HERITAGE RECORD

永楽宮

山西芮城の永楽宮は、もともと永楽鎮で呂洞賓を祀る小さな祠だった。旧祠が火災で失われた後、モンゴル朝廷はこれを純陽万寿宮に昇格させて額を賜ることを決め、全真道は潘德冲を推挙して造営を取り仕切らせた。明末には殿内の壁になお三百六十位の天神が描かれ、四百余基の牌位が並べられ、清代の重修では元代の殿宇の中に清式の梁架が残された。二十世紀の移築事業では木構が一部材ずつ解体され、壁画も剥がし取られて保護された。

時代
元朝
地域
山西
LOCATION
山西省運城市芮城県
READING
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永楽宮 - yonglegong old 01
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概要

永楽宮がまだ大きな宮観となる前、それは河東の永楽鎮で呂洞賓を祀る一つの祠堂にすぎず、当時の人々は「永楽祠堂」と呼んでいた。丘処機の門下にあった全真道士の宋德方(号は披雲子)が、早くからこの地に来て道衆を集めて住まわせた。彼が到着した時、祠堂はすでに「荒蕪狭隘」の有様であり、この経営が後の増築の基礎を築いた。

丘処機はかつて、もう一人の弟子である潘德冲に「汝の縁は他年、西南に当たるべし。此の時、永楽は吾が道なり」と語った。これは、潘德冲の将来の機縁が西南にあり、永楽一帯の教務は彼が担うことになるという意味である。この時までに全真道はすでにモンゴル朝廷の承認と保護を得ており、永楽祠の興廃もまた朝廷の視野に入ることとなった。

まもなく、旧祠は火災で焼失した。朝廷はこれを原形のまま重修させるのではなく、純陽万寿宮に改築して額を賜ることを決定した。全真道のほうでは潘德冲を推挙して造営を取り仕切らせ、この任命は丘処機のかつての託えが応えたものとも見なされた。潘德冲は門徒を率いて基址を測量し、工匠を集め、煉瓦を焼き木材を伐り出して、「百堵皆作」となった。数年とたたないうちに、殿堂・廊廡・斎厨・廐庫と道士の居所はそれぞれ位置を定め、周辺には下院・田園・水磨まで備えられた。

元代の工事が終わった後も、永楽宮は使われ続け、たびたび修繕を受けた。明末に牌位を重修した際には、殿内の壁上にはなお三百六十位の天神が描かれ、四百余基の牌位が並べられ、毎年祭祀が行われていた。清代には殿宇が相次いで修葺され、そのうち三清殿と純陽殿の上部の梁架の一部は清式の部材に置き換えられた。二十世紀の移築事業の際には、これら明・清の修繕を経た元代の殿宇は一部材ずつ解体・組立され、壁画も剥がし取られた後、現在の位置へ移された。

歴史文献

『冲和真人潘公神道之碑』

翰林侍讲学士少中大夫知制诰兼修国史徙单公履撰

翰林侍講学士・少中大夫・知制誥兼修国史 徙単公履 撰

自黄帝问道于广成,而神仙之说始兴。老氏跨殷历周,以道德五千言推极要妙,其教被于万世。降秦及汉,代有显人,安期、赤松、张道陵之流,或出而不晦,或见而不常,福奇之征,昭揭于世人之耳目者,非一事也。涉魏晋隋唐以来,蜕迹阛嚣,凝神碧落者,其名不可殚纪。至于胁阴阳之秘幻,集灵异之大成,微而草野鄙人、幽而深闺稚女,一聆其名,知其为列仙者,唐吕纯阳一人而已。盛矣哉。其传之也,全真之教盖发源于此,其流逮于金初,祖师王公倡之于前,七真继起于后,而道大行矣。惟丘公超东海之滨,玄教真风,弥漫洋溢,其高弟一十八人,世称为十八大士者,师其一也。师姓潘氏,讳德冲,字仲和,冲和其号也。淄之斋东人,家世业农,大父秉政,适大安兵兴,起家为军都统,戍莱州。父楫,字济之,以儒为业,辟充益都府学教授。世父泽民,莱州节度判官。自高祖以上及于师,九世同居,家素饶财,尝遇岁凶,发粟赈饥,民赖以全活者甚众。乡闾有贫者即假贷之,不责其偿,其乐施如此。一日,有术士过其家,语之曰:是家有阴德,必获阳报,当生异子。初,师之母王氏,尝梦有祥云入室,覆其身,良久乃去。自尔有娠,妊十九月师乃生,七岁不能言,其父忧之,忽有一道者来乞食,父延之入门,问所从来,云自东海,将适长安,师即从傍与之语,应答如流。父骇愕。道者曰:是子神韵冲粹,非凡儿也。异日当为人天师,宜善鞠之。自此遂能言,后稍长,警悟敏慧,常人莫及,读书日记千余言,后闻父母欲为娶妻,遂宵遁,即往栖霞滨都观。道过潍阳,时清和真人住持玉清宫,问所适,知其将诣长春,乃引见焉,自是服膺。问道,得传心之要。长春委师以焚修之事,至其暇日,则默坐静室中,凝神涤虑,物我两忘,一归于要妙幽玄之境。如是者十余年。太祖圣武皇帝亲征西域,闻长春之名,遣仲录刘君赍诏诣海上起之。乃从长春西觐,风沙万里,不以为劳也。还燕之三年,长春仙去。真人尹公嗣法,命充燕京都道录,兼领宫事。真常复总玄机,注倚尤深。燕去和林数千里,朝觐往返,凡十有三,供拟之费,皆倚办于师,一无所阙。所以玄教真风恢张诞布,薄海内外无所不至者,师与有力焉。师之内诚外方,各有所任,道并行而不相悖者,又可见于此。岁乙未,平遥官长梁公,偕同僚恳疏请清和真人重修兴国观,真人命师往。甫逾年,撤其旧而新之。壬寅,署师诸路道教都提举,仍兼本路道录。甲辰,河东永乐祠堂灾,祠盖吕纯阳之仙迹也。朝议以为纯阳之显道如此,祠而祀之,事涉简陋,可改为纯阳万寿宫,命李真常遴选道望隆盛、人所具瞻者崇建焉。先是,长春自西域回,抵盖里泊,夜与诸门弟子谈,语次谓师曰:汝缘他年当在西南,此时永乐吾道矣。至是,真常泊清和二宗师,集众言曰:纯阳,吾教之祖也。今朝廷崇饬如此,孰可任其事者?众以师德望干才,绰有余裕,即欲堪其役,无逾于师。况长春盖里泊之言,已尝命之矣。乃署师为河东南北两路道教都提点,命往营之。师率其徒至永乐,百工劝缘,源源而来,如子之趋父事。陶甓伐木,云集川流。于是略基址,度远迩,程功能,平枝干,合事庀徒,百堵皆作,不数稔新宫告成。堂殿、廊庑、斋厨、厩库,下至于寮舍、湢浴之属,各有位置,莫不焕然一新。北逾一舍,有山曰九峰,土人云此纯阳得道处也。遣其徒刘若水起纯阳上宫,及于宫侧创下院十余区,市良田竹苇及蔬圃果园、舟车碾硙,岁充常住百色之费。至于四方宾侣过谒宫下者,周爰四顾,见其严饬壮盛,俨敬之心油然而生。夫撤祠宇而为宫庭,其崇卑相去奚啻万万,然于纯阳之本真何加损益?但致饬之道,斯其行者远矣,而人之观感异焉,此象教所以不可废于后世。耸天下耳目于见闻之际,而绝其亵易之心,严乎外者所以佐乎内,象之所以崇者,道之所以尊也。由是言之,师之恢大盛缘,作新崇构,岂徒以夸其壮丽也哉?己酉秋,中宫懿旨,凡海岳灵山及玄教师堂,遗近侍护师悉降香以礼之。乃增葺潍阳玉清宫,至昆嵛山麻姑洞,取历代诰册刊之石,以彰灵迹。壬子夏四月,真常因奉朝命祀岳渎,过永乐,见其规模宏敞,喜谓师曰,非师不能毕此胜缘,乃倾帑以助其经费。明旦,与师同跻九峰之巅,见其秀拔如椅,遂易其名曰玉椅峰。甲寅春,圣天子在藩邸,命设普天醮于长春宫,于是召四方羽侣道行清高者毕集,师首与其选。致彩云鸾鹤之瑞,真常曰;此瑞公适当之,遂以清和真人所遗金冠锦服为赠。事毕还永乐。丙辰夏四月适上宫,至五月朔旦,忽谓左右曰:吾幼遇长春师,授以秘传,终身诵之,粗有所得。继而清和、真常以纯阳师祖世缘见付,吾比年经营,略有次第。今世缘道念亦庶几兼修而并举,无复事矣,吾其行乎?众不知所谓。二十六日,将返下宫,时方盛夏,畏日载途。从者咸以为病,师曰:汝众弟行,无伤也。忽阴雾四合,抵下宫四十余里,人不知暑,此尤可讶。初,纯阳殿前有古柿二本,根干盘错,枝叶茂盛,一夕无风自折,众方惊悟曰:此柿无风而折,可谓大异。吾师前日之言,其兆于此矣。是夜二更将尽,师忽扶杖而出,面四方,诵咒语。随即以灰掺之,露坐移时,若有所待,寻复入,以汤颒其面,即易衣索笔,书颂一篇,既毕,乃就枕翛然而逝,春秋六十有六。门人奔讣于掌教诚明真人,遣提点孟公,赙赗甚厚。庚申岁三月初五日,葬于宫之乾位,仍建别祠,令嗣事者以奉岁时香火,报本反始之道也。既而诚明疏师之德,上于朝,赐冲和微妙真人之号。师性资仁裕,戒履修洁,虽居道流,然乐善好施。中条东西居民每岁初或有贷粟于宫者,数逾千石。适时凶荒,道侣不赡,众议欲征之,师曰:岁荒人饥,夺彼与此,是岂仁人之用心哉?负者闻而德之,后每于纯阳诞日相率设会,献香资以致报,岁以为常。癸丑春旱,总管徐德禄拉诸耆老祷于师,师为诵灵宝经,不旬日致甘澍盈尺。师尝居九峰纯阳上宫,又号九峰老人,门人三宫提点渊静大师刘若水,乃于师诵经处筑台,志之曰:九峰老人诵经台。因状其行,付提点纯阳万寿宫事文志通,自永乐走燕,凡二千里,拉知宫刘志复诣予而言曰:师之道行如此,然神隧之石未有所纪,敢请。予以不敏辞,凡四五往返,请益坚,予以志通尊其师也笃,而托于予也专,是可嘉已,乃为述其始终而次第之,因系之以说焉。夫道之为教尚矣,小而始于炼度之微,大而极于性命之奥,无非事者。至于营葺宫宇,惠鲜贫乏,此但触物应缘随感而动,劳而不有,施而不报,特神化之糟粕耳,非师之至也。与接为构,纷纷扰扰,殆多事矣。然游神于淡,合气于漠,超然独观以自出于尘境之外者,彼何足土苴芥蒂乎其间也耶?故自从师海上,缔构诸方,迹与世俱,道随神运,固未尝一日不接于事为,亦未尝一日不在乎悠然泊然之中也。世徒见师之揆日作室,不少辍于斯须之顷,以为若是而止耳,岂知至人循其故然,无所事事,寂感一致,虚中泛应之心迹也哉。道一而已,自随其所见而名之者,盖不止于一而已也。试以四者言之,曰微、曰妙、曰玄、曰通。谓之微者,以其杳冥恍惚,不可为象者也。谓之妙者,以其变化不测,莫知所以然也。玄者,深而不可探也。通者,其化无不遍也。模状形容,固亦至矣,然智者之智,仁者之仁,虽所见殊方,会归则一,亦岂有二本哉!浑沦圆周,无所玷缺,在山满山,在河满河,道之全也。极六合之内外,尽万物之洪纤,虽神变无方,而莫非实理,道之真也。由是而为命,由是而为性,由是而为心,又由是而之于情,或源也,或委也,引而伸之,亦将何有不全,何有不真者乎?然则全也、真也,一而二,二而一者也。其万化之本根,一元之统体欤?长春之传于师者盖如此,师则有以推而广之,是可铭也。铭曰:

黄帝が広成に道を問うてより、神仙の説始めて興った。老氏は殷を跨ぎ周を歴て、道徳五千言を以て要妙を推し極め、その教は万世に被った。秦に降り漢に及ぶと、代々顕人が有り、安期・赤松・張道陵の流は、或いは出でて晦まず、或いは見えて常ならず、福奇の徴が世人の耳目に昭揭せられたことは、一事に非ず。魏・晋・隋・唐よりこのかた、跡を閬囂に蜕し神を碧落に凝らす者は、その名を殫くして紀すべからず。陰陽の秘幻を脇え、霊異の大成を集め、微には草野の鄙人、幽には深閨の稚女も、一たびその名を聆けばこれを列仙と知るに至っては、唐の呂純陽ただ一人のみ。盛んなりや。その伝わるや、全真の教は蓋し此に発源し、その流は金の初めに逮び、祖師王公が前に唱え、七真が後に継起して、道大いに行われた。惟だ丘公は東海の浜を超え、玄教の真風、瀰漫洋溢し、その高弟一十八人、世に十八大士と称する者のうち、師はその一人なり。師は潘氏に姓し、諱を德冲、字を仲和、冲和はその号なり。淄の斎東の人。家は世々農を業とし、大父の秉政は、ちょうど大安の兵の興るに当たり、家より起って軍都統となり、莱州を戍った。父の楫、字は済之、儒を以て業とし、辟されて益都府学教授に充った。世父の沢民は、莱州節度判官。高祖以上より師に及ぶまで九世同居し、家は素より財に饒く、嘗て凶歳に遇うや、粟を発して飢を賑い、民がこれに頼って全うし活きた者甚だ衆し。郷閭に貧しき者あれば即ちこれに仮貸し、その償いを責めず、その施しを楽しむこと此の如し。ある日、術士がその家を過ぎ、これに語って曰く、この家は陰徳有り、必ず陽報を獲て、当に異子を生ずべし、と。初め、師の母王氏、嘗て祥雲の室に入りてその身を覆うを夢見、良久にして乃ち去った。それより娠み、妊むこと十九ヶ月にして師乃ち生まれた。七歳にして言うこと能わず、その父これを憂えた。忽ち一人の道者が来たりて食を乞い、父これを延いて門に入れ、何處より来たると問えば、東海より、将に長安に適かんとすと云う。師は即ち傍よりこれと語り、応答流るが如し。父駭愕す。道者曰く、この子は神韻冲粋にして、凡児に非ず。異日当に人天の師となるべし、宜しく善くこれを養うべし、と。これより遂に能く言う。後稍々長じ、警悟敏慧、常人の及ぶところに非ず、書を読んで日に千余言を記した。後、父母が妻を娶らせんと欲するを聞き、遂に夜に遁れ、即ち棲霞の浜都観に往いた。道、濰陽を過ぐ。時に清和真人が玉清宫に住持し、何處に適くかと問い、その将に長春に詣らんとするを知り、乃ち引き見せた。これより服膺し、道を問うて、伝心の要を得た。長春は師に焚修の事を委ね、その暇日に至っては、則ち静室の中に黙坐し、神を凝らし慮を滌い、物我両に忘れ、一に要妙幽玄の境に帰した。是の如きこと十余年。太祖聖武皇帝親ら西域を征し、長春の名を聞き、仲録劉君を遣わして詔を賚り海上に詣らせ、これを起さしめた。乃ち長春に従って西に覲え、風沙万里、以て労と為さず。燕に還ること三年、長春仙去す。真人尹公が法を嗣ぎ、師を命じて燕京都道録に充て、兼ねて宮事を領せしめた。真常また玄機を総べ、注倚尤も深し。燕は和林を去ること数千里、朝覲の往返、凡そ十有三度、供擬の費は、皆師に倚りて弁ぜられ、一つも闕くる所無し。玄教真風の恢張誕布し、薄海内外至らざる無き所以の者は、師も大いに力有るところなり。師の内に誠にして外に方、各々任ずる所有り、道並行して相悖らざるは、また此に見るべし。歳乙未、平遥の官長梁公、同僚と偕に懇ねて疏を上げ、清和真人に請うて兴国観を重修せしめんとし、真人は師を命じて往かしめた。甫だく一年を逾えて、旧を撤してこれを新たにした。壬寅、師を諸路道教都提挙に署し、仍お本路道録を兼ねた。甲辰、河東の永楽祠堂に災い有り。祠は蓋し呂純陽の仙跡なり。朝議以為らく、純陽の道の顕なること此の如く、祠としてこれを祀るは、事簡陋に渉る。改めて純陽万寿宮と為すべし、と。李真常に命じて、道望隆盛にして人の具瞻する所の者を選ばしめ、崇建せしめた。これに先だち、長春が西域より回り、蓋里泊に抵った時、夜、諸門弟子と談じ、語の次に師に謂いて曰く、汝の縁は他年当に西南に在るべし、此の時、永楽は吾が道なり、と。ここに至り、真常洎び清和の二宗師、衆を集めて言って曰く、純陽は吾が教の祖なり。今、朝廷の崇饬此の如し、孰れかその事を任ずべき、と。衆は、師の徳望幹才、綽として余裕有り、即ちその役に堪えしめんと欲するに、師に逾ぐは無し、況や長春の蓋里泊の言、已に嘗てこれに命ぜしをや、とした。乃ち師を河東南北両路道教都提点に署し、命じて往きてこれを営ましめた。師その徒を率いて永楽に至ると、百工縁を勧められ、源源として来たること、子の父の事に趨るが如し。甓を陶し木を伐り、雲集川流す。ここにおいて基址を略し、遠邇を度り、功能を程し、枝干を平ぎ、事を合わせ徒を庀り、百堵皆作し、数稔ならずして新宮告成した。堂殿・廊廡・斎厨・廐庫、下って寮舎・湢浴の属に至るまで、各々位置有り、焕然として新たならざるは莫し。北に一舎を逾え、山有りて九峰と曰う。土人云く、此れ純陽の道を得し処なり、と。その徒劉若水を遣わして純陽上宮を起し、また宮の側に下院十余区を創り、良田・竹葦及び蔬圃・果園、舟車・碾磑を市りて、歳に常住の百色の費を充てた。四方の賓侶が宮下を過ぎ謁するに至っては、周りをめぐり四顧し、その厳飭壮盛を見て、儼敬の心油然として生ず。夫れ祠宇を撤して宮庭と為す、その崇卑の相去ること奚啻万万ならんや。然れども純陽の本真に於いて何の損益を加えん。但だ致飭の道、斯にその行わるる者遠くして、人の観感異ならん。此れ象教の後世に廃すべからざる所以なり。天下の耳目を見聞の際に聳えさせ、その褻易の心を絶つ。外に厳なる者は内を佐くる所以なり。象の崇き所以の者は、道の尊き所以なり。是に由りて之を言えば、師の盛縁を恢大し崇構を作新する、豈徒にその壮麗を誇らんとするのみならんや。己酉の秋、中宮の懿旨、凡そ海岳・霊山及び玄教師堂には、近侍を遺して師を護り、悉く香を降して以てこれを礼せしめた。乃ち濰陽玉清宫を増葺し、崑嵛山麻姑洞に至り、歴代の誥冊を取りて石に刊し、以て霊跡を彰かにした。壬子の夏四月、真常朝命を奉じて岳瀆を祀るに因り、永楽を過ぎ、その規模の宏敞なるを見、喜びて師に謂いて曰く、師に非ざれば此の勝縁を畢る能わず、と。乃ち帑を傾けて以てその経費を助けた。明旦、師と同じく九峰の巓に躋り、その秀抜椅の如きを見、遂にその名を易えて玉椅峰と曰った。甲寅の春、聖天子藩邸に在り、命じて普天醮を長春宮に設けしめ、ここにおいて四方の羽侣の道行清高の者を召して畢く集まらしめ、師は首としてその選に与った。彩雲鸞鶴の瑞を致す。真常曰く、此の瑞は公適当たるべし、と。遂に清和真人の遺せる金冠錦服を以て贈りと為した。事畢りて永楽に還る。丙辰の夏四月上宮に適き、五月朔旦に至り、忽ち左右に謂いて曰く、吾幼にして長春師に遇い、秘伝を授けられ、終身これを誦して、粗ぞ得る所有り。継いで清和・真常が純陽師祖の世縁を以て我に付す。吾比年経営し、略ぼ次第有り。今、世縁道念も亦庶幾く兼修して並び挙がり、復た事無し。吾其れ行かんか、と。衆は謂う所を知らず。二十六日、将に下宮に返らんとす。時方に盛夏にして、畏日途に載る。従者咸く以て病と為す。師曰く、汝衆弟行け、傷無かれ、と。忽ち陰霧四合し、下宮に抵ること四十余里、人暑きを知らず。此れ尤も訝るべし。初め、純陽殿前に古柿二木有り、根干盤錯し、枝葉茂盛なりしが、ある夕風無くして自ずから折れた。衆方に驚悟して曰く、此の柿風無くして折る、大異と謂うべし。吾が師前日の言、その兆此に於てせり、と。是の夜二更将に尽きんとし、師忽ち杖を扶いて出で、四方に面し、呪語を誦した。随に即ち灰を以てこれを掺し、露坐すること移時、待つ所有るが若し。尋いで復た入り、湯を以てその面を颒い、即ち衣を易え筆を索め、頌一篇を書し、既に畢り、乃ち枕に就き翛然として逝いた。春秋六十有六。門人掌教誠明真人に奔讣す。提点孟公を遣わし、賻賵甚だ厚し。庚申の歳三月初五日、宮の乾位に葬り、仍お別祠を建て、嗣事する者をして歳時の香火を奉ぜしめ、本に報い始に反るの道なり。既にして誠明師の徳を疏して朝に上り、冲和微妙真人の号を賜った。師性資仁裕にして、戒履修潔、道流に居ると雖も、然れども善を楽しみ施を好んだ。中条東西の居民、毎歳の初めに或いは宮に粟を貸す者有り、数千石を逾えた。時にちょうど凶荒、道侶贍わず、衆議これを徴さんと欲す。師曰く、歳荒れ人飢ゆ、彼を奪いて此に与う、是れ豈仁人の用心ならんや、と。負える者聞きてこれを徳とし、後、毎に純陽の誕日に相率いて会を設け、香資を献じて以て報いを致し、歳以て常と為した。癸丑の春旱す。総管徐徳禄諸耆老を拉して師に祷る。師為に霊宝経を誦し、旬日ならずして甘澍を致すこと尺に盈ちた。師嘗て九峰純陽上宮に居り、又九峰老人と号す。門人三宮提点淵静大師劉若水、乃ち師の経を誦する処に台を築き、これに志して曰く、九峰老人誦経台、と。因りてその行を状し、提点純陽万寿宮事の文志通に付す。永楽より燕に走ること凡そ二千里、知宮劉志を拉して復た予に詣りて言って曰く、師の道行此の如し、然れども神隧の石未だ紀する所有らず、敢えて請う、と。予不敏を以て辞したが、凡そ四五度往返し、請い益々堅し。予は、志通のその師を尊ぶや篤く、予に託するや専なりを以て、是れ嘉すべしとし、乃ち為にその始終を述べてこれを次第し、因りて説を以てこれに系す。夫れ道の教と為すや尚び。小にしては錬度の微に始まり、大にしては性命の奥に極まり、事に非ざるは無し。宮宇を営葺し貧乏を惠鮮するに至っては、此れ但だ物に触れ縁に応じ感に随いて動く、労して有らず、施して報いず、特に神化の糟粕のみ、師の至に非ざるなり。接と為構と与にし、紛紛擾擾、殆ど多事なり。然れども神を淡に游ばしめ、気を漠に合し、超然として独観し以て自ずから塵境の外に出ずる者は、彼何ぞその間を土苴芥蒂とするに足らんや。故に師に従うこと海上より、諸方を締構し、跡は世と倶にし、道は神に随て運ぶ。固より未だ嘗て一日も事為に接せざらず、亦未だ嘗て一日も悠然泊然の中に在らざること無きなり。世は徒に師の日を揆り室を作り、斯須の頃も少しも輟めざるを見て、是の若くして止まるのみと以為る。豈知らん、至人その故然に循い、事事する所無く、寂感一致し、虚中泛応の心跡なることをや。道は一のみ、自ずからその見る所に随いてこれを名づくる者は、蓋し一に止まらざるのみ。試みに四者を以て之を言わん。曰く微、曰く妙、曰く玄、曰く通。之を微と謂う者は、その杳冥恍惚、象と為すべからざるを以てなり。之を妙と謂う者は、その変化測られず、然る所以を知る莫きなり。玄なる者は、深くして探るべからざるなり。通なる者は、その化遍からざる無きなり。模状形容、固より亦至れり。然れども智者の智、仁者の仁、見る所の方殊なりと雖も、会帰すれば則ち一なり。亦豈二本有らんや。渾淪円周、玷缺する所無く、山に在れば山に満ち、河に在れば河に満つ。道の全なり。六合の内外に極まり、万物の洪繊に尽く、神変方無しと雖も、而るに実理に非ざる莫し。道の真なり。是に由りて命と為り、是に由りて性と為り、是に由りて心と為り、又是に由りて情に之く、或いは源なり、或いは委なり、引きて之を伸ばせば、亦将に何ぞ全からざる有らん、何ぞ真ならざる有らんや。然らば則ち全なるも真なるも、一にして二、二にして一なる者なり。其れ万化の本根、一元の統体か。長春の師に伝えし者は蓋し此の如し、師は則ち以て推めて之を広むる有り。是れ銘すべきなり。銘に曰く、

浑沦妙理含元精,先天后天无坏成,一真融冶储万形,繄谁不足谁奇赢。

渾淪の妙理は元精を含み、先天後天に壊成なく、一真融冶して万形を儲う。繄れ誰か足らず、誰か奇贏ならん。

于于天乐诚难名,无何七凿情窦萌,以智相轧机相倾,纷然百伪无一诚。

于于たる天楽、誠に名づけ難し。無何にして七鑿より情竇萌え、智を以て相軋り機を以て相傾け、紛然たる百偽、一誠無し。

风颓俗靡三千龄,何人椅挈还大庭,岂谓否极时方亨,粤有奇人悼含灵。

風頽れ俗靡くこと三千齢、何人か椅挈して大庭に還らん。豈に謂わん否極まりて時方に亨ると、粤に奇人有りて含霊を悼む。

因心悟理开聩盲,尔全尔真性尔情,若醉而醒昏而醒,六尘莹彻神珠明。

心に因り理を悟りて聵盲を開く、爾を全うし爾を真にし、性は爾の情。酔えるが如くして醒め、昏きが如くして醒め、六塵瑩徹して神珠明らかなり。

维师启钥通玄扃,十年动息静不凝,外营扰扰中常宁,功成羽化何泠泠。

惟れ師、鑰を啓きて玄扃を通ず。十年の動息、静は凝せず。外に営々擾々たれど中は常に寧し。功成りて羽化、何ぞ泠泠たる。

乘风万里游太清,俯视八极尘冥冥,中条之山郁葱青,黄流宛转相抱萦,纪师盛德存吾铭。

風に乗り万里、太清に游び、俯視すれば八極、塵冥冥たり。中条の山、鬱として葱青、黄流宛転として相抱き相萦る。師の盛徳を紀り、吾が銘に存す。

《甘水仙源录》(『甘水仙源録』)巻五『冲和真人潘公神道之碑』、元・徒単公履撰、李道謙編

『純陽帝君神化妙通紀』

彖章曰:夫大道,人人本具,物物全彰。奈人自有生以来,物欲交攻,利名迷昩,况自己无福缘,祖宗无善德,所以弃道远矣。故仙师云:达道登真,必仗祖宗阴德厚实。自己夙生灵慧,刚志果决,可以省力成证,岂虚言哉!本纪帝君天性纯厚,仁孝聪敏,三教经书,一览圆贯,岂非夙生灵慧果乎?祖陕州都督,乐善好道,政多阴德,生四子,皆显达。乃父让,纯厚仁善,政有佳声,百姓敬慕,故上知名,迁太子官属。以此诚实,遂感真仙谪降,岂非善积余庆乎?帝君自冠以来,不肯婚娶,宝贵精神,岂非身体发肤不敢毁伤乎?笃志修真,心澄性朗,养浩乐天,名扬后世,岂非全德要道以显父母乎?况继嗣玄元道统,名袭紫府仙宗,为天人圣师,神化无方,隐显莫测,岂可以常贤圣共语哉!或疑各本载帝君生所及居处不一,详推乃父仕宦迁移,又作者欲在本乡人物为美,是以差误不一。今考河中府永乐镇九峰山故宅,基址俨然,今建纯阳万寿宫是矣。永乐县至宋熙宁间改作镇。愚校正的实,亦不敢固执,庶几同志无疑矣。

彖章に曰く、そもそも大道は、人々本より具わり、物々に全く彰れり。奈何せん、人は生まれ有って以来、物欲交攻し、利名に迷昩し、況や自己に福縁無く、祖宗に善徳無きをや、是れ道を棄てること遠き所以なり。故に仙師云く、道に達し真に登らんには、必ず祖宗の陰徳厚実なるに仗るべし。自己夙に霊慧を生じ、剛志果決ならば、以て力を省き証を成すべし、豈虚言ならんや。本紀に帝君は天性純厚にして、仁孝聡敏、三教の経書、一覧に円貫す、豈夙に霊慧の果を生ぜしに非らずや。祖は陜州都督、善を楽しみ道を好み、政に陰徳多く、四子を生み、皆顕達す。乃父の譲は、純厚仁善にして、政に佳声有り、百姓敬慕し、故に上に知られ、太子官属に遷った。此の誠実を以て、遂に真仙の謫降を感ず、豈善の積みて余慶有るに非らずや。帝君冠より已来、婚娶を肯んぜず、精神を宝貴す、豈身体髪膚毀傷せざるを敢えてせざるに非らずや。志を篤くして真を修め、心澄み性朗かに、浩を養い天を楽しみ、名は後世に揚ぐ、豈徳を全うし道を要にして以て父母を顕すに非らずや。況や玄元の道統を継嗣し、紫府の仙宗を名襲し、天人の聖師と為り、神化方無く、隠顕測る莫し、豈以て常の賢聖と倶に語るべけんや。或る者疑う、各本に帝君の生所及び居処を載するに一ならずと。詳かに推せば、乃父の仕宦遷移し、又作者は本郷の人物を以て美と為さんと欲するが故に、差誤一ならず。今考うるに、河中府永楽鎮九峰山の故宅、基址儼然たり、今純陽万寿宮を建つる是なり。永楽県は宋の熙寧の間に至り、改めて鎮と作す。愚、校正して実を的とす、亦敢えて固執せず、庶幾くは同志疑い無からん。

《纯阳帝君神化妙通纪》(『純陽帝君神化妙通紀』)「瑞応明本第一化」、元・苗善時編

『金蓮正宗仙源像伝』

师姓吕名岩,字洞宾,号纯阳子,蒲州蒲坂县永乐镇招贤里人也,生于唐德宗贞元丙子四月十四日。年弱冠登进士第,未调,因暮春游沣水之上,遇正阳子授神仙之道。后隐庐山修炼成道,周游人间,每称回道士,或隐或显,世莫能测。有诗云:捉得金精作命基,日魂东畔月华西。于中炼就长生药,服了还同天地齐。尝于邯郸逆旅以枕授卢生,又于东邻沈氏家作诗,以榴皮书壁,其灵踪圣迹,载于书传者,不可胜纪。世之言神仙者,必宗钟吕,其所至处后,人皆建观宇。有诗词名浑成集,行于世。今永乐镇大纯阳万寿宫,即其故居也。元世祖皇帝封号纯阳演正警化真君,武宗皇帝加号纯阳演正警化孚佑帝君。

師は姓を呂、名を岩、字を洞賓、号を純陽子、蒲州蒲坂県永楽鎮招賢里の人なり。唐の徳宗貞元丙子四月十四日に生る。年弱冠にして進士第に登るも、未だ調せられず、因りて暮春、灃水の上に游び、正陽子に遇いて神仙の道を授かった。後に廬山に隠れて修錬して道を成し、人間を周游し、毎に回道士と称し、或いは隠れ或いは顕れ、世に測る能わず。詩有りて云く、金精を捉得して命基と作し、日魂は東畔に月華は西なり。中に於て長生の薬を錬就し、服して了れば還た天地と齊し、と。嘗て邯鄲の逆旅に枕を以て盧生に授け、又東隣の沈氏の家に詩を作り、榴皮を以て壁に書した。その霊蹤聖跡、書伝に載する者は、勝げに紀すべからず。世の神仙を言う者は、必ず鐘呂を宗とし、その至った処の後には、人皆観宇を建つ。詩詞有りて名を渾成集と曰い、世に行わる。今の永楽鎮大純陽万寿宮は、即ちその故居なり。元の世祖皇帝の封号は純陽演正警化真君、武宗皇帝の加号は純陽演正警化孚佑帝君。

赞曰:一剑横秋,清风两袖。道在函三,丹成转九。苍梧北海,白云帝乡。甘河一滴,源远流长。

賛に曰く、一剣秋を横たえ、清風両袖。道は函三に在り、丹成りて九転す。蒼梧北海、白雲の帝郷。甘河の一滴、源遠くして流長し。

《金莲正宗仙源像传》(『金蓮正宗仙源像伝』)「純陽子」、元・劉志玄・謝西蟾編

『終南山祖庭仙真内伝』

乙巳春,命潘冲和主领河东永乐纯阳宫之法席,以事建立。无何,中宫遣近侍赐黄金冠服,仍敕有司卫护。

乙巳の春、潘冲和に命じて河東永楽純陽宮の法席を主領せしめ、以て建立の事に当たらしめた。无何、中宮近侍を遣わして黄金の冠服を賜い、仍お有司に衛護を敕した。

《终南山祖庭仙真内传》(『終南山祖庭仙真内伝』)巻下「清和真人」、元・李道謙編

乙巳,奏请河东永乐纯阳祠宇及师真堂下,并赐宫额,以彰玄化。

乙巳、奏請して河東永楽の純陽祠宇及び師真堂下に、並びて宮額を賜り、以て玄化を彰かにせしめた。

《终南山祖庭仙真内传》(『終南山祖庭仙真内伝』)巻下「真常真人」、元・李道謙編

师奉旨。驿车南下,遍诣岳渎,以行祀事。越明年春正月初吉,来终南祖庭,敬展精哀,恭行祀礼,规度营建,整治玄纲,凡山下仙宫道观,皆为一到建功师德赐赉各有差,以是地系教门根本故也。至四月既望,仙仗东归,由中条之纯阳宫,亦如终南故事。秋九月。还燕。

師旨を奉ず。駅車南に下り、遍く岳瀆に詣り、以て祀事を行った。明年の春正月初吉に越え、終南祖庭に来り、敬して精哀を展べ、恭しく祀礼を行い、営建を規度し、玄綱を整治した。凡そ山下の仙宮道観は、皆為に一到して功を建つ師の徳に賜賚各々差有り、是れ地が教門の根本に係るを以ての故なり。四月既望に至り、仙仗東に帰り、中条の純陽宮に由るも、亦終南の故事の如し。秋九月、燕に還る。

《终南山祖庭仙真内传》(『終南山祖庭仙真内伝』)巻下「真常真人」、元・李道謙編

辛丑春正月,会葬重阳祖师于终南。癸卯,自甘棠来永乐镇,拜谒于纯阳祠下,见其荒芜狭隘,师乃招集道众住持。后虽掌教真常李君奏请朝命,大行兴建者,师实为之张本。

辛丑の春正月、重陽祖師の葬を終南に会した。癸卯、甘棠より永楽鎮に来り、純陽祠下に拜謁し、その荒蕪狭隘なるを見て、師乃ち道衆を招集して住持せしめた。後に掌教真常李君が朝命を奏請して大いに兴建を行ったと雖も、師実に其の張本を為せり。

《终南山祖庭仙真内传》(『終南山祖庭仙真内伝』)巻下「披雲真人」、元・李道謙編

戊申冬,门人迁仙柩于河东永乐镇纯阳宫葬之,建祠立𥓓,以事香火。至元庚午岁春三月,圣旨追赠玄通弘教披云真人,号白云真人。

戊申の冬、門人仙柩を河東永楽鎮純陽宮に遷してこれを葬り、祠を建て𥓓を立て、以て香火の事とした。至元庚午の歳春三月、聖旨追贈して玄通弘教披雲真人、号は白雲真人。

《终南山祖庭仙真内传》(『終南山祖庭仙真内伝』)巻下「披雲真人」、元・李道謙編

『西雲集』

余畴昔甚爱河中永乐纯阳宫之西,地势极佳,尝拟改葬先师披云真人。未决,忽一日静中见先师过门,急从之,已失所在。遂得一绝云:

余は畴昔、河中永楽純陽宮の西を甚だ愛した。地勢極めて佳なり。嘗て先師披雲真人を改葬せんと擬したが、未だ決せず、忽ちある日、静中に先師の門を過ぐるを見、急ぎこれに従うも、已に在所を失った。遂に一絶を得て云く、

不觉不知可便归,明明白白也宜时。
两端事理从君用,远近无为无不为。

覚えず知らず、便ち帰るべし。明明白白、また時宜し。
両端の事理、君の用に従え。遠近、無為にして為さざる無し。

《西云集》(『西雲集』)巻下「自述」、元・祁志誠撰

『道蔵闕経目録』

元启运,有披云子宋真人,收索到藏经七千八百余秩,锓梓于平阳府永乐镇,东祖庭藏之,此道藏经历朝兴废之大者也。敬刻之石,俾百世之后寻经目者,有考证焉。至元十二年岁次乙亥九月望日立石。

元の運啓き、披雲子宋真人有り、蔵経七千八百余秩を収索し、平陽府永楽鎮に鋟梓した。東の祖庭これを蔵す、此れ道蔵経の朝を歴ての興廃の大なり。敬んで之を石に刻し、百世の後、経目を尋ぬる者に考証有らしめんとす。至元十二年歳次乙亥九月望日立石。

《道藏阙经目录》(『道蔵闕経目録』)巻下所録『道蔵尊経歴代綱目』、元の至元12年(1275)立石

『侗軒集』

紫陌红尘二十年,寻真有志苦无缘。


楼头黄鹤何时借,袖里青蛇几日传。


三岛烟霞棋局畔,五湖云浪密声前。


金房玉洞如容造,乞与邯郸枕一眠。

紫陌紅塵二十年、真を尋ぬる志有れど縁無きに苦しむ。


楼頭の黄鶴何れの時か借りん、袖裏の青蛇幾日か伝えん。


三島の煙霞棋局の畔、五湖の雲浪密声の前。


金房玉洞もし造るを容れなば、乞わくは邯鄲の枕に与かりて一眠せん。

《侗轩集》(『侗軒集』)巻一『蒲州宿永楽宮、謁呂仙翁、贄之以詩』、明・祝顥撰

『居来先生集』

税驾南山麓,投栖永乐宫。
地偏云下榻,殿古夜垂虹。
旧里真人后,浮生过客中。
相期华表鹤,来往大行东。

駕を税して南山の麓、栖を投ぐる永楽宮。
地偏くして雲榻を下し、殿古くして夜虹を垂る。
旧里は真人の後、浮生は過客の中。
相期せん華表の鶴、来往する大行の東。

老柏知何代,残碑不问年。
斗牛行画壁,枕簟出飞泉。
玉检神霄秘,金宫绛节悬。
石坛中夜月,吾欲采婵娟。

老柏知らん何の代ぞ、残碑年を問わず。
斗牛は画壁を行き、枕簟より飛泉出づ。
玉検は神霄の秘、金宮には絳節懸る。
石壇中夜の月、吾婵娟を采らんと欲す。

扶筇探胜迹,深为碧云停。
河势周遭见,峰阴表里青。
鼎湖看袅袅,函谷接冥冥。
方丈蓬壶外,无如此地灵。

筇を扶けて勝跡を探る、深く碧雲の停まるが為。
河勢は周遭に見え、峰陰は表裏に青し。
鼎湖を看れば嫋嫋たり、函谷は冥冥に接す。
方丈蓬壺の外、此の地の霊に如くは無し。

两年疲郡阁,一日卧云林。
瑶草随人把,山花绕砌深。
眼前皆大药,身外是华簪。
何故遗荣者,难忘婚嫁心。

两年郡閣に疲れ、一日雲林に臥す。
瑶草は人に随いて把られ、山花は砌を繞って深し。
眼前皆大薬、身外は是れ華簪。
何の故ぞ栄を遺る者、婚嫁の心忘れ難き。

《居来先生集》(『居来先生集』)巻八『宿永楽宮四首』、明・張佳胤撰

『蓮洋集』

久说双珠树,今来永乐宫。


云霞生户牖,日月近帘栊。


扶木千年宅,昆仑万里风。


刀圭如可觅,丹火夕阳红。

久しく説く双珠の樹、今来りぬ永楽宮。


雲霞は戸牖に生じ、日月は帘櫳に近し。


扶木千年の宅、崑崙万里の風。


刀圭もし覓むべからば、丹火夕陽の紅。

《莲洋集》(『蓮洋集』)巻十二『謁永楽宮』、清・呉雯撰

『蒲州府志』

玉簪山在永济县永乐镇纯阳宫侧,有松竹桃杏之观。

玉簪山は永済県永楽鎮純陽宮の側に在り、松竹桃杏の観有り。

《蒲州府志》(『蒲州府志』)巻二「山川」、清・周景柱纂修

九峰山在永济县南六十里,上有道士院。

九峰山は永済県の南六十里に在り、上に道士院有り。

《蒲州府志》(『蒲州府志』)巻二「山川」、清・周景柱纂修

玉洞泉在永济县永乐镇纯阳观后,与寒谷涧水并入河。

玉洞泉は永済県永楽鎮純陽観の後に在り、寒谷の澗水と並びて河に入る。

《蒲州府志》(『蒲州府志』)巻二「山川」、清・周景柱纂修

仙人遗宅碧山隈,剑影萧萧去不回。


沧海月明天万里,有情乡国暂归来。

仙人遺しし宅は碧山の隈、剣影蕭蕭として去りて回らず。


滄海月明かりにして天万里、情有る郷国に暫く帰り来る。

《蒲州府志》(『蒲州府志』)巻二十二「藝文詩」、清・吉懐『永楽純陽宮』

『光緒山西通志』

《蒲州府志》:永乐纯阳宫在府南一百二十里南张村,唐吕岩故宅也。岩仙去,后因其宅为道士观。元中统三年,改号纯阳宫。中有古柏及连理银杏树,为岩手植。金进士袁从义碑存。

『蒲州府志』に曰く、永楽純陽宮は府の南一百二十里南張村に在り、唐の呂岩の故宅なり。岩仙去し、後にその宅に因りて道士観と為す。元の中統三年、号を改めて純陽宮。中に古柏及び連理の銀杏樹有り、岩の手植と為す。金の進士袁従義の碑存す。

《光绪山西通志》(『光緒山西通志』)巻七十三「祠廟」、清・曽国荃・張煦修、王軒纂

谨案:神于元时封为演正警化孚佑帝君。国朝嘉庆九年,加燮元赞运纯阳六字,令直省通祀。今所在有庙,与他道院自别,故举会城之祠类次于此。永乐则以桑梓地连及之。

謹んで案ず。神は元の時に封じて演正警化孚佑帝君と為す。国朝嘉慶九年、燮元賛運純陽の六字を加え、直省に通祀を令した。今、在所に廟有り、他の道院と自ずから別なり。故に会城の祠を挙げて此に類次す。永楽は則ち桑梓の地を以て連ねて之に及ぶ。

《光绪山西通志》(『光緒山西通志』)巻七十三「祠廟」案語、清・曽国荃・張煦修、王軒纂

歴史的布局

乾隆『蒲州府志』永楽宮図

清の乾隆20年(1755)に周景柱が纂修した『蒲州府志』の巻首には「永楽宮図」二頁が収められ、図には丘祖殿・七真殿・純陽殿・三清殿・龍虎殿、および披雲道院・報功祠・書院・呂祖祠などの建築が記されている。原書図頁を見る

古写真

1950年代

移築前の永楽宮原址の全景。レンズは東北から西南に向けて構えられ、建築群の背後には黄河と遠山が見える。画像は中国文化遺産研究院が保存し、『永楽宮移築事業档案初編』に収録されている。

1959–1965年

移築事業の档案には、木部材の解体前の保護、三清殿壁画の剥取作業、および剥取後に平置きされた壁画が記録されている。以下の画像も同様に『永楽宮移築事業档案初編』に収録されている。

参考文献

以下の碑刻は、現在のところ公開ウェブページで碑名・器物情報または論文の抜粋を確認できるのみで、正式な機関による公開された連続した完全な釈文はまだ見つかっていないため、暫定的に原文としての採録は見合わせる。