まれ、腰には『孔雀王咒』の経典を結び付け、手には短刀を握っている。後の人は彼をしばしば「孫悟空」と呼ぶが、彼には金箍棒(如意棒)がなく、石壁にも「孫悟空」の三字はない。より正確に言えば、彼は南宋の「猴行者」であり、明代の百回本『西遊記』より約三百年早く、孫悟空のイメージが定まる以前に残された一つの西遊図像である。

淳祐元年(1241)、泉州は飢饉に見舞われた。盛夏の時節、開元寺の数十丈にも及ぶ廊廡の下には、施し粥を待つ数千人の人々が列をなして坐っていた。郡掾の林希逸は早朝にここで粥の配給を取り仕切り、午後には承天寺へ急ぎ、穀物の買い付けによる賑済を行った。承天寺の長い廊下にも同じく数千人が集まっていた。林希逸は多年の後にこの賑済を書き記した際、これらの広い僧坊がなければ、当座に飢民を収容する場所を見つけることは難しかったであろうと、なお感慨を述べている。

淳祐十年(1250)、東塔の鎮国塔も石造で完成し、双塔はついに並び立った。

咸淳五年(1269)、林希逸は開元寺の東北隅にある一つの僧院のために重修記を書いた。この僧院は興福寺と称し、俗に粥院と呼ばれ、かつて千僧の粥食を供したという伝説がある。林希逸はまた粥桶にまつわる物語を聞き伝えている。ある兵官が寺の木桶を奪って馬の餌にした。当時、粥食を司っていたのは「華厳」と呼ばれる僧で、彼は兵官を追わず、かえって伽藍神の画像を磨石の下に押さえつけ、寺を護る神がなぜ人に寺の物を奪わせるのかと責め問うた。夜、身の丈八九尺の人影が訪れ、神位を元に戻すよう乞い、ただちに木桶を取り戻すと約束した。まもなく、夜を徹して門を叩いて木桶を返しに来る者があり、兵官の二頭の馬はともに死んだという。後に伽藍神は香厨のために鼠や雀を追い払うことを願い出、この僧は寺の中に彼のための祠を建てた。この物語には具体的な年代がなく、林希逸もそれは土地の古老の口伝によるものだと述べている。

至正十七年(1357)、開元寺は再び災害に遭い、大雄宝殿と甘露戒壇がともに毀れた。洪武初年に仏殿が再建され、洪武三十三年(1400)には僧の正映が甘露戒壇を再建した。永楽六年(1408)、寺院は再び増築された。

万暦三十二年(1604)十一月初八、泉州で地震が発生した。翌日の夜になると、城中でさらに十余度も立て続けに揺れ、地面が裂け、家屋が倒壊し、舟も少なからず転覆した。開元寺では、鎮国塔の塔尖の石が落下し、欄干を壊した。地震の後、泉州の人・詹仰庇が資金を募り、被害を受けた東塔を修理した。二年後の八月初七、一陣の大風が泉州城中の十余基の石坊を倒し、仁寿塔頂の銅の葫蘆も折れた。続いて大学士の李廷機が資金を募り、西塔も修繕された。

崇禎十年(1637)仲夏十九日の夕暮れ、晋江の人・蒋徳璟は友人ら数人を誘い、開元寺の東塔のそばの涼しい木陰に座り、茶を飲み、野菜や果物を味わった。ある者は、塔が高く建てられるのは全て塔の根が堅固なおかげだと言い、蒋徳璟は話題を「塔心」へと転じた。一同は塔の根、塔の尖から人の心に至るまで語り合い、さらに造塔の功徳から儒家の義理、仏家の『金剛経』へと議論を戦わせた。晩鐘が鳴ると、彼らは東塔を巡って幾周も礼拝した。大殿を抜けると、庭は「月昼の如し」で、一行は興が尽きず、西塔を幾周も巡ってから帰っていった。

歴史文献

『泉州開元寺佛殿碑記』

混沌死而天地生,道德销而仁义作。情军业网,始脉旋波。天谓洛龟河龙,文有生而不文无生。乃产金圣人于西国,钻智慧火,干烦恼海。理不吾吾,而一贯生生。其姿电㸌于周室,其波派漾于汉代。繇是馆移鸿胪,城崇白马,斯有寺之始也。寺制殿,象王者之居,尊其法也。其后金地莲扃,周旋四海,乌飞兔走,或故或新。至如神运之灵莫灵矣,亦靡得而岿然。则我州开元寺佛殿之与经楼、钟楼,一夕飞烬,斯革故鼎新之数也。初,仆射太原公以子房之帷幄布泉城,以叔度之袴𥜗纩泉民,而谓竺干之道与尼聃鼎,宜根乎信而友乎理。矧开元宇,五十载之圣容,实寺之冠。洎帅闽也,愈进其诚。缮经三千卷,皆极越藤之精,书工之妙。驾以白马十乘,送以府僧,迎以郡僧,置兹之楼。既而蜀雨不飞,识者以为物之尤罕留于世,敬之至必动乎神。是必为地祗所搜,龙宫之索。不然者,曷与斯故新之数期?厥理则明,我宜悄然不已。仲弟检校工部尚书,为兹郡之秋也,武则拍孙吴之背,文则席夏商于前,而复龙虎之内,以埙以篪,大耸孟龙之旨。乃割俸三千缗,鸠工度木,烟岩云谷之𣏌、梓、楩、楠,投刃以时,趋功以隙,食以月粟,付以心倕,不期年而宝殿涌出。栋隆旧绮,梁修新虹,八表四隅,悉半乎丈。柱盛镜础,方圭丛斗。楣承蟠螭,飞云翼栱。文榱刻桷,轇轕𭩚枒。或经纬以开织,或丹雘而缬耀。皛若蟾窟,嶪如鳌背。风夏触而秋生,僧朝梵而谷应。升者骨冰,观者目波。而五间两厦,昔之制也。自东迦叶佛、释迦牟尼佛,左右真容,次弥勒佛、弥陀佛、阿难、迦叶菩萨卫神,虽法程之有常,而相貌之欲动。东北隅则揭钟楼,其钟也新铸,仍伟旧规。西北隅则揭经楼,双立岳峰,两危蜃云,东瞰全城,西吞半郭。霜韵扣而江山四爽,金字骈而讲诵千来。是知天地、日月、鬼神,不欲一存其物,将有待于后人也。设使斯殿也,斯楼也,不有之故,其何以新?我公之作之为,其何以布之哉?三略六韬,流通贝多,戈霜剑雪,为甘露洁,信英智之所措也。既毕,召化内之缁锡,数迈于千,斋而落之累中。慈云五色,慧日重轮,谭者以为梵天之宇,化于是矣;灵山之会,俨于是矣。我公之倅试大理评事宋君曰骈,才推博古,识洞真如,请立贞珉,垂于不朽。公以小儒不佞,俾刻斯文。僧正临坛,大德僧宣一,桑门之关楗者曰:寺有记,亡之矣。垂拱二年,郡儒黄守恭宅桑树吐白莲花,舍为莲花道场。后三年,升为兴教寺,复为龙兴寺。逮玄宗之流圣仪也,卜胜无以甲兹,遂为开元寺焉。尝有紫云覆寺至地,至今凡草不生其庭。大矣哉!自垂拱之迄开元,四朝而四易号及,谅兆水于木,垂云雉草,天启地灵之如是,则开元实寺之冠,斯又冠开元焉。金圣人无为也,尧舜亦无为也,诚参错其道,巍巍圣仪,永与诸佛如来俱,岂不其然?愚是以奋笔于一公之说。乾宁四年丁巳冬十一月日记。

混沌が死して天地が生まれ、道徳が銷えて仁義が起こる。情の軍、業の網、ここに渦波の脈動が始まる。天の謂うところ、洛の亀、河の龍、その文あるを以て生あり、文なくば生なし。乃ち金の聖人を西国に産み、智慧の火を鑽り、煩悩の海を干からびたまう。理は我を我とせず、しかして一貫として生々す。その姿は周室に電光のごとく㸌き、その波は漢代に派を分かち漾う。ここよりして館は鴻臚に移り、城は白馬を崇め、これ寺あるの始まりなり。寺の殿を制するは、王者の居を象り、その法を尊ぶがためなり。その後、金地・蓮扃は四海に周旋し、烏飛び兎走りて、あるいは故に、あるいは新たなり。至りて言えば、神運の霊はこれより霊なるは莫しと雖も、また岿然としてあり続けるを得る莫し。則ち我が州の開元寺の仏殿と経楼・鐘楼とが一夕に飛燼と化せしは、これ革故鼎新の数なり。初め、僕射太原公は子房の帷幄を以て泉城に布き、叔度の袴𥜗纊を以て泉民を衣わせ、竺乾の道は尼・聃と鼎立し、宜しく信に根ざし理に友うべしと謂う。矧んや開元の宇、五十載の聖容は、実に寺の冠なり。閩を帥いるに洎り、いよいよその誠を進め、経三千巻を繕えしむるに、皆越藤の精、書工の妙を極めたり。白馬十乗を以て駕し、府僧を以て送り、郡僧を以て迎え、兹の楼に置く。既にして蜀雨飛ばず、識る者は以て、物の世に留まること尤も稀なるなり、敬いの至りは必ず神を動かす、と。これ必ず地祇の搜し、龍宮の索めたるものなり。然らずんば、曷ぞ斯の故新の数の期に与かることを得んや。その理明らかなれば、我は宜しく悄然として已まざるべし。仲弟の検校工部尚書、兹の郡を治むるの秋、武は則ち孫・呉の背を拍ち、文は則ち夏・商を前に席せしめ、復た龍虎の内にあって、埙を以て篪を以てし、大いに孟龍の旨を聳たり。乃ち俸三千緡を割き、工を鳩め木を度る。煙岩雲谷の𣏌・梓・楩・楠、時を以て刃を投じ、隙を以て功に趨り、月粟を以て食わせ、心倕を以て付し、期年ならずして宝殿湧出せり。棟は隆くして旧綺のごとく、梁は修くして新虹のごとく、八表四隅、悉く丈に半ばす。柱は鏡礎に盛られ、方圭は斗を叢ぐ。楣は蟠螭を承け、飛雲は栱に翼す。文榱刻桷、轇轕として𭩚枒なり。あるいは経緯を以て織り開き、あるいは丹雘にして纈耀す。皛として蟾窟の若く、嶪として鰲背の如し。風、夏に触れて秋生じ、僧、朝に梵して谷応ゆ。升る者は骨氷の思い、観る者は目波の様なり。而るに五間両厦は昔の制なり。東より迦葉仏・釋迦牟尼仏、左右の真容、次いで弥勒仏・弥陀仏、阿難・迦葉、菩薩・衛神、法程の常あると雖も、相貌の動かんと欲するが如し。東北隅には則ち鐘楼を揭ぐ。その鐘は新たに鋳られて、なお旧規に偉なり。西北隅には則ち経楼を揭ぐ。双た岳峰のごとく立ち、両なほ危うく蜃雲に迫り、東は全城を瞰み、西は半郭を呑む。霜韻扣かれて江山四に爽やかに、金字駢んで講誦千を来たす。是を知る、天地・日月・鬼神は、一にその物を存せんことを欲せず、将に後人に待たんとするなり、と。設し斯の殿、斯の楼、かの故あることなからしめば、その何を以てか新たならん。我が公の作し為すこと、その何を以てかこれを布かんや。三略六韜は貝多と流通し、戈霜剣雪は甘露の潔きと為る。信に英智の措く所なり。既に毕わりて、化内の緇錫を召すに、数千を迈ぎ、齋して累中にこれを落とす。慈雲五色、慧日重輪。譚ずる者は以て、梵天の宇、是に化し、霊山の会、是に儼たり、と。我が公の倅、試大理評事宋君は駢と曰い、才は博古を推され、識は真如を洞らかし、貞珉を立てて不朽に垂れんことを請う。公は小儒の不佞を以て、この文を刻ましめたり。僧正の臨壇、大徳僧の宣一、桑門の関楗たる者曰く、寺に記有り、これを亡せり、と。垂拱二年、郡儒黄守恭の宅の桑樹、白蓮花を吐き、舍てて蓮花道場と為す。後三年、升めて興教寺と為り、復た龍興寺と為る。玄宗の聖儀を流すに逮び、勝を卜するに兹に甲する無し。遂に開元寺と為る。嘗て紫雲有り寺を覆うて地に至り、今に至るまで凡草その庭に生ぜず。大いなるかな!垂拱より開元に迄るに、四朝にして号を易うること四たび及べり。諒らかに木に水を兆し、雲垂れて雉草するは、天啓地霊のかくのごときなれば、則ち開元は実に寺の冠、斯れまた開元に冠たり。金の聖人は無為なり、堯舜もまた無為なり。誠にその道参錯し、巍巍たる聖儀、永く諸仏如来と倶ならん、豈に其れ然らざらんや。愚れ是を以て一公の説に奮筆す。乾寧四年丁巳冬十一月の日に記す。

《唐黄御史公集》(『唐黄御史公集』)巻五《泉州开元寺佛殿碑记》(『泉州開元寺佛殿碑記』)、唐・黄滔撰、乾寧四年(897)

『景徳伝灯録』

师将顺世,舍众欲入山待灭。过苎溪石桥,乃遗偈曰:

師、世に順わんと将にし、衆を舍て山に入りて滅を待たんと欲す。苧溪の石橋を過ぎ、乃ち偈を遺して曰く、

“世人休说路行难,鸟道羊肠咫尺间。

「世人、路行の難きを説くこと休めよ。鳥道羊腸も咫尺の間なり。

珍重苎溪溪畔水,汝归沧海我归山。”

珍重せよ、苧溪の溪畔の水。汝は滄海に帰り、我は山に帰る。」

即往贵湖卓庵。未几谓门人曰:“吾灭后,将遗骸施诸虫蚁,勿置坟塔。”言讫,潜入湖头山,坐磐石,俨然长往。弟子戒因入山追见,禀遗命延留七日,竟无虫蚁之所侵食,遂就阇维,散于林野。今泉州开元寺净土院影堂存焉。

即ち貴湖に往き庵を卓す。未幾くして門人に謂うて曰く、「吾が滅後は、遺骸を諸の蟲蟻に施せ、墳塔を置くこと勿れ」と。言い訖えて、潛かに湖頭山に入り、磐石に坐し、儼然として長く往ぬ。弟子の戒因、山に入りて追い見れば、遺命を稟げたるまま延留すること七日、竟に蟲蟻の侵食する所なし。遂に闍維に就き、林野に散じたり。今、泉州開元寺浄土院に影堂存す。

《景德传灯录》(『景徳伝灯録』)巻二十二「漳州保福院清豁禅師」、北宋・釈道原撰

『竹溪鬳斎十一稿続集』

温陵佛国也。中郡之城,有曰开元寺者,聚僧舍百二十所而居之。兴福其一也,俗呼为粥院,谓开山某师戒行严,诵法华得力,常主千僧粥食于斯也。地居东北隅,始甚隘。元符中,圆觉师本观主之,得镇海超禅掌示之旨,道化盛行,学侣云集,无所容。请于郡,并数刹而辟之。其寺始大中,毁于绍兴,旧碑俱不存,其复也亦莫之记。

温陵は仏国なり。郡城の中に、開元寺と曰う者有り、僧舎百二十所を聚めてこれに居る。興福はその一にして、俗に粥院と呼ぶ。開山某師の戒行厳しく、法華を誦して力を得、常に千僧の粥食をここに主ったと謂う。地は東北隅に居り、初め甚だ隘し。元符中、円覚師本観これを主り、鎮海超禅の掌示の旨を得、道化盛んに行われ、学侣雲のごとく集まりて、容るる所なし。郡に請うて、数刹を併せてこれを辟く。その寺は大中に始まり、紹興に毀れ、旧碑俱に存せず、その復するやまたこれを記す莫し。

予昔为郡掾,屡尝往来其间。淳祐辛丑,岁大饥,予领赈济二局,朝则散粥开元,午则济籴承天。两寺修廊,东西各数十丈,食者列坐,籴者分给,皆容数千人不翅。时方隆暑,非此何所措?故尝谓僧庐亦非无助于政也。

予は昔、郡掾たりし時、屡々その間に往来せり。淳祐辛丑、歳大いに飢え、予は賑済の二局を領し、朝は則ち開元に粥を散じ、午は則ち承天に糴を済す。両寺の修廊、東西各々数十丈、食する者列坐し、糴う者分給され、皆数千人を容れて翅ばかりならず。時方に隆暑、これに非ずんば何れの所にか措かん。故に嘗て謂う、僧廬もまた政に助け無きに非ざるなり、と。

时住兴福者,前则善立,后则宗端。立以有为称,端以静嘿胜,皆可语,相与颇密。今偻指三十年间,寺敝久矣。戊辰冬,忽得圆悟书,以重修法堂、香积诸因缘来请记。悟,予里人也,向为双径、演溪记室,演以高弟许之。予尝叙其《枯崖集》矣,而未知其志行若此。主此席未一载,而役于土木,不惮其劳。某月鸠工,某月毕事,縻金钱若干。吁,亦难矣!遂乐为之书。

時に興福に住する者、前は則ち善立、後は則ち宗端。立は有為を以て称えられ、端は静嘿を以て勝れり。皆語るべく、相与に頗る密なり。今、指を偻めれば三十年の間、寺の敝えて久し。戊辰の冬、忽ち円悟の書を得、法堂・香積を重修する諸の因縁を以て記を請いに来る。悟は予が里人なり。向に双径・演溪の記室たりし時、演は高弟を以てこれを許せり。予嘗てその『枯崖集』に叙せり。しかるにその志行のかくのごときを未知りき。この席を主ること未だ一載ならずして、土木に役し、その労を憚らず。某月に工を鳩め、某月に事を毕え、金銭若干を縻す。吁、また難きかな!遂に楽んでこれが為に書す。

独惜寺之始事无所考,耆老相传,但曰华严董粥事。时有兵官夺其桶饲马,师取伽蓝画像,压以磨石而诃责之。一夕,行庑下有人,身长八九尺,乞还位设。师曰:“寺失桶而汝不知,汝职何事?”答曰:“即索之。”中夜,俄有叩门而还桶者曰:“二马俱毙。”监者惧而归之。一夕,又见师曰:“未足言劳,何以庙食于此?”神曰:“愿为香厨屏鼠雀。”师许之,置祠焉。至今厨无此耗。神则神矣,非师何以令之?圆觉有传,开山遗其名,其所传竟尔,因并录于此。是岁实为咸淳己巳嘉平月,林某记。

独り惜しむ、寺の始めの事、考うる所なし。耆老相伝えて、但だ「華厳、粥事を董せり」と曰う。時に兵官あり、その桶を奪いて馬に飼う。師、伽藍の画像を取り、磨石を以て圧して訶責す。一夕、廡下を行く人有り、身の長さ八九尺、位設を還さんことを乞う。師曰く、「寺、桶を失いて汝知らず、汝の職は何事ぞ」と。答えて曰く、「即ちこれを索めん」と。中夜、俄に門を叩きて桶を還す者有りて曰く、「二馬俱に毙つ」と。監者懼れてこれを帰す。一夕、また師に見えて曰く、「未だ労を言うに足らず、何を以てかここに廟食せん」と。神曰く、「願わくは香厨の為に鼠雀を屏かん」と。師これを許し、祠を置けり。今に至るまで厨にこの耗なし。神は則ち神なり、師に非ずんば何を以てかこれを令さん。円覚は伝あり、開山はその名を遺し、それ伝うる所竟に爾り。因りて併せてここに録す。この歳実に咸淳己巳の嘉平月なり。林某記す。

《竹溪鬳斋十一稿续集》(『竹溪鬳斎十一稿続集』)巻十《泉州重修兴福寺记》(『泉州重修興福寺記』)、宋・林希逸撰、咸淳五年(1269)

『記紫雲双塔遊』

净师从紫云寺住持清源西洞天,以予喜石,舍洞石见供,佐以乳泉一缶。日:吾徃来清源、紫云间,甚适也。紫云有东塔殿,吾师泒上人旧址,詹司宼题诗林禅榻处,虽数楹,然以附塔隂凉,可𫏐憇,遂约。黄公季弢、林公为磐,与予茗饮其下,而肝江邓君应瑞者,徴君濳谷先生曾孙也,远来访予,侨于寺东偏,因邀共坐,啖蔬菓,甚香絜。晩钟鸣,起,踏月绕塔礼数廵。

浄師、紫雲寺住持より清源西洞天に従い来り、予が石を喜ぶを以て、洞石を舍てて見供と為し、乳泉一缶を以て佐う。曰く、吾、清源・紫雲の間に徃来して、甚だ適なり。紫雲に東塔殿あり、吾が師泒上人の旧趾、詹司宼が詩を題せし林禅榻の處。数楹と雖も、塔に附して陰涼しく、𫏐憇すべし、と。遂に約す。黄公季弢・林公為磐、予とその下に茗飲す。肝江の鄧君応瑞は、徴君濳谷先生の曾孫なり。遠くより来たりて予を訪い、寺の東偏に僑す。因りて邀えて共に坐し、蔬菓を啖うに、甚だ香絜なり。晩鐘鳴りて起ち、月を踏みて塔を繞り、礼すること数廵。

林公日:伟哉塔也!当其愿力所至,架石揷云,鬼斧神鞭,不可思议。吾党立地作圣,肻辨如此愿力,不愁不到塔尖。黄公日:亦全在塔根。闻塔下尚有巨石两层,合上为七,无此两层,即万仭安顿何处?予日:塔尖髙,塔根实亦更在塔心。有塔心,方有塔身,八靣许多玠珑,中间只是一个。黄公日:此心合下便具七层。老僧初下手时,已具全塔在胸中,不是逐层做去,如吾夫子志学,就合下有从心地位也。予日:塔有尖心恐无尖,百尺竿头更有进处。因举无所住而生其心扣埩净日:心无住,塔有作,即心是塔,元来无住无生。复举一切有为法偈,净未荅。林公日:有为无为,总从心造。造自梁武帝,是有为法,即有漏因;造自老僧,是无为法,即真功德。众为豁然。

林公曰く、偉なるかな塔や!その願力の至る所に当たり、石を架して雲に揷し、鬼の工・神の鞭、思議すべからず。吾党、地に立ちて聖を作すに、肻えてかくのごとき願力を辨えば、塔尖に至らざるを愁うるなし、と。黄公曰く、また全く塔根に在り。聞く、塔下に尚ほ巨石二層あり、上に合して七と為す。この二層無くんば、即ち万仭を何れの處にか安頓せん、と。予曰く、塔尖の髙き、塔根の実は、また更に塔心に在り。塔心有りて方に塔身あり。八面の許多の玠瓏、中間は只是一个なり、と。黄公曰く、この心、合下より便ち七層を具う。老僧、初めて下手の時、已に全塔を胸中に具え、層を逐うて做し去るに非ず。吾が夫子の学に志すが如く、合下に就きて従心の地位あるなり、と。予曰く、塔に尖あり、心に尖無きを恐る。百尺竿頭、更に進む処あり、と。因りて「住する所無くしてその心を生ず」とあるを挙げて、浄に扣ね争うて曰く、心は住無く、塔は作あり。即ち心是れ塔、元来住無く生無し、と。復た一切有為法の偈を挙ぐ。浄、未だ荅えず。林公曰く、有為・無為、総じて心より造る。梁武帝より造れば、是れ有為の法、即ち有漏の因。老僧より造れば、是れ無為の法、即ち真の功徳、と。衆、これが為に豁然たり。

时有吴烈妇杨氏,卜日就义,林公举似日:此是真愿力。予日:渠看得金刚偈透,将死生作梦幻泡影𮗚,才能从容尔尔,此即是真佛。丈六金身,非佛也。佛皆吾儒所有,只吾儒说出成仁取义,既足主张名教,亦与佛理关通,而徒以一切梦幻泡影空之,则塔亦属有为法。虽造自梁武帝,与造自老僧,其为人天小果一也。林公为之启齿。巳,复举退之人其人三语日:退之实孟子后一人,阳明又退之后一人,皆真造浮图手。黄公戯日:李文节有言,未闻明先王之道以道之,而輙庐其居。亦不必予日坛越孙应作是语,因哄堂一𠰷。

時に呉の烈婦楊氏あり、日を卜して義に就く。林公挙げて曰く、これ是れ真の願力なり、と。予曰く、渠、金剛の偈を看ること透徹し、死生を将た夢幻泡影と𮗚なし、能く従容として爾爾たり。これ即ち是れ真仏なり。丈六金身は仏に非ず。仏は皆吾が儒の所有なり。只だ吾が儒は説き出して成仁取義と為し、既に名教を主張するに足り、また仏理と関通す。しかるに徒らに一切を夢幻泡影を以てこれを空しくせば、則ち塔もまた有為の法に属す。梁武帝より造ると雖も、老僧より造ると、それ人天の小果たること一なり、と。林公これが為に啓歯す。已みて、復た退之の「人其人」の三語を挙げて曰く、退之は実に孟子後の一人、陽明はまた退之後の一人、皆真に浮図を造る手なり、と。黄公戯れて曰く、李文節に言あり、「未だ先王の道を明らかにして以てこれを道くと聞かずして、輒ちその居を廬す」と。また必ずしも然らず。予曰く、檀越の孫応こそ是の語を作すべし、と。因りて哄堂一𠰷す。

既自东塔出大殿,庭月如昼,复绕西塔数廵而归。按志:紫云寺,唐𡸁拱中,州民黄守恭故宅,地舍为寺,即黄公始祖也。东镇国塔,咸亨中,文偁禅师以木为之,凡九级。咸通中,仓曹徐宗仁以佛舎利镇塔申。宋天禧中,改为十三级。绍兴乙亥灾。淳熈丙午,僧了性重建。寳庆丁亥复灾,僧守淳易以砖,凡七级。嘉熈戊戌,僧本洪始易以石,仅一级而止,法权继之。至第四级,天竺讲主作第五级及合尖,凡十年始成。

既に東塔より大殿を出づれば、庭の月昼の如し。復た西塔を数廵りて帰る。志に按ずるに、紫雲寺は、唐の𡸁拱中、州民黄守恭の故宅、地を舍てて寺と為す。即ち黄公の始祖なり。東の鎮国塔は、咸亨中、文偁禅師木を以てこれを為し、凡そ九級。咸通中、倉曹徐宗仁、仏舎利を以て塔申を鎮む。宋の天禧中、改めて十三級と為す。紹興乙亥に災す。淳熈丙午、僧了性重建す。寳慶丁亥復た災し、僧守淳、煉瓦を以て易え、凡そ七級。嘉熈戊戌、僧本洪、始めて石を以て易え、僅かに一級にして止まる。法権これを継ぎ、第四級に至り、天竺講主第五級及び合尖を作る。凡そ十年にして始めて成る。

其上有铁香罏铜宝葢,于塔八角,以銕𬫵上钩之,顶作沃金葫芦,幌幌若黄金色。毎层中为塔心,环转空洞,层各八龛,龛供石菩萨一尊,两壁刻二大神像翼之。外绕廊簷,䕶以石栏,圆广一百七十二尺,高一百九十三尺五十。凡大柱四十,大小梁各四十,大斗百九十二,小斗四百四十,枅四十,大拱百有十二,小拱八十,皆巨石为之。

その上に鉄香罏・銅宝葢あり、塔の八角に於て、銕𬫵を以て上にこれを鉤く。頂には沃金の葫蘆を作り、幌幌として黄金色の若し。毎層の中を塔心と為し、環転空洞、層各々八龕、龕に石菩薩一尊を供え、両壁に二大神像を刻みてこれを翼す。外に廊簷を繞らし、石栏を以て䕶す。円広一百七十二尺、高さ一百九十三尺五十。凡そ大柱四十、大小梁各々四十、大斗百九十二、小斗四百四十、枅四十、大拱百有十二、小拱八十、皆巨石を以てこれを為す。

西仁寿塔,建于梁贞明二年戊申。先是,地踊者数尺,俄有神僧浮海止于寺。适闽王审知于大都督府造木塔,塔成,沉而涌泉。夜夣一僧日:塔沉而涌泉,泉者,泉也,可移镇泉州。王怒,斩僧,白乳高涌数尺。王觉,以物色求之,泉人云:有风,和尚去矣。王乃以木植浮海至泉建塔。明年成,号无量寿塔。宋政和甲午十月十日,有青黄光起塔中,高侵云,须臾五色,质明乃灭,因赐名仁寿。绍兴乙亥灾。淳熈间,僧了性再造,复灾,僧守淳易以砖。绍定元年,僧自证始易以石,顶藏金银诸寳,规制如东塔,而围广杀五尺高。减一丈五尺五寸,𧈺丽耸㧞,则相伯仲也。葢嘉熈元年始竣工,实先东塔十年云。二塔及蔡忠惠万安桥,皆为海内冠。丁丑仲夏十九日,德璟记。

西の仁寿塔は、梁の貞明二年戊申に建つ。これに先だち、地踊ること数尺、俄に神僧あり海を浮かびて寺に止まる。適ち闽王審知、大都督府に木塔を造るに、塔成りて、沈みて泉湧く。夜、一僧を夢みて曰く、塔沈みて泉湧く。泉とは、泉なり。移して泉州を鎮むべし、と。王怒り、僧を斬れば、白乳高く涌くこと数尺。王覚め、物色を以てこれを求む。泉人云う、風あり、和尚去れり、と。王乃ち木植を以て海を浮かべ泉に至りて塔を建つ。明年成り、無量寿塔と号す。宋の政和甲午十月十日、青黄の光有り塔中より起こり、高く雲を侵し、須臾にして五色、質明に乃ち滅す。因りて名を仁寿と賜う。紹興乙亥に災す。淳熈の間、僧了性再び造り、復た災し、僧守淳煉瓦を以て易う。紹定元年、僧自証、始めて石を以て易え、頂に金銀諸寳を蔵す。規制は東塔の如くして、囲広は五尺を殺らぎ、高さは一丈五尺五寸を減ず。𧈺麗聳㧞は則ち相伯仲たり。葢し嘉熈元年に始めて竣工す。実に東塔に先んずること十年なりと云う。二塔及び蔡忠恵の万安橋は、皆海内の冠と為る。丁丑仲夏十九日、徳璟記す。

《蒋氏敬日草》(『蒋氏敬日草』)巻七《记紫云双塔游》(『記紫雲双塔遊』)、明・蒋徳璟撰

明『泉州府志』

开元寺,在肃清门外,唐之城西门外也。邑长者黄守恭昼梦有僧欲化其宅为寺,守恭曰:待桑树生莲花乃可耳。不数〔日〕,桑树尽生莲花,守恭神之,即舍为寺。初名莲花寺。唐开元二十六年,令天下佛寺皆名开元,遂改今额。元至正间灾。洪武初,重建佛殿。永乐戊子,再增广之。寺有东西二塔,东塔号镇国,唐咸通六年,文称禅师作木塔九层。宋天禧中,改十三层。绍兴中,改木为砖,高七层。嘉熙二年,本供禅师易砖为石,仅一层,止。法权继之,造四层,天锡成之,作第五层,至淳祐十年完。其上合尖有铁香炉、铜宝盖、镀金钢葫芦,塔八角以铁索钩之。每层中为塔心,𤨔转空洞,外为八窗,各有龛,龛内安后像一,龛外两壁翼以神像各二,又外绕以檐廊,护以石栏,广围圆一十七丈二尺,高凡一十九丈三尺五寸。西塔号仁寿,五代梁贞明二年建。初,闽王审知于都督府造木塔七层,塔成而沉,地涌出泉。审知梦应在泉州,遂以木植浮海至泉建塔。石塔比东塔工巧相似,第围少,然尽高少一,乃五尺五寸,海内以为壮观。万历〔癸〕酉年,守恭裔孙参政黄文炳修正殿、法堂及两廊。万历三十二年,地震,东塔顶盖石角折,邑人侍郎詹公仰庇鸠财自修之。万历三十四年,大风,西塔葫芦坏,大学士李公廷机鸠财命修之。

開元寺は、粛清門外に在り、唐の城西門外なり。邑の長者黄守恭、昼、僧ありてその宅を化して寺と為さんと欲すを夢む。守恭曰く、桑樹に蓮花生ずるを待ちて乃ち可なり、と。数日ならずして、桑樹尽く蓮花を生じ、守恭これを神とし、即ち舍てて寺と為す。初め蓮花寺と名づく。唐の開元二十六年、天下の仏寺に皆開元と名づけしむるの令あり、遂に今の額に改む。元の至正間に災す。洪武初、仏殿を重建す。永楽戊子、再び増広す。寺に東西二塔あり、東塔は鎮国と号す。唐の咸通六年、文称禅師木塔九層を作る。宋の天禧中、十三層に改む。紹興中、木を改めて煉瓦と為し、高さ七層。嘉熙二年、本供禅師煉瓦を石に易うるも、僅かに一層にして止まる。法権これを継ぎて四層を造り、天錫これを成して第五層を作り、淳祐十年に至りて完まる。その上、合尖に鉄香炉・銅宝蓋・鍍金鋼葫蘆あり。塔の八角は鉄索を以てこれを鉤く。毎層中を塔心と為し、𤨔転空洞、外に八窓を為し、各々龕あり。龕内に後像一を安じ、龕外両壁は神像各々二を以て翼とし、また外に檐廊を繞らし、石栏を以て護す。広さ囲円一十七丈二尺、高さ凡そ一十九丈三尺五寸。西塔は仁寿と号し、五代梁の貞明二年に建つ。初め、闽王審知、都督府に木塔七層を造るに、塔成りて沈み、地泉を涌出す。審知の夢、泉州に応ず。遂に木植を以て海を浮かび泉に至りて塔を建つ。石塔は東塔に比べ工巧相似たり。第に囲少なく、然れども尽高は一を少なくし、乃ち五尺五寸。海内以て壮観と為す。万暦〔癸〕酉年、守恭の裔孫参政黄文炳、正殿・法堂及び両廊を修す。万暦三十二年、地震。東塔頂の蓋石、角折る。邑人侍郎詹公仰庇、財を鳩め自らこれを修す。万暦三十四年、大風、西塔の葫蘆壊る。大学士李公廷機、財を鳩めて修めしむ。

《泉州府志》(『泉州府志』)巻二十四「寺観宮廟類・開元寺」、明・陽思謙修

『重纂福建通志』

文偁,仙逰人,住持晋江开元寺。时仙游属泉州,剌史,闻偁有道,延致之于州四门,募施者,为造浮图于寺东。偁性行高洁,手未尝出入泉布,凡工直使匠自取之,多取则迷,不知所如。凡六年,浮图成,赐名镇国塔。偁自是闭户三十年,昼夜诵金刚经不辍。室为生白净,瓶水不涸,寒燠盥濯,辄随其宜。干符三年坐化。葬时,途遇大雷雨,停棺石嘴中。雨止石合,棺不可出,至今禽鸟莫敢栖止其上。

文偁は、仙逰の人、晋江開元寺に住持す。時に仙遊は泉州に属す。刺史、偁に道ありと聞き、これを延きて州の四门に致し、施す者を募り、寺東に浮図を造らしむ。偁の性行高潔にして、手未だ嘗て泉布を出入せず。凡そ工直は匠をして自ら取らしめ、多く取れば則ち迷い、如く所を知らず。凡そ六年にして浮図成り、鎮国塔の名を賜う。偁是より戸を閉ぢること三十年、昼夜金剛経を誦して輟めず。室、生じて白淨を為し、瓶水涸れず、寒燠盥濯、輒ちその宜しきに随う。乾符三年に坐化す。葬る時、途に大雷雨に遇い、棺を石嘴中に停む。雨止みて石合し、棺出づべからず。今に至るまで禽鳥その上に栖止するを敢てする莫し。

《重纂福建通志》(『重纂福建通志』)巻二百六十三「方外・文偁」、清・陳寿祺等纂

清『泉州府志』

崇祯间,南安郑芝龙重修。国朝为祝厘福地。中为大雄殿,下为拜庭,东西两廊。庭外拜圣亭,山门,门外紫云屏。殿后戒坛,坛后禅堂,禅堂之左为黄氏檀越祠。寺有东西二塔,东塔号镇国,唐咸通六年,僧文称以木为之,高九成。宋天禧中增十三成。绍兴中,易木为砖,高七成。嘉熙二年,僧本供易砖为石,仅一成止。僧法权继造四成,僧天锡造第五成,至淳祐十年,工乃竣。顶有铁香炉、铜宝盖、镀金铜葫芦,塔八角以铁索钩之,每成。环转空洞,外为八窗,各有龛,安石像一,两壁翼以神像,外绕以檐廊,护以石栏,围一十七丈二尺,高一十九丈三尺五寸。

崇禎間、南安の鄭芝龍重修す。国朝、祝釐の福地と為る。中を大雄殿と為し、下を拜庭と為し、東西両廊あり。庭外に拜聖亭、山門、門外に紫雲屏。殿後に戒壇、壇後に禅堂、禅堂の左を黄氏檀越祠と為す。寺に東西二塔あり、東塔は鎮国と号す。唐の咸通六年、僧文称木を以てこれを為し、高さ九成。宋の天禧中、十三成を増す。紹興中、木を易えて煉瓦と為し、高さ七成。嘉熙二年、僧本供、煉瓦を易えて石と為すも、僅かに一成にして止まる。僧法権継いで四成を造り、僧天錫第五成を造り、淳祐十年に至りて工乃ち竣る。頂に鉄香炉・銅宝蓋・鍍金銅葫蘆あり。塔の八角は鉄索を以てこれを鉤く。毎成、環転空洞、外に八窓を為し、各々龕あり、石像一を安じ、両壁は神像を以て翼とし、外に檐廊を繞らし、石栏を以て護す。囲一十七丈二尺、高さ一十九丈三尺五寸。

《泉州府志》(『泉州府志』)巻十六「壇廟寺観・開元寺」、清・黄任纂

三十二年十一月初八日,泉州地震。初九夜连震十余次,山石海水皆动,地裂数处,郡城尤甚。开元镇国塔尖石坠,损扶栏,城内外庐舍倾圮,覆舟甚多。

三十二年十一月初八日、泉州地震す。初九の夜、連震すること十余次。山石・海水皆動き、地裂けること数カ所、郡城尤も甚だし。開元鎮国塔の尖石墜ち、扶栏を損う。城内外の廬舍傾圮し、覆る舟甚だ多し。

《泉州府志》(『泉州府志』)巻七十三「祥異・万暦三十二年」、清・黄任纂、《万历府志》(『万暦府志』)からの引用

三十四年八月初七日,泉州飏风,飘圮石坊十余,折开元寺西塔顶铜葫芦。是年饥。

三十四年八月初七日、泉州に颺風あり、石坊十余を飄圮させ、開元寺西塔頂の銅葫蘆を折る。この年飢ゆ。

《泉州府志》(『泉州府志』)巻七十三「祥異・万暦三十四年」、清・黄任纂、《闽书》(『閩書』)からの引用

古写真

1891年

南カリフォルニア大学デジタル図書館はこの写真を「Chinese temple, Quanzhou, Fujian Province, China, 1891」と題し、原題注は「Kai Goan Temple, Chin-chiu」である。写真はリリアス・グラハム旧蔵のアルバムに由来し、撮影者は不詳。原件はロンドン大学東洋アフリカ研究学院図書館に蔵され、国際伝教写真アーカイブに収録されている。

20世紀前期

『中国古建築図典』第二巻には泉州開元寺の大殿、院内の宋塔と経幢、および寺院の一角の古写真が収録され、第四巻には別に鎮国塔基座の古写真が収められている。泉州市自然資源・規画局の紹介によれば、同書の泉州部分の写真の多くは、中国営造学社の外国籍社員である艾克(グスタフ・エッケ)が撮影し提供したものである。