HERITAGE RECORD

須弥福寿之廟

乾隆四十五年、乾隆はタシルンポ寺に倣って須弥福寿之廟を建て、後蔵から遥か遠く旅して来た六世班禅を迎えた。班禅が熱河に住んだのは約二か月にすぎなかったが、山門・碑亭・大紅台・金頂の殿楼と寝室は、この朝覲のために一座の完全な住寺を構成した。嘉慶年間には、吉祥法喜楼院の渗漏した囲房と殿前の台頂が相次いで查勘・修補され、1930年代の古写真はまた、紅台・金頂・瑠璃塔が連なり接する姿を残している。

時代
清朝
地域
河北
LOCATION
河北省承徳市双橋区
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須弥福寿之廟 - xumifushouzhimiao old 01 overview
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はじめに

乾隆四十三年(1778)、六世班禅(パンチェン)は内地への入朝を請い、翌年六月に後蔵のタシルンポ寺を出発し、西寧・帰化城・多倫諾爾を経て、乾隆四十五年七月にようやく熱河に着いた。乾隆はすでに普陀宗乗之廟の左の岡に新廟を建て、「札什倫布」を「須弥福寿」と訳し、後蔵におけるその住寺に倣って班禅と随行の徒衆を住まわせた。

この廟は班禅のために建てられたが、内部には乾隆が使用する御座楼もあった。山門から北へ、碑亭と宝坊が三層の都綱殿楼「妙高荘厳」へと導き、御座楼は殿の東にあり、さらに奥には二層の仏楼と「吉祥法喜」殿があった。都綱と寝室は後蔵の様式で造られ、山門・殿楼・御座楼・仏楼は南北に沿って層をなして並んだ。班禅の住まいと乾隆が来寺した際に使う空間は、こうして同じ一組の建築の中に収められた。

七月、班禅は命を奉じて入寺し、九月に熱河を離れて京へ赴き、十一月に痘症(天然痘)で北京で亡くなった。彼を迎えるために建てられたこの寺院が、実際に班禅を迎えたのは約二か月にすぎなかった。翌年春、六世班禅の重要な弟子の羅卜蔵敦珠布(ロブサン・ドンドゥプ)ら二十人が寺に残り、百八十名の内地のラマに後蔵の経律を伝授し、須弥福寿之廟はこれによって後蔵の経律を伝授する場となった。嘉慶十九年、吉祥法喜楼院の十七間の囲房が渗漏のため查勘を受け、損壊が比較的軽かったため一旦は見送られた。その後実際に修理されたのは、楼の前に張り出した三間の抱厦の台頂で、寺墻は別に二丈三尺が修砌された。1934—1935年、ヘッダ・モリソンは二度にわたり熱河を訪れ、二回目には建築撮影により適した大判カメラに替えて補撮した。彼女が残した遠景・内院の屋脊・金頂の写真は、同時期に刊載された全景とともに、大紅台・妙高荘厳殿・瑠璃塔が前後に連なり接する姿を保存している。

歴史文献

『欽定熱河志』

须弥福寿庙 岁在庚子,恭逢

須弥福寿廟 歳は庚子に在り、恭しく

皇上七旬万寿,时则班禅额尔德呢祝

皇上の七旬万寿に逢い、時に班禅額爾徳呢は釐(さいわい)を

厘来自后藏,

祝して後蔵より来たる。

上嘉其远至,于山庄建札什伦布庙居之。唐古特语“札什为福寿,伦布谓须弥山也。庙门南向,恭刻

上はその遠くよりの至りを嘉し、山荘に札什倫布廟を建ててこれを居(お)かしむ。唐古特(チベット)語に「札什は福寿を為し、倫布は須弥山を謂うなり」。廟門は南に向かい、恭しく刻む、

御书额曰“须弥福寿之庙”。庙额多具四体书,东西二山门有题额,一曰梵香遍满,一曰法界圆成。碑亭一,额曰智光普照,宝坊一,额曰总持佛境。都纲殿楼三重,额曰妙高庄严,殿内面南,额曰宝地祥轮。联曰:开大般若台,朗照宗镜;具妙庄严相,深护法云。又曰:证三摩菩提,圆装七宝;超六波罗密,座涌千花。又曰:圆镜照三千,是空是色,妙香闻二六,即佛即心。又曰:妙曼拥珠城,庄严具足,芬陀承宝盖,福慧圆成。面北额曰福缘恒演,联曰:现象香国身,增五福德,说最上乘法,证八吉祥。又曰:仙露净尘根,花垂薝卜,香风翔法界,乐送迦陵。又曰:证最胜因,光华开七宝,溥无量寿,安乐演三乘。东为

御書の額に「須弥福寿之廟」と曰う、と。廟額は多く四体の書を具え、東西二つの山門に題額あり、一つは「梵香遍満」と曰い、一つは「法界円成」と曰う。碑亭一つ、額に「智光普照」と曰い、宝坊一つ、額に「総持仏境」と曰う。都綱の殿楼は三重、額に「妙高荘厳」と曰い、殿内の面南には額に「宝地祥輪」と曰う。聯に曰く、大いに般若の台を開き、朗らかに宗鏡を照らし、妙なる荘厳の相を具えて、深く法雲を護る、と。又曰く、三摩菩提を証し、円(まど)かに七宝を装い、六波羅密を超えて、座に千花を涌(わ)かす、と。又曰く、円鏡は三千を照らす、是れ空是れ色、妙香は二六(十二時)に聞こゆ、即ち仏即ち心、と。又曰く、妙曼(文殊)は珠城を擁して荘厳具足し、芬陀(白蓮華)は宝蓋を承けて福慧円成す、と。面北の額に「福縁恒演」と曰い、聯に曰く、香国の身を現じて五福の徳を増し、最上乘の法を説いて八吉祥を証す、と。又曰く、仙露は塵根を浄め、花は薝卜(クチナシ)を垂れ、香風は法界に翔け、楽は迦陵(迦陵頻伽)を送る、と。又曰く、最勝の因を証して光華は七宝を開き、溥(あまね)く無量寿、安楽に三乗を演ず、と。東は

御座楼,联曰:“风铃常转莲花藏,贝叶闲披金字经。”更内佛楼二重,额曰生欢喜心,联曰:龙象庄严,妙不可思议,人天欢喜,普如是吉祥。又曰:见性悟真源,参圣如意,定心观妙谛,示佛因缘。殿上层额曰吉祥法喜,殿内联曰:宝阁护香云,静资礼梵,灵峰呈寿相,妙悦安禅。下层额曰芬陀普涌,殿内联曰:初地总持超梵乘,恒沙普演护祥轮。又

御座楼と為り、聯に曰く、「風鈴は常に転ずる蓮花蔵、貝葉は閑かに披く金字の経」と。更に内に仏楼二重、額に「生歓喜心」と曰い、聯に曰く、龍象は荘厳にして妙に思議すべからず、人天は歓喜して普くかくのごとく吉祥なり、と。又曰く、性を見て真源を悟り、聖に参じて如意なり、心を定めて妙諦を観じ、仏の因縁を示す、と。殿の上層の額に「吉祥法喜」と曰い、殿内の聯に曰く、宝閣は香雲を護りて静かに礼梵を資(たす)け、霊峰は寿相を呈して妙悦安禅す、と。下層の額に「芬陀普涌」と曰い、殿内の聯に曰く、初地の総持は梵乗を超え、恒沙は普く演じて祥輪を護る、と。又、

御座楼南北殿各二重,北殿悬“南无阿弥陀佛”额,联曰:到来佛相原如是,静处尘心那更生。又曰:功德无边复无量,因缘非色亦非空。南殿东楹联曰:现法化报身,共依圆觉;摄闻思修教,遍示妙明。西楹联曰:象法涌祥轮,西方震旦;智光腾宝炬,海藏天宫。客堂额曰:万法宗源。联曰:便有香风吹左右,似闻了义示缘因。仰惟

御座楼の南北の殿は各二重、北殿には「南無阿弥陀仏」の額を懸け、聯に曰く、到来すれば仏相はもとよりかくのごとく、静かなる処に塵心はなんぞ復た生ぜん、と。又曰く、功徳は辺(べ)なく復た量なく、因縁は色にあらずまた空にあらず、と。南殿の東楹の聯に曰く、法化報身を現じて共に円覚に依り、聞思修の教を摂して遍く妙明を示す、と。西楹の聯に曰く、象法は祥輪を涌かし、西方にして震旦(中国)、智光は宝炬を騰(あ)げ、海蔵の天宮なり、と。客堂の額に「万法宗源」と曰い、聯に曰く、すなわち香風の左右に吹くあり、了義が縁因を示すを聞くに似たり、と。仰ぎ惟(おも)うに、

寿宇宏开,

寿宇は宏く開け、

皇风普鬯,西方妙法,同我太平。伏诵

皇風は普く鬯(の)び、西方の妙法、わが太平と同じ。伏して誦す、

御制记文,仰见我

御製の記文に、仰ぎ見る、わが

朝声教恢纮,卓越千古,非独耆崛阇山阿耨达水,颂无量功德已也。

朝の声教の恢纮(おおきくひろが)り、千古に卓越し、ただ耆崛闍山・阿耨達水の無量の功徳を頌するのみにあらざるなり。

『[乾隆]欽定熱河志』巻八十「須弥福寿廟」、清 和珅等奉敕纂修

先是,四十三年,章嘉胡图克图奏称:后藏大喇嘛班禅额尔德呢久欲瞻仰天颜,因庚子岁恭遇皇上七旬万寿,敬拟入觐祝厘,得旨俞允,命驻藏大臣传旨宣谕。”

これに先立ち、四十三年、章嘉胡図克図(ジャンジャ・クトゥクトゥ)が奏していわく、後蔵の大喇嘛の班禅額爾徳呢は久しく天顔を瞻仰せんと欲し、庚子の歳に恭しく皇上の七旬万寿に遇うに因り、敬んで觐(みえ)に入り釐を祝せんと擬す、と。旨を得て俞允(許可)せられ、駐蔵大臣に旨を伝え宣諭せしめらる。

四十四年,经驻藏大臣留保住等奏称:“班禅额尔德呢接奉俞旨,不胜感悦,即于本年六月由扎什伦布起程,谢恩进佛等语。旋命留保住护送遄行,至西宁衮布庙,命西安将军伍弥泰协同经理,又命理藩院侍郎保泰、散秩大臣万福等往迎,赐东珠、朝珠、鞍马、银币等件。

四十四年、駐蔵大臣の留保住等を経て奏していわく、「班禅額爾徳呢は俞旨を接奉し、感悦に堪えず、すなわち本年六月に札什倫布より起程し、恩に謝して仏を進す」等の語、と。ほどなく留保住に命じて護送し遄(と)からせ、西寧の袞布廟に至り、西安将軍の伍弥泰に命じて協同して経理せしめ、また理藩院侍郎の保泰・散秩大臣の万福等に命じて往き迎えさせ、東珠・朝珠・鞍馬・銀幣等の件を賜う。

四十五年三月,命乾清门侍卫乌尔图那逊、銮仪卫大臣达福等至归化城,以上用车舆仪仗赐之。至岱罕庙,命皇六子及章嘉胡图克图、尚书永贵等往迎,赐嵌帽袈裟、朝珠等件。至多伦诺尔,命御前侍卫丰绅济伦往,赐敕书及嵌珠帽金丝袈裟等件。至是抵热河。

四十五年三月、乾清門侍衛の烏爾図那遜・鑾儀衛大臣の達福等に命じて帰化城に至らせ、上用の車輿・儀仗をこれに賜う。岱罕廟に至り、皇六子および章嘉胡図克図・尚書の永貴等に命じて往き迎えさせ、嵌帽の袈裟・朝珠等の件を賜う。多倫諾爾に至り、御前侍衛の豊紳済倫に命じて往かせ、敕書および嵌珠帽・金糸袈裟等の件を賜う。ここに至りて熱河に抵(たど)り着く。

七月丁酉,于澹泊敬诚殿跪请圣安,赐金银曼达各一,及金壶香炉等件。上御依清旷殿,赐坐,赐茶果筵宴,命至须弥福寿之庙居住。

七月丁酉、澹泊敬誠殿に於て跪いて聖安を請い、金銀の曼達(マンダラ)各一、および金壺・香爐等の件を賜う。上は依清旷殿に御し、坐を賜い、茶果の筵宴を賜い、須弥福寿之廟に至りて居住するを命ず。

庚子,上御万树园,赐宴,赐嵌正珠祖衣一分及金银器皿。辛丑,复赐茶果。八月己酉、戊午,亦如之。庚申,上御万树园,赐观火戏,壬戍亦如之。乙丑,赐宴,赐冠服。九月丁丑,命护送至京,住西黄寺。

庚子、上は万樹園に御し、宴を賜い、正珠を嵌(は)めた祖衣一分および金銀器皿を賜う。辛丑、復た茶果を賜う。八月己酉・戊午もまたこれがごとし。庚申、上は万樹園に御し、火戯(花火)の観を賜う。壬戍もまたこれがごとし。乙丑、宴を賜い、冠服を賜う。九月丁丑、護送して京に至らしめ、西黄寺に住するを命ず。

谨按:黄教以宗喀巴为祖,其二大弟子,一曰根敦珠巴,八转世而为今达赖喇嘛,一曰凯珠布格埒克巴勒藏,六转世而为今班禅额尔德呢。世祖章皇帝时,达赖喇嘛来朝京师,建北黄寺以居之,越今百有余年,额尔德呢仰慕圣化,思觐天颜,因庚子岁,皇上七旬万寿,自后藏扎什伦布起程,跋涉二万里,虔申庆祝,出于至诚,实为国家吉祥盛事。上特命皇子大臣往迎,赐敕褒美,锡予优渥。而蒙古王公、台吉及喀尔喀卫拉特等,一闻其来,无不观欣舞蹈,执役恐后。至是展觐山庄宴赉有加命住须弥福寿之庙,肖其所居,以安徒众。嗣于上回銮前,先期进京,居西黄寺。臣等恭绎御制碑记,所谓“上以扬历代致治保邦之谟烈,下以答列藩倾心向化之悃忱”,仰见重熙累洽,中外一家,实为亿万年无疆之庆矣。

謹んで案ずるに、黄教は宗喀巴(ツォンカパ)をもって祖と為し、その二大弟子は、一つは根敦珠巴と曰い、八転世して今の達頼喇嘛と為り、一つは凱珠布格埒克巴勒蔵と曰い、六転世して今の班禅額爾徳呢と為る。世祖章皇帝の時、達頼喇嘛は京师に来朝し、北黄寺を建ててこれを居(お)かしめ、今を越えること百有余年、額爾徳呢は聖化を仰慕し、天顔に觐(まみ)えんことを思い、庚子の歳・皇上の七旬万寿に因り、後蔵の札什倫布より起程し、二万里を跋涉し、虔(つつし)みて慶祝を申す。その至誠より出で、実に国家の吉祥の盛事なり。上は特に皇子・大臣に命じて往き迎えさせ、敕を賜りて褒美し、錫予は優渥なり。しかして蒙古の王公・台吉および喀爾喀・衛拉特等は、その来るを一聞するや、観欣舞蹈せざるはなく、役を執るに後れんことを恐れたり。ここに至り山荘に展觐し、宴賚は加わることあり、命じて須弥福寿之廟に住せしめ、その居る所を肖(あやか)らせ、もって徒衆を安んず。嗣いで上の回鑾に先立ち、期に先んじて京に進み、西黄寺に居す。臣等は恭しく御製碑記を繹(ひ)き、謂うところの「上はもって歴代の治を致し邦を保つの謨烈を揚げ、下はもって列藩の心を傾けて化に向かうの悃忱に答う」、仰ぎ見るに重熙累洽(重ねて明るく累ねて洽く)、中外一家、実に億万年の无疆の慶なり。

『[乾隆]欽定熱河志』巻二十四「于万樹園宴班禅額爾徳呢成什即事」原注及び謹按、清 高宗弘暦撰、和珅等奉敕纂修

华言福寿等须弥,〈唐古特语伦布者,须弥山;札什者,福寿也。〉 建以班禅来祝厘。〈今年班禅额尔德尼来热河,为余祝七旬万寿,因仿后藏班禅所居庙式,特建此寺。〉 旧例已遥遵顺治,〈谓北黄寺,因五辈达赖喇嘛于顺治年间来京,特敕建寺居之。〉 新工犹近比康熙。〈去声。溥仁寺康熙五十二年建,为热河最古寺。〉 层楼初耸辉佛日,万树分栽蔚慧枝。 一语欲询驻锡者,有无法也抑无为。

華言(漢語)にて福寿は須弥に等し、〈唐古特語に倫布とは須弥山、札什とは福寿なり。〉建つるは班禅の来りて釐を祝するをもってなり。〈今年、班禅額爾徳尼は熱河に来り、余のために七旬万寿を祝す。よって後蔵の班禅の居る廟の式に倣い、特にこの寺を建てた。〉旧例は已に遥かに順治に遵(したが)う、〈北黄寺を謂う。五輩の達頼喇嘛が順治年間に京に来たのに因り、特に敕して寺を建てこれを居せしめた。〉新工はなお近く康熙に比す。〈去声。溥仁寺は康熙五十二年に建てられ、熱河最古の寺と為る。〉層楼は初めて聳えて仏日に輝き、万樹は分栽して慧枝を蔚(おお)う。一語、駐錫する者に問わんと欲す、法あるや無きや、抑(そ)もまた為あるや無きや。

『[乾隆]欽定熱河志』巻八十「札什倫布廟落成紀事」、清 高宗弘暦撰

「須弥福寿之廟碑記」

黄教之兴,以宗喀巴为鼻祖,有二大弟子:一曰根敦珠巴,八转世而为今达赖喇嘛;一曰凯珠布格埒克巴勒藏,六转世而为今班禅额尔德呢喇嘛。是二喇嘛盖递相为师,以阐宗风而兴梵教,则今之班禅额尔德呢喇嘛,实达赖喇嘛之师也。达赖喇嘛居布达拉,译华言为普陀宗乘之庙;班禅额尔德呢居扎什伦布,译华言为须弥福寿之庙,是前卫后藏所由分也。辛卯年,曾建普陀宗乘之庙于避暑山庄之北山,以祝厘也,亦以土尔扈特归顺也。今之建须弥福寿之庙于普陀宗乘之左冈者,则以班禅额尔德呢欲来觐,而肖其所居,以资安禅,且遵我世祖章皇帝建北黄寺于京师,以居第五达赖喇嘛之例也。然昔达赖喇嘛之来,实以敦请。兹班禅额尔德呢之来觐,则不因招致,而出于喇嘛之自愿来京,以观华夏之振兴黄教,抚育群生,海宇清晏,民物敉宁之景象,适值朕七旬初度之年,并为庆祝之举也。

黄教の興りは、宗喀巴(ツォンカパ)を鼻祖とし、二大弟子あり。一つは根敦珠巴と曰い、八転世して今の達頼喇嘛と為り、一つは凱珠布格埒克巴勒蔵と曰い、六転世して今の班禅額爾徳呢喇嘛と為る。この二喇嘛は、そもそも互いに師と相なり、もって宗風を闡(ひら)きて梵教を興す。しかれば今の班禅額爾徳呢喇嘛は、実に達頼喇嘛の師なり。達頼喇嘛は布達拉(ポータラ)に居り、華言に訳して普陀宗乗之廟と為す。班禅額爾徳呢は札什倫布に居り、華言に訳して須弥福寿之廟と為す。これ前衛・後蔵の分かれる所以なり。辛卯の年、かつて普陀宗乗之廟を避暑山荘の北山に建てたるは、釐を祝するをもってし、また土爾扈特(トルグート)の帰順をもってするなり。今、須弥福寿之廟を普陀宗乗の左の岡に建つるは、すなわち班禅額爾徳呢が觐に来たらんと欲するをもってし、その居る所に肖(に)せ、もって安禅に資(たす)け、かつわが世祖章皇帝が北黄寺を京师に建てて第五世の達頼喇嘛を居せしめたる例に遵うなり。しかるに昔の達頼喇嘛の来は、実に敦(あつ)く請うをもってした。ここに班禅額爾徳呢の来觐は、招致に因らず、喇嘛の自ら願いて京に来り、華夏の黄教を振興し、群生を撫育し、海宇清晏にして民物敉寧の景象を観るに出で、ちょうど朕の七旬初度の年に値い、併せて慶祝の挙と為すなり。

夫朕七旬不欲为庆贺繁文,已预颁谕旨,而兹喇嘛之来,则有不宜阻者。盖国家百余年,升平累洽,中外一家,自昔达赖喇嘛之来,至今亦百余年矣。且昔为开创之初,如喀尔喀、厄鲁特尚有梗化者;今则重熙休和,喀尔喀久为世臣,厄鲁特亦无不归顺,而一闻班禅额尔德呢之来,其欢欣舞蹈,欲执役供奉,出于至诚,有不待教而然者。则此须弥福寿之庙之建,上以扬历代致治保邦之谟烈,下以答列藩倾心向化之悃忱,庸可已乎?既为记,复作赞言。

それ朕は七旬にして慶賀の繁文を為さんと欲せず、已に予め諭旨を頒(わか)ちたり。しかしてここに喇嘛の来は、則ち阻むべからざる者あり。そもそも国家百余年、升平累洽(平和が重ねて洽く)し、中外一家なり。昔の達頼喇嘛の来より今に至るも、また百余年なり。かつ昔は開創の初めにして、喀爾喀・厄魯特のごときなお化に梗(さえぎ)る者あり。今は則ち重熙休和(重ねて明るく美しく和ぎ)、喀爾喀は久しく世臣と為り、厄魯特もまた帰順せざるなく、しかして班禅額爾徳呢の来るを一聞するや、その歓欣舞蹈して役を執り供奉せんと欲するや、至誠より出で、教えを待たずして然る者あり。しかればこの須弥福寿之廟の建は、上はもって歴代の治を致し邦を保つの謨烈を揚げ、下はもって列藩の心を傾けて化に向かうの悃忱に答う。いざ已(や)むべけんや。既に記を為し、復た賛言を作る。

印度既迥遥,佛教亦式微。梵僧舍天竺,多临卫藏地。自唐代已然,是为法源处。一译犹云近,三乘无舛讹。

印度は既に迥遥(はるか)にして、仏教もまた式微(すいび)せり。梵僧は天竺を舍て、多く衛蔵の地に臨む。唐代より已に然り、これ法源の処と為る。一たび訳してなお近しと云い、三乗に舛訛(せんか)なし。

宗乘向东昌,诚如佛所记。

宗乗は東に向かいて昌(さか)え、まことに仏の記ししがごとし。

卫藏虽徼外,实在震旦中。达赖及班禅,宗喀巴高弟,前后燃智灯。三车之纲领,真文与满字。于是溯轨躅。

衛蔵は徼外(けいがい・辺境)と雖も、実に震旦(中国)の中に在り。達頼および班禅は、宗喀巴の高弟にして、前後して智灯を燃(とも)す。三車の綱領、真文と満字(梵字)。ここにおいてその軌躅(きちょく・足跡)を溯(さかのぼ)る。

蒙古众林林,莫不倾心向。皈依三宝门,神道易设教。兹闻班禅来,如婴儿遇母。观化阐宗风,诚为吉祥事。

蒙古の衆は林林(群がるさま)として、心を傾けて向かわざるは莫(な)し。三宝の門に帰依し、神道は教を設くるに易し。ここに班禅の来るを聞くや、嬰児の母に遇うがごとし。化を観て宗風を闡く、まことに吉祥の事なり。

布达拉既建,伦布不可少,择向兴工作,亦以不日成。都纲及寝室,一如后藏式。

布達拉は既に建ち、倫布は少かるべからず。向きを択びて工作を興し、また日ならずして成るをもってす。都綱および寝室、一たび皆後蔵の式のごとし。

金瓦映日辉,玉幢扬风舞。自成动静偈,朗标色空喻。以是善因缘,资无碍法喜。祝嘏犹其小,所欣象教宏。

金瓦は日の輝きを映え、玉幢は風に揚げて舞う。自ら動静の偈を成し、朗らかに色空の喩を標す。これをもって善因縁と為し、礙(さえ)なき法喜を資(たす)く。嘏(さいわい)を祝するはなおその小なり、欣(よろこ)ぶ所は象教(仏教)の宏(ひろ)まるなり。

举似西域居,无来亦无去。上人演法轮,蠢蠢普超度。佐我无为治,雨顺与风调。

挙げて西域の居に似たり、来るもなく去るもなし。上人は法輪を演じ、蠢蠢(うごめく群生)を普く超度す。わが無為の治を佐(たす)け、雨順い風調(よろ)う。

众生登寿世,慧炬永光明。

衆生は寿世に登り、慧炬は永く光明なり。

合十作赞言,初非为一己。

合十して賛言を作る、もとより一己の為にあらず。

如悬大圆镜,遍照于十方。而镜本无心,回向亦如是。

大円鏡を懸けたるがごとく、遍く十方を照らす。しかして鏡はもとより心無く、回向(えこう)もまたかくのごとし。

『御製文集』「須弥福寿之廟碑記」、清 高宗弘暦撰

『嵩年奏檔』

白括拏嵩年俊山跪

嵩年・俊山、跪(ひざまず)いて奏す。

奏为奏闻销算工料银两事

奏聞するは、工料銀両を銷算(決算)するの事。

恭查嘉庆十九年分经努等查明热河园庭外庙内有殿宇楼座渗漏残坏情形较重及迎水霸坍塌闪裂石堤𫝑须于春令急行修理者共五项敬缮清单于正月二十六日具奏

恭んで査するに、嘉慶十九年の分、努等が査明したるに、熱河の園庭・外廟の内に、殿宇・楼座の渗漏・残壊の情形の比較的重いもの、および迎水霸(水制)の坍塌・閃裂した石堤で春の季節に急ぎ修理すべきもの、合わせて五項あり。敬んで清単(明細書)を繕い、正月二十六日に具奏したり。

奉旨文园延景楼如意洲延薰山馆大殿永佑寺后楼扎什伦布吉祥法喜楼德汇门外迎水霸东面石堤着总理工程处派员前往踏勘如系刻不可缓之工即于本年修理钦此

旨を奉じていわく、「文園の延景楼、如意洲の延薰山館大殿、永佑寺の後楼、札什倫布の吉祥法喜楼、徳匯門外の迎水霸東面の石堤は、総理工程処に員を派して往きて踏勘せしめ、もし刻も緩(ゆる)めがたい工(工事)に係れば、すなわち本年に修理せよ」と。欽此(かくのごとし)。

钦遵经总理工程大臣派员查勘除扎什伦布吉祥法喜楼院内渗漏围房十七间德汇门外迎水霸东面迤南闪裂石堤长十丈五尺情形稍轻暂拟缓修外其余情形较重𫝑须修理者按例核估银一万七千六百九两三钱三分一厘等因行知前来拏等遵即缮揭奏明饬交岁修监督购料兴修

欽遵(敬して遵奉)し、総理工程大臣を経て員を派して查勘せしめたるに、札什倫布の吉祥法喜楼院の内の渗漏する囲房十七間、および徳匯門外の迎水霸東面より迤南(南に迤れる)の閃裂した石堤・長さ十丈五尺は、情形やや軽く、しばらく修を緩めんと擬するを除く外、その余の情形の重く急ぎ修理すべき者は、例に按じて核估(見積査定)し、銀一万七千六百九両三銭三分一厘なり。等因により行知(通知)して前来(きた)り。拏等は遵い、すなわち揭(起票)を繕いて奏明し、歳修監督に飭交(命じ渡)して料を購い修を興さしむ。

嗣据该监督呈称修理得热河文园拆盖延景楼一座三间运走物料拆修有碍藤萝架五间院墙二叚凑长二丈八尺三寸随墙门口一座粘修药栏十堂山道上补安巡杖栏杆十堂楼座周围拆墁石子散水院内河泡上成搭运料浮桥二座凑长十四丈进水沟口成搭𫽮水月牙霸一道长四丈八尺如意洲揭𡧄延薰山馆大殿一座七间前抱厦五间永佑寺揭宣后楼一座五间扎什伦布吉祥法喜楼座前檐平台抱厦楼三间拆修台顶德汇门外迎水霸东面修砌石堤二叚凑长十九丈八尺三寸补安水簸箕一座添砌迎水虎皮石创墩二座堤根添砌虎皮石坦水二叚凑长十八丈七尺接大河上哨挑挖引河一道长一百八十丈成搭𫽮水坝二道凑长五十四丈以及各殿座油饰彩画内里裱糊铺苦锡背圈搭砖灰木厂出运渣土清理地面等项工程除领用修建敦仁镇违神祠用剩枝稍木植四百二十件并行取颜料锡铅纱绢布疋花竹席摆钖钉高丽𥿄张应用外净销筫工料银一万七千九百七十二两四钱二分

ほどなくその監督の呈称によると、修理し得たるは、熱河文園に延景楼一座三間を拆蓋(建て直)し、物料を運び去り、拆修に礙(さまた)げある藤蘿架五間、院墻二叚・湊長二丈八尺三寸、随墻門口一座、粘修(補修)する薬欄十堂、山道上に巡杖欄杆十堂を補安し、楼座の周囲に石子の散水を拆墁(敷き直)し、院内の河泡(池)の上に料を運ぶ浮橋二座を成搭(架設)し・湊長十四丈、進水溝口に𫽮水(止水)の月牙霸一道を成搭し・長さ四丈八尺、如意洲に延薰山館大殿一座七間・前抱厦五間を揭𡧄(葺き替え)、永佑寺に後楼一座五間を揭宣(葺き替え)、札什倫布の吉祥法喜の楼座前檐の平台抱厦楼三間を拆修して台頂を修し、徳匯門外の迎水霸東面に石堤二叚を修砌し・湊長十九丈八尺三寸、水簸箕(排水樋)一座を補安し、迎水の虎皮石の創墩二座を添砌し、堤根に虎皮石の坦水二叚を添砌し・湊長十八丈七尺、大河の上哨に接して引河一道を挑挖(掘削)し・長さ一百八十丈、𫽮水壩二道を成搭し・湊長五十四丈、および各殿座の油飾・彩画、内里の裱糊(張り替え)、錫背の鋪苦、煉瓦・灰・木の廠の圈搭、渣土の出運、地面の清理等の項の工程なり、と。敦仁鎮違(?)の神祠の修建に用いて余った枝梢の木植四百二十件を領用し、併せて顔料・錫・鉛・紗・絹・布疋・花竹・席・摆・錫釘・高麗𥿄張(紙)を行取(調達)して応用する外、浄く銷(清算)する工料銀一万七千九百七十二両四銭二分なり。

又于上年六七月间屡经雨水续行奏明动用热河节存生息利银修理得围内前宫继德堂等处修砌大墙院墙四叚凑长八丈八尺清音阁修砌院墙二叚凑长二丈七尺五寸坦坦荡荡修砌月牙墙二叚凑长四丈一尺狮子园修砌大墙七叚凑长十二丈三尺普乐寺修砌大墙一叚长三丈安违庙修砌大墙四叚凑长二丈三尺五寸普宁寺修砌大墙二叚凑长十一丈三尺扎什伦怖修砌大墙一叚长二丈三尺布达拉东常处修砌院墙一叚长五丈五尺南路喀喇河屯行宫修砌大墙院墙二叚凑长五丈马圈大墙五叚凑长十二丈五尺常山峪行宫修砌大墙八叚凑长十五丈八尺北路十八里太行宫修砌大墙四叚凑长九丈三尺波洛河屯行宫修砌大墙院墙二叚凑长七丈五尺阿穆呼朗图行宫修砌大墙二叚凑长三丈三尺以及出运渣土清理地面等项工程销𮅕工料银八百三十九两七钱

また上年六七月の間、屢々(しばしば)雨水を経、続けて奏明し、熱河の節存生息利銀を動用して修理し得たるは、囲内前宮の継徳堂等の処に大墻・院墻四叚を修砌し・湊長八丈八尺、清音閣に院墻二叚を修砌し・湊長二丈七尺五寸、坦坦蕩蕩に月牙墻二叚を修砌し・湊長四丈一尺、獅子園に大墻七叚を修砌し・湊長十二丈三尺、普楽寺に大墻一叚を修砌し・長さ三丈、安違廟(安遠廟か)に大墻四叚を修砌し・湊長二丈三尺五寸、普寧寺に大墻二叚を修砌し・湊長十一丈三尺、札什倫怖(札什倫布か)に大墻一叚を修砌し・長さ二丈三尺、布達拉の東の常処に院墻一叚を修砌し・長さ五丈五尺、南路の喀喇河屯行宮に大墻・院墻二叚を修砌し・湊長五丈、馬圏の大墻五叚を修砌し・湊長十二丈五尺、常山峪行宮に大墻八叚を修砌し・湊長十五丈八尺、北路の十八里太行宮に大墻四叚を修砌し・湊長九丈三尺、波洛河屯行宮に大墻・院墻二叚を修砌し・湊長七丈五尺、阿穆呼朗図行宮に大墻二叚を修砌し・湊長三丈三尺、および渣土の出運・地面の清理等の項の工程なり。工料銀八百三十九両七銭を銷す。

以上二案通共报销工料银一万八千八百十二两一钱二分造册备文咨报总理工程处派员查验收工经总理工程事务大臣遴派内务府郎中祝麟户部主事额腾伊前赴该工逐一查量覆交总理工程处按例详细斟核内有与例不符之处通共核减银七百八十二两二钱四分七厘净准销工料银一万八千二十九两八钱七分三厘

以上の二案、通じて共に報銷する工料銀一万八千八百十二両一銭二分。冊を造り文を備えて総理工程処に咨報し、員を派して査験して工を収(おさ)め、総理工程事務大臣を経て内務府郎中の祝麟・戸部主事の額腾伊を遴派(選び派)して、その工に前赴して逐一査量せしめ、覆(かえ)って総理工程処に交(わた)して例に按じて詳細に斟核(精査)せしめたるに、内に例と符(あ)わざる之処あり。通じて共に核減する銀七百八十二両二銭四分七厘。浄く准銷(認可清算)する工料銀一万八千二十九両八銭七分三厘なり。

又文园拆盖延景楼修做地脚昼夜打霸绹水并拆堆靠楼座有碍山石泊岸山洞高峰以及德汇门外迎水霸石堤修做地脚打𭐏掏水等项活计用过工料银六千六百七十四两七钱六分五厘经总理工程事务大臣覆核无异行知前来努等理合将准销银两细数另缮黄册一并恭呈御览仍照向例咨呈总管内务府大臣覆行查核为此谨奏

また文園に延景楼を拆蓋するに際し、地脚を修做して昼夜に霸を打ち水を绹(しば)り、併せて楼座に靠(よ)りて礙ある山石・泊岸・山洞・高峰を拆堆し、および徳匯門外の迎水霸の石堤に地脚を修做し、𭐏を打ち水を掏(すく)う等の項の活計に、用い過ぎたる工料銀六千六百七十四両七銭六分五厘。総理工程事務大臣を経て覆核して異なく、行知して前来(きた)り。努等は理に合い、准銷の銀両の細数を別に黄冊に繕い、併せて恭しく御覧に呈し、なお向例に照らして総管内務府大臣に咨呈して覆(かえ)って査核せしむべし。これがため謹んで奏す。

等因于嘉庆二十年六月初六日差副千总李铭赍赴圆明园于初十日恭递十四日赍回奉到朱批内务府知道钦此

等因により、嘉慶二十年六月初六日に副千総の李銘を差して円明園に齎(もた)らし赴かせ、初十日に恭しく遞(たてまつ)り、十四日に齎して回り、朱批「内務府知道(内務府はこれを知れ)」を奉到したり。欽此。

『嵩年奏檔』巻十七「奏為奏聞銷算工料銀両事」、嘉慶二十年六月初六日、清 嵩年等奏

『聖武記』

四十五年,高宗七旬万寿,第六世班禅来朝祝厘,诏仿后藏札什伦布式,建须弥福寿之庙于热河。班禅自崇德中同达赖通贡。顺治初,以年老未随达赖入觐者,皆其第四世罗卜藏垂吉嘉穆错也。第五世曰罗卜藏伊什,于乾隆二年示寂,第六世曰罗卜藏巴丹伊什,于乾隆六年登坐,至是年四十有二矣。七月,班禅至,接见于避暑山庄之澹泊诚敬殿。初,上习蒙古语,及平回部、金川,即习回语、西番语,兹因班禅来觐,复习唐古特语,故重译朝见,告语如一家。旧以达赖、班禅有高行,八觐惟跽不拜。至是班禅固请拜,上嘉其恪诚,从之。至京,接见于南苑德寿荆,仍居西黄寺,讲经放参,皆世祖礼达赖处也。京师西山有僧某者,往论佛法,责以宜居西番清净式众,不宜入中国,过受崇奉。班禅谢之。十一月,以痘终京师。诏即其地建清净化域。明年春,舍利金龛西归,驾幸西黄寺拈香送之,而留其高弟子罗卜藏敦珠布者,领班第二十人,住持札什伦布庙传授后藏经律,选内地刺麻百八十人习焉。是年,遗使赍册印封第七世达赖。刺麻时年二十二岁,尚未受封。至是班禅卒,乃封达赖,以绥唐古特之众。

四十五年、高宗の七旬万寿、第六世の班禅、朝して釐を祝しに来る。詔して後蔵の札什倫布の式に倣い、須弥福寿之廟を熱河に建つ。班禅は崇徳の中頃より達頼と同じく貢を通じ、順治の初め、年老いたるをもって達頼に随いて觐に入らざりしは、みなその第四世の羅卜蔵垂吉嘉穆錯なり。第五世は羅卜蔵伊什と曰い、乾隆二年に示寂(入滅)し、第六世は羅卜蔵巴丹伊什と曰い、乾隆六年に登坐(即位)し、ここに至って年四十二なり。七月、班禅至り、避暑山荘の澹泊誠敬殿に於て接見す。初め、上は蒙古語を習い、および回部・金川を平らぐや、すなわち回語・西番語を習い、ここに班禅の来觐に因り、復た唐古特語を習う。ゆえに重訳(幾重もの通訳)して朝見するも、告げ語ること一家のごとし。旧来、達頼・班禅は高行あるをもって、覲にはただ跽(ひざまず)くのみで拝せず。ここに至り班禅は固く請いて拝し、上はその恪誠を嘉し、これに従う。京に至り、南苑の徳寿荊(徳寿寺か)に於て接見し、なお西黄寺に居し、経を講じ参を放(はな)つ。みな世祖が達頼を礼した処なり。京师の西山に僧某あり、往きて仏法を論じ、「よく西番の清浄にして衆を式(なら)うに居るべく、中国に入りて崇奉を過(あやま)って受くべからず」と責む。班禅はこれを謝す。十一月、痘(天然痘)をもって京师に終わる。詔してすなわちその地に清浄化域を建つ。明年春、舍利の金龕は西に帰り、駕は西黄寺に幸して香を拈(つま)みてこれを送り、しかしてその高弟の羅卜蔵敦珠布なる者を留め、班第二十人を領して札什倫布廟に住持して後蔵の経律を伝授せしめ、内地の刺麻百八十人を選びてこれに習わしむ。この年、使いを遣わして冊印を齎(もた)らして第七世の達頼を封ず。刺麻の時に年二十二歳、いまだ封を受けず。ここに至り班禅卒して、すなわち達頼を封じ、もって唐古特の衆を綏(やす)んず。

『聖武記』巻五「国朝撫綏西蔵記上」、清 魏源撰

『校礼堂詩集』

皇帝四十有五年,班禅万里来朝天。

皇帝、四十有五年、班禅は万里より天に朝しに来る。

诏建扎什伦布庙,仿厥制以居之焉。

詔して札什倫布廟を建て、その制に倣いてこれを居(お)かしむ。

琳宫巍峨数十丈,金碧照耀青山巅。朱门沉沉静不启,巨字四体当中𫔔。峰回树锁望靡极,天半隐隐楼台悬。黄衣比邱六时课,撞钟伐鼓声喧阗。牟尼夜腾宝月朗,婆律昼结慈云圆。列藩新旧众蒙古,膜拜顶礼心精虔。此僧虽寂神不灭,再世复得为班禅。递相授受主彼教,亦如衣钵宗风传。历数百载弊稍出,灵异现示非从前。因时立法圣人事,革除积习无拘牵。金瓶贮名令探取,守臣监视公不偏。自兹卫藏众僧俗,益仰圣德巍巍然。

琳宮は巍峨(ぎが)として数十丈、金碧は照り耀いて青山の巓(いただき)に在り。朱門は沉沉として静かに啓かず、巨字は四体、当中に𫔔(あらわ)る。峰は回り樹は鎖(とざ)して望み靡(つ)きず、天半(てんなかば)に隠隠として楼台は懸かる。黄衣の比邱(比丘)、六時の課(おきての勤行)、鐘を撞き鼓を伐りて声は喧阗(けんでん)なり。牟尼(釈迦)は夜に宝月を腾(あ)げて朗らかに、婆律(香)は昼に慈雲を結びて円(まど)かなり。列藩の新旧、衆蒙古、膜拜頂礼して心精虔(つつしみかよ)なり。この僧は寂(入滅)すと雖も神は滅せず、再世して復た班禅と為るを得たり。相い遞(かわ)りて授受し彼の教を主(つかさど)る、また衣鉢の宗風の伝わるがごとし。数百載を歴て弊稍(や)や出(い)で、霊異の現示は従前に非ず。時に因りて法を立つるは聖人の事、積習を革除して拘牽(とらわれ)なし。金瓶に名を貯(おさ)めて探取せしめ、守臣は監視して公にして偏らず。ここより衛蔵の衆僧俗、益々聖徳の巍巍(たか)たるを仰ぐ。

我皇神武古莫比,四海震詟无烽烟。俘达瓦齐定准部,馘索诺木平金川。昨来复降廓尔喀,异域稽首争相先。称臣纳贡受约束,须弥福寿长绵绵。太平佛亦效瑞应,舍利腾跃金刚坚。庙前经过瞻壮丽,击壤聊当康衢篇。

わが皇の神武、古(いにしえ)も比ぶるなく、四海は震詟(おのの)き烽煙(のろし)なし。達瓦斉を俘(と)りて準部を定め、索諾木を馘(くびき)りて金川を平らぐ。昨(さ)来、復た廓爾喀(ゴルカ)を降(くだ)し、異域は稽首して先を争う。臣と称し貢を納れ約束を受け、須弥福寿は長く綿綿たり。太平には仏もまた瑞応を効(あらわ)し、舍利は腾躍して金剛のごとく堅し。廟前を経過して壮麗を瞻(み)る、撃壌して聊(いささ)か康衢の篇に当たらん。

『校礼堂詩集』巻八「熱河八観詩・扎什倫布廟」、乾隆癸丑、清 凌廷堪撰

古写真

1930年代刊載

亜細亜写真大観社の『亜細亜大観』第十一輯は須弥福寿之廟を特集とし、寺院の全景・山門・妙高荘厳殿・都綱上層の仏堂と瑠璃仏塔などの旧影を収めている。原刊は撮影者および各写真の具体的な撮影年を標していない。

1934—1935年

ヘッダ・モリソンは『Travels of a Photographer in China, 1933–1946』の中で、1934年夏に初めて熱河を訪れ、1935年に再び訪れ、建築撮影により適した大判カメラに替えて補撮したと記している。本書の熱河の章には、題名の明確な須弥福寿之廟の写真五葉が続けて掲載され、寺院の遠景・瑠璃仏塔・建築群・内院屋頂の龍飾と妙高荘厳殿の金頂を記録している。