江油雲岩寺

雲岩寺は四川省江油市武都鎮の竇圌山にある。県志には唐の乾符年間に勅命で建立され、東に仏教の禅林、西に道観を置いたとある。飛天蔵は南宋の1181年に建てられ、元代に修繕され、明末の戦火を免れた。本記事では創建記録、朱樟の詩、山頂の亭や殿の修築記と古写真を紹介する。1988年に第3次全国重点文物保護単位に指定され、登録名は「雲岩寺」、登録年代は「宋~清」。

時代
唐
地域
四川省
所在地
中国四川省綿陽市江油市武都鎮・竇圌山
江油雲岩寺・飛天蔵の天宮楼閣の古写真、重層する木造楼閣と神像
江油雲岩寺・飛天蔵の天宮楼閣の古写真、重層する木造楼閣と神像

概要

唐の乾符年間(874~879)、雲岩寺は勅命により竇圌山に建立された。現在の四川省江油市武都鎮にあたり、三つの峰を背にする山腹に位置する。寺域は東西に分かれ、東院は僧侶が暮らし修行する仏教の禅林、西院は道教の道観であった。

南宋の淳熙8年(1181)、寺内に飛天蔵が建てられ、元の至正年間(1341~1368)に修繕された。飛天蔵は堂内に置かれた八角形の塔状木造物で、中央の垂直軸を中心に回転する転輪経蔵の一種である。経蔵は本来、宗教の典籍を収める施設だが、雲岩寺ではその形式を用い、蔵の本体や上部の楼閣の間に道教の木彫神像を安置した。小さな殿堂が積み重なり、回廊で結ばれ、軒下には組物、廊下には欄干が設けられている。これらを「天宮楼閣」と呼ぶ。飛天蔵を収める飛天蔵殿は寺の西側にある。

竇圌山の峰の上には東岳祠などの祠堂があり、峰と峰の間には鉄鎖が渡されていた。明の万暦年間、龍安府の役人だった朱仲廉が山頂に登り、登山客の休む亭がないことに気づいた。そこで自らの俸給を出し、午渓で木材を買い、職人に亭を造らせた。新しい亭は四方に欄干を巡らせ、断崖を見下ろし、「超然」と名づけられた。朱仲廉は三峰の石積みも整え、東西の三祠を修繕した。労役で住民の生業を妨げず、職人にも丁寧に仕上げる時間を与えるため、完成を急がせなかった。[1]

明末の戦火のなか、飛天蔵は残った。山頂の超然亭は老朽化して倒壊したが、康熙7年(1668)春、江油出身の挙人である楊廷傑が費用を出し、道士の元真に再修を任せた。龍安府の読書人・咸其美が木材を調達し、地元の張挙が職人を集め、その秋に完成した。山頂の東岳正殿も中央の梁が腐っており、亭より修理を急ぐ必要があったものの、費用が大きく、両方を同時に行う資金はなかった。募金の文書と托鉢によって資金を集め、張栄、余人牧、山の管理者の蒋通らが力を合わせた。東岳殿の工事が終わったのは康熙11年(1672)4月である。[2]

康熙年間の後期、朱樟が江油知県を務めていたころ、山頂の東岳廟は再び荒廃していた。長年山に住んだ僧の了然は病気で立ち去ろうとしていたが、朱樟は修繕を指揮してほしいと引き留めた。了然は山中で木と土を集め、職人を指図した。山頂の東岳廟が修復されると、了然は朱樟に経緯を石に刻む文章を求めた。[3] 山腹の雲岩寺西側にある飛天蔵殿にも荒廃が見られた。梁が傾き、瓦が割れ、鳥や鼠が棲みつき、蔵の木彫神像も損なわれていた。寺に住む一人の僧が修繕を誓い、手持ちの金もないまま薪や水を運び、工事の費用を算段した。当時、飛天蔵はなお押して回すことができた。[4]

雍正13年(1735)、山腹の雲岩寺で大雄殿が再建された。中央の仏龕の台座には六つの羅漢図が彫られ、中央の二図は「仏在心頭」と「指上蜃楼」である。人物や情景は故宮博物院所蔵の清の宮廷画家・冷枚の『羅漢図』画帖に非常によく似るが、細部は異なる。いくつかの木彫画面では画帖より立ち上る雲が多く、画帖の白髭の老人に当たる人物が若い男性の姿になっている。[5]

1964年、古建築研究者の羅哲文が飛天蔵を撮影し、その木造の姿を記録した。1970年代にはまだ一人で押して回すことができた。しかし汶川地震より前に、飛天蔵殿では雨漏りと架構の変形が進み、蔵が片側に傾いて回転できなくなっていた。[6]

2008年5月12日の汶川地震で、雲岩寺の建物群は大きな被害を受けた。山頂の東岳殿などが倒壊し、飛天蔵殿の壁も損壊した。江油市と雲岩寺の文物管理所長を兼ねる張敏は、弁公室主任の温剣と山に入り、建物を一つずつ調べて撮影し、省と国家の文物行政機関に報告した。管理所の職員はその日から交代で飛天蔵殿と収蔵庫を警備した。5月18日未明の余震は壁の崩落をさらに進めた。同日午前、張敏は職員を率い、飛天蔵殿と転輪経殿に保管されていた道教の木彫人物像72点を山下へ運び出した。宋・元・清代のこれらの像は、安全な場所に移して保管された。[7]

震災後の修理では地盤を固め、架構を立て直しても、飛天蔵は滑らかに回らなかった。下部の軸受を調べるため、職人たちは支柱と鋼索で本体を固定し、五台のジャッキで約5トンの蔵全体を持ち上げた。3~4センチ上げるたびに水準器で水平を確認し、25センチ上げるだけで3~4か月を要した。すると、底部の古い潤滑油が厚い油垢に固まり、滑走部を塞いでいると分かった。油垢を取り除き、新たに注油すると、飛天蔵は再び回り始めた。2018年6月、3年以上に及んだ修理の完了が発表され、修復後は三人で押して回せるようになった。[8]

歴史文献

『江油県志』

云岩寺在图山。唐乾符间敕建,分东西二院,东禅林,西道观。后遭兵乱,院宇荒废,僧了然重修。

雲岩寺は図山にある。唐の乾符年間に勅命で建てられ、東西二院に分かれ、東は禅林、西は道観であった。その後、戦乱で建物が荒れ果て、僧の了然が再建した。

《江油县志》 (江油県志)、巻13「壇廟志・雲岩寺」。清・武丕文修、欧培槐編、光緒29年(1903)刊本

飞天藏在窦图山。宋淳熙八年建,元至正中重葺。明季兵火,惟此独存。

飛天蔵は竇図山にある。宋の淳熙8年に建てられ、元の至正年間に修繕された。明末の戦火では、これだけが残った。

《江油县志》 (江油県志)、巻7「古跡志・飛天蔵」。清・武丕文修、欧培槐編、光緒29年(1903)刊本

上人手中无一钱,搬柴运水寒岩前。花龛突如插天半,巨锥一举千灯悬。忆昔开堂始南宋,飞阁断自淳熙年。嵌空枘凿呈巧制,蚁孔曲斗难针穿。五丁神力不易到,经声雷动刚风旋。逮元至正乃重葺,糢糊彩凤犹高骞。额书尚题梓州守,藓甲蚀笔蛟龙缠。厥后梁益屡劫火,灵光古殿仍巍然。穴中鸟鼠阅人久,木寇金毁神无完。虹梁半欹鸳瓦裂,谁与举废悭前缘。云岩上人矢愿力,土木穷算盈十千。不日不月规缔造,好事肯令他人专。自言经营惨淡处,对佛𫖯首忧如煎。十年身住心不住,奔轮无恙推虚船。法云低晕白毫现,慧日高铸黄珠圆。铜瓶倒垂收塔影,贝叶细帙供香筵。巴西妇孺齐合掌,此举不朽堪流传。搜寻古碣乏剩字,琉璃碑嫩生秋烟。他年只恐锡飞去,怅望野鹤空摩天。

上人は一銭も持たず、冷たい岩の前で薪や水を運ぶ。飾られた龕は天空の半ばに突き出し、大きな軸が千の灯を支える。思えば開堂は南宋、空に架かる楼閣は淳熙の年からである。空隙やほぞの巧妙さ、蟻の穴ほどの細部や曲がる組物には針も通しがたい。五丁の怪力さえ届きにくく、経声は雷鳴のように響き、強風が巡る。元の至正に修繕され、色褪せた鳳凰もなお高く飛ぶ。額には梓州の長官の書が残り、苔が龍のような筆跡を蝕む。その後、梁・益の地はたびたび戦火を受けたが、古殿は霊光殿のようにそびえた。空洞には長く鳥鼠が棲み、神像は損なわれ完形がない。虹のような梁は傾き、瓦は割れた。誰が荒廃を起こし直すのか。雲岩の上人は誓願を立て、土木費を幾万と算段する。日夜工事を計画し、この善行を他人に譲ろうとしない。苦心の経営を語り、仏前に頭を垂れ、胸を焦がす。十年身は留まっても心は休まず、輪は無事で空舟のように押せる。法雲が低く垂れ白毫が現れ、智慧の日は黄金の珠を鋳る。逆さの銅瓶に塔影が映り、貝葉の細巻が香卓に供えられる。巴西の婦人も子供も合掌し、この行いは永く伝わるだろう。古碑を探しても残る文字は少なく、瑠璃の碑には秋の煙が立つ。いつか錫杖が飛び去るのではないかと恐れ、独りの鶴が空へ向かうのを眺める。

《江油县志》 (江油県志)、巻24「芸文志・当代・飛天蔵」、清・朱樟作。武丕文修、欧培槐編、光緒29年(1903)刊本

『竇図山超然亭記』

余少读吕氏春秋,考天下九山,心窃慕之。长而逐坐车马,足迹所至,得躐九山之槪。然皆富于宫阙楼观,且在名都巨邑,为名公贤士所品题,而其迹始昭显。若夫奇伟秀绝,本于大块之生成者,不过王屋、太华、太行、孟门四山而己。始知古今胜地,多不符所载,以山之得名在人也。江油虽蜀西僻壤,治北有窦图山,山之高,著于绵、剑,双峰峭拔,巍然如阙,路盘绕而上,穷右峰之顶,有东岳祠,左峰梯迳不通,祠前横铁索以渡,香火之盛,甲于一方,而古碑无可稽。惟飞天藏钟磬,有宋元年号。铁锁桥之设,俗传子明所创,无乃以踪迹怪异,神其说以欺人耳。故登临者,至望仙台见险,至石门见奇。迨夫蹑巉岩,距虎豹,攀附而升,元览𥄳槪,握兹山之上游者,在岱宇之南,索桥之西焉。

若いころ『呂氏春秋』を読み、天下の九山を調べて心ひそかに慕った。長じて車馬で各地を巡り、その大半を訪れた。しかし宮殿楼閣が多く、名都大邑に近く、名士に称えられて知られる山ばかりだった。自然が生んだ奇偉な美しさなら、王屋・太華・太行・孟門の四山ほどである。古今の名勝は記述に合わないことが多く、山の名声は人によると悟った。江油は蜀西の辺境だが、県城の北の竇図山は綿・剣に名高い。二峰が険しく門闕のように立つ。曲がる道を右峰の頂まで登ると東岳祠がある。左峰に階段はなく、祠の前に渡した鉄鎖で越える。香火は一帯で最も盛んだが古碑は調べようがない。ただ飛天蔵の鐘や磬に宋元の年号がある。鉄鎖橋を子明が造ったという俗説は、怪異で人を欺く話ではないか。登山者は望仙台で険しさを、石門で奇観を見る。しかし岩を踏み、虎豹のような崖を越え、すがって登り、山の全景を捉える場所は、岳祠の南、鎖橋の西である。

客至靡不徜徉眺望,而无亭舍止息,以抒不穷之趣,未免阙然于中。乙酉孟冬,龙安司理朱公奉檄视邑,至旬月为窦篅之游,税驾履巅,爽瞻而叹曰:山乎山乎!山不负人,而人可负山乎?乃度地势,谋为宇,顾私心计之,而未告人也。再逾月,仍往一观,筹其费,捐俸金若干许,市木午溪,授匠作亭。亭之高,翼然独耸,四望群山,如在杯案。外夹栏栅,俯临千仞,又于三峰甃砌严整,东西三祠一时并葺。工始于腊初,落成于是岁七月。公不忍以官役夺民,且欲匠上缓图自善,故不务欲速如此。工竣之日,公具奠白神,集乡大夫、属吏䜩于亭,名其亭曰超然。问记于余。余惟山之来,无亭而亭成。于今日,无论榱甍薄汉,丹雘连云,即长泓带卷,万山屏列,娑萝倒悬,虹梁偃卧,远树笼烟,平川幂翠,景物映发,依依在目。

来客は皆眺めを楽しむが、休む亭がなく尽きぬ景趣を味わいきれない。乙酉の初冬、龍安の司法官・朱公が命を受けて県を視察した。一か月ほどで竇圌を訪れ、山頂に立って『山よ、人を裏切らない山を、人が裏切ってよいものか』と嘆じた。地勢を測り、建物を考え、胸中で費用を計ったが人には告げなかった。一か月余り後に再訪し、費用を定め、俸給から金を出し、午渓で木材を買い、職人に亭を造らせた。亭は翼を広げたようにそびえ、周囲の山は卓上に見えた。外に欄干を巡らせ、深い崖を見下ろす。三峰の石積みを整え、東西三祠も一緒に修繕した。本文は着工を十二月初め、完成を七月と記す。公は官の労役で民の生業を奪わず、職人にもゆっくり良い仕事をさせたいので急がなかった。竣工の日、神に供え、郷の士人と部下を招いて宴し、超然と名づけ、私に記を求めた。山は長く亭を持たず、今日ようやく出来た。高い棟や鮮やかな塗りだけでなく、曲がる深い水、屏風のような山々、垂れる木、虹の梁、煙る遠樹、緑の平川が互いに映えて眼前にある。

于斯时也,揽山川之清晖,慕仙人之遐举,则天籁清,尘想绝,浩浩乎直欲御风乘气,以游于无穷,而物我形骸,不在胸襟之内矣。公之为是亭也,岂特赋诗吊古,酾酒放歌己哉?

この時、山川の清らかな光を受け、仙人の遠遊を思えば、自然の音が澄み、俗念は消える。風に乗り無限へ遊び、物と我、肉体の区別さえ胸中から去る。公が亭を造ったのは、ただ詩を詠み古を弔い、酒を注いで歌うためだけだろうか。

公文章有藻誉,为治宽平,议狱惟缓。莅任以来,急公恤隐,远迩颂德。暇日绎左国杜诗,洒洒自适。然则超然之趣,盖得诸心而托诸亭也。他日好奇之士,列窦篅于九山,不以公重耶?公江右变福人,弱冠举于乡,讳仲廉,字中甫,察吾其别号云。

公は文章に名高く、政治は寛大公平、裁判は慎重である。着任後は公務に励み、民の苦しみを救い、遠近に称えられる。暇には『左伝』『国語』と杜詩を読み、自由に楽しむ。その超然の趣は心から得て亭に託したのだ。後の好事家が竇圌を九山に数えるなら、公の功ではないか。公は江右の変福と記される地の人で、若くして郷試に受かり、諱は仲廉、字は中甫、別号は察吾である。

《江油县志》 (江油県志)、巻24「芸文志・竇図山超然亭記」、明・戴仁作。清・武丕文修、欧培槐編、光緒29年(1903)刊本

『当代の超然亭および東岳殿再修記』

余尝读坡公超然亭记,而知身游物外,无往而不自得,然未见其地之超然也。县东北十五里许,有图山者,昔唐彰明主簿窦子明,羡其风云所摅,山川所带,幽岫穷崖,人兽两绝,弃官修炼于此,脱蜕崖间,故以窦冠山名。双峰并峙,左崖建窦真宝殿,右崖建东岳行宫。自宋元迄今,两岸天堑,无路可通。相传云子明系铁绳二条,以通人迹,跨鲸鲵于海市,驾虹霓而蜒蜿,传虽诞而实奇。坪下有飞天,藏元真观、化主殿、清虚观、三清观、炳灵宫。由此而登,花鸟送人,名曰境入蓬壶。再登,人从隙过,名曰人间天上。三登,人与云遇,名曰碧云洞天。四登,山如刀截而复断,名曰升仙桥。陟巅四望无际,山水齐观。春淡冶如笑,夏苍翠如滴,秋明净如妆,冬惨淡如睡,诚山之超然者也。

私は蘇東坡の『超然亭記』を読み、俗世の外に身を置けばどこでも自適できると知ったが、超然たる土地はまだ見ていなかった。県の東北十五里ほどに図山がある。昔、唐の彰明主簿・竇子明は雲や山川を愛し、人も獣もいない崖で修行しようと官を捨て、岩間で脱化したという。ゆえに竇を山名に冠した。双峰が並び、左崖に竇真宝殿、右崖に東岳行宮がある。宋元以来、両岸は天険で道がない。子明が鉄縄二条を結んだという。海市で大魚をまたぎ、虹を渡すかのようで、説は荒唐無稽でも実景は奇である。平地の下には飛天蔵、元真観、化主殿、清虚観、三清観、炳霊宮がある。登ると花鳥が迎え、『境入蓬壺』。さらに隙間を通る『人間天上』、雲と出会う『碧雲洞天』、刀で切り離したような山の『昇仙橋』へ進む。頂からは山水を限りなく見渡す。春は笑うように淡く、夏は滴る緑、秋は化粧のように明るく、冬は眠るように陰る。まことに超然たる山である。

万历时,龙安司理朱讳仲廉,登眺其间,见长烟一空,皎月千里,心旷神怡,惜无止息处,因建斯亭,想有鉴于坡公而名之欤。越世已久,倾圮更甚。余读书览九山胜槪,觉兹山不减太行、孟门,登临其地,蕊珠紫府,或不是过,心欲继朱公而修葺之。适道人元真,深合余意,因捐赀令其经营,托龙安生咸其美,采木东山之阳。里人张举,命匠鸠工,始于康熙七年春,及秋,事竣,见东岳正殿中梁朽烂,其功似急于亭,但所费尤大,力难兼举,因挟疏持钵。有龙安民张荣、藩邑生余人牧,并山主蒋通等,力为肩任。考道经云:广乘之山,天之东岳也,主岁星之首,居九五青天之内。兹山虽不足以比隆,使行宫整饬,操出生入死之柄,持福善祸淫之权,其应如响,畴敢吝惜,而功弗立见焉。

万暦のころ龍安の司法官・朱仲廉が登り、晴れた空と千里の月を眺め、心が開けたが、休む所がないのを惜しみ亭を造った。東坡を手本に名づけたのだろうか。長い時を経て甚だ荒れた。九山の記述を読み、この山は太行・孟門に劣らないと感じた私は、天上の宮殿にも比べられる眺めに、朱公の後を継いで修繕したくなった。道士の元真が賛同したので、費用を出して経営を任せ、龍安の生員・咸其美に東山の南で木を集めてもらった。里人の張挙が職人を募り、康熙7年春に始め、秋に完成した。東岳正殿の中梁が腐っており、亭より急務だったが、費用が大きく両立できなかった。募金文書と鉢を携え、龍安の民・張栄、藩邑の生員・余人牧、山主の蒋通らが共に担った。道経は広乗の山を天の東岳とし、歳星を主り青天の九五の位にあると説く。この山は及ばなくとも、行宮を整えれば神は生死を司り、善を福し悪を罰し、応答は響きのようである。誰が惜しみ、工事が早く成らないことがあろうか。

康熙十一年四月告成,似与太行、孟门无异。所不若者,宫阙楼观,不获为名公贤士所品题耳。余不敢谓一笠之盖,可几获福,然山不在高,有仙则名,福非神作,抑人之自为作也。后之继志者,当有感于斯言。

康熙11年4月に完成し、太行・孟門と違わぬ姿となった。及ばないのは、宮殿楼閣が名士に讃えられていないことだけだ。小さな覆いを供えれば福を得るとは言わない。山は高くなくても仙人がいれば名高くなり、福は神だけでなく人が自ら作る。後を継ぐ者がこの言葉に思いを寄せてほしい。

《江油县志》 (江油県志)、巻24「芸文志・当代の超然亭および東岳殿再修記」、清・楊廷傑作。武丕文修、欧培槐編、光緒29年(1903)刊本

『竇図山東岳廟碑記』

篅山之绝顶,有杰阁焉,飞甍四起,层崖高张,要必凭灵爽以为之主宰。山不必神,而神能神之。山之有岳殿,由来旧矣。其神主东方,判生死,延寿算,龙绵梓剑之民,奔走络绎,当首春时,吹笙鸣钹,婆娑而飨之,日以千百计,而不虞庙之日即于倾圯也。了然上人住锡有年,病且休矣,行将拂衣而去。余闻而固留之,谓夫檀邦之供养,云水之护持,孰如上人?及今不改修,谁与改修者?上人辞益力,然而邑宰不能留也。无己,则请诸岳神,则其所以留上人者,必最亲且切。乃上人病果起,年愈高而貌加丰,疑默相然。上人虽欲不改修焉,而不可得已。采木于山,范土于穴,布置岳体,指挥匠石。工将告竣矣,朱门洞戺,绛节高居,帝敕云开,鬼呼星循,而后登绝𪩘者,若美发之刺于簪而见其髻也。

圌山の絶頂に立派な殿閣があり、四方の軒が高い崖の上に張り出す。霊威あるものが主宰するのだろう。山自体が神でなくても、神が山を霊妙にする。岳殿の由来は古い。その神は東方を治め、生死を判じ、寿命を延ばす。龍・綿・梓・剣の民は絶えず参り、春初めには笙と鉦を鳴らして舞い、日々百千に及ぶが、廟が傾くことには気づかない。了然上人は長く住み、病んで休もうと立ち去るつもりだった。私は聞いて引き留めた。信者の供養や旅僧の護持を担える者が他にいるか、今直さなければ誰が直すのか、と。上人は強く辞退し、知県も留められなかった。やむなく岳神に願えば、神が引き留める理由はさらに身近で切実だろう。上人の病は果たして癒え、年を取りながらも豊かな顔つきとなり、見えぬ助けのようだった。もはや修理を免れず、山で木を採り、穴の土を形にし、職人を指図した。工事は完成間近となり、朱門と神の旗が高く現れ、勅命に雲が開き神霊が走るかのようであった。殿は高峰を、整えた髪に簪がのぞくように飾った。

夫人有不畏人,未有不畏鬼神者。其居家倨傲鲜腆,一人庙而徬徨赡顾,心震目骇,举生平不可告人之事,皆骈而闯伺之,措身其间,愧恧无地,心望若神之恻然哀怜,脱不测之区而丐须臾之命者屡矣。则非山之云,而神从而灵之,亦非神之必欲灵其山,而乞恩于山者之若或灵之也。

人を畏れぬ者も、鬼神を畏れぬ者はいない。家では傲慢で恥じない者も、廟に入れば落ち着かず見回し、心と目を震わせる。人に言えぬ行いが一斉に現れ、恥じて身の置き所もない。神の憐れみで不測の危険を逃れ、わずかな命を乞おうとする。山の雲が神を霊妙にするのではなく、山に恵みを求める人がそうさせる。また神が山を霊妙にしたいのでなく、祈願する者が霊妙に見せるのだろう。

上人有徒八岁,能援索飞渡,百丈绳桥,捷如猱戏,拔崣崒之峰,登欢喜之岸,则福善祸淫之说,遍告檀越,应无不合掌称赞者,其必以是为普救之津梁也。工既成,上人乞余序以勒诸石,余因叙修庙之始末以记之。

上人には八歳の弟子がいて、百丈の縄橋を伝い、猿の遊ぶように素早く険峰を越え、歓喜の岸に至る。善を福し悪を罰する説が施主に広まれば、皆合掌して讃えるだろう。これを万人救済の渡しとするのだろうか。工事が成ると、上人は石に刻む序を私に求めたので、修廟の経緯を記した。

《江油县志》 (江油県志)、巻24「芸文志・竇図山東岳廟碑記」、清・江油知県朱樟作。武丕文修、欧培槐編、光緒29年(1903)刊本

古写真

1980年代

趙敏が『1980年代の四川江油・竇圌山』で公開した写真。綿陽師範専科学校の関係者が景勝地の記録映画を撮影するため訪れた際のもので、山頂の祠廟の遠景、崖沿いの建物の細部、松の枝越しに見える峰と祠廟の三景を収める。

1986年(掲載)

飛天蔵の天宮楼閣の古写真。重なる小楼、欄干、楼閣間の木彫像が見える。Project CloudCastleが転載し、原出典を辜其一『江油県圌山雲岩寺の飛天蔵および蔵殿に関する調査略記』、『四川文物』1986年第4号としている。

参考文献