はじめに
明の嘉靖年間、各地で官を歴任した范欽は官を辞して寧波に帰った。彼は在任中たえず典籍を買い集め、とりわけ容易に見ることのできない経説や郷邦の詩文に心を留めていた。自分の持たない書に出会うと、蘇州の蔵書家・王世貞の家と書目を照らし合わせ、互いに写し合うこともあった。これらの書をまとめて保存するため、范欽は月湖の西側の宅内に二層の蔵書楼を建て、書棚を楼上に置いた。閣の前には池を鑿ち、周りに竹木を植え、後に収集した碑版[1]の中に元の書家・揭傒斯の書いた「天一池」の石刻を見出したことから、范氏は「天一」をもって書楼を名づけた。
范欽の死後、范氏は分家の際に蔵書を分けず、完全な書閣と万金とを二つに分けた。書を守ろうとする一房が書閣を受け継ぎ、次男は金を取って去った。全祖望は後に「今や金は尽きて書はなお存す」と書いた。いずれの房も単独で閣を開き、書を楼から降ろしたり質に入れて売ったりできないようにするため、范氏の後人は閣の門と書棚の鍵を各房に分けて預け、各房の子孫がそろった時にのみ開錠できるようにした。無断で閣に登り、外部の者を連れて入り、あるいは書を借りて閣の外に出した者は、いずれも家祭に加わることを許されない罰を受けた。康熙十二年(1673)、学者の黄宗羲が寧波に来ると、范氏の後人・范友仲は「戒を破って」彼を楼に案内し、すべての書棚を開いた。黄宗羲はこの破例を『天一閣蔵書記』に書き込み、この家族規則が実際に運用された一場面を残した。
乾隆三十八年(1773)、朝廷は『四庫全書』の纂修のため各地に図書を徴集し、范欽の八世孫・范懋柱は閣中から六百三十八种を進呈した。朝廷はもともと写し終えてから返還する定めであったが、実際にはなお一部の書が天一閣に戻らなかった。乾隆帝は『古今図書集成』と二部の戦図を下賜し、杭州織造[2]の寅著に命じて寧波に赴かせ、書楼と書棚を測り見させた。その後建てられた七つの皇家蔵書閣は天一閣の形制を参照し、范氏の書楼もこれによって寧波の私家の蔵書処から全国に名の知られた蔵書楼となった。嘉慶年間、浙江巡撫の阮元はまた范氏の後人に命じて棚ごとに蔵書を点検させ、十巻の書目に編んで嘉慶十三年(1808)に刻印した。
十九世紀以降、戦争と盗難が相次いで范氏の数代にわたって維持してきた守書の秩序を破った。道光二十一年(1841)、英軍は寧波を占領した後に天一閣に入り、『一統志』などの地理書数十種を掠め去った。咸豊十一年(1861)、太平軍が寧波に入ると、閣を守っていた范氏の後人は避難し、附近の游民は書楼の裏壁をこじ開けて閣の書を盗み出した。あるものは教士の手に流れ、あるものは古紙の値段で製紙業者に売られ、范氏は事後にその一部を買い戻すしかなかった。1914年には上海の書商がまた薛継渭を雇って書楼に潜入させ、あらかじめ選定した書目に従って少なくとも一千種を窃み去った。当時の言い伝えによれば、薛継渭は閣中に十余日潜み、黒棗で飢えをしのいだという。范氏が発見した時、大量の善本[3]はすでに上海に運ばれていた。その一部は後に張元濟らに買い集められ、商務印書館の涵芬楼に収められたが、1932年に日本軍が上海を爆撃した際、東方図書館とともに焼失した。1930年代初めには、閣中の旧蔵は范欽の時代の七万余巻から一万四五千巻に減り、書楼も范氏の財力の衰退により安定した修繕の財源を失っていた。
1933年9月18日、強い暴風が寧波を襲い、宝書楼の東壁の一角が傾き崩れた。范氏の後人はすでに自力で修復する力がなく、鄞県文献委員会は10月1日に会議を開き、社会からの募金による修理の興起を提案した。三週間の準備を経て、重修天一閣委員会が10月24日に成立し、会址は寧波中山公園内の鄞県文献委員会に置かれた。委員会には全部で二十五名の委員がおり、鄞県県長の陳宝麟が主席を務め、葉謙諒・馮貞群・林紹楷・陳賢凱が総務・交際・工程と経済を分担して管掌し、構成員の中には別に六名の范氏後裔がいた。委員会は天一閣の旧観を回復し規模を拡大することを望んだため、募金は崩れた壁の修補に充てられるだけでなく、園林の整修、尊経閣の移築、散逸した閣書の訪求購入にも充てられた。
1934年3月18日、委員会はまず蔵書の搬出を決定し、すべての書箱に鄞県政府・委員会・范氏の三通の封箋を同時に貼ることを求めた。6月1日、宝書楼上の九千余冊の典籍が書版・帖石とともに十五本の木箱に分けて詰められ始め、10日までにすべて范氏の詒谷堂に移され、范氏の宗老と公安局の巡士が昼夜見守った。職人がすべての屋根瓦を剥がして初めて、柱や桷が朽ち腐り、壁垣が頽壊し、多くの木・石・磚の材料を取り換えなければならないことが分かった。工事は直ちに腐った柱や楼板を取り換え、磚の床を敷き直し、屋根瓦を葺き替え、前後の假山・石の小径・池を整えた。宝書楼は12月17日に完工し、陳宝麟・馮貞群・葉謙諒および范氏の委員らが20日にともに検収した。1935年1月10日、蔵書は詒谷堂からすべて楼上に戻された。委員会はその後さらに寧波府学の尊経閣を書楼の北に移し、明州碑林と千晋斎を設け、この応急修理によって天一閣周辺の建築と園林の様相はさらに変えられ続けた。
重修完成の二年後、全面抗戦が勃発し、委員会はやむなく帰閣したばかりの珍本をまた移さなければならなかった。1937年8月、委員会は「外侮切迫し、文化機関はとりわけ危険が多い」との理由で、まず明代の方志や登科録などを三箱に詰めて移した。1939年、浙江省教育庁と浙江図書館の協力のもと、三回に分けた蔵書の合計二十三箱・九千八十冊が、范氏の後人・范召南の随行看護のもと浙南の龍泉に運ばれた。1941年4月に寧波が陥落した時、主な珍本はすでに閣を離れていた。同年6月、重修天一閣委員会は銭銀・档案・鍵・器具を范氏に引き渡し、事実上活動を停止した。范氏の後人・范盈泩は閣東の小屋に住んで空の閣を守り、露店を出し閣の裏で野菜を作って生計を立てた。龍泉・麗水も後に戦争の脅威を受けたため、蔵書はまた1942年8月から1943年1月の間に浙江図書館の善本とともに慶元の淤上に移された。抗戦勝利後、この書はまず杭州に運び戻され、1946年12月25日にようやく天一閣に帰った。馬涯民は後に、帰閣した時に欠けていたのは方志数種のみであったと記している。
歴史文献
『甬上耆旧詩』
兵部右侍郎范公钦,字尧卿,号东明。以进士出知随州,有治行,迁工部员外郎。时大工频起,武定侯郭勋为督,其势张甚。公以事忤之,勋谮于上,下公狱,杖之阙下。出知袁州。相嵩,其郡人也。嵩子世蕃欲取宣化公宇,公不可。世蕃怒,欲斥之,嵩曰:是抗郭武定者,踣之适高其名。遂得寝。稍迁按察副使,备兵九江。历广西、福建、云南、陕西诸藩臬,进副都御史,巡抚南赣诸郡。擒剧贼李文彪,平其穴。疏请筑城程乡之濠居村,设一通判,以消豫章、闽粤之奸。复攻大盗冯天爵,斩之。迁兵部右侍郎,解组归。时郡中东沙张公、竹墟屠公亦以事废,与公并里居,投闲啸咏,主一时文柄,人称为东海三司马。而公筑居在两湖深处,舍径窅曲,林木翳然,不知在城市中。性喜藏书,于舍中起天一阁,尽购海内异本,列为四部。尤善收说经诸书及先辈诗文集未传世者。与吴门王凤洲家岁以书目取较,各钞所未见相易,故浙东藏书家以范氏天一阁为第一。卒年八十三。所著天一阁集、抚掌集。
兵部右侍郎范公欽、字は堯卿、号は東明。進士を以て出でて随州を知り、治行あり、工部員外郎に遷る。時に大工頻りに起こり、武定侯郭勲督と為り、その勢い張ること甚だし。公事を以てこれに忤い、勲上に譖り、公を獄に下し、これを闕下に杖つ。出でて袁州を知る。相の嵩はその郡の人なり。嵩の子世蕃、宣化の公宇を取らんと欲すも、公可ならず。世蕃怒り、これを斥けんと欲す。嵩曰く、これ郭武定に抗する者なり、これを踣すは適々その名を高くせん、と。遂に寝むを得たり。稍や按察副使に遷り、九江に兵を備う。広西・福建・雲南・陝西の諸藩臬を歴て、副都御史に進み、南贛の諸郡を巡撫す。劇賊李文彪を擒え、その穴を平らぐ。疏して程郷の濠居村に城を築き、一通判を設け、以て豫章・閩粵の姦を消さんことを請う。復た大盗馮天爵を攻め、これを斬る。兵部右侍郎に遷り、組を解きて帰る。時に郡中の東沙張公・竹墟屠公もまた事を以て廃せられ、公と並び里に居り、閑に投じて嘯詠し、一時の文柄を主り、人これを東海三司馬と称す。而して公は居を両湖の深処に築き、舎径窅曲にして、林木翳然たり、城市の中なるを知らず。性、蔵書を喜び、舎中に天一閣を起こし、海内の異本を尽く購い、四部に列す。尤も経を説く諸書および先輩の詩文集の未だ世に伝わらざる者を収むるに善し。呉門の王鳳洲の家と歳に書目を以て取り較べ、各々その未だ見ざる所を鈔して相易う。故に浙東の蔵書家は范氏の天一閣を以て第一と為す。卒するに年八十三。著す所に天一閣集・撫掌集あり。
公天一阁所藏书最有法,至今百余年,卷帙完善。适余选里中耆旧诗,公曾孙光燮为余扫阁,尽开四部书使纵观,因得郑荥阳、黄南山、谢廷兰、魏松云诸先生集诗,录入选中,俱前此选家所未见者,其有功吾乡文献为甚大矣。
公の天一閣の蔵する所の書、最も法あり、今に至るまで百余年、巻帙完善す。適々余、里中の耆旧の詩を選ぶに当たり、公の曾孫光燮、余の為に閣を掃き、尽く四部の書を開きて縦観せしむ。因りて鄭滎陽・黄南山・謝廷蘭・魏松雲の諸先生の集の詩を得、録して選中に入る。俱に前此の選家の未だ見ざる所の者なり。その吾が郷の文献に功あること甚だ大なり。
「黄梨洲先生天一閣蔵書記」
天一阁书,范司马所藏也。从嘉靖至今,盖已百五十年矣。司马殁后,封闭甚严。癸丑,余至甬上,范友仲破戒引余登楼,悉发其藏。余取其流通未广者,抄为书目,凡经、史、地志、类书,坊间易得者,及时人之集、三式之书,皆不在此列。余之无力,殆与东里少时伯仲,犹冀以暇日握管怀铅,拣卷小书短者抄之。友仲曰:“诺。”荏苒七年,未蹈前言。然余之书目,遂为好事流传。昆山徐健庵使其门生誊写去者,不知凡几。友仲之子左垣,乃并前所未列者,重定一书目,介吾友王文三求为藏书记。
天一閣の書は、范司馬の蔵する所なり。嘉靖より今に従うに、けだし已に百五十年なり。司馬の歿後、封閉甚だ厳し。癸丑、余甬上に至り、范友仲戒を破りて余を引きて楼に登り、悉くその蔵を発く。余その流通未だ広からざる者を取り、鈔して書目と為す。およそ経・史・地志・類書の、坊間に得易き者、および時人の集・三式の書は、みな此の列に在らず。余の力無きは、ほとんど東里の少き時と伯仲せり。なお冀う、暇日を以て管を握り鉛を懐き、巻小さく書短き者を揀みてこれを鈔さんことを。友仲曰く、諾、と。荏苒として七年、未だ前言を蹈まず。然れども余の書目、遂に好事に流伝せらる。崑山の徐健庵、その門生をして誊写し去らしむる者、幾ばくなるを知らず。友仲の子左垣、乃ち并せて前此の列さざる者を、重ねて一書目を定め、吾が友王文三を介して蔵書記を為さんことを求む。
近来书籍之厄,不必兵火,无力者既不能聚,聚者亦以无力而散,故所在空虚。屈指大江以南,以藏书名者不过三四家。千顷斋之书,余宗兄比部明立所聚,自庚午讫辛巳,余往南中,未尝不借其书观也。今闻虞稷好事过于其父,无由一见之。曹秋岳倦圃之书,累约观之而未果,据秋岳所数,亦无甚异也。余门人自昆山来者,多言健庵所积之富,亦未寓目。三家之外,即数范氏。韩宣子聘鲁,观书于太史氏,见《易象》与《鲁春秋》,曰:“周礼尽在鲁矣。”范氏能世其家,礼不在范氏乎?幸勿等之云烟过眼,世世子孙如护目睛,则震川覆护之言,又未必不然也。
近來書籍の厄は、必ずしも兵火を待たず。力無き者は既に聚むる能わず、聚むる者もまた力無きを以て散ず。故に在る所空虚なり。指を屈すれば大江以南、蔵書を以て名ある者三四家に過ぎず。千頃斎の書は、余の宗兄比部明立の聚むる所。庚午より辛巳に訖るまで、余南中に往き、未だかつてその書を借りて観ざることなし。今聞く、虞稷の好事、その父に過ぐ。一見する由無し。曹秋岳倦圃の書、約を累ねてこれを観んとするも果さず。秋岳の数うる所に拠れば、また甚だ異なるも無し。余の門人、崑山より来る者、多く健庵の積む所の富を言うも、また目に寓れず。三家の外、即ち范氏を数う。韓宣子魯に聘し、書を太史氏に観て、易象と魯春秋とを見て曰く、周礼尽く魯に在り、と。范氏能くその家を世にするは、礼范氏に在らずや。幸いにこれを雲煙の眼を過ぐるに等しからしむる勿れ。世々の子孫、目睛を護るが如くせば、則ち震川の覆護の言、また必ずしも然らざるに非ざるなり。
「全謝山先生天一閣蔵書記」
南雷黄先生记天一阁书目,自数生平所见,四库落落如置诸掌,予更何以益之?但是阁肇始于明嘉靖间,而阁中之书不自嘉靖始,固城西丰氏万卷楼旧物也。丰氏为清敏公之裔,吾乡南宋四姓之一,而名德以丰为最。清敏之子安常。安常子治,监仓扬州,死于金难,高宗锡以恩恤。治子谊,官吏部,以文名。谊子有俊,以讲学与象山、慈湖最相善,亦官吏部。有俊子云昭,官广西经略。云昭子稌,稌子昌传,并以学行为时师表。而云昭群从,曰芑、曰𦶜,皆有名。盖万卷楼之储,实自元祐以来启之。自吏部以后,迁居绍兴。其后至庚六迁居奉化,庚子茂四迁居定海。茂孙寅初,明建文中官教谕。寅初子庆,眷念先畴,欲归葬父于鄞,而岁久,其祖茔无知者,旁皇甬上。或告之曰:“城西大卿桥以南紫清观,吉地也。”庆乃卜之,遇丰之革,私自喜曰:“符吾姓矣。”是日适读元延祐《四明志》云:“紫清观者,宋丰尚书故园也。”庆大喜,即呈于官,请赎之,并为访观中旧籍,得其附观圃地三十余亩,为邻近所据者,尽清出之,遂葬其亲,而以其余治宅。庆喜三百年故居之无恙也,作十咏以志之。而于是元祐以来之图书,由甬上而绍兴,而奉化,而定海者,复归甬上。庆官河南布政,庆子耘官教授,耘子熙官学士,即以谏“大礼”拜杖遣戍者也。丰氏自清敏后,代有闻人,故其聚书之多,亦莫与比。
南雷黄先生、天一閣の書目を記し、自ら平生見る所を数うに、四庫落落として掌に置くが如し。予更に何を以てこれに益さん。但だしこの閣の肇始は明の嘉靖の間にあり、而して閣中の書は嘉靖より始まらず。固より城西豊氏万卷楼の旧物なり。豊氏は清敏公の裔にして、吾が郷南宋四姓の一、而して名徳は豊を以て最とす。清敏の子は安常。安常の子治、揚州に倉を監し、金難に死し、高宗恩恤を以て錫う。治の子誼、吏部に官し、文を以て名あり。誼の子有俊、講学を以て象山・慈湖と最も相善し。亦た吏部に官す。有俊の子雲昭、広西経略に官す。雲昭の子稌、稌の子昌伝、并せて学行を以て時の師表と為る。而して雲昭の群従に、芑と曰い𦶜と曰う者あり、皆名あり。けだし万卷楼の儲は、実に元祐以来これを啓く。吏部以後、紹興に遷居す。その後庚六に至り奉化に遷居し、庚の子茂四、定海に遷居す。茂の孫寅初、明の建文中、教諭に官す。寅初の子慶、先疇を眷念し、父を鄞に帰葬せんと欲す。而して歳久しく、その祖塋を知る者無く、甬上に旁皇す。或る者これに告げて曰く、城西大卿橋以南の紫清観は吉地なり、と。慶乃ちこれを卜し、豊の革に遇い、私に喜んで曰く、吾が姓に符す、と。是の日適々元の延祐『四明志』を読みて云く、紫清観とは宋の豊尚書の故園なり、と。慶大いに喜び、即ち官に呈し、これを贖わんことを請い、并せて観中の旧籍を訪う。観に附する圃地三十余畝の、隣近の据える所なる者を得て、尽くこれを清め出し、遂にその親を葬り、而してその余を以て宅を治む。慶、三百年の故居の恙なきを喜び、十詠を作りて以てこれを志す。而してここにおいて元祐以来の図書の、甬上より紹興、奉化、定海に至る者、復た甬上に帰す。慶、河南布政に官し、慶の子耘、教授に官し、耘の子熙、学士に官す。即ち「大礼」を諫めて杖を拝し戍に遣わされたる者なり。豊氏清敏の後、代々聞人あり。故にその聚書の多きも、また与に比ぶる莫し。
迨熙子道生晚得心疾,潦倒于书淫墨癖之中,丧失其家殆尽,而楼上之书,凡宋椠与写本为门生辈窃去者,几十之六。其后又遭大火,所存无几。范侍郎钦素好购书,先时尝从道生钞书,且求其作藏书记,至是以其幸存之余,归于是阁,又稍从弇州互钞以增益之,虽未能复丰氏之旧,然亦雄视浙东焉。
熙の子道生に迨ぶに、晩年心疾を得、書淫墨癖の中に潦倒し、その家を喪失すること殆ど尽きんとす。而して楼上の書、およそ宋槧と写本の、門生の輩に窃み去られし者、幾ど十の六。その後また大火に遭い、存する所幾ばくも無し。范侍郎欽、素より書を購うを好み、先時かつて道生に従りて書を鈔し、且つその蔵書記を作らんことを求む。これに至りてその幸存の余を以て、是の閣に帰せしめ、また稍や弇州より互鈔して以てこれを增益す。未だ豊氏の旧に復す能わざるといえども、然れどもまた浙東に雄視せり。
初,道生自以家有储书,故谬作《河图石本》《鲁诗石本》《大学石本》,则以为清敏得之秘府;谬作《朝鲜尚书》《日本尚书》,则以为庆得之译馆。贻笑儒林,欺罔后学,皆此数万卷书为之厉也。然则读书而不善,反不如专己守陋之徒,尚可帖然相安于无事。吾每登是阁,披览之余,不禁重有感也。
初め、道生自ら家に儲書有るを以ての故に、謬りて『河図石本』『魯詩石本』『大学石本』を作りては、則ち以て清敏の秘府に得たりと為し、謬りて『朝鮮尚書』『日本尚書』を作りては、則ち以て慶の訳館に得たりと為す。儒林に笑を貽し、後学を欺罔す。皆此の数万巻の書の為に厲と為る者なり。然らば則ち書を読みて善からざれば、却って専己守陋の徒に如かず。なお帖然として相安んじて事無からん。吾毎に是の閣に登り、披覧の余、禁じ得ず重ねて感ずる所有り。
吾闻侍郎二子方析产时,以为书不可分,乃别出万金,欲书者受书,否则受金,其次子欣然受金而去。今金已尽而书尚存,其优劣何如也?自易代以来,亦稍有阙佚,然犹存其十之八,四方好事,时来借钞。闽人林佶尝见其目,而嫌其不博,不知是固丰氏之余耳。且以吾所闻,林佶之博亦仅矣。
吾聞く、侍郎の二子、方に産を析つる時、以て書は分つべからずと為し、乃ち別に万金を出し、書を欲する者は書を受け、否らざれば金を受けしむ。その次子欣然として金を受けて去る。今金已に尽きて書なお存す。その優劣いかんぞや。易代以来、また稍や闕佚あり。然れどもなおその十の八を存し、四方の好事、時に来たりて借鈔す。閩人の林佶かつてその目を見て、その博からざるを嫌う。知らず、是れ固より豊氏の余なるのみ。且つ吾の聞く所を以てすれば、林佶の博もまた僅かなり。
「御製文淵閣記」
阁之制,一如范氏天一阁,而其详则见于御园文源阁之记。
閣の制は、一に范氏天一閣の如くし、而してその詳は御園文源閣の記に見ゆ。
「銭竹汀先生天一閣碑目序」
四明范侍郎天一阁藏书,名重海内久矣,其藏弆碑刻尤富,顾世无知之者。癸卯夏,予游天台,道出鄞,老友李汇川始为予言之,亟叩主人,启香厨而出之,浩如烟海。未遑竟读。今年予复至鄞,适海盐张芑堂以摹石鼓文寓范氏,而侍郎之八世孙苇舟亦耽嗜法书,三人者晨夕过从,嗜好略相似。因言:天一石刻之富,不减欧、赵,而未有目录传诸世,岂非阙事?乃相约撰次之。拂尘祛蠹,手披目览,几及十日,去其重复者,自三代讫宋、元,凡七百二十余通,以时代前后为次,并记撰书人姓名,俾后来有考。明碑亦有字画可喜者,以近不著录,仿欧、赵之例也。余尝读《弇州续稿》中答范司马小简,有书籍互相借钞之约。今检圉令赵君碑,背面有侍郎手书“凤洲送”三字,风流好事,令人叹慕不置。顾弇山园书画,不五十年尽归它姓,而范氏所藏,阅三百年,手泽无恙,此则后嗣之多贤,尤足深羡者矣。明代好金石者,惟都、杨、郭、赵四家,较其目录,皆不及范氏之富。若于司直辈道听涂说,徒供覆瓿耳。此书出,将与欧、赵、洪、陈并传。苇舟可谓有功于前人,而考证精审,俾先贤搜罗之苦心,不终湮没,则予与芑堂不无助焉。乾隆五十二年,岁在丁未六月十九日,竹汀居士钱大昕序。
四明范侍郎の天一閣の蔵書、名海内に重きこと久し。その蔵弆する碑刻尤も富む。顧るに世にこれを知る者無し。癸卯の夏、予天臺に游び、道鄞に出づ。老友の李匯川始めて予の為にこれを言い、亟く主人を叩き、香厨を啓きてこれを出す。浩として煙海の如く、未だ竟読する遑あらず。今年予復た鄞に至り、適々海鹽の張芑堂、石鼓文を摹るを以て范氏に寓り、而して侍郎の八世孫葦舟もまた法書に耽嗜す。三人の者、晨夕過従し、嗜好略ぼ相似たり。因りて言う、天一の石刻の富、欧・趙に減らず、而していまだ目録の世に伝わる有らず。あに闕事に非ざらんや、と。乃ち相約してこれを撰次す。塵を拂い蠹を祛り、手披目覧し、幾ど十日に及ぶ。その重複する者を去り、三代より宋・元に訖るまで、およそ七百二十余通。時代の前後を以て次と為し、并せて撰書人の姓名を記し、後来に考有らしむ。明碑にも字画の喜ぶべき者有るも、近きを以て著録せず。欧・趙の例に仿うなり。余かつて『弇州続稿』中の范司馬に答うる小簡を読むに、書籍互相に借鈔するの約あり。今檢すれば圉令趙君の碑、背面に侍郎の手書「鳳洲送」の三字あり。風流好事、人をして歎慕して置かざらしむ。顧るに弇山園の書画、五十年ならずして尽く它姓に帰す。而して范氏の蔵する所、三百年を閲して手沢恙無し。此れ則ち後嗣の賢多き、尤も深く羨むに足る者なり。明代金石を好む者は、惟だ都・楊・郭・趙の四家。その目録を較ぶるに、皆范氏の富に及ばず。于司直の輩の道聴塗説の若きは、徒らに覆瓿に供するのみ。此の書出でば、将に欧・趙・洪・陳と并び伝わらんとす。葦舟は謂うべし、前人に功ありと。而して考証精審にして、先賢捜羅の苦心をして終に湮没せざらしむ。則ち予と芑堂と助け無きに非ず。乾隆五十二年、歳丁未に在り六月十九日、竹汀居士銭大昕序す。
「寧波范氏天一閣書目序」
海内藏书之家最久者,今惟宁波范氏天一阁岿然独存。其藏书在阁之上,阁通六间为一,而以书厨间之,其下乃分六间,取天一生水,地六成之之义。乾隆间,诏建七阁,参用其式,且多写其书入四库,赐以《图书集成》,亦至显荣矣。余自督学至今,数至阁中翻所藏书。其金石拓本,当钱辛楣先生修《鄞县志》时,即编之为目,惜书目未编。余于嘉庆八九年间,命范氏后人登阁,分厨写编之,成目录一十卷。十三年秋,以督水师复来宁波,与宁绍台道陈君廷杰言及之。陈君请观其目,遂属府学汪教授本校其书目、金石目,并刻之。刻既成,请序焉。余闻明范司马所藏书,本之于丰氏。此阁构于月湖之西,宅之东,墙圃周回,林木荫翳,阁前略有池石,与阛阓相远,宽闲静閟,不使持烟火者入其中,其能久一也。
海内の蔵書の家の最も久しき者、今惟だ寧波范氏の天一閣、岿然として独り存す。その蔵書は閣の上に在り。閣は六間を通じて一と為し、而して書厨を以てこれを間う。その下は乃ち六間に分かつ。天一水を生じ地六これを成すの義を取るなり。乾隆の間、詔して七閣を建て、その式を参用し、且つ多くその書を写して四庫に入れ、『図書集成』を以て賜う。亦た至りて顕栄なり。余督学より今に至るまで、数々閣中に至りて蔵する所の書を翻す。その金石の拓本は、銭辛楣先生の『鄞県志』を修むるに当たり、即ちこれを編んで目と為せり。惜しむらくは書目未だ編まず。余嘉慶八九年の間に於いて、范氏の後人に命じて閣に登らしめ、厨を分かちて写編せしめ、目録一十巻を成す。十三年秋、水師を督するを以て復た寧波に来たり、寧紹台道の陳君廷傑と言ってこれに及ぶ。陳君その目を観んことを請う。遂に府学の汪教授本に属してその書目・金石目を校せしめ、并せてこれを刻す。刻既に成り、序せんことを請う。余聞く、明の范司馬の蔵する所の書は、これを豊氏に本づく、と。此の閣は月湖の西、宅の東に構えられ、墻圃周回し、林木蔭翳し、閣前に略ぼ池石あり、闤闠と相遠く、寛閑静閟にして、煙火を持する者をして其中に入らしめず。その能く久しきこと一なり。
又司马没后,封闭甚严,继乃子孙各房相约为例,凡阁厨锁钥,分房掌之,禁以书下阁梯,非各房子孙齐至,不开锁。子孙无故开门入阁者,罚不与祭三次;私领亲友入阁及擅开厨者,罚不与祭一年;擅将书借出者,罚不与祭三年;因而典鬻者,永摈逐不与祭。其例严密如此,所以能久二也。
また司馬の没後、封閉甚だ厳しく、継いで乃ち子孫の各房相約して例と為す。およそ閣厨の鎖鑰は、房を分かちてこれを掌り、書を以て閣の梯を下るを禁ず。各房の子孫斉しく至るに非ざれば、鎖を開かず。子孫の故無く門を開き閣に入る者は、罰して祭に与らざること三次。私に親友を領して閣に入りおよび擅に厨を開く者は、罰して祭に与らざること一年。擅に書を将て借出す者は、罰して祭に与らざること三年。因りて典鬻する者は、永く摈逐して祭に与らしめず。その例の厳密なること此の如し。能く久しき所以の二なり。
「全謝山先生天一閣碑目記」
阁之初建也,凿一池于其下,环植竹木,然尚未署名也。及搜碑版,忽得吴道士龙虎山天一池石刻,元揭文安公所书,而有记于其阴,大喜,以为适与是阁凿池之意相合,因即以名阁。
閣の初め建つるや、一池をその下に鑿ち、環りて竹木を植う。然れども未だ名を署さず。碑版を捜すに及び、忽ち呉道士龍虎山天一池の石刻を得たり。元の揭文安公の書する所にして、而してその陰に記あり。大いに喜び、以て適々是の閣の池を鑿つの意と相合すと為す。因りて即ち以て閣を名づく。
古写真
1920年代から1930年代
常盤大定・関野貞編『中国文化史蹟』第四輯に収められた天一閣の写真は、園中の池石・樹木および建築の一角を記録している。
1934年10月頃
林洙編『中国古建築図典』には宝書楼および園中の太湖石の調査写真三幅が別に収められている。書中に具体的な撮影日は記されていないが、中国営造学社活動年表によれば、1934年10月に梁思成・林徽因・劉致平が浙江への考察に赴き、その経路は明確に寧波を経由していたため、三図は1934年10月頃に撮影されたものと考えられる。
1933年から1960年代
1934年の検書入櫃、宝書楼の検書、蔵書の移蔵および修葺着工の五図は、重修天一閣委員会編『修葺天一閣紀念冊』(1934年、国家図書館蔵)に原載する。そのうち三図は天一閣博物院の公式微信が公開した映像を採用し、「宝書楼検書図」の二幅は国家図書館のスキャン本から採った。その他の修繕の旧影は、博物院が2019年に開催した「古閣記憶——天一閣近現代歴史影像展」に見られる。
1933年9月の台風の後、宝書楼の東壁が倒壊し、壁体・屋面・木構が外に露出した。
6月1日、重修天一閣委員会は検書入櫃を行い、宝書楼で書を検した。6月10日、閣中の蔵書は范氏詒谷堂に移蔵され、宝書楼は屋面の撤去と木構の整修を開始した。
同年、職人らは園中の構築物も整えていた。もと寧波府学にあった尊経閣もこの段階で天一閣に移された。
修葺完了後の写真は、宝書楼・天一池および周囲の園林の様子を保存している。
1960年代の写真は、後に失われた天一閣西門を記録している。