紫霄宮

紫霄宮は湖北省丹江口市の武当山・展旗峰の南側に位置する道教宮観である。元代の『武当福地総真集』はその創建を北宋宣和年間と記す。元末に宮観は兵火に毀れ、明成祖は永楽十年に旧宮に太玄紫霄宮を興建した。清の同治年間には道士の楊来旺が門徒を率いて十方堂・東西道院・龍虎殿の道房を修復した。本稿では『武当福地総真集』『上善池記』、明代の御製碑、および1934年の紫霄殿の古写真を収録する。

時代
北宋
地域
湖北
所在地
湖北省十堰市丹江口市
1934年の武当山紫霄殿正面の古写真
1934年の武当山紫霄殿正面の古写真

概要

紫霄宮は北宋の宣和年間(1119—1125)に創建された。南宋の淳熙元年(1174)、宮観は火災に遭った。その後紫霄宮は一時荒廃し、十五、六年にわたって人の姿が絶えた。

元の至元十二年(1275)、紫霄宮は再び山門を開いた。当時、宮内に残っていたのは正殿のみで、なお人々の拝観に堪えた。二年後、道士の李守冲がまず殿前の荊棘を取り除いた。至元十五年(1278)、契丹出身の女道士・蕭守通が続いて宮の後方に殿を建てた。彼女はその後さらに外出して縁を募り[1]、各方面からの供養を受けた。

元の致和元年(1328)、宮内で年資の深い道人・革道謹が費用を出し、石工を雇って上善池と黒龍池を整備した。彼の門徒である王道清・張道源も出資し、均州行宮と堰庄にそれぞれ井戸を一つずつ築いた。二つの井戸は宮の道人の日用に供され、行き交う旅人が水を汲むのにも便利だった。同年六月、宮務をつかさどる道官の陳道明・謝道清がこれらの工事のために碑を建てた。碑文は「水善く万物を利して争わず」をもって上善池の名を解釈し、池を修め井戸を造った趣旨を「済世利人」と概括した。

元末、戦火が再び紫霄・南岩などの宮観を破壊し、紫霄宮の旧跡には荊棘と瓦礫が残るのみとなった。明成祖は、父・明太祖が天下を平定し、自分が靖難の役[2]に勝利したことは、いずれも真武大帝[3]の陰の加護を得たためだと考えた。この加護に報いるため、彼は武当山の宮観の再建を命じた。完成した宮観は皇室と天下の臣民のために福を祈る場にも用いられた。永楽十年(1412)、朝廷の官員が命を奉じて紫霄旧宮で工事を起こした。工事には玄帝を祀る正殿、祖師殿、玄帝の父母を祀る聖父母殿、山門、廊廡、聖旨碑を安置する左右の碑亭、および神庫・神厨・方丈・斎堂・鉢堂・雲堂・圜堂・厨房・倉庫・池亭などの空間が含まれ、合計百六間に上った。永楽十六年(1418)、武当山のこの一連の宮観工事が完成し、明成祖は紫霄宮に「太玄紫霄宮」の新名を賜った。

宮殿の完成後、朝廷は胡古崖・梅月軒・李玄玉の三名の道官を提点[4]に、徐復高を住持に任じ、さらに六品の官印を賜り、四人に宮中の事務を管理させた。成化十五年(1479)、明憲宗は先朝の真武への祭祀を継続し、皇室・国家・百姓のために福を祈るため、工匠に命じて七体の銅鋳鍍金の神像を鋳造させた。真武像一体、随侍の神像四体、および水神・火神像各一体である。別に香炉・瓶盂・鐘磬など十一件の供器を造り、太監の陳喜に命じて紫霄宮に送り届け、安置して祀らせた。

清の同治初年(1862年頃)、陝西省白河県出身の楊来旺が武当山にやって来て、全真龍門派[5]の道士・何陽春に師事し、後に紫霄宮の住持に推挙された。山中の倒壊した宮観を前に、彼は王復渺・苗復清・程合星らの門徒および徒孫の徐本善を率いて各地で修繕費用を募り、前後十余年に及んだ。紫霄宮の十方堂はこれによって修復され、東道院では殿堂五間・道房二十二間を、西道院では殿堂五間・道房四十二間を修復し、龍虎殿一帯ではさらに道房七十間を修復した。修繕の指揮のほか、楊来旺は紫霄宮などで弟子を取り講道し、門下の弟子は五十余人に上った。

光緒二十七年(1901)、紫霄宮は十方叢林[6]を開設し、各地の遊方道人の掛単の受け入れを始めた。徐本善は曽理乾・劉理卿ら宮の道人とともに次々に資金を募り、万聖楼・功徳祠・霊官殿および東西両側の二十余間の家屋を増築した。徐本善はその後さらに紫霄宮の東西道院と父母殿を整備した。

1931年春、紅三軍[7]は洪湖ソ区を離れ、鄂西北に転移した。旧暦四月二十日、賀竜が部隊を率いて武当山に入った。徐本善は宮の道人を率いて紫霄宮の東天門の外で出迎え、父母殿の部屋を空けて賀竜の居住と執務に充て、西宮道院を臨時の後方病院に充てた。徐本善は水合一・羅教培・呉教運・王教化の四名の道人に看護の補助を手配し、そのほかの道人は薬草を採り、宮の備蓄物資を取り出し、負傷兵の食事を用意した。その年の秋、紅三軍が転移した後も、負傷兵は西宮道院に残され、徐本善は引き続き道人に世話をさせ、負傷兵の回復を待ってから、分けて房県に送って部隊に復帰させた。1938年以降、鄂北の抗戦を担当する第五戦区長官司令部はまず老河口に駐屯し、後に武当山上の道観・周府庵に移り、山中の多くの道観が駐屯場所・学校・病院・倉庫として使用された。作家の臧克家は均県での勤務期間中に紫霄宮を訪れ、宮門に「歓迎司令長官」の標語が貼られているのを目の当たりにした。

2025年3月、武当山世界文化遺産管理センターは紫霄大殿の保護修繕工事を開始した。文物専門家は殿頂中央の四層の瑠璃宝頂[8]を開け、その内部から歴代の銭貨三百四十三枚を数え出した。そのうち銀元が百二十五枚、銅銭が二百十八枚である。専門家は、年代が最も古い銅銭は北宋の崇寧年間に鋳造された崇寧通宝だと暫定的に認定した。作業員はその後、これらの銭貨を整理して収蔵庫に納めて封存した。

歴史文献

『武当福地総真集』

紫霄宫

紫霄者,玄天之别名也。宫在大顶之北,展旗峰之东,威烈庙之西,太子岩之南。前对三公万仞玉笋倚天之峰,后坐远嶂七岩皂纛横星之势,松杉挺特,花木芬芳,殿宇崇高,堂庑拱接,帝容尊肃,神灵威严,一仿五龙之制度。然地势豁敞,未易相侔。神仙炼性修心之所,国家祈福之庭。

紫霄とは、玄天の別名である。宮は大頂の北、展旗峰の東、威烈廟の西、太子岩の南にある。前には万仞の玉筍が天に倚るがごとき三公の峰が対峙し、後ろには遠くの連峰と七つの岩が、黒き旗幟が星を横たえるがごとき勢いで坐し、松杉は秀でてそびえ、花木は芳しく、殿宇は高く崇く、堂廡は拱くように連なり、帝の御姿は尊く厳かで、神霊は威厳を帯び、すべて五龍の制度に倣っている。ただし地勢は広々と開けており、容易に並び得るものではない。神仙が性を練り心を修める所、国家が福を祈る庭である。

宋宣和中创建,其敕额文据,甲午劫火,主者挈之南游。庚申之前,迁州于此,人民皆卜居焉。继后,宣慰孙嗣举众内附,十五六年,窅无人迹。至元乙亥,山门重开,正殿仅存,犹可瞻仰。岁在丁丑,道士李守冲辟荆于前;戊寅岁中,契丹女官萧守通建殿于后,行缘受供,一如五龙。

宋の宣和年間に創建された。その勅額の文書は、甲午の劫火の際、主者がこれを携えて南方へ去った。庚申より前、州がここに移され、人民は皆ここに居を定めた。その後、宣慰使の孫嗣が衆を挙げて内附し、十五、六年、杳として人の跡が絶えた。至元乙亥に山門が再び開かれ、正殿のみが残り、なお拝観に堪えた。丁丑の歳、道士の李守冲が前方の荊棘を切り開き、戊寅の歳、契丹の女官・蕭守通が後方に殿を建て、縁を行じて供養を受けることは、すべて五龍と同様であった。

《武当福地总真集》 (武当福地総真集)、巻中「宮観本末」、元・劉道明撰

『上善池記』

上善池记

大万寿紫霄元圣宫,按经云:天下之至柔,莫过于水。水善利万物而不争,犹川谷之与江海。古之善为士者,濬石为池,以上善之名矣。本宫尊宿革道谨,居善地,心善渊,谨抽衣资,命匠石砌斯池及黑龙池,咸皆落成,革故新之,乃至大顺。先伊徒王道清、张道源施财于均州行宫并堰庄二处,各造砌水井,为道众日用,以便往来。以斯刻石,扬其善功,记其岁月。后来者,能知古始,惟济世利人,何千万年云尔。致和元年岁在戊辰六月日,冲正守真明素法师、大万寿紫霄元圣宫提点宫事陈道明,真应纯素凝和法师、大万寿紫霄元圣宫提点谢道清立石。

大万寿紫霄元聖宮、案ずるに経に云う:天下の至柔なるもの、水に過ぐるものはなし。水は善く万物を利して争わず、あたかも川谷の江海に対するがごとし。古の善く士たる者は、石を濬えて池となし、上善の名をもってした。本宮の尊宿・革道謹は、善き地に居り、心は善く淵にして、謹んで衣資を抽け出し、匠をしてこの池および黒龍池を石で砌らせ、ことごとく落成し、古きを革め新たにして、ついに大いに順なり。先にその徒の王道清・張道源は均州行宮ならびに堰庄の二か所に財を施し、それぞれ水井を造砌して、道衆の日用となし、もって往来を便にした。これをもって石に刻み、その善功を揚げ、その歳月を記す。後に来る者、古き始めを知ることを得んには、ただ世を済い人を利するのみ、何千万年ぞやと云うのみ。致和元年歳在戊辰六月日、冲正守真明素法師・大万寿紫霄元聖宮提点宮事陳道明、真応純素凝和法師・大万寿紫霄元聖宮提点謝道清立石。

《大岳太和山志》 (大岳太和山志)、巻十二「上善池記」、元・致和元年(1328)

『明大岳太和山道宮碑記』

国朝永乐十六年御制碑

盖闻大而无迹之谓圣,充周无穷;妙不可测之谓神。是故行乎天地,统乎阴阳,出有入无,恍惚翕张,骖日驭月,鼓风驾霆,倏而为雨,忽而为云,御灾捍患,驱沴致祥,调运四时,橐籥万汇,陶铸群品,以成化工者,若北极玄天上帝真武之神是已。按道书:神本先天始炁五灵玄老,太阴天一之化,生而神灵,聪以知远,明以察微,潜心念道,志契太虚。乃入武当山,修真内炼,心一志凝,遂感玉清元君,授以无极上道,功满道备,乘龙天飞,归根复位,显名亿劫,与天地悠久,日月齐并。

およそ聞く、大いにして跡なきをこれ聖という、充ち周りて窮まることなし。妙にして測るべからざるをこれ神という。このゆえに天地の間に行き、陰陽を統べ、有に出で無に入り、恍惚として翕張し、日に驂け月を駆り、風を鼓して霆に駕し、倏として雨となり、忽ちとして雲となり、災いを御し患いを捍ぎ、沴を駆りて祥を致し、四時を調え運らせ、万彙を橐籥とし、群品を陶鋳して、もって化工を成す者は、北極玄天上帝真武の神がこれなり。道書に案ずるに:神はもと先天始炁の五霊玄老、太陰天一の化にして、生まれながらに神霊にして、聡くして遠きを知り、明らかにして微を察し、心を潜めて道を念じ、志は太虚に契る。乃ち武当山に入り、真を修め内に練り、心を一にし志を凝らし、ついに玉清元君に感じ、無極の上道を授けられ、功満ち道備わり、龍に乗りて天に飛び、根に帰り位に復し、億劫に名を顕し、天地とともに悠久、日月とともに斉しきものなり。

武当旧名太和,谓非玄武不足以当之,故名曰武当。蟠踞八百余里,高列七十二峰,三十六岩之奇峭,二十四涧之幽邃。峰之最高曰天柱,境之最胜曰紫霄、南岩。上出游氛,下临绝壑,跨洞天之清虚,凌福地之深窅。紫霄、南岩皆有宫。又自南岩北下三十里,有五龙宫;又四十里抵山趾,有真庆宫,俱为祀神祝厘之所。元末悉毁于兵燹,荆榛瓦砾,废而不举。

武当の旧名は太和、玄武にあらざればこれに当たるに足らずと謂い、故に名づけて武当という。蟠踞すること八百余里、高く列なる七十二峰、三十六岩の奇峭、二十四澗の幽邃。峰の最も高きを天柱と曰い、境の最も勝れたるを紫霄・南岩と曰う。上は遊氛を出で、下は絶壑に臨み、洞天の清虚を跨ぎ、福地の深窅を凌ぐ。紫霄・南岩にはいずれも宮あり。また南岩より北に三十里下るに五龍宮あり、また四十里して山趾に抵るに真慶宮あり、俱に神を祀り福を祈る所なり。元末にことごとく兵燹に毀れ、荊榛瓦礫と化し、廃して挙がることなし。

天启我国家隆盛之基。朕皇考太祖高皇帝以一旅定天下,神阴翊显佑,灵明赫奕。肆朕起义兵,靖内难,神辅相左右,风行霆击,其迹甚著。暨即位之初,茂锡景贶,益加炫耀。至若榔梅再实,岁功屡成,嘉生骈臻,灼有异征。朕夙夜祗念,罔以报神之休。仰惟皇考、皇妣,劬劳恩深,昊天罔极,亦罔以尽其报。惟武当,神之攸栖。肃命臣工,即五龙之东数十里,得胜地焉,创建玄天玉虚宫;于紫霄、南岩、五龙,创建太玄紫霄宫、大圣南岩宫、兴圣五龙宫。又即天柱之顶,冶铜为殿,饰以黄金,范神之像,享祀无极。神宫仙馆,焕然维新。经营之始,至于告成之日,神屡显像,祥光烛霄,山峰腾辉,草木增色,灵气聚散,变化万状,众目咸睹,跽拜唶唶。榔梅垂实,加前数倍。九地启秘,金杵跃出,阴阳储精,玄质流润,灵异纷纭,莫能殚纪。神之响应,有如此者。

天はわが国家の隆盛の基を啓いたり。朕の皇考・太祖高皇帝は一旅をもって天下を定め、神は陰に翊け顕に佑け、霊明は赫奕たり。ここに朕が義兵を起こし内難を靖めしとき、神は輔き相うこと左右に、風のごとく行い霆のごとく撃ち、その跡は甚だ著し。即位の初めに暨りて、茂く景貺を錫い、ますます炫耀を加えたり。至れば榔梅再び実り、歳功屢々成り、嘉生駢り臻り、灼かに異なる徴あり。朕は夙夜に祗く念ずれども、神の休に報いることなし。仰ぎ惟うに皇考・皇妣、劬労の恩深く、昊天の極まりなきがごとく、またその報を尽くすことなし。惟うに武当は、神の栖みたまう所なり。粛として臣工に命じ、五龍の東数十里に就き、勝地をここに得て、玄天玉虚宮を創建し、紫霄・南岩・五龍において、太玄紫霄宮・大聖南岩宮・興聖五龍宮を創建したり。また天柱の頂に就き、銅を冶して殿となし、黄金をもって飾り、神の像を範し、享祀すること極まりなし。神宮仙館、焕然として新たなり。経営の始めより、告成の日に至るまで、神は屢々像を顕し、祥光は霄を燭かし、山峰は輝きを騰げ、草木は色を増し、霊気は聚散し、変化万状、衆目ことごとく観、跽き拜して唶唶たり。榔梅は実を垂れ、前に加えて数倍。九地は秘を啓き、金杵躍り出で、陰陽は精を貯え、玄質は潤いを流し、霊異紛紜として、殫く紀すること能わず。神の応ずること、かくのごときものあり。

遂命道士为提点,主领各宫,饬严祀事,昭答神贶,上资荐扬皇考太祖高皇帝、皇妣孝慈高皇后在天之灵,下为天下臣庶祈迓繁祉。虽然,神之浮游混沌,变化无方,此感彼应,无往不然。非此无以达朕之诚与夫天下虔敬之心也。况山川冲和之气,融结于斯,与神相为表里。神之陟降往来,飘飖挥霍,顾瞻旧游,岂不徘徊于斯乎?则是宫观之建,有不可无。谨为文刻石山中,以彰神功,永永无穷焉。

ついに道士を提点に命じ、各宮を主領させ、祀事を厳かに飭え、昭らかに神貺に答え、上は皇考太祖高皇帝・皇妣孝慈高皇后の在天の霊を薦め揚げ、下は天下の臣庶のために繁祉を祈り迓ぐ。しかりといえども、神は混沌に浮遊し、変化に方なく、此れに感じ彼れに応じ、往きて然らざるなし。これに非ざれば朕の誠と、それ天下の虔敬の心を達する所以なし。況んや山川の沖和の気は、ここに融結し、神と相い表裏をなす。神の陟降往来、飄飖として揮霍し、旧遊を顧み瞻れば、豈にここに徘徊せざらんや。これ則ち宮観の建、有らざるべからざるなり。謹んで文を作り山中の石に刻み、もって神功を彰らかにし、永永に窮まることなからん。

《大岳太和山志》 (大岳太和山志)、巻二「国朝永楽十六年御製碑」、明成祖御製、永楽十六年(1418)

『憲宗皇帝紫霄宮神像記』

宪宗皇帝紫霄宫神像记

朕闻自开天以来,即有此山;自元始以来,即有此神。神乃北极玄天上帝真武是也,山乃大岳太和是也。神非兹山,无以为栖真之所;山非兹神,无以侈灵胜之名。是故历代构造殿宇,钦崇之不衰。我太祖高皇帝平定海宇,惟神默相,灵明赫奕,尝于南京建庙奉祀之矣。太宗文皇帝肃靖内难,惟神阴佑,厥迹诞著,特于兹山大造宫祠;及于北京,复建行宫奉祀之矣。英考睿皇帝光复大位,惟神屡现奇应,亦既命官,函香奠币,致敬尤笃。朕继绍大统,十有五年,仰思先志,敢不祗承?矧家国乂安,夷夏怀服,无为之治,于斯为盛,岂不赖于神之翊赞而能尔邪?昭答之典,在所必行。肆命工为像,往安于太玄紫霄宫。圣像一,从官像四,皆范铜为之,而镀以金;水火神二,亦铜体金饰,而各类其像。供器、香炉、瓶盂、钟磬,总十一事,既坚既完,载鲜载洁。特遣太监陈喜,送诣宫所奉安,永享四方之香火,永壮世人之观瞻。夫神分身降世,变化无穷,恍惚翕张,出无入有,御灾捍患,济物度人,数出祯祥,祚我家国。继自今,愿丕扬神道,斡运化机,俾上而圣母福寿无穷,于以昭朕之孝;下而储嗣繁衍未艾,于以昭朕之仁;宫闱清吉,于以昭朕治内之严;臣僚效忠,于以昭朕使臣之礼;黔黎于变,于以昭朕之化;夷狄来王,于以昭朕之威。以迄四时行,百谷登,群生遂,化工成,庶乎神有感必应,而朕虔奉之诚,亦不虚矣。虽然,朕之所望庇于神者,岂止一时如是而已哉?谨为文刻碑,以彰神功于不朽云。

朕聞く、天を開きてよりこの山あり、元始よりこの神あり。神は乃ち北極玄天上帝真武これなり、山は乃ち大岳太和これなり。神はこの山に非ざれば、もって真に栖む所を為すことなし。山はこの神に非ざれば、もって霊勝の名を侈ることなし。このゆえに歴代、殿宇を構造し、欽崇して衰えず。わが太祖高皇帝は海宇を平定するに、ただ神黙々として相い、霊明赫奕として、かつて南京に廟を建ててこれを奉祀したり。太宗文皇帝は内難を粛靖するに、ただ神陰に佑け、その跡は誕に著しく、特にこの山に大いに宮祠を造り、北京に及んでは、また行宮を建ててこれを奉祀したり。英考睿皇帝は大位を光復するに、ただ神屢々奇応を現じ、またすでに官に命じ、香を函え幣を奠げ、敬を致すこと尤も篤し。朕は大統を継ぎ紹ぐこと十有五年、仰ぎて先志を思えば、あえて祗く承けざらんや。矧んや家国乂安く、夷夏懐服し、無為の治、ここに盛んなり。豈に神の翊賛に頼らずして能く爾らんや。昭答の典は、必ず行うべき所なり。そこで工に命じて像を作らしめ、往きて太玄紫霄宮に安んじたり。聖像一、従官像四、皆銅を範してこれを作り、金をもって鍍す。水火の神二も、また銅体に金飾を施し、各々その像に類す。供器・香炉・瓶盂・鐘磬、総べて十一事、既に堅く既に完く、また鮮やかにまた潔し。特に太監の陳喜を遣わし、宮所に送り詣でて奉安せしめ、永く四方の香火を享け、永く世人の観瞻を壮んにせんとす。それ神は身を分かち世に降り、変化窮まりなく、恍惚として翕張し、無より出で有に入り、災いを御し患いを捍ぎ、物を済い人を度し、數々禎祥を出し、わが家国に祚を与えたり。今より継ぎて、願わくば大いに神道を揚げ、化機を斡運し、上は聖母の福寿を窮まりなからしめ、もって朕の孝を昭らかにし、下は儲嗣の繁衍未だ已まざらしめ、もって朕の仁を昭らかにし、宮闈清吉にして、もって朕の内を治むるの厳を昭らかにし、臣僚忠を效し、もって朕の臣を使うの礼を昭らかにし、黔黎変化し、もって朕の化を昭らかにし、夷狄来王し、もって朕の威を昭らかにし、これよりして四時行われ、百穀登り、群生遂げられ、化工成らんことを。庶幾くは神、感ずれば必ず応じ、朕の虔く奉るの誠も、また虚しからざらんことを。しかりといえども、朕の神の庇を望む所は、豈に一時かくのごときのみならんや。謹んで文を作り碑に刻み、もって神功を不朽に彰らかにすと云う。

《大岳太和山志》 (大岳太和山志)、巻二「憲宗皇帝紫霄宮神像記」、明憲宗御製

『大岳太和山志』

太玄紫霄宫

即旧之紫霄元圣宫,正在展旗峰之阳。前有三公峰、五老峰、宝珠峰、福地峰、赐剑、禹迹桥、万松亭,后有太子岩,即玄帝紫霄圆道之处。西有七星岩,东有炼丹岩,中有真一泉、上善池。其地高低叠障,怪石奇峰。山之外,直与云霄相接。若羽士居于石室丹房则三九夏清凉,真仙人之窟宅也。永乐十年,国朝大兴,敕建玄帝大殿、山门、廊庑、左右圣旨碑亭、神库、神厨、祖师殿、圣父母殿、方丈、斋堂、钵堂、云堂、圜堂、厨室、仓库、池亭一百六个间,赐名曰太玄紫霄宫。钦除江西建昌府道纪胡古崖、池州府道纪梅月轩、湖广安陆州道正李玄玉为提点,南昌府奉新县道士徐复高为住持,赐六品印,统领宫事。

すなわち旧の紫霄元聖宮で、まさに展旗峰の陽にある。前に三公峰・五老峰・宝珠峰・福地峰・賜剣・禹跡橋・万松亭があり、後に太子岩があり、すなわち玄帝が紫霄において道を円かにした所である。西に七星岩、東に錬丹岩、中に真一泉・上善池がある。その地は高低重なりて障り、怪石奇峰。山の外は、直に雲霄と相接す。もし羽士が石室丹房に居れば、三九の夏も清涼にして、まことに仙人の窟宅なり。永楽十年、国朝大いに興り、勅により玄帝大殿・山門・廊廡・左右聖旨碑亭・神庫・神厨・祖師殿・聖父母殿・方丈・斎堂・鉢堂・雲堂・圜堂・厨室・倉庫・池亭百六箇間を建て、名を太玄紫霄宮と賜う。欽により江西建昌府道紀の胡古崖・池州府道紀の梅月軒・湖広安陸州道正の李玄玉を提点に除し、南昌府奉新県の道士徐復高を住持とし、六品の印を賜り、宮事を統領せしむ。

《大岳太和山志》 (大岳太和山志)、巻二「太玄紫霄宮」、明・任自垣撰

『明太宗実録』

武当山宫观成,赐名曰太岳太和山。山有七十二峰,三十六岩,二十四涧,峰之最高者曰天柱,境之最胜者曰紫霄。南岩,上轶游气,下临绝壑。紫霄、南岩旧皆有宫,南岩之北有五龙宫,俱为祀神祝厘之所。元季兵毁,至是悉新建宫五龙之东十余里,名玄天玉虚宫,紫宵曰太玄紫霄宫,南岩曰大圣南岩宫,五龙曰兴圣五龙宫。又即天柱峰顶冶铜为殿,饰以黄金,范真武像于中。选道士二百人供洒扫,给田二百七十七顷,并耕户以赡之。仍选道士任自垣等九人为提点,秩正六品,分主宫观,严祀事。上资太祖高皇帝、孝慈高皇后之福,下为臣庶祈弭灾沴。凡为殿观、门庑、享堂、厨库千五百余楹,上亲制碑文以纪之。

武当山の宮観成り、名を太岳太和山と賜う。山に七十二峰・三十六岩・二十四澗あり、峰の最も高きを天柱と曰い、境の最も勝れたるを紫霄と曰う。南岩は、上は遊気を軼ぎ、下は絶壑に臨む。紫霄・南岩は旧いずれも宮あり、南岩の北に五龍宮あり、俱に神を祀り福を祈る所なり。元の季に兵に毀れ、これに至りてことごとく新たに宮を建つ。五龍の東十余里に、名を玄天玉虚宮といい、紫霄を太玄紫霄宮、南岩を大聖南岩宮、五龍を興聖五龍宮と曰う。また天柱峰頂に就き銅を冶して殿となし、黄金をもって飾り、中に真武像を範す。道士二百人を選んで洒掃に供せしめ、田二百七十七頃を給し、併せて耕戸をもってこれを贍う。なお道士の任自垣ら九人を選んで提点とし、秩は正六品、分かちて宮観を主どり、祀事を厳かにす。上は太祖高皇帝・孝慈高皇后の福に資け、下は臣庶のために災沴を弭えんことを祈る。およそ殿観・門廡・享堂・厨庫千五百余楹を為し、上みずから碑文を制してもってこれを紀す。

《明太宗实录》 (明太宗実録)、永楽十六年十二月丙子朔条

『玄天上帝啓聖録』

记云:大唐贞观间,岁值苦旱。朝廷下诏有司,祷于天下名山大川。是时,武当军节度使姚简,奉命躬诣武当紫霄宫,齐醮致祷。建坛之夕,有五儒士,丰貌殊异,敬来谒简。延坐久之,从容语简曰:予五君,非凡之儒,乃五气龙君也。准玄帝敕命,守护此山,非一日矣。为子正直寡欲,祈祷精严,故来相访。少顷,云气迷目,甘雨霈然,遂失五君所在矣。

記に云う:大唐貞観の間、歳は苦旱に値えり。朝廷は詔を有司に下し、天下の名山大川に祷らしむ。この時、武当軍節度使の姚簡は、命を奉じて躬ら武当紫霄宮に詣で、斉醮して祷を致す。壇を建てたる夕、五人の儒士あり、豊貌殊に異なり、敬して来りて簡に謁す。延き坐ること久しく、从容として簡に語りて曰く:予ら五君は、凡の儒にあらず、乃ち五気の龍君なり。玄帝の敕命を準じて、この山を守護すること、一日にあらず。子が正直寡欲にして、祈祷精厳なるがゆえに、故に来りて相訪ぐと。少頃、雲気目を迷わせ、甘雨霈然として、ついに五君の所在を失えり。

《玄天上帝启圣录》 (玄天上帝啓聖録)、巻一「甘霖応祷」、『正統道蔵』本

「武当瑣話」

紫霄宫乃武当山最大的宫殿,有东宫西宫前殿后殿,规模极为宏大,庄严美观,真不愧为“金宇瑶宫”。大殿前有碑亭数个,高约三丈,内有约二丈高之大石碑,上刻永乐皇帝亲撰文字,碑置于一大石龟之背上,龟身长约丈余,高约六尺,刻工十分精细。正殿内有一条杉椽,约一尺见方,长约二丈,放于两约三尺之二木架上。用手摸这端,则那端可闻嗡嗡之声,一时传为神奇,凡来拜必摸之,所以两端凹入甚深。据道人说:当日兴筑紫霄大殿时,此根由四川飞来,可惜运到三分□,已用了其□,大概故庙置于此,以资纪念。殿内明代铜器及其他遗物甚多,足供考古家之玩赏。

紫霄宮は武当山最大の宮殿で、東宮・西宮・前殿・後殿があり、規模はきわめて宏大で、荘厳にして美観、まことに「金宇瑶宮」の名に恥じない。大殿の前には碑亭が数基あり、高さ約三丈で、内部には約二丈の高さの大石碑があり、上に永楽皇帝みずから撰した文字が刻まれている。碑は大きな石亀の背の上に置かれ、亀の身は長さ約一丈余、高さ約六尺で、彫刻はきわめて精細である。正殿内には一本の杉の椽があり、約一尺見方、長さ約二丈で、高さ約三尺の二つの木架の上に置かれている。手でこちらの端に触れると、あちらの端にブーンという音が聞こえ、一時は神異として伝えられ、参拝に来る者は必ずこれに触れたため、両端は深く凹んでいる。道人の話によると、紫霄大殿を興築した当時、この材は四川から飛んで来たのだが、惜しいことに運ばれて三分□、すでにその□を使い、おそらく故あって廟にここに置かれ、記念に供されているのだという。殿内には明代の銅器その他の遺物が甚だ多く、考古家の鑑賞に供するに足る。

紫霄有道士二百多人。有几个虽着道装,但并未正式出家,都是在此隐居的。其间有无家可归的年老商人,有些是逃避服役的年青农夫。他们完全是自食其力,有的兼司炊爨,有的专司耕种的,也有专作杂役的。分工严密,所以生活亦井井有条。

紫霄には道士が二百余人いる。中には道装を身に着けてはいるものの、正式に出家したわけではなく、皆ここに隠居している者がいる。その中には帰る家のない年老いた商人もおり、兵役を逃れた若い農夫もいる。彼らはまったく自らの力で生計を立てており、ある者は炊事を兼ね、ある者は耕作を専らとし、雑役を専らとする者もいる。分担は厳密で、それゆえ生活も整然としている。

《旅行杂志》 (旅行雑誌)、第十八巻第三号「武当瑣話」、秦学聖、1944年3月31日

古写真

1934年

この紫霄殿正面の映像は、李達可が1934年の春から夏にかけての武当山旅行記録に見られ、後に1936年10月『旅行雑誌』第十巻第十号「武当山遊記」に発表された。原刊のスキャンは『旅行雑誌』1936年第10巻第10号を参照。

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