HERITAGE RECORD

雲岩寺塔

雲岩寺塔は蘇州虎丘山頂にあり、通称虎丘塔。寺は東晋咸和二年(334)に王珣・王珉兄弟が自宅を捨施して創建したが、現存する塔身は五代後周顕徳六年(959)から北宋建隆二年(961)に建造されたもので、寺と塔は六百余年の隔たりがあり同源ではない。八角七層の木造模倣楼閣式磚塔で、煉瓦で柱・額・斗拱・菱角牙子出簷を象り、塔身は北東方向に傾斜している。

時代
後周
地域
江蘇
LOCATION
江蘇省蘇州市
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雲岩寺塔 - yunyansita old 01
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はじめに

雲岩寺塔は江蘇省蘇州市姑蘇区虎丘山の頂上に位置し、通称「虎丘塔」と呼ばれます。寺と塔は同源ではなく、雲岩寺は東晋咸和二年(327)に王珣・王珉兄弟が邸宅を寄進して建てたもので、今からおよそ千七百年前のことです。一方、現存する塔身は五代後周から北宋初の遺構で、寺院よりも六百年余り後のものです。

現存する塔は八角七層、木造楼閣を模した煉瓦塔で、総高は約 47.7 メートルです。梁思成『中国建築史』によれば、塔身の各層には円柱・闌額・壺門・煉瓦組物・菱角牙子による軒の出が設けられています——煉瓦で木造の層序を模しているため、全体が煉瓦造であるにもかかわらず、遠目には木造楼閣塔のボリューム感を保っています。『呉郡図経続記』によれば、建立は後周顕徳六年(959)に始まり、北宋建隆二年(961)に完成しました。

虎丘は古くは海涌山と呼ばれました。伝統的には、春秋時代の呉王闔閭がここに葬られ、葬後三日目に白虎が丘の上に踞ったことに山名の由来を求めます。東晋咸和二年、司徒の王珣とその弟・司空の王珉が邸宅を寄進して寺を建て、剣池を境に東西二寺を分立した――これが雲岩寺初期沿革の中心的な記述です。唐代には諱を避けて虎丘を「武丘」とも記しました。会昌の廃仏後、旧寺は壊滅し、後世の文献では寺院が山下から山上へ移転し、東西二寺がやがて一つに合わさったと伝えられます。

特に区別を要するのは、文献中の「隋時に建つ」「隋・王劭『諸州舎利記』」といった記述が指すのは、隋の仁寿年間に舎利塔を建てた初期の伝説や前身であって、今日見る五代から北宋にかけての煉瓦塔ではないということです。『呉郡図経続記』によれば、現存塔の建立年代は 959 から 961 年とされます。1956–1957 年の修理時に塔内から出土した経箱・舎利容器・越州窯青磁蓮花碗などの文物も、北宋建隆・乾徳年間の納入背景と整合します。

歴史文献

呉郡図経続記

云岩寺,在长洲县西北九里虎丘山,即晋东亭献穆公王珣及其弟珉之宅。咸和二年,舍建精舍于剑池,分为东西二寺,寺皆在山下,盖自会昌废毁后人乃移寺山上。今东寺皆为民畴,西寺半为榛芜矣。寺中有御书阁、官厅、白云堂、五圣台,登览胜绝。又有陈谏议省华、王翰林禹称、叶少列参、蒋密直堂。寺前有生公讲堂,乃高僧竺道生谈法之所。旧传生公立片石以作听徒,折松枝而为谈柄。其虎跑泉、陆羽井见存。比岁琢石为观音像,刻经石壁。东岭草堂亦为佳致,惜已废坏。

雲岩寺は、長洲県の西北九里、虎丘山に在り、すなわち晋・東亭献穆公・王珣とその弟・珉の邸宅なり。咸和二年(327)、舎して精舎を剣池に建て、東西二寺に分かつ。寺はみな山下に在り。蓋し会昌の廃毀より後、人遂に寺を山上に移すなり。今、東寺は皆民の田疇となり、西寺は半ば榛蕪となれり。寺中に御書閣・官庁・白雲堂・五聖台あり、登覧の勝、絶せり。また陳諫議省華・王翰林禹偁・葉少列参・蒋密直堂あり。寺前に生公講堂あり、すなわち高僧・竺道生が談法の所なり。旧伝に、生公小石を立てて聴徒となし、松枝を折って談柄となすという。その虎跑泉・陸羽井は今に存す。近年は石を琢みて観音像となし、経を石壁に刻む。東嶺の草堂もまた佳致なりしが、惜しむらくは已に廃壊せり。

『呉郡図経続記』巻中 寺院・雲岩寺 北宋・朱長文 元豊七年(1084)

呉郡志

云岩寺,即虎丘山寺,晋司徒王珣及弟司空王珉之别业也。咸和二年,舍以为寺,即剑池而分东西,今合为一。寺之胜闻天下,四方游客过吴者,未有不访焉。余见虎丘山门。

雲岩寺は、すなわち虎丘山寺なり。晋の司徒・王珣およびその弟・司空・王珉の別業なり。 咸和二年、舎して寺となし、剣池に即して東西を分かちしが、今は合して一となる。 寺の勝景は天下に聞こえ、四方の遊客にして呉を過ぐる者、これを訪ねざるはなし。 その他は虎丘の山門の条に見ゆ。

『呉郡志』巻三十二 郭外寺・雲岩寺 南宋・范成大

中呉紀聞

虎邱旧名海涌山,阖闾王既葬之后,金精之气化为虎,踞其坟,故号虎邱。山椒有二伽蓝,列为东西。白乐天有东武邱、西武邱诗,颜鲁公亦云:不到东西寺,于今五十春。今之西庵,西武邱也。虎字避唐讳,改曰武。

虎丘は旧名を海涌山という。闔閭王すでに葬られたる後、金精の気化して虎となり、その墳に踞す。故に虎丘と号す。山頂に二伽藍あり、東西に列なる。白楽天に「東武丘」「西武丘」の詩あり。顔魯公もまた云う、「東西の寺に到らず、今に五十春」と。今の西庵は、すなわち西武丘なり。「虎」の字は唐の諱を避けて「武」と改む。

『中呉紀聞』巻二 海涌山 南宋・龔明之

蠹斎鉛刀編

丙戌重五后一日,予与同舟三人游虎丘。庚寅岁,予亦以是日至枫桥,望虎丘塔,迫日莫,叹息而去。

丙戌の年、重五(端午)の翌日、予は同舟三人とともに虎丘に遊ぶ。庚寅の年にも、予はこの日に楓橋に至り、虎丘塔を望みしが、日暮れに迫られ、嘆息して去る。

百丈寒嵓塔,孤篷倦客船。来迎十里外,相识五年前。天迥方斜日,林深忽暝烟。平生戒三宿,为汝复凄然。

百丈の寒巌の塔/孤篷の倦みたる客船/来り迎うるは十里の外/相識るは五年の前/天は迥かにして方に日斜めなり/林は深くして忽ち暝煙/平生「三宿」を戒むるも/なんじが為に復た凄然たり。

『蠹斎鉛刀編』巻九 古律詩 南宋・周孚

虎丘山図志

虎丘山者,按《吴地记》云:本名海涌山,吴县西九里二百步,高一百三十尺,周二百一十丈。《越绝书》曰:吴王阖闾冢在吴县阊门外,名曰虎丘下。池广六十步,水深一丈五尺,铜棺三重,洴池六尺。玉凫之流,扁诸之剑,鱼肠三千在焉。发卒六十万人治之,葬之三日,白虎居其上,故有兹号。又《世说》云:秦皇帝因游海右,自沪渎经此山,乃欲发坟取宝,忽有白虎出而拒之,始皇挺剑刺虎,虎奔而急,因改为虎丘焉。故上有剑池,或曰秦皇试剑池,亦谓之磨剑池。今则长十有三丈,阔余三寻,其深则莫可测矣。古诗云:剑池无底浸云根。又云:沉沉剑池水,直上连沧溟。后以唐祖庙讳,更为武丘云。

虎丘山は、『呉地記』に云う、本の名は海涌山、呉県の西九里二百歩、高さ一百三十尺、周二百一十丈と。『越絶書』に曰く、呉王闔閭の塚は呉県閶門の外に在り、名づけて虎丘下と。池の広さ六十歩、水深一丈五尺、銅棺三重、洴池六尺。玉鳧の流れ、扁諸の剣、魚腸三千ここに在り。卒六十万人を発してこれを治め、葬って三日、白虎その上に居る。故にこの号あり。また『世説』に云う、秦皇帝、海右に遊び、滬瀆よりこの山を経るに、墳を発きて宝を取らんと欲するに、忽ち白虎出でてこれを拒む。始皇剣を挺げて虎を刺し、虎は奔って急なり。因りて虎丘と改む、と。故に上に剣池あり、あるいは「秦皇試剣池」とも、また「磨剣池」とも謂う。今は長さ十三丈、闊さ余三尋、その深さは測るべからず。古詩に云う、「剣池底無く雲根を浸す」。また云う、「沉沉たる剣池の水、直に上って滄溟に連なる」。後、唐の祖廟の諱に因りて武丘と更むという。

云岩寺即晋王氏伯仲珣珉舍别业以创焉。始于一山,中分两寺,故颜鲁公诗云:不到东西寺,于今五十春。今则合而为一。先是至道中,岳牧贰卿魏公庠,改为禅刹,延清顺尊者演法主之。彼美招提,实为绝境。粉垣回缭,外莫睹其崇峦;松门郁深,中迥藏于嘉致。故前贤诗云:老僧秪怕山移去,日莫先教锁寺门。又云:宿云侵晓去,不待寺门开。若乃层轩翼飞,上出云霓;华殿山屹,旁碍星日。景物清晖,寮宇岑寂。

雲岩寺は、すなわち晋・王氏伯仲、珣・珉が別業を舎して創むるものなり。始め一山に、中分かれて両寺となる。故に顔魯公の詩に云う、「東西の寺に到らず、今に五十春」と。今は合して一となる。先に至道中、岳牧貳卿・魏公庠、改めて禅刹となし、清順尊者を延いて法を演じ主たらしむ。かの美しき招提、実に絶境なり。粉垣回り繚し、外よりはその崇峦を睹ること莫し。松門鬱として深く、中に迥かに嘉致を蔵す。故に前賢の詩に云う、「老僧ただ恐る山の移り去らんことを、日暮先んじて寺門を鎖さしむ」。また云う、「宿雲、暁を侵して去る、寺門の開くを待たず」。かの層軒翼飛び、上に雲霓を出ず。華殿山のごとく屹として、旁ら星日を碍ぐ。景物清晖し、寮宇岑寂たり。

时天圣二年,岁次甲子,六月二十八。翰林侍读学士、中散大夫、守尚书礼部侍郎、同知通进银台司门下封驳事、护军、琅琊郡开国侯、食邑一千九百户,食实封二百户、赐紫金鱼袋王随记。

時に天聖二年、歳次甲子、六月二十八。翰林侍読学士・中散大夫・守尚書礼部侍郎・同知通進銀台司門下封駁事・護軍・琅琊郡開国侯・食邑一千九百戸、食実封二百戸・賜紫金魚袋・王随記す。

『虎丘山図志』文集 王随『虎丘雲岩寺記』 北宋天聖二年(1024) 明・文肇祉輯 万暦刊本

据姑苏之右地,负乾阳之胜势,丛生万石,崛起平皋,讲席坦乎千人,剑泉呀其百尺。松篁总翠,烟岚异色,宜有神物,舍于宝坊。前此守土臣寔、臣度初基尊奉,即山而宇,寒暑再离,风雨无赖。景祐四年十月,知军事臣堂始大前构,彻故以新,奏取郡民绝籍财入县官者钱一百七十万,以授工材。移通判军州事臣宋卿经始虑素,程工董役。更五甲子,阁成,民不知役,而渠屋弥望。

姑蘇の右地に拠り、乾陽の勝勢を負い、万石叢生し、平皋に崛起す。講席は坦かにして千人を容れ、剣泉は百尺を呀す。松篁すべて翠なり、煙嵐異色、よろしく神物ありてこの宝坊に舎すべし。これより前、守土の臣・寔および臣・度、初めて基を尊奉し、山に即して宇を構う。寒暑二たび離るるに、風雨に頼みなし。景祐四年(1037)十月、知軍事の臣・堂、始めて大いに前構を改め、故きを徹して新たにし、奏して郡民にして籍を絶ちて県官に入りしものの財銭一百七十万を取りて、工材に充つ。通判軍州事の臣・宋卿を移して経始素を慮り、工程を程し役を董せしむ。五甲子(六十日)を更て、閣成る。民は役を知らずして、渠屋望に弥たれり。

先是,永熙宸翰九轴,帝书一品,垂贡岫幌,弥历年所。先朝宝跗入石册六十二,分辉奎曲,并集为赐。今皇帝飞云洒妙,墨本三十,重光祖武,嗣有恩颁,至是落成,并置其上。三圣继统,昭明游艺,若五辰二曜,珠连璧合。

これより先、永熙の宸翰九軸、帝書一品、岫幌に貢を垂れ、年所を弥る。先朝の宝跗の石冊に入るもの六十二、奎曲に輝を分ち、并せ集めて賜となす。今皇帝、飛雲洒妙、墨本三十、祖武を重光し、嗣ぎて恩頒あり。ここに至りて落成し、并せてその上に置く。三聖統を継ぎ、遊芸を昭明にすること、五辰二曜のごとく、珠連璧合せり。

景祐五年十月七日,两浙诸州水陆计度转运副使、提点市舶司、本路劝农使及管勾茶盐矾税,朝奉郎、守太常丞、直史馆、骑都尉、赐紫金鱼袋臣叶清臣撰。

景祐五年(1038)十月七日、両浙諸州水陸計度転運副使・提点市舶司・本路勧農使および管勾茶塩礬税、朝奉郎・守太常丞・直史館・騎都尉・賜紫金魚袋・臣・葉清臣撰す。

『虎丘山図志』文集 葉清臣『御書閣碑』 北宋景祐五年(1038) 明・文肇祉輯 万暦刊本

虎丘雲岩禅寺興造記

自佛学行于中土,法幢所建,必天下之名山,莫不侈为宝构华居,以宅夫形胜。盖以表灵山之未散,作大众之依怙,俾来者睹相而生信也。丹青土木之事,虽若涉于有为,而事之与理,不相留碍。推理而适于事,清净觉地,即大伽蓝;混事而归于理,积土聚沙,皆已成佛。一切世间成住坏空之相,固未有出于心境之外者。苟非乘方便力,游戏如幻,安能具大庄严,为无上之胜因也哉?

仏学の中土に行われてより、法幢の建つる所、必ず天下の名山にして、宝構華居を侈りに為して、以てかの形勝に宅せざるは莫し。 蓋し以て霊山の未だ散ぜざるを表し、大衆の依怙となし、来者をして相を睹て信を生ぜしむるなり。 丹青土木の事、有為に渉るに似たりといえども、事と理と相留碍せず。 理を推して事に適うときは、清浄覚地、すなわち大伽藍。事を混じて理に帰すときは、土を積み沙を聚むるも、皆すでに仏となれり。 一切世間の成住壊空の相、固より心境の外に出ずるもの未だ有らざるなり。 もし方便の力に乗じて遊戯すること幻のごとくに非ずんば、いずくんぞ大荘厳を具えて、無上の勝因となるを得んや。

吴郡西北有山曰虎丘,或谓之海涌山,有大招提,曰云岩寺。山之所以名,寺之所由立,悉见于图志。山则吴王遗蜕之所托,秦皇辙迹之所届,剑池及试剑石在焉。寺则晋王氏昆弟、司徒珣、司空珉所施之别业,生公讲经处,点头石、千人座在焉。宋至道中,始以寺为禅刹。皇祐初,又更为十方住持。绍兴间,长老大比丘隆公,以圆悟嫡子坐镇兹山,法席鼎盛,东南大丛林,号称“五山十刹”者,虎丘实居其一。大慧以法门兄弟相依最久,𬙆经有室,容声俨然。继以雪庭、瞎堂、松源、笑翁诸宿德,唱道其中,而宗风愈振,纂承基绪,代不乏人,而支倾植仆,曰不暇给。际今昌辰,尊崇像教,犹或失于因循,未克大起其废。

呉郡の西北に山あり、虎丘と曰う。あるいはこれを海涌山と謂う。大招提あり、雲岩寺と曰う。 山の名づくる所以、寺の立つ所由、ことごとく図志に見ゆ。 山はすなわち呉王の遺蛻の託する所、秦皇の轍迹の届く所、剣池および試剣石ここに在り。 寺はすなわち晋・王氏昆弟、司徒・珣、司空・珉が施する所の別業、生公の経を講ずる処、点頭石・千人座ここに在り。 宋・至道中、始めて寺を以て禅刹となす。 皇祐の初め、また十方住持に改む。 紹興の間、長老大比丘・隆公、円悟の嫡子として此の山に坐鎮するや、法席鼎盛にして、東南の大叢林、号して「五山十刹」というものに、虎丘は実にその一を居む。 大慧は法門の兄弟として相依ること最も久しく、看経の室あり、容声俨然たり。 継ぐに雪庭・瞎堂・松源・笑翁の諸宿徳を以てし、道をその中に唱えて、宗風いよいよ振るう。基緒を纂承し、代々人に乏しからざるも、支は倾き植は仆れ、暇給ならずと曰う。 今昌辰に際し、像教を尊崇するも、なお因循に失して、大いにその廃を起こすこと能わず。

重纪至元之四年,今住山明公嗣领寺事,始增饰佛菩萨、阿罗汉、执金刚神,更造文殊、普贤、观世音三大士,缮治舍利之塔,经律论之藏,范羑铜为巨钟。视栋宇之摧堕蠹敝者,或因或革,百役并举。大佛殿、千佛阁、三大士殿、藏院、僧堂、库司、三门、两庑,古木、寒泉、剑池、华雨诸亭,则完其旧。祖塔、众寮、仓庾、庖湢,宴休之平远堂,游眺之小吴轩,山之前为重门,则改建使一新。环寺为渠六千余尺,堙于客土,水遏弗行,则疏瀹之。凡其费,一出于经用之羡财,而集众施以助其不给。方谋伐石筑隄,属于城𬮱,以复唐刺史白公故迹。未及庀工,而明公迁主本郡之承天能仁禅寺,爰序其成绩,来取文以记焉。明公材周而智圆,观一切法皆佛法,未尝于一法中妄计“无为有为”而生欣厌。故其经度指授,久而弗懈,阅七年如一日,宜有以溃于成而不愆于素也。前作后述,是在来者,可无以告之,使勿坠其已成之业,而益广其所欲为之志乎?记为兴造而作,山川风物之美,著于前贤纪咏者,此不复出焉。

重紀至元の四年(1338)、今住山・明公、寺事を嗣領し、始めて仏菩薩・阿羅漢・執金剛神を増飾し、文殊・普賢・観世音三大士を更造す。舎利の塔・経律論の蔵を繕治し、銅を範して巨鐘となす。 棟宇の摧堕蠹敝するものを視て、あるいは因りあるいは革し、百役並挙す。 大仏殿・千仏閣・三大士殿・蔵院・僧堂・庫司・三門・両廡、古木・寒泉・剣池・華雨の諸亭は、則ちその旧を完くす。 祖塔・衆寮・倉庾・庖湢、宴休の平遠堂、遊眺の小呉軒、山の前の重門は、則ち改建して一新す。 寺を環りて渠を為すこと六千余尺、客土に堙れ、水遏まりて行かざるを、則ちこれを疏瀹す。 およそその費、一に経用の羨財より出で、衆施を集めてその不給を助く。 まさに石を伐ち隄を築き、城𬮱に属して、以て唐刺史・白公の故迹を復さんと謀る。 未だ工を庀むるに及ばずして、明公本郡の承天能仁禅寺の主に遷る。爰にその成績を序し、来りて文を取りて以て記せん。 明公は材周にして智円なり、一切の法皆仏法と観じ、未だ嘗て一法の中に妄りに「無為・有為」を計りて欣厭を生ぜず。 故にその経度指授、久しくして懈らず、七年を閲ること一日のごとし。宜なるかな、もって成に潰えて素に愆らざる所以あり。 前に作りて後に述ぶる、これ来者に在り、もって告ぐる無くんば、その已に成る業を墜とすこと勿らしめ、いよいよその為さんと欲する所の志を広めしむること、無くば可ならんや。 記は興造の為に作る。山川風物の美、前賢の紀詠に著しきものは、ここに復た出ださず。

『金華黄先生文集』黄溍『虎丘雲岩禅寺興造記』 元至正七年(1347)

虎丘雲岩寺重修記

苏长洲县之西北不十里有山曰虎丘,吴阖闾所葬处。世传既葬,有白虎之异,故名。冈阜盘郁,泉石奇诡,盖晋王珣及弟珉之别墅。咸和二年,捐为寺,始东西二寺,唐会昌中合为一,而名云岩者,昉于宋大中祥符间,载卢熊郡志如此。始清顺尊者主此寺,至隆禅师而复振。历世变故,寺屡坏,辄屡有兴之。洪武甲戌,寺复毁。永乐初,性海主寺,始作佛殿,某作浮图七级,继性海者楚芳作文殊殿。十七年,良价继楚芳。是年作庖库,作东庑,明年,作西庑,作僧舍,又明年,作妙庄严阁。又三年,阁成。盖寺至良价始复完。价所作阁之功最巨,凡三重,崇百二十尺有奇,广八十尺有奇,深六十尺。上奉三世佛及万佛像,中奉观音大士及诸天像。其材之费,为钞三十余万贯,金石彩绘之费六十余万贯。又经营作天王殿,以次成。良玠,杭之海昌人,石庵其字,今僧录阐教止庵其师也。余闻诸刑部主事陈亢宗云,良玠尝从亢宗游,遂因以求余记其成。

蘇州・長洲県の西北十里に満たざる所に山あり、虎丘と曰う。呉の闔閭が葬らるる処なり。世に伝う、葬りし後に白虎の異あり、故にこれを名づくと。岡阜盤鬱、泉石奇詭、けだし晋・王珣およびその弟・珉の別墅なり。咸和二年、捐じて寺となす。始めは東西二寺、唐の会昌中に合して一となる。「雲岩」と名づくるは、宋の大中祥符の間に始まる、と盧熊の郡志に載するごとし。始め清順尊者この寺を主とし、隆禅師に至って復び振るう。世々の変故を歴て、寺は屢々壊れ、輒ち屢々これを興す。洪武甲戌(1394)、寺また毀つ。永楽の初め、性海寺を主とし、始めて仏殿を作る。某は浮図七級を作り、性海を継ぐ楚芳は文殊殿を作る。十七年(1419)、良玠、楚芳を継ぐ。この年、庖庫を作り、東廡を作る。翌年、西廡を作り、僧舎を作る。さらに翌年、妙荘厳閣を作る。また三年にして閣成る。けだし寺は良玠に至って始めて復び完備せり。玠の作る所の閣の功、最も巨なり。凡そ三重、崇さ百二十尺有奇、広さ八十尺有奇、深さ六十尺。上には三世仏および万仏像を奉じ、中には観音大士および諸天像を奉ず。その材の費は、鈔三十余万貫、金石彩絵の費は六十余万貫。また天王殿を経営し作り、次第に成る。良玠は杭州海昌の人、字は石庵、今の僧録闡教止庵はその師なり。余、刑部主事・陳亢宗より聞く、良玠かつて亢宗に従いて遊び、遂に因りて余に成を記すを求むと。

余闻虎丘据苏之胜,岁时苏人耆老壮少闲暇而出游者必之此,士大夫宴饯宾客亦必至此,四方贵人名流之过苏者,必不以事而废游于此也。然亦有兴念夫王氏之尝乐于此者乎? 当是时,王氏父子兄弟,宠禄隆盛,光荣赫奕,举一世孰加也?而能遗弃所乐,轻若脱屣焉者,岂独以为福利之资乎? 其亦审夫富贵之不可久处,与子孙之未必世有者乎?虽其智识趋向高明正大不定,以庶几范希文之为,而无所系累乎外物视。李文饶溺情役志,下至于草木之微者,岂不超然过之也?而自建寺以来,今千余年,虽屡坏而屡兴,其飞甍杰搆,凌切云汉,与其山川相辉焕,称名胜于东南,愈久而不衰者,固佛之道足以鼓动天下,亦必其徒多得夫瑰玮踔绝、刻厉勤笃材智之人,能张大其师之道,以致夫多助之力也。瑰玮踔绝、刻厉勤笃之人,其用意也弘,其立志也确,有不为为之而孰御其成哉?嗟乎!若人也,使就于世用,有不立事建功,而可以裨当时、闻后世哉?吾又以慨夫屡见之于彼,而鲜遇于此也。

余聞く、虎丘は蘇州の勝に拠る。歳時、蘇州の耆老壮少にして閑暇に出遊する者は必ずここに至り、士大夫の賓客を宴餞するもまた必ずここに至る。四方の貴人名流にして蘇州を過ぐる者、必ず事を以てここに遊ぶを廃せず。 しかれども、王氏が嘗てこれに楽しみし所を念興する者、あらんか。当時、王氏の父子兄弟は寵禄隆盛、光栄赫奕、世を挙げて孰かこれに加う者ありや。 しかも能くその楽しむ所を遺棄して、軽きこと屣を脱ぐが如きは、ただ福利の資と為すのみならんや。けだしまた富貴の久しく処すべからざると、子孫の必ずしも世々有らざることを審にせんか。 その智識の趨向は高明正大に未だ定まらず、庶幾わくは范希文の為すところなりて、外物に係累する所なきを以てす。 李文饒の情に溺れ志を役し、下りて草木の微にまで至るに比すれば、超然としてこれに過ぐる、あらずや。 しかして寺を建てしより、今に千余年。屢々壊るるも屢々興り、その飛甍傑構は雲漢を凌切し、その山川と相輝煥して、東南の名勝と称せられ、久しきほどに衰えざる所以は、もとより仏の道、天下を鼓動するに足る、またその徒多く瑰瑋踔絶・刻厲勤篤・材智の人を得て、能くその師の道を張り大いにし、もって多助の力を致すなり。 瑰瑋踔絶・刻厲勤篤の人、その用意や弘く、その立志や確たり、為さざることを為さば、孰かその成を御せんや。 嗟乎、かかる人をして世用に就かしめば、事を立て功を建てずして、当時を裨し後世に聞こゆることなからんや。 吾はまた慨しむ、屢々これを彼に見るも、これを此に遇うことの鮮きを。

『東里文集』巻二十五 楊士奇『虎丘雲岩寺重修記』 明永楽二十二年(1424)

百城煙水

『百城煙水』の虎丘の条は単に雲岩寺塔のみを述べるのではなく、まず虎丘山・雲岩寺と古迹の総目を叙し、次に景点ごとに題詠者を附する形を取ります。原文では詩作を逐一収録しないため、以下にはまず『百城煙水』の虎丘総目を保持します。

虎丘一名海涌,去阊门七里。高一百三十尺,周二百十丈。相传吴王阖闾葬其下,以扁诸之剑、鱼肠三千殉焉。越三日,金精上扬为白虎,故名。初时,白堤未开,山在平田中,一丘耳。南是山径,白居易凿渠以通南北,而达于运河;又缘山麓,凿水四周。今山径自西入。有憨憨泉梁时憨憨尊者遗迹。有吕升卿题字。、试剑石中开如截。亦有绍圣年吕升卿题字,或云秦始皇,或云吴王。、千人石本名千人坐。大石盘陀数亩,高下如刻削。相传生公讲经处。、点头石异僧竺道生讲经于此,人无信者,乃聚石为徒,与谈般若,石皆点头。、白莲池周百三十步,巉石傍出而中有矶。云说法时池生千叶莲花。、养鹤涧在白莲池,云清远道士养鹤于此。僧南印构亭。、剑池谓阖闾葬处。两崖陡削,泉水中深,横架如桥,平穿两孔,上置辘轳汲水,今废。或云秦皇凿山求剑,或云孙权穿之,其凿处遂成深涧。颜真卿书“虎丘剑池”四字。、陆羽石井旁剑池北上。井口方丈馀,四傍石壁,下连石底,泉甘冽,即所品第三泉也。宋绍兴三年,主僧如璧始淘去淤泥五丈许,泉出石脉中,俗名观音泉。郡守沈揆作屋覆之,构亭于旁,其后复废。明正德中,长洲令高第重疏沮洳,构“品泉”“汲清”二亭。王鏊记。今复淤。、响师虎泉梁僧惠响凿石为井,泉涌三丈。或谓虎为之跑,因名虎跑泉,山后仓基上泻泉也。、生公池在西岭上。、洗钵池在罗汉台南。、放生池、洗砚池二池东晋时尚有,今湮。、炼丹井在回仙径南。、走砌石李翱《来南录》观走砌石。、铁花岩在剑池侧。、回仙径相传山之西南是。。晋王珣与弟珉尝据丘为别墅,已而各舍宅,咸和二年,即剑池分建东西二寺。唐避讳名武丘寺,一名报恩寺,会昌间毁,后合为一。

(虎丘総目は極めて長いため、訳文は要点のみを記します。) 虎丘一名海涌、閶門を去ること七里。高さ一百三十尺、周二百十丈。相伝う、呉王闔閭をその下に葬る、扁諸の剣、魚腸三千を以て殉ず。越えて三日、金精上り扬がりて白虎となる、故にこの名あり。初時、白堤未だ開かれず、山は平田の中に在り、ただ一丘のみ。南は山径、白居易、渠を鑿ちて南北を通じ、運河に達せしむ。また山麓に縁って水を四周に鑿つ。今、山径は西より入る。。憨憨泉梁時の憨憨尊者の遺跡。呂升卿の題字あり。・試剣石中開きて截るがごとし。また紹聖年の呂升卿の題字あり。あるいは秦始皇、あるいは呉王と云う。・千人石本の名は千人坐。大石盤陀すること数畝、高下刻削するがごとし。相伝う、生公の経を講ずる処。・点頭石異僧・竺道生ここに経を講ずるに、人信ずるなし。乃ち石を聚めて徒となし、般若を談ず。石みな点頭す。・白蓮池・養鶴澗・剣池闔閭の葬処と謂う。両崖陡削し、泉水中に深し。横架して橋のごとく、平らかに両孔を穿ち、上に轆轤を置きて水を汲む。今は廃す。あるいは云う、秦皇山を鑿ちて剣を求む、あるいは云う、孫権これを穿ち、その鑿る処遂に深澗となる。顔真卿、「虎丘剣池」の四字を書く。・陸羽石井剣池の旁、北に上る。井口方丈余、四旁石壁、下は石底に連なる。泉甘冽、すなわち品する所の第三泉なり。・響師虎泉・生公池・洗鉢池・放生池・洗硯池・煉丹井・走砌石・鉄花岩・回仙径などあり。晋・王珣とその弟・珉、嘗て丘に拠りて別墅となし、已にして各々宅を舎し、咸和二年、剣池に即して分かちて東西二寺を建つ。唐避諱して武丘寺と名づけ、一に報恩寺と名づく。会昌の間に毀ち、後合して一となる。

宋至道中,知州事魏庠奏改云岩寺塔隋时建。《吴郡志》云:初立塔基,掘得一舍利,空中天乐鸣,井中吼三日。,敕赐藏经阁有英宗、神宗颁赐经敕。

宋・至道中、知州事・魏庠奏して改む。雲岩寺塔隋時建。『呉郡志』に云う、初め塔基を立つるに、舎利一を掘得たり。空中に天楽鳴り、井中に吼ゆること三日と。、敕して蔵経閣を賜う英宗・神宗の頒賜の経敕あり。。 その古迹に、梁双殿・生公講台・可中亭・花雨亭・望海楼・古杉・御書閣・致爽閣・陳公楼・小呉軒・千頃雲・五聖台・翻経台・羅漢受戒台・王珣琴台・何胤講堂・平遠堂・通幽軒・楞伽室あり。名迹には、悟石軒・大呉軒・仰蘇楼・梅花楼・東山廟・西山廟・関王廟あり。 (以下、各景点と題詠者の対照については原文を参照されたし。)

『百城煙水』巻一 虎丘

顔魯公文集

我本長殷周,遭罹歷秦漢。四瀆與五嶽,名山盡幽竄。及此寰區中,始有近峰玩。近峰何鬱鬱,平湖渺彌漫。吟挽川之陰,步上山之岸。山川共澄澈,光彩交凌亂。白雲蓊欲歸,青松忽消半。客去川島靜,人來山鳥散。谷深中見日,崖幽曉非旦。聞子盛遊遨,風流足詞翰。嘉茲好松石,一言常累歎。勿謂余鬼神,忻君共幽贊。

清遠道士『沈恭子と虎丘寺に同遊して作有り』 我もと殷周に長じ/遭罹は秦漢を歴たり/四瀆と五嶽/名山ことごとく幽窜す/この寰区の中に及び/始めて近峰の玩あり/近峰なんぞ鬱鬱たる/平湖は渺として弥漫す/川の陰に吟挽し/山の岸に歩上す/山川共に澄澈にして/光彩交わりて凌乱す/白雲蓊として帰らんと欲し/青松忽ち半ば消ゆ/客去りて川島静かに/人来りて山鳥散ず/谷深くして中に日を見/崖幽くして暁にして旦にあらず/子の盛遊遨を聞く/風流足れり詞翰/このよき松石を嘉し/一言常に累歎す/我を鬼神と謂うなかれ/君と共に幽賛するを忻ぶ。

不到東西寺,於今五十春。朅來從舊賞,林壑宛相親。吳子多藏日,秦皇厭勝辰。劍池穿萬仞,盤石坐千人。金氣騰為虎,琴臺化若神。登壇仰生一,舍宅嘆珣珉。中嶺分雙樹,回巒絕四鄰。窺臨江海接,崇飾四時新。客有神仙者,於茲雅麗陳。名高清遠峽,文聚斗牛津。跡異心寧間,聲同質豈均。悠然千載後,知我揖光塵。

顔真卿『清遠道士の詩を刻し、因りて継作す』 東西の寺に到らず/今に五十春/朅来旧賞に従い/林壑宛として相親し/呉子は日を多蔵し/秦皇は厭勝の辰/剣池は万仞を穿ち/盤石は千人を坐す/金気騰がりて虎となり/琴台化して神のごとし/壇に登りて生一を仰ぎ/宅を舎して珣珉を歎ず/中嶺は双樹を分かち/回巒は四隣を絶す/窺臨すれば江海接し/崇飾四時新たなり/客に神仙なる者あり/ここに雅麗を陳ぶ/名は清遠峡に高く/文は斗牛の津に聚まる/迹は異なるも心はなんぞ間あらん/声同じきも質豈に均しからんや/悠然たり千載の後/我を知り光塵に揖す。

『顔魯公文集』「清遠道士の詩を刻し因りて継作す」

松陵集

成道自衰周,避世窮炎漢。荊杞雖云梗,煙霞尚容竄。茲岑信靈異,吾懷愜流玩。石澀古鐵鉎,嵐重輕埃漫。松膏膩幽徑,蘋沫著孤岸。諸蘿幄幕暗,眾鳥陶匏亂。岩罅地中心,海光天一半。玄猿行列歸,白雲次第散。蟾蜍生夕景,沆瀣餘清旦。風日採幽什,墨客學靈翰。嗟予慕斯文,一詠復三嘆。顯晦雖不同,茲吟粗堪贊。

皮日休『清遠道士の詩を追和し、兼ねて本韻に次す』 道を成すは衰周より/世を避けて炎漢に窮まる/荊杞、梗となるとは云うも/煙霞なお竄するを容す/この岑、信に霊異/吾が懐、流玩に愜う/石は澀し古鉄の鉎/嵐は重し軽埃漫々/松膏は幽径に膩く/蘋沫は孤岸に著く/諸蘿の幄幕暗く/衆鳥の陶匏乱る/岩罅地中の心/海光天の一半/玄猿行列して帰り/白雲次第に散ず/蟾蜍は夕景に生じ/沆瀣は清旦に余す/風日に幽什を採り/墨客は霊翰を学ぶ/嗟、予はこの文を慕う/一詠して復た三嘆/顕晦同じからずといえども/この吟、粗ぼ贊するに堪う。

一代先後賢,聲容劇河漢。況茲邁古士,復歷蒼崖竄。辰經幾十萬,邈與靈壽玩。海岳尚推移,都鄙固蕪漫。羸僧下高閣,獨鳥沒遠岸。嘯初風雨來,吟餘鐘唄亂。如何煉精魄,萬祀忽欲半。寧為斷臂憂,肯作秋柏散。吾聞酆宮內,日月自昏旦。左右修文郎,縱橫灑篇翰。斯人久冥漠,得不垂慨歎。庶或有神交,相從重興贊。

陸亀蒙『同前、また本韻に次す』 一代の先後の賢/声容、河漢よりも劇し/いわんや古を邁ゆる士/また蒼崖の竄を歴たり/辰経幾十万/邈として霊寿の玩に与す/海岳なお推移し/都鄙固より蕪漫たり/羸僧高閣を下り/独鳥遠岸に没す/嘯くこと初めには風雨来たり/吟の余り鐘唄乱る/いかんぞ精魄を煉り/万祀忽ち半ばならんと欲す/むしろ断臂の憂をなさんも/肯えて秋柏の散をなさんや/吾聞く、酆宮の内/日月おのずから昏旦/左右の修文郎/縦横に篇翰を洒ぐ/この人久しく冥漠/慨歎を垂れざるを得んや/庶わくは神交あらば/相従いてかさねて贊を興さん。

『松陵集』「清遠道士の詩を追和し、兼ねて本韻に次す」

白居易『武丘寺路』

自开山寺路,水陆往来频。银勒牵骄马,花船载丽人。芰荷生欲遍,桃李种仍新。好住湖堤上,长留一道春。

開山寺の路よりして/水陸の往来頻りなり/銀勒、驕馬を牽き/花船、麗人を載す/芰荷生じて遍からんと欲し/桃李種えてなお新たなり/好し湖堤の上に住し/長く一道の春を留めん。

『御定全唐詩録』白居易『武丘寺路』

劉禹錫『虎丘寺で元相公の二年前の題名を見て怆然として詠ずる有り』

浐水送君君不还,见君题字虎丘山。因知早贵兼才子,不得多时在世间。

浐水、君を送るに君還らず/君の題字を虎丘山に見る/因りて知る、早貴にして才子を兼ぬる者は/多時、世間に在るを得ざることを。

『劉夢得文集』劉禹錫『虎丘寺見元相公二年前題名怆然有咏』

范仲淹『蘇州十詠 その四 虎丘山』

昔见虎耽耽,今为佛子岩。云寒不出寺,剑静未离潭。幽步萝垂径,高禅雪闭庵。吴都十万户,烟瓦亘西南。

昔は見たり、虎の耽耽たるを/今は仏子の岩となれり/雲寒くして寺を出でず/剣静かにして潭を離れず/幽歩、蘿は径に垂れ/高禅、雪は庵を閉ず/呉都十万戸/煙瓦、西南に亘る。

『范文正公忠宣公全集』范仲淹『蘇州十詠』

蘇軾『虎丘寺』

入门无平田,石路穿细岭。阴风生涧壑,古木翳潭井。湛卢谁复见,秋水光耿耿。铁花秀岩壁,杀气噤蛙黾。幽幽生公堂,左右立顽矿。当年或未信,异类服精猛。胡为百岁后,仙鬼互驰骋。窈然留新诗,读者为悲哽。东轩有佳致,云水丽千顷。熙熙览生物,春意颇凄冷。我来属无事,暖日相与永。喜鹊翻初旦,愁鸢蹲落景。坐见渔樵还,新月溪上影。悟彼良自咍,归田行可请。

門に入れば平田なく/石路、細嶺を穿つ/陰風、澗壑に生じ/古木、潭井を翳す/湛盧、誰か復た見ん/秋水の光耿耿たり/鉄花、岩壁に秀で/殺気、蛙黾を噤しむ/幽幽たり生公の堂/左右に頑磺立つ/当年あるいは未だ信ぜず/異類精猛に服す/いかんぞ百歳の後/仙鬼互いに馳騁す/窈然として新詩を留む/読者の為に悲哽す/東軒に佳致あり/雲水千頃に麗なり/熙熙として生物を覧し/春意頗る凄冷/我が来るは無事に属し/暖日相与に永し/喜鵲、初旦に翻り/愁鳶、落景に蹲す/坐して見る、漁樵の還るを/新月、溪上の影/彼を悟りて良ろしく自から咍う/田に帰ること行く行く請うべし。

『蘇軾詩集』蘇軾『虎丘寺』

鄭所南『虎丘寺に宿す』

到晚归不去,因而此宿休。雪深千古寺,月冷一天秋。崖裂池如束,天虚塔欲浮。最宜初日上,高处见烟收。

晩に到りて帰り去らず/因りてここに宿を休む/雪深し千古の寺/月冷ややかなり一天の秋/崖裂けて池は束ぬるがごとく/天虚しくして塔は浮かばんと欲す/最も宜し初日の上るとき/高き処に煙の収まるを見ん。

『虎丘山図志』詩巻之三 鄭所南『虎丘寺に宿す』

楊維楨『虎丘篇』

路出女坟湖,警跸霸王驱。灵池飞霹雳,枯冢走于菟。老禅犹点石,仙鬼只疑狐。祖龙来发閟,银河又飞凫。

路は女墳湖を出で/警蹕、霸王の駆/霊池に霹靂飛び/枯冢に於菟(虎)走る/老禅なお石を点じ/仙鬼ただ狐を疑う/祖龍、来りて閟を発き/銀河また鳧を飛ばす。

『虎丘山図志』巻四 楊維楨『虎丘篇』

倪瓚『虎丘に遊ぶ』

寂寂春阴绿树昏,戎戎山气墨池浑。出林野鹿不多见,隔水幽禽时一喧。杖策偶来观剑石,此生犹拟到云门。谢公雅意无人尚,苔藓惟留岩齿痕。

寂寂たる春陰、緑樹昏く/戎戎たる山気、墨池渾し/林を出ずる野鹿、多くは見えず/水を隔つる幽禽、時に一喧す/杖策して偶々来りて剣石を観る/この生、なお云門に到らんと擬す/謝公の雅意、人として尚ぶものなし/苔蘚ただ岩歯の痕を留む。

『虎丘山図志』倪瓚『虎丘に遊ぶ』

沙門清芭『雲岩塔に登る』

秉情𣨼幽郁,登陟睇遐荒。草滋饕宿雨,林薄回阳光。云飏产孤屿,鹂鸣据高冈。圆吭如有得,轻飙随低昂。澄江界天极,欲济岂无航。眷时遇坎止,韬迹事括囊。志洁道讵昧,时济理自章。世嚣孰解领,朝营夕不忘。先圣去巳远,感拚空慨慷。

情を秉りて幽鬱を懐い/登陟して遐荒を睇る/草は宿雨を饕り滋り/林の薄、陽光を回す/雲飛して孤嶼を産し/鸝鳴いて高岡に拠る/円吭、得る所あるが如し/軽飆、低昂に随う/澄江、天の極を界し/済らんと欲す豈に航無からんや/時を眷みて坎止に遇い/迹を韜みて括嚢を事とす/志潔く道なんぞ昧からん/時済して理自から章なり/世の嚣、孰か解領せん/朝に営みて夕べに忘れず/先聖去ること已に遠し/感拚し空しく慨慷す。

『虎丘山図志』巻四 沙門清芭『雲岩塔に登る』 明・文肇祉輯 万暦刊本

袁袠『虎丘塔』

雁塔翔云表,龙宫涌寺心。乘高宜眺望,暇与登临。山面支硎逼,湖窥震泽深。平生飞动意,慷慨一狂吟。

雁塔、雲表に翔けり/龍宮、寺心に湧く/高きに乗じて宜しく眺望すべし/暇に与に登臨す/山面、支硎を逼り/湖を窺えば震沢深し/平生、飛動の意/慷慨にして一狂吟。

『袁永之集』巻六 袁袠『虎丘塔・王太史縄武と同賦』

古写真

1929

オスヴァルド・シーレン『A History of Early Chinese Art』(1929)の付録「中国の景観」には、蘇州・虎丘・虎丘塔の写真が収録されています。下記の写真は中訳本『西洋鏡・中国早期美術史(下)』図 116–117 の対応頁から切り取り整理したものです。

1939

常盤大定・関野貞『支那文化史蹟』第四輯には、虎丘・雲岩寺、虎丘大塔、陀羅尼幢および大塔細部などの図版が収録されています。下記の写真は第四輯図 15–17 から切り取り整理したものです。図 16・図 17 の原頁はいずれも一頁二図です。