光岳楼

光岳楼は山東省聊城の古城の中央に位置し、明の洪武七年(1374)に城の修築で余った木材をもって建てられ、初めは「余木楼」と呼ばれた。城防の瞭望と報時・警報のための、高台の上に四層を重ねる更鼓楼である。本稿は明・清の楼記、乾隆帝の登楼詩、地方志に拠り、その定名と修葺、および1938年の聊城防衛戦における経緯を述べ、1936年・1947年の旧影を収める。

時代
明朝
地域
山東
所在地
山東省聊城市東昌府区
光岳楼と墻台、台下の家屋の旧影
光岳楼と墻台、台下の家屋の旧影

はじめに

明の洪武七年(1374)、東昌の城を守る武官の陳鏞は、城の修築で余った木材を用いて、府城の中央に更鼓楼[1]を建てた。初めは「余木楼」と呼ばれた。城を守る者はこの高楼から城外を望見して敵情を察し、また鼓の音をもって城中に更を告げた。成化年間、知府の楊能が楼を修めた。この楼はまた府の名に因って「東昌楼」とも呼ばれた。弘治九年(1496)、吏部の官である李賛は東昌知府の金天錫に従って最上層に登り、城郭を見下ろして、この高楼にふさわしい名がないことを嘆いた。二人は議して「光岳楼」の名を定め、魯に近く、岱岳[2]に光あるの意を取った。

嘉靖十二年(1533)、知府の陳儒が楼に登ると、棟梁がすでに損なわれているのを見て、工料を集め工匠を募って重修し、一か月足らずで竣工した。楼の高台の下には通路があり、木楼は台の上に四層を重ねる。楼に登るにはまず石の階段を上り、さらに楼内の盤梯を巡って上る。楼心は上下に貫かれ、四周に欄干が設けられている。高いところから窓を開けて遠くを望めば、城東の漕河には船が引きも切らず、晴れた日には南に金梁諸山[3]が見え、東には泰山を望むことができた。落成の日、陳儒は賓客を招いて楼に登り宴を開き、一同は窓に臨んで杯を挙げて月を待った。

乾隆二十年(1755)、光岳楼の石台はすでに傾き、木料も次第に朽ちていた。楼の下は四方の道の交わる場所で、通行する人々にとって危険となっていた。それ以前の歴代の知府も楼の修築を議したが、工事が大きく費用も多いために着工されなかった。蔡学頤が着任すると、ちょうど二年続けて麦の収穫が良かったので、まず自らの俸銭を寄附し、ついで地方の士紳と城中の人々に出資を求めた。また郷紳を選んで工料を分担管理させ、工事に携わる吏員がそこから利を貪ったり、工事が粗悪になったりするのを防いだ。工事はその年の九月から翌年の四月まで続き、蔡学頤は完成間際に転任したため、府事を代行する官が引き続き最後の仕上げを督励した。屋檐・柱・門窓は旧来の通りに整えられ、楼はなお四層を保った。

乾隆三十年(1765)、乾隆帝は南巡の途中で東昌を通り、東門から城に入って光岳楼に登り、城外の田野と水陸の道を見渡し、楼のために扁額を書き与えた。城中で登ったのは光岳楼であるが、志書には城の東北隅に望岳楼があるとも記されている。二つの楼が同一か別物か、乾隆帝はその後も幾度か楼に登り、詩の中でこれを辨えた。乾隆四十九年(1784)、彼は「光岳は城に斯くあれど望岳は無し」と詠み、城中で登ることができるのは光岳楼であり、城東北の望岳楼はすでに尋ねることができないと断じた。

乾隆の重修から八十余年、楼の屋架は再び折損・崩壊の危険に直面した。聊城の武挙人である詹恩は、今修めなければ今後はさらに難しくなると考え、東昌知府の祝慶谷と聊城知県の章斅に楼の修築を申し入れた。府県の官員、聊城で商売を営む山陝の商人、そして地元の人々がともに資金を寄附した。詹恩が工事を督弁し、道光二十年(1840)八月から二十五年(1845)十月に至るまで続き、制銭一万二千四百緡[4]を費やした。この重修では石基・甎座・木構を固め、屋檐・柱・門窓も新たに油飾された。道光二十八年(1848)、聊城出身の楊以増がこの工事のために「重修東昌光岳楼記」を撰した。後に刻まれた碑は、今も台基の南門の西側に立っている。

1938年11月、日本軍が聊城を包囲攻撃した。砲弾が相次いで専員公署の構内に落ち、守城の将である范筑先は指揮部を光岳楼一帯に移し、引き続き四門の防衛を指揮した。翌日、東門が破られると、范筑先は守軍とともに光岳楼に退いて抵抗し、さらに万寿観に転じて市街戦を戦った。范筑先はついに万寿観で殉国した。

1967年に台基を補強した際、甎積みの外壁と平台にはセメントが塗られた。二十余年後、セメント層はひび割れて剥落し、浸水も見られた。1992年から1993年にかけて、施工者はまず外層のセメントを取り除き、損傷した壁体を掘り補い、さらに青甎で外壁を包み砌り、方甎で平台を新たに敷き詰めた。

歴史文献

『東昌府志』

光岳楼

楼在城中央。洪武七年,东昌卫指挥佥事陈镛以修城余木建,名余木楼,以料敌望远。后西平李赞名之日光岳,取其近鲁有光于岱岳也。成化丙午,知府杨能修,有梁玺记。嘉靖间知府陈儒,万历间知府莫与齐重修。国朝顺治十七年知府卢𬭎,乾隆二十年知府蔡学颐重修。

光岳楼

楼は城の中央に在る。洪武七年、東昌衛指揮僉事の陳鏞が、城を修めた余木をもって建て、名を余木楼と曰い、もって敵を料り遠くを望んだ。後に西平〔の人〕李賛がこれを名づけて光岳と曰う。魯に近く岱岳に光あるを取ったのである。成化丙午、知府の楊能が修め、梁璽の記がある。嘉靖の間の知府陳儒、万暦の間の知府莫与斉が重修した。国朝〔清〕の順治十七年の知府盧鋐、乾隆二十年の知府蔡学頤が重修した。

『東昌府志』巻四十四「古蹟二・台沼・聊城県」、清 嵩山纂修

「光岳楼記」

皇上御极之十有二年,惟献臣越我庶邦御事,罔不祗恊。维时海岳效灵,百度顺轨,而道化雝然以洽,君子日嘻,此大顺之实也。先是,嘉靖已丑,儒以大司徒之属出守东郡,爰按图籍,得所谓光岳楼者,乃窃叹曰:猗欤体哉!光岳之义大矣哉!南望兴思,恍若凭虚御风,独立于泰山乔岳之上。暨庚寅入郡,岁且告饥,儒乃匍匐往救之不暇,矧敢逸?越明年辛卯,贤隽汇征,冠诸列郡。时则与诸君子徘徊登眺,俯察仰观,欲一记诸,未能也。

皇上御極の十有二年、ただ献臣と我が庶邦の御事(政務を司る者)と、祗(つつし)み協わざるは無し。維る時、海岳は靈を效(あらわ)し、百度は軌に順い、道化は雝然(和らぎ)として洽(あまね)し。君子は日に「嘻(ああ)、此れ大順の實なり」と〔曰う〕。これより先、嘉靖の己丑、儒は大司徒(戸部尚書)の属を以て出でて東郡を守る。爰(ここ)に圖籍を按じて、謂うところの光岳楼なるものを得、乃ち竊かに歎じて曰く、「猗歟(ああ)體(すがた)なるかな。光岳の義、大なるかな。南を望んで思いを興せば、恍たとして虚に憑り風を御し、獨立して泰山・喬岳の上に在るが若し」と。庚寅に暨(いた)り郡に入るに、歲は且(まさ)に飢を吿げ、儒乃ち匍匐(ほふく)として往きて之を救うに暇あらず、矧(は)て敢えて逸(やす)まんや。明年辛卯を越え、賢雋彙征(群れ集まって登用され)、諸の列郡に冠たり。時に則ち諸君子と徘徊して登眺し、俯して察り仰いで觀、一たび之を記せんと欲すれども、未だ能わざるなり。

又明年壬辰暨癸巳,雨旸时若,民物熙熙。时维九月,乃复偕诸君子以登,则见栋宇翚飞,檐阿雾隐,凌空纾瞩,东岳增辉,兹光岳之所以名乎?客曰:未也。又从而跻之,则见其灿然而列岫者,云物兴也;晶然而垂象者,日月丽也。左顾而群峰崒嵂,如距如伏者,泰岳之毓奇也;右盼而羊肠迤逦,如拱如障者,太行之呈秀也。又南睇而衡湘吞吐,北望而燕云闪烁者,诸岳之辉映于两閒也。兹光岳之所以名乎?客曰:似也,请更跻之曰:圣人兴神物以前民用,王者全至德以昭太和。昔者成周定鼎于洛邑,曰:此天地之中也,四时之所交也,风雨之所会也,而万世仰文明之治不衰。是故光岳气完,则贤圣出而天下治;光岳气分,则天地闭而贤人隐。兹光岳之所以名乎?诸君子乃作而言曰:嘻!

又た明年壬辰・癸巳に暨り、雨暘は時に若(したが)い、民物は熙熙(にぎやかに楽しげ)たり。時に維れ九月、乃ち復た諸君子に偕えて以て登れば、則ち見る、棟宇は翬(ひし)の飛ぶが如く、檐阿は霧に隱れ、空を凌ぎて矚(み)るを紓(の)べれば、東岳〔は〕輝きを增す。此れ光岳の名づくる所以か。客曰く、「未だならざるなり」と。又た從いて之に躋(のぼ)れば、則ち見る、其の燦然として岫を列ぬるは、雲物の興るなり。晶然として象を垂るるは、日月の麗(かか)るなり。左を顧みて群峰崒嵂(そつりつ)として、距(あ)ぐが如く伏すが如きは、泰岳の奇を毓(はぐく)むなり。右を盼(み)て羊腸迤邐(曲がり連なるさま)として、拱(こまね)くが如く障(さえぎ)るが如きは、太行の秀を呈するなり。又た南を睇(み)て衡湘を呑吐し、北を望んで燕雲閃爍するは、諸岳の輝き兩閒(あいだ)に映ずるなり。此れ光岳の名づくる所以か。客曰く、「似たり。請う、更に之に躋りて曰はん。聖人は神物を興して以て民用に先(さきだ)ち、王者は至德を全うして以て太和を昭かにす。昔、成周は鼎を洛邑に定めて曰く、此れ天地の中にして、四時の交わる所、風雨の會する所なり、と。而も萬世は文明の治を仰ぎて衰えず。是の故に光岳の氣完(まった)ければ、則ち賢聖出でて天下治まり、光岳の氣分かれれば、則ち天地閉ざされて賢人隱る。此れ光岳の名づくる所以か」と。諸君子乃ち作(おき)て言いて曰く、「嘻(ああ)」と。

育是哉!夫鲁介在东藩,泰岳奠一其极,汶洄导其流,是故春秋贤圣繇此其兴,而万世道时学是宗焉。乃兹东郡,实据上游,则所以钟灵孕秀,以上二继千载之绪者,将无其人乎?儒尝阅志而品题于百世二之上,或以德业,或以文章,或以节义,遐哉邈乎,光映史策,吾不得而见之矣。乃今昭代人文,乘运以出,洋洋如也,侃侃如也,其所以对扬先烈而奋庸熙载者,亦既有其人矣。吾又安知百世之下,所以上继鲁、邹者,将无其人乎?乃遂书之,用昭不朽,而复系以诗曰:于维我明,奠兹鳌极。奄有龟蒙,泰山壁立。东有长河,壮兹金汤。源流浩渺,洙泗之将。中起危楼,古称光岳。伟哉形胜,伊谁之作?天祐我邦,诞兴文运。光岳储祥,乘时思奋。爰有作者,上继鲁邹。道垂千载,岂伊人谋。

ああ、是を毓(はぐく)むことかな。夫れ魯は東藩に介在し、泰岳は其の極を一つに奠(さだ)め、汶洄(汶水と洄水)は其の流れを導く。是の故に春秋の賢聖は此に繇(よ)りて其れ興り、萬世の道學は是を宗とす。乃ち兹の東郡、實に上游に據る。則ち靈を鍾(あつ)め秀を孕(はら)む所以にして、以て上〔に〕千載の緒を繼ぐ者、將(は)た其人無からん乎。儒かつて志を閱して百世〔以〕上に品題す。或いは德業を以てし、或いは文章を以てし、或いは節義を以てす。遐(とほ)きかな邈(はるか)なるかな、光は史策に映ず。吾は得て之を見ざるなり。乃ち今、昭代の人文、運に乘じて以て出で、洋洋たるが如く、侃侃たるが如し。其の先烈に對揚して庸を奮い載(事)を熙(ひろ)ぐる所以の者、亦既に其人有り。吾又た安くか知らん、百世の下、上に魯・鄒(孔子の魯・孟子の鄒)に繼ぐ所以の者、將た其人無からん乎。乃ち遂に之を書し、用いて不朽を昭かにし、復た詩を系(つ)けて曰く、于(ああ)維れ我が明、兹の鰲極(大地を支へる要地)を奠む。奄くして龜蒙(亀山・蒙山)を有し、泰山壁立す。東に長河(黃河)有り、兹の金湯(堅固な城)を壯んにす。源流浩渺、洙泗(洙水・泗水)の將(まさ)に大いなる。中に危楼を起こし、古は光岳と稱す。偉なるかな形勝、伊(こ)れ誰の作ぞ。天は我が邦を祐け、誕(おほ)いに文運を興す。光岳は祥を储(たくは)へ、時に乘じて奮はんことを思ふ。爰に作る者有り、上は魯鄒に繼ぐ。道は千載に垂れ、豈に伊れ人の謀ならんや。

我莅东藩,于兹四纪。大有频仍,贤豪胥继。爰荷天休,会逢其适。我士我民,乐且无极。明明天子,建乃中和。昭兹大顺,元气匪磨。敢用大书,阐兹微义。于万斯年,永绥厥治。

我、東藩に莅(のぞ)み、兹に于いて四紀。大有(大豐作)頻仍(しきり)に、賢豪胥(あい)繼ぐ。爰に天の休(よろこび)を荷(か)ち、會して其の適に逢ふ。我が士我が民、樂しみ且つ極まり無し。明明たる天子、乃ち中和を建つ。兹の大順を昭かにし、元氣匪(ひ)ずして磨(すり減)らず。敢えて用いて大書し、兹の微義を闡(ひら)かん。于(ああ)萬斯年、永く厥の治を綏(やす)んぜん。

『聊城県志』巻十之三「藝文志」、明 陳儒撰「光岳楼記」

許成名「重修光岳楼記」

癸巳之秋八月辛酉,芹山陈子政平之暇,登光岳而览焉。顾栋宇摧折,惧曰:守兴百废,眷兹胜迹,实维具瞻,而栋桡,其谁之责?吾闻之,待敝者艰,蒙旧者易。于是相势筹资,罗诸工役,而播告日若。惟专攻无泛乃力而玩时;若;惟揆材,无舛乃施而滥费若;惟远图无绚乃文而具观。无亟而疲,无倦而惩,无方,予尔咎。巳。乃区材治廪,凡取诸公羡,及裁诸市贾,而官帑靡丝于故,猷奋响臻,费廉工迅,不弥月而事集,殆炳乎非旧观矣。陈子业育著光岳楼之幽,余复状其略日:楼中城而立,距河里许,河自巽下,抱城之左背,出乾,若涣弗结者。惟光岳既崇,四方景附,获翕受之义焉。楼之台,高数丈,下空洞旁达,上四叠,而峻楹准易卦,再叠符大衍,又再缩之三,末缩之五,翚举鹄冲,状削芙蓉,曲斗斜触,折回曼衍。

癸巳の秋八月辛酉、芹山の陳子(陳儒)は政平らぎたるの暇に、光岳に登りて之を覽たり。棟宇の摧折するを顧みて懼れて曰く、「守は百廢を興す。兹の勝蹟を眷(かへりみ)るに、實に維れ具瞻(衆の仰ぎ見る所)なり。而して棟橈(たは)めるは、其れ誰の責ぞ。吾之を聞く、敝を待つ者は艱(かた)く、舊に蒙る者は易し」と。是に於いて勢を相(み)て資を籌(はか)り、諸の工役を羅(あつ)め、播吿して曰くこと若(ごと)く、「惟れ攻(こと)を專らにして、乃の力を泛(ひろ)ぐる無くして時を玩ぶな。若(ごとし)。惟れ材を揆(はか)りて、乃の施しを舛(たが)ふる無くして濫費せよ。若。惟れ遠圖にして、乃の文を絢(あや)ならしむる無くして觀を具えよ。亟(しきり)にして疲れしむる無く、倦みて懲(こ)りる無く、方無からんには、予爾に咎めん。巳(や)めり」と。乃ち材を區り廩を治め、凡そ諸を公羡(公の餘り)に取り、及び諸を市賈(市の商人)に裁(さば)き、官帑は絲(いと)も故(もと)に靡(なび)かず〔官の庫は少しも費やさず〕。猷(はかりごと)奮ひ響き臻(いた)り、費廉く工迅く、月を彌(みた)さずして事集(あつま)り、殆ど炳乎として舊觀に非ざるなり。陳子の業は光岳楼の幽を毓著(はぐくみあらは)し、余復た其の略を狀(かた)るに〔曰く〕、楼は城の中に立ち、河に距ること里許り。河は巽(東南)より下り、城の左背を抱き、乾(西北)に出づ。渙として結ばざるが若き者なり〔水の散じて聚まらざるが如し〕。惟れ光岳既に崇し、四方は景(ひかり)の如く附き、翕受(あつめうけ)の義を獲たり。楼の臺、高さ數丈、下は空洞にして旁(ほうぼう)に達し、上は四疊す。而して峻楹は易卦に准じ、再疊は大衍に符し、又再び之を三に縮め、末は之を五に縮む〔層を重ねるごとに架構を數理に準じて縮めゆくさま〕。翬舉鵠沖(ひしのあがりくぐいのつく)、狀は芙蓉を削るが如く、曲斗斜觸、折囘して曼衍たり。

构梯盘互,始达其巅,虚中彻上,缭以方栏,俯而股栗。启窗延眺,邈周数百里。伫抚流云,动接飞鸟,浦村溪树,历析秋毫。城之东隅,万艘鳞贯,霄澄雨霁,南见金梁诸山,亘接齐、兖,错峙低横,如拱如赴。东望岱岳,指顾双峰,烟霭冥蒙,如睹沧海。窃谓东邦海山之胜,雄诸四国。而魏博千里,野豁原舒,如砥如掌。兹楼跨清漕之津,据两都之会,胜奚尚耶?落成之日,陈子集朋僚,萃冠舄而往陟焉。维时秋爽气清,霜高宇净,霖敛遥林,烟沈万井。攀石橙,蹑丹梯,厉飘鸿,凌碧汉,眇远岫之如卷,睇长河之一线。陟而饮焉,命席临轩,举觞待月,揖序宾筵,秩秩楚楚,式礼罔愆,无乱樽俎。饮而乐焉,吹洞箫,击鼍鼓,扬霓曲,翻燕舞,铿金戛石,繁响激越,神融襟旷,遗落嚣纷,将凌汗漫于庄周,寄风流乎谢眺者矣。

梯を構えて盤互(めぐりあい)し、始めて其の巓に達す。中を虚しくして上に徹し、繚(めぐ)らすに方欄を以てす。俯して股(もも)慄(ふる)ふ。窓を啓き眺めを延べれば、邈(はるか)に周(めぐ)ること數百里。佇(たたず)んで流雲を撫で、動きて飛鳥に接し、浦村・谿樹、歷々として秋毫を析(わか)つ。城の東隅、萬艘は鱗の如く貫き、霄澄み雨霽(あ)ぐれば、南に金梁諸山を見る。亘りて齊・兗に接し、錯峙して低く橫たはり、拱くが如く赴くが如し。東に岱岳を望めば、指顧の間に雙峰、煙靄冥蒙として、滄海を睹るが如し。竊かに謂ふ、東邦の海山の勝は、諸の四國に雄たり、と。而して魏博(魏州・博州)千里、野は豁(ひら)け原は舒(の)び、砥(と)の如く掌の如し。兹の楼は淸漕の津に跨ぎ、兩都の會に據る。勝は奚ぞ尚(まさ)らんや。落成の日、陳子は朋僚を集め、冠舄(衣冠の士)を萃(あつ)めて往きて陟(のぼ)る。維れ時、秋爽やかにして氣淸く、霜高く宇淨く、霖(ながあめ)は遙林に斂(をさ)まり、煙は萬井に沈む。石橙(石の段)を攀(よ)じ、丹梯に躡(ふ)み、飄鴻を厲(あが)り、碧漢を凌ぐ。遠岫の卷くが如きを眇(すが)め、長河の一線を睇る。陟りて飲み、席を命じて軒に臨み、觴を擧げて月を待つ。揖して賓筵に序(つらな)る、秩秩楚楚として、禮に式(のっと)り愆(あやま)り無く、樽俎を亂ること無し。飲みて樂しみ、洞簫を吹き、鼉鼓(だだこ)を擊ち、霓曲を揚げ、燕舞を翻す。金を鏗(か)ならし石を戛(か)ち、繁響激越、神は融け襟は曠く、囂紛(塵世のさはがしさ)を遺落し、將に莊周の汗漫(廣大無邊の境地)を凌ぎ、謝眺の風流に寄せんとする者なり。

乐而歌焉,咏古而思巢父,怀贤而仰仲连。诵白露之什,赓黄鹤之篇,被之鸣弦,赏而击节,冥思支颐交欢,舞掌歌既,客有感焉。耆曰:噫嘻!吾属滥庾生之游,罔先范老之忧;餍肥甘之腴,罔知藜藿之味;适堂宇之便,罔思蓬荜之艰。诗曰:无已太康。易谓坚冰履霜,胡可忘戒乎哉?陈子闻而叹日:山可薪者,无完肤之材;泽可钓者,寡巨鳞之鱼。吾东郡滨于漕流,困供荐而削,坐驰驱而敝,征赋告迭,丰歉相代,匪予弗敬之堪,予何能措吾民于光岳之安乎?客曰:不然,吾固睹若敏矣,绥奠穷黎,匡祐亨豫。子之心,持颠拯溺,宣郁烛幽;子之政,起衰振靡,倒峡回澜;子之文,砭蒙启瞆,雨化云集。子之教。是故民苏而士变,道立而治兴,吾其谁归哉?曰:是非吾所能,敢请事斯语耳。

樂しみて歌ひ、古を咏(うた)ひて巢父(巣父、堯の時の隱者)を思ひ、賢を懐ひて仲連(魯仲連、聊城に書を射た義士)を仰ぐ。白露の什を誦し、黃鶴の篇を賡(つ)ぎ、之を鳴弦に被(かぶ)せ、賞して節を擊ち、冥思して頤(あご)を支へ交歡し、掌を舞はせ歌ひ既(をは)る。客感ずる者有り。耆(おきな)曰く、「噫嘻(ああ)。吾屬は庾生(庾亮、東晋の名臣、高樓宴遊の故事)の游に濫(みだ)り、范老(先憂の老)の憂を先にする罔(な)し。肥甘の腴(あじ)を餍(あ)きて、藜藿(あかざ・豆の葉、粗食)の味を知る罔し。堂宇の便に適(たの)しみて、蓬蓽(ほうへい、貧者の住まひ)の艱を思ふ罔し。詩に曰く、已に太康(たいして康らか)なること無かれ、と。易に謂ふ、堅氷は霜を履む〔より至る〕、と。胡ぞ戒めを忘るべけんや」と。陳子聞きて歎じて曰く、「山の薪(たきぎ)とすべきは、完膚(まったき膚)の材無く、澤の釣るべきは、巨鱗の魚寡なし〔酷使すれば資は竭きる〕。吾が東郡は漕流に濱(ふ)し、供薦(供給)に困んで削られ、馳驅に坐(お)りて敝(つか)れ、征賦は吿げ迭(かは)り、豐歉は相代はる。予の敬まざるに堪(た)へざるに匪(あら)ず、予何ぞ能く吾が民を光岳の安きに措(お)かん乎」と。客曰く、「然らず。吾は固より若(なんぢ)の敏(はたらき)を睹たり。窮黎(困窮の民)を綏奠(やすんぢさだ)め、亨豫(安樂)を匡祐(たす)く。子の心は、顛(たふ)れを持ち溺れを拯(すく)ひ、鬱を宣(の)べ幽を燭(てら)す。子の政は、衰えを起こし靡(なび)きを振ひ、峽を倒し瀾を囘す〔勢ひを逆轉させる〕。子の文は、蒙を砭(うが)ち瞶(くらき)を啓き、雨の化し雲の集まるが如し。子の教〔なり〕。是の故に民は蘇(よみがへ)り士は變じ、道立ちて治興る。吾其れ誰にか歸(よ)らん」と。〔陳子〕曰く、「是は吾の能くする所に非ず。敢えて請ふ、斯の語に事(つか)へんのみ」と。

君子曰:乐而知戒,安而虑危,有功而弗居,可以训矣。龙石子在侧,获备辑之,为楼记。

君子曰く、樂しみて戒めを知り、安んじて危うきを慮り、功有りて居(を)らざるは、以て訓(のっと)るべし、と。龍石子は側に在りて、獲て備(そな)へて之を輯(あつ)め、楼の記と爲す。

『聊城県志』巻十之三「藝文志」、明 許成名撰「重修光岳楼記」、嘉靖十二年八月辛酉

蔡学頤「重修光岳楼記」

余早岁通籍东郡,为入都要津,往来至止,即闻光岳楼之胜,与射书台并传,心志之有年。癸酉冬,余守登郡,甫及岁,奉天子命,量移于兹,周览层台,诚巨观也。楼之创始修废,备载乘碣閒无烦更仆述。惟是风雨飘飖,石欹木烂,日就倾圯,地处四术之冲,行者危之。历任前守,数经议复,皆以工大费繁而止,甚则动众招尤之说入,益迟回不果。余素勇于任事,不避艰巨。来之日,窃愿举之,而庶政殷繁,不遑议。及越岁,尘案渐理,地方日有起色,且幸麦秋两稔,民食裕则工易集,修举废坠,此其时矣。爰进绅士而公议之,佥曰可。余随捐俸为倡,而邑人咸乐余之锐意兴复,鼓舞相从,争投金钱无倦色。余思事繁重,杂以吏胥,恐渔利而工多窳,因慎选一二乡大夫分司其事,即余臧获无与焉。

余は早歲より籍を東郡に通じ〔東郡に官籍を有し〕、入都の要津たるを以て、往來して至り止まれば、卽ち光岳楼の勝を聞き、射書臺と竝び傳へられて、心に志すこと年有り。癸酉の冬、余、登郡(登州府)を守り、甫(はじ)めて歲に及ぶに及び、天子の命を奉じ、兹に量移(轉任)す。層臺を周(めぐ)り覽るに、誠に巨觀なり。楼の創始と修廢は、備さに乘碣(志と碑)の閒に載せり。更僕して述ぶるに煩はず。ただ是れ風雨に飄颻(ひうえう)し、石は欹(そばだ)ち木は爛(ただ)れ、日に傾圮に就き、地は四術(四方の道)の衝に處り、行者は之を危うしとす。歷任の前守、數たび議復を經るも、皆工が大きく費が繁いを以て止み、甚だしきは則ち衆を動かし尤(せめ)を招くの説入り、益々遲囘して果さず。余は素より事を任ずるに勇あり、艱巨を避けず。來たるの日、竊かに之を擧げんことを願ふも、庶政殷繁にして、議るに遑(いとま)あらず。歲を越ゆるに及び、塵案漸く理(をさ)まり、地方日に起色有り、且つ幸ひに麥秋兩稔(二年連りて麥が稔る)、民食裕かならば則ち工集め易し。廢墜を修擧するは、此れ其の時なり。爰に紳士を進めて公に之を議るに、僉(みな)可と曰ふ。余は隨(つ)いで俸を捐じて倡(はじめ)と爲す。而して邑人咸く余の意を銳くして興復するを樂しみ、鼓舞して相從ひ、爭ひで金錢を投げて倦む色無し。余思ふに、事は繁重にして、之に吏胥を雜へば、利を漁(あさ)りて工多く窳(なま)けるを恐る。因りて愼んで一ニの鄉大夫を選びて其の事を分司せしめ、卽ち余の臧獲(ざうかく、奴僕)も與(あづか)ること無し。

部署既就,具公牍而上闻之。时督河都御史白公,兼行抚篆,亟为嘉予。总藩阿公,且日:此余之素志也,幸为之无懈。秉臬卢公、观察朱公,司鹾胡公,咸谓不谬,都人士靡不踊跃从事。鸠工财材,备竭心力,自秋徂春,无告瘁者。二月中,余被恩命,擢任监司,筦钥河防,而工将竣,摄事者司马陈君,更砥砺勖勉,楼遂以成计。首役于乙亥九月,讫工于丙子四月,八阅月而功就。其始也,有以道旁筑舍私为言者,余力剖之,遂翻然悔,且欣然趋。亦可见任大事者,不畏难于谋始,不摇动于浮言,斯为得矣。是楼也,位耸离宫,𤷖霄矗起,或以郡多巍科,咸视此,此又惑于形家之言。官斯土者,果克雅意作人,力振文教,而贤士大夫复能善培其后,诱掖不辍,所谓父兄之教先,子弟之率谨,则英杰挺生,当代不乏人,岂尽系一楼之屹嵲哉?

部署既に就き、公牘を具へて上に之を聞えしむ。時に督河都御史の白公、兼ねて撫篆(巡撫の印務)を行ひ、亟(しき)りに之を嘉予(かよ、賞め與へ)す。總藩(布政使)の阿公、且つ曰く、此れ余の素志なり。幸ひに之を爲して懈(おこた)ること無かれ、と。秉臬(按察使)の盧公、觀察の朱公、司鹺(鹽政を司る)の胡公、咸く謬らざりと謂ひ、都人士は靡(なび)かずして踊躍して事に從ふ。工を鳩め材を財(まと)め、心力を竭くすことを備へ、秋より春に徂(ゆ)き、瘁(つか)れを吿ぐる者無し。二月中、余は恩命を被り、擢(ぬき)んで監司に任じ、河防を筦鑰(かんやく、つかさど)る。而して工將に竣(を)はらんとし、事を攝(と)る者は司馬の陳君、更に砥礪して勖勉(はげ)み、楼遂に以て成る。役を乙亥の九月に首(はじ)め、工を丙子の四月に訖(を)へ、八閱月にして功就(をを)せり。其の始めや、道旁に舍を筑くを以て私に言ふ者有り〔道端で家を建てるやうに衆議まとまらぬとの譬へ〕。余は力めて之を剖(は)き、遂に翻然として悔ひ、且つ欣然として趨(はし)る。亦た見るべし、大事を任ずる者は、始めを謀るに難を畏れず、浮言に搖動せざるは、斯れ爲すに得たり、と。是の楼や、位は離宮に聳え、〔𤷖〕霄に矗起(ちよくき)す。或る者は郡に巍科(高い科擧の及第)多きを以て、咸く此を視る〔この楼に吉凶を占ふ〕。此れ又た形家(風水家)の言に惑ふなり。斯の土に官する者、果して克く雅意を以て人を作(をこ)し、力めて文教を振ひ、而して賢士大夫復た能く其の後を善く培ひ、誘掖(ひきたて)輟(や)まざれば、謂ふところの父兄の教へ先にし、子弟の率(したが)ひ謹む、則ち英傑は挺生(つぎつぎに生まれ)し、當代に人を乏しからざらん。豈に盡く一楼の屹嵲(そびえ立つさま)に係らんや。

至于齐云、落星,侈言胜概,恐涉华脢之讥,余故不及,惟记其颠末,以志岁月。

齊雲・落星(齊雲樓・落星樓、古の名楼)に至つては、侈(ほこ)りて勝概を言ふは、恐らくは華美を言い立てたとの譏りに渉らん。余故に及ばず、ただ其の顚末を記して、以て歲月を志す。

『聊城県志』巻十之三「藝文志」、清 蔡学頤撰「重修光岳楼記」

牛運震「重修光岳楼碑記」

太行以东,沧海以西,山之巉岩高大,兴云雨,见怪物者以十数,泰岳最胜。泰岳以西,山势中断,崩崺平衍,跨州连郡,轮蹄四达,殷阗辐辏之区以十数,东郡最胜。郡城。距泰岳二百五十里,东接齐、兖,西通邢、魏,南则漕运之河,自左偏来,挟连樯万艘,以达京畿。其中多古迹名地,有楼归然起于城郭闾阎阛暗之中。盘磴悬梯,耸倚重霄,奔星蜿虹,髣髴出入。棂槛俯吹行云,倒睨飞鸟,日观天门,隐隐步相接也。而襟带枕腋之交,四顾秋毫,泱漭,周延于数百里之外。夫东之为郡,撼清漕之津,据都邑之会,而四达形胜,一光岳楼悉取之。然则于寰宇之中有东郡,于东郡之中有光岳楼。楼之系重于东郡,此与有泰岳于山左之国,天之下,地之上也,有辨乎?

太行以東、滄海以西、山の巉巖高大にして、雲雨を興し怪物を見る者、十を以て數ふるに、泰岳最も勝れたり。泰岳以西、山勢中に斷え、崩崺(ほうい、くづれななめ)平衍にして、州を跨ぎ郡を連ね、輪蹄(車と馬)四達し、殷闐(いんでん、にぎはひ)輻輳(ふくそう、集まり)の區、十を以て數ふるに、東郡最も勝れたり。郡城は泰岳に距ること二百五十里、東は齊・兗に接し、西は邢・魏に通じ、南は則ち漕運の河、左偏より來り、連檣萬艘を挾みて、以て京畿に達す。其の中に古蹟名地多く、城郭・閭閻・闤闇(かんあん、市の門)の中に、ひときわ高くそびえる楼がある。盤磴懸梯、聳えて重霄に倚り、奔星蜿虹、髣彿として出入りす。櫺檻は俯して行雲を吹き、倒に飛鳥を睨(にら)み、日觀・天門(泰山の名所)、隱隱として歩(あゆみ)相接(つ)ぐが如し。而して襟帶枕腋(山河を襟帶とし腋を枕する要衝)の交はり、四顧すれば秋毫も泱漭(わうまう、廣大)として、周延すること數百里の外に及ぶ。夫れ東の郡たるや、淸漕の津を撼(うご)かし、都邑の會に據る。而して四達の形勝、一の光岳楼悉く之を取る。然らば則ち寰宇の中に東郡有り、東郡の中に光岳楼有り。楼の東郡に係ること重きは、此れ山左の國に泰岳有ると、天の下、地の上と、辨(わか)つこと有らん乎。

曰:无辨。

曰く、辨無し、と。

于是东郡之人士原任灌县知县蒋亮、监利县知县任士珑,锐然议修之,曰:兹楼以泰岳名,泰岳不可仆,兹楼不可毁,无兹楼,是无东郡也。楼距初建之岁,历年多所,听其圮且坏,是昭东郡士大夫之不能也。乃以其事请于有司。当是时,今河道观察蔡公学颐为东郡守,具状白大府及诸宪司,又倡为之劝,敛钱鸠工,经始乾隆二十年七月,落成于二十一年六月。役以夫计,凡若千,银以两计,凡若干。檐楹户牖,悉如其旧,益完以新,凡皆蔡公及东郡有司诸人士之力也。滋阳牛运震闻其事而壮之。往余三十年前尝一过斯楼,及是,蔡公以书属余纪其事。余惟斯楼其崇四复,凡十有一丈,制不可谓不壮。楼之役,郡人士襄事者数十人,费累千百计,志不可谓不坚。制之壮,志之坚,则保之不可以不久。

是に於いて東郡の人士、原任(もと任ぜられた)灌縣知縣の蔣亮、監利縣知縣の任士瓏、銳然として之を修めんことを議して曰く、「兹の楼は泰岳を以て名とす。泰岳仆(たふ)るべからず、兹の楼毀(やぶ)るべからず。兹の楼無くんば、是れ東郡無きなり。楼は初建の歲に距ること、歷年する所多し。その圮(くづ)れ且つ壞(やぶ)れんとするを聽(ゆる)すは、是れ東郡士大夫の不能を昭らかにするなり」と。乃ち其の事を以て有司に請ふ。當是の時、今の河道觀察蔡公學頤は東郡守たり。狀を具へて大府及び諸の憲司に白(まう)し、又た倡めて之を勸め、錢を斂め工を鳩め、經始すること乾隆二十年七月、落成すること二十一年六月。役は夫(にんぷ)を以て計り、凡そ若干、銀は兩を以て計り、凡そ若干。檐楹・戶牖、悉く其の舊の如く、益々完くして以て新たなり。凡そ皆蔡公及び東郡の有司諸人士の力なり。滋陽の牛運震、其の事を聞きて之を壯(だん)とす。往(さき)に余三十年前、嘗て一たび斯の楼を過ぎ、是に及び、蔡公書を以て余に其の事を紀するを屬(しょく)す。余惟るに斯の楼其の崇さ四復(四層)、凡そ十有一丈、制は不壯なりと謂ふべからず。楼の役、郡人士の事を襄(と)ぐ者數十人、費は累々として千百を計る。志は不堅なりと謂ふべからず。制の壯、志の堅ならば、則ち之を保つこと久しからざるべからず。

夫雀鼠之角触,罘罳制之,风雨之飘激,甃石拒之,水火之不虞,恒隶戒之。然楼之设,不过以岁计,而楼之毁,亦可以世待也。保之之难何如哉?古者吏治与民事合,而后城郭宫室峙以不敝。国之育楼,所以望云物,察氛祥,节物候,料民事也。东郡为微子遗封,颛顼高阳氏临莅之故地,贤有司守兹土,登兹楼,察民疾苦而噢咻之,视其劳役而休息之。俯瞰商货之殷辏,思以宣其滞;远览河漕之曲折,思以畅其流。如是则民安富,民安富,则士和附,士和附,则本末之力赡,公私之事举。然则光岳一楼,以东郡亿万人守之,墙壁日益坚,栋宇日益峻,虽谓斯楼永永无壤,更千万年雀鼠风雨,与泰岱、东岳终古俱不敝可也,以此保之,何有哉?蔡公曰:然,遂书以俾东郡人。

夫れ雀鼠の角觸(かくしよく、小さな毁損)は、罘罳(ふし、防護の屏)之を制し、風雨の飄激は、甃石(しうせき、煉瓦と石)之を拒ぎ、水火の不虞(不慮)は、恒に隸(したが)へて之を戒む。然れど楼の設くるは、歲を以て計るに過ぎず、而して楼の毀るるも、亦た世を以て待つべし〔歲月を經れば自ずと毁れる〕。之を保つの難きは何如(いかん)。古は吏治と民事と合し、而る後に城郭宮室峙(そばだ)ちて以て敝れず。國の楼を毓(はぐく)むは、雲物を望み、氛祥(氣の吉凶)を察し、物候を節し、民事を料(はか)る所以なり。東郡は微子の遺封たり、顓頊高陽氏の臨莅(りんり)せし故地なり。賢有司、兹の土を守り、兹の楼に登り、民の疾苦を察して之を噢咻(おうきう、いたはりはぐく)み、其の勞役を視て之を休息せしむ。俯して商貨の殷輳(いんそう、なぎはひ集まるさま)を瞰(み)て、思ふに以て其の滯を宣(の)べんとし、遠く河漕の曲折を覽て、思ふに以て其の流を暢(のば)さんとす。是の如くならば則ち民は安く富み、民安く富まば、則ち士は和し附(つ)き、士和し附かば、則ち本末の力は贍(た)り、公私の事は擧(をこ)る。然らば則ち光岳の一楼、東郡の億萬人を以て之を守れば、墻壁は日に益々堅く、棟宇は日に益々峻く、斯の楼は永々壤(うつ)ること無く、更に千萬年、雀鼠・風雨、泰岱・東岳と終古に俱に敝れざる可しと謂ふも、此を以て之を保つ、何ぞ有らんや〔難しきことがあらうか〕。蔡公曰く、然り、と。遂に書して以て東郡の人に俾(あた)ふ。

『聊城県志』巻十之三「藝文志」、清 牛運震撰「重修光岳楼碑記」

『北游日記』

十九曰到东昌府通济桥闸。东昌旧治在巢陵,宋淳化三年,河决城圮,乃移治孝武渡西,即今治也。城中鼓楼五层,名光岳楼。屠隆登光岳楼诗:万里风尘连海岱,千家烟火接淮徐。城外鲁仲连台,或云即射书处。肇域志云:府西北一十五里有古聊城。史记:田单攻聊城不下,鲁连为书约之矢,以射城中者也。韩慕庐有怀堂诗稿有鲁仲连射书处,自注云:有碑在聊城东门下。聊墄,春秋聊摄地。元裕之诗:杏花春酒记聊城。其东北有摄城。过东柳行墩,到永通闸。

十九日、東昌府の通濟橋閘に到る。東昌の舊治は巢陵に在り、宋の淳化三年、河決まり城圮れ、乃ち治を孝武渡の西に移す。卽ち今の治なり。城中の鼓樓は五層、名を光岳楼と曰ふ。屠隆の光岳楼に登るの詩に、「萬里の風塵は海岱に連なり、千家の煙火は淮徐に接す」。城外に魯仲連臺有り、或る者云く、卽ち書を射たる處なり、と。肇域志に云く、府の西北一十五里に古聊城有り、と。史記に〔曰く〕、田單聊城を攻むるも下らず、魯連書を爲して之を矢に約(つ)け、以て城中に射る者なり、と。韓慕廬の『有懷堂詩稿』に「魯仲連射書處」有り、自ら注して云く、碑有り聊城の東門下に在り、と。聊墄は春秋の聊攝の地。元裕之の詩に、「杏花春酒、聊城を記す」。其の東北に攝城有り。東柳行墩を過ぎ、永通閘に到る。

『北游日記』巻四、清 王初桐纂修

『大明一統名勝志』

城中有望岳楼,以可眺望泰岳而名。台基高广数丈,楼作四层,矗立云表,雄胜甲于齐鲁。今名光岳楼。

城中に望岳楼有り、泰岳を眺望するを以て名とす。臺基は高く廣きこと數丈、楼は四層を作り、矗立して雲表に在り、雄勝は齊魯に甲たり。今は光岳楼と名づく。

『大明一統名勝志』「東昌府志勝巻之五」、明 曹学佺撰

『古今図書集成・職方典』

光岳楼 在府城中,创始莫考,其台高数丈,楼四叠而上,盘互玲珑,缥缈云表,雄胜甲于中原。成化间知府杨能修,万历间莫与齐重修,知府陈儒、侍郎许成名、主事梁玺各有记。

光岳楼 府城中に在り。創始は考ふる莫し。其の臺は高さ數丈、楼は四疊して上り、盤互にして玲瓏、縹緲として雲表に在り、雄勝は中原に甲たり。成化の間、知府楊能修め、萬曆の間、莫與齊重修す。知府陳儒、侍郎許成名、主事梁璽、各々記有り。

『古今図書集成・職方典』「東昌府古蹟考墳墓附・通志府志合載」、清 陳夢雷撰

古写真

1936年

1936年、中国営造学社は劉致平・莫宗江を聊城に派遣して調査と撮影を行わせた。林洙編『中国古建築図典』第三巻は光岳楼の旧影一幅を収録し、図題を「山東聊城余木楼」とする。調査の時期と人員については「光岳楼と山陝会館にはどのような関わりがあるのか」を参照。

1947年

『聊城市志』のカラーページに掲載された1947年の旧影は、古楼東大街、沿街の家屋と光岳楼を記録している。原作者は不詳である。画像の題名は山東地情檔案が保存する地方志ページを参照。

参考文献