はじめに
白馬寺の名は、後世の文献が繰り返し語る「白馬駄経」の物語に由来する。『洛陽伽藍記』によれば、漢の明帝は光を放つ金神を夢見、西域に仏のあることを知って使者を遣わし経像を求めさせた。経像は白馬に負われて洛陽に至り、そこで寺を建て「白馬」をもって名としたという。唐代の『古今訳経図紀』はまた、蔡愔ら十八人が迦葉摩騰・竺法蘭を迎えて洛陽に入り、摩騰が寺中で『四十二章経』を訳したことを記す。『洛陽伽藍記』は白馬寺を「仏の中国に入るの始め」と称し、宋代の重修碑は「中国招提の始め」と称する。
北宋の太祖の時、970年前後、開国の武将である李継勲が私財をもって旧寺の東にあらためて東白馬寺と九層の木塔を建てた。李継勲は死後に隴西郡王を追封され、荘武と諡された。金の碑がゆえに彼を「荘武李王」と称するのはこのためである。その三子はさらに百間近い房舎を寄進し、父母の忌日に僧に斎を設けて追薦した。約百五十年後、靖康元年(1126)の歳末、東白馬寺と木塔は「劫火」によって焼失した。元代の碑文もまた白馬寺本寺が靖康の兵火に毀たれたことを記す。
東白馬寺の残址は五十年にわたって荒廃し、「瓦子の堆、茂草の場」となった。彦公は洛陽に至った後、木塔の旧基を清め、工を募って甎を製し、高さ百六十尺の十三層の甎塔を築き上げ、あわせて護塔の墻・井・焚経台・塔門および屋宇を修築した。大定十五年(1175)、塔院の工事は落成した。金代に回復されたのは寺東の塔院であり、元代に至ってようやく白馬寺本寺が再建された。至元七年(1270)、チベット仏教の法王パクパが仏法の初伝と最初の寺院について問うと、行育は白馬寺をもって答え、その営建を請うた。以後、丹巴が督弁を担い、護国仁王寺の田租を借りて土木の費に充てた。元の世祖の子である真金は当時すでに皇太子であり、帛幣をもって工事を助けた。工事は前後およそ二十四年に及び、九楹の大殿、五楹の法堂、三門、楼閣、僧房、斎厨、庫房を建てた。大德四年(1300)の落成の後、朝廷はさらに田千六百頃を賜って恒産とした。
明代にもなお幾度かの増修があった。旧志は洪武二十三年(1390)に白馬寺を修めたことを記す。嘉靖三十四年から三十五年(1555—1556)にかけて、黄錦が俸を捐じ、李奉義が主となって拡建した。碑文が挙げる項目には、前後の大殿、左右の配殿、天王殿、鐘鼓楼、礼賢堂と演法堂、および清凉台上の重檐殿、摩騰・法蘭二祖の配殿が含まれる。台下にはさらに二か所の禅院が建てられ、寺内には静舎あわせて百二十間があった。殿中には諸仏・羅漢・護法の像が新たに塑され、寺外には「古刹白馬禅林」の石坊が立てられた。
清初の戦乱の後、碑文は寺内の「金粉零星、土木凋残」を記す。如琇と地方の山主は寺中の数株の古柏を売り、これに寺田の収入、知県の高鎬が捐じた俸、および地方の施助を加え、数年の間に毗盧閣・大殿・山門・配殿を修復した。康熙五十二年(1713)、「洛京白馬寺釈教源流碑記」が立石された。康熙五十五年(1716)、「重修釈源大白馬寺殿宇碑記」が工事の経過を記録した。1934年に滕固が寺を訪れたとき、彼はなお嘉靖の山門から入り、順に天王殿・大殿・法堂・接引殿を経て、最後に清凉台に登った。寺東にはまた金代に再建された十三層の甎塔があった。
歴史文献
『洛陽伽藍記』
白马寺,汉明帝所立也。佛入中国之始。寺在西阳门外三里御道南。帝梦金神,长丈六,项背日月光明。金神号曰佛,遣使向西域求之,乃得经像焉。时白马负而来,因以为名。明帝崩,起祗洹于陵上。自此从后,百姓冢上或作浮图焉。寺上经函,至今犹存。常烧香供养之,经函时放光明,耀于堂宇。是以道俗礼敬之,如仰真容。浮屠前柰林蒲萄异于余处,枝叶繁衍,子实甚大。柰林实重七斤,蒲萄实伟于枣,味并殊美,冠于中京。帝至熟时,常诣取之。或复赐宫人,宫人得之,转饷亲戚,以为奇味。得者不敢辙食,乃历数家。京师语曰:“白马甜榴,一实直牛。”有沙门宝公者,不知何处人也。形貌丑陋,心机通达,过去未来,预睹三世。发言似谶,不可解,事过之后,始验其实。胡太后闻之,问以世事。宝公曰:“把粟与鸡呼朱朱。”时人莫之能解。建义元年,后为尔朱荣所害,始验其言。时亦有洛阳人赵法和请占早晚当有爵否。宝公曰:“大竹箭,不须羽;东厢屋,急手作。”时不晓其意,经十余日,法和父丧。大竹者,杖;东厢屋者,倚庐。造《十二辰歌》,终其言也。
白馬寺は漢の明帝が建立したものである。仏の中国に入るの始めである。寺は西陽門外三里、御道の南にある。帝は金神を夢見た。丈六の高さで、項と背に日月の光明があった。金神は佛と号し、使いを遣わして西域にこれを求めさせ、こうして経像を得た。時に白馬がこれを負って来たので、これをもって名とした。明帝が崩じると、陵の上に祗洹を起てた。これより後、民の冢の上にも時に浮図を作るようになった。寺の経函は今なお存する。常に香を焚いてこれを供養したが、経函は時に光明を放ち、堂宇を照らした。それゆえ道俗はこれを礼敬すること、真容を仰ぐがごとくであった。浮屠の前の柰林と蒲萄は他所と異なり、枝葉は繁茂し、実は甚だ大きい。柰林の実は重さ七斤、蒲萄の実は棗よりも大きく、味わいはともにことのほか美で、中京第一であった。帝は熟する時に至ると、常に赴いてこれを採った。あるいは宮人に賜い、宮人はこれを得ると、親戚に転じ贈って珍味とした。得た者は敢えてすぐには食べず、数家を歴めぐった。京師の語に曰く、「白馬の甜榴、一実、牛に直たる」と。沙門に宝公という者がいたが、いずこの人か知れぬ。形貌は醜陋であったが、心機は通達し、過去未来を予め三世に睹た。その発言は讖のようで解しがたく、事が過ぎた後に始めてその実が験された。胡太后がこれを聞き、世事を問うた。宝公は曰く、「粟を把りて鶏に与え、朱朱と呼ぶ」と。時の人は誰もこれを解しえなかった。建義元年、太后は爾朱栄に害され、始めてその言が験された。時にまた洛陽の人、趙法和が早晩に爵位を得るかどうかを占ってほしいと請うた。宝公は曰く、「大竹の箭、羽を須いず。東廂の屋、急ぎ手ずから作れ」と。時にはその意が分からなかったが、十余日を経て、法和の父が亡くなった。大竹とは杖のこと、東廂の屋とは倚廬(喪の仮小屋)のことであった。『十二辰歌』を造って、その言を終えた。
『古今訳経図紀』
后汉刘氏都洛阳。
後漢の劉氏は洛陽に都した。
惟孝明皇帝以永平三年岁次庚申,帝梦金人,项有日月光飞来殿庭,上问群臣,太史傅毅对曰:“臣闻西域有神号之为佛。陛下所梦固其是乎。”至七年岁次甲子,帝敕郎中蔡愔、中郎将秦景博士王遵等一十八人,西寻佛法。愔等至印度国,请迦叶摩腾、竺法兰共还,用白马驮经并将画释迦佛像,以永平十年岁次丁卯,至于洛阳。帝悦造白马寺。
ほかならぬ孝明皇帝は、永平三年、歳次庚申に、金人が項に日月の光を帯びて殿庭に飛び来るを夢見た。上は群臣に問い、太史の傅毅が対えて曰く、「臣は聞く、西域に神ありてこれを佛と号すと。陛下の夢みたまいしは、まことにこれではございますまいか」と。七年、歳次甲子に至り、帝は郎中の蔡愔、中郎将の秦景、博士の王遵ら一十八人に敕して、西に佛法を尋ねさせた。愔らは印度国に至り、迦葉摩騰・竺法蘭を請うて共に還り、白馬をもって経を駄わせ、あわせて画かれた釈迦仏像を将え、永平十年、歳次丁卯に洛陽に至った。帝は悦んで白馬寺を造った。
至十四年岁次辛未正月一日,五岳道士楮善信等负情不悦。因朝正之,次表请较试,敕遣尚书令宋庠引入长乐宫。帝曰:此月十五日,大集白马寺南门。尔日信等以灵宝诸经置道东坛上,帝以经像舍利置道西七宝行殿上,信等绕坛涕泣,稽请天尊,词情恳切。又以栴檀柴等烧经,冀经无损以为神异。然所烧经并从灰烬,先时升天入火,履水隐形,皆不复能,善禁咒者呼策不应。
十四年、歳次辛未の正月一日に至り、五岳の道士である楮善信らは心に不服で悦ばなかった。そこで朝正(新年の朝賀)の折に、次いで表を奉って較試を請い、帝は敕して尚書令の宋庠を遣わし、彼らを長楽宮に引き入れさせた。帝は曰く、この月の十五日、白馬寺の南門に大いに集まれと。その日、善信らは霊宝の諸経を道の東の壇上に置き、帝は経像と舎利を道の西の七宝の行殿の上に置いた。善信らは壇を繞りて涕泣し、天尊に稽首して請い、その言葉と情は懇切であった。また栴檀の薪などをもって経を焼き、経が損なわれずに神異となることを冀った。しかし焼いた経はことごとく灰燼と化し、以前は天に升り火に入り水を履み形を隠すことができたのに、みなもはやできず、禁咒を善くする者が呼び策しても応じなかった。
时,太傅张衍语信曰:“所试无验即是虚妄,宜就西域真法。”时,南岳道士费叔才等惭忸,自感而死。时,佛舍利光明五色,直上空中,旋环如盖,遍覆大众,映蔽日轮。摩腾法师先是阿罗汉,即以神足游空飞行坐卧神化自在。时,天雨宝花及奏作众乐。感动人情,大众欢悦。摩腾复坐,法兰说法。时,众咸喜得未曾有。
時に、太傅の張衍が善信に語りて曰く、「試みて験なきは即ちこれ虚妄なり。よろしく西域の真法に就くべし」と。時に、南岳の道士である費叔才らは恥じ入り、自ら感じて死んだ。時に、仏舎利の光明は五色となり、まっすぐ空中に上り、旋り環りて蓋のごとく、あまねく大衆を覆い、日輪を映し蔽った。摩騰法師は先に阿羅漢であったので、すなわち神足をもって空を遊び、飛行・坐臥し、神化自在であった。時に、天は宝花を雨らし、また衆楽を奏でた。人の情を感動させ、大衆は歓悦した。摩騰は再び坐り、法蘭が法を説いた。時に、衆はみな未曾有を得たことを喜んだ。
时,后宫阴夫人王婕妤等,一百九十人出家,司空阳城侯刘善峻镇远将军姜苟儿等二百六十八人出家,四岳道士吕慧通等六百二十人出家,京都男女张子尚、阿潘等三百九十一人出家,帝亲与群官为出家者剃发,给施供养经三十日造寺十所。城外七寺城内三寺,七寺安僧三寺安尼,具如汉明帝法本内传说。
時に、後宮の陰夫人・王婕妤ら一百九十人が出家し、司空の陽城侯劉善峻、鎮遠将軍の姜苟児ら二百六十八人が出家し、四岳の道士である呂慧通ら六百二十人が出家し、京都の男女である張子尚・阿潘ら三百九十一人が出家した。帝は自ら群官とともに出家者のために剃髪し、施しを給いて供養すること三十日、寺十所を造った。城外に七寺、城内に三寺、七寺は僧を安んじ三寺は尼を安んじた。つぶさには『漢明帝法本内伝』の説くごとくである。
沙门迦叶摩腾中印度人,婆罗门种。幼而敏悟兼有风姿,博学多闻特明经、律,思力精博,探赜钩深,敷文析理,每有新义出于神表尝游西印度有一小国,请腾讲金光明经,俄而邻国兴师而来,既将践境,辄有事碍,兵不能进。彼国兵众疑有异术。密遣使觇,但见君臣安然共听,其所讲大乘经,明地神王护国之法。于是彼国既睹斯神验,请和求法。时,蔡愔等殷请于腾,腾遂与愔等俱来见。帝于洛阳,以永平十年岁次丁卯,于白马寺译四十二章经此经本是外国经抄。腾以大化初传,人未深信,蕴其妙解,不即多翻,且撮经要,以导时俗,腾后终于洛阳。
沙門の迦葉摩騰は中印度の人、婆羅門の種である。幼くして敏悟でありあわせて風姿があり、博学多聞にして特に経と律に明るく、思力は精博で、隠れたものを探り深きを鉤り、文を敷き理を析き、常に神表を出づる新義があった。かつて西印度に遊んだとき、一つの小国があって、摩騰に金光明経を講ずるを請うた。にわかに隣国が師を興して来たり、まさに境を践もうとしたとき、たちまち事の碍りがあって、兵は進めなかった。かの国の兵衆は異術があるかと疑い、密かに使いを遣わして覘わせたが、ただ君臣が安然として共に聴いているのを見るのみであった。その講ずるところは大乗経であり、地神王が国を護る法を明かすものであった。そこでかの国はこの神験を睹るや、和を請い法を求めた。時に、蔡愔らが摩騰に殷ねて請い、摩騰はついに愔らと俱に来た。帝は洛陽において、永平十年、歳次丁卯に、白馬寺で四十二章経を訳した──この経はもと外国の経の抄である。摩騰は大化が初めて伝わり、人がいまだ深く信じないゆえに、その妙解を蘊めて、すぐには多くを翻さず、しばらく経の要を撮って、もって時俗を導いた。摩騰は後に洛陽で終わった。
沙门竺法兰中印度人,少而机悟,淹雅博爱,多通禅思,毗尼莫不穷妙,诵经百余万言,学徒千余,居不求安,常怀弘利,戒轨严峻,众莫能窥。遇愔求请,便有轻舁之志,而国主不听,密与腾同来,间行后至,以汉明帝时,初共腾译四十二章经,腾卒。兰以永平十一年岁次戊辰至十三年庚午自译佛本行经十地断结经法海藏经佛本生经二百六十戒合异总五部一十六卷初武帝穿昆明池得灰墨,问东方朔,朔云:“可问西域胡人。”法兰既至,时以追问。兰曰:“此是劫烧之灰。”又将优填王旃檀像样至洛。帝即敕令图写供养。
沙門の竺法蘭は中印度の人。少くして機悟であり、淹雅博愛にして、多く禅思に通じ、毗尼(律)は窮め妙めぬところなく、経を誦すること百余万言、学徒は千余、居に安きを求めず、常に弘利を懐き、戒律の規律は厳峻で、衆は誰もその深きを窺うことができなかった。蔡愔の求め請うに遇い、すぐに軽やかに身を運ぶ志を抱いたが、国主が聴さなかったので、密かに摩騰と同じく来たり、間道を行きて後れて至った。漢の明帝の時に、初めは摩騰と共に四十二章経を訳し、摩騰が卒した。法蘭は永平十一年、歳次戊辰から十三年庚午に至るまで、自ら『仏本行経』『十地断結経』『法海蔵経』『仏本生経』、および二百六十戒の異を合わせたもの、あわせて五部一十六巻を訳した。かつて武帝が昆明池を穿ったとき灰墨を得て、東方朔に問うと、朔は云く、「西域の胡人に問うべし」と。法蘭が至るや、その時になって追って問うた。法蘭は曰く、「これは劫焼の灰なり」と。また優填王の旃檀像の様を将えて洛に至った。帝はすぐに敕して図写させ供養した。
『摩騰入漢霊異記』
摩腾人汉灵异记摩腾入汉灵异记已已之岁,四月八日,孝明皇帝驾幸鸿庐卿寺,谒二三藏,问对数次,弥加礼重。得迦叶摩腾口:陛下日:寺之东邻,是何馆室?皇帝曰:彼中畴昔无故,忽然勇起,可及丈余,人或之平,寻复隆阜,其上往往时发光明,民所异之。乃闻上国政,因该祀典,遂名洛阳土地之神。
摩騰入漢霊異記。己巳の歳、四月八日、孝明皇帝は鴻臚卿寺(鴻臚寺)に駕幸し、二三蔵に謁し、問対すること数次、いよいよ礼を重んじた。迦葉摩騰を得て□、陛下曰く、寺の東隣は、これ何の館室ぞ、と。皇帝曰く、あの中は、むかし故なくして、忽然と勇み起こり、丈余に及ぶほどになった。人が或いはこれを平らにしても、ほどなくまた隆く阜となった。その上には往々にして時に光明を発し、民はこれを異とした。そこで上国の政に聞こえ、よって祀典に該り、ついに「洛陽土地の神」と名づけた、と。
其所阜者,土俗谓之圣冢。今在庭中,凡所祝告,皆随恳愿。自口而下,蝉联命享,情未知由三藏昏。噫!余尝于中印度躬览合藏,其中所云:如来灭度百年之后,有阿恕伽王,起八方四千七宝塔,安佛舍利。那阎罗汉运以神通,将右手掩曰,放八万四于光,摄众宝塔口彼光内,旁视四维,上极空界,八万四于同时而葬。文曰:东土支𨛥有一十九处,云目有口,口时而出。余今至此,屡日神光,无异中印口光明口。今陛下所言圣冢者,乃十九数中之一,必不虚焉。是时,二三藏遂命皇帝囗百寮同诣彼庙,列圣冢之前。三藏敷座,兴而归礼。皇帝与宰臣亦礼。当礼次,圣冢上现一圆相影。二三藏礼皇帝三身,如鉴照容,分明内现。其余臣寮,但睹其光,不现其身,口相谓曰:我辈寡福,不现其身。
その阜となったところを、土俗はこれを「聖冢」と謂う。今は庭中にあり、およそ祝告するところ、みな懇願に随う。□より下、蝉聯として命享(祭享)し、その由来はいまだ知られなかった──三蔵にも昏(くら)き〔ところ〕であった。噫(ああ)!余はかつて中印度において躬から全蔵を覧たが、その中に云うところによれば、如来滅度の百年の後、阿恕伽王(阿育王)ありて、八方に四千(八万四千)の七宝塔を起て、仏舎利を安んじた。那〔耶舎〕阿羅漢は神通をもって運び、右手を将て日を掩い、八万四〔千〕の光を放ち、衆宝塔を摂めてかの光の内に□〔置き〕、傍らに四維を視、上は空界を極め、八万四〔千〕は同時に葬られた。文に曰く、東土の支那(支𨛥)に一十九処あり、〔その光は〕□□時ありて出づ、と。余は今ここに至り、屡日神光あり、中印〔度の〕光明〔と〕異なることなし。今、陛下の言う聖冢なる者は、すなわち十九数の中の一つであり、必ず虚しからざるなり、と。この時、二三蔵はついに皇帝〔と〕百寮に命じて同じくかの廟に詣らせ、聖冢の前に列ねさせた。三蔵は座を敷き、興ちて帰礼した。皇帝と宰臣もまた礼した。礼するの次、聖冢の上に一つの円相の影が現れた。二三蔵が礼するや、皇帝の三身が、鑑が容を照らすがごとく、分明に内に現れた。その余の臣寮は、ただその光を睹るのみで、その身は現れず、口々に相謂いて曰く、我輩は福寡なくして、その身現れず、と。
由是口口口各见口身独在光内,皆日其口偏照于我。已而二三藏以梵语口口而众咸称,未之如也。时皇帝圣情悦怿,口囗素口感恨流涕,语二二藏曰:朕若不偶二师,口能觉佛遗祐矣。自是方深信释迦牟尼真身舍利之塔也。皇帝遂敕所师,令禀三藏制度,崇是浮啚。自是年二月一日起口,至庚午岁十二月八日,合功告毕。凡口口高五百尺,岌若岳时。塔口齐云,寺通白马。至后周二年四月八日,塔上现五色神光,天香氛氲,冈知何至,而自光中口一金掌,持起宝塔,可高尺余,色如琉璃,内外明澈。自午及申,口口方隐。时皇帝洎宰臣并士庶,咸瞻胜相,钦玩无数。人之右绕,光亦右绕,人之左旋,光亦左于,皆悉叹仰,不知所以然而然也。当是囗口口千众中,有梵僧九口侩伽摩罗等,咸谓正是阿怨伽王口口所造之塔口样也。
これによって□□□おのおの□身の独り光内にあるを見、みな其の□〔光〕が偏に我を照らすと曰った。已にして二三蔵が梵語をもって□□〔讃嘆〕すると、衆はみな未だこれのごときを見ずと称した。時に皇帝の聖情は悦怿し、□□〔しきりに〕感恨して涕を流し、二三蔵に語りて曰く、朕もし二師に偶わずんば、□〔いかで〕仏の遺祐を覚りえんや、と。これより始めて釈迦牟尼の真身舎利の塔なるを深く信じた。皇帝はついに所師(所司)に敕し、三蔵の制度に禀るを令じ、この浮図(浮啚)を崇建させた。この年の二月一日より起□〔首し〕、庚午の歳十二月八日に至り、その功を合わせ告げ畢えた。およそ□□〔高さ〕五百尺、岌として岳のごとくにそびえた。塔は□〔斉〕雲に〔至り〕、寺は白馬に通ず。後周二年四月八日に至り、塔上に五色の神光が現れ、天香が氛氲として、いずくより至るかを知らず、光の中より□〔一つの〕金掌〔出で〕、宝塔を持ち起こしたが、高さ尺余ばかり、色は琉璃のごとく、内外明澈であった。午より申に及び、□□〔ようやく〕隠れた。時に皇帝ならびに宰臣ならびに士庶は、みなこの勝相を瞻て、欽み玩ぶこと無数であった。人が右に繞れば、光もまた右に繞り、人が左に旋れば、光もまた左に〔旋った〕。みなことごとく歎き仰ぎ、そのしかる所以を知らずしてしかるのであった。この□□□〔数〕千の衆の中に、梵僧九〔人〕あり、僧伽摩羅らはみな謂えらく、まさにこれ阿恕伽王(阿怨伽王)が□□〔七宝〕をもって造った塔の□〔真〕の様なり、と。
竺乾亦有三处,我曾数礼奉,因是灵感,弥益信心,口流终古。
竺乾(天竺)にもまた三処あり、我はかつて数たびこれを礼奉した。これによる霊感によって、いよいよ信心を益し、〔慶〕は終古に□〔流れ〕〔ん〕。
长兴二年二月八日记。
長興二年二月八日に記す。
巨宋天禧五年正月七曰重建西蜀武都山侩景遵书。
巨宋の天禧五年正月七日、重建す。西蜀武都山の僧景遵書す。
西京口囗口白马寺主净口大师赐紫文翊。景遵无书名,而字体绝类圣教序。北宋人书,犹有晋唐风格,良可爱也。按河南通志:白马寺在河南府城东。汉明帝时,摩腾、竺法兰始自西域以白马驮经来,初止鸿胪寺,遂取寺为名,置白马寺。通志但详兴建之始,而于入汉灵异,无一语及之,殆亦以此裨所载语近夸诞,不足录也。摩腾事详高僧传,巳见前卷。裨云:已巳之岁四月八曰,孝明皇帝驾幸鸿胪卿寺。此指汉明帝也。已巳为永平十二年,明帝以永平七年正月十五日,梦金人,遂遣王遵等西访佛法,至月氏,遇摩腾、竺法兰,将四十二章经,载以白马,同回洛阳。时十年丁卯十二月三十日也。此则纪十二年帝幸鸿胪寺礼圣冢,因建浮图事。然前巳云已。巳岁四月八曰后云自是年二月一日起,至庚午年十二月八日功毕,先四月而后二月,其语不可解也。
西京〔の〕□□□白馬寺主、浄□大師、賜紫の文翊。景遵は書名(筆者名)を記さないが、字体は絶えて聖教序に類する。北宋人の書でありながら、なお晋唐の風格があり、まことに愛すべきである。〔王氏の按じて曰く〕河南通志を按ずるに、白馬寺は河南府城の東にあり。漢の明帝の時、摩騰・竺法蘭が初めて西域より白馬をもって経を駄い来たり、初めは鴻臚寺に止まり、ついに寺を取りて名とし、白馬寺を置いた。通志はただ興建の始めを詳らかにするのみで、入漢の霊異については、一語もこれに及ばない。おそらくこれもまた、この碑(裨)の載せるところの語が誇誕に近く、録するに足らずとしたためであろう。摩騰の事は高僧伝に詳らかで、すでに前巻に見える。碑(裨)に云く、己巳の歳四月八日、孝明皇帝は鴻臚卿寺に駕幸す、と。これは漢の明帝を指す。己巳は永平十二年である。明帝は永平七年正月十五日に金人を夢見、ついに王遵らを遣わして西に佛法を訪ねさせ、月氏に至り、摩騰・竺法蘭に遇い、四十二章経を将え、白馬に載せ、同じく洛陽に回った。時に〔永平〕十年丁卯十二月三十日である。これはすなわち十二年に帝が鴻臚寺に幸して聖冢を礼し、よって浮図を建てた事を紀すものである。しかるに前にすでに己巳と云う。己巳の歳四月八日の後に「この年の二月一日より起こし、庚午の年十二月八日に功畢う」と云い、四月を先にして二月を後にしており、その語は解しがたい。
又云:后周二年四月八日,塔现五色神光,末云长兴二年二月八日。记所称后周,不知何时?若云五代之后周,则不应在长兴之前。若云字文周,则无年号可纪,不知为何帝之二年。文之谬悠如此。至其以鸿庐为鸿胪,以所师为所司,又不足论巳。
また云く、後周二年四月八日、塔に五色の神光現ると。末には長興二年二月八日と云う。記に称するところの「後周」は、いつのことか知れない。もし五代の後周を云うのであれば、長興の前にあるべきではない。もし宇文の周(北周)を云うのであれば、紀すべき年号がなく、いずれの帝の二年か知れない。文の謬りていい加減なることこのごとくである。その「鴻臚」を「鴻庐」となし、「所司」を「所師」となすに至っては、また論ずるに足らないのである。
「賜白馬寺及興教塔額牒」
赐白马寺及兴教塔额牒𣟒垢净光大饱罗尼经:中书门下牒:河南府、河南府丨白马寺自有唐时额号,年代深远,碑记全无,伏乞爯降牌额,只以仍旧白马寺为名。准敕牒,奉敕,依口只以白马寺为额,仍令本府制造牌额悬挂。牒至准宋天禧五年正月十五日劫故。口端拱二年五月四日,户部侍郎、参知政事王,户部侍郎、参知政事辛,中书侍郎兼户部尚书、平章事吕,河南府怙白马寺右准劫命如前,已帖客司军将,仰详劫命指挥,追勒木作匠人,于系场务取射材桓,制造白马寺牌额及敕口凵囗街僧司仰指挥囗请领赴寺,于舍利塔院门上悬挂。事须头连口凵帖本寺,亦仰详敕命指挥施行,无至有违。端拱二年五月十九日,帖权知司录参军事、权推官路国子博士、通判府事祖给事中、知留府事口中书门下牒:河南府西京左街白马东寺塔牒,奉。
白馬寺および興教塔の額を賜う牒。〔無〕垢浄光大陀羅尼経(大饱羅尼経)。中書門下の牒す。河南府に〔宛つ〕。河南府──白馬寺は唐の時より額号を有していたが、年代深遠にして碑記が全く無いので、伏して額を降されんことを乞い、ただ旧のごとく「白馬寺」をもって名とせんことを〔請う〕。敕牒に准じ、敕を奉ずるに、〔請うところに〕依り、ただ「白馬寺」をもって額となし、なお本府をして牌額を制造して懸掛せしめよ、と。牒至らば准ぜよ。宋の天禧五年正月十五日、旧きに劫(拠)る。□端拱二年五月四日、戸部侍郎・参知政事の王、戸部侍郎・参知政事の辛、中書侍郎兼戸部尚書・平章事の呂、河南府〔に宛つ〕。白馬寺──右、前のごとく敕命(劫命)に准じ、すでに客司の軍将に帖し、敕命の指揮を詳らかにするを仰ぎ、木作の匠人を追い勒し、系場務において材桓を取り、白馬寺の牌額を制造せしむ。および敕〔命の……〕□〔本〕街の僧司に、指揮を仰ぎ、□請領して寺に赴き、舎利塔院の門上に懸掛せしめよ。事は須らく頭より連ね〔て〕□〔本〕寺に帖すべく、また敕命の指揮を詳らかにして施行するを仰ぎ、違うことあるに至らしむるなかれ。端拱二年五月十九日、権知司録参軍事・権推官の路、国子博士・通判府事の祖、給事中・知留府事の□に帖す。中書門下の牒す。河南府〔に宛つ〕、西京左街白馬東寺の塔〔について〕。牒、奉ず。
敕命指挥施行讫申者。
敕命の指揮を施行し訖りて申す者〔なり〕。
右具如前事须连录敕黄,帖本寺,切详敕命指挥,仰知委讫,申待府,无至有违。景德四年月𣵓囗口左街讲论首座、知教门事口凵左街僧录司帖白马寺舍利塔缺。
右、つぶさに前のごとし。事は須らく敕黄(黄紙の敕)を連ね録し、本寺に帖し、切に敕命の指揮を詳らかにし、知り委ね訖るを仰ぎ、待府に申し、違うことあるに至らしむるなかれ。景徳四年□月□□左街の講論首座、知教門事の□。左街僧録司、白馬寺舎利塔に帖す〔以下〕欠。
奉府帖,准敕命如前。已帖客司军将囗敕命指挥,追勒木作匠人缺取射材植,置造。白马寺牌缺劫口口。本街僧司仰指挥本寺缺口请领赴寺,于舍利塔院门上缺。
府帖を奉じ、前のごとく敕命に准ず。すでに客司の軍将に帖し□敕命の指揮〔にて〕、木作の匠人を追い勒し〔以下〕欠、材植を取り、置造す。白馬寺の牌〔以下〕欠、敕(劫)□□。本街の僧司、本寺に指揮するを仰ぎ〔以下〕欠、□請領して寺に赴き、舎利塔院の門上に〔懸掛せしめよ、以下〕欠。
右奉府帖,准敕命指挥如前事,须帖本寺主僧赐紫行显口三口前项事由及襄命指挥,赴囗口口口寺牌额于塔院门上悬挂,无至有违。端拱二年五月廿三日帖首座知教门事圆明大师泐天禧五年正月十五日,寺主口慧大僧处囗书。口元口隽。
右、府帖を奉じ、前のごとく敕命の指揮に准ず。事は須らく本寺の主僧、賜紫の行顕に帖すべく□三□前項の事由および敕命(襄命)の指揮〔を〕、□□□〔に〕赴き、寺の牌額を塔院の門上に懸掛し、違うことあるに至らしむるなかれ。端拱二年五月廿三日、首座・知教門事の円明大師に帖す。泐(欠)。天禧五年正月十五日、寺主〔なる〕□慧大僧の処に□書す。□元□隽。
右下遇我碑刻敕牒与河南府僧录司帖,而额题无垢净光大陁罗尼经九字,殊不可解。疑碑磨旧刻为之,而额未改也。端拱二年平章事吕者,吕蒙正也。参知政事王者,王沔也。辛者,辛仲甫也。景德四年平章事王者,王旦也。参知政事赵者,赵安仁也。冯者,冯拯也。系官与表传皆同,惟赵安仁左谏议大夫,表传皆作右,当据碑以正之。
〔趙氏の按じて曰く〕右、下、我が碑刻の敕牒と河南府僧録司の帖とに遇うが、額題の「無垢浄光大陀羅尼経」の九字は、まことに解しがたい。疑うらくは碑は旧刻を磨りてこれを為したが、額はいまだ改められていないのであろう。端拱二年の平章事の呂は、呂蒙正である。参知政事の王は、王沔である。辛は、辛仲甫である。景徳四年の平章事の王は、王旦である。参知政事の趙は、趙安仁である。馮は、馮拯である。列ねられた官は表・伝といずれも同じであるが、ただ趙安仁は〔ここでは〕左諫議大夫〔とあり〕、表・伝はみな右に作る。当に碑に拠りてこれを正すべきである。
「皇大宋重修西京白馬寺記」
西京自马寺记皇大宋重修西京白马寺记:翰林学士承旨、朝请大夫、中书舍人、上柱国、赐紫金简奉、翰林院待诏、朝奉郎、秘书丞同正兼御书院口候赐口口口口口文口口东周旧壤,西洛名都,景气𬈖无龟负书之川,平隰驮经之地。考其由,为中国招提之始,语之朝而久郁𮂒苻灵有宁,法天崇道,皇拱北辰,委摄提而重街,纳生民于寿己。无为之化,授记之言,鸿名崇十号,皇居峻三休之妙,坐致之安于冰天法浪海扬帆,颁贝叶之书,西洎流沙。行之能事著矣,阴腾之元功大矣。居一日,谓近臣曰:朕尝造化,穷研载藉,祀彼河海,犹分其先后,本其根源。
西京白馬寺記。皇大宋重修西京白馬寺記。翰林学士承旨・朝請大夫・中書舍人・上柱国・賜紫金〔魚袋〕、簡(蘇易簡)奉じて〔撰す〕。翰林院待詔・朝奉郎・秘書丞同正兼御書院□候賜□□□□□文□□。東周の旧壌、西洛の名都、その景気は〔かがやき〕、亀が書を負うた川なく〔ならず〕、〔白馬が〕経を駄うた地〔なり〕。その由を考うるに、中国招提(寺院)の始めであり、これを語るに、朝〔久しく〕して久しく鬱していたが、〔霊なる王朝ありて〕苻き寧んずるに霊あり、法天崇道〔の皇帝〕、皇は北辰を拱き、摂提(歳星の標)を委ねて重ねて〔歳紀を〕張り、生民を寿己(長寿)に納れた。無為の化、授記(予言)の言、鴻名は十号を崇くし、皇居は三休の妙を峻くし、坐して安きを致し、冰天において法波は帆を扬げ、貝葉の書を頒ち、西は流沙に洎ぶ。その行いの能事は著るしく、〔摩騰の〕陰騰(隠れた伝法)の元功は大なり。ある日、近臣に謂いて曰く、朕はかつて造化を〔究め〕、載籍を穷研したが、かの河海を祀るにも、なおその先後を分かち、その根源に本づく、と。
观夫像教斯来,真诚下济,竺法兰二法师者,扬之末绪,越棯岭之修程。百千其性宗四十二留令之家倚相传自侯生之而巳哉。瞻彼直于雩坛,兔黔首未兴云汉之谣。轸彼命中使以竭仁𮁜而云应,如但闻元之倾,乃命鼎新。伟搆山下,瑰村于卷谷,离娄骋督绳之妙。泉之司,辟莲宫而涸开。列绀十种之尊相,安二大师之法筵。灵骨宛如,可验来仪于竺国;金姿穆若,犹疑梦现于汉庭。天风高而而以缭垣柱之,以法鼓之风光,无铢曰之。或黄髡鲐背之老,或元须稚齿之童,相与而谓曰:吾皇帝之稽古务本也,为苍生而祈福,致金仙而降云。
観るに、かの像教のここに来たり、真誠が下に済い、竺法蘭〔と摩騰の〕二法師は、その末緒を扬げ、葱嶺(パミール)の修き程を越えた。百千のその性宗、四十二〔章〕の家に留め令せられて相伝わり、侯生(傅毅ら)より〔始まった〕、それだけであろうか。かの〔雩壇〕を直き(じかに)瞻て、黔首(民衆)がいまだ雲漢の謡(旱魃の歎き)を興さぬ〔うちに〕、かれを轸みて中使に命じて仁祠に誠を竭くさせると、〔天の〕応ずること雲のごとく、ただ〔帝の願いを〕聞いたばかりのように〔感応が〕傾き至った。すなわち命じて鼎新(一新)させた。偉なる構えが山下に〔起こり〕、瑰なる〔材〕を卷谷より〔集め〕、離婁(名工)は督縄(墨縄)の妙を騁せた。〔泉の司、〕蓮宮を辟き、〔涸れたるを〕開いた。紺〔色の〕十種の尊相を列ね、二大師の法筵を安んじた。霊骨は宛かのごとく、竺国(天竺)よりの来儀を験すべく、金姿は穆かなること、なお漢庭に夢現したかと疑わしい。天風は高くして、しかも囲む垣をもってこれを柱め、法鼓の風光をもって〔し〕、銖(わずか)も〔日を〕曰わず。あるいは黄髪鮐背(皺だらけの背)の老、あるいは元須稚齒(黒髪乳歯)の童、相与に謂いて曰く、わが皇帝の古を稽え本を務めたまうや、蒼生のために福を祈り、金仙(仏)を致して雲を降さしむ、と。
权舆圣教之津,始福田之所,巳圮而更兴,未睹时巡,弥坚望幸。伫听建圭立极,逾姬公洛食之符;捡玉升中,越孝武山呼闻诏,𥃰命纪将火口口口口口祀四月八日记。翟文臣口张口口朝。碑甚磨灭,断为二截。有云:缺驮经之地,口其由口中国招提之始。按洛阳俷蓝记云:白马寺,汉明帝所立也,佛入中国之始。寺在西阳门外三里御道南。帝梦金人长六项,皆曰月光明,胡神号曰佛,遣使向西域求之,乃得经像焉。时白马负经而来,因以为名,故碑亦云也。稗年月残缺,惟存祀四月八日及前有翰林学士承音、朝请大夫、中书舍人、上柱国、赐紫金中缺简奉敕下缺云云,知为苏易简也。中州金石考云:只存上截。今予所得有下截云:易简入为右拾遗、知制话,除翰林学士,淳化中充承盲,见东都事略本传。
聖教の津(渡し場)を権輿(創始)し、福田の所を始め、すでに圮れたるを更に興したが、いまだ時巡(行幸)を睹ず、いよいよ幸を望むこと堅し。建圭立極(帝の礼制の樹立)を伫ちて聴くこと、姫公(周公)の洛に食(卜)した符を逾え、玉を検し中に升る(封禅の礼)こと、孝武(漢武帝)の山呼の詔を聞いたるを越え、□命じて紀させ、まさに火〔をもって……〕□□□□□祀り、四月八日に記す。翟文臣□張□□〔の〕朝。〔王氏の按じて曰く〕碑は甚だ磨滅し、断ちて二截となる。〔碑に〕云うあり、「〔欠〕経を駄うの地」「□その由〔を考うるに〕□中国招提の始め」と。洛陽伽藍記(俷蓝记)を按ずるに云く、白馬寺は漢の明帝の立てるところなり、仏の中国に入るの始め〔なり〕。寺は西陽門外三里、御道の南にあり。帝は金人を夢む、長〔さ〕〔丈〕六、項〔背〕は皆日月の光明あり、胡神は佛と号す、使いを遣わして西域に向かいてこれを求め、乃ち経像を得たり。時に白馬が経を負いて来たり、よってもって名とす、と。ゆえに碑もまた〔かく〕云う。碑の年月は残缺し、ただ「四月八日に祀り〔記す〕」および前に「翰林学士承旨(承音)・朝請大夫・中書舍人・上柱国・賜紫金〔魚袋〕」、〔中ほど〕缺けて「簡、敕を奉ず」、〔下〕缺けて云々〔とあるを〕存するのみ、〔もって〕蘇易簡なるを知る。中州金石考に云く、ただ上截を存すと。今、予が得たるものには下截あり、云く、易簡は入りて右拾遺・知制誥となり、翰林学士に除せられ、淳化中に承旨(承盲)に充てらる、と。東都事略の本伝に見ゆ。
则此碑为淳化时立。
すなわちこの碑は淳化の時に立てられたものである。
按此碑文几八百字,而泐其半。赖河南通志河南府白马寺条下全载此文,今取以互校,旁注补足。碑溉其岁月,志亦不载。据文考之,文云法天崇道皇帝。宋史太宗纪:端拱二年十二月辛酉,群臣上尊号曰法天崇道文武皇帝,诏去文武二字。然上尊号虽在是年,而受尊号改元在淳化元年正月戊寅朔,是年庚寅岁。碑下云:步摄提而重张岁纪,摄提者,寅也,谓月目重合于岁纪也。又云:时属单阏直岁,勾芒驭辰,龙星虽耀于雩坛,兔魄罕离于毕宿。单阏,卯也。淳化二生辛卯岁,是年三月蝗旱祷雨。史虽不载祷于岳渎。据碑云:命中使以驰驿,竭仁祠而致诚,是遣宫祷于嵩岳也。秦敕撰文,建立此碑,以纪岁月。然则此碑可信为淳化二年立也。
この碑文を按ずるに、ほぼ八百字あるが、その半ばが泐(欠損)している。幸いに河南通志の河南府白馬寺の条下にこの文を全く載せているので、今これを取りて互いに校し、傍注して補足した。碑はその歳月を〔記さず(溉→漏らし)〕、志もまた載せない。文に拠りてこれを考うるに、文に「法天崇道皇帝」と云う。宋史太宗紀に、端拱二年十二月辛酉、群臣が尊号を上りて「法天崇道文武皇帝」と曰い、詔して「文武」の二字を去った、とある。しかし尊号を上ったのはこの年であるが、尊号を受け改元したのは淳化元年正月戊寅朔にあり、この年は庚寅の歳である。碑の下に云く、「摂提を歩みて重ねて歳紀を張る」と。摂提とは、寅である。月〔と〕日が重ねて歳紀に合うことを謂う。また云く、「時は単閼の直歳に属し、勾芒が辰を馭す、龍星は雩壇に耀くといえども、兔魄は罕に畢宿を離る」と。単閼とは、卯である。淳化二年は辛卯の歳で、この年三月に蝗と旱があり雨を祷った。史はたとえ岳瀆に祷ったことを載せずとも、碑に拠れば云く、「中使に命じて駅を馳せしめ、仁祠に竭くして誠を致す」と。これは宮〔の使い〕を遣わして嵩岳に祷ったのである。〔帝は〕敕して文を撰ばしめ、この碑を建立して、もって歳月を紀した。しからばすなわちこの碑は淳化二年に立てられたものと信ずべきである。
碑纪白马寺兴建之始,因及摩腾、竺法兰。按高僧传:摄摩腾本中天竺人,汉永平中,明皇帝遣郎中蔡愔、博士弟子秦景等,使往天竺,等访佛法。愔等于彼遇见摩腾,乃要还汉地,至乎雒邑,明帝于城西门外立精舍以处之。汉地有沙门之始也。腾译四十二章一卷,敕缄在兰台石室,腾所住处,今雒阳城西雍门外白马寺是也。竺法兰亦中天竺人,蔡愔既至彼国,兰与摩腾相随而来,既达𨿅阳,与腾同止。愔于西域获经,即为翻译,所谓十地断结、佛本生、法海藏、佛本行四十二章等五部。移都寇乱,四部失本不传。江左唯四十二章经今见在。汉地见存诸经,唯此为始也。
碑は白馬寺の興建の始めを紀し、よって摩騰・竺法蘭に及ぶ。高僧伝を按ずるに、摂摩騰はもと中天竺の人。漢の永平中、明皇帝は郎中の蔡愔、博士弟子の秦景らを遣わし、使いして天竺に往き、佛法を訪ねさせた。愔らは彼〔の地〕で摩騰に遇い見え、すなわち要じて漢地に還り、雒邑(洛陽)に至ると、明帝は城の西門外に精舎を立ててもってこれを処らせた。漢地に沙門ある始めである。摩騰は四十二章〔経〕一巻を訳し、敕して蘭台の石室に緘めた。摩騰の住みしところは、今の雒陽城西の雍門外の白馬寺がこれである。竺法蘭もまた中天竺の人。蔡愔がすでに彼の国に至ると、法蘭は摩騰と相随いて来たり、すでに雒陽に達すると、摩騰と同じく止まった。愔が西域で獲た経を、すなわち翻訳した。いわゆる「十地断結」「仏本生」「法海蔵」「仏本行」〔と〕四十二章など五部である。都を移し寇乱があって、四部は本を失いて伝わらない。江左にはただ四十二章経が今なお見在する。漢地に見存する諸経は、ただこれが始めである。
「大金国重修河南府左街東白馬寺釈迦舎利塔記」
大金国重修河南府左街东白马寺释迦舍利塔记,河南府学正李中孚撰,男乡贡进士燮书。
大金国重修河南府左街東白馬寺釈迦舎利塔記。河南府学正の李中孚撰し、男(子息)の郷貢進士の燮書す。
浮图氏之教,大矣哉,本西方圣人之设教也。迨乎东汉明帝时,则有若三藏曰摩腾、竺法兰,以白马驮经四十二章,始流传教法,至于中州。是时乃卜府皇城之东二十余里,建精舍,度僧徒,创曰白马寺。中州之人奉释氏者此。自始厥后,敬供香火,相传魏、晋、隋、唐而下,迄千有余岁不绝。洎五代之后,粤有庄武李王施己净财,于寺东又建精蓝一区,亦号曰东白马寺。并造木浮图九层,高五百余尺。塔之东南隅有旧碑云:功既落成,太祖睹王之乐善,赐以相轮。王之三子。又施宅房、龟头等仅百间。每遇先大王夫人远忌等曰,逐季斋僧一千五百人,以崇追荐,又一百五十余年。至丙午岁之末遭劫火一炬,寺与浮图俱废,惟留余址,鞠为瓦子堆、茂草场者,今五十载矣。
浮図氏の教は、大いなるかな、もと西方の聖人の設けた教えである。東漢の明帝の時に迨んで、すなわち三蔵たる摩騰・竺法蘭あり、白馬をもって経四十二章を駄い、始めて教法を流伝し、中州に至った。この時すなわち府の皇城の東二十余里を卜し、精舎を建て、僧徒を度し、創めて「白馬寺」と曰った。中州の人が釈氏を奉ずるは、これ〔より始まる〕。始めより厥の後、敬みて香火を供え、相伝えて魏・晋・隋・唐と下り、千有余歳に迄るまで絶えなかった。五代の後に洎びて、ここに荘武李王あり、己の浄財を施し、寺の東にまた精藍(寺院)一区を建て、また「東白馬寺」と号した。あわせて木浮図九層、高さ五百余尺を造った。塔の東南隅に旧碑ありて云く、功すでに落成すると、太祖が王の善を楽しむを睹て、相輪を賜う、と。王の三子は、また宅房・亀頭(門楼)などおよそ百間を施した。先大王夫人の遠忌などの日に遇うごとに、季を逐って僧一千五百人に斎し、もって追薦を崇くすること、また一百五十余年。丙午の歳の末に至り、劫火の一炬に遭い、寺と浮図はともに廃し、ただ余址を留め、鞠して瓦子の堆・茂草の場となること、今五十載である。
往来者视之,孰不咨嗟叹息焉。噫!天壤之间,古今而来,事之废兴,何代无之?莫不系时与数而使之然尔,又奚足怪。物极必反。无何,果彦大士自浊河之北底此,睹是名刹,荒榛丘墟,彷徨不忍去。一夕遽发踊跃特达心,乃鸠工食,造甓,缘行如流,四方云会,不劳余刃,而所费办集。因塔之旧基,剪除荒埋,重建砖浮图一十三层,高一百六十尺,徘徊界宇洞并龟头一十五所,护塔墙垣三重,甘露井。又立古碑五通,左右焚经台两所,权子并塔门九座,下创修屋宇二十八间,门窗大小三十七座,其余不可具纪。不逾季而悉就所愿。恭以临济之宗,无畏之坛,谨持六斋,幸遇明天子在上,太守百里,贤士大夫在位,抑又天时物数,若合符节焉。可见非我栖岩彦,乘时一举手,孰能起废嗣兴,致巍巍之功德,能如是乎?
往来する者はこれを視て、たれか咨嗟し嘆息せざらんや。噫(ああ)!天壌の間、古今より来、事の廃興は、いずれの代にかこれなからん。みな時と数に繋がりてこれをしからしむるのみで、また怪しむに足りようか。物は極まれば必ず反る。ほどなく、果たして彦大士が濁河(黄河)の北よりここに底り、この名刹の荒榛の丘墟となったるを睹て、彷徨して去るに忍びなかった。一夕、にわかに踊躍し特達の心を発し、すなわち工と食を鳩め、甓(煉瓦)を造ると、縁行(寄進)は流れのごとく、四方より雲のごとく会し、余の刃を労せずして、費すところは弁じ集まった。塔の旧基に因り、荒れて埋もれたるを剪り除き、重ねて砖浮図(煉瓦の塔)一十三層、高さ一百六十尺を建て、めぐる界宇(回廊)と亀頭あわせて一十五所、塔を護る墻垣三重、甘露井〔を築いた〕。また古碑五通を立て、左右に焚経台二所、権子(結界の標)ならびに塔門九座〔を設け〕、下に屋宇二十八間、門窓大小三十七座を創修したが、その余は具さには紀しえない。季を逾えずして、ことごとく願うところに就いた。恭しく臨済の宗、無畏の壇〔をもって〕、謹みて六斎を持し、幸いに明天子の上に在り、太守が百里に〔在り〕、賢士大夫が位に在るに遇い、そのうえまた天時と物数が、符節を合わすがごとくであった。見るべし、わが栖岩の彦が、時に乗じて一たび手を挙げたるにあらざれば、たれかよく廃を起こし興を嗣ぎ、巍巍たる功徳を致すこと、かくのごとくよくせんや、と。
于告成之明日,丐李中孚以记其事。中孚于庄武王系六代孙,粗知其要,义不当辞,是可书也。时大定十五季五月初八日,于是乎书。
告成の明日に、李中孚に乞うてもってその事を記させた。中孚は荘武王の系の六代孫にして、粗ぼその要を知り、義として辞すべきでないので、これ書すべきである。時に大定十五年五月初八日、ここにおいて書す。
文林郎、行河南府洛阳县主薄冯焕、武义将军、行河南府洛阳县尉、骁骑尉孙□、宣威将军、行河南府洛阳县令、上骑都尉、广陵郡开国子,食邑五伯户高师旦,定远大将军、河南府判官、轻车都尉、漆水郡开国侯,食邑□七伯户耶律重哥,金吾卫上将军、河南尹、上护军、彭城郡开国侯,食邑壹阡户,食实封壹伯户唐括乌也建。修塔会首忠显□□忠显□□忠翊海岳立石。本寺主□化缘、僧文□,本寺尊宿僧沙门尼。泐三行,字甚小,在记末行及题衔三行之下,半就磨灭。
〔建立者──〕文林郎・行河南府洛陽県主簿の馮煥、武義将軍・行河南府洛陽県尉・驍騎尉の孫□、宣威将軍・行河南府洛陽県令・上騎都尉・広陵郡開国子、食邑五百戸の高師旦、定遠大将軍・河南府判官・軽車都尉・漆水郡開国侯、食邑□七百戸の耶律重哥、金吾衛上将軍・河南尹・上護軍・彭城郡開国侯、食邑壹阡戸・食実封壹百戸の唐括烏也が建つ。修塔会首の忠顕□□、忠顕□□、忠翊の海岳が石を立つ。本寺主の□化縁、僧文□、本寺尊宿の僧沙門尼。〔以下〕泐(欠)三行、字は甚だ小さく、記の末行および題銜三行の下にあり、半ば磨滅している。
「大元重修釈源大白馬寺賜田功徳之碑」
附郭县。白马寺洛阳城西雍门外白马寺,即汉之鸿胪寺也。永平十四年,摩腾、三藏法师以白马驮经至此,因建寺以白马名焉。鸿胪寺,汉为掌四译客官署,三藏以西域僧,故得馆于此。自古惟官府有寺,佛庙得名,盖踵鸿胪之名,始于白马也。寺有斗圣堂一所,世传三藏与褚善信雠校经义之所。又有三藏赞碑一通,撰文书篆,皆宋真宗御制也。又有翰林学士苏易简所撰碑一通,备载寺之兴废始末甚详。至钦宗靖康时,毁于金人兵火。逮国朝至元七年,世祖皇帝从帝师帕克巴之请,大为兴建。门庑堂殿,楼阁台观,郁然天人之居矣。庭中一巨碑,龟趺螭首,高四丈余。碑首刻曰:大元重修释源大白马。寺赐田功德之碑,荣禄大夫翰林承旨阎复奉敕误碑曰:圣上大德改元之四年冬十月,释源大白马寺告成,诏以护国仁王寺水陆田在怀、孟六县者千六百顷,充此恒产,永为皇家子孙祈福之地。
附郭県〔洛陽県〕。白馬寺。洛陽城西の雍門外の白馬寺は、すなわち漢の鴻臚寺である。永平十四年、摩騰、三蔵法師が白馬をもって経を駄いてここに至り、よって寺を建て白馬をもって名づけた。鴻臚寺は、漢では四訳(通訳)と客を掌る官署であり、三蔵は西域の僧なるゆえに、ここに館するを得た。古より、ただ官府に寺(役所)があり、仏廟が〔寺という〕名を得たのは、けだし鴻臚の名を踵ぎ、白馬に始まる。寺に斗聖堂一所あり、世に三蔵と褚善信が経義を雠校(校勘)した所と伝わる。また三蔵賛碑一通あり、撰文も書篆も、みな宋の真宗の御制である。また翰林学士の蘇易簡の撰した碑一通あり、寺の興廃の始末を備さに載せて甚だ詳らかである。欽宗の靖康の時に至り、金人の兵火に毀たれた。国朝〔元〕の至元七年に逮んで、世祖皇帝が帝師パクパ(帕克巴)の請に従い、大いに興建をなした。門廡・堂殿、楼閣・台観は、郁然として天人の居であった。庭中に一つの巨碑あり、亀趺・螭首、高さ四丈余。碑首に刻して曰く、「大元重修釈源大白馬〔寺〕」〔と〕。寺賜田功徳之碑、栄禄大夫・翰林承旨の閻復が敕を奉じて〔撰す〕。碑に曰く、聖上が大徳と改元した四年の冬十月、釈源大白馬寺が告成し、詔して護国仁王寺の水陸田の懐・孟の六県に在るもの千六百頃を、この恒産に充て、永く皇家子孫のために福を祈る地とした、と。
仍命翰林词臣书其事于石。
なお翰林の詞臣に命じてその事を石に書させた。
臣复谨按清慧真觉大师文才所具事迹,汉永平中,摩腾、竺法兰以白马驮经至于西雍,初假馆于鸿胪,后即东都雍门外建白马寺,为译经之所。嗣后沙门踵至,若康僧会之于吴,佛图澄之于晋,鸠摩罗什、求那跋摩之于宋,玄奘、无畏之于唐。千载而下,经论曰繁,教风日竞,北至幽都,南逾瘴海,东极扶桑,西还月窟,莲宫梵宇,弥亘大千,实权舆于此。緜历劫火,寺之兴废,有可考者,宋翰林学士苏易简文石在焉。国初,有僧曰英山主,以医术居洛,罄药囊之赀,谋为起废。或讶其规模太广,工用莫继,则曰:兹寺中华佛教根祗他曰:必有大事因缘,余第为张本尔。至元七年,帝师大宝法王帕克巴集郡国教释诸僧,登坛演法,从容询于众曰:佛法至中国始于何时,首居何刹?
臣復(閻復)謹みて清慧真覚大師文才の具えたる事跡を按ずるに、漢の永平中、摩騰・竺法蘭が白馬をもって経を駄いて西雍に至り、初めは鴻臚に館を假り、後にすなわち東都の雍門外に白馬寺を建て、訳経の所とした。嗣いで後、沙門が踵いで至った──呉における康僧会、晋における仏図澄、宋(劉宋)における鳩摩羅什・求那跋摩、唐における玄奘・無畏(善無畏)のごとし。千載よりこのかた、経論は日に繁く、教風は日に競い、北は幽都に至り、南は瘴海を逾え、東は扶桑を極め、西は月窟に還り、蓮宮・梵宇は大千〔世界〕に弥り亘り、実にここに権輿(起源)した。劫火を緜歴して、寺の興廃で考うべきものは、宋の翰林学士蘇易簡の文石がここに在る。国初、僧に英山主という者あり、医術をもって洛に居り、薬嚢の資を罄くして、廃を起こすを謀った。或る者がその規模の太だ広く、工用の継ぎえぬことを訝しむと、〔英山主は〕曰く、この寺は中華仏教の根柢なり、と。他日曰く、必ず大事因縁あらん、余はただその張本(基礎)をなすのみ、と。至元七年、帝師の大宝法王パクパが郡国の教釈の諸僧を集め、壇に登りて法を演べ、従容として衆に詢いて曰く、仏法が中国に至りしは何れの時に始まり、首め何れの刹に居りしか、と。
扶宗弘教大师龙川讲主行育,时在𥄳中,乃引永平之事以对,且以营建为请。会白马寺僧行政,言与行育叶,帝师嘉纳,闻于世祖圣德神功文武皇帝,特敕行育综领修寺之役。经度之始,无所取财,遍访檀施于诸方,瀳更岁籥,而未睹成效。帝师闻之,申命大师丹巴董其事。丹巴请假护国仁王寺田租以供土木之费,诏允其请。裕宗文惠明孝皇帝时在东宫。亦出帛币为助,于是工役始大作。为殿九楹,法堂五楹,前三其门,傍翼以阁,云房精舍、斋庖、库廏,以次完具,位置尊严,绘塑精妙,盖与都城万安、兴教、仁王三大刹比𪟝焉。始终阅二纪之久,缘甫集而行育卒,诏赠司空、鸿胪卿,谥护法大师。文才继主席,酬酢𥄳务,率其属敏于事者曰净汴等,以毕寺之余功。落成之际,仁王寺欲复所假田租,文才即遣僧奭言于丹巴曰:转经颂禧寺,所以来𥄳僧也。
扶宗弘教大師・竜川講主の行育は、時に衆中に在って、すなわち永平の事を引きてもって対え、かつ営建をもって請とした。たまたま白馬寺の僧行政の言が行育と叶い、帝師は嘉納して、世祖聖徳神功文武皇帝に聞し、特に行育に敕して寺を修むる役を綜領させた。経度(計画)の始め、財を取るところなく、あまねく檀施を諸方に訪ね、歳籥(歳月)を瀳え更えたが、いまだ成効を睹なかった。帝師がこれを聞き、あらためて大師丹巴(ダンパ)に命じてその事を董させた。丹巴は護国仁王寺の田租を仮りて土木の費に供えんことを請い、詔してその請を允した。裕宗文恵明孝皇帝〔真金〕は時に東宮に在った。〔真金〕もまた帛幣を出して助けとなし、ここにおいて工役は始めて大いに作された。殿九楹、法堂五楹をなし、前にはその門を三つにし、傍らには閣をもって翼とし、雲房・精舎、斎庖、庫厩が、次を以て完具し、位置は尊厳、絵塑は精妙であり、けだし都城の万安・興教・仁王の三大刹と比べ〔並ぶ〕ものであった。始終、二紀(二十四年)の久しきを閲し、縁がまさに集まらんとして行育が卒し、詔して司空・鴻臚卿を贈り、護法大師と諡した。文才が席を継ぎ、衆務に酬酢し、その属の事に敏なる者たる浄汴らを率いて、もって寺の余功を畢えた。落成の際、仁王寺が仮したところの田租を復さんと欲すると、文才はすなわち僧奭を遣わして丹巴に言いて曰く、経を転じ禧を頌する寺は、衆僧を来たらしむる所以なり〔と〕。
有寺无田,𥄳安仰?丹巴令宣政院官达什爱满等奉请,遂有赐田之命,且敕有司世世勿夺云。寺二,一在宜阳县治西九十里,又一在永宁县东。
寺ありて田なくば、衆〔僧〕は何をか仰がん、と。丹巴は宣政院の官達什愛満(ダシ・アイマン)らをして奉請させ、ついに賜田の命があり、かつ有司に敕して世世に奪うなかれと云った。寺は二つ、一つは宜陽県の治の西九十里に在り、また一つは永寧県の東に在る。
「重修古刹白馬禅寺記」
余世家洛阳龙虎滩,去西北仅五里有白马寺。汉明帝永平八年,闻西域有佛,遣使之天竺,求其道,得其书,及摩腾、竺法兰二沙门以归。至十年,始立寺,初名招提,后王有欲毁寺者,夜见白马绕塔悲鸣而止,因更名白马云。唐、宋、元皆赐敕修,制碑可考,是以知其远且盛也。余自髫年,窃尝玩之。今也仰沐圣主洪恩,叨掌司礼兼总督东厂。家人来京者,皆言寺之毁坏,大非昔比。余叹曰:盛迹之湮,适当是时,余生其时,岂可坐视?及谋诸掌家内官监太监田子用,用启余曰:“福者,善之徵也,不作福,何以享福?古语云:要知前世因,今生受者是;要知后世因,今生作者是。此举不亦善乎?”余嘉其言,遂捐俸以眷属省祭官李奉义董其事,守制商州判孙政赞其功。至于朝夕视事,终始效勤,则有族弟省祭官黄□。由是构良材于晋野,伐文石于嵩阴,治砖瓦于洛汭,招工师于诸邑,涓选休辰,建前后大殿各五楹,中肖诸佛及侍从阿难、迦叶、文殊、普贤、罗汉、护法之神;建左右配殿各三楹,中肖观音、祖师、伽蓝、土地众神。饰像貌以金碧,绘栋宇以五采。其中路、台、阶,悉以砖石铺砌,铸供器四副于各神之前,每副五件,共计铁三千六百斤。他如天王有殿,肃仪卫也;钟鼓有楼,司昏晓也。东建礼贤堂五间,庖厢六间,憩宦游也;西建演法堂五间,庖厢六间,阐释道也。二堂之前,配殿上下,各分巷道,共建静舍一百二十间,栖僧徒也;大门三空,砖石券之;门外东西,石狮翼之,则出入严而观瞻亦壮矣。寺后有台,形高二丈,广阔三倍而有余,此必古之阁基也。上建重檐殿五楹,中塑毗卢佛及贮诸品佛经;左右建配殿各三楹,分塑摩腾、竺法兰二祖,盖重释道源本而俾人知其所自矣。台下两旁,更建禅院二所,每院房九间,用礼四方禅僧。寺之基地计六十二亩,围墙计二百三十堵。其内外植树千株者,将以庇荫风土之胜尔。寺枕通衢,而远方之人,莫不经之,建石坊一座,扁曰“古刹白马禅林”,则寺之名亦昭揭矣。百务既完,然后遴其住持,分以执事,给度牒二十二张、法器、法衣各二十二件,俾诸僧有所依据,而寺之统体,亦庶乎其不废矣。是事也,无分巨细,皆决于余心。区别成图,付之奉义。功始于嘉靖三十四年乙卯之春,落成于嘉靖三十五年丙辰之冬。默思遥想,少足以尽崇古之意云尔。余弗敏,乃自为记,以取信于后世。因嗟夫人之生也,礼门也,义路也,忠孝其大节也。人能由是路、出入是门,而大节不失,然后可及其他。余少寓司礼,尝从学于太学士讬斋温先生,朝夕训诲,少知义理、忠孝之道,不敢不勉。是以周故旧之贫穷,修祖宗之坟墓。会合族人,养之以义田,析之以义居,业已为之矣。惟兹佛事之成,岂但崇古而已也,盖以荣圣君之赐,以增光于吾乡尔。乃若祝皇图于万载,保黎庶于重熙,又余之心也,又余之愿也,岂徼福云乎哉。是为记。
余の家は世々洛陽の竜虎灘に住み、西北わずか五里を去りて白馬寺がある。漢の明帝の永平八年、西域に仏あるを聞き、使いを天竺に遣わし、その道を求め、その書を得、および摩騰・竺法蘭の二沙門をともないて帰った。十年に至り、始めて寺を立て、初めは招提と名づけたが、後に王〔なる者〕で寺を毀たんと欲する者があり、夜、白馬が塔を繞りて悲鳴するのを見て止んだので、よって白馬と改名したという。唐・宋・元はみな敕を賜りて修め、制作された碑が考うべきであり、これによってその遠く且つ盛んなるを知る。余は髫年(幼少)より、ひそかにかつてこれを玩んだ。今や聖主の洪恩に仰ぎ沐し、忝くも司礼〔監〕を掌り兼ねて東廠を総督する。京に来る家人は、みな寺の毀壊が大いに昔と比ぶべくもないことを言う。余は嘆じて曰く、盛跡の湮するが、ちょうどこの時に当たり、余がその時に生まれた、あに坐視すべけんや、と。掌家内官監太監の田子用に諮るに及び、用は余に啓して曰く、「福なる者は、善の徴なり。福を作さずんば、何をもって福を享けん。古語に云く、前世の因を知らんと要せば、今生に受くる者これなり。後世の因を知らんと要せば、今生に作す者これなり、と。この挙もまた善ならずや」と。余はその言を嘉し、ついに俸を捐じ、眷属の省祭官李奉義をもってその事を董させ、守制(喪中)の商州判孫政にその功を賛けさせた。朝夕に事を視、終始勤を効すに至っては、すなわち族弟の省祭官黄□あり。これによって良材を晋野(山西の野)に構え、文石を嵩陰(嵩山の北)に伐り、砖瓦を洛汭(洛水の曲がり)に治め、工師を諸邑に招き、休辰(吉日)を涓選して、前後の大殿を各五楹建て、中に諸仏および侍従の阿難・迦葉・文殊・普賢・羅漢・護法の神を肖った。左右の配殿を各三楹建て、中に観音・祖師・伽藍・土地の衆神を肖った。像貌を金碧で飾り、棟宇を五采で絵く。その中路・台・階は、ことごとく砖石で舗砌し、供器を各神の前に四副(対)鋳、副ごとに五件、あわせて鉄三千六百斤を計える。他に、天王には殿あり、儀衛を粛す〔ため〕なり。鐘鼓には楼あり、昏暁を司る〔ため〕なり。東に礼賢堂五間、庖厢六間を建て、宦遊(旅の官人)を憩わせる〔ため〕なり。西に演法堂五間、庖厢六間を建て、釈道を闡べる〔ため〕なり。二堂の前、配殿の上下、各々巷道を分かち、あわせて静舎一百二十間を建て、僧徒を栖ませる〔ため〕なり。大門は三空(三門)、砖石でこれを券(アーチ)とし、門外の東西、石獅がこれを翼す〔守る〕。すなわち出入は厳かにして観瞻もまた壮である。寺の後ろに台あり、形は高さ二丈、広闊は三倍にして余りあり、これは必ず古の閣の基である。上に重檐殿五楹を建て、中に毗盧仏を塑り、および諸品の仏経を貯えた。左右に配殿を各三楹建て、分かちて摩騰・竺法蘭の二祖を塑り、けだし釈道の源本を重んじて人にその由って来たるところを知らしめるのである。台下の両旁に、更に禅院二所を建て、院ごとに房九間、四方の禅僧を礼するに用いる。寺の基地はあわせて六十二畝、囲墙はあわせて二百三十堵(版)。その内外に樹千株を植えたのは、風土の勝〔景〕を庇蔭せんとするためである。寺は通衢(大道)に枕み、遠方の人でこれを経ざる者はないので、石坊一座を建て、扁して「古刹白馬禅林」と曰った。すなわち寺の名もまた昭らかに揭げられた。百務すでに完うすると、然る後にその住持を遴び、執事を分かち、度牒二十二張、法器・法衣各二十二件を給し、諸僧に依るところあらしめ、寺の統体もまた、ほとんどその廃れざらんとする〔状態となった〕。この事たるや、巨細を分かたず、みな余の心に決した。区別して図を成し、これを奉義に付した。功は嘉靖三十四年乙卯の春に始まり、嘉靖三十五年丙辰の冬に落成した。黙して思い遥かに想えば、いささか古を崇ぶの意を尽くすに足るのみ。余は敏からざれども、すなわち自ら記を為して、もって後世に信を取る。よって嗟くに、それ人の生くるや、礼は門なり、義は路なり、忠孝はその大節なり。人がよくこの路に由り、この門を出入して、大節を失わず、然る後に他に及ぶべきである。余は少くして司礼に寓り、かつて太学士託斎温先生に従いて学び、朝夕に訓誨され、少しく義理・忠孝の道を知り、勉めざるを敢えてしなかった。これをもって故旧の貧窮を周い、祖宗の墳墓を修めた。族人を会合し、これを義田で養い、これを義居で析ったことは、すでにこれを為し終えた。ただこの仏事の成るは、あに古を崇ぶのみならんや、けだしもって聖君の賜を栄えしめ、もって吾が郷に光を増さんとするのみ。もし皇図を万載に祝し、黎庶を重熙に保つがごときは、また余の心なり、また余の願いなり、あに福を徼むと云わんや。これ記と為す。
大明嘉靖三十五年岁次丙辰十一月上旬吉日司礼监掌印太监兼总督东厂龙山黄锦撰文,孟津县致仕参议杨儒书丹,石工韩奉镌。
大明嘉靖三十五年、歳次丙辰十一月上旬の吉日、司礼監掌印太監兼総督東廠、龍山の黄錦撰文し、孟津県致仕参議の楊儒書丹し、石工の韓奉鐫る。
「白馬古跡記」
河南郡城东二十五里为白马寺地即汉东都魏金墉城也昔中天竺人摩腾竺法兰解大小乘经共契游化汉明帝夜梦金人飞空而至以问群臣傅毅奏曰臣闻西域有神其名曰佛陛下所梦将必是乎乃遣中郎蔡愔博士弟子秦景等往天竺寻访佛法遇摩腾竺法兰要还汉地以白马驮经来初正鸿胪寺诏立精舍以处之汉有沙门自二人始遂译四十二章经缄在兰台石室所住处雒阳雍门外白马寺是也愔于西域获经即为翻译有十地断结佛本生法海藏佛本行与四十二章为五部今唯四十二章见在二千余言愔得释迦倚像是优田王旃檀像师弟四作既至雒明帝即令画工图写置清凉台及显节陵上余从雒寻白马寺望毗卢殿高殆十丈住持僧员茔辈导余谒殿上获读藏经讲僧明延明来真月明山四人与之谈金刚维摩多心员觉楞伽楞严诸经颇了大义于是出所携栖霞四十二章石刻留置寺中殿左祀摩腾右竺法兰两堂皆经帙盈几花水作供前为释迦文殊普贤大殿汉魏西晋无一碑存者惟有宋天禧五年西蜀武都山僧景遵所书长兴石记元至顺癸酉白马沙门福佑长明灯记殿阶下四石柱皆经咒后有太子宾客陇西李公笔记庐山从发撰也重门内有佛顶尊胜陀罗尼经石幢与至元大钟可观山门左则僧文才洛京白马祖庭记右则苏易简西京白马寺记钟鼓楼左右方丈与诸僧舍皆高爽雅净寺左五十步为古刹今犹称鸿胪馆内有石佛汉像也砌下一石幢刻经咒乃唐仪凤元年书姓名磨灭矣前筑高台为释迦舍利塔塔左有宋端拱二年五月牒河南府白马寺额仍旧景德四年三月牒塔名为兴教又准刻连录敕黄帖则天禧五年僧处才书也塔右有金太定十五年重修舍利塔记河南学正李中孚撰男乡贡进士燮书稍西南有唐忠臣狄梁公墓碑宋大观改元龙图阁学士留守范致虚刻明山上人侍余游持禅林宝训为赠寺主僧周觉邀食香积厨甚恭年已八十日唯一面一菜禁足不出户阂二十年云月下返宿员莹山房翼日趋偃师时隆庆六年二月丙申也
河南郡城の東二十五里が白馬寺の地であり、すなわち漢の東都、魏の金墉城である。昔、中天竺の人である摩騰・竺法蘭は大小乗の経に解き、共に契りて游化した。漢の明帝は夜に金人が空を飛びて至るを夢見、もって群臣に問うた。傅毅が奏して曰く、臣は聞く、西域に神ありてその名を佛と曰う、陛下の夢みたまいしは将た必ずこれならんか、と。すなわち中郎の蔡愔、博士弟子の秦景らを遣わして天竺に往かせ佛法を尋訪させた。摩騰・竺法蘭に遇い、要じて漢地に還り、白馬をもって経を駄い来たった。初めは鴻臚寺に正まり、詔して精舎を立ててもってこれを処らせた。漢に沙門あるは二人より始まる。ついに四十二章経を訳し、蘭台の石室に緘めた。住みしところは雒陽雍門外の白馬寺がこれである。愔が西域で獲た経を、すなわち翻訳した。「十地断結」「仏本生」「法海蔵」「仏本行」と四十二章とで五部あったが、今はただ四十二章が見在するのみで、二千余言。愔は釈迦の倚像を得たが、これは優填王の旃檀像である。師弟四〔人〕が既に雒に至ると、明帝はすぐに画工に令して図写させ、清凉台および顕節陵の上に置いた。余は雒より白馬寺を尋ね、毗盧殿の高さ殆ど十丈なるを望んだ。住持僧の員茔らが余を導いて〔殿〕上に謁させ、蔵経を読むを得た。講僧の明延・明来・真月・明山の四人がおり、これと金剛・維摩・多心(心経)・円覚・楞伽・楞厳の諸経を談じ、頗る大義を了した。そこで携えたるところの栖霞〔石刻〕の四十二章の石刻を出し、寺中に留め置いた。殿の左には摩騰を祀り、右には竺法蘭〔を祀る〕。両堂はみな経帙が几に盈ち、花水を供とす。前には釈迦・文殊・普賢の大殿がある。漢・魏・西晋の碑は一つも存する者なく、ただ宋の天禧五年に西蜀武都山の僧景遵が書したる長興〔碑の〕石記、元の至順癸酉の白馬沙門福佑の長明灯記があるのみ。殿の階下の四石柱はみな経咒〔を刻む〕。後ろには太子賓客の陇西李公の筆記あり、庐山の従発が撰したものである。重門の内には仏頂尊勝陀羅尼経の石幢と、至元の大鐘があり、観るべし。山門の左は僧文才の「洛京白馬祖庭記」、右は蘇易簡の「西京白馬寺記」〔である〕。鐘鼓楼、左右の方丈と諸僧舎は、みな高爽雅浄である。寺の左五十歩が古刹で、今なお鴻臚館と称し、内に石仏あり、漢の像である。砌の下に一石幢あり経咒を刻むが、すなわち唐の儀鳳元年に書したもので、姓名は磨滅した。前には高台を筑いて釈迦舎利塔となす。塔の左には宋の端拱二年五月の牒〔あり〕、河南府に白馬寺の額を旧のごとくとし、景徳四年三月の牒は塔の名を興教となす。また敕黄を連録するに准じたる刻は、すなわち天禧五年に僧処才が書したものである。塔の右には金の大定十五年の「重修舎利塔記」あり、河南学正の李中孚が撰し、男(子息)の郷貢進士燮が書す。やや西南に唐の忠臣狄梁公(狄仁傑)の墓碑あり、宋の大観改元に龍図閣学士・留守の范致虚が刻し、明山上人〔が添えた〕。〔明山〕上人は余の游に侍し、『禅林宝訓』を持ちて贈とした。寺主僧の周覚は余を邀えて香積厨(斎堂)で食させ、甚だ恭しかった。年すでに八十、日にただ一面一菜、禁足して戸を出でざること二十年〔という〕。月下に返りて員瑩山房に宿し、翼日(翌日)偃師に趨いた。時に隆慶六年二月丙申である。
『河南府志』
汉白马寺在县东二十里。汉明帝梦金人,遣专士王遵、蔡愔等十八人,同往西域求佛法,至月氐国,遇迦叶摩腾、竺法兰,尽释迦像,带经四十二章,以榆𣗋盛白马驮之,迎王洛阳。上大悦,于西门外立精舍以处之,故以白马为寺名。佛法入中国自此始。汉明帝永平十五年建。宋淳化三年,元至顺四年,明洪武二十三年俱重修。愿会寺侍郎王翊舍地创建,别见纪异。
漢の白馬寺は県の東二十里に在る。漢の明帝は金人を夢見、専士(専門の士)の王遵・蔡愔ら十八人を遣わし、同じく西域に往きて佛法を求めさせた。月氐(月氏)国に至り、迦葉摩騰・竺法蘭に遇い、釈迦像を尽くし、経四十二章を帯び、楡𣗋(楡の函)をもって盛り白馬にこれを駄い、洛陽に迎え王(往)った。上(帝)は大いに悦び、西門外に精舎を立ててもってこれを処らせ、ゆえに白馬をもって寺の名とした。佛法が中国に入るはこれより始まる。漢の明帝の永平十五年に建てた。宋の淳化三年、元の至順四年、明の洪武二十三年に、ともに重修した。願会寺は侍郎の王翊が地を舍てて創建した〔ことは〕、別に紀異(記異)に見ゆ。
「洛京白馬寺釈教源流碑記」
原夫释迦如来之应迹也,自迦维降诞,雪岭修因,果满于阿僧祇劫,道成于菩提树下。十号具足,三界称尊,经谈三百余会,法说四十九年。至涅槃会上,偶尔拈花示众,时百万人天,悉皆罔顾,独迦叶破颜微笑,世尊遂以正法眼藏、涅槃妙心、无相实相,付嘱而归寂焉。是时也,大地震动,江河泛涨,有白虹十二,南北贯通,连宵不灭,即周穆王壬申五十二年也。王问太史扈多曰:“是何瑞也?”对曰:“此西方大圣人入灭所现之相也。”由是疑真指圣,列子述尼父之言;探花焚梅,西升载伯阳之偈。至汉明帝永平七年甲子,帝梦金人,身伟丈六,放大光明,自西飞至,旦问群臣。通人傅毅奏曰:“臣闻《周书异记》云,昭王二十四年四月八日,此方地摇六震,光贯太微,照自西方。王即怪问群臣,太史苏由奏曰:‘西方生大圣人也。’王曰:‘于此何如?’由曰:‘无事千年之后,声教传流于此。’乃刻铭于南郊以记之。今陛下斯梦,得无是乎?”帝悦,诏遣郎中蔡愔、郎将秦景、博士王尊等一十八人,诣天竺国寻访圣典。至大月氏国,遇摩腾、竺法兰,得释迦旃檀像及白氎影像、榆欓函经四十二章,以白马负之,永平十年抵洛。初馆于鸿胪寺,召腾、兰二尊者入对,帝颇重之。继而又问佛教源流,尊者导以释种正义诸秘密门,且屡示神变,摄伏异道。其要以慈悲利物,戒定修身,帝由是益加钦崇,始于雍门外创白马寺以居之。腾以大化初传,人未深信,且撮经要,以导时俗,故译《四十二章经》一卷;兰继译《十地断结》等五部,缄之兰台石室。帝即敕令图写佛像,置之清凉台及显节陵而供养之。明年岁旦,道士褚、费等上表灭佛,帝降敕,令道士与腾、兰就元宵日,骈集白马寺南门外,立坛火焚,试其真伪。尔时惟佛经不坏,且有神光五色见火中。至今焚经台尚存。又因圣冢敕建齐云宝塔,高五百余尺。珠宫幽邃,遥瞻丈六之光;窣堵凌云,依稀尺五之上。时中夏人民瞻仰归信者以亿万计,猗与盛哉!而震旦梵刹之兴,于兹为始。至魏文帝黄初三年壬寅,有沙门昙柯迦罗,中印土人,来至洛阳,大行佛法,于白马寺译《僧祇戒本》一卷,更集梵僧立羯摩受戒,东夏戒律,实称鼻祖。其后教行吴越,道播寰中,历魏唐五季,沧桑更变,废兴不一,难以俱陈。至宋淳化间大旱,帝命中使祷于二尊者,发圹请雨,仪貌如生,甘霖普降,灵应如响。即重新寺宇,敕学士苏易简撰文志之。迄明世宗时,寺院荒芜,殿宇颓落,司礼监太监黄公,捐俸修理,而殿堂僧舍焕照一新矣。及国朝,衲剃染兹寺,参扣诸方,道业无成,滥膺僧数。不谓本邑宰官绅衿山主护法,建立丛林,敦请开堂。衲遂于康熙四十一年佛诞日,竖刹于此。每念哲人已往,祖院犹存,读残碑于草莱中,恐岁久废弛,滞塞佛祖之来源。爰是缺者补之,倾者葺之,庶几精蓝福地,不致胜迹之久湮,而绀殿瑶宫,或挽狂澜于既倒。敢曰溯汉洄唐,于此为胜;西吼东震,赖以弗坠哉!敬勒贞珉,用志不朽,是为叙。
そもそも釈迦如来の応迹たるや、迦維(迦毗羅衛)に降誕してより、雪嶺(ヒマラヤ)に因を修め、果は阿僧祇劫に満ち、道は菩提樹の下に成った。十号を具足し、三界に尊と称せられ、経を談ずること三百余会、法を説くこと四十九年。涅槃の会上に至り、偶々花を拈じて衆に示すと、時に百万の人天は、ことごとくみな罔顧(会得できず)であったが、独り迦葉のみが破顔微笑した。世尊はついに正法眼蔵・涅槃妙心・無相実相をもって、付嘱して寂に帰した。この時、大地は震動し、江河は泛れ涨り、白虹十二あり、南北に貫通し、連宵(幾夜も)滅せず、すなわち周の穆王の壬申五十二年である。王は太史の扈多に問いて曰く、これ何の瑞ぞ、と。対えて曰く、これ西方の大聖人の入滅の現すところの相なり、と。これによって真を疑い聖を指し、列子は尼父(孔子)の言を述べ、探花焚梅(花を探り梅を焚く)、『西升〔経〕』は伯陽(老子)の偈を載す。漢の明帝の永平七年甲子に至り、帝は金人を夢む、身は伟なること丈六、大光明を放ち、西より飛び至った。旦(あした)に群臣に問うた。通人(博識の人)傅毅が奏して曰く、臣は聞く、『周書異記』に云く、昭王二十四年四月八日、この方(地)は地が揺れて六たび震い、光は太微を貫き、西方より照らした。王はすなわち怪しみて群臣に問い、太史の蘇由が奏して曰く、「西方に大聖人生まる」と。王曰く、「これに於いて如何」と。由曰く、「事なし、千年の後、声教(教え)はここに伝流せん」と。すなわち銘を南郊に刻してもってこれを記した、と。今、陛下のこの夢は、これならざるを得んや、と。帝は悦び、詔して郎中の蔡愔、郎将の秦景、博士の王尊ら一十八人を遣わし、天竺国に詣りて聖典を尋訪させた。大月氏国に至り、摩騰・竺法蘭に遇い、釈迦の旃檀像および白氎(白綿布)の影像、楡欓(楡の函)の経四十二章を得、白馬をもってこれを負わせ、永平十年に洛に抵った。初めは鴻臚寺に館し、摩騰・法蘭の二尊者を召して入対させ、帝は頗るこれを重んじた。継いでまた仏教の源流を問うと、尊者は釈種(釈迦の一族)の正義と諸々の秘密門をもって導き、かつ屡々神変を示し、異道を摂伏した。その要は慈悲をもって物を利し、戒定をもって身を修むるにあり、帝はこれによっていよいよ欽崇を加え、始めて雍門外に白馬寺を創りてもってこれを居らせた。摩騰は大化が初めて伝わり、人がいまだ深く信じないゆえに、しばらく経の要を撮って、もって時俗を導き、ゆえに『四十二章経』一巻を訳した。法蘭は継いで『十地断結』など五部を訳し、これを蘭台の石室に緘めた。帝はすぐに敕して仏像を図写させ、これを清凉台および顕節陵に置いて供養した。明年の歳旦(元旦)、道士の褚・費らが表を上りて仏を滅せんとし、帝は敕を降し、道士と摩騰・法蘭とをして元宵の日に、白馬寺の南門外に骈集(列集)させ、壇を立て火焚して、その真偽を試させた。その時、ただ仏経のみ壊れず、かつ神光五色が火中に見えた。今に至るまで焚経台はなお存する。また聖冢に因りて敕して斉雲宝塔を建て、高さ五百余尺。珠宮は幽邃にして、遥かに丈六の光を瞻、窣堵(ストゥーパ)は雲を凌ぎ、依稀(ほのかに)尺五の上にある。時に中夏(中国)の人民で瞻仰し帰信する者は億万をもって計える、ああ盛んなるかな。しこうして震旦(中国)の梵刹の興るは、ここに始まる。魏の文帝の黄初三年壬寅に至り、沙門の曇柯迦羅あり、中印土(中インド)の人、洛陽に来至し、大いに仏法を行い、白馬寺で『僧祇戒本』一巻を訳し、更に梵僧を集めて羯摩(作法)を立て戒を受けさせた。東夏(中国)の戒律は、実に〔彼を〕鼻祖と称する。その後、教えは呉越に行われ、道は寰中(天下)に播き、魏・唐・五季(五代)を歴て、滄桑が更変し、廃興は一ならず、俱には陳べがたい。宋の淳化の間の大旱に至り、帝は中使に命じて二尊者に祷らせ、圹(墓)を発きて雨を請うと、儀貌は生けるがごとく、甘霖(恵みの雨)が普く降り、霊応は響きのごとくであった。すなわち寺宇を重新し、学士の蘇易簡に敕して文を撰ばしめこれを志した。明の世宗の時に迄び、寺院は荒蕪し、殿宇は頹落し、司礼監太監の黄公が、俸を捐じて修理し、殿堂・僧舎は焕照して一新した。国朝〔清〕に及び、衲(わたくし=如琇)はこの寺で剃染し、諸方に参扣(参禅問法)したが、道業成らず、濫りに僧数に膺(あた)った。思いもかけず本邑の宰官・紳衿(郷紳)・山主・護法が、叢林を建立し、敦く開堂を請うた。衲はついに康熙四十一年の仏誕日に、刹をここに竪てた。哲人すでに往きて、祖院なお存するを念うごとに、残碑を草莱(草むら)の中に読み、歳久しくして廃弛し、仏祖の来源を滞塞せんことを恐れた。ここにおいて缺けたるをこれを補い、倾きたるをこれを葺き、ほとんど精藍・福地が、勝迹の久しく湮するに致らず、しこうして紺殿・瑶宮が、あるいは狂瀾を既倒に挽かんことを庶う。敢えて曰わんや、漢に溯り唐に洄り、ここに勝れたりと。西の吼え東の震うも、これに頼りて墜ちざるなり、と。敬みて貞珉(りっぱな石)に勒し、もって志して不朽ならしむ、これ叙と為す。
康熙五十二年四月八日,传临济正宗第三十五世弘法沙门释源如琇撰并书,古亳王施仁镌石。
康熙五十二年四月八日、臨済正宗第三十五世を伝うる弘法沙門・釈源如琇撰し并びに書す、古亳の王施仁石に鐫る。
「重修釈源大白馬寺殿宇碑記」
佛生西域,汉以前未通中国。至梁武时达摩西来,为震旦第一祖,教化始大行于天下。然而溯柰园之朔,实起于汉明帝之永平七年。尔时帝梦金人,飞至殿庭,旦问群臣,有傅毅奏其由。帝遣博士王尊、蔡愔等,求佛法于西域,遇摩腾、竺法兰二神僧,得佛经四十二章及白氎影像,以白马驮至洛阳。帝于雍门外立白马寺,寺实天下佛氏祖庭也。余为诸生时,性癖涉猎,览史至此,尝思一过洛阳,凭吊遗迹,以道远,弗能致也。康熙庚寅岁,余由京口量移河郡,营务之暇,访南宫旧址,始得登清凉台,一偿夙愿。又晤方丈颍公讳如琇者,翩翩儒家子,诗文字画,凌轹一时,余益洒然,喜不胜。所惜者,洛阳遭闯逆蹂躏,绀宫红楼,悉为灰烬。白马虽岿然独存,而金粉零星,土木凋残,想明帝之初制,不无盛衰之感云。阅二岁,再驱车过之,登其台,见毗卢一阁,丹流云表,辉生霄汉,余洒然异之。更逾岁,复以事过其地,而大殿、山门、配殿等,俱灿然陆离,大改前观,余益洒然异之。未几,颍公来谒余,请余文志其事。余问颍公曰:“阿谁檀樾兴功如之钜与?”颍公曰:“此苍髯公之力也。”余问其故,公曰:“寺有古柏数株,余谋诸山主黄璘、黄运隆、黄肇等,售金若干;兼以耕三余一、耕九余三之力,加之邑侯高公讳镐,捐俸若干,数载经营,粗完斯功。”余闻之爽然自失,叹未曾有。若颍公者,可谓高僧矣!较之捧簿渔利,相去可道里计哉!于戏!余既喜登清凉台,以酬素抱,又得颍公为尘外之交,余纵不能文,敢以不文辞耶?余以此尤有感焉。夫颍公一衲子也,僧名山卧三竿亦其分也,乃克苦行梵修不愧其职;而世之高牙大纛,尸位素餐者,闻颍公此举,可以油然而兴矣!况余待罪此土,赋性庸拙,日夜惴惴,惟以有负朝廷之简任是惧。余是以不觉缘事生感,临文兴惕也,乃踊跃而为之记。
仏は西域に生まれ、漢以前は未だ中国に通じなかった。梁の武帝の時に至り達摩が西より来たり、震旦(中国)第一の祖となり、教化が始めて大いに天下に行われた。しかしながら柰園(祇園精舎になぞらえた寺)の朔(はじめ)を溯れば、実に漢の明帝の永平七年に起こる。その時、帝は金人が殿庭に飛び至るを夢み、旦に群臣に問い、傅毅ありてその由を奏した。帝は博士の王尊、蔡愔らを遣わし、佛法を西域に求めさせ、摩騰・竺法蘭の二神僧に遇い、仏経四十二章および白氎(白綿布)の影像を得て、白馬をもって洛陽に駄い至った。帝は雍門外に白馬寺を立て、寺は実に天下の仏氏の祖庭である。余が諸生(書生)であった時、性の癖として広く渉猟し、史を覧てここに至り、かつて一たび洛陽に過り、遺迹を凭吊(弔問)せんと思ったが、道遠きをもって、致すことができなかった。康熙の庚寅の歳、余は京口より河郡(河南府)に量移され、営務の暇に、南宮の旧址を訪ね、始めて清凉台に登るを得て、一たび夙願を償った。また方丈の颍公、諱を如琇なる者に晤う。翩翩たる儒家の子で、詩文・字画は一時を凌轹(凌駕)し、余はいよいよ洒然として、喜び勝えなかった。惜しむべきは、洛陽が闯逆(李自成の乱)の蹂躙に遭い、紺宮・紅楼が、ことごとく灰燼となったことである。白馬〔寺〕は岿然として独り存すといえども、金粉は零星、土木は凋残し、明帝の初制を想えば、盛衰の感なきにあらず、と。二歳を閲て、再び車を駆りてこれを過り、その台に登ると、毗盧の一閣が、丹(あか)は雲表に流れ、輝は霄漢(大空)に生ずるを見て、余は洒然としてこれを異とした。更に一歳を逾え、復た事をもってその地を過ると、大殿・山門・配殿らが、俱に灿然陸離(きらびやか)で、大いに前観を改めており、余はいよいよ洒然としてこれを異とした。未だ幾ばくもなくして、颍公が来たりて余に謁し、余に文もてその事を志すを請うた。余は颍公に問いて曰く、阿誰(たれ)の檀樾(檀越・施主)が功を興すこと之くのごとく鉅(おお)いなるか、と。颍公曰く、これ蒼髯公(白馬寺の古柏を指す)の力なり、と。余はその故を問うと、公曰く、寺に古柏数株あり、余は山主の黄璘・黄運隆・黄肇らに諮り、金若干に售り、あわせて「耕三余一・耕九余三」(三年耕して一年、九年耕して三年の余蓄)の力をもって、これに邑侯の高公、諱は鎬の、俸を捐ずること若干を加え、数載経営して、粗ぼこの功を完うした、と。余はこれを聞きて爽然として自失し、未曾有なるを歎じた。颍公のごとき者は、高僧と謂うべし。簿を捧げて利を漁る〔者〕に較ぶれば、相去ること道里(里数)をもって計るべけんや。ああ。余はすでに清凉台に登るを喜び、もって素抱(かねての志)に酬い、また颍公を得て塵外の交わりとなす。余は縦い文能わずとも、敢えて不文をもって辞せんや。余はこれをもってとりわけ感あり。それ颍公は一〔介の〕衲子(僧)なり、僧の名として山に臥し三竿(日が三竿高く昇るまで)〔眠る〕もまたその分なり。しかも克く苦行梵修してその職に愧じず。しかるに世の高牙大纛(高位)にして、尸位素餐(無為に禄を食む)の者、颍公のこの挙を聞かば、油然として興るべし。況んや余がこの土に罪を待ち、賦性庸拙、日夜惴惴として、ただ朝廷の簡任(選任)に負くあるをもってこれ懼るるをや。余はこれをもって覚えず事に縁りて感を生じ、文に臨みて惕(おそ)れを興し、すなわち踊躍してこれが記を為すのである。
原任兵部车驾司郎中□肇新篆额,赐进士出身、河南府城守备加一级、庐阳江总兵总撰,大学生邑人孟习苏书丹,康熙五十五年岁次丙申春月吉旦。两序知事:监院如灿,副寺如学,维那性慧,知事生智,典座性宝,悦众道荣,副悦道纯、了无、了然,座主了凡,照客道弘,行者道□,西堂心禄,书记了机,知客性诚,直岁性宽,知众性方,知殿了贤,侍者了见,堂主了全,贴案了尘,香灯道仙,佛事了相同立石。
原任兵部車駕司郎中の□肇新篆額し、賜進士出身・河南府城守備加一級・庐陽の江総兵総撰し、大学生にして邑人の孟習蘇書丹す、康熙五十五年歳次丙申春月吉旦。両序の知事──監院の如灿、副寺の如学、維那の性慧、知事の生智、典座の性宝、悦衆の道栄、副悦の道純・了無・了然、座主の了凡、照客の道弘、行者の道□、西堂の心禄、書記の了機、知客の性誠、直歳の性寛、知衆の性方、知殿の了賢、侍者の了見、堂主の了全、貼案の了塵、香灯の道仙、仏事の了相、同じく石を立つ。
「釈源大白馬寺舎利塔霊異記」
己巳之岁二月八日,孝明皇帝驾幸鸿胪卿寺,谒二三藏,问对数次,弥加礼重。时迦叶摩腾启陛下曰:“寺之东邻是何馆室?”皇帝曰:“彼中畴,昔无故忽然涌起,可及丈余,人或之平,寻复隆阜。其上往往时发光明。民所异之,乃闻上国政,因该祀典,遂名‘洛阳土地之神’。其所阜者,土俗谓之圣冢,凡所祝告,皆随恳愿。自周而下,蝉联祭享,情未知由。”三藏曰:“噫,余尝于中印度躬览全藏,其中有云,如来灭度百年之后,有阿恕伽王造八万四千七宝塔,安佛舍利,耶舍罗汉,运以神通,将右手掩日,放八万四千光,摄众宝塔,住彼光内,旁视四维,上极空界,八万四千,同时而葬。”又曰:“东土支那,有一十九处。世主有缘,为时而出。余今至此,屡日神光,无异中印度。今陛下所言圣冢者,乃十九数中之一,必不虚焉。”是时,二三藏遂请皇帝并百寮同诣圣冢前。三藏敷座具而谛礼,皇帝与宰臣亦礼。当礼次,圣冢上现一圆相影,二三藏兼皇帝三身如鉴照容,分明内现。其余臣寮,但睹其光,不现其身。众相谓曰:“我辈寡福,不现其身。”由是念言,各见自身,独在光内。皆曰:“其光偏照于我。”已而二三藏以梵语赞叹,而众咸称未之有也。时皇帝圣情悦怿,语二三藏曰:“朕若不偶二师,岂能觉佛遗祐乎?”自是方深信释迦牟尼真身舍利之塔也。皇帝遂敕所司,命禀三藏制度,崇建浮图。自是年三月一日起首,至庚午岁十二月八日,厥功告毕。凡九层,高五百尺,岌若岳峙,号曰齐云。至后周二年四月八日,塔上现五色神光,天香氤氲,罔知何至。而自光中出一金掌,持起宝塔,可高尺余,色如琉璃,内外明彻,自午及申,微微方隐。时皇帝洎宰臣并士庶咸瞻胜相,钦玩无斁。人之右绕,光亦右绕;人之左旋,光亦左旋。皆悉叹仰,不知所以然而然也。当是寺数千众,中有梵僧九人,僧伽摩罗等咸谓:“正是阿恕伽王七宝所造之塔真样也。竺乾亦有三处,我曾数礼奉,因是灵感,弥益信心,庆流终古。”
己巳の歳二月八日、孝明皇帝は鴻臚卿寺(鴻臚寺)に駕幸し、二三蔵に謁し、問対すること数次、いよいよ礼を重んじた。時に迦葉摩騰が陛下に啓して曰く、寺の東隣はこれ何の館室ぞ、と。皇帝曰く、あの中は、むかし故なくして忽然と涌き起こり、丈余に及ぶほどになった。人が或いはこれを平らにしても、ほどなくまた隆く阜となった。その上には往々にして時に光明を発した。民はこれを異とし、そこで上国の政に聞こえ、よって祀典に該り、ついに「洛陽土地の神」と名づけた。その阜となったところを、土俗はこれを「聖冢」と謂い、およそ祝告するところ、みな懇願に随う。周より下、蝉聯として祭享し、その由はいまだ知られなかった、と。三蔵曰く、噫(ああ)、余はかつて中印度において躬から全蔵を覧たが、その中に云うあり、如来滅度の百年の後、阿恕伽王(阿育王)ありて八万四千の七宝塔を造り、仏舎利を安んじた。耶舎羅漢は神通をもって運び、右手を将て日を掩い、八万四千の光を放ち、衆宝塔を摂め、かの光の内に住まわせ、傍らに四維を視、上は空界を極め、八万四千は同時に葬られた、と。また曰く、東土の支那に、一十九処あり。世主に縁あれば、時のために出づ。余は今ここに至り、屡日神光あり、中印度と異なることなし。今、陛下の言う聖冢なる者は、すなわち十九数の中の一つであり、必ず虚しからざるなり、と。この時、二三蔵はついに皇帝ならびに百寮を請いて同じく聖冢の前に詣らせた。三蔵は座具を敷きて諦礼し、皇帝と宰臣もまた礼した。礼するの次、聖冢の上に一つの円相の影が現れ、二三蔵ならびに皇帝の三身が、鑑が容を照らすがごとく、分明に内に現れた。その余の臣寮は、ただその光を睹るのみで、その身は現れなかった。衆は相謂いて曰く、我輩は福寡くして、その身現れず、と。これによって念言するに、おのおの自身の、独り光内にあるを見た。みな曰く、その光は偏に我を照らす、と。已にして二三蔵が梵語をもって讃嘆すると、衆はみな未だこれあらずと称した。時に皇帝の聖情は悦怿し、二三蔵に語りて曰く、朕もし二師に偶わずんば、あによく仏の遺祐を覚らんや、と。これより始めて釈迦牟尼の真身舎利の塔なるを深く信じた。皇帝はついに所司に敕し、三蔵の制度に禀るを命じ、浮図を崇建させた。この年の三月一日より起首し、庚午の歳十二月八日に至り、その功を告げ畢えた。およそ九層、高さ五百尺、岌として岳のごとくにそびえ、号して斉雲と曰った。後周二年四月八日に至り、塔上に五色の神光が現れ、天香が氤氲として、いずくより至るかを知らず。しこうして光の中より一つの金掌出で、宝塔を持ち起こしたが、高さ尺余ばかり、色は琉璃のごとく、内外明徹であった。午より申に及び、微微としてようやく隠れた。時に皇帝ならびに宰臣ならびに士庶は、みなこの勝相を瞻て、欽み玩ぶこと斁(いと)うことなし。人が右に繞れば、光もまた右に繞り、人が左に旋れば、光もまた左に旋る。みなことごとく歎き仰ぎ、そのしかる所以を知らずしてしかるのであった。この寺の数千の衆、中に梵僧九人あり、僧伽摩羅らはみな謂えらく、まさにこれ阿恕伽王が七宝をもって造った塔の真の様なり。竺乾(天竺)にもまた三処あり、我はかつて数たびこれを礼奉した。これによる霊感によって、いよいよ信心を益し、慶(さいわい)は終古に流れん、と。
是塔来源,人多不解。余遍考塔前碑记,皆荒唐无稽,各执臆说。独柰园内有石碣一方,叙塔之原委。可惜字迹模糊,不成句读,愧不能续其后。继席风穴,躬览佛藏,得是记,喜出望外,方知是塔乃释迦舍利塔也。创于汉之永平己巳,号曰齐云,高五百余尺。余既知其由,何可湮没,敬列贞珉,以志不朽。
この塔の来源は、人多く解せず。余はあまねく塔前の碑記を考うるに、みな荒唐無稽にして、おのおの臆説を執る。独り柰園(境内)の内に石碣一方あり、塔の原委を叙す。惜しむべし、字迹が模糊として、句読を成さず、愧じてその後を続けることができなかった。風穴〔寺〕の席を継ぎ、躬から仏蔵を覧て、この記を得、喜び望外に出で、はじめてこの塔がすなわち釈迦舎利塔なるを知った。漢の永平己巳に創まり、号して斉雲と曰い、高さ五百余尺。余すでにその由を知る、なんぞ湮没すべけんや、敬みて貞珉(りっぱな石)に列し、もって志して不朽ならしむ。
释源颍石琇谨跋,柰林书记笈微机书丹。监院性智、知客性□同众立石。大清雍正十二年三月吉旦。彭店姚进孝镌字。
釈源の颍石琇謹みて跋し、柰林書記の笈微機書丹す。監院の性智、知客の性□、衆と同じく石を立つ。大清雍正十二年三月吉旦。彭店の姚進孝字を鐫る。
『征途訪古述記』
兹略叙白马寺之现况:寺在洛阳城东二十里,其地空旷,望之气象闳庄。第一进山门,标横额曰“白马寺”,系明嘉靖间重建,门前有一对石狮,殆亦系明刻。第二进天王殿,左右塑四天王,中塑关公。第三进大殿,新标一横额曰“万寺灵光”,中塑释迦佛,中左塑文殊菩萨,中右塑普贤菩萨,阿难、迦叶、梵王、帝释、韦驮立侍。第四进法堂,标一直额曰“大雄殿”,中塑释迦佛,左药师佛,右弥勒佛,东西列十八罗汉。第五进接引殿,中塑西方三圣。第六进已在高阜,地名清凉台,正中毗卢阁,中塑毗卢佛;左摄摩腾殿,中塑摄像;右竺法兰殿,中塑竺像。此为殿宇与佛像之大概情形,对于殿宇建筑,余为门外汉,不及细观其形制。
ここに略ぼ白馬寺の現況を叙べる。寺は洛陽城の東二十里に在り、その地は空曠にして、これを望むに気象は闳庄(広大荘厳)である。第一進は山門で、横額を標して「白馬寺」と曰う。明の嘉靖間の重建にして、門前に一対の石獅あり、おそらくまた明刻である。第二進は天王殿で、左右に四天王を塑り、中に関公を塑る。第三進は大殿で、新たに一横額を標して「万寺霊光」と曰う。中に釈迦仏を塑り、中左に文殊菩薩を塑り、中右に普賢菩薩を塑り、阿難・迦葉・梵王・帝釈・韋駄が立侍する。第四進は法堂で、一直額を標して「大雄殿」と曰う。中に釈迦仏、左に薬師仏、右に弥勒仏を塑り、東西に十八羅漢を列ねる。第五進は接引殿で、中に西方三聖を塑る。第六進はすでに高阜に在り、地名を清凉台といい、正中に毗盧閣、中に毗盧仏を塑る。左は摂摩騰殿で、中に摂〔摩騰の〕像を塑り、右は竺法蘭殿で、中に竺〔法蘭の〕像を塑る。これが殿宇と仏像の大概の情形である。殿宇の建築については、余は門外漢であり、細かにその形制を観るには及ばなかった。
旧志:“寺在县东二十五里,汉永平十一年作;宋淳化三年、元至顺四年、明洪武二十三年、嘉靖三十五年先后增修。本朝康熙五十二年,知县高镐、里人黄璘、僧如琇重修。”
旧志〔に曰く〕、「寺は県の東二十五里に在り、漢の永平十一年に作る。宋の淳化三年、元の至順四年、明の洪武二十三年、嘉靖三十五年に先後して増修す。本朝〔清〕の康熙五十二年、知県の高鎬、里人の黄璘、僧の如琇が重修す」〔と〕。
明嘉靖三年孟夏重修白马寺记。碑文内有云:“唐忠臣狄梁公墓,其神道碑尚存。”狄梁公墓在寺的左近,今只剩黄土一堆及晚近所立一碑。
明の嘉靖三年孟夏「重修白馬寺記」。碑文の内に云うあり、「唐の忠臣狄梁公(狄仁傑)の墓、その神道碑なお存す」〔と〕。狄梁公の墓は寺の左近に在り、今はただ黄土一堆および晩近に立てられた一碑を剩すのみ。
明嘉靖三十五年十一月重修古刹白马禅寺记。碑中详记建殿宇、肖佛像之种种事实,足资考据。
明の嘉靖三十五年十一月「重修古刹白馬禅寺記」。碑中に殿宇を建て、仏像を肖る種々の事実を詳らかに記し、考據(考証)に資するに足る。
清康熙五十二年洛京白马寺释教源流碑记。
清の康熙五十二年「洛京白馬寺釈教源流碑記」。
清康熙五十五年重修释源大白马寺殿宇碑记。
清の康熙五十五年「重修釈源大白馬寺殿宇碑記」。
古写真
1907年
1907年、フランスの漢学者シャヴァンヌは河南を踏査した際、白馬寺、寺東の十三層の甎塔、およびその塔の傍らの僧墓と墓塔を撮影した。写真は1909年に出版された『北中国考古図録』に収められた。



1920年代から1930年代
常盤大定・関野貞編『支那文化史蹟』第五輯は、白馬寺の弥勒石像、白馬寺の全景、および東白馬寺の十三層甎塔の調査写真を保存する。1941年に出版された。



参考文献
- 楊富学・王書慶「『敦煌文献 P.2977 に見える初期舎利塔考——あわせて阿育王塔の原型を論ず』」、『敦煌学輯刊』2010年第1期。
- 「『大事記』」(洛陽市政府ウェブサイト):靖康元年十一月の金軍による洛陽陥落、金の大定十五年の白馬寺甎塔再建の条。