はじめに
万暦年間、雲南(滇中)の士紳は武当山の太和宮の規制にならい、銅を鋳て殿を建て真武[1]を祀ろうと考え、雲南巡撫の陳用賓にその事の主宰を請うた。陳用賓は地元の官紳とともに城外に出て何か所も踏査した。環翠宮の左側で藤蘿(蔓性の草木)を掻き分けたとき、一羽の彩色の雉が忽然と林の中から飛び立ち、一同はこれによって鳴鳳山上の宮址を定めた。陳用賓はさらに黔国公[2]の沐昌祚に現地で検分させたが、沐昌祚もここは宮を建てるのに適していると認めた。
宮址が定まると、工事に参与した文武の官員はそれぞれに出資した。巡按[3]は俸糧を捐じ、地方の軍務を掌る官員は銭を捐じ、布政・按察の各司と府・州・県の官員、および参将・游撃・守備などの武官は、品級に応じて俸禄を捐じた。工匠はまず方位を定め、規模を測量して営造の位置を標定し、ついで木材・石材・灰土と鍛冶に必要な物資を揃え、材料と工役を割り当て、督工の規定を定めた。工事は正月に着工し、翌年の正月に竣工して、前後ちょうど一年であった。宮院は銅殿を中心とし、このほか経を納める法蔵、庭階、鐘架、来客が休宿する賓廬、重門、周垣を備えていた。
もとの銅殿は後に鶏足山・天柱山の四観峰の頂へ移され、そこもまた銅殿に因んで金頂寺と呼ばれるようになった。この移転については、一説に崇禎十年(1637)の巡按・張鳳翮が主導したといい、もう一説に崇禎十四年(1641)の黔国公・沐天波が主導したという。康熙九年から十年(1670—1671)、雲南を鎮守した平西王・呉三桂は鳴鳳山で銅殿を鋳り直した。清代の文人・張九鉞は山道に沿って一天門・二天門・三天門を順にくぐり、山頂の太和宮に登った。この宮観は当時、銅瓦寺とも呼ばれ、真武像・亀蛇・墻柱・簾檻・几席・階段のいずれもが銅で鋳造されていた。
咸豊七年(1857)、雲南回民蜂起軍が初めて昆明を包囲攻撃した時期、団練の頭目・楊春和は兵を率いて太和宮に駐屯し、初めはなお保護を加えていたが、後には殿宇を取り毀して持ち去った。翌年四月、素性の詳らかでない武装勢力が四方から太和宮を包囲攻撃した。初九日、諸宮・楼台・殿閣・丹室・道堂が焼き毀され、聖像も損傷を受け、道衆の半分は逃げ延び、残りの半分は殉難した。戦乱がいくぶん緩んだ後、太和宮の住持・李元竜と桂明秋は、昆明に退居していた兵部左侍郎の黄琮、参将の施応貴、および地元の紳士に募金を依頼し、真武像を補鋳するとともに客堂を再建した。同治五年(1866)からは、道衆・商店・会館・官紳が次々と出資し、浄楽宮・山門・宮楼・鼓楼などの建築を修復した。道衆はさらに三元・環翠の二宮の修復をも計画したが、光緒十六年(1890)に至ってもなお着工されずにいた。
歴史文献
『昆明県志』
鸣凤山,在昆明县东北二十里。云南府志:距金马山三里,旧名鹦鹉山,明巡抚陈用宾改今名,且称其山光灵爽,境物葳蕤,九龙奔朝,双凤翔舞,皆纪实也。上有太和宫诸胜。
鳴鳳山は、昆明県の東北二十里に在り。『雲南府志』に曰わく、金馬山より三里を距て、旧名は鸚鵡山。明の巡撫・陳用賓が今の名に改め、且つ「その山の光は霊爽(清らかに明るく)、境物は葳蕤(草木の茂み栄えるさま)、九龍奔り朝し、双鳳翔け舞う」と称するは、皆実を記せるなり、と。上に太和宮の諸勝有り。
金马山西北距敷泽门二十里,鸣凤山为太和宫,一曰铜瓦寺。范铜为瓦,覆寺三楹,环之砖城,规制宏丽。始建于明巡抚陈用宾,以祀北极上帝。其后崇祯十年,巡按张凤翮移之鸡足山,康熙九年乃重铸焉。宫之右为环翠宫,为霞绮宫。其自太和宫还而西,至韭菜园侧,为福国寺。
金馬山は西北に敷沢門より二十里を距てり、鳴鳳山には太和宮有り、一に銅瓦寺と曰う。銅を范(い)て瓦と為し、寺三楹を覆い、砖城(煉瓦の城壁)を以て之を環(めぐ)らし、規制は宏麗なり。始め建つるは明の巡撫・陳用賓、以て北極上帝を祀る。其の後崇禎十年、巡按の張鳳翮が之を鶏足山に移し、康熙九年に乃ち重ねて鋳たり。宮の右は環翠宮、霞綺宮なり。其れ太和宮より還(かえ)りて西し、韭菜園の側に至れば、福国寺なり。
「鼎建太和宮記銘」
恭惟玄帝天乙之精,乘玄枵当帝座,迹最著于太和。贞观而还,代能尊祀。我成祖文皇帝穆有遐思,式廓其制,千古让隆焉。予尝阅《大岳志略》:“稽首飏言曰:至矣哉,文皇帝神道设教之意乎。”及抚滇之九年,滇人士有言于予曰:“远方冠掖瞻慕圣容,拟稍仿太和规度冶金为殿,以昭假玄穹。积诚已久,第难其所以为地,子大夫盍谋诸。”予闻而喜,喜其知所慕,可以道德齐礼之大机也。《易》不云乎?圣人以神道设教而天下服,服之说者柔其血气,心知而皈,诸道之谓。然柔人邪气,牖人真知,莫神于帝矣。武当垂训,其词甚严,令人见者辄毛骨竦然,思所以改过而迁善,直与《大诰》律例幽明相表里,而潜消迨之。予䌷绎帝训,至于“吃着国王水土,终身不得忘恩。有此发肤身体,须当孝养双亲”,肃容发念,愿含生负气之伦,悉皈心帝命,信受奉行。庶几亲见无极上道,沦于人之肌肤,洽于人之骨髓乎。此予夙昔之愿也。今佩此入滇,滇人能以帝像顾諟为图,予敢爱夫心力。居旬日,乡缙绅中丞朱公即其事告予,予幸可资定志,偕卜胜城东,相度山原间几一舍许,无当者,延伫环望,真气英英,连蜷环翠宫左,扪萝视之,适彩雉从中盘起,玉局宛然,无亦光岳之閟有待欤。中丞朱公曰:“胜在是矣。”予重兹举,再延黔国公沐世老胥之曰:“胜在不疑已。”乃偕黔国佐费须帝尊严,直指公则捐廪,镇府督理公则捐赀,司道郡县、条游备而下则捐俸,各有差,乃穆卜天元一气之辰,而以启字告向背,是景广轮,是规营表正也。甄梓是鸠,髬垩是简,工作集也。绳墨是虔,厉锻是取,财用庀也。物事是班,教护是敦,章程课也。始事竣,事俱以王正之月,甫一载而缮完,奕奕乎,翼翼乎,激日曜而纳光者,中严之厂殿也。拥云英而封阒者,鸿秘之法藏也。青阳开而鳞城者,庭唐之浩级也。应晴曀而訇鞳者,列虡之镛贲也。渊雷声而竦敕者,竭款之宾庐也。森天阔而偊旅肃者,扞启之重门也。通坤轴而循走惧者,蹛缭之周垣也。挥太微、标天柱,跧伏而昂骧者,旋共之辅弼也。邻绛阙、接殊庭,遹皇而肸赫者,混辟之元始也。是役也,天作其奇,地呈其秘,人綦其图,三资合而若待,以成厥胜,然藉匪玄功之翔洽而幽赞也,亦曷克臻厥成矣。夫通国之精诚,凛重元而积之历禩,历禩之精诚合三资而奉之,今兹是谓定志,是谓谋同,于以灵承神依,质之大岳璇宫规制,固一一合者。凡诸人士试思一水一土,孰非皇家之毛,一孔一窍,尽出双亲之里。登宝构,瞻帝容,绎帝训,其濯而心,涤而虑。为臣忠,必纯其衷,为子孝,必完其量。暗室屋漏,恍如陟降,则气和于意,而应感于神。隤祉函蒙,必且阴骘行,且消阳九之阨,臻大有之祥,扫欃枪之妖,洗银河之甲。雨旸时若,干戈载戢,荒服奠安,皇图巩固。若诸挟愿而祈者,祓而禳者,其应如影响者,又第二义矣。似此崇报,庶几文皇帝设神教之深意。而帝与山灵相为悠久,予之愿其少纾矣乎,敬砻石以铭。铭曰:元黄既剖,大道难醇。帝实念之,眷兹下民。爰显太和,于缠翼轸,岂其井参,而殊厥闵。林林总总,业缮精诚。覃尔萌庶,迄于弁缨。咸向臣言,美谐广愿。幸采群情,藉而攸劝。臣谨稽首,北望玉皇。虚左以待,气珥瑶光。呵护閟灵,俶开佑圣。大罗清都,万真叶庆。谓我求者,奚啻人求。何蕲鄯阐,中有十洲。人谋鬼谋,敢为臣力。奉天扶化,亦臣之职。庀徒揆日,各有司存。圣颜咫尺,恍叩帝阍。待从有臣,香案有吏。丹刻翚飞,武当可二。象设孔辟,众志合宁。莫民护国,亿万斯龄。
恭しく惟(おも)うに、玄帝は天乙の精にして、玄枵(北方の星次)に乗りて帝座に当たり、その霊跡は太和(武当山)に最も著るし。貞観(唐の年号)よりこのかた、代々よく尊び祀る。わが成祖文皇帝は穆(おごそ)かに遐(とお)き思いを有し、その制を式廓(大いにひろ)め、千古もて隆(さかん)を譲らぬ。予かつて『大岳志略』を閲するに、「稽首して言を飏(あ)げて曰わく、至れるかな、文皇帝が神道をもって教を設けたるの意よ」と〔あった〕。滇を撫すること九年に及び、滇の人士に予に言う者有りて曰わく、「遠方の冠掖(衣冠の士)は聖容を瞻慕し、いささか太和の規度に仿(なら)い、金を冶して殿と為し、以て玄穹(上天)に昭假(明らかに感通)せんと拟(はか)る。誠を積むこと久しきも、第(た)だ其の地と為す所以に難(なや)む。子大夫、盍(なん)ぞこれを謀らざる」と。予、聞きて喜ぶ。其の慕う所を知り、以て道徳斉礼(道をもってし徳を斉う)の大機たるべきを喜べばなり。『易』に云わずや、「聖人、神道をもって教を設くれば、天下服す」と。服の説は、其の血気を柔(やわ)らげ、心知りて皈(かえ)る、諸道(この道)の謂いなり。然るに人の邪気を柔らげ、人の真知を牖(さと)すは、帝より神なるは莫(な)し。武当の垂れし訓、其の詞甚だ厳しく、人をして見る者あれば輒(すなわ)ち毛骨竦然(そらそら)たらしめ、改め過ちて善に遷(うつ)る所以を思わしむ。直(あた)に『大誥』・律例と幽明(幽界と明界)と相ひ表裏し、〔災いを〕潜かに消し迨(およ)ぼす。予、帝訓を䌷繹(たずねひ)くるに、「国王の水土を吃着するからには、終身恩を忘るべからず。此の髪膚身体あらば、須(すべか)らく双亲を孝養すべし」に至るまで、容を粛くして念を発し、願わくは含生負気の倫(生あるものの類)、悉(ことごと)く帝命に皈心し、信受奉行せんことを。庶幾(こいねが)わくは親しく無極上道を見、人の肌膚に淪(しず)み、人の骨髓に洽(あまね)くせんことをや。此れ予の夙昔の願いなり。今、此(の訓)を佩びて滇に入る。滇人、能(よ)く帝像を以て顾諟(見守り敬う)の図と為さば、予、敢えて夫(そ)の心力を愛(おし)まんや。旬日を居(へ)て、郷の縉紳・中丞朱公、即(すなわ)ち其の事を以て予に告ぐ。予、幸いに定志に資(たす)くべく、〔朱公と〕偕に城東の勝(景勝の地)を卜(うらな)い、山原の間を相度すること幾(ちか)く一舎(三十里)許り、当る者無し。延び伫(たたず)み環望すれば、真気英英(さかんにみなぎ)として、環翠宮の左に連蜷(つらなりまと)う。蘿(かずら)を捫(ひきあ)けて之を視れば、適(たまた)ま彩雉中より盤起(まといお)き、玉局(玉の座のごとき地相)は宛然(ありあり)たり。無きにや、此れ光岳(三光五岳の精気)の閟(ひそ)かに待つ所有らん、と。中丞朱公曰わく、「勝(景勝)は是に在り」と。予、兹の挙を重しとし、再び黔国公・沐世老を延きて之を胥(あいみ)せしめて曰わく、「勝、疑いなき已(のみ)」と。乃ち黔国〔公〕と偕に費を佐(たす)けて帝の尊厳を須(ま)つ。直指公(巡按御史)は則ち廪(俸糧)を捐(す)て、鎮府督理公(地方軍務を統べる者)は則ち貲(財)を捐て、司道・郡県、参将・游撃・守備以下は則ち俸を捐つ。各々差有り。乃ち穆く天元一気の辰(吉日)を卜し、而以(もっ)て啓字(普請の始め)を告げ向背を〔定む〕。是れ景(日影)を〔測り〕広輪(広袤)を〔度し〕、是れ規して営み表(標柱)を正すなり。甄(かわら)・梓(材木)を是(これ)鳩(あつ)め、髬(灰)・堊(白土)を是簡(えら)ぶ、工作集まるなり。縄墨を是虔(つつし)み、厲鍛を是取る、財用庀(ととの)うなり。物事を是班(わか)ち、教護を是敦(あつ)くす、章程の課(おきて)なり。事を始め、事を竣(お)うるに、俱に王正の月(正月)を以てし、甫(はじ)めて一載にして繕い完(まっと)うす。奕奕(かがやか)乎、翼翼(つつしま)乎、日曜を激(う)ちて光を納るる者は、中厳の厂殿(中央に厳かなる本殿)なり。雲英(雲の精)を擁して阒(しずまり)を封ずる者は、鴻秘(大いに秘められたる)の法蔵なり。青陽開きて鱗城(うろこのごとく連なる)の者は、庭唐(宮の庭)の浩級(大きな石段)なり。晴曀(晴れにも曇りにも)に応じて訇鞳(ごうとう、どよめきとどろ)く者は、列虡(鐘を懸ける架)の鏞賁(大鐘と飾り鐘)なり。淵として雷声、竦(おそ)れ敕(たしなま)る者は、款(まごころ)を竭(つ)くす賓廬なり。森として天闊(大空に広く)にして偊旅(ぐうりょ、整然と)粛(つつしま)る者は、扞啓(かこいひらく)の重門なり。坤軸(地軸)に通じ循走(めぐりはし)るを懼(つつし)む者は、蹛繚(めぐらしつなぐ)の周垣なり。太微(天の太微垣)を揮(しめ)し天柱を標(しるし)とし、跧伏(せんぷく、うずくま)り昂驤(こうじょう、おごそかにあが)る者は、旋共(めぐりともな)う輔弼(翼賛の建物)なり。絳闕(朱門の宮)に鄰(とな)り殊庭(殊勝の庭)に接し、遹皇(ゆるぎおごそか)として肸赫(かがやきひろ)く者は、混辟(混然と闢けたる)の元始(はじめ)なり。是の役や、天は其の奇を作し、地は其の秘を呈し、人は其の図を綦(はか)る。三資合して若(まさ)に待つがごとく、以て厥の勝を成す。然りと雖も、藉(よ)るに玄功の翔洽(あまねく及ぶ)と幽賛(見えざる助け)とに匪(あら)ざれば、亦た曷ぞ克(よ)く厥の成に臻(いた)らんや。夫(そ)れ通国の精誠、凛(りん)として重元(玄帝)に積みて之れ禩(歳)を歴(へ)、歴禩の精誠は三資を合して之を奉ず。今兹、是れを定志と謂い、是れを謀同と謂う。ここを以て霊を承け神に依る。之を大岳(武当山)璇宮の規制に質(ただ)すに、固(もと)より一々合する者なり。凡そ諸の人士、試みに思え、一水一土、孰(いず)れか皇家の毛(領するもの)に非ざらん、一孔一竅、尽く双亲の裏(うち)より出づ。宝構に登り、帝容を瞻み、帝訓を繹(たず)ぬれば、其の心を濯(すす)ぎ、其の慮を滌(すす)げ。臣と為りて忠ならば、必ず其の衷を純(じゅん)にし、子と為りて孝ならば、必ず其の量を完(まっと)うせよ。暗室屋漏(人目の届かぬ所)にしても、恍(こう)として陟降(神の昇降)あるがごとくせば、則ち気は意に和し、神に応感す。隤祉(大いなる福)を函蒙(こうむ)ること、必ず且つ陰隲(見えざる天の定め)に行い、且つ陽九の阨(厄災)を消し、大有(大豊作)の祥に臻り、欃槍(彗星)の妖を掃い、銀河の甲(兵)を洗わん。雨暘時に若(したが)い、干戈載(ここ)に戢(おさ)まり、荒服(辺境)奠安(ていあん)し、皇図鞏固ならん。若し諸の願を挟みて祈り、祓いて禳(はら)う者、其の応えて影響(形に影、声に響き)のごときは、又た第二義のみ。此に似たる崇報(厚き報恩)、庶幾くは文皇帝の神教を設けし深意ならん。而して帝と山霊と相ひ悠久たらば、予の願い、其れ少しく纾(の)ばんか。敬んで石を礱(みが)きて以て銘す。銘に曰わく、元黄(天地)既に剖(わ)かれ、大道は醇(あつ)くなり難し。帝実に之を念い、兹の下民を眷(めぐ)みたまう。爰(ここ)に太和を顕(あらわ)し、纏(めぐ)りて翼軫(荊州の分野)に於て、豈(あに)其の井参(蜀の分野)のみならんや、而も厥の閔(あわれみ)を殊にす。林林総総(おびただしく)、業は精誠を繕(つくろ)う。覃(あまね)く爾(なんじ)ら萌庶(民)より、弁纓(冠を戴く士)に迄る。咸く臣に向かい言う、美しく諧(かな)う広き願いと。幸いに群情を采(と)り、藉(か)りて攸(すなわ)ち勧(すす)む。臣謹みて稽首し、北に玉皇を望む。左を虚しくして以て待つ、気は瑶光(北斗第七星)に珥(そえかざ)す。呵護する閟霊(秘められた神)、俶(はじ)めて開きて佑聖(真武)を〔迎う〕。大羅・清都(天上の都)、万真(あらゆる真人)叶(かな)い慶(よろこ)ぶ。我が求むる者と謂うは、奚(なん)ぞ啻(ただ)に人の求むるのみならん。何ぞ鄯闡(昆明の古称)に蘄(もと)めん、中に十洲(神仙の境)有れば。人謀・鬼謀(人の謀りごとと神の謀りごと)、敢えて臣力を為す。天を奉じ化を扶(たす)くは、亦た臣の職なり。徒を庀(ととの)え日を揆(はか)る、各々司存(つかさどる者)有り。聖顔咫尺(せきしゃ)、恍として帝閽(天帝の門)を叩く。侍従には臣有り、香案には吏有り。丹刻(朱の彫刻)は翬飛(きじのとぶがごとくきらめ)き、武当二つとすべし。象設(像の設け)は孔(はなは)だ辟(ひら)け、衆志は合寧(あいやす)らかなり。民を莫(おさ)め国を護ること、億万の斯齢(このよわい)ならん。
万历甲辰岁春王正月谷旦。
万暦甲辰の歳、春王正月(正月)の穀旦(吉日)。
钦差巡抚云南兼建昌毕节等处地方赞理军务、兼督川贵兵饷、都察院御史、兼兵部右侍郎资德大夫正治上卿晋江陈用宾谨撰。
欽差・巡撫雲南兼建昌畢節等処地方賛理軍務・兼督川貴兵餉・都察院御史・兼兵部右侍郎・資徳大夫・正治上卿、晋江の陳用賓謹みて撰す。
『続雲南通志稿』
太和宫在城东二十里鸣凤山,一名金殿。明巡抚陈用宾建。铸铜为殿,环以砖城。崇祯十年,巡按张凤翮移之鸡足山。国朝康熙九年重铸,咸丰八年毁。同治、光绪间续修。
太和宮は城東二十里の鳴鳳山に在り、一名を金殿と云う。明の巡撫・陳用賓が建てたり。銅を鋳て殿と為し、砖城(煉瓦の城壁)を以て環(めぐ)らす。崇禎十年、巡按の張鳳翮が之を鶏足山に移す。国朝〔清〕の康熙九年に重ねて鋳、咸豊八年に毀(やぶ)れたり。同治・光緒の間、続けて修す。
『鶏足山志』
金顶寺在天柱山四观峰,古有方塔一座,今毁。弘治间,有僧建庵其上。至嘉靖年,郡人李元阳建普光殿。万历己未,直指潘澽建观风阁。天启丁卯,直指朱泰祯建天长阁。崇祯丁丑,直指张凤翮建善雨亭,筑罗城上,立四观楼。己卯,直指涂必泓建景星亭。辛巳,黔国沐天波移云南省城太和宫金殿来山,废普光殿并塔,就其址以立金殿。
金頂寺は天柱山の四観峰に在り、古く方塔一座有りしが、今は毀(やぶ)れたり。弘治の間、僧有りて其の上に庵を建つ。嘉靖年に至り、郡人の李元陽が普光殿を建つ。万暦己未、直指の潘澽が観風閣を建つ。天啓丁卯、直指の朱泰禎が天長閣を建つ。崇禎丁丑、直指の張鳳翮が善雨亭を建て、羅城の上に築き、四観楼を立つ。己卯、直指の涂必泓が景星亭を建つ。辛巳、黔国〔公〕の沐天波が雲南省城太和宮の金殿を移して山に来(きた)らしめ、普光殿并びに塔を廃し、其の址に就きて以て金殿を立つ。
顺治甲午,因殿宇颓废,合山耆宿同僧自玉重修,因观风阁旧址为佛殿,废天长阁为伽蓝殿,废阿难殿为藏经阁,废善雨亭为卧龙轩,废景星亭为碑亭,后有土主殿,前有灵官殿。康熙三十年,殿阁俱灾,惟铜殿独存。三十一年,总督范承勋、提督诺穆图重建天一阁于观风台旧址。僧慧酪、福峙募姚安土官高奣映、子映厚重修殿庑。过道山门,山顶风厉,冬春之间,积雪不消,而寺居其上,孤耸寒寂,非有志者不能久居也。
順治甲午、殿宇の頽廃に因り、合山(山中一同)の耆宿と僧の自玉とが同じく重修し、観風閣の旧址に因りて仏殿と為し、天長閣を廃して伽藍殿と為し、阿難殿を廃して蔵経閣と為し、善雨亭を廃して臥龍軒と為し、景星亭を廃して碑亭と為す。後に土主殿有り、前に霊官殿有り。康熙三十年、殿閣俱(とも)に災(わざわ)われ、惟(た)だ銅殿のみ独り存す。三十一年、総督の范承勲・提督の諾穆図が天一閣を観風台の旧址に重建す。僧の慧酪・福峙は姚安の土官・高奣映と其の子の映厚とに募りて殿廡を重修す。道は山門を過ぎ〔て至る〕。山頂は風厲(はげ)しく、冬春の間、積雪消えず、而して寺は其の上に居り、孤聳として寒寂たり。志有る者に非ざれば、能く久しく居ること能わざるなり。
金殿在四观峰顶,铜铸为殿,外以金装,梁柱窗壁,备极精巧。此殿原在云南省城鹦鹉庵太和宫,崇祯辛巳,黔国公沐天波移建峰顶,因名此寺为金顶寺。
金殿は四観峰の頂に在り、銅を鋳て殿と為し、外は金を以て装(よそお)い、梁・柱・窓・壁、備(ことごと)く精巧を極む。此の殿は元と雲南省城の鸚鵡庵(鸚鵡山)太和宮に在り、崇禎辛巳、黔国公の沐天波が峰頂に移建し、因(よ)りて此の寺を名づけて金頂寺と為す。
『徐霞客遊記』
其名之重,以张代巡凤翮同乡,命其住持绝顶迦叶殿,而沐府又以中和山铜殿移而畀之,故声誉赫然。
其の名の重(おも)んぜられしは、張代巡(巡按)の鳳翮が同郷なるを以て、其の住持に絶頂の迦葉殿を〔掌らしむるを〕命じ、而して沐府は又た中和山の銅殿を以て移して之に畀(あた)えしが故に、声誉(せいよ)赫然(かくねん)たるなり。
「游銅瓦寺記」
出滇城东郊,循盘龙江东北行,平田绮错,残柳亏映。至小村,策蹇乱流以渡,十里而遥为鹦鹉山,或曰山形如鹦鹉,故名。或曰以产鹦鹉。山萃然起于苍莽之中,北控陲商、南蹑金马,与玉案、碧鸡争雄,长若狎齐盟然,未至里许,旭日晃漾,金光赫奕,射山谷欲动。仆夫指曰:“此铜瓦寺也。”由山南折西北麓,绝壁杰立数千仞,黮黕无寸肤,怪石如狮象,上下狞逐,欲啮人,左崖悬一线石关,曰一天门,磴而上,踵顶摩错老树怪竹,轇轕森映,凡三百余磴,得二天门。欲少憩,壁下横风冲突,万马奔蹴,黝然虚黑,不敢驻足,又历四五百磴,闯然谽衍,仰见白日,曰三天门。平地二百亩,太和宫峙焉。宫势瑰丽,周廊层阿绝顶,翼然耸出,则铜瓦寺也。
滇城の東郊を出で、盤竜江に循(したが)いて東北に行く。平田は綺錯(あやに入り混じ)り、残柳は亏映(おちかげに映)ゆ。小村に至り、蹇(あしなえの驢馬)を策(むちう)ちて乱流に渡る。十里にして遥かなるは鸚鵡山。或る者曰わく、山の形鸚鵡に似たり、故に名づく、と。或る者曰わく、鸚鵡を産ずるを以てなり、と。山は萃然(そびえるさま)として蒼莽の中に起こり、北は陲商(商山)を控え、南は金馬を蹑(ふ)み、玉案・碧鶏と雄を争い、長(ひいで)たること若(さながら)狎(な)れし齊盟(並び立つ同盟)の然(ごと)し。未だ里許り至らざるに、旭日晃漾(きらめきゆれ)として、金光赫奕(かくえき、きらびやか)、山谷に射して動かんと欲す。僕夫(ぎょしゃ)指して曰わく、「此れ銅瓦寺なり」と。山の南より西北の麓に折るれば、絶壁は杰立(けつりつ、そそりたつ)こと数千仞、黮黕(たんたん、くらぐろ)として寸肤(わずかの平地)無し。怪石は獅・象のごとく、上下に狞逐(にらみお)いて、人を啮(か)まんと欲す。左の崖に一線の石関を懸(か)く、曰く一天門。磴(きざはし)をして上れば、踵(きびす)と頂(いただき)は老樹・怪竹に摩錯(ふれまじ)り、轇轕(こうかつ、からみあ)い森映す。凡そ三百余磴にして二天門を得たり。少しく憩わんと欲するも、壁下に横風は冲突し、万馬の奔蹴(かけける)がごとく、黝然(ゆうぜん)として虚黒(くらくうつろ)にして、敢えて足を驻足(とど)めず。又た四五百磴を歴(へ)て、闖然(とつぜん)として谽衍(かんえん、ひろびろ)として、仰ぎて白日を見る。曰く三天門。平地二百亩、太和宮ここに峙(そばだ)つ。宮の勢いは瑰麗(かいれい)にして、周廊は層阿(かさなるおか)の絶頂に翼然(よくぜん)として聳え出づるは、則ち銅瓦寺なり。
寺祀真武,自神像、侍从、龟蛇及墙柱、帘槛、几席、阶城、瓴甋之属,皆笼铜为之。阶下铜幡竿十余丈,亭亭特立。
寺は真武を祀る。神像・侍従・亀蛇および墻柱・簾檻・几席・階城(石段の塀)・瓴甋(瓦)の類より、皆銅を籠(こ)めて(鋳て)之を為す。階下に銅の幡竿十余丈、亭亭(ていてい)として特立す。
读旧碑,为明初建,以山似均州太和,建宫于上,为祈祷所,不载铜瓦之始。道士出迎,年九十余,询之,云:吴逆踞滇时所易。尝怪古奸雄僭窃之徒,诛求杀戮,草菅人命。惧天降罚,乃遁于浮屠老子之教,斩山以为窟,笼金以为像,九层之台,黄金之液,曾不之惜,如魏太武、唐武后之金佛,刘鋹之铁塔,杨吴之大铁炉,莫可枚举。吴逆以釜底游魂,拒命抗讨,鲸呿豨突,剉人如羊豕,而庄头之箕敛,彝汉之科派,剥二十四郡之脂膏,以饱欲壑,天怒人怨,莫此为尤。而崇鬼神之宫,范铜至五百余万之多,为前古所未有。日率伪属熏拜讽诵,自谓可以欺天邀神,不知王师一至,草薙禽狝,虽铜城铁垒,立见销灼。向之金题玉槛,荡然无复灰烟。呜呼!彼侈泰以祈福也,何为者哉!何为者哉!存而不毁,非独彰国家威德之远,亦使千古之悖逆者有所慑。
旧碑を読むに、明初に建つと為し、山の均州の太和(武当山)に似たるを以て、宮を其の上に建て、祈祷の所と為すと、銅瓦の始めを載せず。道士出で迎う。年九十余。之に询(たず)ぬれば、云わく、呉逆(呉三桂)の滇に踞(おご)りし時に易(か)えし所なり、と。嘗て怪しめり、古の奸雄僭窃の徒、誅求・殺戮し、人命を草菅(くさのごとくみな)せしを。天の罰を降すを懼れ、乃ち浮屠・老子の教に遁れ、山を斬りて以て窟と為し、金を籠(こ)めて以て像と為し、九層の台、黄金の液、曽(かつ)て之を惜しまず。魏の太武・唐の武后の金仏、劉鋹の鉄塔、楊呉の大鉄炉の如き、挙げて枚数(かぞ)うべからず。呉逆は釜底の游魂(消えゆく魂)を以て、命を拒み討に抗し、鯨呿豨突(くじら口をひらきいのししつきはしるがごとく)、人を剉(きざ)むこと羊豕の如し。而も荘頭の箕斂(箕でかき集めるがごとき徴収)、彝漢の科派(課税の割当て)は、二十四郡の脂膏(民の膏血)を剥(は)ぎ、以て欲壑を飽かす。天怒・人怨、此より尤(もっと)もなるは莫(な)し。而して鬼神の宮を崇(あが)め、銅を范(い)ること五百余万の多きに至るは、前古未だ有らざる所なり。日に偽属(にせの眷属)を率い熏拜・諷誦し、自ら以て天を欺き神を邀(もと)むべしと謂うも、王師一至れば、草薙(かりな)ぎ禽獮(とりころ)すがごとく、銅城・鉄壘と雖も、立ちどころに銷灼(消えやか)れんことを知らざりき。向(さき)の金題・玉檻も、荡然(とうぜん)として復た灰煙も無し。嗚呼。彼の侈泰(おごりたかぶ)りて以て福を祈らんとするは、何をか為さんとする者ぞ。何をか為さんとする者ぞ。存して毀(やぶ)らざるは、独り国家の威徳の遠きを彰(あき)らかにするのみならず、亦た千古の悖逆の者をして懾(おそ)るる所有らしめんが為なり。
道士饭余松棚下,俯视西南诸山,夕阳动荡,云压归鸟之背,滇海风帆点缀,胸次心殊乐之,乞取败帚扫廓壁,纪游之年月,乃去。
道士、余に松棚の下に飯(いい)せしむ。俯視(ふし)すれば西南の諸山、夕陽は動蕩(ゆれかがや)き、雲は帰鳥の背を圧(お)し、滇海(滇池)には風帆点綴(てんてんとかざ)る。胸次の心、殊に之を楽しみ、敗帚(われぼうき)を乞い取りて廓壁を掃(は)き、游の年月を紀して、乃ち去りぬ。
「歴次修蓋太和宮碑記」
盖闻可创之事,莫为之前,虽美弗彰。可继之事,莫为之后,虽盛弗传。滇南苴兰会垣东门外,距城十五里许,有山曰鸣凤,又俗名鹦鹉山。前明万历壬寅年,道士徐正元叩请云南巡抚军门陈公用宾,会同黔国公沐公昌祚,右都督沐公睿,御史刘公会于山之巅,仿照湖广武当山七十二峰之中峰修筑紫禁城,冶铜为殿,铸供真武祖师金身。名其宫曰“太和”,亦仿照武当山中峰宫名也。其时并建三元、环翠二宫,所供圣神仙佛,各有专司,瞻拜者历历可溯,而其殿宇,概以“太和宫”统之。其地左挹华山之秀,金马腾辉;右临昆海之滨,碧鸡焕彩,洵为滇南一胜境也。乡人称之或曰金殿,或曰金顶,任其信口而出耳。我国朝康熙己卯年,有道教法师钦奉谕旨,为替度道者沈妙章,由江南迎请道教藏经入宫,添盖藏经楼藏之。其余各宫之布置周密,各处之庄严辉煌,真如洞天福地。入其宫者,不啻山阴道上,应接不暇。丛林称极盛焉。无如年深日久,文昌殿、魁星殿、王帅殿倾塌不堪,有省城善士张耀,募捐重修,焕然一新。其庙内古规,每逢祖师圣诞及祈晴祷雨、禳灾迓福之时,文武各官亲临拈香,无不灵应如响。至咸丰六年丁巳而后叠遭兵燹,七年练目杨春和驻扎于此,始犹保护,继则拆毁。
けだし聞く、創めうるの事も、之を前に為す者なくんば、美ありと雖も彰(あらわ)れず。継ぐべきの事も、之を後に為す者なくんば、盛んなりと雖も伝わらず、と。滇南・苴蘭(昆明の古称)の会垣(省城)東門の外、城を距ること十五里許りに、山有りて鳴鳳と曰い、又た俗に鸚鵡山と名づく。前明の万暦壬寅年、道士の徐正元が雲南巡撫軍門の陳公用賓に叩請し、黔国公・沐公昌祚、右都督・沐公叡、御史・劉公と会同して山の巓に会し、湖広武当山七十二峰の中峰に仿(なら)って紫禁城を修築し、銅を冶して殿と為し、鋳て真武祖師の金身を供えた。其の宮を名づけて「太和」と曰うは、亦た武当山中峰の宮名に仿うなり。其の時、併せて三元・環翠の二宮を建て、供うる所の聖神・仙仏は、各々専司有りて、瞻拜する者は歴々として遡るべし。而して其の殿宇は、概ね「太和宮」を以て之を統ぶ。其の地は左に華山の秀を挹(あつ)め、金馬は輝を騰(あ)げ、右は昆海の濱に臨み、碧鶏は彩を煥(かがや)かす。洵(まこと)に滇南の一勝境なり。郷人之れを称して或いは金殿と曰い、或いは金頂と曰う、その信口(思うままの口)より出づるに任すのみ。わが国朝〔清〕の康熙己卯年、道教法師有りて欽(つつし)みて諭旨を奉じ、替度道者(度牒を掌る道官)の沈妙章が為に、江南より道教の蔵経を迎え請うて宮に入れ、蔵経楼を添え蓋(おお)いて之を蔵した。其の余の各宮の布置は周密、各処の荘厳は輝煌し、真に洞天・福地の如し。其の宮に入る者は、啻(ただ)に山陰道上(絶景続きで見応えに追われるという故事)のごとく、応接に暇(いとま)ならず。叢林は極盛と称せられたり。無如(しかるに)年深く日久しいは如何ともし難く、文昌殿・魁星殿・王帥殿は傾塌して堪えず。省城の善士・張耀有りて、募(つの)り捐(あつ)めて重修し、焕然一新たり。其の廟内の古規は、祖師の聖誕および晴を祈り雨を祷り、災いを禳(はら)い福を迓(むか)うの時に逢う毎に、文武の各官は親しく臨みて香を拈(つ)み、霊応すること響の如からざるは無し。咸豊六年丁巳に至りて後、疊(たびた)び兵燹に遭い、七年、練目(団練の頭目)の楊春和が此に駐扎し、始めは猶(な)ほ保護したが、継いでは則ち拆毀した。
八年四月被贼四面围攻,至初九日攻破。所有诸宫、楼台、殿阁、丹室、道堂尽行烧毁,圣像亦遭损坏。道众逃生者半,殉难者亦半。名胜之区,变为瓦砾之场矣。嗣军务松,住持李元龙、桂明秋,目击心伤,恳请在籍兵部左侍郎黄公琮、参将施公应贵,绅士官鏸李炘、缪志鲁、邹泽、简宗杰、张耀等募捐补铸真武金身供奉,并建太和本宫客堂楼房。同治五年,李秀、李藻、宛荣、黄玉龙仝住持李元龙,募捐修建净乐宫殿宇三楹,山门三间。又善士李秀、张耀、李富捐赀修建灵山圣母殿三间,并新塑圣母金身,朱天君、邱祖、吕祖、观音真官、土地各像,及修补二天门牌坊。光绪二年,善士李承霖,捐赀修建紫禁城上鼓楼三间,潘国元捐赀修建五福殿三间,并装严圣像。光绪三年,住持李元龙见朝山人众,无处栖止,商请省号布铺、盐铺、芦茶铺、古庭庵、龙华会、同会城官绅士庶人等,捐资新建净乐宫左右宫楼十二间。杨经、周崇信庄严佛龛三间。其时开化镇蔡公标、临元镇何公秀林、协镇衔解公连科,暨绅耆冯义、王会等捐赀庄严真武金身及侍坐四尊。善士李彩、马沅、杨安、陶世贵、栗世魁等,修饰七星旗、龟蛇二将。上下清油行仝城乡内外各善信人等,每月捐油赀,供点天灯。谢荣清修补三天门、王帅殿,及庄严金身。云南粮储道松公林,修补刘元帅殿。中衡参府岑公有富,修补魁星楼。其余传茶之处有殿宇者,系传茶会修建。自光绪六年,又有善士李国宝、冯义、潘国元、张联森、高尚志、顾英、欧谦吉、吕彬、王绍恒、吴昇等与助善同人,启建賩会一轮,至十年二月賩竣,将抽获功德,建盖紫禁城外左右鼓楼二座,头天门牌坊一座。内有太华寺賩会捐来银壹百两,如数归开支项下报用,彩画圣父母大殿,修补玉阶栏杆,并土地殿。又于光绪十二年,前届办賩善士李国宝、冯义等,添约善士杨淮、黄嘉兴、马士杰、施永盛、吕彬、刘口等,同海源寺复启賩会一轮,分得抽获功德,修盖雷神殿六间,众善信捐赀修塑神像十八尊。此自咸丰六年后,截至光绪十六年二月止,历次修理,约略记其梗概,而先行叙出者,盖恐日久遗失,而没入之善也。至其中不无遗漏,留待后来阖宫工程全完,一同补叙,且此次系就太和一宫而言。至于三元、环翠二宫工程浩大,需费甚钜,尚未一篑伊始,惟冀十方宰官善信,或量力而捐助,集腋成裘;或解囊而布施,告成全功。俾三宫大制克复,则庶几前人创始之规不废,而美愈彰。后人继起之功不朽,而盛愈传矣。是为记。
八年四月、賊に四面より囲攻せられ、初九日に至りて攻破せられた。所有の諸宮・楼台・殿閣・丹室・道堂は尽く行く焼毀せられ、聖像も亦た損壊に遭う。道衆の逃生する者半ば、殉難する者亦た半ば。名勝の区、変じて瓦礫の場と為れり。嗣いで軍務は松(ゆる)み、住持の李元竜・桂明秋は、目に撃(あ)たりて心を傷め、懇(ねんご)ろに在籍(故郷に在る)兵部左侍郎の黄公琮、参将の施公応貴、紳士の官鏸・李炘・繆志魯・鄒沢・簡宗傑・張耀らに請うて、募り捐(あつ)め真武の金身を補鋳して供奉し、併せて太和本宮の客堂・楼房を建てた。同治五年、李秀・李藻・宛栄・黄玉竜が住持の李元竜と仝(とも)に、募り捐(あつ)めて浄楽宮の殿宇三楹、山門三間を修建した。又た善士の李秀・張耀・李富が貲を捐てて霊山聖母殿三間を修建し、併せて聖母の金身、朱天君・邱祖・呂祖・観音真官・土地の各像を新たに塑し、および二天門の牌坊を修補した。光緒二年、善士の李承霖が貲を捐てて紫禁城上の鼓楼三間を修建し、潘国元が貲を捐てて五福殿三間を修建し、併せて聖像を装厳した。光緒三年、住持の李元竜は朝山の人衆多くして栖止する所無きを見、省号(省城の)布舗・塩舗・芦茶舗・古庭庵・竜華会、および会城の官紳士庶ら人々に商(はか)り請うて、資を捐じて浄楽宮左右の宮楼十二間を新建した。楊経・周崇信は仏龕三間を荘厳した。其の時、開化鎮の蔡公標、臨元鎮の何公秀林、協鎮銜の解公連科、および紳耆の馮義・王会らが貲を捐てて真武の金身および侍坐の四尊を荘厳した。善士の李彩・馬沅・楊安・陶世貴・栗世魁らは、七星旗・亀蛇の二将を修飾した。上下の清油行は城郷内外の各善信ら人々と仝(とも)に、每月油の貲を捐じて、天灯を点(とも)すに供えた。謝栄清は三天門・王帥殿を修補し、および金身を荘厳した。雲南粮儲道の松公林は、劉元帥殿を修補した。中衡参府の岑公有富は、魁星楼を修補した。其の余、茶を伝うる処に殿宇有る者は、是れ伝茶会の修建なり。光緒六年より、又た善士の李国宝・馮義・潘国元・張聯森・高尚志・顧英・欧謙吉・呂彬・王紹恒・呉昇らと助善の同人と有りて、賩会(寄進者を募りくじで配当する互助会)一輪を啓建し、十年二月に至りて賩を竣(お)え、抽獲の功徳を将(もっ)て、紫禁城外左右の鼓楼二座、頭天門の牌坊一座を建蓋した。内に太華寺の賩会より捐来の銀壹百両有り、数の如く帰して開支の項下に報用し、聖父母大殿を彩画し、玉階の欄杆を修補し、併せて土地殿〔を修した〕。又た光緒十二年に於て、前届の賩を辦(とりおこな)いし善士・李国宝・馮義らが、善士の楊淮・黄嘉興・馬士傑・施永盛・呂彬・劉□らを添え約し、海源寺と同じく復た賩会一輪を啓し、分かち獲たる抽獲の功徳を以て、雷神殿六間を修蓋し、衆善信は貲を捐てて神像十八尊を修塑した。是れ咸豊六年の後より、光緒十六年二月に至るまでに截(は)り、歴次の修理は、約略其の梗概を記し、而して先行して叙出する者は、蓋(けだ)し日久しくして遺失し、没入するの善を恐るればなり。其の中に遺漏無きにあらざるに至りては、留めて後来・闔宮の工程全く完わるを待ち、一同に補叙せん。且つ此次は太和の一宮に就きて言うなり。三元・環翠の二宮は工程浩大にして、費を需(もと)むること甚だ钜(おお)きに至っては、未だ一簣(いっき、わずか一着手)も伊始(はじ)まらず。惟(おも)うに冀(こいねが)わくは十方の宰官・善信、或いは力を量(はか)りて捐助し、腋を集めて裘(かわごろも)を成し、或いは囊(ふくろ)を解きて布施し、全功の成るを告げんことを。三宮の大制を克(よ)く復(もと)せしめば、則ち庶幾(こいねが)くは前人の創始の規(のり)廃れず、而して美は愈々彰(あらわ)れ、後人の継起の功は朽ちず、而して盛は愈々伝わらん。是を記と為す。
前任湖北筠州知州舒藻撰文,内阁中书舍人李相书。
前任湖北筠州知州の舒藻文を撰し、内閣中書舎人の李相書す。
大清光绪十六年四月初五日,太和宫住持李元龙率徒李明清,孙李智洪、曹智慧、杨智聪,重孙陈理金、王理森、王理宾,同波罗堡、小坝堡阖村管事人等仝立石,镌石李承麟。
大清光緒十六年四月初五日、太和宮住持の李元竜、徒(弟子)の李明清、孫(孫弟子)の李智洪・曹智慧・楊智聡、重孫(曾孫弟子)の陳理金・王理森・王理賓を率い、波羅堡・小壩堡の闔村(村中一同)の管事ら人々と仝(とも)に石を立つ。石を鐫(ほ)るは李承麟。
『雲南通志』
三月三日,谒真武庙于西山罗汉寺,或东之鸣凤山金殿,或先期赴易隆、中和,山行两日程;或负香之襄阳,谒武当山,往返数月。
三月三日、真武廟に謁するに西山の羅漢寺に於いてし、或いは東の鳴鳳山の金殿〔に詣で〕、或いは期に先んじて易隆・中和に赴き、山行は両日程、或いは香を負いて襄陽に之(ゆ)き、武当山に謁して、往返すること数月。
『雲南通志稿』
迎仙桥旧云南通志:在城东北二十里鸣凤山麓。明万历二十七年,巡抚陈用宾建。
迎仙橋。旧『雲南通志』に曰わく、城の東北二十里、鳴鳳山の麓に在り。明の万暦二十七年、巡撫の陳用賓が建てたり。
『春融堂集』
朱乌南交地,偏崇北极祠。虚危昭法象,元武动旌旗。衾冕威灵壮,风雷陟降迟。松林环翠外,金碧耀罘罳。
朱鳥(南方朱雀)の南交の地、偏(ひとえ)に北極の祠を崇(あが)む。虚・危(北方の二宿)は法象を昭(あきら)かにし、元武(玄武)は旌旗を動かす。衾冕(衣と冠)は威霊壮なり、風雷は陟降(昇降)すること遅し。松林は環翠(宮)の外(ほか)、金碧は罘罳(殿の網戸)に耀(かがや)く。
古写真
1911年
ウィリアム・エドガー・ガイル(William Edgar Geil)の著書『中国十八省府』(Eighteen Capitals of China)は、1911年に金殿正面の旧影を掲載した。
1920—1922年
「La Pagode du Cuivre(銅のパゴダ)」と題された太和宮の絵葉書は1920年から1922年の間に印行され、金殿正面のかつての姿を留めている。
20世紀前半
20世紀前半頃、梁思成らが太和宮・金殿・欄干・石段を撮影した。この一連の写真は後に林洙編『中国古建築図典』第二・四巻に収められた。
参考文献
- 蕭霽虹「『「南滇福神」:雲南真武信仰と崇祀の研究』」、『弘道』2017年第1期、第230—242頁。