概要
ラブラン寺は甘粛省甘南チベット族自治州夏河県、大夏河の上流の北岸にある。寺名「ラブラン」はチベット語「ラジャン」(拉章)の音写で、活仏の住まいを意味する。清代の地方志にはそのチベット語名が「札木奇爾」と記されており、今日「扎西奇寺(タシキー寺)」と呼ばれる所以である。康熙四十八年(1709)、青海ホショト部の貝勒[1]チャガン・ダンジン(察罕丹津、のち親王に進封)は高僧ンガワン・ツォンドゥ(阿旺宗哲)を招いて故郷の大夏河谷に寺を建てさせ、五百戸の属民を寺の香火戸[2]として献じた。ンガワン・ツォンドゥはかつてラサのデプン寺(哲蚌寺)の堪布、すなわち寺の住持を務め、後世には一世ジャムヤン(嘉木様)と呼ばれる。康熙五十年(1711)秋、八十本の柱を持つ大経堂が落成し、続いて嘉木様仏殿、下続部学院が相次いで建成した。寺院とそれに寄り添う町はこうして大夏河北岸に育ち、後に六つの学院を擁するチベット仏教ゲルク派[3]の大寺、歴世ジャムヤン活仏の駐錫地となった。
ラブラン寺のあるこの一帯は、乾隆年間にはすでに循化庁の地境に編入されていたが、寺そのものは青海蒙古の郡王の管轄にあり、いわゆる「寺は庁地にあり、しかし庁の所属ではない」という状態だった。乾隆年間、僧衆は郡王の勢いを恃み、しばしば近隣の各番(チベット系部落)と土地を争い、訴訟が絶えなかった。そのうち黒錯寺との裁判は、十九年にも及んだ。乾隆十三年(1748)より、ラブラン寺は僧を黒錯寺に派遣して法台(住持)に就かせ、乾隆三十七年までに前後七人を送り出していた。この年、黒錯寺の僧俗は、かつて蔵から招かれた法台が松潘に転生したと聞き、松潘から迎えることに改めた。ラブラン寺は承服せず、寺僧の加木様がただちに訴え出た。裁判は青海都統、蘭州知府、循化同知による何度もの審断と翻案を経て、乾隆五十五年(1790)にようやく「各々が各寺を治める」ことで結ばれた。志書を纂修した循化庁同知の龔景瀚は、この寺についてさらに厳しい筆を下している。彼は案語に「ラブラン寺はもとより豪富である」と記し、またあからさまに「循化の腹心の一害」と呼び、寺院を取り壊して蒙古の地に移し建て直せば「後患を絶つ」ことになると主張した。
嘉慶二十二年(1817)、ラブラン寺は循化の南西にある隆務寺と、一つの寺院の管轄権をめぐって訴訟を起こした。西寧弁事大臣ナルスンガはラブラン寺の喇嘛の一方の言い分を聞き入れ、陝甘総督の長齢に書簡を送り、三四千の撒拉尔兵(現在の撒拉族)を動員して隆務側を剿滅し、鹵獲した牲畜を兵士に賞与しようとした。翌年、長齢はナルスンガが案巻を見もせず軽率に兵を動かそうとしたと弾劾し、朝廷は「弁事大臣の任に堪えず」として彼を部に付して議処した。道光初年、陝甘総督の那彦成は青海の番務を整頓し、ラブラン寺を設防すべき関門と見なした。この寺は四川松潘一帯の番人が茶葉、鉛磺、鉄器、食糧を交易する集散の通路であり、査勘の委員は寺のそばにカ隘を設け、官兵百名を常駐させて稽査することを請願した。那彦成は番務に言及した際、ラブラン・宗卡・隆務の三寺は「喇嘛を二三万人に招き集め」、僧侶が多すぎて奸徒が潜まないとも限らないと見積もった。そして茶と食糧の禁令は、これらの大寺の命脈を扼したも同然だった。
同治十二年(1873)、買吾など八部族の番民は洮州への帰属変更を願い出た。陝甘総督の左宗棠は、ラブランと買吾らの部は「事同じ一体」であると裁定し、あわせて洮州に帰属させた。彼は同時に記している。ラブランの各寺は徴収した貨物の厘金[4]を五千両缴公としたが、「毎年収用する二十余万については、かつて問うたことがない」と。翌年、左宗棠が奏報した陝甘軍需の清算明細書にも、「甘粛ラブラン番寺の捐款銀四千八百一十六両を収む」という一項があった。光緒八年(1882)、官府が番族の積案を査弁した際、嘉木様呼図克図は出面して番衆の帰服を説得し、その功により「広済禅師」の名号を賜った——「呼図克図」は清朝が大活仏を冊封する際の職銜である。光緒十五年(1889)末、循化庁のラブラン寺の番僧が械闘を起こし、鎮圧の後、番例に照らして断結された。同日、朝廷はさらにラブラン寺に対し、四川が追跡する逃亡犯の棒周を引き渡すよう厳しく命じた。光緒十八年(1892)になってもこの案件は決着せず、嘉木様呼図克図自身も訴えられ、朝廷は陝甘総督と四川側にそれぞれ委員を派遣して査弁させた。光緒二十三年(1897)まで引きずられてようやく決着した。ラブラン寺は占拠していた川辺の番寨を退出して銀物を賠償し、棒周はついに捕らえられなかった。
民国十六年(1927)6月、甘粛省はラブラン設治局(県設置前の過渡的機関)を設け、省政府に直属させた。翌年の元月に夏河県に改められ、大夏河に因んで名づけられた。民国年間に纂修された地方志は甘粛の建築を記録する中で、わざわざ「夏河県のラブラン寺は、金瓦がとりわけ多い」と記した。1932年より、米国の記者ハリソン・フォーマン(Harrison Forman)は何度もラブラン寺を訪れ、この寺院の系統的な映像記録を残した。1937年の彼のレンズには、足場を組んで修繕中の仏殿もあれば、二十一歳になったばかりの五世ジャムヤン・テンペイ・ギャルツェン(丹貝堅賛)も写っていた。
抗日戦争の期間、五世ジャムヤンはラブランに所属する百八寺と各部落を組織して前線を支援した。1938年、彼は三兄の黄正基に僧俗の代表を率いさせ、重慶と各戦区への慰問に赴かせた。1943年、彼は『宣伝抗建のため蒙蔵同胞に告げる書』(『为宣传抗建告蒙藏同胞书』)を書き上げ、チベット語と漢文の二つの文字で刊行し、甘・青・川が接する牧区の各地に携えて講演し、また兄の黄正清とともに捐献を発起し、戦闘機三十機を購入できる巨額の資金を集めた。国民政府はラブラン寺に「輸財衛國」の扁額を颁賜した。彼は告同胞書の末尾で願を立てた。「抗戦の将士が世々安楽を享け、国家が万年永固し、世界が永久に平和でありますように」。
歴史文献
《循化厅志》(『循化庁志』)
拉卜楞寺在甘家寨,青海蒙古郡王所辖。
ラブラン寺は甘家寨にあり、青海蒙古の郡王が管轄した。
按拉卜楞寺,番名札木奇尔,寺在厅地而非厅所属。僧众杂还,倚恃郡王之势,屡与各番争地,控案不一而足。又招内属番族为其所属,或藏匿亡命,此循化腹心之一害也。当令拆毁,于蒙古界别建寺字,不许在内地,以绝后患。拉卜楞即拉布楞,番语也。
案ずるに、ラブラン寺は番語の名を札木奇爾という。寺は庁の地にありながら、庁の所属ではない。僧衆は雑多に集まり、郡王の勢いを恃んで、しばしば各番と土地を争い、訴訟は尽きることがない。また内属の番族を招き入れて自己の所属とし、あるいは逃亡者を匿う。これは循化の腹心の一害である。取り壊させ、蒙古の地に別に寺を建て、内地に置くことを許さず、もって後患を絶つべきである。ラブランとはラブレンのことであり、番語である。
黑作寺在黑作寨厅治南二百八十里。
黑作寺は黑作寨にあり、庁治の南二百八十里にある。
按今呼黑错寺,番名札木喀尔寺,据拉卜塄呈,又称为加卡尔寺。
案ずるに、今は黒錯寺と呼ぶ。番語の名は札木喀爾寺といい、ラブランの呈文によれば、また加卡爾寺ともいう。
康熙二十一、二年间,土官喇嘛盆错却合旦建。雍正二年,该番投诚,始归厅辖。寺内住持,前为蒙古亲王代庆和硕齐于西藏请噶尔旦胡图克图即夕只喇嘛,未详年分,是为该寺法台之始。其后夕只喇嘛赴藏物故,至乾隆十三年,始以拉卜楞寺僧在黑错寺坐床管事,至三十七年,前后共选七人。嗣黑错僧俗闻夕只转生出世,在松潘地方,而拉卜楞寺所放法台又作践滋扰,心怀不服,遂于松潘请喇嘛坐床管事。而拉卜楞寺僧加木样又名札木养,不甘,于三十七年八月呈控青海都统伍,同知张春芳未及细查,但照旧令拉卜楞寺选放。黑错不遵,拉卜楞寺僧又控,都统委大喇嘛索克𠂔、通事刘福才,会同张同知审断,令各管各寺,其法台仍由黑错自行延请,详批完结。
康熙二十一、二年の間、土官の喇嘛盆錯却合旦が建てた。雍正二年、その番が誠に帰り、はじめて庁の管轄に帰した。寺の住持は、かつて蒙古親王の代慶和碩斉が蔵から噶爾旦胡図克図すなわち夕只喇嘛を招いたもので、年分は詳らかでない。これがこの寺の法台のはじまりである。その後、夕只喇嘛は蔵に赴いて亡くなり、乾隆十三年に至り、はじめてラブラン寺の僧が黒錯寺で坐牀して管事となり、三十七年までに前後あわせて七人が選ばれた。ところで黒錯の僧俗は、夕只が松潘の地に転生して出ていると聞き、しかもラブラン寺の任じた法台がまた横暴で揉め事を起こすので、心に承服せず、ついに松潘から喇嘛を請けて坐牀して管事とした。ラブラン寺の僧の加木様、別名を札木養は承服せず、三十七年八月に青海都統の伍に訴えた。同知の張春芳は詳しく調べず、ただ旧例のままラブラン寺に選ばせた。黒錯は従わず、ラブラン寺の僧はまた訴え、都統は大喇嘛の索克𠂔、通事の劉福才に命じ、張同知とともに審断し、各々が各寺を治め、その法台はなお黒錯が自ら迎え請すこととして、詳細に裁可して完結した。
其后都统伍离任,加木样又翻控,委河州业中、候补知县黎珠,同青海员外即百,于三十九年诣黑错查讯,因该寺有当年蒙古亲王改建之说,议令法台由郡王选放,不得仍放拉卜楞寺僧。而加木样不遵断出结,复控都宪。四十一年,委署兰州府康基田、前同知张春芳、署同知谢桓会审,议以黑错寺与拉卜楞寺蒙古喇嘛本无干涉,番民公共香火延请法台,自应听从民便。加木样本不得违众强争,而该处寺院僧俗悉属内地粮民,蒙古喇嘛尤不得公然争控。其所执印照,一为康熙三十七年达赖喇嘛给盆错却合旦之物,拉卜楞既代管多年,何难窃取而托之前生相好布施,不知死后照存何处,转生又何以偕来?妄诞已甚。一为乾隆二十九年章嘉呼图克图所给,内载西北蒙古部落,东南至松潘,并喀加六族皆属管,而今查讯喀加二十一寨寺庙,并无该寺放法台者;一为乾隆十三年蒙古亲王江克楚所给,其中以朝廷粮户属之喇嘛,尤属不合。应请照前次西宁大喇嘛所断,各管各寺,各具译结存案,并咨明理藩院立案。批准饬遵,并咨青海大人,饬郡王追销执照。加木楞未遂所欲,以审断不公,复控青海,移咨查讯。四十二年,饬谢同知传唤两造赴省,而谢桓擅带官兵二千人,将黑错僧俗诱获解讯,以致黑错畏惧求和,仍令加木样选放法台,移咨青海,勒石饬遵。然终不能服黑错之心,因转生之夕只喇嘛尚幼,隐忍十余年。至五十四年,遂自放管事,逐出拉卜楞寺所放法台。加木样又控,经厅营会禀,饬司查案议详:以黑错僧俗七百余户,久隶循化厅管辖,耕田输赋,为内地户民。拉卜楞寺系蒙古郡王所辖,何得以外服喇嘛,思将内地粮户占为己有?且寺内法台,乾隆十三年以前,不经拉卜楞寺选放,则黑错寺本非拉卜楞所管,已可概见。所云前生布施,本妄诞之词。果有此情,青海之大喇嘛又何以断令各管各寺?其为借端妄争,已无疑义。今黑错已将旧日法台之夕只喇嘛仍请入寺,是原人仍归本寺,更无可争。从前谢同知谬断,前司草率议结,以久经咨明理藩院之案,忽而翻断,又不咨明理藩院而私勒石,实为错谬。应照从前各管各寺,咨明理藩院查照,并咨青海都统,将加木样严加管束。总督批准,并出示晓谕两寺。
その後、都統の伍が任を離れると、加木様はまた翻案して訴えた。河州の業中と候補知県の黎珠を委員とし、青海員外の即百とともに、三十九年に黒錯に詣でて査訊したが、その寺にはかつて蒙古親王が改建したという説があるため、法台は郡王が選任し、なおもラブラン寺の僧を任じるべきではないと議した。しかし加木様は断結に従わず、また都憲に訴えた。四十一年、蘭州府を署理する康基田、前同知の張春芳、署同知の謝桓を委員として会審し、黒錯寺とラブラン寺の蒙古喇嘛とはもとより関与せず、番民が共に香火を奉じて法台を迎え請するのは、自ずから民の便に聴くべきだと議した。加木様はもともと衆に違って強く争うべきではなく、しかもあの所の寺院の僧俗はことごとく内地の糧民であり、蒙古の喇嘛はなおさら公然と争い訴えるべきではない。彼の執り持つ印照は、一つは康熙三十七年に達頼喇嘛が盆錯却合旦に与えたものであり、ラブランが代管して久しいので、窃取して前生の相好の布施と託するのは難くなく、死後に照がどこに存するか知らず、転生すればなぜ携えて来られるのか。妄誕のきわみである。一つは乾隆二十九年に章嘉呼図克図が与えたもので、内に西北の蒙古部落、東南は松潘に至り、ならびに喀加の六族をすべて管轄と載せているが、今、喀加二十一寨の寺廟を査訊しても、この寺が法台を任じたことはない。一つは乾隆十三年に蒙古親王の江克楚が与えたもので、その中で朝廷の糧戸を喇嘛に属させており、なおさら合わない。前回の西寧大喇嘛の断の通りに各々が各寺を治め、それぞれ訳結を具えて案に存し、ならびに理藩院に咨明して立案すべきことを請けた。批准して遵を飭し、ならびに青海の大人に咨し、郡王に飭して執照を追い销した。加木様は欲する所を遂げず、審断が不公として、また青海に訴え、咨を移して査訊した。四十二年、謝同知に飭して両造を省に傳喚したが、謝桓はみだりに官兵二千人を率い、黒錯の僧俗を誘い獲て解訊し、このため黒錯は畏れて和を求め、なおも加木様に法台を選ばせ、青海に咨を移し、石に勒して遵を飭した。しかしついに黒錯の心を服させることはできず、転生の夕只喇嘛はなお幼く、十余年を隐忍した。五十四年に至り、ついに自ら管事を放ち、ラブラン寺の任じた法台を逐い出した。加木様はまた訴え、庁営の会禀を経て、司に飭して案を査し詳しく議した。黒錯の僧俗七百余戸は、久しく循化庁の管轄に隷し、田を耕し賦を輸し、内地の戸民である。ラブラン寺は蒙古郡王の管轄に係り、どうして外服の喇嘛が、内地の糧戸を思って己の有と占めることができようか。しかも寺内の法台は、乾隆十三年以前はラブラン寺の選放を経ていない。すなわち黒錯寺はもともとラブランの管するところではなかったことが、ほぼ見て取れる。言うところの前生の布施は、もともと妄誕の詞である。もしこの情があれば、青海の大喇嘛はなぜ各々に各寺を治めよと断じたのか。これは端に借りて妄に争うもので、疑義はすでにない。今、黒錯は旧日の法台の夕只喇嘛をなおも寺に請け入れた。これはもとの人がもとの寺に帰るのであり、さらに争うべきことはない。従前の謝同知の謬断、前司の草率な議結は、久しく理藩院に咨明した案を経たものを、忽ち翻して断じ、また理藩院に咨明せず私に石に勒したので、実に错謬である。従前の通りに各々が各寺を治めるべきとし、理藩院に咨明して査照し、ならびに青海都統に咨して、加木様を厳しく管束すべきである。総督は批准し、ならびに出示して両寺に曉諭した。
按:谢同知即四十一年同康署府会审之人,未及一年,自行翻案,闻当时实有所为而然。盖拉卜楞寺本豪富也。此案自三十七年至五十五年七月始结,凡十九年。今加木样已死,争端庶几永息矣。
案するに、謝同知とは四十一年に康署府と会審した人で、一年を経ずして自ら翻案した。聞くところ、当時実にするところがあって然りであったという。おそらくラブラン寺はもともと豪富なのである。この案は三十七年から五十五年七月に至ってはじめて結ばれ、凡そ十九年である。今、加木様はすでに死に、争いの端はほぼ永く息んだのであろう。
《辛卯侍行记》(『辛卯侍行記』)
循化东南三十里张尕工,折西南十里崖慢工,皆撒拉地。十里夕厂沟,有东乡番五寨。南行五十里甘家川,居捏工丨之西,莽剌川之东番族。插帐游牧地五十里拉布楞寺南番十二寨,南抵和硕特南右翼中旗地。拉布楞南有达那河,俗呼大夏河之上游也。如河东北行四十里拉家寺,五十丂里沙沟寺,十五里哈家寺。寺东逾山,即河州老鸦关。寺南七十里黑错寺。黑错东北一日程卡家寺。又东北二百余里至石嘴关,河州商旅赴南番贸易之径也。黑错东南五十里买吾寺,八十里根岔,入洮州番地。六十里旧洮城,四十里杨土司卓尼城。今土司杨作霖,已传十六世,所辖四十八旗,十二章哈族,封疆千余里,俨然牧伯也。卓尼东南渡洮入岷山,经上铁布、下铁布野番上下包坐寨。其八日至四道城,为四川松潘北境。
循化の東南三十里が張尕工、そこから西南に折れて十里が崖慢工で、いずれも撒拉の地である。十里の夕廠溝には東郷番の五寨がある。南に五十里行くと甘家川で、捏工の西、莽剌川の東の番族が帳を立てて遊牧する地である。五十里でラブラン寺があり、その南には番の十二寨があり、南は和碩特南右翼中旗の地に至る。ラブランの南には達那河があり、俗に大夏河の上流と呼ぶ。河を北東に四十里行くと拉家寺、五十里で沙溝寺、十五里で哈家寺である。寺の東は山を越えれば河州の老鴉関である。寺の南七十里は黒錯寺である。黒錯の東北は一日の行程で卡家寺、さらに東北に二百余里で石嘴関に至り、河州の商旅が南番へ交易に赴く道筋である。黒錯の東南五十里は買吾寺、八十里で根岔、洮州の番地に入る。六十里で旧洮城、四十里で楊土司の卓尼城である。今の土司の楊作霖は十六世を傳え、管轄する四十八旗、十二章哈族は、疆域は千余里で、まさしく牧伯のようである。卓尼の東南で洮を渡り岷山に入り、上鐵布・下鐵布の野番の上下包坐寨を経て、その八日で四道城に至り、四川松潘の北境である。
循化西南行四十里,边堵沟十里、边堵塘边堵番七寨。二十里,尕楞沟有下隆务、西番六寨。三十里,上隆务二十里、保安营小堡在山上,有都司。二十里吴屯前明吴、李等四姓防戍留此,言语衣服,变从番族,谓之土民。十里隆务寺上隆务西番十六寨寺东一百二十里有阿巴。那西番八寨。又东南一百十里即拉布楞矣。
循化から西南に四十里行き、邊堵溝十里、邊堵塘の邊堵番七寨、二十里で尕楞溝に下隆務と西番の六寨、三十里で上隆務、二十里で保安営の小堡が山上にあり、都司がいる。二十里で呉屯。前明の呉・李ら四姓が防戍して留まり、言語と衣服は番族に変わり、これを土民という。十里で隆務寺。上隆務の西番十六寨、寺の東一百二十里に阿巴があり、あれが西番の八寨である。また東南に百十里行けば、すなわちラブランである。
《平番奏议》(『平番奏議』)
当即查勘地势保安营迤西惟黑加硖口为贵德硕乃黑贼番潜入之所应请安设卡隘一处把总一员外委一员兵丁五十名保安营迤南宗卡寺为西南番兴贩口粮接济野番出入之要路应请安设卡隘一处千总一员把总一员外委二员兵丁八十名循化营属迤东南拉布楞寺为四川松潘番子兴贩茶叶铅磺铁觔口粮之总路应请安设卡隘一处守备一员把总一员外委二员兵丁一百名
直ちに地勢を査勘した。保安営の西はただ黒加硤口が貴德の碩乃黑の賊番の潜り込む所であり、カ隘を一カ所設け、把総一員・外委一員・兵丁五十名を請け置くべきである。保安営の南の宗卡寺は西南の番が食糧を交易し野番を出入りさせる要路であり、カ隘を一カ所設け、千総一員・把総一員・外委二員・兵丁八十名を請け置くべきである。循化営の属の東南にあるラブラン寺は、四川松潘の番子が茶葉・鉛磺・鉄・食糧を交易する総路であり、カ隘を一カ所設け、守備一員・把総一員・外委二員・兵丁百名を請け置くべきである。
夕厂又为汉奸兴贩口粮茶布出入之要路应请安设卡隘一处把总一员外委一员兵丁五十名中库沟路通贵德巴燕戎撒拉汉奸兴贩口粮往拉布楞寺之要路应请安设卡隘一处把总一员外委一员兵丁四十名奇台堡营迤南桥沟为河州土门关汉回奸民兴贩口粮茶布夹带违禁各物之路应请安设卡隘一处外委一员兵丁四十名以上安设卡隘六处官十五员兵丁共三百六十名参将都司按月轮流亲履查勘
夕廠はまた漢奸が食糧・茶・布を交易して出入りする要路であり、カ隘を一カ所設け、把総一員・外委一員・兵丁五十名を請け置くべきである。中庫溝の路は貴德・巴燕戎に通じ、撒拉の漢奸が食糧を交易してラブラン寺へ赴く要路であり、カ隘を一カ所設け、把総一員・外委一員・兵丁四十名を請け置くべきである。奇台堡営の南の橋溝は、河州の土門関の漢回の奸民が食糧・茶・布を交易し違禁の品々を挟帯する路であり、カ隘を一カ所設け、外委一員・兵丁四十名を請け置くべきである。以上、カ隘を六カ所設け、官十五員、兵丁あわせて三百六十名を置き、参将・都司が月ごとに交代で自ら巡り査勘する。
现据隆务寺苏拉喇嘛旧昂赏根敦尖木错新昂𧴺根敦什加布同称该族所管番侩一千余家皆系熟番种地者十之三四余俱牧放为业其不敷口粮向由巴燕戎之甘都堂地方并拉布楞寺二处驮运应请责令隆务寺新旧昂负查明不敷粮数每年请票易换并严禁该僧人等亦不得私入内地各自易换口粮以杜接济野番之獘
今、隆務寺の蘇拉喇嘛の旧昂賞の根敦尖木錯、新昂𧴺の根敦什加布がともに称して言うには、その族の管轄する番は一千余家あり、いずれも熟番で、種地する者は十の三四、余はみな牧放を業とする。その足りない口糧は、従来は巴燕戎の甘都堂地方とラブラン寺の二カ所から驮運してきた。隆務寺の新旧の昂負に命じて不足の糧数を查明させ、毎年票を請けて交換させ、かつ厳しくその僧人らが私に内地に入り各自で口糧を交換することを禁じ、もって野番への接済の弊を杜絶すべきである。
又拉布浪宗卡隆务招聚喇嘛至二三万人僧侣太繁中藏奸宄亦情事所必有而茶粮之禁我已制其生死之命亦无难逐细编查清其流獘
また、ラブラン・宗卡・隆務は喇嘛を招き集めて二三万人に及び、僧侶があまりに多く、その中に奸宄が潜むのも情理にあることである。しかし茶と糧の禁令は、私はすでにその生死の命を制しており、さほど難しくなく細かく編査してその流弊を清めることができる。
《懋亭自定年谱》(『懋亭自定年譜』)
六月二十九日具奏西宁办事大臣纳尔松阿来信言拉布楞寺喇嘛与隆务昂肖控争随桑喇嘛所居寺院并未杳看案卷率听拉布楞寺喇嘛呈控之言即欲檄调撒拉儿兵三四千名将隆务昂肖剿灭所获牲畜赏给撒抗儿兵丁以完其事
六月二十九日に奏した。西寧弁事大臣ナルスンガより來信があり、ラブラン寺の喇嘛と隆務の昂肖が随桑喇嘛の居する寺院をめぐり控え争っているが、案巻を査看もせず、率直にラブラン寺の喇嘛の呈控の言を聴き、すなわち撒拉兒の兵三四千名を檄して調べ、隆務の昂肖を剿滅し、獲たる牲畜を撒抗兒の兵丁に賞してもってその事を済ませようとした、と。
《清实录》(『清実録』)
壬子,谕内阁:长龄奏西宁办事大臣纳尔松阿办理蒙古番子事务,粗心轻率一折。上年拉布楞寺喇嘛与隆务昂𭕆控争寺院,纳尔松阿辄听拉布楞寺喇嘛之言,札致长龄,欲檄调撒拉尔兵三四千名,将隆务昂𭕆剿灭,实属冒昧。纳尔松阿不胜办事大臣之任,著交部议处,即来京听候部议。
壬子、内閣に諭す。長齢が奏する、西寧弁事大臣ナルスンガは蒙古番子の事務を処理するにあたり、粗心で軽率であったとする一折。昨年、ラブラン寺の喇嘛と隆務の昂𭕆が寺院をめぐり控え争った際、ナルスンガはすぐさまラブラン寺の喇嘛の言を聴き、長齢に札を致して、撒拉尔の兵三四千名を調べて隆務の昂𭕆を剿滅せんとした。実に冒昧である。ナルスンガは弁事大臣の任に堪えず、部に付して議処し、すなわち京に来て部の議を聴け、と。
丙子,谕内阁:理藩院奏遵议呼图克图开导番族出力奖叙一折,嘉木样呼图克图于查办番族积案之时,切为开导,俾番众倾心向化,实属深明大义,志向可嘉。加恩著赏给广济禅师名号,以示优异。
丙子、内閣に諭す。理藩院が奏する、呼図克図が番族を開導して力を出したことへの奨叙を遵議する一折。嘉木様呼図克図は番族の積案を査弁する際、切に開導し、番衆を心を傾けて向化させた。実に大義を深く明らかにし、その志向は嘉すべきである。恩を加えて「広済禅師」の名号を賞与し、もって優れたるを示す、と。
四川总督刘秉璋奏:请饬陕甘总督等将番匪棒周解川审办。得旨:著即咨行杨昌濬、萨凌阿,严饬拉布浪寺,将首匪棒周交出,解赴四川,归案审办。
四川総督の劉秉璋が奏する。陝甘総督らに飭して番匪の棒周を川に解して審弁せしめんことを請う。旨を得た。すなわち楊昌濬・薩凌阿に咨行し、ラブラン寺を厳しく飭し、首匪の棒周を交出し、四川に解送して案に帰し審弁せよ、と。
陕甘总督杨昌濬等奏:甘肃循化厅拉布楞寺番僧搆衅械斗,业经弹压解散,照番例断结,请将出力各员酌予奖叙。得旨:著准其酌保数员,毋许冒滥。
陝甘総督の楊昌濬らが奏する。甘粛循化庁のラブラン寺の番僧が釁を構えて械闘し、すでに鎮圧して解散し、番例に照らして断結した。力を出した各員を酌んで奨叙することを請う。旨を得た。准じて数員を酌保せよ、冒濫は許さぬ、と。
谕军机大臣等:杨昌濬、奎顺奏查明川属番案大概情形一折。据称拉布浪寺呼图克图、嘉木样被控各节,现已派员究办。惟棒周系川属热档坝土百户之侄,是否逃回该坝,抑窜入果洛克番族,均属川省所辖,请饬该将军、总督就近缉拏讯办。等语。此案日久未结,必应迅将棒周严拏到案,即著雅尔坚、刘秉璋迅饬所属严密查拏,归案审办。并著杨昌濬等督饬派出之员,认真查办,总期妥速办结,毋得彼此推诿,再事耽延。杨昌濬等原折著钞给雅尔坚、刘秉璋阅看。将此谕知雅尔坚、刘秉璋、杨昌濬,并传谕奎顺知之。
軍機大臣らに諭す。楊昌濬・奎順が奏する、川属の番案の大概の情形を查明した一折。言うところによれば、ラブラン寺の呼図克図・嘉木様が控えられた各節は、現に委員を派して究弁している。ただ棒周は川属の熱档壩土百戸の甥に係り、もしその壩に逃げ帰ったか、あるいは果洛克の番族に竄入ったかは、いずれも川省の管轄に属するので、その将軍・総督に飭して近く緝拿して訊弁せしめんことを請う、とのことである。この案は日が久しく未だ結ばれていない。必ず速やかに棒周を厳しく拏えて案に致さねばならない。すなわち雅爾堅・劉秉璋に著して速やかに所属を飭して厳密に査拝し、案に帰して審弁せしめよ。ならびに楊昌濬らに著して派出の員を督飭し、真剣に査弁し、つねに妥速に弁結することを期し、互いに推諉してさらに事を耽延してはならない、と。楊昌濬らの原折は雅爾堅・劉秉璋に鈔して閲看させよ。これを雅爾堅・劉秉璋・楊昌濬に諭知し、ならびに奎順に傳諭して知らしめよ、と。
又谕:恭寿、刘秉璋奏:甘省拉布浪寺侵占川番各寨,请饬严办一折。据称甘省查办番案,拉布浪寺嘉木㨾窝藏匪犯棒周,串同抢劫,纵令黑窝、香错等率兵侵占焚掠,杨昌濬等漫无觉察,以致案久未结。请饬勒令该寺退还各寨,撤回管寨喇嘛,并严办带兵焚掠之黑窝。等语。此案前经谕令杨昌濬等派员认真查办,并令恭寿等会商妥办,不得互相推诿。兹据恭寿等所奏各节,是拉布浪寺显有欺诳刁抗情形,亟应彻底查究,以遏乱萌。即著杨昌濬等按照川省所指各节,懔遵前旨,确切查办,迅速覆奏,不得稍涉回护,致干咎戾。恭寿等折著钞给杨昌濬、奎顺阅看。将此各谕令知之。
また諭す。恭寿・劉秉璋が奏する。甘省のラブラン寺が川の番の各寨を侵佔している、厳しく弁理するよう飭することを請う一折。言うところによれば、甘省が番案を査弁するにあたり、ラブラン寺の嘉木様は匪犯の棒周を窝蔵し、共に串って搶劫し、黒窝・香錯らに縦して兵を率いて侵佔・焚掠させ、楊昌濬らは漫りに察覚せず、もって案は久しく未だ結ばれていない。飭してこの寺に各寨を退還させ、寨を管する喇嘛を撤回させ、ならびに兵を帯びて焚掠した黒窝を厳しく弁理することを請う、とのことである。この案は先に楊昌濬らに委員を派して真剣に査弁せよと諭し、ならびに恭寿らに会して妥弁せよと命じ、互いに推諉してはならないとした。ここに恭寿らの奏する各節によれば、これはラブラン寺が明らかに欺誑・刁抗の情形を有するものであり、急いで徹底的に査究し、もって乱の萌えを遏めるべきである。すなわち楊昌濬らに著して、川省の指摘した各節に照らし、前旨を懔遵し、確かに査弁し、迅速に覆奏せよ。少しも回護に渉って咎戾を干してはならない。恭寿らの折は楊昌濬・奎順に鈔して閲看させよ。これをそれぞれ諭令して知らしめよ、と。
谕军机大臣等:恭寿、鹿传霖奏:甘肃拉布浪寺番僧滋扰川边番寨,查办完结,并将退还各寨及赔偿银两,开单呈览一折。甘省循化厅属拉布浪寺番僧,恃其人强地远,部落又与川境毗连,川属各番寨被其句诱并吞,为时已久。现经夏毓秀前往查办,该寺番僧将所占番寨一律退还,并赔偿银物,办理尚为妥协。即著恭寿、鹿传霖督饬夏毓秀,转饬该土千百户,各安住牧,不得再听句结,并将札、盖二十一户积案,速为清理。其棒周一犯,仍饬严缉,务获惩办,以绝根株。将此谕令知之。
軍機大臣らに諭す。恭寿・鹿傳霖が奏する。甘粛ラブラン寺の番僧が川辺の番寨を滋擾した件は査弁を完結し、ならびに退還した各寨と賠償の銀両を単を開いて呈覧に供する一折。甘省循化庁に属するラブラン寺の番僧は、その人の強さと地の遠さを恃み、部落はまた川境に毗連し、川属の各番寨はその勾誘を受けて併吞され、久しい時を経ている。現に夏毓秀が往きて査弁し、その寺の番僧は占拠した番寨をすべて退還し、ならびに銀物を賠償した。弁理はなお妥協である。すなわち恭寿・鹿傳霖に著して夏毓秀を督飭し、転じてその土千百戸に飭し、各々安く住まい牧し、再び勾結を聴くことなく、ならびに札・蓋の二十一戸の積案を速やかに清理せよ。その棒周の一犯は、なお厳しく緝し、必ず獲て懲弁し、もって根株を絶て。これを諭令して知らしめよ、と。
《左文襄公书牍》(『左文襄公書牘』)
至拉卜塄各寺头目,该局抽费一节,原因河、循回氛猖獗,力图扞御,所抽之货物,厘课甚重,大抵皆海藏及玉树土司等处东来者。陈舫仙于河、循平定后,谕其毋复私抽厘金。拉卜塄各寺以所收五千两缴公,而每年所收用之二十余万,未尝过问,弟亦未尝言及,盖大体应如此而止也。
ラブランの各寺の頭目について、その局が費を抽ねる一節は、もともと河・循の回の気風が猖獗で、扞御を図るためであり、抽ねた貨物の厘課は甚だ重く、大抵はみな海蔵や玉樹土司などから東来るものであった。陳舫仙は河・循が平定された後、それに諭して再び私に厘金を抽ねないよう命じた。ラブランの各寺は収めた五千両を公に缴め、しかし毎年収用する二十余万については、かつて問うたことがなく、私もまた言及したことがない。おそらく大体はこのようにして止めるべきなのである。
来书既以拨归洮州为是,即可照此定局,免致因彼此意见参差,酿成事故。弟于此事,原以买吾等番既求改拨,自宜就近度地处之,方符愚民心愿,且将来入告,不患无词。买吾等番既改隶洮州,拉卜塄事同一体,即如来书一并拨归洮州可也。
來書はすでに洮州に撥り帰すを是としているのであれば、すなわちこれに照らして定局とし、彼此の意見が参差することによる事故の釀成を免れよう。この事について、私はもともと買吾らの番がすでに改撥を求めた以上、自ずから近くに就いて地を度って処すべきであり、そうしてはじめて愚民の心願に符し、かつ将来の入告にも詞を患えない。買吾らの番はすでに洮州に改隷した。ラブランの事は同じ一体であり、すなわち來書の通りにあわせて洮州に撥り帰すればよい。
《左文襄公奏稿》(『左文襄公奏稿』)
一收甘肃拉卜楞番寺捐款银四千八百一十六两
一項、甘粛ラブラン番寺の捐款銀四千八百一十六両を収む。
《甘肃通志稿文化志》(『甘粛通志稿文化志』)
西宁县塔儿寺有大小金瓦寺,皆铜瓦鋈金■。夏河县拉卜愣寺,金瓦尤多。临洮、临潭之间,莲花山有铁瓦寺,长十尺奇。贵德县东南有铁瓦寺。
西寧県のタール寺には大小の金瓦寺があり、いずれも銅瓦に金を鍍している(■は原本で漫滅)。夏河県のラブラン寺は、金瓦がとりわけ多い。臨洮・臨潭の間では、蓮花山に鉄瓦寺があり、長さ十尺余である。貴德県の東南にも鉄瓦寺がある。
古写真
1932—1933年
米国の記者ハリソン・フォーマン(Harrison Forman)は1932年から1933年にかけて初めてラブラン寺を撮影し、寺と町の俯瞰、大経堂、金瓦殿、金塔、寺そばの市場、塔を巡る信者、黒帽の跳神を記録した。ネガは現在ウィスコン星大学ミルウォーキー校アメリカ地理学会図書館に所蔵されており、館蔵記録は寺と町の俯瞰、大経堂、金瓦殿、金塔、寺そばの市場、塔を巡る信者と黒帽の跳神である。
1936年
フォーマンは1936年に再びラブラン寺を訪れ、金塔の鍍金の頂部のクローズアップを残した。
1937年
フォーマンは1937年にまたラブラン寺の全景、大経堂と転経廊、金瓦殿の正面、足場を組んだ修繕中の仏殿、そして五世ジャムヤン・テンペイ・ギャルツェンの肖像を撮影した。
参考資料
- 『甘南蔵族自治州志・民族志』(甘粛地方史志網):清の康熙四十八年にチャガン・ダンジンが嘉木様協巴多爾済を招いて郷里に帰りラブラン寺を興建し、五百戸の属民を献じて香火戸とした条。
- 『夏河県志』(甘粛地方史志網):康熙五十年に大経堂が着工し、嘉木様仏殿と下続部学院が相次いで建成した条。嘉木様五世の伝記および大事記にある、1938年の慰問団、1943年の飛行機捐献と「輸財衛國」扁額の条。
- 『五世嘉木様活仏:抗日のため、肝脳を塗地にしても辞さず』(中国蔵学網、喜饒尼玛氏講演):『为宣传抗建告蒙藏同胞书』の宣講の経緯と祈願詞の抜粋。
- 于麗萍・郭佳音・寧沛林:『五世嘉木様〈为宣传抗建告蒙藏同胞书〉の作用と意義』、『西藏民族大学学報(哲学社会科學版)』2023年第6期:『告蒙蔵同胞書』蔵漢文石印本の形制・内容と動員令・祈願詞の抜粋。
- 智観巴・貢却乎丹巴饒吉:『安多政教史』、呉均・毛継祖・馬世林訳、甘粛民族出版社1989年(チベット語原本1987年):1865年に成書したチベット語のアムド政教史で、ラブラン寺の建寺沿革と嘉木様の系譜についてのチベット語の核心的記載。
- Labrang Tashikhyil、The Treasury of Lives:寺院の沿革と六つの学院。
- 歴史沿革の概要(夏河県人民政府):民国16年にラブラン設治局が置かれ、17年に夏河県に改められた条。