はじめに
北宋の慶暦二年(1042)、登州の郡守・郭志高は命を受けて丹崖山に沿って城寨を築いた。これはのちに俗に刀魚寨と呼ばれた。十九年後、登州の郡守・朱処約は山上の海神廟を西側の平地に移し、旧廟の跡に蓬莱閣を建てた。刀魚寨は山下の港灣のほとりに設けられ、蓬莱閣は丹崖山の頂に立つ。二つは隣り合っているが、同一の建築ではない。
元代、山東の人・于欽は海市[1]を尋ねるため登州の海辺に来て、登州の知州・李述之とともに広徳王祠で祈った。二日後、二人は官署の裏にある賓日楼に登って待った。日の出の頃、大竹島の上に一艘の巨船が横たわっているかのように見え、旗や剣戟が忽然と現れては消え、空っぽの船がだんだん長い廊下のように変わって消えていった。于欽はこれによって、秦・漢の方士のいう海上の三神山は、あるいはこうした海市のことではないかと考えた。彼らが登った賓日楼は、丹崖山の蓬莱閣ではない。于欽は蓬莱閣について書く際、閣の下に獅子洞があると別に記している。洞の前の泠然泉は浪井とも呼ばれ、満潮時には海水に没し、潮が退いた後も泉水は変わらず清く甘い。甘泉亭は彼が筆を執った時点ですでに旧跡であった。
山下の港池は元代にも使用を止められていなかった。水城の小海の西南角の泥の中には元代の残船が三隻埋まっていた。そのうち発掘清理された一隻には鉄剣・鉄砲・鉄銃・灰弾瓶・鉄砲弾が残されており、細長い船体は近海での迅速な機動に適した戦船であった。水城の南の部分には当時まだ東西方向の城壁がなく、港池は南に向かって開け、船舶の聚集と近海防御の場であった。
明の洪武九年(1376)、登州衛は海船で遼東への軍需物資を転送した。指揮の謝観は新河の海口が浅く狭いため、河道の疏浚を上奏し、港をめぐって土城を築き、北面に水門を砌って海を港に引き入れ、南面に関を設けて往来を検査した。城内にはのちに備倭の帥府が置かれ、土城は遂に備倭城[2]と称された。これがすなわち登州水城である。水城は登州大城の北にあり、城垣は西北で丹崖山に跨がり、東南は河道に沿う。蓬莱閣は水城の上方に位置する。万暦二十四年(1596)、総兵の李承勲は土城を煉瓦と石に改めて砌り、さらに三基の敵台[3]を増築した。
崇禎四年(1631)、もと明軍の将領であった孔有德は命を受けて軍を率いて遼東の増援に向かったが、呉橋に至って兵変を起こし、続いて軍を返して登州を攻め落とした。耿仲明が城内で呼応した。明朝廷は山東巡撫の朱大典に軍を率いさせて城を包囲し、叛軍から登州を奪回しようとした。叛軍は食糧が尽きても、なお水城から海路で撤走できることを恃みに降伏を拒んだ。崇禎六年(1633)二月、孔有德はまず子女と財物を載せて海から逃げ、耿仲明も小舟一艘で離れ、水城を副将の王秉忠に委ねて守り続けさせた。明軍はまず陸上の登州大城に攻め入ったが、王秉忠の支配する港に臨む水城はなお陥落しなかった。遊撃の劉良佐は永福寺から穴を掘って火薬を埋設する策を献じ、城壁が爆破されると、守軍は蓬莱閣に退いて守った。朱大典が降伏を勧告してから、閣上に退守した叛軍はようやく武器を捨てた。明軍は王秉忠および七十五名の叛軍将領を含む千余人を捕虜とし、登州の戦事はここに終わった。
清の順治十八年(1661)、登鎮標水師営は水城に守備・千総および左右哨把総を配備し、兵を派遣して東西の海口の墩台を輪番で防衛させた。その防区は東は寧海州との境界、西は萊州府との境界に及んだ。港池はその後長らく淤泥に悩まされた。入港する船舶は防淤の規定を守らねばならず、出港時には一定量の淤沙を持ち出して外海に捨てなければならなかった。咸豊年間には大規模な清淤が一度行われ、清末には五名の専任者を置き、低潮のたびに水門の内外を清理した。
水城の城垣もまた繰り返し修葺された。乾隆五十八年(1793)、蓬莱知県の安奎文は資金の拠出を請い重修した。道光二十年(1840)、知県の王文燾が再び修整した。その後、同治元年(1862)の登州知府・常筠と蓬莱知県の周毓南、および光緒元年(1875)の知県・鄭錫鴻が相次いで資金を募って修葺した。清代の学者・阮元は二度ここに登り、蓬莱閣と水城の位置関係を最も率直に書き表している。「蓬莱閣は登州水城の上にあり」と。
歴史文献
『斉乗』
蓬莱阁,登州北三里海滨,田横寨相对,本海神庙基。宋治平中,郡守朱处约以其地太高峻,移庙西置平地,于此建阁,实为山海登临胜概。阁下有狮子洞,洞前有泠然泉,古称浪井,潮生浪起则没,水退则甘洌如故。旧有甘泉亭。阁下碎石为海浪淘激,岁久圆滑,土人谓之弹子涡,黑白者可以奕。坡公尝以数百枚养石菖蒲,作诗遗垂慈堂老。阁上古今题咏甚多,而宋人秦楼月一词颇飘逸。词云:烟漠漠,水天摇荡蓬莱阁。蓬莱阁,朱甍碧瓦,半浸寥廓。三山谩有长生药,茫茫云海风涛恶。风涛恶,仙槎不见,暮沙潮落。登人皆歌之。
蓬莱閣は、登州の北三里の海辺にあり、田横寨と相対し、もとは海神廟の跡である。宋の治平年間、郡守の朱処約はその地があまりに高く険しいとして、廟を西の平地に移し、ここに閣を建てた。誠に山海を登り臨む勝景である。閣の下に獅子洞があり、洞の前に泠然泉がある。古くは浪井と呼ばれ、潮が満ち波が立てば没し、水が退けば甘く清らかなこともとのごとし。昔は甘泉亭があった。閣の下の碎石は海浪に淘まれ激され、歳月を経て円く滑らかになり、土地の人はこれを弾子渦と呼び、白黒のものは碁石に用いることができる。坡公(蘇軾)はかつて数百枚をもって石菖蒲を養い、詩を作って垂慈堂の老僧に遺した。閣上の古今の題詠は甚だ多いが、宋人の「秦楼月」の一詞は頗る飄逸である。詞に云う、煙漠漠として、水天に揺蕩う蓬莱閣。蓬莱閣、朱甍碧瓦、半ば寥廓に浸る。三山に謾りに長生の薬有りと雖も、茫茫たる雲海は風濤惡し。風濤惡し、仙槎は見えず、暮沙に潮落つ。登州の人は皆これを歌う。
沙门岛南来转帆入渤海者,皆望此岛以为表志。其相联属,则有鼍矶岛、牵牛岛、大竹岛、小竹岛,历历海中,秀如画。海市现灭,常在五岛之上。海市之名,始见江邻几杂志。东坡诗序,或谓类南海蜃楼蛟蜃嘘气所成,殆不然。钦尝至登州海上访之。盖海市常以春夏晴和之时,杲日初升,东风微作,云脚齐敷于海岛之上,海市必现。现则山林城阙,楼观旌幢,毡车驼马,衣冠人物,凡世间所有,象类万殊,或小或大,或𫏐或久,或变现终日,或际海皆满,其为灵怪赫奕,岂蜃楼可拟哉?盖沧溟与元气呼吸,神龙变化,浩不可测,如佛经所谓龙王能兴种种雷电云雨,居于本宫,不动不摇,山海幽深,容有此理。钦以中秋后至海滨,天已微寒,知州事李述之,诗人也,亦相与祷于广德王之祠。越二日,忽报云:今晨风色云气,海市当现。同登宾日楼候之。日初出,大竹岛上横一巨艘,长余百寻,述之指以示余,余曰:此海舟耳。述之曰:谛观之,何故不动?须臾,前后曳数旗,剑戟纷纭,忽不见,惟有空舟渐变,如长廊而灭。述之曰:风稍急而寒,不然,现未已也。呜呼神哉!然则史汉所称三神山、蓬莱、方丈、瀛洲,望之如云,未能至者,殆此类耳。且秦、汉入海方士,仅能往来于矶岛之间,偶见此异,慕之为仙,亦不为过。非若今人航海远泛黑水洋外,或飘荡岁月而后返,果有蓬莱仙山,何不闻也?斯言足破千古之惑矣。
沙門島は、南より来て帆を転じ渤海に入る者は、皆この島を望んで標識とする。これに相連属するものに、鼉磯島・牽牛島・大竹島・小竹島があり、歴々として海中に在り、秀でること画のごとし。海市の現滅は、常に五島の上に在る。海市の名は、江隣幾の『雑志』に初めて見える。東坡の詩序に、あるいは南海の蜃楼のごとく蛟蜃の嘘く気の成すものに類すと謂うが、殆ど然らず。欽はかつて登州の海上に至りてこれを訪ねた。そもそも海市は常に春夏の晴和の時、杲日初めて昇り、東風微かに作り、雲脚が斉しく海島の上に敷くとき、海市必ず現る。現れば山林城闕、楼観旌幢、氈車駝馬、衣冠人物、凡そ世間に有るもの、象類万殊、或いは小或いは大、或いは暫く或いは久しく、或いは終日変現し、或いは海際皆満つ。その霊怪赫奕たる、あに蜃楼の擬すべきならんや。そもそも滄溟は元気と呼吸し、神龍変化し、浩として測るべからず。仏経に謂うところの龍王は能く種種の雷電雲雨を興し、本宮に居りて、動かず揺がず。山海幽深、此の理有るを容す。欽は中秋後に海濱に至り、天すでに微寒なり。知州事の李述之は詩人なり。亦た相与に広徳王の祠に祷る。二日を越え、忽ち報じて云う、今晨風色雲気、海市当に現るべし、と。同じく賓日楼に登りてこれを候す。日初めて出で、大竹島の上に一巨艘横たわり、長さ百余尋。述之指して余に示す。余曰く、此れ海舟のみ、と。述之曰く、諦かに之を観よ、何故ぞ動かざる、と。須臾にして、前後数旗を曳き、剣戟紛紜、忽ち見えず。惟だ空舟のみ漸く変じ、長廊のごとくにして滅す。述之曰く、風稍や急にして寒し、然らずんば、現は未だ已まざらん、と。嗚呼神なるかな!然らば則ち史漢に称する三神山・蓬莱・方丈・瀛洲、之を望めば雲のごとくにして、未だ能く至らざるは、殆ど此の類のみ。且つ秦・漢の海に入る方士は、僅かに能く磯島の間に往来し、偶々此の異を見て、之を慕いて仙と為すも、亦た過ちと為さず。今人の航海して遠く黒水洋の外に泛び、或いは飄蕩して歳月を経て後に返るがごときに非ず。果たして蓬莱仙山有らば、何ぞ聞こえざるや。斯の言、千古の惑を破るに足れり。
『蓬莱閣記』
世传蓬莱、方丈、瀛洲在海之中,岂□□□□其处,其□恍惚□异,多出方士之说,难□。登州所居之邑曰蓬莱,岂非秦、汉之君东游以□□迹,意神仙果可求也,蓬莱不得见,而空名其邑曰蓬莱,使后传以为惑。据方士三山之说,大抵草木鸟兽神怪之名,又言仙者宫□伟大,气序和平之状,餐其草木,则可以长生不死。长往之士,莫不欲到其境,而脱于无何有之乡。祭海而望,翕然注想物外,不惑其说者有矣。嘉祐辛丑,治邦逾年,而岁事不愆,风雨时若,春蓄秋获,五谷登成,民皆安堵。因思海德润泽为大,而神之有祠,俾遂新具庙,即其旧以构此阁,将为□人游览之所。层崖千仞,重溟万里,浮波涌金,扶桑日出,霁河横银,阴灵生月,烟浮雾横,碧山远列,沙浑潮落,白鹭交舞,游鱼浮上,钓歌和应。仰而望之,身□翔,俯而瞰之,足蹑鳌背。听览之间,恍不知神仙之蓬莱也,乃人世之蓬莱也。上德远被,恩涵如春,恍若致俗于仁寿之域,此治世之蓬莱也。后因名其阁曰蓬莱,盖志一时之事,意不知神仙之蓬莱也。
世に伝うる蓬莱・方丈・瀛洲は海の中にあり、あに□□□□その処、その□恍惚□異、多くは方士の説より出で、難□。登州の居する邑を蓬莱と曰う。あに秦・漢の君の東游して以て□□跡、意うに神仙果たして求むべしと、蓬莱は見ることを得ず、而して空しくその邑を名づけて蓬莱と曰い、後に伝えて以て惑いと為さしめたに非ずや。方士の三山の説に拠れば、大抵草木鳥獣神怪の名、また仙者の宮□偉大、気序和平の状を言い、その草木を餐らえば、則ち長生不死すべしと。長往の士、その境に到り、而して无何有の郷に脱することを欲せざる莫し。海を祭りて望み、翕然として物外に注想し、その説に惑わざる者有り。嘉祐辛丑、邦を治めて年を逾え、而して歳事愆らず、風雨時に若く、春に蓄え秋に獲て、五穀登成し、民皆安堵す。因りて思うに、海の徳の潤沢は大なりと、而して神に祠有るや、遂に新たに廟を具えしめ、即ちその旧きに依りて此の閣を構え、将に□人の游覧の所と為さんとす。層崖千仞、重溟万里、浮波金を涌き、扶桑に日出づ、霽河銀を横たえ、陰霊月を生じ、煙浮き霧横たわり、碧山遠く列なり、沙渾り潮落ち、白鷺交舞し、游魚浮上し、釣歌和応す。仰ぎて之を望めば、身□翔り、俯して之を瞰れば、足は鰲背を蹑む。聴覧の間、恍として神仙の蓬莱なるを知らず、乃ち人世の蓬莱なり。上の徳遠く被り、恩涵ること春のごとく、恍若として俗を仁寿の域に致す、此れ治世の蓬莱なり。後に因りてその閣を名づけて蓬莱と曰う。そもそも一時の事を志し、意に神仙の蓬莱を知らざるなり。
『鄭開陽雑著』
登、莱二郡突出于海,如人吐舌,东、南、北三面受敌,故设三营联络,每营当一面之寄。登州营所以控北海之险也,登、莱二卫并青州左卫俱隶焉。策应地方,语所,则有奇山、福山、中前、王徐前诸所;语寨,则有黄河口、刘家、汪解、宋芦、徐马停、皂河、马埠诸寨;语巡司则有杨家店、高山、孙𡵚镇、马亭镇、东良海口、柴胡、海仓、鱼儿铺、高家港诸司。三营各立把总二员总辖之。在海外则岛屿环抱,自东北崆峒、半洋,西抵长山、蓬莱、田横、沙门、鼍矶、三山、芙蓉、桑岛,错落盘踞,以为登州北门之护。过此而北,则辽阳矣。此天造地设之险也。然诸岛虽近登州,而居岛中以取鱼盐之利者,乃辽阳之编伍,非山东之戍卒也。叫呶跳梁,可畏而不可恃。故北海之滨,既有府治,复建备倭城于新河海口,以为屏翰,且有本营之建焉。沿海兵防,特重其责,非若他省但建水寨于岛屿,良有以也。夫岛屿既不设险,则海口所系匪轻。自营城东,若抹直石、落湾子、刘家汪、平畅、芦洋诸处,自营城西若西王庄、西山、栾家、孙家、海洋、山后八角、城后芝罘、莒岛诸处,皆可通番舶登突。严外户以绥堂阃,其本营典守之责乎!
登・莱の二郡は海に突出し、人の舌を吐くがごとく、東・南・北の三面敵を受く。故に三営を設けて聯絡し、毎営一面の寄を当つ。登州営は北海の険を控くる所以なり。登・莱の二衛ならびに青州左衛は俱にこれに隷す。策応の地方、所を語れば、則ち奇山・福山・中前・王徐前の諸所有り。寨を語れば、則ち黄河口・劉家・汪解・宋芦・徐馬停・皂河・馬埠の諸寨有り。巡司を語れば、則ち楊家店・高山・孫𡵚鎮・馬亭鎮・東良海口・柴胡・海倉・魚兒鋪・高家港の諸司有り。三営は各々把総二員を立てて総轄せしむ。海外に在りては島嶼環抱し、東北の崆峒・半洋より、西は長山・蓬莱・田横・沙門・鼉磯・三山・芙蓉・桑島に抵り、錯落として盤踞し、以て登州北門の護りと為す。此を過ぎて北は、則ち遼陽なり。此れ天造地設の険なり。然れども諸島は登州に近しと雖も、島中に居りて魚塩の利を取る者は、乃ち遼陽の編伍にして、山東の戍卒に非ず。叫呶跳梁し、畏るべくして恃むべからず。故に北海の濱には、すでに府治有り、復た新河海口に備倭城を建て、以て屏翰と為し、且つ本営の建つる有り。沿海の兵防、特にその責を重くす。他省の但だ島嶼に水寨を建つるに若かざるは、良く以て有るなり。それ島嶼はすでに険を設けずんば、則ち海口の繋る所は軽からず。営城の東より、抹直石・落湾子・劉家汪・平暢・芦洋の諸処のごとき、営城の西より西王荘・西山・欒家・孫家・海洋・山後八角・城後芝罘・莒島の諸処のごとき、皆番舶の登突を通ずべし。外戸を厳にして以て堂閫を綏んぐるは、それ本営の典守の責か!
『山東通志』
登州府城。水城二丈四尺,四门,门上有楼,池阔一丈四尺,深八尺。
登州府城。水城は高二丈四尺、門は四つ、門上に楼有り。池は闊さ一丈四尺、深さ八尺。
『増修登州府志』
水城在城北,与大城相连,即宋之刀鱼寨。明洪武九年,设登州卫,置海船运辽东军需。指挥谢观以河口浅隘,奏议挑濬,绕以土城,北砌水门,引海入城,名新开口,南设关禁,以讥往来。后因备倭,立帅府于此,名备倭城。周三里许,高三丈五尺,厚一丈一尺,西北跨山,东南濒河,南一门曰振扬,楼铺共二十六。万历二十四年,总兵李承勋甃以砖石,增敌台三,知府徐应元复修之。崇祯十一年,知府陈钟盛,同知来临增修。国朝乾隆五十八年,知县安奎文请帑重修。道光二十年知县王文焘,同治元年知府常筠、知县周毓南、光绪元年知县郑锡鸿相继劝捐修葺。
水城は城の北に在り、大城と相連なり、即ち宋の刀魚寨なり。明の洪武九年、登州衛を設け、海船を置きて遼東の軍需を運ぶ。指揮の謝観は河口の浅隘なるを以て、挑濬を奏議し、土城を以て繞らし、北に水門を砌り、海を引きて城に入れ、名づけて新開口と曰い、南に関禁を設け、以て往来を譏る。後に倭に備うるに因り、此に帥府を立て、名づけて備倭城と曰う。周三里許り、高三丈五尺、厚さ一丈一尺、西北は山に跨ぎ、東南は河に瀕し、南の一門を振揚と曰い、楼鋪は共に二十六。万暦二十四年、総兵の李承勲は磚石を以て甃き、敵台三を増し、知府の徐應元は復たこれを修む。崇禎十一年、知府の陳鍾盛・同知の来臨が増修す。国朝(清)乾隆五十八年、知県の安奎文は帑を請いて重修す。道光二十年に知県の王文燾、同治元年に知府の常筠・知県の周毓南、光緒元年に知県の鄭錫鴻が相継いで寄附を勧めて修葺す。
『明史』
贼窜归登州,国臣等筑长围守之。城三面距山,一面距海,墙三十里而遥,东西俱抵海,分番戍,贼不能出,发大𪿫,官军多死伤。李九成出战相当。十一月,九成搏战,降者泄其谋。官军合击之,馘于阵,贼乃晓夜哭。贼渠魁五,九成、有德、有时、耿仲明、毛承禄也,及是杀其二。帝嘉解围功,进大典右副都御史,将吏升赏有差。是月,国奇卒,以襄代。攻围既久,贼粮绝,恃水城可走,不降。及王之富、祖宽夺其水门外护墙,贼大惧。六年二月中旬,有德先遁,载子女财帛出海。仲明以水城委副将王秉忠,己亦以单舸遁。官军遂入大城,攻水城未下。游击刘良佐献轰城策,匿人永福寺中,穴城置火药发之,城崩,官军入,贼退保蓬莱阁。大典招降,始释甲,俘千余人,获秉忠及伪将七十五人,自缢及投海死才不可胜计,贼尽平。
賊は竄れて登州に帰り、国臣らは長囲を築きてこれを守る。城は三面山に距り、一面海に距り、牆は三十里に遥か、東西俱に海に抵り、番を分かちて戍る。賊は出る能わず。大𪿫を発し、官軍に死傷多し。李九成出で戦いて相當る。十一月、九成搏戦し、降者その謀を泄らす。官軍合わせてこれを撃ち、陣に於いて馘す。賊乃ち暁夜に哭す。賊の渠魁は五、九成・有德・有時・耿仲明・毛承禄なり。是に及びてその二を殺す。帝は解囲の功を嘉し、大典を右副都御史に進め、将吏に升賞差有り。是の月、国奇卒し、襄を以て代えとす。攻囲すでに久しく、賊の糧絶え、水城を恃みて走るべしとし、降らず。王之富・祖寛がその水門外の護牆を奪うに及び、賊大いに懼る。六年二月中旬、有德まず遁れ、子女財帛を載せて海に出づ。仲明は水城を副将の王秉忠に委ね、己もまた単舸を以て遁る。官軍遂に大城に入り、水城を攻めて未だ下らず。遊撃の劉良佐は轟城の策を献じ、人を永福寺中に匿し、城に穴け火薬を置きてこれを発す。城崩れ、官軍入り、賊は退きて蓬莱閣を保す。大典降りを招き、始めて甲を釈く。千余人を俘え、秉忠および偽将七十五人を獲、自縊および海に投じて死する者は計り勝えざるほど僅かに、賊尽く平らぐ。
『重修蓬莱閣記』
□按史,秦皇东游海上,登之罘,以冀与神仙遇。汉武时,燕、齐迂怪之士扼腕言海上有蓬莱、方丈、□□三神山之属,仙人可致。帝欣然庶几遇之,即其地望莱□。蓬莱阁之名,实昉此焉。说者曰:兹名也,侈心也。胡为乎沿之而以重修烦也。考郡乘,宋嘉祐□,守臣朱处约氏实创构之,谓上德远被,致俗仁寿,此治世之蓬莱也。语具农珉中。余览而旨之,叹曰:知言哉!古人一丘一壑,不凿登咏。矧是阁首踞丹崖,𫖯瞰□滨,千折之槛,三至之阶恍然出人。间世固城内一奇也。岛可无修在□□天海涵,寅宾日出,周波不扬,肃旗东来,□鸣氏之所宅,管敬仲之所官,升降不知凡几,于海王之国仅一瞬也,可以观世。风雨□冥之潮□万状,沙门□矶,牵竹之楼台闪忽,鱼龙犀□象罔之出没无常,安期美门,紫芝瑶草之若有若无。凭栏一睇,桐心骇目,斯诧□吊诡之间也。□以观变。尔乃观海摅襟,登高作赋,或明风干。爰□,或□物于□矢,或寓言于齐谐,或侈谈于□海,或□□□以见奇,或祷海市以志感,秀色雄乎涛声,□思巧于蜃气,可以观材。至若东扼岛夷,北控辽左,南通吴会,西翼燕云,艘运之所达,可以济咽喉;备倭之所据,可以崇保障。封豕靡所渔,长鲸罔敢吸,可以观要。抚时察变,度材修要,四者备,天下之大观矣。
□史を按ずるに、秦皇は海上に東游し、之罘に登り、以て神仙と遇うことを冀う。漢武の時、燕・斉の迂怪の士は腕を扼して海上に蓬莱・方丈・□□の三神山の類有り、仙人致すべしと言う。帝は欣然として庶幾くはこれに遇わんとし、即ちその地に莱□を望む。蓬莱閣の名は、実に此に昉まる。説く者曰く、茲の名は、侈心なり、と。何ぞこれに沿うて以て重修を煩わすや。郡乗を考えるに、宋の嘉祐□、守臣の朱処約氏実にこれを創構し、上の徳遠く被り、俗を仁寿に致す、此れ治世の蓬莱なり、と謂う。語は農珉の中に具えり。余は覧てこれを旨とし、嘆じて曰く、言を知れるかな、と。古人は一丘一壑も、登咏を鑿からず。矧んや是の閣は首として丹崖に踞り、𫖯瞰して□濱、千折の檻、三至の階は恍然として人を出だす。間世は固より城内の一奇なり。あに修めざるべけんや。□□に在りて天海涵え、寅に賓して日出づ、周波揚がらず、肅旗東より来る。□鳴氏の宅する所、管敬仲の官たる所、升降は知らず凡そ幾ばく、海王の国に於いて僅かに一瞬のみ。以て世を観るべし。風雨□冥の潮□万状、沙門□磯、牽竹の楼台は閃忽として、魚龍犀□象罔の出没は常無く、安期美門、紫芝瑶草の若有若無。欄に憑りて一睇すれば、桐心は目を駭かす。斯れ□吊詭の間に詫ぶなり。□以て変を観る。爾乃ち海を観て襟を摅め、高きに登りて賦を作る。或いは風干を明らかにす。爰□、或いは□物を□矢に、或いは寓言を斉諧に、或いは侈談を□海に、或いは□□□を以て奇を見、或いは海市を祷りて以て感を志す。秀色は濤声に雄く、□思は蜃気に巧みなり。以て材を観るべし。至るがごときは東に島夷を扼し、北に遼左を控え、南に呉会に通じ、西に燕雲を翼す。艘運の達する所、以て咽喉を済すべし。備倭の拠る所、以て保障を崇ぶべし。封豕も漁る所靡く、長鯨も敢えて吸う罔し。以て要を観るべし。時を撫し変を察し、材を度り要を修む。四者備わりて、天下の大観なり。
鸟可无修。语有之:台以察氛祲,节劳佚,微独于目观美也。盖古之仁人君子,遐思逖览,罔不在民。记超然台则起物外之想,登岳阳楼则勤先忧之思,宁独骋盻望,流光景为旷巳乎?若乃登兹阁者,纪网之臣肃其宪令,封疆之臣宣其慈惠,文学之臣藻其鞶悦,将帅之臣振其武略,俾物无疵厉,民无夭札,跻斯世而蓬莱之,庶几仁人君子之用心哉!无论世无神仙蓬莱,政使有之,以方我大明盛治,摹唐型周,海静风恬,真人天境界果何若也?抑方丈瀛洲,君子固掩日不欲道耶?然则是阁也,修于治世尤亟矣。余固曰:知言哉!宋臣也,卑卑秦汉,从臾者流,奚置喙焉。是役也,前□□□檄经始,稽费则公课百余𦈏,乡官成□□□□□□,预办材□左。会巡抚□东顾公海檄□□价壁,谕水□金,输运三年,财靡帑出,力靡民□□□□□□旧贯,什倍之□。阁入国朝,一修于永□间,□修于成化七年北,兹三修也。阁事竣,适不谷建节之初,郡吏具状守、巡以请,佥谓材美制巨,地胜名䢢,不可以不记也。于是乎记。
あに修めざるべけんや。語に之れ有り、台は以て氛祲を察し、勞佚を節す。微だ独り目観の美に於けるのみならず、と。そもそも古の仁人君子、遐思逖覧、民に在らざるは罔し。超然台を記せば則ち物外の想を起こし、岳陽楼に登れば則ち先憂の思を勤む。あに独り盻望を騁け、光景を流れて以て曠を巳と為さんや。若し乃ち茲の閣に登る者、紀網の臣はその憲令を肅くし、封疆の臣はその慈恵を宣べ、文学の臣はその鞶悦を藻い、将帥の臣はその武略を振るわば、物に疵厲無く、民に夭札無からしめ、斯の世を躋かせて蓬莱とせば、庶幾くは仁人君子の用心なるか。世に神仙の蓬莱無きを論せず、政たこれ有らしむるに、以て我が大明の盛治に方べんとすれば、唐を摹り周を型り、海静かに風恬かなり。真人の天境界、果たして何若か。抑も方丈瀛洲は、君子固より日を掩い道わんことを欲せざるか。然らば則ち是の閣は、治世に修むるは尤も亟し。余は固より曰く、言を知れるかな、と。宋臣なり、卑々たる秦漢、從臾の流、奚ぞ喙を置かん。是の役は、前□□□檄して始めを経る。費を稽えば則ち公課百余𦈏、郷官成□□□□□□、預め材□左を辦す。会す巡撫□東顧公の海檄□□價壁、水□金に諭し、輸運三年、財は帑より出ずる靡く、力は民□□□□□□より舊貫、これを什倍す□。閣は国朝に入り、一たび永□の間に修め、□成化七年の北に修め、茲に三修なり。閣事竣り、適ぞ不谷の建節の初め、郡吏は状を具えて守・巡を以て請う。僉に謂う、材は美しく制は巨く、地は勝れ名は䢢し。以て記せざるべからず、と。是に於いて記す。
『海鏡亭記』
登州临观之胜,曰蓬莱阁,枕丹崖,俯沧海,士大夫燕游歌咏,必于是焉在。樽酒未终,云物百变,然长山诸岛逼出其左,若得海之一隅。阁下四壁皆石刻,多世俗所□。蓬莱八景,殊少善本。苏文忠巂书海市歌,字剥落,类刓削者几煎人。碑刻名迹,吏多微榻□本,不予其直,民怨其病已也,而毁之,如此者甚众,是□惜也。右折而下,为海潮庵,庵左侧有亭皎然,轩楹□厂,盖先朝台使者阅水师处。今武备不讲久矣。把酒凭栏,左右洲岛参差,至此则一碧万里,无复织芥。风微日霁,波平如熨,上可以凭虚御风,与三山十洲相往来,而下可以接鲛宫蜃市于几席间也。丁酉夏四月十有四日,予夜宿亭畔,水月空明,毛发可数,书其上曰海镜。明年再至,则郡丞马君扫除丹雘,登望潇洒,留连不能去。事固有名微而实胜,居卑而视广者,有类于是。后之好事者,其毋务崇其观,礼其垣,以废吾亭,乃龙石而记之。
登州の臨観の勝は、蓬莱閣と曰い、丹崖を枕とし、滄海を俯す。士大夫の燕游歌詠は、必ず是に於いて在り。樽酒未だ終わらず、雲物百変す。然れども長山の諸島はその左に逼り出で、海の一隅を得たるがごとし。閣下の四壁は皆石刻にして、多くは世俗の□する所。蓬莱八景、殊に善本少なし。蘇文忠の巂書せる海市歌は、字剥落し、刓削せる者に類して幾ど人を煎れしむ。碑刻の名跡は、吏多く微かに榻□本を為し、その直を予せず。民はその己を病むを怨みて、これを毀る。此のごとき者甚だ衆し。是れ□惜しむべし。右に折れて下れば、海潮庵と為る。庵の左側に亭有りて皎然たり。軒楹□厂。そもそも先朝の台使者の水師を閲する処なり。今や武備の講ぜられざること久し。酒を把りて欄に憑れば、左右の洲島参差たり。此に至れば則ち一碧万里、復た織芥無し。風微かに日霽れ、波平らぐこと熨のごとし。上は以て虚に憑り風を御し、三山十洲と相往来し、下は以て鮫宮蜃市を几席の間に接すべし。丁酉の夏四月十有四日、予夜に亭畔に宿す。水月空明にして、毛髪数うべし。その上に書して海鏡と曰う。明年再び至れば、則ち郡丞の馬君、丹雘を掃除し、登望瀟洒として、留連して去る能わず。事は固より名微かにして実勝れ、居卑くして視広き者有り。是に類する有り。後の好事の者、そのその観を崇め、その垣を礼して、以て吾が亭を廃すること毋かれ。乃ち石に刻みて以てこれを記す。
『古今図書集成・職方典』
登镇标水师营,原系登州水营,顺治十八年设守备一员,千总一员,左哨把总一员,右哨把总一员,驻札登州水城并分防水城东西海口墩台,其东至宁海州交界,西至莱州府交界,拨把总带领兵丁轮流分防。
登鎮標水師営は、もとは登州水営に係る。順治十八年に守備一員、千総一員、左哨把総一員、右哨把総一員を設け、登州水城に駐札し、あわせて水城東西の海口の墩台を分防す。その東は寧海州との交界に至り、西は萊州府との交界に至る。把総を撥して兵丁を帯領せしめ、輪流に分防せしむ。
登州滨海而郡有山蜿蜒分脉,泰宗来自东南,崒〼海岸作镇城北,前人构阁其上,榜曰蓬莱,夫蓬莱境界号称仙居,其说见于山经水注所记载骚士韵客所托兴,不一而足,而是阁之构乃以是名,其有慕而为之耶。抑将以形破影,以迹蹈空,使登是阁者悟蓬莱,亦如是阁不必更从阁外觅蓬莱耶。予以丙子秋奉命守登,初一登临,见荒烟蔓草颓垣裂瓦,满目萧条,感极而悲,盖以崇祯五年燹于兵故也。及考诸舆志则登为古嵎夷地,寅宾出日于是乎,在而西北有田公寨,是固五百义士所慷慨发愤不为汉臣者也。北折而南则有之罘岛、文登山、不夜城、系马台,是固秦皇汉武所巡幸驻跸,祷祀祈求希望长生而不可得者也。极目浩渺,浮波隐见,则有皇城岛、鼍矶诸峦峙其间,太宗渡辽之绩,仁贵天山之功,流传约略犹有可论述者,然则登虽小郡,实南北关钥,自昔圣帝明王英雄豪杰之所式化驰骛之区也,乌睹所谓瑶花琪树,玉阙金楹之胜,概安期子晋王乔叶善之,往来而号曰蓬莱也哉,虽然世外蓬莱有与无不必论,而解脱缰锁,涤除烦苛以自心蓬莱造斯世蓬莱,其得失可还商也。我明太祖肇造,区夏薄海内外,靡非臣妾列圣相承,重熙累洽民生三百年来不见兵革,鸡犬桑麻嬉游歌舞声影闻望迄于四境,前后长兹土者或公慈而廉明,或易直而子谅,政无虎猛,俗鲜鸿哀,所称至治之世,纳兆庶于春台,其在斯时乎,使世外果有蓬莱,其优游自得与物无竞之景当亦如是,已耳无何乱起刊湮荡析之惨,仳离怨旷之气通于城野,而曩之所谓鸡犬桑麻嬉游歌舞声影闻望迄于四境者盖已不可复识矣,予抵登之年,竭蹶砥砺,积粟储器,以戒不虞,幸而鲸波载息,蛟穴爰清,虽不敢谓学道爱人遽臻上理,而生聚教训固守土者之责也,其荡析仳离之景行且一转而曩,昔嬉游歌舞之乐不且再见欤,其纳兆庶于春台,使之优游自得也,即以环登为蓬莱亦可耳,至若流连景会随物悲喜,写骚情于毫端,抒逸兴于赋底,则善乎范希文之言曰:君子先天下之忧而忧,后天下之乐而乐。虽是阁之中风潮月汐,雾彩星碁,一日之内晦暝异态,可娱宴而匪所思存也。时因葺治城垣修建,海神天妃诸庙以为国祝,厘为民祈祷,用纪其事,与予之意以告登众,以贻后来有如此者。
登州は海に濱するも、郡に山の蜿蜒として脈を分かつ者有り。泰宗は東南より来り、崒〼として海岸に出で、城北の鎮と作る。前人その上に閣を構え、榜して蓬莱と曰う。それ蓬莱境界は仙居と号す。その説は山経水注の記載する所に見え、騒士韻客の托興する所、一に足らざるに非ず。而るに是の閣の構えは乃ち是の名を以てす。それ慕う有りてこれを為すか。抑も将に形を以て影を破り、跡を以て空を蹈み、是の閣に登る者をして蓬莱を悟らしめ、亦是の閣のごとく、必ずしも更に閣外より蓬莱を覓るを要せざると為さんとするか。予は丙子の秋に命を奉じて登を守る。初一たび登臨し、荒煙蔓草・頽垣裂瓦を見、満目蕭条として、感極まりて悲しむ。そもそも崇禎五年に兵に燹かれたるが故なり。及び諸の輿志を考えれば、則ち登は古の嵎夷の地、寅に賓し日の出づるは是に於いて在り。而して西北に田公寨有り。是れ固より五百の義士の慷慨発憤して漢の臣と為らざる所なり。北に折れて南すれば、則ち之罘島・文登山・不夜城・繋馬台有り。是れ固より秦皇漢武の巡幸駐蹕し、祷祀祈求して長生を希望して得ざりし所なり。目を極めて浩渺として、波に浮かび隠見するは、則ち皇城島・鼉磯の諸巒その間に峙つ。太宗の遼を渡るの績、仁貴の天山の功、流伝約略、猶お論述すべき有り。然らば則ち登は小郡と雖も、実に南北の関鍵、昔より聖帝明王・英雄豪杰の式化馳騖する区なり。あに睹せん所謂瑶花琪樹・玉闕金楹の勝、概ね安期・子晋・王喬・葉善の往来して号して蓬莱と曰えるをや。雖もしかり、世外の蓬莱の有ると無きとは論ずるを必とせず。而して韁鎖を解脱し、煩苛を滌除し、自心の蓬莱を以て斯の世の蓬莱を造る。その得失は還って商るべし。我が明の太祖の肇造、区夏は海の内外に薄けど、臣妾ならざるは靡く、列聖相承え、重熙累洽して民生すること三百年、兵革を見ず、鶏犬桑麻、嬉游歌舞の声影聞望、四境に迄る。前後して茲の土を長ずる者は、或いは公慈にして廉明、或いは易直にして子諒。政に虎猛無く、俗に鴻哀鮮し。所謂至治の世、兆庶を春台に納るるは、それ斯の時に在るか。世外に果たして蓬莱有らしめば、その優游自得・物と競う無きの景は、当に亦是のごとくなるべし。已みぬること何ぞ無からん。乱起こりて刊湮蕩析の惨、仳離怨曠の気、城野に通ず。而して曩の所謂鶏犬桑麻・嬉游歌舞の声影聞望、四境に迄りし者は、そもそも已に復た識るべからず。予の登に抵るの年、竭蹶砥礪し、粟を積み器を儲え、以て不虞を戒む。幸いにして鯨波載せて息み、蛟穴爰に清し。敢えて学道愛人、遽かに上理に臻ると謂わずと雖も、而して生聚教訓するは、固より土を守る者の責なり。その蕩析仳離の景、行き且ち一転して、曩昔の嬉游歌舞の楽、且ち再び見ざらんや。その兆庶を春台に納れ、これをして優游自得ならしむるは、即ち登を環りて以て蓬莱と為すも亦可なり。至るがごときは景会に流連し、物に随いて悲喜し、騒情を毫端に写し、逸興を賦底に抒るは、則ち范希文の言に善くして曰く、君子は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ、と。是の閣の中の風潮月汐・霧彩星碁、一日の内に晦暝異態なると雖も、娱宴すべけれども、思い存する所に匪ざるなり。時に因りて城垣を葺治し、修建して、海神・天妃の諸廟を以て国の祝厘と為し、民の祈祷と為す。用いてその事を紀し、予が意を以て登の衆に告げ、以て後来に貽すこと此のごとき者有り。
『小滄浪筆談』
蓬莱阁在登州水城上几席之外海天万里沙门诸岛浮青数痕耳予两至此皆天气晴朗风清日丽绝未见所谓海市者故余有句云天能包括鲸波静日有光辉蜃气销余考史书地志山东沼海州县多有海市唐以前绝无海市之说凡史记所称秦始皇见仙人之地皆今有海市之地一一相合然则方士所以惑始皇者皆是物耳
蓬莱閣は登州水城の上に在り。几席の外は海天万里、沙門の諸島は青を浮かべて数痕のみ。予は両たび此に至るも、皆天気晴朗、風清く日麗らかにして、絶えて所謂海市を見ず。故に余に句有りて云う、天は能く包括し鯨波静か、日は光輝有りて蜃気銷ゆ、と。余は史書地志を考うるに、山東の海に沼る州県は多く海市有り。唐以前は絶えて海市の説無し。凡そ史記の称する所の秦始皇の仙人を見るの地は、皆今の海市有るの地と一一相合す。然らば則ち方士の以て始皇を惑わす所以の者は、皆是の物のみ。
古写真
1903年
英国国立公文書館所蔵の『Shantung and Kiaochou: Photographs of a Tour in 1903』アルバムには、蓬莱の古写真が二枚保存されている。一枚目は水面から丹崖山上の蓬莱閣・城垣・舟船を写し、二枚目は蓬莱閣の方向から水城・港口および登州城を俯瞰している。画像は英国国立公文書館の許可によりブリストル大学「中国歴史写真」プロジェクトに収録された。
1906〜1907年
G. Warren Swireが1906年から1907年にかけて登州水城で撮影した一連のネガは、現在ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)のアーカイブ・特別コレクション部門に所蔵され、ブリストル大学「中国歴史写真」プロジェクトによって公開されている。画像の著作権はJohn Swire & Sons Ltdに帰属する。四つの画像はそれぞれ水城の海門と舟船、城壁の缺口および丹崖山の建築群、城内の屋根と港池、および港池・舟船と水城の内側城垣を記録している。同じ巻にはさらに「Temple at Tengchow」と題された二枚のネガがあり、一枚は正面から院落建築群を記録し、もう一枚は海に臨む側に近づいて重檐の楼閣・欄干と壁体を撮影している。
1928年
蓬莱東街の物華照相館の写真師・蒋維周は1928年の正月十六日に蓬莱閣天后宮の縁日を撮影した。写真は当時の丹崖山上の建築群・院壁・山道と縁日に集まる人々を記録している。蒋維周の孫娘・蒋延莉は『こんにちは、懐かしの日々|三世代と蓬莱閣が紡ぐ世紀を越えた光と影の物語』の中で、この写真のガラス乾板が今日まで保存されていると紹介している。
参考文献
- 曲連福・羅世恒:『登州古港の港区の変遷』、もと『蓬莱古船与登州古港』に所収、大連海運学院出版社、1989年。
- 謝瑞傑:『講座紀要|党宝海:元代交通史研究における考古学的問題』、北京大学考古文博学院、2025年。