はじめに
嘉靖三十八年(1559)、会試[1]に落第した後、潘允端は上海城内の自宅西側にある数畦の菜園に石を聚め池を鑿ち、亭を建て竹を植えた。三年後、彼は進士に及第し、その後十余年にわたって任地を転々とした。この間、園中の工事は作り止みを繰り返し、なかなか規模を成さなかった。万暦五年(1577)、潘允端は四川右布政使[2]の任を離れて郷に帰り、はじめて一心に園林を拡張し、園地と水池を広げ、毎年の田産の収穫をすべて修園の費用に充てた。父の潘恩はかつて次第に成りつつある園中で宴飲し詩を詠んだ。潘允端はこれに因り「老親を愉しませる」の意を取り、園を「豫園」と名づけた。楽寿堂ももともと潘恩のために建てられたものであったが、工事はたびたび遅れ、堂が完工しないうちに潘恩は世を去った。潘允端は後に書いている、父はついにその完成をこの目で見ることができなかった、これは自分の「終天の恨」である、と。長年の造営はまた家業を日ましに空虚にしたが、彼は悔いることはなかったものの、なお『豫園記』の末尾で子孫にこれ以上一土を培い一木を植えることなかれと戒めた。
潘允端は園の東に一列の楼屋を架けて城中の喧騒を隔て、中の三間を園門として「豫園」と題した。園門から西へ行くこと遠からずして、はじめて漸佳門がある。さらに「人境壺天」の坊と水に跨る石橋を過ぎると、玉華堂に至る。堂の前には玲瓏の玉石が立ち、堂後の魚楽軒は水に臨み、涵碧亭は水面を覆い、廊道が両岸をつないでいる。さらに履祥門を抜けると、道を挟む巨石が入口を狭め、その中に忽然として石を敷いた広庭が展開し、五楹の楽寿堂が石欄を隔てて大池に正対する。池中に小島が横たわり、島の南には山を築き竹を植える。園西には別に醉月楼・徵陽楼・純陽閣、および武康石を積み上げた小山がある。曲廊は岡嶺・澗壑・石洞を抜けて、挹秀亭・大士庵・会景堂と水軒を一線に連ねている。豫園は当初、観賞のためだけのものではなかった。園中には潘氏の祖祠があり、潘允端が読書し起居した楼堂があり、息子を住まわせ朝夕の問安に便とした愛日堂もあり、家宅と接続した生活空間であった。
万暦二十九年(1601)に潘允端が亡くなると、潘氏の家勢は衰え、この規模の大きな私園を維持し続ける力はなくなった。明末、園地は張肇林の名下に転じた。乾隆二十五年(1760)、上海の地方士紳・富商が共同で潘氏の豫園故址を購入し、隣接する城隍廟に帰属させた。城隍廟の東側にすでに東園があったため、この園地は西園と呼ばれるようになった。園地全体は城隍廟に帰し、各行業は後に区画を分けてその中の堂閣・池山を修葺し使用した。
乾隆三十六年(1771)、玉華堂旧址の上の香雪堂は改建を経、同時に霏玉軒が増築された。道光初年、福建の汀州・泉州・漳州三府で花糖・洋貨を営む商人たちが園の東北隅に共同で点春堂を建て、神を祀り議事するのに用いた。道光元年(1821)、香雪堂の東側に游廊が増設され、南に石梁を架け、北に平橋を設けた。道光十年には鶴寿堂が増築された。
道光二十二年(1842)、英軍が上海県城を占領した後、司令部を城隍廟内に置き、兵士を湖心亭に駐屯させた。道光二十六年、霏玉軒の後に小舫が添置された。咸豊三年から五年(1853—1855)の小刀会蜂起[3]の期間、点春堂は城北の指揮部として用いられた。蜂起の失敗後、清軍は城内で焚き掠め、点春堂・香雪堂・得月楼などの建築は戦火に毀れた。咸豊九年(1859)、香雪堂が重建された。翌年、清政府はまた城隍廟と豫園を英仏軍隊の駐屯地として用いた。駐屯軍は園内で山石を取り崩し、池塘を埋め塞ぎ、西式の兵房を修建したため、重建されたばかりの香雪堂は再び損傷を受け、点春堂旧址も兵房に占められた。
同治四年(1865)、香雪堂は再び修建され、霏玉軒は四美軒と改名され、すでに淤塞していた水池も疏濬された。点春堂に属する花糖・洋貨商人の方は、董事の蘇升が出て募款を唱え、兵房の価値を補償し、占められていた旧址を取り戻した。
同治七年(1868)、香雪堂を管理する滬幫鮮肉業公所、飛丹閣を管理する京貨帽業公所、萃秀堂を管理する油豆餅業公所は、それぞれ上海県署の諭示を得て、「承糧管業」することが許された。滬幫鮮肉業公所は上海本地の鮮肉商户から成る。諭示を得た後、公所は香雪堂の所在する園地の税糧を納め、この園地の管理を担った。
同治七年(1868)、点春堂もまた重建が始まった。工事は四年を要し、工匠は泉を疏いて池を成し、石を積んで山を成し、また池に沿って楼台亭閣と回廊を設けた。光緒初年、園内にはすでに二十余の同業公所[4]があった。光緒七年(1881)、点春堂に和煦堂が増築された。光緒末年、点春堂・萃秀堂などにはなお園林空間が残され、九曲橋・湖心亭およびその周囲の茶肆酒楼は、老城内の游人の集まる場所となった。宣統三年(1911)、香雪堂内の鶴寿堂は賞楽楼に改建され、滬・蘇両幫の鮮肉業商户はまたここに一所の初等小学を共同で開いた。
1956年、上海市政府は豫園の全面的な修繕を開始し、園内の学校・商店・住戸を移転させ、亭台楼閣を修復し、池塘を疏濬して花木を補植した。修繕の期間中、西園と内園は合併され、豫園の名が統一して用いられた。湖心亭・九曲橋・蓮花池は園内に編入されなかった。工事は五年に及び、修復後の豫園は1961年9月に再び開放され、今日の基本的な範囲を形成した。
歴史文献
「豫園記」
余舍之西偏,旧有蔬园数畦。嘉靖己未,下第春官,稍稍聚石凿池,构亭艺竹,垂二十年,屡作屡止,未有成绩。万历丁丑,解蜀藩绶归,一意充拓。地加辟者十五,池加凿者十七。每岁耕获,尽为营治之资。时奉老亲觞咏其间,而园渐称胜区矣。园东面架楼数楹,以隔城市之嚣,中三楹为门,扁曰豫园,取愉悦老亲意也。入门西行可数武,复得门曰渐佳,西可二十武,折而北,竖一小坊,曰人境壶天。过坊得石梁,穹窿跨水上,梁竟而高墉中陷,石刻四篆字,曰寰中大快。循墉东西,得堂曰玉华,前临奇石曰玲珑玉,盖石品之甲,相传为宣和漏网,因以名堂。堂后轩一楹,朱槛临流,时饵鱼其下,曰鱼乐。由轩而西,得廊可十余武,折而北,有亭翼然,覆水面曰涵碧,阁道相属,行者忘其度水也。自亭折而西,廊可三十武,复得门曰履祥。巨石夹峙若关,中藏广庭,纵数仞,衡倍之,甃以石如砥。左右累奇石,隐起作岩峦坡谷状,名花珍木,参差在列。前距大池,限以石阑,有堂五楹,岿然临之,曰乐寿堂,颇擅丹雘雕镂之美。堂之左室曰充四斋,由余之名若号而题之,以为弦韦之佩者也。其右室曰五可斋,则以往昔待罪淮漕时,苦于驰驱,有书请于老亲曰:“不肖自维有亲可事,有子可教,有田可耕,何恋恋鸡肋为。”比丁丑岁首,梦神人赐玉章一方,上书“有山可樵,有泽可渔”,而是月即有解官之命,故合而揭斋焉。嗟嗟!乐寿堂之构,本以娱奉老亲,而竟以力薄愆期,老亲不及一视其成,实终天恨也。池心有岛横峙,有亭曰凫佚。岛之阳,峰峦错叠,竹树蔽亏,则南山也。由五可而西,南面为介阁,东面为醉月楼,其下修廊曲折可百余武。自南而西,转而北,有楼三楹,曰徵阳。下为书室,左右图书可静修。前累武康石为山,峻嶒秀润,颇惬观赏。登楼西行,为阁道,属之层楼曰纯阳。阁最上奉吕仙,以余揽揆,偶同仙降,故老亲命以徵阳为小字。中层则祁阳土神之祠,盖老亲守祁州时,梦神手二桂,携二童至,曰:“上帝以大夫惠泽覃流,以此为尔子。”已而诞余兄弟。老亲尝命余兄弟祀之,语具祠记中。由阁而下,为留春窝,其南为葡萄架。循架而西,度短桥,经竹阜,有梅百株,俯以蔽阁,曰玉茵。玉茵而东为关侯祠。出祠东行,高下纡回,为冈,为岭,为涧,为洞,为壑,为梁,为滩,不可悉记,各极其趣。山半为山神祠,祠东有亭北向,曰挹秀。挹秀在群峰之坳,下临大池,与乐寿堂相望。山行至此,藉以偃息。由亭而东,得大石洞,窅窱深靓,几与张公、善卷相衡。由洞仰出,为大士庵,东偏禅堂五楹,高僧至止,可以顿锡。出庵门,奇峰矗立,若登虬,若戏马,阁云碍月,盖南山最高处。下视溪山亭馆,若御风骑气而俯瞰尘寰,真异境也。自山径东北下,过留影亭,盘旋乱石间。转而北,得堂三楹,曰会景堂,左通雪窝,右缀水轩。出会景,度曲梁,修可四十步,梁竟,即向之所谓广庭,而乐寿以南之胜尽于此矣。乐寿堂之西,构祠三楹,奉高祖而下神主,以便奠享。堂后凿方塘,栽菡萏,周以垣,垣后修竹万挺,竹外长渠,东西咸达于前池,舟可绕而泛也。乐寿堂之东,别为堂三楹,曰容与,琴书鼎彝,杂陈其间。内有楼五楹,曰颐晚楼,旁庖湢咸备,则余栖息所矣。容与堂东为室一区,居季子云献,便其定省。其堂曰爱日,志养也。大抵是园不敢自谓辋川、平泉之比,而卉石之适观,堂室之便体,舟楫之沿泛,亦足以送流景而乐余年矣。第经营数稔,家业为虚,余虽嗜好成癖,无所于悔,实可为士人殷鉴者。若余子孙,惟永戒前车之辙,无培一土,植一木,则善矣。
余が舍の西偏、旧く蔬園数畦あり。嘉靖己未、春官に下第し、稍稍石を聚め池を鑿ち、亭を構え竹を蓺ふること、垂々二十年、屢々作り屢々止み、いまだ成績なし。万暦丁丑、蜀藩の綬を解きて帰り、一意に充拓す。地の加へて闢く者十五、池の加へて鑿つ者十七。毎歳の耕獲、尽く営治の資と為す。時に老親を奉じて其の間に觴詠し、而して園漸く勝區と稱せらる。園の東面に楼數楹を架し、以て城市の囂を隔て、中の三楹を門と為し、扁に豫園と曰う、老親を愉悅せしむるの意を取るなり。門を入りて西に行くこと數武なべく、復た門を得て漸佳と曰い、西に二十武なべく、折れて北し、一小坊を豎て、人境壺天と曰う。坊を過ぎて石梁を得、穹窿として水上に跨ぎ、梁竟はれて高墉中に陷り、石に四篆字を刻み、寰中大快と曰う。墉に循うて東西し、堂を得て玉華と曰い、前に奇石に臨みて玲瓏玉と曰う、けだし石品の甲、相傳へて宣和の漏網と為す、因りて以て堂を名づく。堂後の軒一楹、朱檻流に臨み、時に其の下に魚を餌ふ、魚樂と曰う。軒より西して、廊を得ること十余武なべく、折れて北し、亭ありて翼然として、水面を覆うて涵碧と曰い、閣道相屬ぎ、行く者其の水を度るを忘るゝなり。亭より折れて西し、廊三十武なべく、復た門を得て履祥と曰う。巨石夾峙して關の若く、中に廣庭を蔵し、縱數仞、衡は之に倍し、甃くに石を以てして砥の如し。左右に奇石を累ね、隱起して岩巒坡谷の狀を作し、名花珍木、參差として列に在り。前は大池に距ぎ、石闌を以て限り、堂五楹あり、巋然として之に臨む、樂壽堂と曰い、頗る丹雘雕鏤の美を擅にす。堂の左室を充四齋と曰い、余が名若くは號に由りて之を題し、以て弦韋の佩と為す者なり。其の右室を五可齋と曰う、則ち往昔淮漕に待罪せし時、馳驅に苦しみ、書ありて老親に請うて曰く、「不肖自ら惟るに親ありて事ふべく、子ありて教ふべく、田ありて耕すべし、何ぞ戀戀として鸡肋を為さん」と。比るに丁丑の歳首、神人の玉章一方を賜ふを夢み、上に書して「山ありて樵るべく、澤ありて漁すべし」とあり、而して是の月すなはち解官の命あり、故に合せて齋に揭ぐ。嗟嗟!樂壽堂の構へ、本より以て老親を娛し奉らんとす、而して竟に力薄く期を愆り、老親其の成るを一視するに及ばず、實に終天の恨なり。池心に島横峙し、亭ありて鳧佚と曰う。島の陽、峰巒錯疊し、竹樹蔽虧す、則ち南山なり。五可より西して、南面を介閣と為し、東面を醉月樓と為し、其の下の修廊曲折すること百餘武なべし。南より西し、轉じて北し、樓三楹あり、徵陽と曰う。下は書室と為し、左右の圖書以て靜修すべし。前に武康石を累ねて山と為し、峻嶒秀潤、頗る觀賞に愜へり。樓に登りて西に行き、閣道と為り、之を層樓に屬けて純陽と曰う。閣の最上には呂仙を奉る、余が攬揆を以て、偶々仙降に同じ、故に老親命じて徵陽を以て小字と為さしむ。中層は則ち祁陽土神の祠、けだし老親祁州を守りし時、神の二桂を手にし、二童を攜へて至りて曰く、「上帝、大夫の惠澤覃流するを以て、此を以て爾が子と為さん」とを夢む。已にして余が兄弟を誕む。老親かつて余が兄弟に命じて之を祀らしむ、語は祠記の中に具あり。閣より下りて、留春窩と為し、其の南は葡萄架と為す。架に循うて西し、短橋を度り、竹阜を經て、梅百株あり、俯りて以て閣を蔽ふ、玉茵と曰う。玉茵より東は關侯祠と為す。祠を出でて東に行き、高下紆回し、岡と為り、嶺と為り、澗と為り、洞と為り、壑と為り、梁と為り、灘と為り、悉く記すべからず、各々其の趣を極む。山半は山神祠と為り、祠の東に亭ありて北向す、挹秀と曰う。挹秀は群峰の坳に在り、下に大池に臨み、樂壽堂と相望く。山行此に至り、藉りて以て偃息す。亭より東し、大石洞を得、窅窱深靚、幾ど張公・善卷と相衡らんとす。洞より仰ぎ出づれば、大士庵と為り、東偏に禪堂五楹、高僧至止せば、以て錫を頓くべし。庵門を出づれば、奇峰矗立し、登虬の若く、戲馬の若く、雲を閣し月を礙ぐ、けだし南山最高の處なり。下に溪山亭館を視れば、風を御し氣に騎りて塵寰を俯瞰するが若し、眞に異境なり。山徑より東北に下り、留影亭を過ぎ、亂石の間に盤旋す。轉じて北し、堂三楹を得、會景堂と曰い、左は雪窩に通じ、右は水軒に綴ぐ。會景を出で、曲梁を度ること、修さ四十步なべく、梁竟はれば、卽ち向のいはゆる廣庭、而して樂壽以南の勝は此に盡く。樂壽堂の西、祠三楹を構へ、高祖以下の神主を奉り、以て奠享に便ならしむ。堂後に方塘を鑿ち、菡萏を栽へ、垣を以て周らし、垣後に修竹萬挺、竹外に長渠、東西咸く前池に達し、舟繞りて泛ぶべし。樂壽堂の東、別に堂三楹を為し、容與と曰い、琴書鼎彝、其の間に雜陳す。内に樓五楹あり、頤晚樓と曰い、旁ら庖湢咸く備はる、則ち余が栖息の所なり。容與堂の東に室一區を為し、季子雲獻を居らしめ、其の定省に便ならしむ。其の堂を愛日と曰う、養を志すなり。大抵是の園、敢へて自ら輞川・平泉の比と謂はざれども、而して卉石の觀に適い、堂室の體に便り、舟楫の沿泛、亦た以て流景を送り餘年を樂しむに足れり。第に經營すること數稔、家業虚しきを為す、余嗜好癖を成すと雖も、悔ゆる所有ること無し、實に士人の殷鑑と為すべきなり。若し余が子孫、惟れ永く前車の轍を戒め、一土を培ふこと無く、一木を植ゑること無からんば、則ち善し。
『弇州四部稿』
潘氏豫园者,方伯允端所创也,成仅可五年。其东为广场十余亩,中杂积潦,一门翼然傍据之,榜曰豫园。入门折而西南,有坊楔孤耸,榜曰度坊为石桥,过桥稍西曰玉华堂,前列峰石曰五老峰,一峰曰玉玲珑,移自乌泥泾朱尚书园,秀润透漏,天巧宛然,狭于昆山之龙头石,而高过之,皆隋唐时物也,不知何以得免宣和纲。其西十余武,得一门呀然,辟为崇堂五楹,曰乐寿堂,其高造云,朱甍画栋,金碧照耀。左右两楹为方伯书室,尤自胜丽,岿然鲁灵光也。前为广除,临大池,可十亩,左有岑楼,门牡甚严,方伯与其嬖寔居之。右折为楼,楼不甚精好,而中庭一小山,皆叠武康石为之。方伯指示,意沾沾自喜。出循池右方路,不甚饬。已入山,蛇行而上,正枕大池,与乐寿堂对,中亦有峰峦、涧壑、亭馆之属,而不甚奇。竹细而疏,木庸而童,石亦称是。盖方伯志大而力不副,廊庙多而泉石寡,宜其尔也。时月色致佳,而方伯偕伯氏学宪俱不饮,诸从与门下客能饮而非予所荐,促巨觞十余行而别。
潘氏の豫園は、方伯允端の創く所なり、成りて僅かに五年なべし。其の東は廣場十余畝と為り、中に積潦を雑へ、一門翼然として傍らに之に據り、榜に豫園と曰う。門を入りて折れて西南すれば、坊楔ありて孤聳し、榜に度坊して石橋と為ると曰う。橋を過ぎて稍々西を玉華堂と曰い、前に峰石を列ねて五老峰と曰い、一峰を玉玲瓏と曰う、烏泥涇朱尚書の園より移せしもの、秀潤透漏、天巧宛然として、昆山の龍頭石より狹くして高さは之に過ぎたり、皆隋唐の時の物なり、何を以てか宣和の綱を免れ得たるかを知らず。其の西十余武、一門を得て呀然として、闢きて崇堂五楹と為す、樂壽堂と曰い、其の高さ雲に造り、朱甍畫棟、金碧照耀す。左右の兩楹を方伯の書室と為し、尤も自ら勝麗、巋然として魯の靈光なり。前は廣除と為り、大池に臨み、十畝なべく、左に岑樓あり、門牡甚だ嚴なり、方伯其の嬖寔と之に居る。右に折れて樓と為り、樓は甚だ精好ならず、而して中庭の一小山、皆武康石を疊みて之を為す。方伯指示し、意は沾沾として自ら喜ぶ。出でて池の右方の路に循ふ、甚だ飭ならず。已にして山に入り、蛇行して上れば、正に大池を枕とし、樂壽堂と對し、中にも峰巒・澗壑・亭館の屬あり、而して甚だ奇ならず。竹細くして疏に、木庸にして童なり、石もまた是に稱す。けだし方伯は志大きくして力副はず、廊廟多くして泉石寡し、其の爾なる宜しきなり。時に月色致佳なりしも、而して方伯は伯氏學憲と偕にして俱に飲まず、諸從と門下客とは飲む能へども予の薦むる所に非ず、巨觴十餘行を促して別る。
『松江府志(重修松江府志)』
豫园在上海城内。潘方伯允端奉父恭定公之所,有奇石曰玉玲珑,因颜其堂曰玉华。王世贞谓其秀润透漏,天巧,宛然为隋唐时物。西辟乐寿堂,其高造云,朱甍画栋。金碧照耀,又有涵碧阁、留春窝、玉茵阁、颐晚楼、会景堂,无不擅丹雘之美。
豫園は上海城内に在り。潘方伯允端が父恭定公を奉ずるの所、奇石ありて玉玲瓏と曰い、因りて其の堂に顏して玉華と曰う。王世貞其の秀潤透漏、天巧にして、宛然として隋唐の時の物と為すと謂ふ。西に樂壽堂を闢き、其の高さ雲に造り、朱甍畫棟、金碧照耀す。又涵碧閣・留春窩・玉茵閣・頤晚樓・會景堂あり、丹雘の美を擅にせざるは無し。
『履園叢話』
豫园在上海城内,明潘恭定公恩之子方伯允端所筑。方伯自有记。其地甚宽广。园中有乐寿堂,董思翁为作乐寿堂歌,书于屏障,字径三四寸许,其墨迹至今存焉。余于张芥航先生案头见之。堂前为千人坐,有池台之胜。池边有湖石,甚奇峭,名五老峰,有玉玲珑、飞骏、玉华之名,相传为宣和遗物也。今造城隍庙于其中,为市估所估,作会集公所。游人杂遝,妇女如云,医卜星相之流,亦无不毕集,虽东京大相国寺不能过之。
豫園は上海城内に在り、明の潘恭定公恩の子方伯允端の築く所。方伯自ら記あり。其の地甚だ寬廣なり。園中に樂壽堂あり、董思翁が為に樂壽堂歌を作り、屏障に書す、字の徑三四寸許り、其の墨蹟今に至るまで存す。余、張芥航先生の案頭に於いて之を見たり。堂前は千人坐と為り、池臺の勝あり。池邊に湖石あり、甚だ奇峭、名づけて五老峰、玉玲瓏・飛駿・玉華の名あり、相傳へて宣和の遺物と為すなり。今其の中に城隍廟を造り、市估の估する所と為り、會集公所を作る。游人雜遝し、婦女雲の如く、醫卜星相の流、また畢集せざる無し、東京大相國寺と雖も之に過ぐる能はず。
『淞南楽府』
淞南好,兴废劫灰红。神庙重新花娅姹,豫园依旧玉玲珑。杯酒酹潘公。
淞南好し、興廢劫灰紅なり。神廟重ねて新たにして花婭姹たり、豫園依舊として玉玲瓏たり。杯酒潘公に酹す。
『上海郷土志』
豫园在新北门内,向为潘氏之园,构以娱亲,即今邑庙是也。亭台池石,备极壮丽,为一邑园林之冠。内有点春、萃秀两堂,景象清幽,更有九曲桥、湖心亭诸胜地,均为著名之处。其间茶肆酒楼,行人如织,每逢佳节,益见繁盛云。
豫園は新北門内に在り、向に潘氏の園と為り、構へて以て親を娛ましむ、卽ち今の邑廟これなり。亭臺池石、備へて壯麗を極め、一邑園林の冠と為す。内に點春・萃秀の兩堂あり、景象清幽、更に九曲橋・湖心亭の諸勝地あり、均しく著名の處と為る。其の間の茶肆酒樓、行人織るが如く、佳節に逢ふごとに、益々繁盛を見ると云ふ。
『上海県続志』
香雪堂在邑庙豫园,为沪帮鲜肉业公所。堂本玉华堂旧址,以庭前有玉华三峰并峙故名。乾隆三十六年改建,并建霏玉轩。道光元年,于其东设游廊,南驾石梁,北设平桥。十年,建鹤寿堂。二十六年,设小舫于霏玉轩后。咸丰三年,悉毁于寇,惟鹤寿仅存。九年重建。十年,驻西兵又遭毁损。同治四年,重行修建,更霏玉轩曰四美轩,池之湮没者浚之。七年,由县给谕承粮。宣统三年,改建鹤寿堂曰赏乐楼。附设香雪义务初等小学校,沪、苏两帮联合捐资创办。又殡舍在二十五保九图,光绪十一年建。又公共宰作,在薛家滨口,沪、苏、宁三帮公建。
香雪堂は邑廟豫園に在り、滬幫鮮肉業公所と為す。堂はもと玉華堂の舊址、庭前に玉華三峰竝峙するを以て故に名づく。乾隆三十六年改建し、竝せて霏玉軒を建つ。道光元年、其の東に游廊を設け、南に石梁を駕し、北に平橋を設く。十年、鶴壽堂を建つ。二十六年、霏玉軒の後に小舫を設く。咸豐三年、悉く寇に毀られ、惟れ鶴壽のみ僅かに存す。九年重建す。十年、西兵駐りて又毀損を遭ふ。同治四年、重ねて修建し、霏玉軒を更めて四美軒と曰い、池の湮没する者を浚ふ。七年、縣より諭を給して糧を承く。宣統三年、鶴壽堂を改建して賞樂樓と曰う。香雪義務初等小學校を附設し、滬・蘇兩幫聯合して資を捐して創辦す。また殯舍は二十五保九圖に在り、光緒十一年建つ。また公共宰作、薛家濱口に在り、滬・蘇・寧三幫の公建なり。
飞丹阁在邑庙豫园,为京货帽业公所,乾隆年设。咸丰十年,驻西兵毁。同治七年管业承粮。九年重建厅楼、水阁。光绪二十年,重建前阁。
飛丹閣は邑廟豫園に在り、京貨帽業公所と為す、乾隆年設く。咸豐十年、西兵駐りて毀る。同治七年業を管め糧を承く。九年廳樓・水閣を重建す。光緒二十年、前閣を重建す。
点春堂在豫园东北隅。道光初年,福建汀、泉、漳三府业花糖。洋货各商公立,为祀神会议之所。咸丰三年,寇占被毁。十年,借驻西兵,改造洋房,风景荡然。事平,群谋规复。董事苏升倡募捐款,集资万五干金,贴偿兵房价值,收回旧址,重图建筑。同治七年经始,越四载告竣。疏泉为池,叠石成山,其间楼台亭阁,绕以回廊,颇饶幽趣。光绪七年,复筑和煦堂,益形完美。公所事轮举司年经理。
點春堂は豫園の東北隅に在り。道光初年、福建汀・泉・漳三府、花糖・洋貨を業とする各商公立し、神を祀り會議するの所と為す。咸豐三年、寇占め毀られを被る。十年、西兵を借り駐せしめ、洋房に改造し、風景蕩然たり。事平らぎ、群み規復を謀る。董事蘇升捐款の募集を倡め、資を集むること萬五千金、兵房の價値を貼償し、舊址を收回し、重ねて建築を圖る。同治七年經始し、四載を越えて竣を告ぐ。泉を疏きて池と為し、石を疊みて山を成し、其の間樓臺亭閣、回廊を以て繞らし、頗る幽趣を饒くす。光緒七年、復た和煦堂を築き、益々完美を形づく。公所の事は司年を輪擧して經理す。
萃秀堂在邑庙豫园,为油豆饼业公所,即前志所称以萃秀堂为东园者是。道光间承修作公所。咸丰三年,匪乱遭损。十年,驻西兵后,残毁尤甚。同治七年,承粮管业,复大加修葺。当时禀县给谕勒石,以萃秀为二十一业之领袖。萃秀堂外有厅事四,曰三穗堂、仰山堂、格思堂、神尺堂,亭榭池沼,回廊曲折,均极园林之胜。而大假山层峦叠嶂,尤为邑中独有之境。历年修费不资。公所向由司月轮管,近举董事一人,会同司月六家办事。光绪三十二年,与米业合组之豆米业小学校,分设于此。又采菽堂,在豆市街万瑞衖,为同业与号商论市交易之所。从前租用市房,光绪七年购屋改建对照厅六间。
萃秀堂は邑廟豫園に在り、油豆餅業公所と為す、卽ち前志の萃秀堂を以て東園と為すと稱する者是なり。道光の間修を承けて公所を作る。咸豐三年、匪亂損を遭ふ。十年、西兵駐りし後、殘毀尤も甚し。同治七年、糧を承け業を管め、復た大いに修葺を加ふ。當時縣に稟して諭を給して石を勒し、萃秀を以て二十一業の領袖と為す。萃秀堂の外に廳事四あり、三穗堂・仰山堂・格思堂・神尺堂と曰い、亭榭池沼、回廊曲折し、均しく園林の勝を極む。而大假山の層巒疊嶂、尤も邑中獨有の境と為る。歷年修費資なからず。公所向に司月より輪管し、近く董事一人を擧げ、司月六家と會同して事を辦す。光緒三十二年、米業と合組するの豆米業小學校、分かちて此に設く。又采菽堂、豆市街萬瑞衖に在り、同業と號商と市を論じ交易するの所と為す。從前市房を租用し、光緒七年屋を購ひて對照廳六間に改建す。
得月楼在邑庙豫园,为布业公所。道光三十年,承办供布创始设立。咸丰三年寇毁,僦居于外。八九年建前楼。十年,园驻西兵,又遭毁损。同治七年,承粮执业,十二年迁回。其时供布已归官办。光绪九年,磊石北浒筑环垣,十七年重行建筑,阅三载落成。上为得月楼,下为绮藻堂,中奉城隍神。庭列峰石五,植槐二。西南隅有亭曰跋织,东廊额曰月府。后有楼三楹,斋厨一,曰还缘居,供业董栗主公所事,举司董经理,银钱归司月掌管云。
得月樓は邑廟豫園に在り、布業公所と為す。道光三十年、供布承辦の創始設立せり。咸豐三年寇に毀られ、外に僦居す。八・九年前樓を建つ。十年、園に西兵駐り、又毀損を遭ふ。同治七年、糧を承け業を執り、十二年遷り回る。其の時供布已に官辦に歸す。光緒九年、石を磊きて北滸に環垣を築き、十七年重ねて建築し、三載を閱して落成す。上は得月樓と為し、下は綺藻堂と為し、中に城隍神を奉る。庭に峰石五を列ね、槐二を植ふ。西南隅に亭ありて跋織と曰い、東廊の額に月府と曰う。後に樓三楹、齋廚一あり、還緣居と曰い、業董の栗主を供し公所の事、司董を擧げて經理し、銀錢は司月の掌管に歸すと云ふ。
清芬堂在邑庙豫园,为旧花业公所。同治七年给谕承粮。宣统二年重修。
清芬堂は邑廟豫園に在り、舊花業公所と為す。同治七年諭を給して糧を承く。宣統二年重修す。
古写真
1902年
アメリカ議会図書館所蔵の立体写真『上海柳紋茶楼』は、曲橋の正面から湖心亭とその周囲の水面・廊屋・游人を写したものである。館蔵記録はカードの原題に拠って定名され、著録年代は1902年とされる。
1913—1915年
アメリカの地質学者フレデリック・クラップは1913年から1915年にかけて上海の旧城を撮影した。アメリカ地理学協会図書館所蔵のクラップ硝酸原板コレクションには、修理中の湖心亭、豫園の園景、豫園の竜墻および湖心亭の附近より見えたる九曲橋と旧城の市廛が連続して保存され、当時の假山・墻垣・屋根および園外の水岸空間が伝えられている。