HERITAGE RECORD

万部華厳経塔

万部華厳経塔は俗に白塔と呼ばれ、内モンゴル・フフホトの豊州故城の西北隅に立つ遼代の八角七層の楼閣式煉瓦塔である。元代の詩には寺塔・城楼・車馬がなお見えるが、清代に銭良択がここを訪れたときには、基址の頽れた空城と「高く天半に矗つ」塔があるだけであった。城郭と寺院が消えた後も白塔はなお田野に独立し、塔内の金・元・明の題記が豊州を往き来した人々の姓名と行程を伝えている。

時代
遼朝
地域
内モンゴル
LOCATION
内モンゴル自治区フフホト市
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万部華厳経塔 - wanbuhuayanjingta old 01
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はじめに

万部華厳経塔は遼代の豊州城の西北隅に建てられ、もとは仏寺の蔵経塔であった。塔は煉瓦をもって八角七層に砌られ、石砌りの基壇の上には大きな蓮弁が承けられ、初層の外壁には菩薩・天王が塑り出され、転角の倚柱には蟠龍が盤遶する。南面の石額には篆書で「万部華厳経塔」と題される。層ごとの塔身は壁内の階梯で相通じ、登臨する者はそのまま第七層までたどり着くことができる。

金の大定二年(1162)、この遼塔は勅を奉じて重修された。工事は官府が主催し、城内外の民衆がともに出資した。施主の姓名は、東南・東北・西南・西北の四坊や牛市巷・染巷・酪巷などの地名とともに、塔内の石碑に刻まれた。

元の初め、長くクビライを輔佐した政治家・詩人の劉秉忠が豊州を過ぎ、寺塔と城楼とが望まれる、道路上に車馬が骈阗(ひしめ)き合う景象を書き留めた。その後塔に登った人々は、姓名・籍貫・官職・行程や詩句を内壁に残した。鎮戎軍から来た樊典、西夏国仁王院の僧恵善、豊州の役人である王英、そして明代に戦乱のなか塞外に連れてこられた山西の士人段清がいた。

数百年後、銭良択が豊州に来たとき、城の基はすでに頽れ、白塔はなお「高く天半に矗」っていた。彼は塔内に入り、初層の壁に嵌め込まれた石碑を火を借りて照らし読み、また階に沿って登り、金・元以来の題名を一つ一つ書き写した。銭良択が記録した豊州には、劉秉忠の見た寺院・城楼・車馬はすでになく、塔内の文字が往日の豊州の人名と行程を保存していた。

1938年から1939年にかけて、写真の中の白塔はすでに独り田野に立ち、塔頂は欠損し、足もとには低い残垣があるだけであった。豊州城は完全な城楼を残さず、仏寺も殿宇を残さなかった。ここに立ち続けているのはこの塔だけである。塔内の一層一層の題記と壁に嵌め込まれた石碑が、とうに消えた城と寺になお跡をたどる手がかりを与えている。

歴史文献

『蔵春詩集』

平生清兴在林泉,世路谁教也著鞭。马上青山长万里,镜中华发已三年。又经黑水还沙漠,才自鸟蛮出瘴烟。盖世功名正低首,西风秋树一声蝉。

平生の清興は林泉に在り。世路、たれか教えて鞭を著(う)たしめた。馬上、青山長くして万里。鏡中、華髪すでに三年。また黒水を経て沙漠に還り、わずかに鳥蛮より瘴煙を出づ。蓋世の功名、まさに低首せんとす。西風、秋樹、一聲の蝉。

边山弥弥水西流,夹路离离禾黍稠。出塞入塞动千里,去年今年经两秋。晴空高显寺中塔,晓日半明城上楼。车马骈阗尘不断,吟鞭斜袅过丰州。

辺山は弥弥として水は西に流る。路を夾めば離離として禾黍は稠(しげ)し。塞を出で塞に入ること動(や)もすれば千里。去年今年、両秋を経る。晴空に高く顕わるるは寺中の塔。暁日半ば明らかなるは城上の楼。車馬は骈阗として塵断えず。吟鞭を斜めに袅(たなび)かせて豊州を過ぐ。

『蔵春詩集』巻三「過豊州二首」、元 劉秉忠撰

『沢古斎重鈔』

十七日戊子,凉爽如深秋。平明起行,马首向北一望,地皆平坡,沃饶,颇多种麦者,不知其何时收𮒗也。行五十余里,复见空城,基址颓坏,甚于昨所经者。其大相彷。浮屠一座,高矗天半,六角七级,纯砗砌成,不用木石,外向写作菩萨天王,面面拱立,承以莲花,花办外撑数尺,因以为檐。刻划玲珑,生动如真,全未剥落,但丹圣漫漶尔。南篆书,颜额曰万部华严经塔。每级高三丈许,阶梯而登。首级有石碑八座,陷入壁间,暗不可读,吹火照之,字体颇丁,开列男妇数千百人姓名,别无只字。志铭中有忠勇校尉某、汉儿都目某、女直都目某、通事某种种名色,姓名类多中华氏族,其女直姓名者十之一尔。傍及妇人,或称妻某,或称娘子某氏,或称某娘娘,俚俗可笑,颇似村氓所为。其一碑署曰万部华严经塔。看经人数𫄙首比邱福州惠仁发宏誓言:如有情数经,为看毗卢海印定光寒,愿眼恒无缺陷诸苦恼。大地众生,俱如普贤行满。此外绝无纪载可考。彼地相传,旧有石碑,备书修建始末,以金银镂错其额,为窃盗者取去。盖传闻失据久矣。上六级稍明,启二牖以纳曰光,其间或东西向,或南北向,层层相间。绝顶第七级,中空如庭,中间无物。

十七日戊子、涼やかなること深秋のごとし。平明に起きて行く。馬首を北に向けて一望すれば、地はみな平坡にして沃饒なり。麦を種(ま)く者頗る多く、そのいつ收𮒗するかを知らず。五十余里を行き、また空城を見る。基址の頽壊、昨日経たる所より甚だし。その大いに相彷たり。浮屠一座、高く天半に矗ち、六角七級、純粋に砗をもって砌り成り、木石を用いず。外向に菩薩・天王を写し作り、面面に拱立し、蓮花をもって承け、花办は外へ数尺を撑(は)り、因りて以て檐と為す。刻划玲瓏、生動して真のごとく、全く剥落せず。ただ丹聖の漫漶するのみ。南に篆書し、顔額に曰く万部華厳経塔。級ごとに高さ三丈ばかり、階梯して登る。首級に石碑八座あり、壁間に陷入し、暗くして読むべからず。火を吹きてこれを照らす。字体頗る丁(あきら)かにして、男婦数千百人の姓名を開列す。別に只字もなし。志銘の中に忠勇校尉某・漢児都目某・女直都目某・通事某の種種の名色あり。姓名は類多く中華の氏族にして、その女直の姓名たる者は十の一のみ。傍ら婦人に及び、あるいは妻某と称し、あるいは娘子某氏と称し、あるいは某娘娘と称す。俚俗にして笑うべく、頗る村氓の為す所に似たり。その一碑に署して曰く万部華厳経塔。看経人数𫄙首の比丘・福州の恵仁、宏誓を発して言わく、もし有情の為に経を数え、毗盧の海印定光の寒きを看んには、願わくは眼恒に缺陷なく諸の苦悩なからん。大地の衆生、俱に普賢の行満のごとくならん、と。此の外、絶えて紀載の考うべきなし。彼の地に相伝う、旧に石碑あり、修建の始末を備え書し、金銀をもってその額を鏤錯(ちりば)めしが、窃盗する者の為に取り去られたりと。けだし伝聞の拠を失すること久し。上の六級稍(やや)明るく、二牖を啓きて以て曰光を納る。その間あるいは東西向、あるいは南北向、層層相間(あいま)わる。絶頂の第七級、中空して庭のごとく、中間物なし。

东首壁端大书曰:大金大定二年,奉敕重修。不言其自何代始。以此推之,疑其创于元魏高宗以后。壁间题署

東の壁端に大書して曰く、大金大定二年、勅を奉じて重修す、と。そのいつの代より始まるかを言わず。これを以て推すに、疑うらくは元魏の高宗以後に創められたるか。壁間の題署は

甚多,大抵皆金元人遗笔,多有墨迹如新,而语皆粗鄙。重传其真,不敢妄易一字,备录于后。塔内都无佛像,亦无鸟雀,窠巢间有鸳鸯飞集干下。地多蝎子草,似麻而短,手误触之,痛楚不可耐,无异被螫于真蝎也。饭于塔下,野田中,有蒙古人献茶及熟黍米各一盂,跪拜甚恭,酬以肉炙,彼即跪食其李,尽,怀其余脔于衣絮中,叩首作礼,颂谢而去,不辨其为何等语也。整辔而行,又阅二十余里,屯于归化城之东南,可十五里水旁。途次土室颇多,是晚大风陡作,不久旋止。

甚だ多く、大抵皆金・元人の遺筆にして、墨跡新たなるがごとき多し。しかるに語は皆粗鄙なり。その真を重ねて伝え、敢えて妄りに一字も易えず、備えて後に録す。塔内には佛像も無く、鳥雀も無し。窠巢の間に鴛鴦ありて干下に飛び集まる。地に蝎子草多く、麻に似て短し。手誤ってこれに触れれば、痛楚耐え難く、真の蝎に螫さるるに異ならず。塔下の野田に飯す。蒙古人ありて茶および熟黍米各一盂を献じ、跪拜すること甚だ恭なり。肉炙を以て酬ゆれば、彼すなわち跪きてその李を食らい、尽くし、その余臠を衣絮の中に懐(ふところ)にし、叩首して礼を作し、頌謝して去る。その何等の語なるかを辨ぜず。轡を整えて行き、また二十余里を閲し、帰化城の東南、十五里ばかりの水のほとりに屯す。途次、土室頗る多し。この晩、大風陡(にわ)かに作り、久しからずして旋(すぐ)に止む。

『沢古斎重鈔』巻一百九十二所収『出塞紀略』、清 銭良択撰、陳璜輯

附录:华严塔题名:

附録:華厳塔題名:

总管府判石仲玉,至元二十年八月初一日来游于此。今人同古人,残月如新月。至正十年正月二十二日,刘拱同重川二妇人同姐闸姐题。天堂路大德二年五月初九日书。钦差戴聪明,四川江安县人,元统二年四月初八日来登。

総管府判の石仲玉、至元二十年八月初一日、ここに来り游ぶ。今人は古人に同じく、残月は新月のごとし。至正十年正月二十二日、劉拱・重川二婦人・同姐・閘姐ともに題す。天堂路、大徳二年五月初九日書す。欽差戴聡明、四川江安県の人、元統二年四月初八日来たり登る。

寻真误入蓬莱岛,香风不动桃花老。探芝何处不归来,白云满地无人扫。至治三年二月十一日书。

真を尋ねて誤って蓬莱島に入る。香風動かず桃花老ゆ。芝を探りていずこか帰り来らざる。白雲地に満ちて掃く人なし。至治三年二月十一日書す。

至元六年五月初三日,文山相国幕下相士三人到此。

至元六年五月初三日、文山相国幕下の相士三人ここに至る。

大定十八年三月十二日,关西镇戎军樊典到此题。丰州在城塔。至元十一年五月,丰州管水鸦提点王英、张伯川题。

大定十八年三月十二日、関西鎮戎軍の樊典ここに至りて題す。豊州在城塔。至元十一年五月、豊州管水鴉提点の王英・張伯川題す。

大朝至元八年,西夏国仁王院僧惠善同进宣、冲平

大朝至元八年、西夏国仁王院の僧恵善、進宣・冲平とともに

五禅师到此记。

五禅師ここに至りて記す。

朱朝大明国,山西太原府代州崞县儒学增广生员段清,字希濂。嘉靖三十九年九月十五曰,鞑兵大举,攻开堡塞,将一家近枝六十口杀尽,止存清一家大小五口,俯念斯文一脉,留其性命。恩人达尔汉带回北朝。路逢房叔二人段应明、段茂先,又遇妹夫石枚。清妻陈氏,男甲午儿,官名段守鲁。长女双喜儿,次女赛喜儿。陈氏于嘉靖四十年四月初一日病故。闰五月二十七日,妹夫石枚带甲午儿投过南朝去了。六月初八日留名:

朱朝大明国、山西太原府代州崞県儒学の増広生員・段清、字は希濂。嘉靖三十九年九月十五日、韃兵大いに挙り、堡塞を攻め開き、一家近枝六十口を殺し尽くす。ただ清の一家大小五口を存し、斯文一脈を俯(ふ)し念してその性命を留む。恩人達爾漢、帯(ひっさ)げて北朝に帰る。路に房叔二人の段応明・段茂先に逢い、また妹夫の石枚に遇う。清の妻は陳氏、男は甲午児、官名は段守魯。長女双喜児、次女賽喜児。陳氏、嘉靖四十年四月初一日に病故す。閏五月二十七日、妹夫石枚、甲午児を帯て南朝に投じ過ぎ去る。六月初八日、名を留む。

去年曾醉海棠丛,闻说新枝发旧红。昨夜梦迟花下饮,不知身在玉堂中。瑞伯书。

去年かつて海棠の叢に酔う。聞き説く、新枝旧紅を発すと。昨夜、夢遅く花下に飲む。知らず、身の玉堂の中に在るを。瑞伯書す。

『沢古斎重鈔』巻一百九十二所収『出塞紀略』「附録:華厳塔題名」、清 銭良択撰、陳璜輯

『居易録』

又言:丰州南有空城,城中浮图一,六角七级,高矗天半,南向,篆书颜额曰万部华严经塔。第七级壁上大书金大定二年奉敕重修。多金、元人题字,墨迹如新,而辞率俚鄙。惟一诗近雅,云:「去年曾醉海棠丛,闻说新枝发旧红。昨夜梦回花下饮,不知身在玉堂中。瑞伯书。」按:此诗宋元绛厚之之作也。其题名有丰州水鸦提点王英、张百川,至元十一年五月署字。

また言う、豊州の南に空城あり。城中に浮図一つ、六角七級、高く天半に矗ち、南向。篆書の顔額に曰く万部華厳経塔。第七級の壁上に大書す、金大定二年勅を奉じて重修、と。金・元人の題字多く、墨跡新たなるがごとし。しかし辞は率(おおむ)ね俚鄙なり。ただ一詩のみ雅に近し。云く、「去年かつて海棠の叢に酔う。聞き説く、新枝旧紅を発すと。昨夜夢回(かへ)りて花下に飲む。知らず、身の玉堂の中に在るを。瑞伯書す」と。按ずるに、この詩は宋の元絳厚之の作なり。その題名に豊州水鴉提点の王英・張百川あり、至元十一年五月の署字。

『居易録』巻四「康熙戊午春」、清 王士禛撰

『古豊識略』

一名白塔。归化城东五十余里有白塔城,周围约十里许,疑亦古受降城之一也。土人尝夜见城垣门楼如新。古城每有此异。塔在城西北隅,七级,八面石台砖砌,刻画极工。高约十五丈,周围约八九丈,石额篆书万部华严经塔。塔下有石香亭,柱刻金天辅年号。

一名を白塔という。帰化城の東五十余里に白塔城あり。周囲約十里ばかり。疑うらくはまた古の受降城の一つか。土人かつて夜、城垣門楼の新たなるがごときを見る。古城には毎にこの異あり。塔は城の西北隅にあり。七級、八面、石台に煉瓦を砌る。刻画極めて工(こう)なり。高さ約十五丈、周囲約八九丈。石額に篆書す、万部華厳経塔。塔下に石の香亭あり。柱に金の天輔年号を刻む。

按塔北塔西别有二古城基,周围俱十里许,亦不知其何名。

按ずるに、塔の北・塔の西に別に二つの古城基あり。周囲俱に十里ばかり。またその何の名なるかを知らず。

『古豊識略』巻八「古蹟・華厳経塔」、清 張曾著

在白塔城南门外,字模糊不全,上刻故开府仪同三司、上柱国、代国公完颜国赧、代国夫人耶律氏,云中张建中篆,乡进士王绋书。金天辅年立。

白塔城の南門外にあり。字は模糊として全からず。上に刻む、故開府儀同三司・上柱国・代国公完颜国赧・代国夫人耶律氏。雲中の張建中篆し、郷進士の王紼書す。金の天輔年に立つ。

『古豊識略』巻八「古蹟・大明寺碑」、清 張曾著

『山右金石記』

今在归化城东五十里白塔村。

今帰化城の東五十里の白塔村にあり。

朔平府志:碑字模糊不全,上刻故开府仪同三司、上柱国、代国公完颜赧、代国夫人耶律氏,云中张建中篆,乡贡进士王绋书,天辅年立。

『朔平府志』に曰く、碑字模糊として全からず。上に刻む、故開府儀同三司・上柱国・代国公完颜赧・代国夫人耶律氏。雲中の張建中篆し、郷貢進士の王紼書す。天輔年に立つ、と。

谨案:完颜赧,金史无其人,当是宗室表之骨赧。志脱骨字,又误𧹞为赧。本傅骨𧹞领军镇夏边者凡十二年。天眷初,为天德军节度致仕,累迁开府仪同三司,卒年八十五。白塔为辽金丰州、天德军故治,盖久官于此者。史不言封代国,碑不著节度使,互有详略也。碑著故字,则立于卒后,当天德年云天辅,误。金自太宗天眷三年始定官制爵号,且天辅之末,辽主尚在夹山,此地尚未为金有也。

謹んで案ずるに、完颜赧は『金史』にその人なし。当に宗室表の骨𧹞なるべし。志は骨の字を脱し、また𧹞を赧と誤る。本伝に骨𧹞、軍を領して夏辺を鎮むること凡そ十二年。天眷初、天徳軍節度をもって致仕し、累遷して開府儀同三司。卒すとき年八十五。白塔は遼・金の豊州、天徳軍の故治。けだし久しくここに官したる者か。史は代国に封ずと言わず、碑は節度使を著さず。互いに詳略あり。碑に故の字を著すれば、すなわち卒後に立つ。当に天徳年なるべきに天輔と云うは誤り。金は太宗天眷三年に始めて官制爵号を定む。しかも天輔の末、遼主なお夾山にあり。この地まだ金の有と為らず。

『山右金石記』巻七「大明寺碑」、清 王軒著、張煦輯

古写真

1938年から1939年

アジア写真大観社『アジア大観』第十五輯に、島崎役治が撮影した「厚和白塔」の全景が掲載された。

1939年

画像出典:村田治郎〈厚和の塔と寺〉、『東洋史研究』第4巻第4—5号、1939年。

参考文献