はじめに
開元二十年(732)、唐の玄宗は両京と各州に玄元皇帝廟の設置を命じ、崇玄学を興して『道徳経』『荘子』などの道家の経典を教えさせた。開元二十六年(738)、朝廷はさらに各州に対し、城内で地勢の適した観寺を選んで一律に「開元」の額を掲げ、開元観で千秋節や三元日の行道設斎などの公式儀礼を行うよう命じた。この制度のもと、刺史の任昭慶が蘇州城内に開元宮を設置した。観中の道士は後に任使君祠を建て、この創建者を記念した。
唐末の孫儒の乱で開元宮の周囲の建物は焼失し、三門と正殿のみが残り、その後改めて修復された。大中祥符二年(1009)、宋の真宗は宮観のない州県に観を建てるよう命じ、完成後は一律に「天慶観」の額を掲げさせた。大中祥符五年(1012)、真宗は九天司命保生天尊が趙氏の始祖・趙玄朗であると宣して「聖祖」として尊び、さらに天下の天慶観に聖祖殿の増築を命じ、官府に資材を供給させ、京城の玉清昭応宮の様式に倣って神像を設けさせた。蘇州の開元宮もこの時期に天慶観と改額され、趙玄朗を祀った。その後、観中には四廡・複数の殿堂・浄楽宮・八仙堂が増築され、皇祐年間に三門が再建され、宣和七年(1125)には昆山の田五十頃が香火田として賜与された。
南宋初年の建炎年間(1127—1130)、観宇は再び戦乱で焼失した。紹興十六年(1146)、知州の王㬇は両廊を再建し、廊の壁の作画を複数の画師に委ねた。ある者は山林を、ある者は人物を、ある者は楼閣を、ある者は花木を描き、『霊宝度人経』を表現する一組の大壁画を成し遂げた。
淳熙年間、知州の陳峴は公款を割き、呉県令の黄百中が工事を督め、道士の陸景平が三清殿の営建を主した。工事は淳熙二年(1175)の春に始まり、淳熙四年(1177)の冬に完成した。淳熙六年(1179)、聖祖殿が火災に遭い、郡事を摂理していた趙伯驌が火災後の再建を主し、「姑蘇天慶観様」を描いて宋の孝宗に進呈した。孝宗は画様に倣って造るよう命じ、淳熙八年(1181)には自ら「金闕寥陽宝殿」の六字を書して殿額とした。
至元二十六年から二十七年(1289—1290)、道士の厳煥文が三清殿の修繕を主し、官員の朱文清とその妻子が多額の金銭を捐出し、道観はまた江淮から木材を購い運んだ。至元二十九年(1292)、厳煥文は続けて三門を重修し、胡氏妙能が自らの簪珥を捐てて工事を助けた。新しい門が完成して、ようやく高くそびえる三清殿に相応しいものとなった。元貞元年(1295)、元の朝廷は江南の天慶観に祀られていた宋の聖祖の神主を廃し、江南各路の天慶観を玄妙観に改めるよう詔した。蘇州の天慶観はこれより玄妙観と改称した。
元末の至正年間、玄妙観は再び戦火で焼失した。明の洪武四年(1371)、朝廷は道教を整頓し、玄妙観を正一叢林と改め、観中に蘇州の道教事務を管理する道紀司を置いた。殿堂・廊廡はその後順次修復されたが、費用の嵩む弥羅宝閣だけは長く建てられないままであった。正統三年(1438)に蘇州が大干ばつに見舞われると、巡撫の周忱・知府の況鍾が観に赴いて雨を祈り、続いて俸禄を捐出して宝閣の再建を組織した。木材の購入を担当した道士は揚子江上で大風に遭い、木筏は吹き散らされた。碑記によれば、彼らが祈り告げると玄帝が雲端に現れ、漂散した木材は孟瀆河の河口ですべて集まっていたという。正統五年(1440)の夏、弥羅宝閣が完成した。
明代後期になると、玄妙観の門前は蘇州の絹織物業における仕事待ちの場となっていた。人に雇われて機を織って生計を立てる数百人の「小戸」が、毎朝「玄廟口」に集まり、機を張る「大戸」に雇われるのを待ち、一日働いて当日の食費を得ていた。
清代、玄妙観は康熙帝の名・玄燁の諱を避けて円妙観と改称された。乾隆十六年(1751)、蘇州で郷里に退いていた官員らが円妙観に経壇を設けて皇太后の祝寿を行い、乾隆帝は最初の南巡で蘇州を訪れた際に自ら壇場に臨んだ。民国元年(1912)、三清殿の後ろにあった弥羅宝閣が火災で焼失した。一方、南宋の三清殿は残り、今日の玄妙観の主殿となっている。
歴史文献
『姑蘇志』
汉任使君祠祀唐剌史任昭庆也。在天庆观,即今之玄妙观。唐名开元宫,宫为任所置,故道流祀之。庆历中,观毁,其像犹存。
漢の任使君祠は、唐の刺史・任昭慶を祀るものである。天慶観、すなわち今の玄妙観の中に在り。唐は開元宮と名づけ、宮は任の置きし所なるが故に、道流これを祀る。慶暦中、観は毀れたが、その像はなお存した。
『呉郡志』
天庆观,在长洲县西南,即唐开元观也。兵火前,栋宇最为宏丽。绍兴十六年,郡守王唤重作两廊,画灵宝度人经变相,召画史工山林、人物、楼橹、花木,各专一技者,分任其事,极其工致。淳熙六年,圣祖殿火,提刑赵伯骕摄郡,重建三清殿。淳熙三年,郡守陈岘建。初,道士募缘,御前亦有所赐,始克成就。八年,至尊寿皇圣帝赐御书金阙寥阳宝殿六字为殿额。伯骕跋语:上既诏新平江府天庆观三清殿,乃亲御翰墨,书金阙寥阳宝殿六大字以揭之。云藻昭回,龙凤翔翥,万目耸瞻,威颜咫尺,猗欤盛哉!臣观唐文皇书画,居钟王表,凡形篇咏,赐臣工,载在汗简,侈为美谭。然于明道阐教,为生民福者,未始有闻。恭惟皇帝陛下,天纵多能,游艺八法,夐出神所,奚唐足云。矧方玩意昭旷,储神穆清,观道妙于化原,跻斯民于寿域,固非下民所能测窥其万分。第自今仰观勾吴之墟,奎壁垂光,王气所钟,奔走百神,㧑诃护持,罔敢或后,当与天无极云。郡守赵伯骕恭题。郡人龚颐正作上梁文以进,寿皇嘉焉。在昔吴都,于今汉辅。诞惟仙圣之宅,有严壮丽之区。与日月以蔽亏,式表中天之华阙;帅云霓而来御,蔚为上帝之高居。庆基岳峙以当阳,琳宇星罗而拱极。南端洞达,正殿穹崇。维时三境之常尊,骈集九光之法驾。螭蟠万础,遗址故存;翚飞百楹,群目未睹。方重熙累洽之运,正远至迩安之时,曾是殊庭,莫还旧观。其何以伫飙游于肸蚃,甄灵贶于幅员?皇上睠言,不吝有司之费;寿宫申祝,亶储二圣之休。守臣承睿志以致䖍,上士不崇朝而乐施。至人示化,高道勤心。占营室于瑶光,萃梓材于荆楚。莫不霞舒引墨,雷动挥斤。是度而是宜,不震而不竦。琼檐绣栱,倐若化城;金戺玉阶,殆非人境。伫结𦂶粲朝暾之采,想觚棱宿非烟之祥。仰规太紫之圆方,俯尽鬼神之情状。下锵鸣之玉珥,知足称于降临;睨帖妥之瑶坛,庶永蕃于祠奉。考其经始,曾不淹辰。斯举应龙之修梁,可后巨鳌之窃抃。敢伸善颂,以佐欢谣。抛梁东,沧海微茫一望中。旸谷扶桑朝玉殿,郁然和气御灵风。抛梁西,震泽重湖玉浪低。风雨调和时节好,不烦香火咏朝𬯀。抛梁南,咫尺神都汉辅三。丙位有星长灿烂,两宫天寿与之参。抛梁北,金榜云房新表出。一念通神本圣功,八荒有道开皇极。抛梁上,风马云车来有象。上元八景是天宫,万岁千秋输景贶。抛梁下,日夕曾坛隆报谢。昭垂乾象报丰年,开阐坤珍资道化。伏愿上梁之后,慈闱康寿,宸扆尊隆。德教并恢于彤管,仁恩长楙于青宫。国栋无挠,王臣尽忠。边圉永消于兵革,民编益劭于耕农。千里绝札瘥之盩,四民均亭毒之工。协气旁薄而扶舆,下九凤五龙于平世;高灵偃蹇而姣服,肃千乘万骑于浮空。来佑太平之极治,普臻希静之真风。皮日休伤开九顾道上协晨宫上启金扉,诏使先生坐蜕归。鹤有一声应是哭,丹无余粒恐潜飞。烟凄玉笥封云篆,月惨琪花葬羽衣。肠断雷平旧游处,五芝无影草微微。观中有金宝牌,真宗所赐永镇于地者,兵火独全,六朝旧物也。殿后通神庵,淳熙八年,左街道箓李若济奉命建,庵额三字亦御书。先是,有何道人者,自绍兴初往来提举司或观前真武堂草积中,披发颠狂,以蓑衣蔽形,故号蓑衣道人。寒暑不避,不与人亲。或云时有一语,中人灾福。两朝间遣使降香,问其安否,然庵则未始迁也。
天慶観は長洲県の西南に在り、すなわち唐の開元観である。兵火の前は、棟宇は最も宏麗であった。紹興十六年、郡守の王唤(王㬇)は両廊を重ねて作り、霊宝度人経の変相を画かせ、山林・人物・楼櫓・花木を善くする画史で、各々一技を専らにする者を召し、分かちてその事に任じ、極めて工致であった。淳熙六年、聖祖殿に火災。提刑の趙伯驌が郡を摂し、三清殿を重建した。〔三清殿は〕淳熙三年、郡守の陳峴が建てた。初め、道士は縁を募り、御前にも賜る所があって、始めて成就し得たのである。八年、至尊寿皇聖帝は御書の「金闕寥陽宝殿」の六字を賜りて殿額と為した。伯驌の跋語に曰く、上はすでに平江府天慶観の三清殿を新たにするを詔し、すなわち親ら翰墨を御し、「金闕寥陽宝殿」の六大字を書して以てこれを揭(かか)げたまう。雲藻は昭回し、龍鳳は翔翥(しょうしょ)し、万目は聳(あが)め瞻(み)て、威顔は咫尺(せきしゃ)。猗歟(いい)や盛んなる哉!臣が見るに、唐の文皇の書画は鍾・王の表に居り、およそ篇詠に形(あらわ)れ、臣工に賜り、汗簡に載りて、侈(ほこ)りて美譚と為す。然れども道を明らかにし教を闡(ひら)き、生民の福と為る者は、未だ嘗て聞くこと有らざりき。恭しく惟(おも)うに皇帝陛下、天縦の多能、八法に游藝し、夐(はる)かに神の所に出でたまう。あに唐を云うに足らんや。矧(しか)んや方に昭曠に玩意し、穆清に神を儲え、道の妙を化原に観(み)、斯の民を寿域に躋(のぼ)らしたまう。固より下民のその万分を測り窺う能くする所に非ざるなり。ただ今より仰ぎて勾呉の墟を観れば、奎壁は光を垂れ、王気の鍾(あつ)まる所、百神は奔走し、㧑訶(いか)して護持し、敢えて或る後(おく)るること罔(な)く、まさに天とともに極まり無からんとす、と云う。郡守の趙伯驌、恭しく題す。郡人の龔頤正は上梁文を作して以て進め、寿皇はこれを嘉(よみ)せられた。〔文に曰く〕在昔の呉都、今に於いては漢の輔(ほ=京畿を輔く大郡)。誕(たん)に惟(こ)れ仙聖の宅、厳(いつくし)み有る壮麗の区。日月と与(とも)に蔽虧(へいき=かげりかく)れ、式(まさ)に中天の華闕を表(あらわ)さんとし、雲霓を帥(ひき)いて来り御(ぎょ)し、蔚(うっ)として上帝の高居と為る。慶基は岳のごとく峙(そばだ)ちて以て陽に当たり、琳宇は星羅して極(北極)を拱(こまぬ)く。南端は洞達し、正殿は穹崇(きゅうすう=たかくおおい)なり。惟(こ)の時、三境の常尊、駢(なら)び集まる九光の法駕。螭(ち)は万礎に蟠(わだかま)り、遺址は故(もと)より存し、翬飛(きひ)の百楹は群目いまだ睹(み)ざる所。方(まさ)に重熙累洽(ちゅうきるいこう=累世明るく和する)の運、正に遠至邇安(遠き者至り近き者安んず)の時。ここの殊庭、旧観に還る莫(なか)りしを、其れ何以(なにす)れぞ飆遊(ひょうゆう)を肸蠁(きっこう=かぐわしき感応)に佇(たた)せ、霊貺(れいか)を幅員に甄(あき)らかにせん。皇上は睠言(けんげん=眷いと顧み)し、有司の費を吝(おし)みたまわず。寿宮(皇太后)は祝を申(の)べ、亶(あつ)く二聖の休(よろこび)を储(たくわ)う。守臣は睿志(えいし)を承けて以て䖍(つつしみ)を致し、上士は崇朝(ひとあさ)を待たずして施を楽しむ。至人は化を示し、高道は心を勤(つと)む。営室を瑶光に占(うらな)い、梓材を荊楚に萃(あつ)む。莫(なか)らくは霞の舒(の)ぶるがごとく墨を引き、雷の動くがごとく斤(おの)を揮(ふる)う。これを度(はか)りこれを宜しくして、震(ふる)わずして竦(そそ)らず。瓊檐(けいえん)繍栱(しゅうきょう)、倐(たちま)ちとして化城の若(ごと)く、金戺(きんし=きんのかぎら)玉階、殆(ほとん)ど人境に非ず。佇(たたず)みて結び粲(さん)たる朝暾の采(あや)を〔想い〕、觚稜(こりょう=やねのかど)に非烟(ひえん=しょううん)の祥(しるし)の宿るを想う。仰ぎて太紫(たいし=てんぐう)の円方を規(のぞ)み、俯(ふ)して鬼神の情状を尽くす。下に鏘鳴(しょうめい)の玉珥(ぎょくじ)、足りて降臨に称(た)えるを知る。睨(み)れば帖妥(ちょうだ=やわらぎおさまる)の瑶壇、庶(こいねが)わくは永く祠奉を蕃(しげ)くせん。其の経始を考うるに、曽て辰(とき)を淹(ひきと)めず。斯の挙は応龍の修梁(ながきはり)なり、巨鰲の窃(ひそ)かなる抃(べん=てうち)を後(おく)らすべし。敢えて善頌を伸べ、以て歓謡を佐(たす)く。梁を拋(なげう)つ東、滄海微茫一望の中。暘谷扶桑、玉殿に朝(あさ)ぎ、郁然として和気、霊風を御す。梁を拋つ西、震沢重湖玉浪低し。風雨調和し時節好(よ)し、煩わさずして香火は朝𬯀(あさひ)を詠ず。梁を拋つ南、咫尺の神都、漢の輔三。丙位に星有り長く燦爛、両宮の天寿これと参(さん)す。梁を拋つ北、金榜雲房新たに表出す。一念神に通ずるは本(もと)聖功、八荒道有りて皇極を開く。梁を拋つ上、風馬雲車、来る象(かたち)有り。上元八景これ天宫、万歳千秋景貺(けいかう=おおきたまもの)を輸(おく)る。梁を拋つ下、日夕に曽壇(そうだん)の報謝を隆(たか)くす。昭かに乾象を垂れて豊年を報い、坤珍を開闡して道化に資(たす)く。伏して願わくは上梁の後、慈闈(じい=こうたいごう)康寿、宸扆(しんい=てんのう)尊隆ならんことを。徳教は並びて彤管(どうかん)に恢(ひろ)まり、仁恩は長く青宮に楙(さか)んなり。国棟撓(たわ)むこと無く、王臣忠を尽くす。辺圉(へんぎょ)永く兵革を消し、民編いよいよ耕農に劭(つと)む。千里札瘥(せっさい=やまい)の盩(しゅう=まとわりつき)を絶ち、四民均しく亭毒(ていどく=そだてやしなう)の功。協気は旁薄(ぼうはく)として扶輿(ふよ=かかげおこ)り、九鳳五龍を平世に下(くだ)し、高霊は偃蹇(えんけん)として姣服(こうふく=うるわしきよそおい)、千乗万騎を浮空に粛(つつし)ましむ。来りて太平の極治を祐(たす)け、普く希静の真風に臻(いた)らん、と。皮日休の、開九・顧道の上を傷(いた)む〔詩〕に曰く、協晨宮の上、金扉を啓き、詔使先生は坐(いま)して蜕(もぬけ)て帰る。鶴に一声有り応(まさ)に是れ哭(こく)なるべし、丹に余粒無く潜かに飛ぶを恐る。烟は玉笥(ぎょくし)に凄(すさ)びて雲篆を封じ、月は琪花(きか)に惨(かな)しく羽衣を葬る。腸断(はらわたのた)ゆる雷平の旧遊の処、五芝影無く草微微たり、と。観中に金宝牌有り。真宗の賜りし永く地に鎮むる者、兵火に独り全うせり。六朝の旧物なり。殿の後に通神庵有り。淳熙八年、左街道籙の李若済、命を奉じて建つ。庵額の三字もまた御書なり。これより先、何道人なる者有り。紹興の初より提挙司、或いは観前の真武堂の草積(そうせき)の中に往来し、髪を披(ひら)き顛狂し、蓑衣を以て形を蔽う。故に蓑衣道人と号す。寒暑を避けず、人と親しまず。或る者云く、時に一語有りて、人の災福に中(あ)たる、と。両朝の間、使を遣わして香を降(お)ろし、その安否を問う。然れども庵は則ち未だ嘗て遷らざりき。
『図絵宝鑑』
赵伯骕字希远,千里弟,善画山水、人物,尤长于花禽,傅染轻盈,顿有生意。尝画姑苏天庆观样进呈,孝宗书其上,令依元样建造。今玄妙观是也。
趙伯驌、字は希遠。千里(趙伯駒)の弟。山水・人物を画くことを善くし、尤も花禽に長け、傅染(ふせん=いろどり)軽盈(けいえい)にして、頓(たちま)ちに生意有り。嘗(かつ)て姑蘇天慶観の様を画きて進呈す。孝宗その上に書し、元(もと)の様に依りて建造せしめたまう。今の玄妙観これなり。
『桯史』
姑苏有二异人,曰何蓑衣,曰呆道僧,踪迹皆奇诡。淳熙间名闻一时,士大夫维舟者,率往访之,至今吴人犹能言其大略。何本淮阳朐山人,书生也。祖执礼,仕至朝议大夫,世为鼎族,遭乱南来,寓于郡。尝授业于父,已能文,一旦焚书裂衣遁去,人莫之知。既乃归,被草结庐于天庆观之龙王堂,佯狂妄谈,久而皆有验。卧草中,不垢不秽;晨必一至吴江,溲焉。郡至吴江五十里,往反不数刻,人固讶之。会有一瘵者,拜谒乞医,何命持一草去,旬而愈,始翕然传蓑可愈病。亦有求而不得,随辄不起者,于是远近稍敬异之。
姑蘇に二異人有り。何蓑衣と曰い、呆道僧と曰う。蹤跡は皆奇詭なり。淳熙の間、名は一時に聞え、士大夫で舟を維(とど)める者は、率(ことごと)く往きてこれを訪う。今に至るまで呉人はなおその大略を言うことを得。何は本(もと)淮陽朐山の人、書生なり。祖は執礼、仕えて朝議大夫に至る。世々鼎族と為る。乱に遭いて南に来たり、郡に寓す。嘗て父に於いて業を授けられ、已に文を能くす。一旦書を焚き衣を裂きて遁(のが)れ去る。人これを知る莫(なか)り。既にして乃ち帰り、草を被(かず)きて天慶観の龍王堂に廬(いおり)を結ぶ。佯(よそお)い狂いて妄談すれども、久しくして皆験(しるし)有り。草中に臥すれども、垢(あか)つかず穢(けが)れず。晨(あした)に必ず一たび呉江に至り、そこに溲(いばり=しょうべん)す。郡より呉江に至ること五十里、往反数刻ならず。人固(もと)よりこれを訝(いぶか)る。会(たまた)ま一の瘵者(さいしゃ=やまいのひと)有り、拜謁して医(いやし)を乞う。何、一草を持たせて去らしむ。旬(ひととき)にして愈(い)ゆ。始めて翕然(きゅうぜん)として蓑衣は病を愈す可しと伝う。亦有り、求めて得ざれば、随(すなわ)ち輒(すなわ)ち起たざる者。ここにおいて遠近稍(やや)敬異す。
先是观中诸黄冠以殿宇既毁,欲试其验,群造其庐,拜且白之,何从求疏轴。主者谩以与,何笑曰:“来日自有施者。”至午,使者果来,既答,则曰:“我不能入觐,以此累使者。”上闻而益奇之。会浙西赵宪伯骕亦为之请,遂肆笔金阙寥阳殿额,出内帑缗钱万,绘事一新,以答其意。
これより先、観中の諸の黄冠(道士)、殿宇が既に毀れたるを以て、その験(しるし)を試さんと欲し、群れて其の廬に造(いた)り、拝して且つこれに白(もう)す。何、疏軸(そじく=ねがいのぶんしょ)を求めに従(つ)く。主者谩(みだ)りに以て与(あた)う。何笑いて曰く、来日(あした)自ら施者有らん、と。午に至り、使者果たして来たる。既に答え、則ち曰く、我入觐する能わず。これを以て使者に累(わずらわ)す、と。上聞きて益々これを奇(あや)しみたまう。会(たまた)ま浙西の趙憲・伯驌もまたこれが為に請う。遂に筆を肆(ほしいまま)にして金闕寥陽の殿額〔を書し〕、内帑の緡銭万を出し、絵事一新し、以て其の意に答えたまう。
「詔建三清殿記」
君人者欲表仪天下,无以示国家尊祖之意。凡今诸郡之天庆观,所以祠圣祖也。人本乎祖,矧我国家仙源衍庆,圣系流禧,肆不藏崇上灵之祀,其何以炳圣祖在天之灵也。孝宗皇帝有旨,平江府天庆观建三清殿,殿成,亲洒宸翰,金阙寥阳宝殿六大字扁之殿眉,示吾尊祖也。若夫汉太初之处神明,通天之台,束元嘉之用净轮天官之法,盖异矣。姑苏佳山水,秀辅未央,葱连阊阖。嘉定辛巳𥧃月𬐍望,臣小舣长桥,将如虎丘,过自祖庭,目其正殿雄伟,为诸郡冠,诘其所自知,为诏建之也。自祥符中,额此观矣。建炎戎烬之余,绍兴乙丑,太守、贰卿王侯换剡于朝,赐缗钱,复殿圣祖,而未暇三清,适以召去弗遂。黄冠朱直猷,鸠众市财,欲踵其志,复以疾奄。淳熙乙未,道录李若济奉御香藏𬋕于兹,回奏得旨,令郡侯殿撰陈岘发公贿,属吴县尹黄百中董役。经始于乙未之春,讫成于丁酉之冬。星锤月斧,旦氤花工,霞拱云甍,人神胥庆,实大洞法师陆景平主其盟为甚力。嗟乎!事物之兴,机会之来,必韪其人,然亦有所待也。琼檐宝楯,星月相攒;金祀玉墀,云霓为御。金碧蒨灿,粉藻华鲜。螭础千蟠,翚楹万舞。觚棱峭翠,结绮流丹,恍睹九光,何殊三境。俨为华阙,蔚庆壮基。幻玉清、上清、太清之规模,奉天宝、云宝、神宝之晨梵。是宜六龙宴驾,九虎严阍,凤导飙轮,鸾骖羽乘,锡尔戬榖,贶我国家。此殿长宁,与宋无极。良由仙灵之所宅,是以明圣之留神。昔仙二易翁葛孝先炼丹此地,丹井犹存,雨夕风朝,时流丹现。于皇圣朝,高真应世,圣作明述,卫教崇真,非特奉禋祧,是亦为尔冠裳之地也。晨登陛槛,目注帝直,盍思所以报国家者乎?无使曰:朝帝夕烛,藐藐而已。冲隐大师马大同,嗣陆景平之后,悯往事之已远,畏来者之弗知,应相谓曰:此殿既成,几五十载,属臣为记。且如天上成玉楼,地下修文阙,往昔人间。士以为记文。今兹庙谟所式,当代盛事,帝监不远,宜不得辞。臣于是黾勉不逮,弗思而成,但觉如操觚弄椠于蕊珠之上,虚皇之前也。
君人(くんじん=天下の君たる者)、天下に表儀せんと欲するは、国家の祖を尊ぶの意を示すに如(し)くはなし。およそ今の諸郡の天慶観は、聖祖を祠(まつ)る所以なり。人は祖に本(もとづ)く。矧(しか)んや我が国家、仙源は慶を衍(ひろ)げ、聖系は禧(さいわい)を流す。肆(ここ)に上霊の祀を崇(たか)く蔵(おさ)めざれば、其れ何以(なに)を以てか聖祖の在天の霊を炳(あきら)かにせん。孝宗皇帝旨有り。平江府天慶観に三清殿を建てしむ。殿成り、親ら宸翰を洒(した)たらせ、「金闕寥陽宝殿」の六大字を殿眉に扁(へん)す。吾が祖を尊ぶを示すなり。若(も)し夫(そ)れ漢の太初の神明に処(お)る〔台〕、通天の台、〔および〕元嘉を束(つかさど)りて浄輪天官の法を用いしは、けだし異なれり。姑蘇は佳き山水。秀は未央に輔(たす)け、葱(あつ)まりて閶闔(しょうこう)に連(つら)なる。嘉定辛巳の𥧃月(にいづき)𬐍望(ぼう)、臣(わたくし)は小舟を長橋に舣(つど)め、まさに虎丘に如(い)かんとし、祖庭より過ぎ、その正殿の雄偉、諸郡の冠たるを目(み)る。其の知る所を自ら詰(と)えば、詔建する所なりと。祥符中よりこの観に額〔を賜り〕しなり。建炎の戎燼(じゅうじん=へいかののこり)の余、紹興乙丑、太守・貳卿の王侯、朝に剡(せん=そうじょう)を換(か)え、緡銭を賜り、聖祖の殿を復すれども、いまだ三清に暇(いとま)あらず。適(たまた)ま召されて去りて遂げず。黄冠の朱直猷、衆を鳩(あつ)め財を市(もと)め、其の志を踵(つ)がんと欲すれども、復た疾(やまい)を以て奄(や)む。淳熙乙未、道籙の李若済、御香を奉じて𬋕(びょう=みくら)を茲(ここ)に蔵(おさ)め、回奏して旨を得、郡侯殿撰の陳峴に公賄(こうわい=おおやけのたから)を発(だ)さしめ、呉県尹の黄百中に役を董(と)らせむ。乙未の春に経始し、丁酉の冬に訖成す。星錘月斧(せいすいげっぷ)、旦氤(たんいん)として花工(かこう=はなやかなるたくみ)。霞拱雲甍(かきょううんぼう)、人神胥(あい)慶(よろこ)ぶ。実に大洞法師の陸景平、其の盟を主(つかさど)りて為すこと甚だ力(りき)めり。嗟乎(ああ)!事物の興る、機会の来たるは、必ず其の人を韪(ただ)しくす。然れども亦待つ所有り。瓊檐宝楯(けいえんほうじゅん)、星月相(あい)攅(あつ)まる。金祀玉墀(きんしぎょくち)、雲霓を御(ぎょ)と為す。金碧は蒨燦(せんさん)として、粉藻は華鮮(かせん)なり。螭礎(ちそ)は千に蟠(わだかま)り、翬楹(きえい)は万に舞う。觚稜(こりょう)は翠(みどり)を峭(けわ)しくし、綺を結び丹を流す。恍(こう)として九光を睹(み)れば、何ぞ三境に殊(こと)ならん。儼(げん)として華闕と為り、蔚(うっ)として壮基を慶(よろこ)ぶ。玉清・上清・太清の規模を幻(うつ)し、天宝・雲宝・神宝の晨梵(しんぼん=あしたのまつり)を奉(まつ)る。是れ宜しく六龍の宴駕(えんが)、九虎の厳阍(げんこん)、鳳は飆輪(ひょうりん)を導き、鸞は羽乗に驂(さん)たるべし。爾に戩穀(せんこく=さいわい)を錫(たま)い、我が国家に貺(たまもの)せん。此の殿は長く寧(やす)く、宋とともに極まり無からん。良(まこと)に仙霊の宅(やど)る所に由(よ)り、是(ここ)を以て明聖の神を留めたまうなり。昔、仙の二易翁・葛孝先、此地に丹を煉る。丹井猶(な)お存す。雨夕風朝、時に流丹現わる。于(ああ)皇(おおき)なる聖朝、高真は世に応(おう)じ、聖は作(おこ)り明は述(の)べ、教を衛(まも)り真を崇(あが)む。特に禋祧(いんちょう=まつり)を奉ずるのみならず、是れ亦た爾(なんじ)ら冠裳(かんしょう=どうし)の地と為るなり。晨(あした)に陛檻(へいかん)に登り、目を帝直(ていちょく=おおみまえ)に注(そそ)げば、盍(なん)ぞ国家に報ゆる所以を思わざるや。曰はしむること無かれ、帝に朝(ちょう)し夕に燭(とも)す、藐藐(びょうびょう)たるのみ、と。沖隠大師の馬大同、陸景平の後を嗣(つ)ぎ、往事の已に遠きを憫(あわれ)み、来者の知らざらんを畏(おそ)れ、応(こた)え相(あい)謂(い)うて曰く、此の殿既に成り、幾(ほとん)ど五十載。臣に属(しょく)して記を為さしむ、と。且(か)つ天上に玉楼を成し、地下に文闕を修むるが如きは、往昔(おうせき)の人間〔の語〕、士これを以て記文と為せり。今茲(こんじ)、廟謨(びょうぼ=ちょうていのはかりごと)の式(のり)たる所、当代の盛事。帝の監(みる)は遠からず。宜しく辞するを得ざるべし。臣是(ここ)に於いて黽勉(びんべん)して逮(およ)ばず、思わずして成る。但(た)だ覚(おぼ)ゆ、蕊珠(ずいしゅ=せんきょう)の上、虚皇の前に觚(こ=ふでざお)を操り椠(さん=かんなづつ)を弄するが如し、と。
「平江府重建三清殿記」
混沌既判,惟天为大,不可俄而度。据逺视之,其色苍苍,以形体则谓之天。作善降之百祥,作不善降之百殃,以主宰则谓之帝。元始而亨,亨而利贞,以性情则谓之乾。不疾而速,不行而至,以妙用则谓之神。合理为气,其可得而名言者如此。古者祀天,𨿽有坛壝之制,配侑之礼,五方之名,粢盛牲玉之荐,大抵一精二纯,尚忠质而已。非若后世为之尊号焉,为之宫室焉,为之冠冕衣裳焉。自唐封天寳以来,追尊本始,加上徽称,益崇以备,岂非神而明之,章尔灵度,震动宇内,俾知所寅奉欤?平江𤣥妙观三清殿,寔再建于淳熈丙申。殿凡七楹,雄杰冠浙右。越八十年甲寅,住持严守柔重复屋。又八年辛酉,蒋处仁重葺周栏。又三十四年,为至元戊子,阮籍郡乘政赐额。旧观浸隳,处仁之徒严焕文兴仁作新,而为费甚重。𤼵心縁募,善诱乐施。时则今左辖朱公文清与妻若子,大捐金钱,以相其役。焕文不避寒暑,致木江淮,官易其梁柱,以致方圎偃植,靡不坚壮;圬墁陶甃,靡不完㝊;斧藻像饰,靡不严洁。始于已丑二月,成于𢈏寅十月。焕文𡮢贱事淳祐大魁黄由之孙,嗣得其奥㫖,恬静有守,人人皆倾。住持许嗣祖、张善渊、滕伯淳,皆志同虑协,故所为必成,焯有可记也。大徳壬寅十月,因吴兴赵孟頫谂于陵阳牟巘曰:殿成十有三年矣。淳熈之役,适遇三丙申,殆非偶然。已治石庑下,愿为记成事。固辞勿获。夫气有盈虚,物有成壊,事有因革,惟理独不杼。昭昭灵灵,千载一日,盖覆冒中之主宰,性情中之神化也。洪惟新殿,有严典领,焕文不有其功,方且夙夜祗格,用对越在天。凡所为民祷禬者,固有出于土木科仪、𤓰花香灯之外。上帝溥临,降观有赫,尚敬之哉!是为记。
混沌既に判(わか)れ、惟(こ)れ天は大と為す。俄(にわ)かに度(はか)る可からず。逺(とお)きに拠(よ)りてこれを視れば、其の色は蒼蒼(そうそう)。形体を以てすれば則ちこれを天と謂う。善を作(な)せば百祥を降(くだ)し、不善を作せば百殃を降す。主宰を以てすれば則ちこれを帝と謂う。元始にして亨(とお)り、亨りて利貞(りてい)。性情を以てすれば則ちこれを乾と謂う。疾(と)からずして速く、行かずして至る。妙用を以てすれば則ちこれを神と謂う。理に合して気と為る。其の名言し得る所は此の如(ごと)し。古(いにしえ)の天を祀るは、𨿽(ただ)壇壝(だんい)の制、配侑(はいゆう)の礼、五方の名、粢盛牲玉(しせいせいぎょく)の薦(すす)め有るのみ。大抵一精二純、忠質を尚(とうと)ぶのみ。後世の為に尊号し、為に宮室し、為に冠冕衣裳するに若(し)かず。唐の天宝を封じて以来、本始を追尊し、徽称を加え、益々崇くして以て備わる。あに神にしてこれを明らかにし、爾(しか)るに霊度を章(あらわ)し、宇内を震動し、寅奉(いんぽう=つつしみまつる)する所を知らしむるに非ざらんや。平江の𤣥妙観三清殿、寔(まこと)に淳熈の丙申に再建す。殿およそ七楹、雄傑は浙右に冠(かん)たり。八十年甲寅を越え、住持の厳守柔重ねて屋(おお)う。また八年辛酉、蒋処仁重ねて周欄を葺(ふ)く。また三十四年、至元の戊子と為る。〔旧記には〕阮籍、郡乗に賜額〔のことを記す〕。旧観浸(し)きて隳(やぶ)れ、処仁の徒の厳煥文、仁を興し新たに作(な)す。しかして費と為すこと甚だ重し。心を𤼵(は)きて縁を募り、善き諸人は施を楽しむ。時に則ち今の左轄・朱公文清、妻若(およ)び子とともに、大いに金銭を捐(す)て、以て其の役を相(たす)く。煥文寒暑を避けず、江淮に木を致し、官其の梁柱を易(か)う。方圎偃植(ほうえんえんしょく)を致すに、堅壮ならざるは無く、圬墁陶甃(こまんとうしゅう=ぬりかべにやきかわら)、完㝊(やす)らかならざるは無く、斧藻像飾(ふそうぞうしょく=ちょうこくいろどり)、厳潔ならざるは無し。已丑の二月に始まり、𢈏寅の十月に成る。煥文の𡮢(いや)しく賤(いや)しむ所〔にして〕、淳祐の大魁・黄由の孫に事(つか)え、嗣いで其の奥㫖を得る。恬静にして守り有り。人人皆傾(けい)す。住持の許嗣祖・張善淵・滕伯淳、皆志同じく慮(おもんばか)り協(かな)う。故に為す所必ず成る。焯(しゃく=あきらか)として記す可き者有り。大徳壬寅の十月、呉興の趙孟頫に因(よ)りて陵陽の牟巘に諗(しん=つげ)て曰く、殿成りて十有三年。淳熈の役、適(たま)たま三の丙申に遇(あ)う。殆(ほとん)ど偶然に非ざらん。已に石を廡下に治(おさ)めたり。願わくは成事を記さん、と。固く辞すれども獲(え)ず。夫(そ)れ気に盈虚(えいきょ)有り、物に成壊有り、事に因革有り。惟(た)だ理独り杼(ちょ=よこぎ)らず。昭昭霊霊(しょうしょうれいれい)、千載一日のごとし。けだし覆冒(ふくぼう)の中の主宰、性情の中の神化なり。洪(こう)に惟(おも)うに新殿、厳(いつくし)み典領有り。煥文其の功を有(たの)とせず、方(まさ)に夙夜(しゅくや)祗格(しかく=つつしみいた)り、用(もっ)て在天に対越(たいえつ)せんとす。およそ民の為に祷禬(とうかい)する所は、固(もと)より土木科儀・𤓰花香灯(しょうかこうとう)の外に出(い)づる有り。上帝溥(あまね)く臨み、降観赫(かく)たり。尚(な)ほこれを敬(うやま)わん哉!是を記と為す。
「玄妙観三門碑銘」
天地阖辟,运乎鸿枢,而乾坤为之户;日月出入,经乎黄道,而卯酉为之门。是故建设琳宫,摹宪𤣥象。外则周垣之聫属,灵星之横陈;内则重闼之划开,阊阖之仿佛。非崇严无以备制度,非巨丽无以竦视瞻。惟是勾吴之邦,𤣥妙之观,赐额改矣,广殿新矣,而三门甚陋。万目所观,譬之神,威仪未备;一身之内,强弱弗侔,非欠欤?观之徒严焕文,深念前功,是究是圗。时则有夫人胡氏妙能,捐其簪珥,给其资用。爰壬辰之纪岁,亟先甲以庀徒。曽几何时,悉更其旧。翚飞丹栱,簷牙高矗于层霄;兽啮铜镮,铺首𪸩煌于朝日。大庭中敞,峻殿周罗,可以树羽节,可以容銮驭,可以陟三层之坛,可以通九闗之奏,可以鸣千石之簴,可以受百灵之翰。气象伟然,始与殿称。于是吴兴赵孟頫复求记于陵阳牟巘曰:土木云乎哉!言语云乎哉?惟帝降衷,惟皇建极,因人心固有,与天下为公。初无颇僻,无充塞。然或者舎旧而求诸逺,既昧厥原;欲入而闭之门,后迷所向。孰谓抽闗启钥,何异摘埴索涂?是未知𤣥之又𤣥,损之又损也。夫始乎冲漠者,造化之枢纽,极乎中庸之阃,盖所谓㑹归之极,所谓众妙之门。庸作铭诗,具刻乐石。其词曰:
天地は闔辟(こうへき=とじひらき)し、鴻枢(こうすう)に運(めぐ)り、乾坤これが戸と為る。日月は出入し、黄道に経(へ)て、卯酉(ぼうゆう)これが門と為る。是(ここ)を以て琳宮(りんぐう)を建設し、𤣥象(げんしょう=てんのかたち)を摹憲(ぼけん=うつしのっと)る。外は則ち周垣の聫属(れんぞく)、霊星の横陳。内は則ち重闥の劃開(かくかい)、閶闔(しょうこう)の髣彿(ほうふつ)。崇厳に非ざれば以て制度を備うる無く、巨麗に非ざれば以て視瞻を竦(そそ)らす無し。惟(こ)れ勾呉の邦、𤣥妙の観、賜額改まり、広殿新たなれども、三門は甚だ陋(いや)し。万目の観る所、これを神に譬(たと)うれば威儀未だ備わらず、一身の内にして強弱侔(ひと)しからず。欠くるに非ずや。観の徒の厳煥文、深く前功を念い、是を究(きわ)め是を圖(はか)る。時に則ち夫人の胡氏妙能有り、其の簪珥(しんじ=かんざしとみみかざり)を捐(す)て、其の資用を給す。ここにおいて壬辰の紀歳、亟(はや)く先甲(せんこう=よきひ)を以て徒を庀(そろ)う。曽(そ)も幾何(いくばく)の時、悉く其の旧を更(あらた)む。翬飛(きひ)の丹栱(たんきょう)、簷牙(えんが=のき)は層霄に高矗(こうちく)し、獣は銅镮(どうかん)を啮(かじ)り、舗首(ほしゅ=もんのかざり)は朝日に𪸩煌(こうこう)たり。大庭は中に敞(ひろ)く、峻殿は周(めぐ)りに羅(つら)なり。以て羽節を樹(た)つ可く、以て鑾馭(らんぎょ)を容る可く、以て三層の壇に陟(のぼ)る可く、以て九關の奏を通ず可く、以て千石の簴(きょ=かねがけ)を鳴らす可く、以て百霊の翰(たより)を受く可し。気象は偉然として、始めて殿と称(かな)う。ここにおいて呉興の趙孟頫、復た陵陽の牟巘に記を求めて曰く、土木と云うのみや、言語と云うのみや。惟(こ)れ帝は衷(ちゅう=まごころ)を降(くだ)し、惟れ皇は極を建つ。人心の固有に因(よ)り、天下と公を為す。初め頗僻(はへき=かたより)無く、充塞(じゅうそく=ふさがり)無し。然れども或る者は旧を舎てて諸(これ)を逺(とお)きに求め、既に其の原に昧(くら)く、入らんと欲して之(これ)を門に閉ざし、後に向(むか)う所を迷う。孰(た)れか謂わん、關(かん)を抽(ぬ)き鑰(やく)を啓くは、埴(ちき=つち)を摘(てき)し塗(みち)を索(もと)むるに何(なん)ぞ異ならん、と。是れ未だ𤣥の又𤣥、損の又損を知らざるなり。夫(そ)れ沖漠(ちゅうばく)に始まる者は造化の枢紐、中庸の閫(こん=きわ)に極まる者は、けだし謂う所の㑹帰(かいき)の極、謂う所の衆妙の門なり。庸(つい)に銘詩を作し、具(ことごと)く楽石に刻す。其の詞に曰く、
天之牖民,道由大路。未有出入,不由于户。而彼昧者,他岐是骛。如面墙壁,如弗瞩故。脱扄剖𫔎,孰𤼵真晤。乃崇珍馆,乃延飚驭。闬闳洞启,端倪呈露。回达民迷,有赫临顾。咨示羽属,一尔志虑。隂阖阳辟,恪守常度。
天の民を牖(さと)すや、道は大路に由(よ)る。未だ出入り有りて、戸に由らざること有らず。而(しか)るに彼の昧(くら)き者、他岐(たき)是れ騖(か)る。壁に面(むか)うが如く、故(ふる)きを瞩(み)ざるが如し。扄(けい=かんぬき)を脱(ぬ)き𫔎(かい=かぎ)を剖(ひら)くも、孰(た)れか真晤(しんご=まことのさとり)を𤼵(ひら)かん。乃ち珍館を崇(たか)くし、乃ち飆馭(ひょうぎょ=かみのぐ)を延(まね)く。閈閎(かんこう=おおもん)洞啓(どうけい)し、端倪(たんげい=きざし)呈露(ていろ)す。回(かえ)りて民の迷に達し、赫(かく)として臨顧(りんこ)有り。咨(ああ)羽属(うぞく=どうしども)に示す、一(ひと)しくせよ爾(なんじ)の志慮。隂は闔(と)じ陽は辟(ひら)く、恪(かく=つつし)として常度を守れ。
「蘇州府玄妙観重建弥羅宝閣記」
正统五年秋八月望日,兵科给事中郭璘、礼部司务陈珪率道士张宗继,不逺数千里,赍姑苏道纪司都纪郭贵谦、副都纪吕志清䟽状,谒予南宫徴记。按状,苏州府在城𤣥妙观,创自晋朝,名真庆道院,唐更名开元观,宋赐额天庆观。高宗御书金阙寥阳之阁,揭于殿端,光荣罕俪。有蓑衣何真人寓居其中,能愈人一切诸疾,灵迹顕著。孝宗𠮥赴行在,眷赉甚厚,人咸倾向。郡守陈岘命羽士募縁,増崇修建,雄冠诸郡。寳祐、景定间,住持严守柔、蒋处仁重加修饬,施以阑楯。元至元间,黜天庆之号而攺今名。道士严焕文、张善渊复为修理。时左辖朱文清大捐帑廪,以相其役。由是穹门邃庑,奥殿巍阁,杰出吴中。元末至正间,毁于兵燹,迨今百有余年,殿堂廊庑,渐次修建,率皆完美。惟弥罗寳阁工费浩繁,久虚未建,诚为缺典。宗继乃募众縁,遂为创始。正统三年,廵抚侍郎庐陵周公恂如、郡守南昌况公伯律,因岁旱,率耆老,命都纪郭贵谦祷于其观,遂获甘霖。二公暨阖郡吏民,咸欲修堕举废,戮力同心。侍郎郡守首捐俸资,以兴复为己任,委都纪郭贵谦鸠材庀工。贵谦先令化士尤𤣥真、张养正至镇江市木筏,从扬子江归,遇大风冲散,化士仰天告曰:买木盖造弥罗寳阁,供奉玉帝,今木冲散不存,斯阁莫能成就。顷间风恬浪静,忽覩𤣥帝见于云端,化士惊愕再拜。至孟渎河口,木皆先集,举无漂遗。众咸骇叹,不胜忻感。归以白于贵谦,转白侍郎、郡守,罔不惊异悚敬,二公为之益力。今年夏,厥工告成。复霤重檐,金碧辉焕,极其壮丽。威仪像设,严奉惟谨。谓不可以无纪神明显应之灵,与夫侍郎、郡守作兴之绩,用𡸁示于久逺也。予惟有虞肆上帝,成周禋祀昊天,而道家者流制为寳阁,䖍奉玉帝,寔为虞周同一尊事之礼。今其阁既成,而请记于予,又安得不深喜乐道而奖与其能乎?是以为之记而不辞,俾归勒诸贞珉,庻几来者知所崇重,而祗事于无穷焉。
正統五年秋八月望日、兵科給事中の郭璘・礼部司務の陳珪、道士の張宗継を率(ひき)い、数千里を逺しとせず、姑蘇道紀司都紀の郭貴謙・副都紀の呂志清の䟽状(そじょう)を賚(もた)り、予に謁して南宫に記を徴(もと)む。状に按(あん)ずるに、蘇州府在城の𤣥妙観は、晋朝より創(はじ)まり、名を真慶道院と曰い、唐は更めて開元観と名づけ、宋は天慶観の額を賜う。高宗御書の「金闕寥陽」の閣、殿端に揭(かか)げ、光栄は俪(なら)ぶこと罕(まれ)なり。蓑衣の何真人ありて其の中に寓居し、能く人の一切諸疾を愈(いや)し、霊蹟顕著なり。孝宗𠮥(すなわ)ち行在に赴かしめ、眷賚(けんらい=したいとたまもの)甚だ厚く、人咸(ことごと)く傾向す。郡守の陳峴、羽士に命じて縁を募らしめ、増崇修建し、雄は諸郡に冠たり。寳祐・景定の間、住持の厳守柔・蒋処仁重ねて修飭を加え、闌楯(らんじゅん=てすり)を施す。元の至元の間、天慶の号を黜(しりぞ)けて今名に攺(あらた)む。道士の厳煥文・張善淵、復た修理を為す。時に左轄の朱文清、大いに帑廩(どりん)を捐(す)て、以て其の役を相(たす)く。是に由(よ)り穹門邃廡(きゅうもんすいぶ)、奥殿巍閣(おうでんぎかく)、呉中に傑出す。元末至正の間、兵燹(へいせん)に毀(やぶ)られ、今に迨(およ)ぶこと百有余年。殿堂廊廡、漸次修建し、率(おおむ)ね皆完美なり。惟(た)だ弥羅寳閣は工費浩繁にして、久しく虚しくして未だ建たず。誠に缺典と為る。宗継乃ち衆縁を募り、遂に創始と為る。正統三年、廵撫侍郎廬陵の周公恂如・郡守南昌の況公伯律、歳の旱(かんばつ)に因(よ)り、耆老(きろう)を率い、都紀の郭貴謙に命じて其の観に祷(いの)らしむ。遂に甘霖(かんりん)を獲(う)る。二公暨(およ)び闔郡(こうぐん=ぐんない)の吏民、咸く堕(やぶ)れたるを修め廃れたるを挙げんと欲し、戮力同心(りくりょくどうしん)す。侍郎・郡守首めて俸資を捐(す)て、興復を以て己が任と為し、都紀の郭貴謙に委ねて材を鳩(あつ)め工を庀(そろ)えしむ。貴謙先ず化士の尤𤣥真・張養正に令して鎮江に至りて木筏を市(もと)めしめ、揚子江より帰る。大風に遇いて沖散(ちゅうさん)す。化士天を仰ぎて告げて曰く、木を買うて弥羅寳閣を蓋造(がいぞう)し、玉帝を供奉せんとす。今木は沖散して存せず。斯の閣、成就する莫(な)からん、と。頃間(まもなく)、風恬(や)らぎ浪静まり、忽ち𤣥帝の雲端に見(あらわ)るるを覩(み)る。化士驚愕して再拝す。孟瀆河の口に至れば、木皆先に集まり、挙げて漂遺(ひょうい=ながれおく)ること無し。衆咸く駭嘆(がいたん)し、忻感(きんかん)に勝(た)えず。帰りて以て貴謙に白(もう)し、転(うた)た侍郎・郡守に白す。驚異悚敬(しょうけい)せざるは罔(な)し。二公これが為に益々力む。今年夏、厥(そ)の工成るを告ぐ。複霤重檐(ふくりゅうちょうえん)、金碧は輝煥(きかん)として、壮麗を極む。威儀像設、厳奉すること惟(つつし)み謹(つつし)む。以て神明の顕応の霊と、夫(そ)れ侍郎・郡守の作興の績とを紀せざる可からずと謂い、用(もっ)て𡸁(もっと)も久逺に示す所以なり。予惟(おも)うに、有虞は上帝に肆(し=まつ)り、成周は昊天に禋祀(いんし)す。而(しか)るに道家者流、寳閣を制して玉帝を䖍奉(けんぽう=つつしみまつ)るは、寔に虞周と同一の尊事の礼と為る。今其の閣既に成り、記を予に請う。又安(いずく)んぞ深く道を喜び楽しみ、其の能を奖与(しょうよ)せざることを得んや。是を以てこれが記を為して辞せず。帰りて諸(これ)を貞珉(ていみん=いしぶみ)に勒(きざ)ましめ、庻(こいねがわ)くは来者の崇重する所を知り、祗事(しじ)すること無窮(むきゅう)ならんことを。
『西台漫記』
葛贤,吾不知其为何如人,意必一机手也。我吴市民,罔籍田业,大户张机为生,小户趁织为活。每晨起,小户百数人嗷嗷相聚玄庙口,听大户呼织,日取分金为饔飧计。大户一日之机,不织则束手;小户一不就人织则腹枵。两者相资为生久矣。
葛賢、吾(われ)其の何如(いか)なる人なるかを知らず。意(おも)うに必ず一の機手(きしゅ=はたおりしょくにん)ならん。我が呉の市民は、田業に籍(よ)ること罔(な)く、大戸は機を張りて生と為し、小戸は織に趁(おもむ)きて活と為す。毎(ごと)に晨(あした)起きて、小戸百数人、嗷嗷(ごうごう)として相(あい)聚まりて玄廟口に〔至り〕、大戸の織を呼ぶに聴(ゆる)さる。〔そして〕日に分金(ぶんきん=わけまえ)を取りて饔飧(ようそん=あさげゆうげ)の計(はかりごと)と為す。大戸は一日の機、織らざれば則ち束手(そくしゅ=てをこまぬ)く。小戸は一たび人の織に就かざれば則ち腹枵(ふくぎょう=はらす)く。両者は相(あい)資(たす)けて生と為すこと久し。
『長洲県志』
圆妙观在城之中央宫巷北。范成大府志:在长洲县西南。卢熊府志:在真庆坊北。王鏊府志:在长洲县东北。晋咸宁二年,创号真庆道院。泰宁二年,明帝梦三清道祖命乘云路至吴郡锦帆泾驻跸,天真交集扈从帝稽首道祖前,矢愿兴道保国。道祖嘉悦。帝觉而异,即敕改建上真道院。四周纡回,选高行道士李知常等焚修,永免徭役。
円妙観は城の中央、宮巷の北に在り。范成大の府志に曰く、長洲県の西南に在り、と。盧熊の府志に曰く、真慶坊の北に在り、と。王鏊の府志に曰く、長洲県の東北に在り、と。晋の咸寧二年、創めて真慶道院と号す。泰寧二年、明帝は夢に、三清道祖が命じて雲路に乗りて呉郡の錦帆涇に駐蹕(ちゅうひつ)し、天真(てんしん)交(こもご)も集まり扈従(こじゅう)し、帝は道祖の前に稽首(けいしゅ)して、願を矢(ちか)いて道を興し国を保たんとするを見たまう。道祖嘉悦(かえつ)す。帝覚(さ)めて異(い)と為し、即ち上真道院への改建を敕(ちょく)す。四周は紆回(うかい)し、高行の道士・李知常らを選びて焚修(ふんしゅう)せしめ、永く徭役を免(まぬか)る。
唐开元二年,帝感祖锡瑞之应,改为开元宫。今观前街赐名宫巷,内帑重修。建中间,道士张德诚与陆龟蒙友善。元和间,刘禹锡复为刺史,有元都观𫟚桃千树,尽是刘郎去后栽之句。乾符元年,感文昌帝君护驾之异,诏天下崇事。道士丁紫琼,辟文昌、张仙二殿。陆贽记。逮大顺元年,孙儒陷苏,四面皆为煨烬,惟三门正殿存焉。
唐の開元二年、帝は祖の瑞を錫(たま)うの応(こたえ)に感じ、改めて開元宮と為す。今の観前街は宮巷の名を賜り、内帑を以て重修す。建中の間、道士の張徳誠は陸亀蒙と友善なり。元和の間、劉禹錫復た刺史と為り、「元都観の𫟚桃(にいざくらだとう)千樹、尽く是れ劉郎去りし後に栽(う)えし」との句有り。乾符元年、文昌帝君の駕を護るの異に感じ、天下に崇事することを詔す。道士の丁紫瓊、文昌・張仙の二殿を辟(ひら)く。陸贄記す。大順元年に逮(およ)び、孫儒蘇を陥(おと)し、四面皆煨燼(いじん=もえのこり)と為る。惟だ三門・正殿存す。
宋大中祥符间,屡降天书,诏改为天庆观,敕道士李志升为左阶道录司,赐帑,建东西南北四庑,中绘三天天宫胜景,于玉皇、天医、高真、三茅、转藏、酆都、十王等殿,建净乐宫、八仙堂。灵宝院官道三百名,无牒道童不下千人。林素、王侍宸屡诏巡历。王禹偁记。吴郡志称:观有金宝牌,永镇于地,兵火独全,亦真宗赐也。皇祐间,新作三门,尤峻壮。宣和七年,赐昆山县田五十顷充香火田。建炎兵毁。
宋の大中祥符の間、屡(しばしば)天書を降(くだ)し、改めて天慶観と為すことを詔し、道士の李志升を左階道録司に敕(ちょく)し、帑(ど=くら)を賜う。東西南北の四廡を建て、中に三天の天宮の勝景を繪(えが)き、玉皇・天医・高真・三茅・転蔵・酆都・十王等の殿に於いて、浄楽宮・八仙堂を建つ。霊宝院の官道は三百名、牒(ふだ)無き道童は千人を下らず。林素・王侍宸は屡々詔を以て巡歴す。王禹偁記す。呉郡志に称(とな)う、観に金宝牌有り、永く地に鎮(しず)め、兵火に独り全うす。亦た真宗の賜なり、と。皇祐の間、新たに三門を作る。尤も峻壮なり。宣和七年、昆山県の田五十頃を賜りて香火田に充つ。建炎に兵(つわもの)に毀(やぶ)る。
绍兴十六年,郡守王㬇重作两廊,画灵宝度人变相,名画史工山林人物、楼橹花木,各专一技者,分任其事,极其工妙。淳熙三年,郡守陈岘建三清殿。六年火,提刑赵伯骕摄郡重建。八年,赐御书金阙寥阳宝殿六字为殿额。张皮雀、莫月鼎、何蓑衣诸仙真相继挺生,赐何号通神先生,降书赐通神𤲅额。增建太乙五雷仙坛,遗迹至今称之。宝祐、景定间,道士严守柔、蒋处仁重修,施以阑楣。元至元十八年,邱长春等七真以黄白飞升术进,诏改今额。至元末兵毁。明洪武四年,清理道教,更为正一丛林,置道纪司,草香火田,以充军饷。方孝孺记。今三清殿东无字大碑是也。
紹興十六年、郡守の王㬇、重ねて両廊を作り、霊宝度人の変相を画かしむ。名ある画史で山林・人物・楼櫓・花木を工(たくみ)にする、各々一技を専らにする者に、分かちて其の事に任ぜしめ、極めて工妙なり。淳熙三年、郡守の陳峴、三清殿を建つ。六年火す。提刑の趙伯驌、郡を摂(せっ)して重建す。八年、御書の「金闕寥陽宝殿」の六字を賜りて殿額と為す。張皮雀・莫月鼎・何蓑衣の諸仙真、相継いで挺生(ていせい)す。何に「通神先生」の号を賜い、書を降(くだ)して通神の𤲅(でん)額を賜う。太乙五雷の仙壇を増建す。遺蹟は今に至るまでこれを称す。寳祐・景定の間、道士の厳守柔・蒋処仁重修し、闌楣(らんび)を施す。元の至元十八年、邱長春ら七真、黄白飛升の術を以て進(すす)み、今の額に改むるを詔す。至元末、兵に毀る。明の洪武四年、道教を清理し、更めて正一叢林と為し、道紀司を置き、香火田を草(はら)い、以て軍餉に充つ。方孝孺記す。今の三清殿東の無字の大碑是れなり。
宣德中,道士张宗继募建弥罗阁,供祀玉皇。正统间,巡抚侍郎周忱、知府况钟因旱祷有验,捐建成阁,请赐道藏经。胡溁记。分三茅殿地为机房殿。正德元年,分东岳殿地为文昌殿,辟三元阁。万历三十年,弥罗阁𡉏。
宣徳中、道士の張宗継、募(つの)りて弥羅閣を建て、玉皇を供祀す。正統の間、巡撫侍郎の周忱・知府の況鍾、旱(かん)に因りて祷(いの)りて験(しるし)有り、捐(す)てて建て閣を成し、道蔵経の賜を請う。胡溁記す。三茅殿の地を分かちて機房殿と為す。正徳元年、東岳殿の地を分かちて文昌殿と為し、三元閣を辟(ひら)く。万暦三十年、弥羅閣𡉏(たお)る。
本朝顺治间,三清殿𡉏。康熙初,道士施渊力新之,并建雷尊殿、天王殿。道纪陶弘化募建东岳殿庑,构五岳楼。十二年,布政慕天颜重建弥罗阁,复还旧观。乾隆十六年春,皇上南巡临幸。
本朝(清)順治の間、三清殿𡉏る。康熙の初、道士の施淵、力めてこれを新たにし、併(あわ)せて雷尊殿・天王殿を建つ。道紀の陶弘化、募りて東岳殿の廡を建て、五岳楼を構う。十二年、布政の慕天顔、弥羅閣を重建し、復た旧観に還(かえ)す。乾隆十六年春、皇上南巡して臨幸す。
『呉門表隠』
“圆妙观”三大字,金太傅之俊书。乾隆四十年火,朱茂才汇源书。道光八年毁,石太史韫玉书。三清殿“妙一统元”四大字,金之俊书。山门外二碑亭,康熙九年,佟布政彭年遗爱碑,道光八年毁。
「円妙観」の三大字は、金太傅之俊(金之俊)の書。乾隆四十年に火(や)け、朱茂才汇源(朱汇源)の書。道光八年に毀(やぶ)れ、石太史韞玉(石韞玉)の書。三清殿の「妙一統元」の四大字は、金之俊の書。山門外の二碑亭は、康熙九年の佟布政彭年(佟彭年)の遺愛碑、道光八年に毀る。
三清殿西楹老子像碑,唐吴道子画,元宗御赞,颜真卿正书,宋宝庆元年,道士冯大同题,张允迪勒石。
三清殿西楹の老子像碑は、唐の呉道子の画、元宗(玄宗)の御賛、顔真卿の正書。宋の宝慶元年、道士の馮大同題し、張允迪石に勒(きざ)む。
三清殿石柱各镌天尊圣号,东首尚全,西首已多更换。下有小字,文多漫漶,所见有“平江府长洲县道义乡众善桥西街信士朱振并妻张氏七四娘暨家眷等,奉道助钱伍拾贯,置殿柱壹座,超荐先考朱一郎、先妣沈氏八娘、丈人张□、丈母沈氏六娘”。又一刻“宋淳熙三年,宣教郎泰州海陵县黄彦修”。又一刻“顾仲六秀并妻赵氏五娘保佑”。又一刻“迪功郎陈乂”。又一刻“吉祥如意”,余皆剥落。
三清殿の石柱には各々天尊の聖号を鐫(ほ)る。東首は尚(な)ほ全(まつと)うし、西首は已に多く更換(こうかん)せり。下に小字有り。文は多く漫漶(まんかく)す。見る所有り、「平江府長洲県道義郷衆善橋西街の信士・朱振并(なら)びに妻の張氏七四娘暨(およ)び家眷等、道を奉じて銭伍拾貫を助(たす)け、殿柱壱座を置き、先考の朱一郎・先妣の沈氏八娘・丈人の張□・丈母の沈氏六娘を超薦(ちょうせん)す」。また一刻に「宋の淳熙三年、宣教郎泰州海陵県の黄彦修」。また一刻に「顧仲六秀并びに妻の趙氏五娘の保佑」。また一刻に「迪功郎の陳乂」。また一刻に「吉祥如意」。余は皆剥落(はくらく)す。
古写真
1905年頃
蘇州図書館の「古写真」データベースは、この玄妙観の旧影の撮影時期を1905年頃としている。画面は高い所から観内の市場越しに三清殿を望み、殿の前には掘立小屋が密集している。

1905—1911年
イギリスのブリストル大学が運営する「中国歴史写真」(Historical Photographs of China)データベースは、この玄妙観弥羅宝閣の旧影を「ジョージ・ジョンソン・コレクション」に収録し、所蔵番号はGJ01-006とし、撮影時期を1905年から1911年と推定している。画面は、後に1912年の火災で焼失したこの楼閣と、閣前の人々と囲いを完全に記録している。

1910年
蘇州市地方志工作弁公室が公開した観前街の旧影のうち、この玄妙観正山門の写真は清の宣統二年(1910)に撮影された。山門前の道路の両側には露店の棚が設けられ、通行人が観の中を出入りしている。

1929年以前
オズヴァルド・シレーンが1929年に出版した『A History of Early Chinese Art』第四巻「建築」には、「蘇州玄妙観」と題され「シレーン撮影」と署名された写真が一枚収められている。画面が記録しているのは多層楼閣式の弥羅宝閣であり、三清殿ではない。

1939年以前
常盤大定・関野貞編『中国文化史蹟』第四輯は1939年に出版され、書中では二枚の写真を「元妙観大殿」と「同内部」と題している。前者は市場の近くから三清殿を仰ぎ見たもので、後者は殿内から同じ大殿の梁組と陳設を間近に記録している。


1940年以前
『亜細亜大観』第十四輯の「蘇州古跡」写真組に、玄妙観三清殿の旧影が一枚収められている。レンズは殿前の市場を通り抜けて大殿に正対し、露店・看板と行き交う人々が前景を占めている。
