概要
南宋の淳煕初年、発運使[1]・吏部侍郎を歴任した史正志が蘇州の帯城橋一帯に邸宅と花圃を築いた。これが網師園の前身である。邸内には蔵書堂が建てられ、万巻堂と名づけられ、書籍は四十二の書棚に環列し、その多くは写本であった。花圃は漁隠と号し、史家にはさらに五百株の牡丹が植えられていた。春に花が咲くと、呉中の人々は席を設けて客を招き花を賞で、蔵書・花の栽培・宴游がこの邸園の最も早い生活を形作った。
伝えるところでは、史正志が郷里に帰ったばかりの頃、随従する船々は舳艫を連ね、葑門から邸前まで続いたという。しかしこの邸園は史家に一代しか伝わらなかった。まず花圃が荒廃し、続いて邸宅は十万緡[2]の値を付けて売りに出されたが、長く買い手がなく、最後に一万五千緡で常州の丁氏に売られた——かつてこれを築くのに百五十万緡を費やしたというのに。南宋の紹定末年になると、丁氏の兄弟が家を分け、宅産を四つに分割した。浙西提刑官の趙汝櫄は続いて旧宅を官有物として占め、百万倉と和糴場[3]に改め、穀物の貯蔵と買い上げに充てた。万巻堂の蔵書も次第に散逸し、初めは古紙として斤量で買い取られ、後には勢力ある家が書棚一つにつき十千しか払わず、ことごとく持ち去った。明の正徳初年になっても、万巻堂はなお史正志の旧居として蘇州の邸宅の列に著録されていたが、旧宅の石の記は僧によって磨り潰され、宋代の花圃はとうに失われていた。
清の乾隆年間、光禄寺少卿の宋宗元が万巻堂の故址を購入した。彼は任にある間から、家人に命じて旧圃の中に堂を築き楼を建て、池塘・亭台・小舟を整え、官を辞して郷に帰り老母を養う準備とした。園は網師小築と名づけられた——「網師」とはすなわち漁夫であり、旧圃の「漁隠」の意を継ぐとともに、園のそばの「王思」巷の名とも音が諧り、宋宗元はこれをもって自ら号し、またこれをもって園の名とした。五十に満たないうちに、彼は母が年老いたことをもって帰郷を願い出、晴れた日には母を扶けて曲がりくねった径を散歩し、暇には友人を招いて酒を飲み詩を賦した。園中には北山草堂・濯纓水閣・小山叢桂軒・度香艇など十二の景が建てられ、宋宗元は自ら『網師小築十二詠』を賦した。母が亡くなり服喪が満ちると、彼は再び出仕し、天津道に授けられた。人が蘇州を離れると、園中の糸竹詠吟もまたやんだ。
宋宗元の死後、園林は日々に頽圮していき、喬木と古石は大半が失われ、ただ一泓の池水だけが依然として澄んでいた。乾隆の末、富商の瞿遠村が偶然この地を通りかかり、嘆息ののち園林を買い取り、もとの規模に基づいて改めて配置し、石を積み木を植え、亭宇を増築したため、園林は瞿園とも称された。新たに成った園には月到風来亭・雲岡亭・竹外一枝軒などの景があり、落成の日、主人は友朋を集めて園中に游宴した。嘉慶・道光年間、園中の芍薬が最も盛んで、「呉中に甲たり」との称があり、瞿氏の後人はしばしば花の時に賓客を招いて賞玩した。道光年間になると、網師園はすでに拙政園・寒碧荘などとともに呉中の游園の名所となり、春秋の佳日には游人に開放された。園中の「風風雨雨、暖暖寒寒」で始まる一副の楹聯は、花葉・鶯燕と朝夕を一つに書き連ね、游人が亭廊の間を行き来する情境にまさに合致する。
道光年間、園林は転々として徽州の人・呉嘉道に帰した。同治年間にはまた江蘇按察使の李鴻裔に帰した。彼は耳の病のため官を辞した後、蘇州に移り住み、園に修繕を加えた。園中の老樹怪石・池沼亭館は昔のままで、さらに数万巻の書を積み、金石書画とともに日を過ごした。光緒十一年(1885)に李鴻裔が亡くなると、園林は幾度も主を変え、一時は逸園と改称された。1940年、収蔵家の何澄(字は亜農)が園林を購入し、網師園の旧名を復した。1950年、何氏の後人は園林を国家に寄贈した。1958年、蘇州市園林管理処が引き継いで園林を整備し、続いて一般に公開した。1980年、アメリカのニューヨーク・メトロポリタン美術館は園中の殿春簃の庭院をモデルに一座の庭院を復元建設した。これは中国古典園林が世界に進出した最初の例である。
今日の網師園は姑蘇区の闊家頭巷にあり、なお東に宅、西に園という布局を保っている。住宅の中の万巻堂・擷秀楼は南から北へと連なり、西側では亭廊が彩霞池を囲んで展開する。南宋の蔵書堂の名称は大庁に留められ、現存する宅園の布局の基礎は清代の宋・瞿両家の営建に由来する。
歴史文献
『呉中旧事』
史发运宅,在带城桥。淳熙初,宅成,计其费一百五十万𦈏,仅一传不能保,僦直十万𦈏,久不售,后为丁季卿以一万五千𦈏得之。绍定末,丁又不能保。赵汝櫄来为浙西提刑官,占为百万仓和籴场。故老说发运初归时,舳舻相衔,凡舟自葑门直接至其宅前,用发运司按纸黏窗煮黏面六七石,自后仅易目前耳。万卷堂环列书四十二厨,写本居多。始则论斤买为故纸,其后势家每厨止得一十千,席卷而去。
史発運の宅は、帯城橋に在り。淳煕の初め、宅成る。その費を計れば百五十万緡なり。僅かに一伝にして保つこと能わず、僦直十万緡、久しく售れず、後に丁季卿が一万五千緡を以てこれを得たり。紹定の末、丁も又た保つこと能わず。趙汝櫄、来たりて浙西の提刑官と為り、占めて百万倉・和糴場と為す。故老の説く、発運の初めて帰りし時、舳艫相銜ぎ、凡そ舟は葑門より直ちに其の宅前に接したりと。発運司の按紙を用いて窓に黏し、黏麺六七石を煮る。後よりは僅かに目前を易うる耳。万巻堂は書を環列すること四十二厨、写本多く居れり。始めは斤を論じて買われて故紙と為され、其の後は勢家、厨毎に止まり一十千を与え、席巻して去れり。
吴俗好花,与洛中不异。其地土亦宜花,古称长洲茂苑,以苑目之,盖有由矣。吴中花木不可殚述,而独牡丹、芍药为好尚之最,而牡丹尤贵重焉。旧寓居诸王皆种花,往往零替,花亦如之。盛者唯蓝叔成提刑家最好事,有花三千株,号万花堂。尝移得洛中名品数种,如玉盌白、景云红、瑞云红、胜云红、玉间金之类,多以游宦,不能爱护,辄死。今惟胜云红在。其次林得之知府家有花千株。胡长文给事、成居仁太尉、吴谦之待制家种花亦不下林氏。史志道发运家亦有五百株。如毕推官希文、韦承务俊心之属,多则数百株,少亦不下一二百株,习以成风矣。至谷雨为花开之候,置酒招宾就坛,多以小青盖或青幕覆之,以障风日。父老犹能言者,不问亲疏,谓之看花局。今之风俗不如旧,然大槩赏花则为宾客之集矣。
呉の俗は花を好み、洛中と異ならず。其の地土も亦た花に宜しく、古く長洲茂苑と称し、苑を以て之を目とす。けだし由有るなり。呉中の花木は殫く述ぶべからず。而れども独り牡丹・芍薬を好尚の最と為し、牡丹は尤も貴重なり。旧き寓居の諸王は皆な花を種え、往々零替し、花も亦た之に如たり。盛んなる者は唯だ藍叔成提刑の家、最も好事にして花三千株有り、号して万華堂と曰う。嘗て洛中の名品数種を移し得たり、玉盌白・景雲紅・瑞雲紅・勝雲紅・玉間金の類。多くは游宦を以て愛護すること能わず、輙ち死す。今は惟だ勝雲紅のみ在り。其の次は林得之知府の家、花千株有り。胡長文給事・成居仁太尉・呉謙之待制の家の種花も亦た林氏に下らず。史志道発運の家も亦た五百株有り。畢推官希文・韋承務俊心の属の如きは、多くは数百株、少なくとも亦た一二百株を下らず、習い以て風を成せり。谷雨に至りて花開くの候と為れば、酒を置き賓を招きて壇に就き、多くは小青盖或いは青幕を以て之を覆い、以て風日を障ぐ。父老の猶お言う能う者は、親疎を問わず、之を看花局と謂う。今の風俗は旧に如かずと雖も、然れども大槩、花を賞ずれば則ち賓客の集と為るなり。
『姑蘇志』
万卷堂,侍郎史正志所居,在带城桥南,旧有石记,为僧磨毁。施氏丛抄云:正志,扬州人,造带城桥宅及花圃,费百五十万𦈏,仅一传。圃先废,宅售与常州丁卿昆季,仅得一万五千𦈏。绍定末,丁折为四,其后提举赵汝櫄占为百万仓籴场。
万巻堂は、侍郎史正志の居る所、帯城橋の南に在り。旧く石記有り、僧の為に磨毀せられたり。施氏叢抄に云く「正志は揚州の人、帯城橋の宅及び花圃を造り、費は百五十万緡、僅かに一伝。圃は先に廃れ、宅は常州の丁卿昆季に售られ、僅かに一万五千緡を得たり。紹定の末、丁は折れて四と為り、其の後提挙の趙汝櫄が占めて百万倉・糴場と為す」と。
「網師園図記」
予读欧阳文忠公思颍诗,叹士大夫一执仕版,欲遂其山林之乐而不易得也。公留守东都,即思买田颍上,阅二十载,愿迄未遂。自序云:有志于强健之年,未偿于衰老之后,良可悯也。同年观察宋君悫庭,以名孝廉为令畿辅,有廉能声。数年中瀳历监司,政和民治,大吏重之,天子知之,行将畀以节钺,入参机务,如文忠之致位两府。乃年未五十,以太夫人年老陈情,飘然归里。先是,君在官日,命其家于网师旧圃,筑室构堂,有楼有阁,有台、有亭,有沜、有陂,有池、有艇,名网师小筑,赋十二景诗,豫为奉母宴游之地。至是果符其愿。既归,循陔采兰,凌波捕鲤,奉太夫人晨餐夕膳。每当风日晴美,侍鱼轩,扶鸠杖,周行曲径,以相娱悦。时或招良朋,设旨酒,以觞以咏,凭高瞻眺,幽崖耸峙,修竹檀栾,碧流渺弥,芙蕖娟靓,以及疏梧蔽炎,丛桂招隐,凡名花奇卉,无不萃胜。于园中指点少时游钓之所,抚今追昔,分韵赋诗。座客啧啧叹羡,谓君遭逢之威,邱壑之佳,当与子美、沧浪、仲瑛、玉山并传。子谓子美仕宦不得志,扁舟来吴,买木石以寄其诧傺无聊之感。仲瑛饩馆声伎,甲于东南,然时丁末造,轻财结客,比于燕雀处堂而已。孰若君中岁抽簪,啸歌自得,处太平之世,展将母之怀,无累于中,不求乎外,此其乐文忠公所不能遽遂者,而君早遂之,虽遭逢使然,而亦君之知几恬退,有以自致乎此也。园名网师,比于张志和、陆天随,放浪江湖,盖其自谦云尔。命画师绘图,又以师卢鸿乙王摩诘,欲使图画之并传于后也。予与君比屋而居,昕夕过从,咏少陵高枕乃吾庐句,殆有因君之乐以乐予之乐者乎?故不辞而为之记。
予は欧陽文忠公の思潁の詩を読み、士大夫は一たび仕版を執れば、山林の楽を遂げんと欲するも得がたきを嘆ず。公は東都に留守するや、すなわち潁上に田を買わんことを思い、二十載を閲するも、願いついに遂げず。自序に云く「志は強健の年に有り、償われざるは衰老の後なり」、まことに憫むべきなり。同年の観察宋君悫庭は、名ある孝廉を以て畿輔の令と為り、廉能の声有り。数年の中に瀳りて監司を歴て、政和まり民治まり、大吏これを重んじ、天子これを知り、行く将に節鉞を以て畀えられ、入りて機務に参ずべく、文忠の位を両府に致すが如かんとしたり。乃ち年いまだ五十ならざるに、太夫人の年老いたるを以て情を陳し、飄然として里に帰る。これより先、君の官に在る日、その家に命じて網師の旧圃に、室を筑き堂を構え、楼有り閣有り、台有り亭有り、沜有り陂有り、池有り艇有りて、名づけて網師小築と曰い、十二景の詩を賦し、あらかじめ母を奉り宴游するの地と為せり。これに至りて果たして其の願いに符す。既に帰り、陔を循り蘭を採り、波を凌ぎ鯉を捕え、太夫人に晨餐夕膳を奉る。風日晴美なるに当たる毎に、魚軒を侍り、鳩杖を扶け、曲径を周行し、以て相娱悦せり。時には或いは良朋を招き、旨酒を設け、以て觴し以て詠じ、高きに凭りて瞻眺すれば、幽崖聳峙し、修竹檀欒、碧流渺弥、芙蕖娟靚、および疏梧の炎を蔽い、叢桂の隠を招くに至り、凡そ名花奇卉、勝を萃めざるは無し。園中に於いて少時游釣せし所を指さし、今を撫し昔を追い、韻を分かち詩を賦す。座客は嘖々として嘆羨し、君の遭逢の盛んなると邱壑の佳なると、子美・滄浪・仲瑛・玉山と並び伝うべしと謂う。予謂らく、子美は仕宦志を得ず、扁舟にて呉に来たり、木石を買い以て其の詫傺無聊の感を寄せたり。仲瑛は餼館声伎、東南に甲たりき。然れども時は末造に丁り、財を軽んじ客を結ぶも、燕雀の堂に処るに比するのみ。孰れぞ君の中歳に簪を抽き、嘯歌自ら得、太平の世に処り、母を将るの懐を展べ、中に累なく、外に求めざるに如かん——此の楽は文忠公の遽かに遂ぐる能わざる所にして、而るに君は早くこれを遂ぐ。遭逢の然らしむると雖も、而れども亦た君の幾を知り恬退する、以て自ら此に致る所以有り。園を網師と名づくるは、張志和・陸天随に比し、江湖に放浪す。けだし其の自ら謙ると云うのみ。画師に命じて図を絵せしめ、又た以て盧鴻乙・王摩詰に師とし、図画をして後に並び伝えしめんと欲す。予は君と屋を比ねて居り、昕夕過従し、少陵の「高枕、乃ち吾が廬」の句を詠ず。ほとんど君の楽に因りて以て予の楽を楽しむ者有らんか。故に辞せずして之が記を為す。
『元和県志』
网师小筑,宋副使宗元构以养母者。内有北山草堂、无喧庐、小山、丛桂轩、濯缨水阁、梅花、铁石山房、蹈和室、溪西小隐、度香艇、花影亭、半巢居、斗屠、丽瞩楼十二景。
網師小築は、宋副使宗元が母を養わんが為に構えし者なり。内に北山草堂・無喧廬・小山・叢桂軒・濯纓水閣・梅花・鉄石山房・蹈和室・渓西小隠・度香艇・花影亭・半巣居・斗屠・麗瞩楼の十二景有り。
「網師小築十二詠」
北山草堂
北山草堂
树萱堂之北,结屋山之南。屋敝谋还葺,山幽许更探。为贫归未得,济胜具犹堪。比舍多贤达,花时兴正酣。
萱を堂の北に樹え、屋を山の南に結ぶ。屋敝れんとして還た葺かんことを謀り、山幽にして更に探るを許さん。貧の為めに帰ること未だ得ず、勝に済うの具は猶お堪えり。比舎に賢達多く、花の時、興まさに酣なり。
梅花铁石山房
梅花鉄石山房
敢托余芬远,芳型属在兹。赋中窥骨干,花外想丰姿。韵自开元胜,香宁邓尉差。肝肠期共证,只索可人知。
あえて余芬の遠きに託し、芳型はまさに兹に属す。賦の中に骨幹を窺い、花の外に豊姿を想う。韻は自ずから開元に勝れ、香はあに鄧尉に遜らんや。肝腸は共に証せんことを期す、ただ可人の知るを索むのみ。
濯缨小阁
濯纓小閣
倒影吞飞阁,波澄似镜明。晨光涵其洁,晚唱溜同清。脱帽三杯醉,枕肱一榻横。觉来临槛照,咄咄尚尘缨。
倒影は飛閣を呑み、波は澄んで鏡の明なるに似たり。晨光は其の潔きを涵え、晩唱は溜と同じく清し。帽を脱ぎて三杯に酔い、肱を枕として一榻に横たわる。覚めて檻に臨み照らせば、咄咄としてなお塵纓なり。
花影亭
花影亭
孤亭空所有,笛弄落花天。雁漏云间字,苔沉石上泉。筠帘风细细,镜槛月娟娟。好共歌喉转,蹁跹趁舞筵。
孤亭は所有を空しくし、笛は落花の天に弄す。雁は雲間の字を漏らし、苔は石上の泉に沈む。筠簾に風細細として、鏡檻に月娟娟たり。好んで歌喉の転ずると共に、蹁躚として舞筵に趁う。
丽瞩楼
麗瞩楼
底似凭楼好,南园淑景回。日筛花影碎,莺逗柳烟开。四野霞成幄,千村锦作堆。谁当一揽尽,取次付敲推。
何ぞ楼に凭るの好きに似んや、南園に淑景回る。日は篩って花影を碎き、鶯は逗ねて柳煙を開く。四野の霞は幄を成し、千村の錦は堆を作す。たれか当に一揽して尽くし、取り次ぎて敲推に付すべき。
度香艇
度香艇
信宿怜渔父,生涯足钓船。萧疏一箬雨,杳霭半池烟。遮莫浮家久,相将系艇偏。风来香满座,何似棹前川。
信宿して漁父を憐れみ、生涯は釣船に足れり。蕭疏たる一箬の雨、杳靄たる半池の煙。遮莫く浮家すること久しく、相将に艇を偏に繋ぐ。風来れば香は座に満ち、何ぞ前川を棹ぐるに似んや。
半巢居
半巣居
古风怀木处,野性惬巢居。借得一枝足,依然三匝余。妥红裀自满,生白室偏虚。只欲摩吾腹,凭高好晒书。
古風は木処を懐い、野性は巣居に惬る。借り得る一枝足れり、依然として三匝余あり。紅を妥ぐ裀は自ずから満ち、白を生ずる室は偏に虚なり。ただ吾が腹を摩せんことを欲し、高きに凭りて好んで書を晒す。
溪西小隐
渓西小隠
小有天何在,源深径欲迷。双扉开隐现,一水界东西。虹夏林悄渡,云锄屋角畦。浇书閒觅酒,隔岸唤山妻。
小有の天は何れの処にか在る、源深くして径迷わんと欲す。双扉開きて隠現し、一水は東西を界る。虹夏の林、悄として渡り、雲鋤の屋角の畦。書を澆ぎて閒に酒を覓め、岸を隔てて山妻を喚ぶ。
小山丛桂轩
小山叢桂軒
结山不厌小,种桂却成丛。位置三椽屋,婆娑一亩宫。影摇歌扇月,香趁酒旗风。更爱轩东望,排青蔽远空。
山を結ぶに小を厭わず、桂を種えて却って叢を成す。位置する三椽の屋、婆娑たる一畝の宮。影は歌扇の月に揺れ、香は酒旗の風に趁う。更に愛す、軒東を望めば、青を排して遠空を蔽う。
斗屠庑
斗屠廡
山静日逾永,消磨寄一廛。打头成率尔,容膝便悠然。吟罢焚香坐,酣来倚枕眠。何须营广厦,只此足安禅。
山静かにして日いよいよ永し、消磨して一廛に寄す。打頭に率爾を成し、膝を容れて便ち悠然たり。吟じ罢みて香を焚きて坐し、酣なり来たりて枕に倚りて眠る。何ぞ広厦を営まんを須ちんや、ただ此れ安禅に足れり。
无喧庐
無喧廬
避喧漫道幽栖稳,心达何妨近市居。好鸟劝人一尊酒,清风窥我半床书。萧疏竹影初晴候,历落棋声午梦余。除把未偿诗债了,应无剥啄到吾庐。
喧を避けて漫りに幽棲の穏やかなるを道うも、心達せば何ぞ市に近き居を妨げん。好鳥は人を勧めて一尊の酒、清風は我を窺いて半床の書。蕭疏たる竹影、初晴の候、歴落たる棋声、午夢の余。未だ償わざる詩債を把り了るを除きては、応に剥啄の吾が廬に到る無かるべし。
蹈和馆
蹈和館
自笑栖栖谋室处,书生头脑故冬烘。大裘万丈香山老,广厦千间锦里翁。怜我一寒聊自异,愧他三昧与人同。构来燠馆犹蜗舍,也假人工辅化工。
自ら笑う、栖栖として室処を謀る、書生の頭脳は故に冬烘なり。大裘万丈は香山の老、広厦千間は錦里の翁。我が一寒を憐れみて聊か自ら異なり、他の三昧の人と同じきに愧ず。構え来たる燠館は猶お蝸舎の如く、もまた人工を假りて化工を輔く。
『呉門園墅文献』
予妻弟鲁儒,字宗元,筑园于沧浪亭之东,名曰网师,沈尚书曾为之记。方其以养亲归也,有隐居晦之志。既亲没,终丧,再上长安,授天津道,鞅掌王事,而田园之乐荒矣。适予归里,复裴裛至止,俯仰之间,鸟啄于林,鱼游沼,而昔时丝竹之声,咏吟之会,不可复得,为怃然者久之。子尝泛舟五湖之滨,见彼之为网师者,终其身出没于风涛倾侧中而不知止,徒志石得鱼而已矣。乃如古三闾大夫之所遇者,又何其超然志远也。鲁儒于斯二者将何从马?
予の妻弟の魯儒、字は宗元、滄浪亭の東に園を筑き、名づけて網師と曰い、沈尚書かつてこれが記を為せり。其の親を養わんが為に帰るや、隠居して晦るの志有りき。既に親没し、喪を終え、再上して長安に至り、天津道を授かり、鞅掌として王事に勞し、而して田園の楽は荒れたり。適う予の里に帰り、復た裴裛として至止し、俯仰の間、鳥は林に啄み、魚は沼に游ぶ。而れども昔時の糸竹の声、詠吟の会は、復た得べからず。怃然と為ること久之。予かつて五湖の濱に舟を泛べ、彼の網師と為る者を見れば、其の身を終えて風濤傾側の中に出没して止まるを知らず、徒らに石を志し魚を得るのみ耳。乃ち古の三閭大夫の遇いし所の如きは、又何ぞ其の超然として志遠きや。魯儒は斯の二者に於いて将に何れに従わんとするや。
古人为园以树果,为圃以种菜。诗三百篇言园者田有桃、有棘、有树擅,非以侈游观之美也。汉魏西下,西园冠盖之游,一时夸为盛事,而士大夫亦各有家园,罗致花石,以豪举相尚。至宋而洛阳名园之记,传播艺林矣。然亭台树石之胜,必待名流䜩赏,诗文唱酬以传,否则辟疆驱客,徒资后人嗢噱而已。
古人は園を為して以て果を樹え、圃を為して以て菜を種う。詩三百篇に園を言う者は、田に桃有り、棘有り、樹擅有り、以て游観の美を侈るに非ざるなり。漢魏以降、西園の冠蓋の游は一時に盛事と誇られ、而して士大夫も亦た各々家園有り、花石を羅致し、豪挙を以て相尚とす。宋に至りて洛陽名園の記、芸林に传播す。然れども亭台樹石の勝は、必ず名流の䜩賞、詩文の唱酬を待ちて以て伝う。否ざれば辟疆の客を駆るが如く、徒らに後人の嗢噱に資するのみ耳。
吴中为都会,城郭以内,宅第骈间,肩摩趾错。独东南隅负郭临流,树木丛蔚,颇有半村半郭之趣。带城桥之南,宋时为史氏万卷堂故址,与南园沧浪亭相望,有卷曰网师者,本名王思,曩三年前宋光禄悫庭购其地,治别业,为归老之计,因以网师号,并颜其园,盖托于鱼隐之义,亦取卷名,音相似也。
呉中は都会と為り、城郭以内、宅第は駢間し、肩を摩し趾を錯う。独り東南隅は郭を負い流れに臨み、樹木叢蔚として、頗る半村半郭の趣有り。帯城橋の南は、宋の時、史氏万巻堂の故址、南園滄浪亭と相望す。巷有りて網師と曰う者は、本の名は王思。曩に三年前、宋光禄悫庭其の地を購い、別業を治め、帰老の計と為し、因りて網師を以て号とし、併せて其の園に額す。けだし魚隠の義に託し、亦た巷の名を取る。音相似たればなり。
光禄既没,其园就颓圮,乔木古石大半损失,惟池水一泓,尚清澈无恙。瞿君远村偶过其地,惧其鞠为茂草也,为之太息问。旁舍者知主人方求售,遂买而有之。因其规模,别为结构,叠石种木,布置得宜,增建亭宇,易旧为新。既落成,招予辈四五人说䜩为竟之集。
光禄既に没し、其の園は頽圮に就き、喬木古石は大半損失し、惟だ池水一泓、尚お清澈にして恙無し。瞿君遠村、偶々其の地を過ぎ、其の鞠として茂草と為らんことを懼れ、之が為に太息す。旁舎の者、主人方に售らんことを求むるを知り、遂に買いて之を有す。其の規模に因り、別に結構を為し、石を畳み木を種え、布置宜しきを得、亭宇を増建し、旧を易えて新と為す。既に落成し、予が輩四五人を招き、䜩を説いて終日の集と為す。
石径屈曲,似往,而沧浪渺然,一望无际。有堂曰梅花,铁石山房,曰小丨丛树轩,有阁、濯缨水阁。有燕居之室,曰𧽻和馆。有亭于水者曰到风来,有亭于厓者曰云冈,有斜轩曰竹外一枝,有斋曰集处。皆远村营手画而名之者也。
石径は屈曲して往くに似たり、而して滄浪渺然として一望の際無し。堂有りて梅花と曰い、鉄石山房、小叢樹軒と曰い、閣有り、濯纓水閣。燕居の室有りて蹈和館と曰う。水に亭する者有りて到風来と曰い、厓に亭する者有りて雲岡と曰い、斜軒有りて竹外一枝と曰い、斎有りて集處と曰う。皆な遠村の手ずから営み画して之を名づけし者なり。
地祗数亩,而有纡回不尽之致,居虽近尘,而有云水相忘之乐,柳子厚所谓奥如旷如者,殆兼得之矣。园已非昔,而犹存网师之名,不忘旧也。予尝读松陵集,赋任氏园池云:池容淡而古,树意苍然僻,不知清景在。尽什任君宅,辄欣然神往,令乃于斯园遇之。予虽无皮、陆之诗才,而远村之胜情雅尚,视任晦实有过之。爰记其事,以继二游之复古,今人何遽不相及也。
地は祗だ数畝にして、而して紆回不尽の致有り。居は塵に近しと雖も、而して雲水相忘るの楽有り。柳子厚のいわゆる奥如曠如なる者は、ほとんど兼ね得たり。園は已に昔に非ず、而して猶お網師の名を存す。旧を忘れざるなり。予かつて松陵集を読み、任氏の園池を賦して云く「池の容は淡にして古く、樹の意は蒼然として僻し、清景の在るを知らず。什を尽くして任君の宅に在り」と。輙ち欣然として神往せしが、今乃ち斯の園に於いて之に遇う。予、皮・陸の詩才無しと雖も、而して遠村の勝情雅尚は、任晦を視れば実に之に過ぐる者有り。爰に其の事を記し、以て二游の復古に継ぐ。今人何ぞ遽かに相及ばざらんや。
『楹聯叢話』
谢默卿云:吴下园亭最胜,如齐门之吴氏拙政园,阊门之刘氏寒碧庄,葑门之瞿氏网师园,娄门之黄氏五松园。其尤著者,每春秋佳日,辄开园纵人游观,扇如云,蝶围蜂绕,裙屐年少,恣其评骘,于衣香人影之间,了不为忤。金閰名姬,反以此增声价焉。各园楹帖不少,今仅记网师园中有一联云:风风雨雨,暖暖寒寒,处处寻寻觅觅,莺莺燕燕,花花叶叶,卿卿暮暮朝朝。语涉纤巧,而状艳冶之景,如在目前,固自妙丽无匹也。按此联与西湖花神庙一联相仿,而简炼稍逊之。
謝黙卿云く、呉下の園亭最も勝れたり。斉門の呉氏拙政園、閶門の劉氏寒碧荘、葑門の瞿氏網師園、婁門の黄氏五松園の如し。其の尤も著しき者は、春秋の佳日毎に、輙ち園を開き人を縦りて游観せしむ。扇は雲の如く、蝶は囲み蜂は繞り、裙屐の年少、其の評騭を恣にし、衣香人影の間に於いて、了りて忤と為さず。金閶の名姫、反って此を以て声価を増す。各園の楹帖少なからず、今僅かに網師園中の一聯を記して云く「風風雨雨、暖暖寒寒、処処尋尋覓覓、鶯鶯燕燕、花花葉葉、卿卿暮暮朝朝」と。語は繊巧に渉るも、而して艶冶の景を状えば、目前に在るが如し。固より自ずから妙麗にして匹無し。案ずるに此の聯は西湖花神廟の一聯と相倣うも、而して簡錬は稍や之に遜る。
『洪北江詩文集』
才从识面便忘形,饭我城东水上亭。老友瘦真同野寉,残荷多尚比天星。百身未易酬恩遇,一石偏教吐性灵。归去且营耕钓好,得闲陇畔便横经。
才めて面を識りて便ち形を忘れ、我に飯う城東の水上亭。老友の痩せは真に野鶴に同じく、残荷の多きは尚お天星に比す。百身も未だ恩遇に酬い易からず、一石偏に性霊を吐かしむ。帰去りて且く耕釣を営んで好しとし、閑を得れば隴畔に便ち経を横たう。
『船山詩草』
即网师园,丙辰夏日曾寄题二诗。
すなわち網師園。丙辰の夏日、かつて二詩を寄題せり。
题诗曾寄网师园,万里来游一践言。何止画图开绣轴,真从城市见桃源。诗书气涌山逾秀,花竹丛深鸟不喧。十八年如春梦杳,照人春水尙潺湲。
詩を題してかつて網師園に寄せ、万里より来り游びて一たび言を践む。何ぞ止まらん画図の繍軸を開くのみならず、真に城市より桃源を見る。詩書の気湧きて山いよいよ秀で、花竹の叢深くして鳥喧からず。十八年は春夢の杳とするが如く、人を照らす春水は尚お潺湲たり。
『倦游吟』
三月廿八日,瞿亦陶公子招往网师园赏玩芍药,因李桐皋赞府亦订是日看花,遂由李园顺过结草庵,小憩三处花光目不给赏,步芝岩兄原韵。饮酒犯重叠折简,殿春正放皆围栏。更闻禅房有嘉植,中道小憩许叩关。后先赴约向晨起,次第品题较红紫。李园乍过草庵连,一角天孙割锦绮。网师四面花作筵,浓香丽色泛杯船。座中有客拜花下,以酒饮花酒似泉。鲁阳驻日倘常午,行乐无涯岂小补。
三月廿八日、瞿亦陶公子、招きて網師園に往きて芍薬を賞玩す。李桐皋贊府もまた是の日に花を看るを訂ずるに因り、遂に李園より順に結草庵を過ぎ、小憩する三処、花光目に賞を給さず。芝岩兄の原韻に歩す。酒を飲みて犯すは重畳の折簡、殿春まさに放たれ皆な欄を囲む。更に聞く、禅房に嘉植有り、中道の小憩、関を叩くを許さんと。後先して約に赴き晨に向かいて起つ。次第に品題して紅紫を較ぶ。李園を乍ち過ぎ草庵に連なり、一角は天孫の錦綺を割く。網師は四面花を以て筵を作し、濃香麗色は杯船に泛ぶ。座中に客有りて花下に拝し、酒を以て花に飲ましめば酒は泉に似たり。魯陽の日を駐めて倘も常に午ならば、行楽涯無し、あに小補ならんや。
对花试问种花年。鹒蟀迭更巳十五,今朝观止记葑溪。蝶舞𧊵狂花影迷。底事吟笺分优劣,人间好景本难齐。网师园芍药甲于吴中,不亚扬州。前诗意有未尽,叠韵再赋。
花に対して試みに種花の年を問う。鶊蟀は迭々更わりて已に十五、今朝の観止、葑渓に記す。蝶舞い𧊵狂いて花影迷う。底事ぞ吟牋に優劣を分かつ、人間の好景は本より斉しきこと難し。網師園の芍薬は呉中に甲たり、揚州に亜がず。前詩意有りて尽きず、韻を畳ねて再び賦す。
茂苑名葩徧芳圃,惜少红药围雕栏。城南网师独擅胜,主人爱护门常关。将离惜别每早起,为殿千红与万紫。朵朵娇娆备色香,丛丛烘染张云绮,列坐开尊艳舞筵,如乘绣被鄂君船。一年一度名花放,旧游不让第五泉,春日已阑花正午。广陵佳丽吴中补,平山堂下祠贤三。蜀都冈上楼尺五。仙源今复到渔溪,老眼花看雾里迷。芳醽共举婪尾盏,一醉应教物我齐。再叠前韵。
茂苑の名葩は芳圃に遍しといえども、惜しむらくは紅薬少なく彫欄を囲まず。城南の網師は独り勝を擅にし、主人の愛護、門は常に関す。将離の惜別、毎に早く起き、千紅万紫の殿と為る。朵朵は嬌嬈として色香を備え、叢叢は烘染して雲綺を張る。列坐して尊を開き艶なる舞筵、繍被を乗せる鄂君の船の如し。一年一度の名花の放つ、旧游は第五泉に譲らず、春日已に闌けども花は正午なり。広陵の佳麗、呉中に補われ、平山堂下は賢三を祠る。蜀都の岡上、楼は尺五。仙源は今復た漁渓に到り、老眼は花を看て霧裏に迷う。芳醽を共に挙げて婪尾の盞、一酔は応に物我をして斉しからしむべし。再び前韻を畳ねて賦す。
丁丑送春已七日,牡丹翦罢空凭栏。米囊虽艳亦凡品,惟有殿春犹心关。名园忽报光华起,孰定公侯耀朱紫。招来旧雨谊如云,咏到新诗句必绮,非缘金带欲开筵。不问今朝过客船,入座耆英同隐逸。闭门城市即林泉,步障周遮日忘午。频年会少今年补。绿莎芳软径开三,翠黛玲珑峰列五。尘境桃源亦有溪,盈盈一水岂愁迷。贪心岁岁花前到,携杖相期不速齐。
丁丑の送春已に七日、牡丹翦き罢みて空しく欄に凭る。米嚢は艶なりと雖も亦た凡品、惟だ殿春のみ猶お心に関る。名園忽ち報す光華の起るを、孰れか定む公侯の朱紫を耀わすを。招来の旧雨、誼は雲の如く、詠じて新詩に到れば句必ず綺なり。金帯の筵を開かんと欲するに縁るに非ず。今朝の過客の船を問わず、座に入る耆英は隠逸に同じ。門を閉づれば城市すなわち林泉、歩障は周遮して日は午を忘る。頻年の会少なきを今年補う。緑莎芳軟として径は三を開き、翠黛玲瓏として峰は五を列ぬ。塵境の桃源も亦た渓有り、盈盈たる一水、あに迷うを愁えんや。貪心歳歳花前に到り、杖を携えて相期す、速ならずして斉う。
『清嘉録』
阔街头巷网师园,本为淸河道宋宗元搆以养母,有网师小筑十二咏,今归太仓瞿氏,俗称瞿园。
闊街頭巷の網師園は、本は清河道の宋宗元が母を養わんが為に構えし所、網師小築十二詠有り。今は太倉の瞿氏に帰し、俗に瞿園と称す。
『履園叢話』
瞿园,即宋氏网师园故址,嘉定瞿远村氏增筑之,其西数十步,即前大宗伯沈归愚先生旧宅也。嘉庆戊寅四月,余尝同范芝岩、潘榕皋、吴槐江诸先生看园中芍药,其花之盛,可与扬州尺五楼相埒。范有诗云:“看花车马声如沸,谁问尚书旧第来。”今又归天都吴氏矣。
瞿園はすなわち宋氏網師園の故址、嘉定の瞿遠村氏がこれを増築せり。其の西数十歩はすなわち前の大宗伯沈帰愚先生の旧宅なり。嘉慶戊寅四月、余かつて范芝岩・潘榕皋・呉槐江の諸先生と同じく園中の芍薬を看る。其の花の盛んなる、揚州の尺五楼と相埒ぐべし。范に詩有りて云く「花を看る車馬声は沸くが如し、たれか問わん尚書の旧第より来たると」。今また天都の呉氏に帰せり。
『浪跡続談』
苏州之瞿园,即宋氏网师园故址,后归嘉定瞿远村,复增筑之。园中结构极佳,而门外途径极窄,陶文毅公最所不喜。盖其筑园之初心,即借此以避大官之舆从也。余在苏藩任内,曾招潘吾亭、陈芝楣、吴棣华、朱兰坡、卓海帆、谢椒石在园中看芍药,其西数十步即沈归愚先生旧庐,尝约同人以诗纪之,且拟绘图以张其事,而迁延不果作。此数君子皆老斫轮,果皆有诗,必可以传,今则如抟沙一散,不可聚矣。越十馀年重到,为之慨然!
蘇州の瞿園はすなわち宋氏網師園の故址、後に嘉定の瞿遠村に帰し、復たこれを増築せり。園中の結構は極めて佳なれど、而して門外の途徑は極めて窄し。陶文毅公の最も喜ばざる所なり。けだし其の園を筑くの初心は、すなわち此を借りて以て大官の輿従を避くるなり。余、蘇藩の任内に在り、かつて潘吾亭・陳芝楣・呉棣華・朱蘭坡・卓海帆・謝椒石を招き園中にて芍薬を看る。其の西数十歩はすなわち沈帰愚先生の旧廬、かつて同人と約して詩を以てこれを紀し、且つ図を絵して以て其の事を張らんと擬すも、而して遷延して果たして作らず。此の数君子は皆な老斫輪、果たして皆な詩有らば、必ず以て伝うべし。今は則ち摶沙の一散するが如く、聚むべからず。十餘年を越えて重ねて到り、之が為に慨然たり!
『拙尊園叢稿』
君讳鸿裔,字眉生,别号香严,晚以居近苏子美沧浪亭,又号苏邻,四川中江李氏。曾祖纯,祖敦鲁,考崧霖,举人,崇世蕴德。君以拔贡生中咸丰辛亥顺天乡试举人,旋入赀为兵部主事。才高而学赡,声誉翔起,公卿多折节枉交。有达官讽使出其门,许以鼎甲,不应。某相国素与君善,君见其权势日盛,亦谢绝。咸丰十年,不乐在京,将南游江淮,未至鄂,为胡文忠公林翼奏调赴英山大营。未几胡公薨,从曾文正公国藩于安庆。君本文正门下士,文正开幕府治事,辟召天下英俊,程其器能,君恒为之冠,参与机要。文正尝曰:眉生豁达精敏,应世才也。密疏荐君,堪任大受。江南平,明年遂权十府粮道。及北征勦捻,又奏补君徐海道。徐州绾毂南北,时湘淮各军之讨贼者数万人,更番休替,粮械军火皆以徐州为总汇。君内筦胥储,外充营务,又以余力治民,所设施方略甚具。淮勇锐气正新,铭字营勇尝杀人,君擒而治之,卒张军法。与诸将接纳,抚以欢好,主客大和。逾年,擢江苏按察使,论功晋加布政使衔,赏戴花翎。寖寖大用矣,而君遽以耳疾再请开缺,竟不复出云。君既罢官,闲居乐吴中山水,徙家苏州,得瞿氏网师园葺治之。园故有老树怪石、池沼亭馆之胜,积书数万卷,益蓄三代彝鼎、汉唐以来金石碑版、法书名责以自娱。闭门谢客,倘祥物外,身与世不复相关。性内介,无妄交,交必有终始。生平游宴甚广,而其契谊最笃,若吴县潘尚书祖荫、湘乡曾袭侯纪泽、开县李制军宗羲、嘉兴钱太仆应溥、吴县潘方伯曾玮、归安吴观察云、剑州李方伯榕、湖口高大令心夔、独山莫徵君友芝,此尤海内共知者,可以观所与已。君卒于光绪十一年八月十五日,春秋五十有五。娶敖氏,荣昌望族,遘心疾不瘉。妾二,俱吴氏。无子,以从兄子赓猷嗣,廪贡生候选道。孙五人:惊,候选知县;鹄、鹓、鹗、鹍。某年月日,葬君吴县四都十二图善人桥金牛坞。君书法甚精,诗古文亦窥古人堂奥,晚又好释典,皆以为寄。没后,赓猷仅得诗二百余首刻之。君之至鄂也,与庶昌从兄伯庸善,即弟视余,越二十六年矣。铭君之墓,其曷有辞。铭曰:高才步追,渊云躅厥踪,治彭麟一角,急流不居,此其卓。退栖吴中山水曲,灵岩之宫与木渎,精魄永绥藏此麓。
君は諱を鴻裔、字は眉生、別号は香厳、晩には居が蘇子美の滄浪亭に近きを以て、又た号して蘇隣、四川中江の李氏。曾祖は純、祖は敦魯、考は崧霖、挙人、世を崇め徳を藴む。君は抜貢生を以て咸豊辛亥の順天郷試に中り挙人と為り、旋ち貲を入れて兵部主事と為る。才高くして学贍く、声誉翔起し、公卿多く節を折り交わりを枉ぐ。達官有りて諷して其の門に出づるを使さんとし、鼎甲を以て許すも、応ぜず。某相国、素より君と善し。君、其の権勢の日に盛んなるを見、亦た謝絶す。咸豊十年、京に在るを楽しまず、将に南かして江淮に游ばんとし、いまだ鄂に至らざるに、胡文忠公林翼の為に奏して調ぜられ、英山大営に赴く。未だ幾ばくもなくして胡公薨ず。曾文正公国藩に安慶に従う。君は本より文正の門下士、文正幕府を開きて事を治め、天下の英俊を辟召し、其の器能を程れば、君は恒に之が冠と為り、機要に参与す。文正かつて曰く「眉生は豁達精敏、世に応うるの才なり」と。密かに疏して君を薦め、大任に堪うとす。江南平らぎ、明年遂に十府糧道を権どす。北征して捻を勦うに及び、又た奏して君を徐海道に補す。徐州は南北を綰轂し、時に湘淮の各軍の賊を討つ者数万人、更番して休替し、糧械軍火は皆な徐州を以て総匯と為す。君は内に胥儲を筦め、外に営務を充て、又た余力を以て民を治め、施設する所の方略甚だ具われり。淮勇の鋭気まさに新たにして、銘字営の勇かつて人を殺す。君、擒えて之を治め、卒に軍法を張る。諸将と接納するに、歓好を以て撫し、主客大和す。年を逾え、江蘇按察使に擢れ、功を論じて布政使の銜を晋加し、花翎を賞戴す。寖々として大用せんとす。而して君、遽かに耳疾を以て再び開缺を請い、竟に復た出でずと云う。君、既に官を罷め、閑居して呉中の山水を楽しみ、家を蘇州に徙し、瞿氏の網師園を得てこれを葺治す。園は故より老樹怪石・池沼亭館の勝有り、書を積むこと数万巻、益々三代の彝鼎・漢唐以来の金石碑版・法書名画を蓄えて以て自ら娯しむ。門を閉ぢ客を謝し、物外に倘佯し、身は世と復た相関らず。性は内介、妄りに交わらず、交われば必ず終始有り。生平の游宴甚だ広し、而して其の契誼最も篤きは、呉県の潘尚書祖蔭・湘郷の曾襲侯紀沢・開県の李制軍宗羲・嘉興の銭太僕応溥・呉県の潘方伯曾瑋・帰安の呉観察雲・剣州の李方伯榕・湖口の高大令心夔・独山の莫徴君友芝の若き。此れ尤も海内共に知る所、以て与う所を観るべし。君は光緒十一年八月十五日に卒す。春秋五十有五。敖氏を娶る、栄昌の望族、心疾に遘りて瘉えず。妾二、俱に呉氏。子無く、従兄の子賡猷を以て嗣と為す、廩貢生候選道。孫五人、驚は候選知県、鵠・鵷・鶚・鵾。某年某月某日、君を呉県四都十二図の善人橋金牛塢に葬る。君の書法甚だ精しく、詩古文も亦た古人の堂奥を窺う。晩には又た釈典を好み、皆な以て寄と為す。没後、賡猷は僅かに詩二百余首を得てこれを刻す。君の鄂に至るや、庶昌の従兄伯庸と善く、すなわち余を弟視す。二十六年を越えたり。君の墓を銘するに、其れあに辞有らんや。銘に曰く「高才歩追、淵雲其の蹤を躅し、治彭麟一角、急流に居らず、此れ其の卓なり。退き栖む呉中山水の曲、霊岩の宮と木瀆、精魄永く綏めて此の麓に蔵す」と。
古写真
1949年以前
撮影出典:Osvald Sirén, Gardens of China, New York: The Ronald Press Company, 1949。同組の画像は谷久文・史元豊・賈珊『叙事の変遷:喜龍仁の写真による近代中国園林研究の形成』にも見られる。
オスヴァルド・シレーン(Osvald Sirén、中国語では喜仁龍、喜龍仁とも訳される)が撮影した網師園の画像は『中国園林』(Gardens of China、1949)に収録されている。以下の六枚は月到風来亭の三つの視点、および引静橋・射鴨廊・殿春簃を記録する。写真の中で樹枝は池面に向かって伸び、亭廊と山石は互いに映り隠れしている。
参考資料
- 蘇州市園林緑化管理局:『網師園』「園林名録」。
- 蘇州市園林緑化管理局:『網師園』「世界遺産」。
- 蘇州市園林緑化管理局:『潭西漁隠』。
- 蘇州市園林緑化管理局編:『網師園志』、上海:文匯出版社、2014年。
- 童寯:『江南園林志』、北京:中国建築工業出版社、1984年。
- 谷久文・史元豊・賈珊:『叙事の変遷:喜龍仁の写真による近代中国園林研究の形成』、『風景園林』2025年第32巻第1期、第133—140頁。
- Osvald Sirén: Gardens of China 原書スキャン本, New York: The Ronald Press Company, 1949。