セラ寺

セラ寺はラサの北郊にあり、1419年にかつて明の朝廷に入ったシャキャ・イェシェがツォンカパの命を受けて建立した。寺院はその後、大経堂と三つの学堂を備え、かつて数千人の僧を収容したゲルク派の僧院へと拡張された。本稿は古籍、寺院研究、僧の回想、古写真により、明廷からの賜物、十八世紀の殿堂の交替、飛来杵の巡行、弁論の日常、そして二十世紀初頭以降の寺院影像をたどる。

時代
明代
地域
チベット
所在地
チベット自治区ラサ市
1936年10月25日、近くの山腹から俯瞰したセラ寺建築群
1936年10月25日、近くの山腹から俯瞰したセラ寺建築群

紹介

永楽十二年(1414)、ツォンカパの弟子シャキャ・イェシェは明の朝廷に入った。翌年、明廷は彼に大国師[1]の号を授け、印と勅書を賜った。永楽十四年に辞して帰る際には、さらに仏経、仏像、法杖、僧衣、綺帛、金銀器を賜った。1419年、シャキャ・イェシェはツォンカパの命を受け、セラ山に大寺を建立した。寺では彼が内地から持ち帰った白檀で釈迦仏、十八羅漢などの像を刻み、上下の学堂[2]と四つの小寺を建てて僧を招いて住まわせた。

1642年、第五代ダライ・ラマはホショト部モンゴルの首領グシ・ハンの軍事的支援のもと、ガンデン・ポタン政権を樹立した。ホショトのハンは同時に軍事力を保持し、ラサの政局にも参与した。1705年、グシ・ハンの子孫ラブザン・ハンがラサの政権を奪取した。ラブザン・ハンが政権を握っていた間、セラ寺の旧集会殿はすでに全寺の僧を収容できなくなっていた。彼は寺院のためにより大きな集会殿を建てることを約束したが、そのかわり寺側に旧殿を自らの私的な儀軌僧団へ引き渡すよう求めた。新殿は全寺の僧が集うツォクチェン大殿[3]となり、ラブザン・ハンの僧団は旧殿で儀軌を行った。1717年、ジュンガル軍がラサに攻め入り、ラブザン・ハンは殺された。旧殿を使い続けた僧団は、後に次第にセラ寺の密教学堂となった。

清代になると、セラ寺の塀の内側には三棟の金殿と数か所の円亭があり、楼閣と僧房が山に沿って広がった。ダライ・ラマは毎年一度寺に来て経典を講じた。寺にはまた長さ二尺に満たない降魔の鉄杵が秘蔵され、一端は三稜の鉄鞭のようであり、もう一端は三つの人頭の形をしていた。伝承では、建寺の際に「大西天」から飛来したとされ、チベット人は毎年これを拝んだ。二十七日になると、寺はさらに「飛来杵」をラサに迎え、ジョカンの周りを巡行させた。

二十世紀、かつてセラジェ学堂で学んだゲシェ[4]の回想によれば、僧は毎日学堂で何度もの弁論に参加した。弁論の際に書物を持ち込むことは許されず、引用する経典は必ず記憶によって暗唱しなければならなかった。一部の学級は、さらに一晩おきに屋根のない中庭で徹夜の弁論を行った。ラサの冬の夜は非常に寒く、僧は繰り返し拍手を打つため、両手はしばしばひび割れて血がにじんだ。

歴史文献

『明史稿』

大慈法王名释迦也失,亦乌斯藏僧称为尚师者也。永乐中。既封二法王,其徒争欲见天子邀恩宠,于是来者趾相接。释迦也失亦以十二年入朝,礼亚大乘法王。明年,命为妙觉圆通慈慧普应辅国显教灌顶弘善西大佛子大国师,赐之印诰。十四年,辞归,赐佛经、佛像、法仗、僧衣、绮帛、金银器,且御制赞词赐之,其徒益以为荣。明年,遣使来贡。十七年,命中官杨三保赍佛像、衣币往赐。二十一年,复来贡。宣德九年入朝,帝留之京师,命成国公朱勇、礼部尚书胡淡持节册封为万行妙明真如上胜清净般若弘照普慧辅国显教至善大慈法王、西天正觉如来自在大圆通佛。宣宗崩,英宗嗣位,礼官先奏汰番僧六百九十人。正统元年,复以为请,命大慈法王及西天佛子如故,余遣还。不愿者减酒馔、廪饩,自是辇下稍清。西天佛子者,能仁寺僧智光也。本山东庆云人。洪武、永乐中,数奉使西国。成祖赐号国师,仁宗加号圆融妙慧净觉弘济辅国光范演教灌顶广善大国师,赐金印、冠服、金银器。至是复加西天佛子。未几卒。已释迦也失亦卒。

大慈法王は名をシャキャ・イェシェといい、ウー・ツァンの僧で、僧たちから尚師と呼ばれた者である。永楽年間、すでに二法王が封ぜられると、その徒は競って天子にまみえて恩寵を求め、来る者はひっきりなしに続いた。シャキャ・イェシェもまた永楽十二年に来朝し、その礼遇は大乗法王に次いだ。翌年、妙覚円通慈慧普応輔国顕教灌頂弘善西大仏子大国師に任ぜられ、印と勅書を賜った。十四年に辞して帰るにあたり、仏経、仏像、法杖、僧衣、綺帛、金銀器を賜り、さらに御製の賛詞を賜ったので、その徒はますますこれを栄誉とした。翌年、使者を遣わして入貢した。十七年、中官の楊三保に仏像と衣幣を携えて賜いに行かせた。二十一年、再び入貢した。宣徳九年に入朝すると、帝は彼を京師に留め、成国公朱勇と礼部尚書胡濙に節を持たせて、万行妙明真如上勝清浄般若弘照普慧輔国顕教至善大慈法王・西天正覚如来自在大円通仏に冊封した。宣宗が崩じ、英宗が即位すると、礼官はまず番僧六百九十人を淘汰するよう奏上した。正統元年、再びこれを請うと、大慈法王と西天仏子は従前どおりとし、残りは帰還させるよう命じられた。帰ることを望まない者は酒饌と廩餼を減らされ、これより都のあたりはやや清らかになった。西天仏子とは、能仁寺の僧智光のことである。もと山東慶雲の人。洪武・永楽年間、たびたび使節として西国に赴いた。成祖は国師の号を賜い、仁宗は円融妙慧浄覚弘済輔国光範演教灌頂広善大国師の号を加え、金印、冠服、金銀器を賜った。この時さらに西天仏子が加えられた。まもなく死去した。やがてシャキャ・イェシェもまた死去した。

《明史稿》 (『明史稿』)、列伝巻二百四「西域三・大慈法王」、清・王鴻緒纂

『衛蔵通志』

色拉寺唐古忒语:色,金也。抗,山也。其山出金,故名。拉撒北十里色拉山。宗喀巴在色拉曲顶居住之时,观其地可建庙宇。其弟子甲木庆曲结、沙克伽伊喜明时入中国为禅师,赐物甚盛。回藏后,宗喀巴令其在色拉建立大寺。所供佛像,系由内地带檀香,雕刻释迦佛、十八罗汉及诸佛像。又修上下札仓、札仓,译言僧房也。嘉庚、赞仲钟顶小寺四所,招喇嘛居住。其寺依山势,建金殿三座,层楼高耸,达赖喇嘛亦岁至讲经。寺中供一降魔铁杵,长不足二尺,头如三棱锏,一头如人头状,番语呼为多尔济。相传建寺时,自大西天飞来。其寺堪布珍之,番人必岁一朝供。

セラ寺。唐古忒語で「セ」は金、「カン」は山を意味する。その山から金が出るので、この名がある。ラサの北十里のセラ山にある。ツォンカパがセラ・チューディンに住んでいたとき、その地を観察して寺を建てるにふさわしいと考えた。その弟子ジャムチェン・チュージェとシャキャ・イェシェは明の時代に中国に入って禅師となり、賜り物は非常に盛んであった。チベットに帰った後、ツォンカパは彼らにセラに大寺を建立するよう命じた。寺に祀られる仏像は、内地から持ち帰った白檀で釈迦仏、十八羅漢および諸仏像を刻んだものである。また上下の学堂を建てた。学堂とは訳すと僧房のことである。嘉庚、賛仲、鍾頂などの小寺四か所を修め、ラマを招いて住まわせた。その寺は山の地形に沿って建ち、金殿三棟を建て、楼閣は高くそびえ、ダライ・ラマも毎年訪れて経典を講じた。寺には降魔の鉄杵が一つ祀られ、長さは二尺に満たず、頭は三稜の鉄鞭のようで、もう一方の頭は人頭の形をしており、番語ではドルジェと呼ばれる。伝承では、建寺の時に大西天から飛来したという。寺のカンポはこれを宝とし、チベット人は必ず年に一度拝みに来る。

《卫藏通志》 (『衛蔵通志』)、巻六「寺廟・セラ寺」、清・和琳撰

『雍正四川通志』

塞喇寺在西藏北十里,筑土为城,留门三。内建大寺二座,设经堂、佛像。住坐堪布大喇嘛一名,掌事僧官三名,管辖喇嘛八千余众。多系陕西杨鲁等土司及河州一带僧人,在此受戒传经。俱于城内土房居住。寺内有一降魔杵,番民呼为多尔济,传自大西天飞来该寺,掌教珍之,置密室,番人岁一朝观。

サイラ寺はチベットの北十里にあり、土を築いて城とし、門を三つ残す。中には大寺二棟を建て、経堂と仏像を設けた。住職のカンポ大ラマ一名、寺務を司る僧官三名が、八千余りのラマを管轄した。多くは陝西の楊・魯などの土司領や河州一帯の僧で、ここで受戒し経典を伝えた。みな城内の土造りの家に住んだ。寺内には降魔の杵が一つあり、番民はドルジェと呼ぶ。大西天からこの寺へ飛来したと伝えられ、掌教はこれを宝として密室に置き、チベット人は年に一度拝観する。

《雍正四川通志》 (『雍正四川通志』)、巻二十一「寺廟・サイラ寺」

『西蔵志』

色拉寺召北十里,依山成势,碉房层楼,参差高耸,围墙如廊。内金殿三座,圆亭数处。达赖喇嘛岁至讲经一次。寺有掌教呼图克图主之,喇嘛约四五千众。内有铁杵一枝,长不足二尺,一头如三棱锏,一头如人头状者三,如韦䭾所执降魔杵。云昔建寺时,自西天飞来者,人咸争礼之。

セラ寺はジョカンの北十里にあり、山に沿って形を成し、碉房と楼閣が入り組んで高くそびえ、周囲の塀は回廊のようである。中には金殿三棟、円亭数か所がある。ダライ・ラマは年に一度来て経典を講じる。寺には掌教のホトクトがいてこれを主り、ラマは約四、五千人いる。中に鉄杵が一本あり、長さは二尺に満たず、一端は三稜の鉄鞭のようで、もう一端は三つの人頭の形をしており、韋駄天の持つ降魔杵に似ている。昔、建寺の時に西天から飛来したといい、人々はみな争ってこれを礼拝した。

《西藏志》 (『西蔵志』)、巻一、清・允礼撰

二十三日,郡王及噶隆牒巴并有名大喇嘛,各出八九名以至十四五岁幼童数名,快马数匹,跑马自色拉寺东山脚起,由布达拉后至工布堂,约三十里,一气跑到。先到者赏经䌷、哈达、银钱等物,其次到、后到者,各分赏有差。又选善走之人数十名,自布达拉西跑至拉撒东止,约十余里,亦一气跑到,别其先后分赏。赏毕,绕召跑三匝而散。此以为一年抢标夺彩之戏。

二十三日、郡王およびカロン、デパ、名のある大ラマが、それぞれ八、九歳から十四、五歳までの幼童数名と速い馬数頭を出し、セラ寺の東の山麓を起点に、ポタラ宮の後ろを通ってゴンプタンまでの約三十里を一気に駆けさせる。先に着いた者には経典用の絹織物、ハタ、銀銭などを与え、次に着いた者、後から着いた者にはそれぞれ差をつけて褒美を与える。また足の速い者数十人を選び、ポタラ宮の西からラサの東まで約十余里を、これも一気に走らせ、先後の別によって褒美を分け与える。褒美が済むと、ジョカンの周りを三周走って解散する。これがその年の標を奪い彩を競う競技である。

《西藏志》 (『西蔵志』)、巻一、清・允礼撰

至二十七日,迎色拉寺之飞来杵至拉撒转召。二月三十日,布达拉悬挂大佛,其佛像系五色縀堆成,自布达拉第五层楼垂至山脚,长约三十丈,将大召中所有宝玩、金珠器皿陈列。喇嘛装束神鬼诸妖,各番国人物、牛、虎、象等兽,转召三次,至布达拉大佛前,各跳舞歌唱,如此一半月间始散。乃其地之春戏,神鬼人兽等衣着,颇极精巧华丽,其宝玩无穷,不能枚举。

二十七日になると、セラ寺の飛来杵をラサに迎えてジョカンを巡らせる。二月三十日、ポタラ宮に大仏が掛けられる。その仏像は五色の緞子で作り、ポタラ宮の五階から山麓まで垂らし、長さは約三十丈である。ジョカン中のすべての宝玩、金珠の器皿を陳列する。ラマは神鬼や諸々の妖怪、各番国の人物、牛、虎、象などの獣に扮し、ジョカンを三周した後、ポタラ宮の大仏の前でそれぞれ踊り歌い、こうして半月ほどで解散する。これがその土地の春の戯れで、神鬼・人・獣などの衣装は頗る精巧華麗で、その宝玩は数え尽くせないほどである。

《西藏志》 (『西蔵志』)、巻一、清・允礼撰

六月三十日,别蚌寺色拉寺挂大佛,亦装神鬼等类,垂仲下神。番民男女并皆华服艳装,或歌或唱,翻杆子、跌打各种跳舞,亦二寺之大会也。七月十五日,另雇牒巴一人,以司农事,其他之头目,牒巴陪之游街,佩弓挟矢,旗幡导引,遍历郊圻,以观田禾。射饮一日,以庆丰年,然后土民刈𮒗。

六月三十日、デプン寺とセラ寺が大仏を掛け、同じく神鬼などに扮し、垂仲が神を降ろす。チベット人の男女はみな華やかな服と鮮やかな装いで、あるいは歌い、棒登りや曲芸など様々な踊りがあり、これも二寺の大法会である。七月十五日、別にデパ一人を雇って農事を司らせ、他の頭目はデパに伴われて街を巡り、弓を佩び矢を携え、旗を先導として郊外を隈なく巡り、田の稲を観る。一日、弓を射て酒を飲み、豊年を祝ってから、土民は刈り入れを始める。

《西藏志》 (『西蔵志』)、巻一、清・允礼撰

『康輶紀行』

四月十五日,寺门洞开,亦然灯达日,任蕃人游玩。六月三十日,别蚌、色拉两寺亦悬大佛像,有垂仲降神。蕃民男妇皆华服艳肱,歌唱翻杆相扑,诸戏咸备,亦二寺之大会也。

四月十五日、寺門は大きく開かれ、灯火は昼まで続き、チベット人に自由に遊ばせる。六月三十日、デプン寺とセラ寺の二寺も大仏像を掛け、垂仲が神を降ろす。チベット人の男女はみな華やかな服と鮮やかな装いで、歌、棒登り、相撲など、諸々の見世物が揃い、これも二寺の大法会である。

《康輶纪行》 (『康輶紀行』)、巻七、清・姚瑩撰

『ラサ庁志』

色拉寺大召北十里山,层楼房屋参差,围墙内金殿三座,园亭数处。达嚬喇嘛岁至续经一回寺掌教呼图克图之主,喇嘛约五千。

セラ寺はジョカンの北十里の山にあり、楼閣と家屋が入り組んで立ち、塀の内側には金殿三棟、園亭数か所がある。ダライ・ラマは年に一度来て経典の読誦を一回行う。寺は掌教のホトクトがこれを主り、ラマは約五千人いる。

《拉萨厅志》 (『ラサ庁志』)、巻上「寺廟」、清・李夢皋纂

『竺国紀遊』

色拉寺在拉攃前藏地名,又名拉擏。北十里,依山建金殿,三岑楼高耸。达赖喇嘛岁至讲经。相传寺有降魔杵一,番语呼为多尔济,从大西天飞来,番人岁一朝观焉。按西藏在打箭炉之西南,而番民谓小西天、大西天尚在其西,计程可达,似时时有人往来其地者,亦如华人之慕西土焉,予不得而知之矣。色金也拉,山也。此山后出金矿,故名。达赖喇嘛派人经管,不准私开,每年只供商上采用。余所见生金有十余两成块,中裹砂石,炼出,色亦较淡,必数炼方佳。彼中佛像装金皆用之。寺有五千余众,为四大寺之一。余询之卡契,自前藏至甲喀尔,约可四十余日。甲喀尔在西海之边,大西天尚须过海,约半月之程云。西藏寺庙皆用铜缸贮酥油,难以供佛。上元节谓光明佛生辰,寺庙街肆贮酥油于盏,难之如星球万点,照耀无异白昼。

セラ寺はラサ(前蔵の地名、ラチンとも書く)の北十里にあり、山に沿って金殿を建て、三つの岑楼が高くそびえる。ダライ・ラマは年に一度来て経典を講じる。伝承では寺に降魔杵が一つあり、番語でドルジェと呼ばれ、大西天から飛来したもので、チベット人は年に一度これを拝観する。思うに、チベットは打箭炉の西南にあるが、番民は小西天と大西天はさらにその西にあるといい、道程を数えれば到達できるので、絶えず人がその地を往来しているようである。それはちょうど中国人が西土を慕うのと同じであるが、私はその真偽を知ることができない。セラの「セ」は金、「ラ」は山の意である。この山は後に金鉱が出たので、この名がある。ダライ・ラマは人を遣わして管理させ、私的に採掘することを許さず、毎年ただ商上(政府)の用に供するだけである。私の見た自然金は十余両の塊となり、中に砂石を包み、精錬すると色はやや淡く、必ず数回精錬して初めて良くなる。かの地の仏像の金箔はみなこれを用いる。寺には五千余人の僧がおり、四大寺の一つである。私がカシミール人に尋ねたところ、前蔵からギャカルまで約四十余日かかるという。ギャカルは西海の辺りにあり、大西天へはさらに海を渡らねばならず、約半月の道程だという。チベットの寺はみな銅の大甕に酥油を蓄え、それを燃やして仏に供える。上元節は光明仏の誕生日とされ、寺や街の店は酥油を灯盞に満たして燃やし、その様は一万点の星のようで、その明るさは白昼と変わらない。

《竺国纪游》 (『竺国紀遊』)、巻二、清・周藹聯撰

『衛蔵攬要』

一色拉寺,此寺又名黄金寺,为宗喀巴弟子沙克迦伊喜所建。在拉萨之。北十里,其地名曰色拉山,因山势建造金殿三座,层楼高耸,达赖喇嘛亦岁至其地讲经焉。其寺内所供之佛,为释迦佛、十八罗汉及诸佛像等。其所有佛像,全系檀香木所雕刻而成,并系沙克迦伊喜携自内地,因该师当明朝时入内。地为禅师也。庙内又有魔铁杵,藏语谓之多尔济,一枚长。近二尺,一端如三棱锏,一端如人头状。相传谓造该寺时,自大西天飞来。是物也,不特其寺之堪布珍宝之,而藏人亦每岁为一礼供云。

一、セラ寺。この寺はまた黄金寺ともいい、ツォンカパの弟子シャキャ・イェシェが建てた。ラサの北十里にあり、その地名をセラ山という。山の地形に沿って金殿三棟を建て、楼閣は高くそびえ、ダライ・ラマも毎年この地に来て経典を講じた。寺内に祀る仏は、釈迦仏、十八羅漢および諸仏像などである。そのすべての仏像は白檀の木で彫刻したもので、シャキャ・イェシェが内地から持ち帰ったものである。この師は明朝の時に内地に入り、禅師となったからである。寺内にはまた魔の鉄杵があり、チベット語でドルジェという。一本の長さは二尺近く、一端は三稜の鉄鞭のようで、一端は人頭の形をしている。伝承では、この寺を造った時に大西天から飛来したという。この物は、その寺のカンポが宝とするのみならず、チベット人も毎年一回礼拝供養するという。

《卫藏揽要》 (『衛蔵攬要』)、巻四、民国・邵欽権纂

万历四十四年,示寂于色拉寺,年二十八也。

万暦四十四年、セラ寺で示寂した。年は二十八歳であった。

《卫藏揽要》 (『衛蔵攬要』)、巻四「第四世ダライ・ラマ史略」、民国・邵欽権纂

『清史稿』

八辈罗布藏降白嘉穆错摆桑布,于乾隆二十三年在后藏拖结热拉冈出世。二十七年,迎至布达拉坐床。三十年,由班禅班垫伊喜传授小戒。三十三年,亲至前藏攒招,随登色拉、布赉绷、噶勒丹三大寺讲经之座。四十二年,由班禅传授格隆大戒。四十六年,颁给敕书、金册、金印,赏达赖之兄索诺木达什辅国公。四十八年,颁玉册、玉印,凡遇国家庆典准其钤用,其寻常奏书文移仍用原印。

第八世ロサン・ジャンペル・ギャツォ・ペルサンポは、乾隆二十三年に後蔵のトゥクジェ・ラガンで生まれた。二十七年、ポタラ宮に迎えられて坐床した。三十年、パンチェン・ペルデン・イェシェから小戒を授けられた。三十三年、自ら前蔵に赴いて大祈願祭に参加し、続いてセラ、デプン、ガンデンの三大寺の説法の座に登った。四十二年、パンチェンからゲロンの大戒を授けられた。四十六年、勅書、金冊、金印を賜り、ダライ・ラマの兄ソナム・タシに輔国公の位を授けた。四十八年、玉冊、玉印を賜り、国家の慶典に際してはこれを用いることを許され、平常の奏書や文書の往復にはなお元の印を用いた。

《清史稿》 (『清史稿』)、巻五百二十五「藩部八・西蔵」、民国・趙爾巽等撰

『英蔵条約』

1904年9月7日、セラ、デプン、ガンデンの三大寺の代表はチベット側の議約者として列記され、条約の末尾には三寺の印が並べられた。この二つの記述が記録するのは三大寺が機構として議約に加わったことであり、条約の内容は寺院建築を対象としたものではない。

大英国政府特派边务全权大臣荣赫鹏与噶尔丹寺长罗生戛尔曾暨噶布伦并色拉别蚌、噶尔丹三大寺之呼图克图,兼与西藏民教诸首领,代表西藏议定条款,开列于后。

大英帝国政府は辺務全権大臣ヤングハズバンドを特派した。ガンデン寺長ロサン・ギャルツェン、カロン、セラ・デプン・ガンデン三大寺のホトクト、ならびにチベットの俗界・宗教界の諸首領がチベットを代表し、条項を議定して以下に列挙する。

《光绪条约》 (『光緒条約』)、巻八十三「英蔵条約」、汪毅等輯

第十款,

第十款。

此约共缮五分,由商定之员在拉萨于光绪甲辰年七月二十八日,即西历一千九百零四年九月初七日画押,盖印为凭。

この条約は五通作成され、協議にあたった代表がラサにおいて光緒甲辰年七月二十八日、すなわち西暦1904年9月7日に署名し、証として捺印した。

大英国边务大臣荣赫鹏印

大英帝国辺務大臣ヤングハズバンドの印。

达赖喇嘛印、此印乃噶尔丹寺长所钤。

ダライ・ラマの印。この印はガンデン寺長が押したものである。

噶布伦印、

カロンの印。

别蚌寺印、

デプン寺の印。

色拉寺印、

セラ寺の印。

噶尔丹寺印、

ガンデン寺の印。

西藏首领印。

チベット首領の印。

《光绪条约》 (『光緒条約』)、巻八十三「英蔵条約」第十款、汪毅等輯

古写真

1904年

大英図書館の Curzon Collection には、John Claude White が1904年9月前後に撮影したセラ寺の近景がある。写真は寺内の道から山に沿って建つ家屋を望むもので、大英図書館はまた館蔵紹介の中でこの写真の高解像度版を公開している。

1920~1921年

Sir Charles Bell のラサ使節団の写真には、山麓のセラ寺全景があり、開けた場所から山麓に沿って広がる寺院建築群を望む。もう一枚のセラジェ学堂の大経堂は、大経堂の正面、階段とその前に集まる僧を記録している。

1922年頃

The Tibet Album にはまた、1922年頃のセラ寺の入口が収録されている。四人の僧が門道の下に立ち、中央の二人は職務の鉄杖を持ち、背後に寺院の家屋が見える。

1936年

大英博物館とピット・リヴァース博物館が協力して整理した The Tibet Album には、Frederick Spencer Chapman が1936年に撮影したセラ寺の影像が収められており、10月25日に近くの山腹から撮影した寺院全景、10月18日に撮影したセラジェ学堂大経堂の外観、大経堂の内部、大経堂へ通じる門道がある。10月18日から21日の間に撮影されたもう一枚は、大経堂屋根の金箔の仏教標章を記録している。

同年10月18日、Evan Yorke Nepean が撮影したセラ寺の中庭には、境内の家屋、石段、若い僧、そして宗教儀式の際に茶を煮るための大型の金属容器が写っている。

1937年

同じ館蔵にはさらに、Chapman が1937年1月に山から撮影したセラ寺全景が二枚ある。一枚目はセラ寺とラサ河谷を俯瞰し、二枚目は別の山腹から寺院、谷と遠山を記録している。

1936~1950年

Hugh E. Richardson が1936年から1950年にかけて撮影した初期のカラー写真には、セラ寺とラサ北部の砂地と寺院正面の全景の二枚があり、寺院建築群と山麓の地形の色彩記録を留めている。

参考資料