恭王府

北京の恭王府の前身は乾隆年間の和珅の邸宅。邸内の楠木の房屋は寧寿宮の制度に倣って建てられ、和珅の二十の大罪の一つに数えられたもので、現在の錫晋斎にあたる。1799年の籍没後、邸第の半分は和孝公主府、半分は慶郡王永璘に賜られ、1852年に咸豊帝が恭親王奕䜣に与えて王府を立てさせ、同治年間に府北の邸園が落成し、1937年に輔仁大学女子学院に改められた。1982年に第二批全国重点文物保護単位に列せられ、現在は恭王府博物館。本文には『清実録』『清史稿』などの文献原文と20世紀の古写真を収録する。

時代
清朝
地域
北京
所在地
北京市西城区前海西街17号
恭王府

概要

什刹海の西岸、前海西街に位置するこの邸第は、信頼できる記録が最も遡れるところでは、乾隆年間の権臣・和珅の邸宅である。和珅は邸内に寧寿宮の制度に倣って楠木の房屋を建て、多宝閣と隔段はすべてその様式に依った。園寓の装飾は円明園の蓬島瑶台と変わるところがなかった。伝承によれば乾隆末年、諸王が集まって儲位の帰属を議した折、話が和珅に及ぶと、一同は争って彼を法に処そうとした。ところが乾隆帝の第十七子・永璘は、自分には皇位への非分の望みはなく、他日分封の際に和珅の邸宅を得て住むことができれば、それで満ち足りると言ったという。嘉慶四年(1799)、和珅は罪を得て、家産の査抄では壁の中に隠した金二万六千余両、地窖に埋めた銀二百余万両が押収された。罪状の宣布では、楠木の房屋と園寓は第十三条の大罪に、隠し金と埋蔵銀は第十八条に数えられた。和珅は、楠木の家は宦官を寧寿宮に遣わして様式を見て倣い建てさせたものだと供述した。その後、この邸第は二分され、半分は和珅の嫁・和孝公主に残され、半分は慶郡王永璘——嘉慶帝の同母の末弟——に賜られた。和珅の園寓は別の財産で、成親王永瑆に賜られた。

永璘はここに二十年間住み、府中には和珅の残した四座の毘盧帽門[1]、五十四件の太平缸[2]、三十六対の銅路灯がずっと置かれたままで、一度も奏明されなかった。嘉慶二十五年(1820)に永璘が亡くなると、その子・綿愍が爵を襲ぎ、襲職するや事実のまま奏報した。諭旨は、これらはすべて和珅がかつて私設した違制の物であると認定した。毘盧帽門は府中で取り壊し改造され、太平缸と銅路灯は内務府に上納されて別途安置され、後に紫禁城の景運門・隆宗門の外に分かれて設けられた。

綿愍は道光十六年(1836)に亡くなり、男子がなかった。清代の規制では爵位は一代継ぐごとに一等降格するが、道光帝は特例として養子に迎えた宗室の奕彩にそのまま郡王を襲がせた。道光二十二年(1842)、奕彩は服喪中に妾を迎え、宗人府[3]に下されて議処され、さらに賄賂を行って免罪を求めた。永璘の第六子・綿性も賄賂を行って王爵の襲封を謀った。事が露見すると、奕彩は爵位を奪われ、綿性は盛京(現在の瀋陽)に流配され、爵位は空位となった。永璘の第五子・綿悌が祭祀を奉じるよう命じられたが、まもなく鎮国将軍に降格され、道光二十九年(1849)に亡くなった。

咸豊二年(1852)、咸豊帝はこの邸第を弟の恭親王奕䜣に与えて王府を立てさせた。府邸西路の慶宜堂は、伝承では慶王の在邸時の旧額で、かつて第十三条の大罪に挙げられた楠木の房屋そのものである。奕䜣はまた府邸の北面に花園を営建した。同治年間に花園が落成すると、咸豊帝から賜った「朗潤」の扁額を園中に掲げ、園はこの名をそのまま用いた。園中には宴席を設けて客をもてなす厅堂があり、怡神所といい、扁額は嘉慶帝の御書である。光緒年間、大学士の宝鋆は園の常客で、かつて怡神所で小酌して劇を観、奕䜣と詩を唱和した。奕䜣は同治初年に両宮太后から倚重された議政王であり、光緒二十四年(1898)春に重い病にかかると、光緒帝は慈禧皇太后を奉じて前後二度、みずから府中に臨んで病を見舞った。四月、奕䜣は薨去し、忠と諡されて太廟に配享され、朝廷は五日間朝政を停めた。

爵位と府邸は奕䜣の孫・溥偉が襲承した。溥偉は弟で画家の溥儒とともにこの邸第に住んでいた。府中の『平復帖』は、伝承では晋代の陸機の自筆で「法帖の祖」の誉れがあり、光緒七年(1881)に奕䜣が成親王府の後人の府務を代管した際に府中に持ち帰ったものである。宣統二年(1910)、溥偉は帖の末尾に跋を題し、所蔵する名蹟百二十種は「此の帖を以て最とす」と称し、そこで「錫晋」と斎を名づけ、慶宜堂はこれ以後錫晋斎と改称され、現在まで保存されている。民国に入ると、溥偉は清室復辟の経費を調達するため、1921年に府邸をカトリック教会の西什庫教堂に抵当に入れた。借金は利子に利子が重なり、十余年後には返済できなくなり、やむなく不動産を売り払った。1937年、恭王府はカトリック教会の運営する輔仁大学の女子学院となり、多福軒は女院図書館に改められた。同年、溥儒は母の葬儀のため『平復帖』を張伯駒に譲り渡し、この法帖は後に故宮博物院に収蔵された。1949年以降、府邸は複数の芸術団体が使用するようになった。1952年の全国の大学の院系調整の際、輔仁大学は廃止され、学部・学科は北京師範大学などに編入された。2002年から恭王府の管理に収められ、現在は恭王府博物館である。

歴史文献

『清実録』

○又谕:昨经降旨,将和珅罪状,宣谕各督抚,令其议罪。兹据直隶总督胡季堂奏称:和珅丧尽天良,非复人类,种种悖逆不臣,蠹国病民,几同川楚贼匪,贪黩放荡,真一无耻小人,丧心病狂,目无君上,请依大逆律凌迟处死,并查出和珅蓟州坟茔,僭妄违制,及附近州县置有当铺资财,现饬查办各等语。又据连日续行抄出和珅金银等物,特再行谕众知之。朕于乾隆六十年九月初三日,蒙皇考册封皇太子,尚未宣布谕旨,而和珅于初二日即在朕前先递如意,漏泄机密,居然以拥戴为功,其大罪一。上年正月,皇考在圆明园召见和珅,伊竟骑马直进左门,过正大光明殿,至寿山口,无父无君,莫此为甚,其大罪二。又因腿疾,乘坐椅轿台入大内,肩舆出入神武门,众目共睹,毫无忌惮,其大罪三。并将出宫女子娶为次妻,罔顾廉耻,其大罪四。自勦办教匪以来,皇考盼望军书,刻萦宵旰,乃和珅于各路军营递到奏报,任意延搁,有心欺蔽,以致军务日久未竣,其大罪五。皇考圣躬不豫时,和珅毫无忧戚,每进见后,出,向外廷人员叙说,谈笑如常,丧心病狂,其大罪六。昨冬皇考力疾披章批谕,字画閒有未真之处,和珅胆敢口称不如撕去,竟另行拟旨,其大罪七。前奉皇考谕旨,令伊管理吏部、刑部事务,嗣因军需销算,伊系熟手,是以又谕令兼理户部题奏报销事件,伊竟将户部事务一人把持,变更成例,不许部臣参议一字,其大罪八。上年十二月内,奎舒奏报循化、贵德二厅贼番聚众千余,抢夺达赖喇嘛商人牛只,杀伤二命,在青海肆劫一案,和珅竟将原奏駮回,隐匿不办,全不以边务为事,其大罪九。皇考升遐后,朕谕令蒙古王公未出痘者不必来京,和珅不遵谕旨,令已未出痘者俱不必来京,全不顾国家抚绥外藩之意,其居心实不可问,其大罪十。大学士苏凌阿两耳重听,衰迈难堪,因系伊弟和琳姻亲,竟隐匿不奏。侍郎吴省兰、李潢、太仆寺卿李光云,皆曾在伊家教读,并保列卿阶,兼任学政,其大罪十一、军机处记名人员,和珅任意彻去,种种专擅,不可枚举,其大罪十二。昨将和珅家产查抄,所盖楠木房屋,僭侈逾制,其多宝阁及隔段式样,皆仿照宁寿宫制度,其园寓点缀,竟与圆明园蓬岛瑶台无异,不知是何肺肠,其大罪十三、蓟州坟茔,居然设立享殿,开置隧道,附近居民有和陵之称,其大罪十四。家内所藏珍宝,内珍珠手串竟有二百余串,较之大内多至数倍,并有大珠,较御用冠顶尤大,其大罪十五。又宝石顶并非伊应戴之物,所藏真宝石顶有数十余个,而整块大宝石不计其数,且有内府所无者,其大罪十六。家内银两及衣服等件,数逾千万,其大罪十七。且有夹墙藏金二万六千余两,私库藏金六千余两,地窖内并有埋茂银两百余万,其大罪十八。附近通州、蓟州地方,均有当铺钱店,查计资本又不下十余万。以首辅大臣,下与小民争利,其大罪十九。伊家人刘全,不过下贱家奴,而查抄赀产,竟至二十余万,并有大珠及珍珠手串,若非纵令需索,何得如此丰饶?其大罪二十。其余贪纵狂妄之处,尚难悉数,实从来罕见罕闻者。著将胡季堂原折发交在京文武三品以上官员,并翰詹科道阅看,即著悉心妥议具奏。此内如有自抒所见者,不妨另折封陈,若意见皆合,即连衔具奏。至福长安祖父叔侄兄弟,世受厚恩,尤非他人可比。其在军机处行走,与和珅朝夕聚处,凡和珅贪黩营私,种种不法罪款,知之最悉。伊受皇考重恩,常有独对之时,若果将和珅纵恣藐玩各款,据实直陈,较之他人举劾,尤为确凿有据。皇考心早将和珅从重治罪正法,如从前办理讷亲之案,何尝稍有宽纵,岂尚任其贻误军国重务,一至于此?即谓皇考高年,不敢仰烦圣虑,亦应在朕前据实直陈。乃三年中并未将和珅罪迹奏及,是其扶同徇隐情弊显然。如果福长安曾在朕前有一字提及,朕断不肯将伊一并革职拏问。现在查抄伊家资物,虽不及和珅之金银珠宝,数逾千万,但已非伊家之所应有。其贪黩昧良,仅居和珅之次,并著一并议罪。

○また諭す:昨日旨を降し、和珅の罪状を各督撫に宣諭し、その罪を議させた。ここに直隷総督・胡季堂の奏称によると、和珅は天良を喪い尽くし、もはや人類にあらず、種々悖逆して臣たらず、国を蠹し民を病め、ほとんど川楚の賊匪に同じく、貪黩放蕩、まことに恥知らずの小人、心を喪い病んで狂い、目に君上なく、大逆の律に依り凌遅に処して死なしめんことを請う。ならびに和珅の薊州の墳塋が僭妄にして制に違い、および附近の州県に当舗の資財を置けることを査出し、現に査弁を飭す、等の語。また連日続けて和珅の金銀等の物を抄出せしにより、特に再び衆に諭して之を知らしむ。朕は乾隆六十年九月初三日に、皇考より皇太子の冊封を蒙ったが、いまだ諭旨を宣布せざるに、和珅は初二日に即ち朕の前に在りて先んじて如意を遞し、機密を漏洩し、居然として擁戴を以て功と為せり。其の大罪一。上年正月、皇考、円明園に在りて和珅を召見せしに、伊は竟に馬に騎りて直ちに左門に進み、正大光明殿を過ぎ、寿山口に至る。父無く君無きこと、此より甚だしきは莫し。其の大罪二。又た腿疾に因り、椅轎に乘坐して大内に入り、肩輿にて神武門を出入す。衆人目を共に睹るところ、毫も忌憚する無し。其の大罪三。併せて宮を出でたる女子を娶りて次妻と為す。廉恥を罔顧せず。其の大罪四。教匪を勦辦せし以来、皇考は軍書を盼望し、刻に宵旰に縈れり。乃ち和珅は各路の軍営より遞到する奏報を任意に延擱し、心有りて欺蔽し、以て軍務日久しく未だ竣えざるに致る。其の大罪五。皇考の聖躬不豫の時、和珅は毫も憂戚無く、毎に進見の後、出でて外廷の人員に向かい叙説し、談笑すること常の如し。心を喪い病み狂えり。其の大罪六。昨冬、皇考は疾に力めて章を披き諭を批し、字画の閒に未だ真ならざるの処有りしに、和珅は胆敢えて口に「撕去するに如かず」と称し、竟に別に旨を擬す。其の大罪七。前に皇考の諭旨を奉じ、伊をして吏部・刑部の事務を管理せしめ、嗣いで軍需の銷算に因り、伊は熟手に係るを以て、是の故に又た諭して兼ねて戸部の題奏報銷事件を理せしめしに、伊は竟に戸部の事務を一人に把持し、成例を変更し、部臣に一字を参議することを許さず。其の大罪八。上年十二月内、奎舒の奏報する、循化・貴徳二庁の賊番、衆を聚むること千余、達頼喇嘛の商人の牛只を搶奪し、二命を殺傷し、青海に在りて肆に劫する一案を、和珅は竟に原奏を駮回し、隠匿して辦せず、全く辺務を以て事と為さず。其の大罪九。皇考升遐の後、朕は諭して蒙古王公の未だ痘を出ださざる者は必ずしも来京するを須いざれとせしに、和珅は諭旨に遵わず、已に出だし未だ出ださざる者をして俱に必ずしも来京するを須いざらしむ。全く国家の外藩を撫綏するの意を顧みず。其の居心実に問うべからず。其の大罪十。大学士蘇凌阿は両耳重聴、衰邁にして堪え難し。伊の弟和琳の姻親に係るに因り、竟に隠匿して奏せず。侍郎呉省蘭・李潢、太僕寺卿李光雲は、皆なかつて伊の家に在りて教読し、併せて卿階に保列し、兼ねて学政を任ず。其の大罪十一。軍機処の記名人員を、和珅は任意に徹去す。種種の専擅、枚挙すべからず。其の大罪十二。昨、和珅の家産を査抄するに、蓋いし所の楠木の房屋、僭侈して制に逾え、其の多宝閣及び隔段の様式は皆な寧寿宮の制度に仿照し、其の園寓の点綴は竟に円明園の蓬島瑶台と異なる無し。是何の肺腸なるかを知らず。其の大罪十三。薊州の墳塋には居然として享殿を設立し、隧道を開置す。附近の居民に和陵の称有り。其の大罪十四。家内の蔵する所の珍宝、内の珍珠手串は竟に二百余串有り、大内に較べて数倍に至る多し。併せて大珠有り、御用の冠頂に較べて尤も大なり。其の大罪十五。又た宝石頂は并せて伊の応に戴くべきの物に非ざるに、蔵する所の真の宝石頂は数十余個有り、而して整块の大宝石は其の数を計らず、且つ内府の無き所有り。其の大罪十六。家内の銀両及び衣服等の件、数は千万に逾ゆ。其の大罪十七。且つ夾墻に金を蔵すること二万六千余両、私庫に金を蔵すること六千余両、地窖内に并せて銀を埋蔵すること二百余万両有り。其の大罪十八。附近の通州・薊州の地方、均しく当舗銭店有り、査計すれば資本又た十余万を下らず。首輔大臣を以て、下に小民と利を争う。其の大罪十九。伊の家人劉全は、過ぎず下賤の家奴にして、而して査抄する赀産、竟に二十余万に至り、併せて大珠及び珍珠手串有り。若し縦令して需索せしむるに非ざれば、何ぞ此の如く豊饒なるを得んや。其の大罪二十。其の余の貪縦狂妄の処、尚お悉く数え難し。実に从来罕く見罕く聞く者なり。胡季堂の原折を将ちて在京の文武三品以上の官員、并びに翰詹科道に発交して閲看せしめ、即ち悉心に妥議し具奏せしめよ。此の内、若し自ら見る所を抒ぶる者有らば、別に折を封じて陳するを妨げず。若し意見皆な合わば、即ち銜を連ねて具奏せよ。福長安の祖父叔姪兄弟に至っては、世々厚恩を受け、尤も他人の比ぶべきに非ず。其の軍機処に行走するや、和珅と朝夕に聚処し、凡そ和珅の貪黩営私、種種の不法の罪款、之を知ること最も悉し。伊は皇考の重恩を受け、常に独対の時有り。若し果たして和珅の縦恣藐玩の各款を将ちて実に据り直ちに陳せば、他人の挙劾に較べて、尤も確鑿として拠有らん。皇考の心は早く和珅を将ちて重く治罪し正法せんとす。从前の訥親の案を辦理せしが如し。何ぞ嘗て稍も寛縦有らんや。あに尚お其の軍国の重務を貽誤するを一に此に至るまで任さんや。即ち皇考の高年を謂い、敢えて仰ぎて聖慮を煩わさずとも、亦た応に朕の前に在りて実に据り直ちに陳ずべし。乃ち三年の中、并びて和珅の罪跡を奏及せず。是れ其の扶同徇隠の情弊顕然たり。如果し福長安かつて朕の前に在りて一字を言及せしこと有らば、朕は断じて肯んじて伊を并せて革職拏問せざらん。現在、伊の家の資物を査抄するに、和珅の金銀珠宝に及ばずと雖も、数は千万に逾ゆ。但だ已に伊の家の応に有るべき所に非ず。其の貪黩昧良、僅かに和珅の次に居る。并せて一つに議罪せしめよ。

《清实录·仁宗睿皇帝实录》卷三十七,嘉庆四年(1799)正月甲戌 (『清実録・仁宗睿皇帝実録』巻三十七、嘉慶四年(1799)正月甲戌)

○谕内阁:前据萨彬图奏:和珅财产甚多,断不止查出之数,必有埋藏寄顿、侵蚀挪移等项情獘。刑部查审时,司员等意存含混,应请密派大臣研讯追究等语。朕以其言不足取,当即详加开导,不可苛求。昨又据萨彬图具奏,向伊亲戚问出和珅家掌管金银内帐使女四名,请交伊一人至慎刑司提讯,所言更属乖谬。萨彬图系副都统,并非原派籍没和珅之员,乃忽思越俎,欲以一人独讯数女子,且开列使女之名,形之奏牍,达于朕前,实为从来未有之事。朕若即加駮饬,转恐不足以服其心。是以特派怡亲王永琅、尚书布彦达赉,同萨彬图提集使女等,再三究讯,仍无指实,果不出朕之所料。永琅、布彦达赉素称公正和平,萨彬图亦会同研鞫,更有何人为之徇隐?岂伊尚不凭信,必请朕廷讯使女乎?是萨彬图无知妄渎之罪,百喙难辞矣。朕所以办理和珅者,原因其蠹国病民,专擅狂悖,和珅一日不除,则纲纪一日不肃,是以即于正月初八日,将各珅革职拏问,宣示罪状,用申国宪。犹念其在皇考前扶掖奔走微劳,不忍肆诸市朝,节降谕旨甚明,天下臣民,自必咸知朕意。自办理此案后,军机王大臣及大臣中,如朱圭等,从未于朕前奏及和珅财产隐寄,乃萨彬图屡以为言,竟似利其私蓄者然。岂萨彬图视朕为好货之主,敢以此尝试乎?或伊心欲陷朕等。于唐之德宗,伊亦未必有此伎俩也。向来治罪之员,多有应行查抄者,况和珅获罪重大,焉有不行抄藉之理?自古有籍没之例,所以惩戒贪黩,初不计多寡而事株连。即和珅家仆刘全、呼什图等,亦因平日倚恃和珅声势,横肆不法,招摇受贿,不可不一并查抄治罪。在朕方以办理此案,为日已久,已觉过当,是以谕令速结,不为已甚。而无识之徒,鳃鳃计较和珅财产,不惟不知政体,实太不知仰体朕之本意矣。朕在藩邸时,则一切财用,犹有人己之别。今以天下为家,岂仅以藏诸府库者视为己有?此项查抄资物,纵有隐寄,自朕观之,亦不过在天之下、地之上耳,何必辗转根求,近于搜括间架陌钱等事耶?萨彬图又以内务府、步军统领官员均意存袒护,并疑及刑部,亦不肯认真究问,则承审各衙门举不足信乎?又萨彬图折内有和珅窖埋金银,大概不离住宅之语,和珅之宅,已赏给庆郡王永璘居住,和珅之园已赏给成亲王永瑆居住,若将所指管帐使女严切刑求,必致畏刑妄供:某物埋藏某处,以庆郡王府第、成亲王寓园,令番役多人遍行掘视,断无此事,岂有令成亲王、庆郡王自行刨挖之理?现在朕赐公主物件甚多,累日携运不尽,焉肯转向公主、额驸追问寄顿?况连日阅查抄物件,即随时颁赐者,亦复不少耶?萨彬图原以阁学兼副都统,因其未娴清语,恐以读本错误,护咎,故开阁学之缺,令其专管旗务,得资廉俸养瞻。前盛京兵部侍郎出缺时,朕本欲将萨彬图补授,复念其家计艰难,恐与伊父达椿分居两地,日用或致不给,故令铁保前往。又达椿于本年超升阁学,并授蒙古副都统,旋调满洲旗分,且将伊缘事监禁之女乌苏氏释放。是朕之体恤萨彬图父子,加恩不啻再三。萨彬图不知感戴,辄以此等谬妄之言渎听,竟以欲藉追究和珅财产为图报之地,实为卑鄙不堪聚敛之臣。朕断不用。前严饬给事中明绳开矿一事,旨内详言及此,萨彬图宁不知之耶?又萨彬图曾奏请派京兵五千名,交伊一人带往勦贼,今又奏请独审此事。萨彬图才具平庸,有何阅历,而于出师谳狱之事,自任不疑若此,其谬妄冒渎之咎,实难宽贷。萨彬图著交部严加议处,先将副都统开缺另简。至所奏伊戚告知管帐使女之语,乃刑部员外郎哈丰阿所言。哈丰阿系刑部司员,既有所闻,何不禀知堂官,乃私向亲戚议论,实属意存取巧。哈丰阿亦著交部严加议处,即行开缺。嗣后大小臣工,不得再以和珅资产妄行渎奏。将此通谕知之。

○内閣に諭す:先に薩彬図の奏によると、和珅の財産は甚だ多く、断じて査出の数に止まらず、必ず埋藏・寄頓、侵蝕・挪移等項の情獘有り。刑部が査審する時、司員等は意に含混を存し、密かに大臣を派して研訊追究せんことを請うべし、等の語。朕は其の言の取るに足らざるを以て、当に即ち詳しく開導を加え、苛求すべからずとした。昨又た薩彬図の具奏によると、伊の親戚に向かい和珅の家の金銀内帳を掌管する使女四名を問い出し、伊一人に交えて慎刑司に至り提訊せんことを請う。言う所は更に乖謬に属す。薩彬図は副都統に係り、并びに元来和珅の籍没に派せられし員に非ず。乃ち忽ち越俎を思い、一人を以て独り数女子を訊かんと欲し、且つ使女の名を開列し、之を奏牘に形にし、朕の前に達す。実に从来未だ有らざるの事なり。朕若し即ち駮飭を加えば、転じて其の心を服するに足らざるを恐る。是の故に特に怡親王永琅・尚書布彦達賚を派し、薩彬図と同じく使女等を提集し、再三究訊せしむも、仍お指実無し。果たして朕の料る所を出でず。永琅・布彦達賚は素より公正和平と称し、薩彬図も亦た会して研鞫せり。更に何人か之が徇隠を為さん。あに伊は尚お憑信せず、必ず朕に使女の廷訊を請わんや。是れ薩彬図の無知妄涜の罪、百喙も辞し難し。朕の和珅を辦理する所以の者は、原因は其の国を蠹り民を病め、専擅狂悖なればなり。和珅一日除かれざれば、則ち綱紀一日粛ならず。是の故に即ち正月初八日に、和珅を将ちて革職拏問し、罪状を宣示し、以て国憲を申す。猶お其の皇考の前に在りて扶掖奔走の微労を念い、市朝に肆とするに忍びず。節々に降す諭旨は甚だ明らかなり。天下の臣民、自ずから必ず皆な朕の意を知らん。此の案を辦理するの後より、軍機王大臣及び大臣の中、朱圭等の如き、未だかつて朕の前に和珅の財産の隠寄を奏及せず。乃ち薩彬図は屢々以て言と為し、竟に其の私蓄を利する者の然るに似たり。あに薩彬図は朕を視て貨を好むの主と為し、敢えて此を以て嘗試せんとするか。或いは伊の心は朕を陥れんと欲して唐の徳宗の如くならんとするか。伊も亦た必ずしも此の伎倆有るに非ざるなり。向来、罪を治めらるるの員、多く行うべき査抄有り。況んや和珅の獲罪は重大、あに抄藉を行わざるの理有らんや。自古、籍没の例有り。貪黩を懲戒する所以、初め多寡を計らずして株連を事とせず。即ち和珅の家僕劉全・呼什図等も、亦た平日和珅の声勢に倚恃し、横肆不法、招揺して賄を受くるに因り、一つに并せて査抄治罪せざるべからず。朕に在りては方に此の案を辦理するに、日を為すこと已に久しく、已に過当なるを覚ゆ。是の故に諭して速結せしめ、已甚と為さず。而るに無識の徒、鰓鰓として和珅の財産を計較し、惟だ政体を知らざるのみならず、実に太だ仰ぎて朕の本意を体するを知らざるなり。朕は藩邸に在る時、則ち一切の財用、猶お人己の別有り。今、天下を以て家と為す。あに僅かに府庫に蔵する所の者を以て己有と視なさんや。此の査抄の資物、縦い隠寄有らばも、朕より之を観れば、亦た過ぎず天の下・地の上に在る耳。何ぞ必ずしも輾転として根求し、間架陌銭を搜括する等の事に近からんや。薩彬図又た内務府・歩軍統領の官員は均しく意に袒護を存し、并びて刑部に疑い及ぼし、亦た肯んじて真剣に究問せずと以てす。則ち承審の各衙門は挙げて信ずるに足らざるか。又た薩彬図の折内に、和珅の窖埋の金銀、大概住宅を離れずの語有り。和珅の宅は已に慶郡王永璘に賞給して居住せしめ、和珅の園は已に成親王永瑆に賞給して居住せしめたり。若し指す所の管帳の使女を将ちて厳切に刑求せば、必ず刑を畏れて妄りに供するに致らん、某物は某処に埋藏すと。慶郡王の府第・成親王の寓園を以て、番役多人をして遍く掘視せしめんこと、断じて此の事無し。あに成親王・慶郡王をして自ら刨挖せしむるの理有らんや。現在、朕の公主に賜う物件甚だ多く、累日も携運して尽きず。あに肯んじて転じて公主・額駙に向かい寄頓を追問せんや。況んや連日査抄の物件を閲し、即ち時に随い頒賜する者も、亦た復た少なからざるを。薩彬図は元より閣学を以て副都統を兼ぬ。其の未だ清語に嫻らざるに因り、読本の錯誤を以て咎を護らんことを恐れ、故に閣学の缺を開き、其をして専ら旗務を管せしめ、廉俸を資として瞻を養うを得しむ。前に盛京兵部侍郎の缺出でし時、朕は本より薩彬図を将ちて補授せんと欲し、復た其の家計の艱難を念い、伊の父達椿と分居し両地に在り、日用或いは給せざるに致らんことを恐れ、故に鉄保をして前往せしむ。又た達椿は本年に於いて閣学に超升し、并びに蒙古副都統を授かり、旋ち満洲旗分に調し、且つ伊の事に縁りて監禁せられし女の烏蘇氏を釈放す。是れ朕の薩彬図父子を体恤し、恩を加うること啻に再三ならず。薩彬図は感戴を知らず、輙ち此等の謬妄の言を以て聴を涜し、竟に和珅の財産の追究を藉りて以て報を図るの地と為さんと欲す。実に卑鄙堪えざる聚斂の臣なり。朕は断じて用いず。前に給事中明縄の開鉱の一事を厳飭するに、旨内に詳しく此に言及す。薩彬図、寧ろ之を知らざらんや。又た薩彬図はかつて京兵五千名を派し、伊一人に交えて帯往して賊を勦わんことを奏請し、今又た独り此の事を審かんことを奏請す。薩彬図は才具平庸、何の閲歴か有らん。而して出師讞獄の事に於いて、自ら任じて疑わざること此の如し。其の謬妄冒涜の咎、実に寛貸し難し。薩彬図は部に交えて厳しく議処を加え、先ず副都統を開缺し別に簡ぶべし。奏する所の伊の戚が管帳の使女を告知するの語に至っては、乃ち刑部員外郎哈豊阿の言う所なり。哈豊阿は刑部の司員に係り、既に聞く所有れば、何ぞ堂官に禀知せざる。乃ち私に親戚に向かい議論す。実に意に取巧を存するに属す。哈豊阿も亦た部に交えて厳しく議処を加え、即ち開缺を行うべし。嗣後、大小の臣工、再び和珅の資産を以て妄りに涜奏することを得ざれ。此を将ちて通諭し之を知らしめよ。

《清实录·仁宗睿皇帝实录》卷四十三,嘉庆四年(1799)四月癸丑 (『清実録・仁宗睿皇帝実録』巻四十三、嘉慶四年(1799)四月癸丑)

○庚午,谕内阁:本日据阿克当阿代庆郡王绵愍转奏,伊府中有毗卢帽门口四座,太平缸五十四件,铜路灯三十六对,皆非臣下应用之物,现在分别改造呈缴。国家设立制度,辨别等威,一名一器,不容稍有僭越。庆亲王永璘府第,本为和珅旧宅,此等违制之物,皆系当日和珅私置,及永璘接住以后,不知奏明更改,相沿至二十年之久。设当永璘在日查出,亦有应得之咎。今伊子绵愍甫经袭爵,即知据实呈报,所办甚是。所有毗卢帽门口,该府业已自行拆改,其交出之太平缸、铜路灯,著内务府大臣另行择地安设,并通谕亲王、郡王、贝勒、贝子及各大臣等:会典内王公百官一应府第器具,俱有定则,以昭限制。如和珅之骄盈僭妄,必至身罹重罚,后嗣陵夷。各王公大臣等均当引以为戒。凡邸第服物,务恪遵定宪,敬慎自持,宁失之不及,不可稍有僭逾,庶几久膺爵禄,永保令名也。

○庚午、内閣に諭す:本日、阿克当阿が慶郡王綿愍に代わり転奏するに、伊の府中に毘盧帽門口四座、太平缸五十四件、銅路灯三十六対有り。皆非な臣下の応に用うべきの物に非ず。現在分別して改造し呈繳すと。国家の制度を設立するは、等威を辨別す。一名一器、稍も僭越有るを容れず。慶親王永璘の府第は、本より和珅の旧宅。此等の違制の物は、皆な当日和珅の私置に係る。永璘の接住以後に及び、奏明更改を知らず、相沿うこと二十年の久しきに至る。設し永璘の在日に査出せられなば、亦た応に得るべきの咎有らん。今、伊の子綿愍は甫めて爵を襲ぐを経、即ち実に据りて呈報するを知る。辦する所甚だ是なり。所有の毘盧帽門口は、該府已に自ら拆改し、其の交出の太平缸・銅路灯は、内務府大臣に著して別に地を択び安設せしめ、并びに親王・郡王・貝勒・貝子及び各大臣等に通諭す:会典内の王公百官の一応の府第器具は、俱に定則有り。以て限制を昭らかにす。和珅の驕盈僭妄の如きは、必ず身に重罰を罹り、後嗣は陵夷に至る。各王公大臣等均しく引きて以て戒めと為すべし。凡そ邸第服物、務めて恪く定憲に遵い、敬慎して自ら持し、寧ろ之を不及に失すとも、稍も僭逾すべからず。庶幾くは久しく爵禄を膺け、永く令名を保たん。

《清实录·仁宗睿皇帝实录》卷三百七十,嘉庆二十五年(1820)五月庚午 (『清実録・仁宗睿皇帝実録』巻三百七十、嘉慶二十五年(1820)五月庚午)

○乙丑,上奉慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后幸恭亲王府视疾。

○乙丑、上、慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕皇太后を奉じて恭親王府に幸し、疾を視す。

○丁卯,上奉慈禧端佑康颐昭豫庄诚寿恭钦献崇熙皇太后幸恭亲王府视疾。

○丁卯、上、慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕皇太后を奉じて恭親王府に幸し、疾を視す。

《清实录·德宗景皇帝实录》卷四百十七,光绪二十四年(1898)闰三月乙丑、丁卯 (『清実録・徳宗景皇帝実録』巻四百十七、光緒二十四年(1898)閏三月乙丑・丁卯)

『清史稿』

庆僖亲王永璘,高宗第十七子。乾隆五十四年封贝勒。嘉庆四年正月,仁宗亲政,封惠郡王,寻改封庆郡王。三月,和珅诛,没其宅赐永璘。

慶僖親王永璘は、高宗の第十七子。乾隆五十四年、貝勒に封ず。嘉慶四年正月、仁宗親政し、恵郡王に封じ、尋いで慶郡王に改封す。三月、和珅誅せられ、其の宅を没して永璘に賜う。

《清史稿》列传八(诸王七)“庆僖亲王永璘传”,民国赵尔巽等撰 (『清史稿』列伝八(諸王七)「慶僖親王永璘伝」、民国の趙爾巽ら撰)

子绵愍袭郡王。绵愍奏府中有毗卢帽门山四座,太平缸五十四件,铜路镫三十六对。上谕曰:庆亲王府第本为和珅旧宅,凡此违制之物,皆和珅私置。嗣后王贝勒、贝子当依会典服物,宁失之不及,不可僭逾,庶几永保令名。府置谙达二,亦命裁汰。

子の綿愍、郡王を襲ぐ。綿愍、奏して曰く、府中に毘盧帽門山四座、太平缸五十四件、銅路鐙三十六対有りと。上、諭して曰く、慶親王の府第は本より和珅の旧宅。凡そ此の違制の物は、皆な和珅の私置。嗣後、王・貝勒・貝子は当に会典の服物に依るべく、寧ろ之を不及に失すとも、僭逾すべからず。庶幾くは永く令名を保たん、と。府に諳達二を置くも、亦た裁汰を命ず。

《清史稿》列传八(诸王七)“庆僖亲王永璘传”,民国赵尔巽等撰 (『清史稿』列伝八(諸王七)「慶僖親王永璘伝」、民国の趙爾巽ら撰)

道光三年正月,赐绵愍三眼孔雀翎管雍和宫中正殿。十六年十月薨,赐银四千治丧,谥曰良。上命再袭郡王一次。以仪顺郡王绵志子奕彩为后,袭郡王。十七年正月,命在御前行走。二十二年十月,奕彩以服中纳妾,下宗人府议处。奕彩行赇请免。永璘第六子辅国公绵性亦行赇,觊袭王爵。事发,奕彩夺爵,绵性戍盛京,以永璘第五子不入八分镇国公绵悌奉永璘祀。旋又坐事,降镇国将军。二十九年卒,以绵性子奕劻为后。三十年,袭辅国将军。

道光三年正月、綿愍に三眼孔雀翎を賜い、雍和宮中正殿を管せしむ。十六年十月薨ず。銀四千を賜い喪を治めしめ、諡して良と曰う。上、命じて再び郡王を襲がしむること一次。儀順郡王綿志の子奕彩を以て後と為し、郡王を襲ぐ。十七年正月、御前に在りて行走するを命ず。二十二年十月、奕彩、服中に妾を納るを以て、宗人府に下し議処す。奕彩、資を行い免れんことを請う。永璘の第六子・輔国公綿性も亦た資を行い、王爵を襲がんことを覬る。事発し、奕彩は爵を奪われ、綿性は盛京に戍る。永璘の第五子・不入八分鎮国公綿悌を以て永璘の祀を奉ぜしむ。旋ち又た事に坐し、鎮国将軍に降る。二十九年卒す。綿性の子奕劻を以て後と為す。三十年、輔国将軍を襲ぐ。

《清史稿》列传八(诸王七)“庆僖亲王永璘传”,民国赵尔巽等撰 (『清史稿』列伝八(諸王七)「慶僖親王永璘伝」、民国の趙爾巽ら撰)

『嘯亭続録』

庆亲王府在三转桥,系和珅宅。

慶親王府は三転橋に在り、和珅の宅に係る。

《啸亭续录》卷二“京师王公府第”,清昭梿撰 (『嘯亭続録』巻二「京師王公府第」、清の昭梿撰)

『京師坊巷志稿』

啸亭续录:庆亲王府在三转桥,系和珅宅又云:庆僖亲王讳永璘,纯庙十七子,乾隆末年,或有。私议储位者,王曰:天下至重,何敢妄觊?惟冀他日将和珅邸第赐居,则愿足矣。故睿庙籍没和珅,即将其宅赐王以酬。昔言谨案:庆王府今为恭亲王府。王为宣宗六子,同治初任议政,后复任军机大臣。

嘯亭続録:慶親王府は三転橋に在り、和珅の宅に係る。又た云く、慶僖親王は諱を永璘、純廟の十七子。乾隆末年、或いは私かに儲位を議する者有り。王曰く、天下は至重、何ぞ敢えて妄りに覬けんや。惟だ冀らくは他日、和珅の邸第を将ちて居に賜わらば、則ち願い足れり、と。故に睿廟は和珅を籍没し、即ち其の宅を将ちて王に賜い以て酬う。昔言謹んで案ずるに、慶王府は今は恭親王府と為る。王は宣宗の六子、同治の初め議政を任じ、後に復た軍機大臣を任ず。

《京师坊巷志稿》卷上“内城北城·三座桥”,清朱一新撰、缪荃孙补,光绪二十三年义乌葆真堂刻本 (『京師坊巷志稿』巻上「内城北城・三座橋」、清の朱一新撰、繆荃孫補、光緒二十三年義烏葆真堂刻本)

梁章钜归田琐记:和珅籍没后,分其第半为和孝公主府,半为庆亲王府。公主盖和之子丰伸、殷德所尙者也。嘉庆二十五年,庆亲王薨,管府事阿克当阿代嗣郡王,呈出昆庐帽门口四座,太平缸五十有四,铜路灯三十六对,皆亲王所不应有之。物,而和珅有之。铜路灯,较大内所陈尤为精致。今分设景运隆宗两门外。

梁章鉅『帰田瑣記』:和珅籍没の後、其の第を分かち半ばを和孝公主府と為し、半ばを慶親王府と為す。公主は蓋し和の子豊伸殷徳の尙りし所の者なり。嘉慶二十五年、慶親王薨ず。府事を管する阿克当阿、嗣郡王に代わり、昆廬帽門口四座、太平缸五十有四、銅路灯三十六対を呈出す。皆な親王の応に有るべからざるの物にして、而して和珅之を有てり。銅路灯は、大内の陳する所に較べて尤も精緻なり。今、景運・隆宗の両門外に分設す。

《京师坊巷志稿》卷上“内城北城·三座桥”所引《归田琐记》,清朱一新撰、缪荃孙补 (『京師坊巷志稿』巻上「内城北城・三座橋」所引の『帰田瑣記』、清の朱一新撰、繆荃孫補)

『天咫偶聞』

恭忠亲王邸在银定桥,旧为和珅第,从李公桥引水环之,故其邸西墙外小溪清驶,水声霅然。其邸中山池,亦引溪水,都城诸邸,惟此独矣。珅败,以赐庆亲王。相传乾隆之末,诸王相聚,语及和珅,争欲致之法,王独无言。仁宗及诸王诘之,王曰:我自顾无此大志,但欲异日分封时,得居其第足矣。一笑而罢。珅败,上竟如其言。恭邸分府,乃复得之。邸北有鉴园,则恭邸所自筑。宋牧仲有过银定桥旧居诗,或即此第乎?

恭忠親王の邸は銀定橋に在り、旧くは和珅の第。李公橋より水を引きて之を環らす。故に其の邸の西墻外の小溪は清く駛り、水声霅然たり。其の邸中の山池も亦た溪水を引く。都城の諸邸、惟だ此れ独りのみ。珅敗れ、以て慶親王に賜う。相伝えて曰く、乾隆の末、諸王相聚まり、語和珅に及ぶや、争うて之を法に致さんと欲す。王独り言無し。仁宗及び諸王之を詰る。王曰く、我自ら顾みて此の大志無し。但だ異日分封の時、其の第に居るを得ば足れり、と。一笑して罷む。珅敗れ、上竟に其の言の如くす。恭邸分府の時、乃ち復た之を得たり。邸の北に鑑園有り。則ち恭邸の自ら筑く所。宋牧仲に銀定橋旧居を過るの詩有り。或いは即ち此の第か。

《天咫偶闻》卷四“北城”,清震钧撰 (『天咫偶聞』巻四「北城」、清の震鈞撰)

『竹葉亭雑記』

和珅查抄议罪后,分其第半为和孝公主府,半为庆亲王府。及嘉庆二十五年,庆亲王薨,五月十五日,管府事阿克当阿、代郡王愍绵呈出毗卢帽门口四座,太平缸五十有四,铜路镫三十六对,皆和家故物也。此顶亲王尚不应有,而和乃有之,庆亲王未及奏者。且二十年,缸较大,内稍小,镫则较内为精致,因分设于紫禁。今景运、隆宗两门外,凡所陈设铁缸及白石座、细铜丝罩之路镫,皆其物也。

和珅、査抄され罪を議せられた後、其の第を分かち半ばを和孝公主府と為し、半ばを慶親王府と為す。嘉慶二十五年に及び、慶親王薨ず。五月十五日、府事を管する阿克当阿、郡王愍綿に代わり、毘盧帽門口四座、太平缸五十有四、銅路鐙三十六対を呈出す。皆な和家の故物なり。此れは親王に頂くも尚お応に有るべからず。而して和は乃ち之を有つ。慶親王は奏するに及ばざりし者。且つ二十年。缸は較べて大にして、内は稍や小。鐙は則ち内に較べて精緻と為す。因りて紫禁に分設す。今、景運・隆宗の両門外、凡そ陳設する所の鉄缸及び白石座・細銅糸罩の路鐙は、皆な其の物なり。

《竹叶亭杂记》卷二,清姚元之撰 (『竹葉亭雑記』巻二、清の姚元之撰)

『芸風堂雑鈔』

一问和珅,现在查钞你家产,所盖楠木房屋,僭侈逾制,并有多心。

一、和珅に問う。現在なんぢの家産を査鈔するに、蓋いし所の楠木の房屋は僭侈して制を逾え、并せて多心有りと。

奴才城内原不该有楠木房子,多宝阁及福段式样,是奴才打发太监胡什同到宁寿宫看的式样仿照盖造的。至楠木都是奴才自己买的,玻璃柱子内陈设都是有的,总是奴才糊涂该死。

奴才は城内に元より楠木の房子を有つべからず。多宝閣及び福段の様式は、是れ奴才が太監の胡什同を打ち発たせ寧寿宮に到りて様式を看させ、仿照して蓋造せしめし者なり。楠木に至っては都是れ奴才が自ら買いし者、玻璃柱子内の陳設は都是れ有り。总是れ奴才の糊涂、死に該たる。

《艺风堂杂钞》卷三“和致斋相国事辑”所收和珅供词,清缪荃孙辑 (『芸風堂雑鈔』巻三「和致斎相国事輯」所収の和珅供詞、清の繆荃孫輯)

『文靖公遺集』

山色远悠然,心遐地自偏。有情欣竹拜,无用爱匏悬。园杏红披锦,阶苔翠晕钱。衢歌闲击壤,浩荡帝尧天。

山色遠くして悠然、心遐ければ地自ずから偏なり。有情は欣んで竹に拜し、無用は愛す匏の懸るを。園杏は紅にして錦を披き、階苔は翠にして銭を暈す。衢歌は閒かに壤を撃ち、浩蕩たり帝堯の天。

《文靖公遗集》卷八“敬次鉴园主人持赠元韵”,清宝鋆撰 (『文靖公遺集』巻八「敬次鑑園主人持贈元韻」、清の宝鋆撰)

中秋前三日,赴鉴园主人雅约,欢然畅叙。

中秋前三日、鑑園主人の雅約に赴き、歓然として暢叙す。

时在坐者为李兰荪协揆荣仲华司空绍葛民都护崇受之少空。率成一律,聊志欣感。

時に在坐する者は李蘭蓀協揆・栄仲華司空・紹葛民都護・崇受之少空なり。率ねて一律を成し、聊か欣感を誌す。

掀髯一笑广寒游,十二红栏百尺楼。天上桂花香雪海,云边枫叶锦屏秋。放怀飒爽风生袖,顾影萧骚霜满头。共祝团豳好朋月,年年诗酒列仙俦。

髯を掀きて一笑する広寒の游。十二の紅欄、百尺の楼。天上の桂花、香なる雪海。雲辺の楓葉、錦屏の秋。懐を放ちて颯爽として風は袖に生じ、影を顾れば蕭騒として霜は頭に満つ。共に祝す團圞たる好朋の月、年年の詩酒は列仙の儔。

《文靖公遗集》卷十二“中秋前三日,赴鉴园主人雅约,欢然畅叙”诗及自序,清宝鋆撰 (『文靖公遺集』巻十二「中秋前三日、鑑園主人の雅約に赴き、歓然として暢叙す」の詩及び自序、清の宝鋆撰)

怡神所小饮观剧,敬和鉴园主人原韵。

怡神所に小飲し劇を観る。敬んで鑑園主人の原韻に和す。

不知今夕是何年,锦瑟峥嵘五十弦。箫倚凤凰歌并妙。觞飞鹦鹉酒争传。蕊珠宫峻尊诗圣,群玉峰高悦众仙。我亦蟠桃花底客,岁星学步大罗天。

今夕は是れ何の年ぞやを知らず。錦瑟崢嶸として五十弦。簫は鳳凰に倚り歌并せて妙。觴は鸚鵡を飛ばし酒争い伝わる。蕊珠の宮峻くして詩聖を尊び、群玉の峰高くして衆仙を悦ばす。我も亦た蟠桃花底の客、歳星は歩を学び大羅の天。

再叠怡神所招饮观剧元韵。

再び怡神所の招飲観劇の元韻を畳ねる。

喜值羲皇熙皞年,雅宜急管趁繁弦。春生竹叶金杯漾,夜永莲花玉漏传。素履安閒真古佛,红尘游戏即飞仙。怡神得所宫庭法,远胜三唐白乐天。

喜び値う羲皇の熙皥の年。雅く宜しく急管は繁弦に趁う。春は竹葉に生じ金杯漾え、夜永くして蓮花、玉漏伝わる。素履安閒、真の古仏。紅塵の游戯、即ち飛仙。怡神の所を得るは宮庭の法。遠く勝る三唐の白楽天。

《文靖公遗集》卷十二“怡神所小饮观剧,敬和鉴园主人原韵”“再叠怡神所招饮观剧元韵”二首,清宝鋆撰 (『文靖公遺集』巻十二「怡神所小飲観劇、敬和鑑園主人原韻」「再畳怡神所招飲観劇元韻」二首、清の宝鋆撰)

『萃錦吟』

庆宜堂避暑偶作。

慶宜堂に暑を避け偶作。

积善欣余庆,安闲更得宜。留欢殊自惬,出语总成诗。竹翠烟深锁,荷喧雨到时。乐天庶知命,此外复何为。

善を積みて余慶に欣び、安閑更に宜しきを得たり。歓を留め殊に自ら惬り、語を出でば総て詩と成る。竹翠煙深く鎖し、荷喧しく雨至るの時。楽天庶幾くは命を知らん、此の外復た何をか為さん。

邸第西斋,颜曰庆宜堂。传闻系庆邸居时旧额。

邸第の西斎、額して慶宜堂と曰う。伝聞、慶邸の居時の旧額に係ると。

堂内敬悬道光闲成庙御书,赐额曰:乐寿安身。

堂内に敬んで道光閒成廟の御書を懸く。賜額に曰く、楽寿安身と。

《萃锦吟》卷五“庆宜堂避暑偶作”诗及自注,清奕䜣撰;原书小字自注另列于诗后 (『萃錦吟』巻五「慶宜堂避暑偶作」の詩及び自注、清の奕䜣撰、原書の小字自注は詩後に別列)

佩蘅相国、醖卿大司农今岁皆八旬正寿,因于邸中朗润园置酒为贺。翌日相国寄赠一律,即次元韵奉和。

佩蘅相国・醖卿大司農、今歳皆な八旬の正寿。因りて邸中の朗潤園に酒を置きて賀と為す。翌日、相国より一律を寄贈す。即ち次いで元韻に奉和す。

怡神在灵府,高卧偃羲皇。皓彩中宵合,金釭凝夜光。盐梅已佐鼎,绮席遰华觞。寿爵传三礼,明星映碧堂。

怡神は霊府に在り、高臥して羲皇に偃す。皓彩は中宵に合し、金釭は夜光を凝らす。鹽梅已に鼎を佐け、綺席は華觴を遰る。寿爵は三礼を伝え、明星は碧堂に映ず。

园内设席处,敬悬仁庙御书匾额,曰怡神所。

園内の席を設くる処、敬んで仁廟の御書扁額を懸く。曰く怡神所と。

遰,一作递。

遰は、一に递と作る。

《萃锦吟》卷三“佩蘅相国醖卿大司农今岁皆八旬正寿”诗序、诗及自注,清奕䜣撰;小字自注另列于诗后 (『萃錦吟』巻三「佩蘅相国醖卿大司農今歳皆八旬正寿」の詩序・詩及び自注、清の奕䜣撰、小字自注は詩後に別列)

朗润观荷,并志。

朗潤にて荷を観る。并せて誌す。

海淀园寓为咸丰辛亥显庙赐居,锡名朗润,当即镌额恭悬,并自撰记,以志殊恩。已刊入乐道堂文钞,兹不复赘。嗣于同治年间,邸园落成,敬将御书墨宝装裱悬挂,故亦名曰朗润。年来淀园多故,未能尝往盘桓,遂至半就荒芜。今岁命园丁稍为修葺,补种芰荷数亩,虽未能尽复旧观,聊可小住居停,藉消长夏。抚今忆昔,不能无感慨之意云:

海淀の園寓は咸豊辛亥、顕廟の賜居。名を錫めて朗潤とす。当に即ち額を鐫り恭しく懸け、并せて自ら記を撰み、以て殊恩を誌す。已に楽道堂文鈔に刊入せり。兹に復た贅せず。嗣いで同治年間に於いて、邸園落成し、敬んで御書の墨宝を将ちて装裱し懸挂す。故に亦た名づけて朗潤と曰う。年来、淀園多故、かつて往きて盤桓すること能わず、遂に半ば荒蕪に就くに至る。今歳、園丁に命じて稍や修葺を為さしめ、補いで芰荷数畝を種う。未だ尽く旧観を復する能わずと雖も、聊か小住居停し、藉りて長夏を消すべし。今を撫し昔を憶えば、感慨の意無きこと能わずと云う。

点溪荷叶叠青钱,半采红莲半白莲。姬姹含情娇不语,东西分艳蒂相连。落花舞絮成春梦,感物吟诗对暮天。低槛晚晴笼翡翠,鹭鸶飞破夕阳烟。

谿に点く荷葉は青銭を畳ね、半ば採る紅蓮、半ば白蓮。姫姹は情を含み嬌として語らず、東西は艶を分かち蔕相連る。落花舞絮は春夢と成り、物に感じ詩を吟じて暮天に対す。低檻の晚晴は翡翠を籠め、鷺鷥は飛び破る夕陽の煙。

《萃锦吟》卷五“朗润观荷并志”诗序及诗,清奕䜣撰 (『萃錦吟』巻五「朗潤観荷并志」の詩序及び詩、清の奕䜣撰)

『故都変遷記略』

辅仁大学在定阜大街,为涛贝勒府旧址。辅仁中学。男部在大学东侧,门临李广桥西街。恭王府旧在李广桥南街,近亦售归辅仁大学。司铎书院在恭王府南三座桥之西北,内五区。区署在刘海胡同。恭王府东墙外。大翔凤胡同,旧名大墙缝胡同;小翔凤胡同,旧名小墙缝胡同。

輔仁大学は定阜大街に在り、濤貝勒府の旧跡。輔仁中学、男部は大学の東側に在り、門は李広橋西街に臨む。恭王府は旧く李広橋南街に在り、近ごろ亦た輔仁大学に售り帰す。司鐸書院は恭王府南の三座橋の西北、内五区に在り。区署は劉海胡同に在り。恭王府の東墻外。大翔鳳胡同は旧名大墻縫胡同。小翔鳳胡同は旧名小墻縫胡同。

《故都变迁记略》卷七“内五区”,民国余棨昌编,民国三十年(1941)铅印本 (『故都変遷記略』巻七「内五区」、民国の余棨昌編、民国三十年(1941)鉛印本)

古写真

20世紀前半頃

図集の初期の王府影像の出所に基づき、おおよそ20世紀前半頃に帰属するものとした。図集の初発報道は、その中の大量の写真がこの時期の出版物に見られると記している。この写真は『老照片中的大清王府』からのもので、恭王府博物館影像庫が公布した。画面は垂花門に正対し、門の両側に花格墻が設けられ、門洞の内側に別の建築の檐部と門窓が見える。

1922—1930年間

以上の八枚はオスヴァルド・シレーン(Osvald Sirén)の『中国園林』(Gardens of China)に収録され、ニューヨークのRonald Press Companyより1949年に出版された。恭王府博物館研究館員の郝黎は、彼の入府撮影が1922—1930年間にあったと記述している。原書は一枚ごとに撮影年を標記していない。写真はそれぞれ堂前の池岸、滴翠岩、詩画舫、観魚台および入口の畳石の旧貌を示す。『品鑑|片山多くの趣を致し、寸石に情を生ず』を参照。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府旧影:安善堂前の柳樹、池岸と廊廡。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府旧影:滴翠岩、秘雲洞洞口と山上の台榭。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府旧影:詩画舫、池岸と垂柳。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府旧影:観魚台の近景。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府旧影:観魚台、庭院と東側の長廊。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府旧影:花園入口の門形の畳石。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府花園平頂亭の旧影:亭頂の四周に欄杆が設けられ、前方に樹木および山石がある。

オスヴァルド・シレーン『中国園林』所収の恭王府花園の舗地の旧影:小石で駱駝隊の紋様を拼り、周辺を幾何学紋様で引き立てている。

1932—1940年頃

『中国古建築図典』の書序は、選ばれた画像が営造学社の1932—1940年の調査に由来することを説明しており、この写真はその範囲に基づき年代を標記した。第二巻にこの写真が収録され、「北平恭王府一角」と題されている。画面は廊下から庭院を望み、近処は廊柱および彫飾、院内に楼閣・欄杆と山石が見える。

1940年(掲載)

二枚の出所:『「多福軒」の歴史沿革と修繕保護』。年代および画像の同定は『恭王府多福軒室内陳設復原研究』を参照。

多福軒が輔仁大学図書館に改作された時期の外景。堂前の台阶、廊柱と門窓が見える。恭王府博物館の『「多福軒」の歴史沿革と修繕保護』がこの写真を公布した。館方の陳設復原研究はこれを1940年の輔仁大学同学会会刊に掲載された写真としている。1940年は掲載年である。

多福軒が輔仁大学女部図書館に改作された後の室内。学生が長机を囲んで座り閲覧し、上方に依然として天花と「尚徳延禧」の扁額が見える。この写真は館方の『「多福軒」の歴史沿革と修繕保護』が公布したもので、陳設復原研究は1940年会刊掲載の女部図書館内景と注記している。

参考資料