はじめに
北宋の開宝九年(976)、潭州太守の朱洞が岳麓山の抱黄洞の下に書院を建て、講堂五間・斎序五十二間を設けて四方から学びに来る者を収容し、陸川主簿の孫邁がかつてこのために記を作った。咸平二年(999)、知州の李允則がこれを拡張し、中央に講堂を開き、その上に書楼を建て、文学者の王禹偁がこの拡張のために記を撰した。咸平四年、李允則はまた朝廷に奏請して国子監[1]所蔵の諸経釈文・義疏・『史記』『玉篇』『唐韻』の頒賜を求め、許可を得た。大中祥符八年(1015)、宋の真宗は便殿で書院山長[2]の周式を召見し、国子主簿を授けたが、周式は辞して受けず、山に帰って学徒を教え続けた。朝廷はそこで旧名に因って「岳麓書院」の額を賜り、あわせて宮中の蔵書を増賜した。北宋の人の記載では、院内にはすでに孔子堂・御書閣があり、清泉が堂下を経て流れていた。当時、朝廷はまだ州県に官学を普遍的に設けておらず、岳麓書院のような賢士大夫の興した郷党の学は、こうして一方の教育の中心となり、嵩陽・睢陽・白鹿洞と並んで四大書院と称された。この四つの書院のうち、他の三つはいずれも民間が興したもので、岳麓のみが地方長官の創建であった。
南宋の紹興初年、書院は兵火で焼失し、残った建物は十分の一にすぎず、その後長く荒廃した。三十余年後の乾道元年(1165)、荊湖南路安撫使の劉珙が書院を再建し、州学教授の邵穎が事を取り仕切り、半年足らずで落成、建屋五十楹でおおむね旧規を回復し、学者の張栻を請じて教事を主宰させた。乾道三年、朱熹は福建から潭州に来て張栻を訪ね、二か月滞在し、二人は書院の中で会講して学を論じ、後世に「朱張会講」と称された。朱熹はまた自ら「忠孝廉節」の四つの大字を書し、後世長く書院の堂壁に摹刻された。張栻はこの再建のために記文を撰し、書院の教育は科挙の利禄のためではなく、「人材を成就し、以て斯の道を伝え斯の民を済わん」ことにあると明らかにした。淳熙十五年(1188)、潭州知州の潘畤が斎舎を増修し、学者の陳傅良がまた招かれて記を作った。紹熙年間、朱熹は潭州知州に任じ、到任二か月で文書を発して書院を整頓し、別に十名の定員外生員を設けて四方の遊学の士を収容し、毎日米一升四合・銭六十文を支給し、入学の補試を免除した。
南宋の徳祐二年(1276)、元兵が潭州城を攻め破り、書院の学生も守軍に従って城に登って抗戦し、死者は多く、書院は再び毀れた。十年後の至元二十三年(1286)、郡人の劉必大が再建し、延祐元年(1314)には潭州路判官の劉安仁がまた整修を加え、礼殿・四斎・諸賢祠・講堂・尊経閣・極高明亭などはいずれも旧のままとされた。元末に書院は三たび兵火で毀れ、その後長く荒廃した。
明の成化五年(1469)、長沙知府の銭澍がかつて書院を再建したが、まもなくまた廃れ、遺址は長く僧と勢家に占められた。弘治年間、通判の陳鋼が俸給を捐して重修し、中門・左右の廡・講堂と、朱熹・張栻を祀る崇道祠を建てた。後任の知府・王瑫は到任後に師生を集めて釈菜の礼[3]を行い、書院はここに学を再開し、同知の楊茂元が続いて尊経閣を建てて書を蔵した。翰林の李東陽はこの再建のために記を撰し、記の中で、彼が早くに長沙に帰って墓を省み岳麓に登った時、見たのは榛莽の間の断碑の遺址にすぎなかったと述べている。正徳二年(1507)、参議の呉世忠は礼殿を大成殿に改築して院の左に移し、左に廟・右に学という格局を成し、また泮池[4]を開鑿し欞星門を増建した。翌年、貴州竜場へ謫られてゆく途中の学者・王陽明が長沙を経由し、書院に至って朱張祠を拝謁した。
嘉靖年間、知府の王秉良・孫存が先後して拡張を主宰し、斎舎に改めて題名し、堂の外に三門を開き、山の下に赫曦台を築き、また学田一千四百余畝を増置した。同知の兪夔はさらに湘江の西岸に「岳麓書院」の四字を刻んだ石牌坊を建て、渡口はこれによって牌楼口の名を得た。万暦十年(1582)、学者の張元忭がかつて書院を主講した。崇禎十一年(1638)、王夫之が書院に入って読書し、同学の鄺鵬升らと行社を結立した。崇禎十六年(1643)、書院は再び兵で毀れ、翌年明が亡びると、かつて『岳麓書院志』を輯印した山長の呉道行は絶食して国に殉じた。清の康熙七年(1668)、巡撫の周召南が再建し、十三年に呉三桂の叛軍が湖南に入り、書院は再び兵燹に遭った。二十三年(1684)、巡撫の丁思孔が俸給を捐して修理を唱導し、工事を主宰した長沙府同知の趙寧は文廟・尊経閣・崇道祠・六君子堂などの建築を修復し、また湘江の西岸から書院に通じる三里の山道の中途に自卑亭を建てた。二十五年(1686)、丁思孔は上疏して書院のために額を請い、礼部は議して江西白鹿洞書院の例に倣って頒賜することを准じ、康熙帝は御書「学達性天」の額を書院に賜り、あわせて日講解義および経史の諸書を頒いた。雍正十一年(1733)、清廷は各省に省会書院の設立を命じ、岳麓書院は湖南省会書院に列した。乾隆九年(1744)、乾隆帝御書の「道南正脈」の額が頒け掛けられた。
乾隆四十七年(1782)、羅典が山長に任じ、二十七年教を掌り、次々と書院八景を修造し、山の前に愛晩亭を建てた。嘉慶十七年(1812)、山長の袁名曜と院生の張中階が「惟楚有材、于斯為盛」の門聯を合作し、書院の大門に懸けた。道光七年(1827)、山長の欧陽厚均は伝に朱熹の手書という「忠孝廉節」の四字を碑に摹刻し、講堂の内壁に嵌めた。彼の教を掌った二十余年の間に、曾国藩・左宗棠・郭嵩燾らが先後して書院で読書した。咸豊二年(1852)、太平軍が長沙を攻撃し、書院の斎舎は傾き毀れ、山長の丁善慶は続いて文廟・御書楼・講堂と斎舎の修復を主宰した。同治七年から八年(1868—1869)、巡撫の劉崐が公款を充てて大修し、旧きを撤して新しく換え、書院の規制はここに大いに備わった。
光緒二十九年(1903)、湖南巡撫の趙爾巽の奏准により、岳麓書院と、時務学堂から幾度かの演変を経てきた省城大学堂とを合併し、湖南高等学堂を組織した。1912年に学堂は停办となり、その後湖南高等師範学校・湖南公立工業専門学校が相次いで書院の旧跡に移って校を開いた。1926年2月、工業専門学校は法政・商業専門学校と合併し、湖南大学が成立した。書院の建築群は今日まで保存され、頭門・二門・講堂・御書楼などの主要建築は清代同治年間の大修後の格局を維持し、1988年に全国重点文物保護単位に列せられ、今は湖南大学に属する。
歴史文献
『文献通考』
八年,赐潭州岳麓书院额。始,开宝中,郡守朱洞首度基创宇,以待四方学者。李允则来为州,请于朝,乞以书藏。方是时,山长周式以行义著。八年,诏见便殿,拜国子学主簿,使归教授,诏赐书院名,增赐中秘书。
八年、潭州岳麓書院の額を賜う。始め、開宝中、郡守の朱洞初めて基を度り宇を創り、以て四方の学者を待つ。李允則来たりて州と為り、朝に請い、書を以て蔵さんことを乞う。是の時に方り、山長の周式、行義を以て著る。八年、便殿に詔見し、国子学主簿を拝し、帰りて教授せしめ、詔して書院の名を賜り、中秘の書を増賜す。
右宋兴之初,天下四书院建置之本末如此。此外则又有西京嵩阳书院,赐额于至道二年;江宁府茅山书院,赐田于天圣二年。嵩阳、茅山后来无闻,独四书院之名著。是时未有州县之学,先有乡党之学。盖州县之学,有司奉诏旨所建也,故或作或辍,不免具文。乡党之学,贤士大夫留意斯文者所建也,故前规后随,皆务兴起。后来所至,书院尤多,而其田土之锡,教养之规,往往过于州县学,盖皆欲仿四书院云。
右、宋興の初、天下四書院建置の本末此の如し。此の外は則ちまた西京嵩陽書院あり、至道二年に額を賜う。江寧府茅山書院、天聖二年に田を賜う。嵩陽・茅山は後来聞こゆる無く、独り四書院の名著る。是の時、未だ州県の学有らず、先ず郷党の学有り。けだし州県の学は、有司の詔旨を奉じて建つる所なり。故に或いは作り或いは輟み、具文を免れず。郷党の学は、賢士大夫の斯文に留意する者の建つる所なり。故に前規後随し、皆興起を務む。後来の至る所、書院尤も多く、而してその田土の錫、教養の規、往々州県学に過ぐ。けだし皆四書院に倣わんと欲するなりと云う。
『湘城訪古録』
一统志云:在善化县西岳麓山下。宋开宝中,潭州守朱洞建,实彭城刘鳌创之。渊鉴类函云:刘珙知潭州,旧有岳麓书院,真宗朝芜废,公一新之,养土数千人,延礼佳士。方舆胜览云:湖南路潭州岳麓书院,在岳麓山下。画墁集云:岳麓书院有孔子堂、御书阁,堂庑尚完,清泉经流堂下,景意极于潇湘。文献通考云:宋真宗大中祥符八年,赐潭州岳麓书院额。始开宝中,郡守朱洞首度基创宇,以待四方学者。李允则来为州,请于朝,乞以书藏方。是时,山长周式以行义著。八年,诏见便殿,拜国子学主簿,使归教授,诏赐书院名,增赐中秘书。
『一統志』に云く、善化県の西、岳麓山の下に在り、と。宋の開宝中、潭州守の朱洞建つ。実には彭城の劉鰲これを創る。『淵鑑類函』に云く、劉珙潭州を知る。旧く岳麓書院有り、真宗朝に蕪廃す。公これを一新し、士数千人を養い、佳士を延礼す、と。『方輿勝覧』に云く、湖南路潭州岳麓書院、岳麓山の下に在り、と。『画墁集』に云く、岳麓書院に孔子堂・御書閣あり。堂廡なお完く、清泉堂下を経流す。景意、潇湘に極まる、と。『文献通考』に云く、宋の真宗大中祥符八年、潭州岳麓書院の額を賜う。始め開宝中、郡守の朱洞初めて基を度り宇を創り、以て四方の学者を待つ。李允則来たりて州と為り、朝に請うて、書を蔵する方を乞う。是の時、山長の周式、行義を以て著る。八年、便殿に詔見し、国子学主簿を拝し、帰りて教授せしめ、詔して書院の名を賜り、中秘の書を増賜す、と。
玉海云:开宝九年,潭州守朱洞始创宇于岳麓山,抱黄洞下,以待四方学者。作讲堂五间,斋序五十三间,孙迈为记。咸平二年,潭守李允则益崇大其规模。三年,王元之为记曰:西京首述文翁,东观先书卫飒。其理蜀郡,教桂阳,率以庠序为先云云。中开讲堂,揭以书楼,塑先师十哲之象,画七十二贤。潇湘为洙泗,荆蛮为邹鲁。四年二月二十日辛卯,允则奏:岳麓山书院修广舍宇,生徒六十余人。请下国子监,赐诸经释文、义疏、史记、玉篇、唐韵。从之。祥符五年,山长周式请于太守刘师道广其居。谭绮为记。式以行义著,八年,召见便殿,拜国子主簿,使归教授,给诏因旧名赐额。
『玉海』に云く、開宝九年、潭州守の朱洞始めて宇を岳麓山の抱黄洞の下に創り、以て四方の学者を待つ。講堂五間・斎序五十三間を作り、孫邁記を為す。咸平二年、潭守の李允則いよいよその規模を崇大す。三年、王元之記を為して曰く、西京に首に文翁を述べ、東観に先ず衛颯を書す。その蜀郡を理め、桂陽を教うるや、率ね庠序を以て先と為す云云、と。中に講堂を開き、書楼を以て掲げ、先師十哲の象を塑り、七十二賢を画く。潇湘を洙泗と為し、荊蠻を鄒魯と為す、と。四年二月二十日辛卯、允則奏す、岳麓山書院、舎宇を修広し、生徒六十余人。国子監に下し、諸経の釈文・義疏・『史記』・『玉篇』・『唐韻』を賜わらんことを請う、と。これに従う。祥符五年、山長の周式、太守の劉師道に請うてその居を広ぐ。譚綺記を為す。式、行義を以て著る。八年、便殿に召見し、国子主簿を拝し、帰りて教授せしめ、詔を給し旧名に因りて額を賜う、と。
朱子撰南岳处士吴晦叔行状云:长沙故有岳麓书院,国初时,郡人周式为山长。教授数百人。后更变乱,院废而山长罢。五峰方辞秦氏礼命,尝请为之,不报。乾道初,建安刘公珙始复立焉,犹虚山长不置。至是,转运副使九江萧侯之敏,始以礼聘君,请为之。君曰:侯之意则美矣,然此先师之所不得为者,岂可以否德忝之哉?卒辞不能。萧侯亦高其义,不强致也。
朱子の撰する南岳処士呉晦叔行状に云く、長沙に故く岳麓書院あり。国初の時、郡人の周式山長と為り、数百人を教授す。後に変乱を更て、院廃れて山長罷む。五峰、方に秦氏の礼命を辞するに当たり、かつて請うてこれを為さんとするも、報ぜず。乾道初、建安の劉公珙始めて復たこれを立つるも、なお山長を虚しくして置かず。是に至り、転運副使の九江蕭侯之敏、始めて礼を以て君を聘し、請うてこれを為さしめんとす。君曰く、侯の意は則ち美なり。然れども此れ先師の為すを得ざる所なり。あに否徳を以てこれに忝らんや、と。卒に辞して能わず。蕭侯もまたその義を高くし、強いて致さず、と。
張栻「潭州重修岳麓書院記」
潭州岳麓书院,开宝九年知州事朱洞之所作也。后四十有五年,李允则来,为请于朝,因得赐书藏焉。是时山长周式以行义著,祥符八年召见便殿,拜国子主簿,使归教授,始诏因旧名赐额,仍增给中秘书,于是书院之称闻天下。绍兴初,更兵革灰烬,十一仅存,已而遂废。乾道元年,建安刘侯珙安抚湖南,既剔蠹夷奸,民俗安靖,则葺学校,访儒雅,思有以振起之。湘人士合辞以书院请,侯竦然曰:是固章圣皇帝所以加惠一方,劝厉长养以风天下者,而可废乎?乃属州学教授金华卲颖经纪其事,未半岁而成,大抵悉还旧规。某从多士往观焉,爱其山川之胜,堂序之严,裴徊不忍去,喟而与之言曰:侯之为是举也,岂将使子群居族谭,但为决科利禄计乎?抑岂使子习为言语文词之工而已乎?盖欲成就人才,以传斯道而济斯民也。
潭州岳麓書院は、開宝九年に州事を知る朱洞の作る所なり。後四十五年ありて、李允則来たり、為に朝に請い、因りて書を賜りて蔵せしむるを得たり。是の時、山長の周式、行義を以て著る。祥符八年、便殿に召見し、国子主簿を拝し、帰りて教授せしめ、始めて詔して旧名に因りて額を賜り、仍ほ中秘の書を増給す。ここにおいて書院の称、天下に聞こゆ。紹興初、兵革に更て灰烬と為り、十一のみ存し、已にして遂に廃す。乾道元年、建安の劉侯珙、湖南を安撫す。既に蠹を剔り姦を夷し、民俗安靖なれば、則ち学校を葺き、儒雅を訪ね、以てこれを振起する有らんことを思う。湘の人士、辞を合わせて書院を以て請う。侯竦然として曰く、是れ固より章聖皇帝の一方に加恵し、勧厲長養し以て天下を風くる所以の者なり。而して廃すべけんや、と。乃ち州学教授の金華卲穎に属してその事を経紀せしむ。未だ半歳ならずして成る。大抵悉く旧規に還す。某、多士に従りて往きてこれを観る。その山川の勝、堂序の厳なるを愛し、裴徊して去るに忍びず。喟然としてこれと言いて曰く、侯の是の挙を為すや、あに将に子をして群居族譚せしめ、但だ決科利禄の計を為さしめんとするか。抑もあに子をして言語文詞の工を習わしめんとしてのみや。けだし人材を成就し、以て斯の道を伝え斯の民を済わんと欲するなり、と。
惟民之生,厥有常性,而不能以自达,故有赖于圣贤者出而开之,是以二帝三王之政,莫不以教学为先务。至于孔子,述作大备,遂启万世无穷之传。其传果何与?曰仁也。仁,人心也,率性立命,知天下而宰万物者也。今夫目视而耳听,口言而足行,以至于食饮起居之际,谓道而有外夫是,乌可乎?虽然,天理人欲,同行异情,毫厘之差,霄壤之缪,此所以求仁之难,必贵于学以明之与?善乎孟子之得传于孔氏,而发人深切也。齐宣王见一牛之觳,觳而不忍,则告之曰:是心足以王矣。古之人所以大过人者,善推其所为而已。论尧舜之道本于孝弟,则欲其体夫徐行疾行之间;指乍见孺子匍匐将入井之时,则曰:恻隐之心,仁之端也。于此焉求之,则不差矣。尝试察吾终日事亲从兄、应物处事,是端也,其或发见,亦知其所以然乎?诚能默识而存之,扩充而达之,生生之妙,油然于中,则仁之大体,岂不可得乎?及其至也,与天地合德,鬼神同用,悠久无疆,变化莫测,而其则初不远也。是乃圣贤所传之要,从事焉终吾身而后已,虽约居屏处,庸何损?得时行道,事业满天下,而亦何加于我哉?侯既属某为记,遂书斯言以厉同志,俾无忘侯之德,抑又以自厉云尔。二年冬十有一月辛酉日南至,右承务郎直秘阁赐紫金鱼袋广汉张某记。
惟うに民の生、厥の常性有り。而して能く自ら達するを以てせず。故に聖賢の者の出でてこれを開くに頼る所有り。是を以て二帝三王の政、教学を以て先務と為さざるは莫し。孔子に至りては、述作大いに備わり、遂に万世無窮の伝を啓く。その伝は果して何ぞや。曰く仁なり、と。仁とは人心なり。性を率い命を立て、天下を知りて万物を宰る者なり。今夫れ目視り耳聴き、口言い足行い、食飲起居の際に至るまで、道にして夫の是より外なる有りと謂わば、あに可ならんや。然りと雖も、天理人欲、同行にして異情なり。毫釐の差は霄壤の繆なり。此れ仁を求むるの難きの所以にして、必ず学を以てこれを明らかにするを貴ぶか。善きかな孟子の孔氏に伝を得て、人を発くこと深切なるや。斉の宣王、一牛の觳するを見、觳するに忍びざれば、則ちこれに告げて曰く、是の心、以て王たるに足れり、と。古の人の大いに人に過ぐる所以の者は、善くその為す所を推すのみ。尭舜の道、孝弟に本づくと論じては、則ちその徐行疾行の間に体れんことを欲す。乍ち孺子の匍匐して将に井に入らんとするを見るの時を指しては、則ち曰く、惻隠の心は仁の端なり、と。此に於いてこれを求むれば、則ち差わず。試みに吾が終日親に事え兄に従い、物に応じ事を処るを察するに、是の端の或いは発見するや、またその然る所以を知らんか。誠に能く黙識してこれを存し、拡充してこれを達せば、生生の妙、油然として中にあらば、則ち仁の大体、あに得べからざらんや。その至るに及びては、天地と徳を合わせ、鬼神と用を同じくし、悠久无疆にして、変化測るべからず。而してその則は初めより遠からず。是れ乃ち聖賢の伝うる所の要なり。事に従って吾が身を終えて後已むのみ。約居屏処すと雖も、庸ぞ何の損かあらん。時を得て道を行えば、事業天下に満つ。而してまた何ぞ我に加えんや。侯既に某に属して記を為さしむ。遂に斯の言を書し以て同志を厲し、侯の徳を忘れ無からしめ、抑もまた以て自ら厲むと云爾。二年冬十有一月辛酉日南至、右承務郎直秘閣賜紫金魚袋広漢張某記す。
陳傅良「重修岳麓書院記」
白:唐季至于五代,用兵而教事阙。圣人作四方次第平,以俎豆胜干戈,而天下靡然日趋于文。盖宋受命四年,遂平荆湖。又十有一年,尚书朱洞来守长沙,作书院岳麓山下。朱在国史,其行事不甚较着,足以考见上意。所乡为吏者,皆承休德,知所先后,如此岂不盛哉!而其风动抑何速也!五六十载之间,教化大洽,学者皆振振雅驯,行艺修好,庶几于古。当是时,州县犹未尽立学,所谓“十九教授未有显”者,而四书院之名,独闻天下,上方崇长褒异之者甚至,则其成就之效博矣。
白す。唐の季より五代に至るまで、兵を用いて教事闕く。聖人作りて四方次第に平らぎ、俎豆を以て干戈に勝ち、而して天下靡然として日に文に趨る。けだし宋、命を受くること四年にして、遂に荊湖を平らぐ。また十一年ありて、尚書の朱洞来たりて長沙を守り、書院を岳麓山の下に作る。朱は国史に在りて、その行事は甚だ较著ならざれども、以て上の意を考見するに足る。郷に吏たる所の者は、皆休徳を承け、先後する所を知る。此の如くあればあに盛ならざらんや。而してその風動は抑も何ぞ速きや。五六十載の間、教化大いに洽く、学者皆振振として雅馴に、行を修め好みを修め、古に庶幾す。是の時に当たり、州県なお尽く学を立てず、謂う所の「十九教授未だ顕なる有らず」の者にして、而して四書院の名、独り天下に聞こゆ。上、方にこれを崇長褒異すること甚だ至れり。則ちその成就の効博し。
熙宁初,行三舍之法,颇欲进士尽繇学校,而乡举益重教官之选,举子家状,必自言尝受业某州教授,使不得人自为说。崇宁以后,舍法加密,虽里闾句读童子之师,不关白州学者,皆有禁。诏令诚甚美,然由是文具胜而利禄之意多,老师宿儒尽向之。书院不知起何时,以余所闻,汉初郡国往往有夫子庙而无教官,且不置博士弟子员,其学士尝课试供养与否,关不见传记。然诸儒以明经教于其乡,率从之者数十百人,辄以名其家。齐、鲁、燕、赵之间,诗书、礼、易、春秋论,论家各甚盛,则今书院近之矣。县官时时遣守相劳问,致馈为礼。其门生皆世守师说,更相传受不易业。盖至孝武帝时,郡国始稍稍有学校官。由今观汉晚出,视其初儒者术业工楛,优劣可知也已。
熙寧初、三舎の法を行い、頗る進士を尽く学校に繇らんことを欲し、而して郷挙いよいよ教官の選を重くす。挙子の家状は、必ず自らかつて某州教授に受業せしを言い、人自ら説を為すを得ざらしむ。崇寧以後、舎法いよいよ密を加え、里閭の句読童子の師と雖も、州学に関白せざる者は、皆禁有り。詔令誠に甚だ美なり。然れども是に由りて文具勝ちて利禄の意多く、老师宿儒尽くこれに向う。書院はいつの時に起こりしか知らず。余の聞く所を以てすれば、漢初、郡国に往々夫子廟有りて教官無く、且つ博士弟子員を置かず。その学士、かつて課試供養するや否や、関は伝記に見えず。然れども諸儒、明経を以てその郷に教うるや、これに従う者を率ねること数十百人。輙ち以てその家を名づく。斉・魯・燕・趙の間、詩書・礼・易・春秋の論、論家各々甚だ盛なり。則ち今の書院これに近し。県官時々守相を遣わして労問し、餽を致して礼と為す。その門生皆世々師説を守り、更々伝え受けて業を易えず。けだし孝武帝の時に至り、郡国始めて稍稍学校官有り。今に由りて漢の晩出を観れば、その初の儒者の術業の工楛を視るに、優劣知るべきなり。
方大中祥符间,天子使使召见山长周氏式,拜国子王簿,诏留讲诸王宫,式固谢不应诏,卒还山,肄习如初,至赐对衣、鞍马、内府书。而宋有戚氏,吴有胡氏,鲁有孙、石二氏,各以道德为人师,不苟合于世著名。余以是益叹国初士风之孕,本之师道尊,而书院为不可废。乾道元年,故师枢密刘公珙克复门宝之旧,已浸费治,今直徽猷阁潘公畤亟践修之。某得官桂阳,于长沙为属邑,姑诣大府请事。时公至镇适数月矣,与九郡守要束,咸以宽简,阖部晏然,民吏意得,曾无凡目可以再三于有司者,因得陪别驾后至书院,谒诸先生祠下,会修事且,辑诸生穆然而志专,徘徊乐之,不忍去也。
方に大中祥符の間、天子、使をして山長周氏式を召見せしめ、国子王簿を拝し、詔して留めて諸王宮に講ぜしめんとす。式固く謝して詔に応ぜず、卒に山に還り、肄習初めの如し。対衣・鞍馬・内府書の賜に至る。而して宋に戚氏あり、呉に胡氏あり、魯に孫・石の二氏あり。各々道德を以て人師と為り、苟も世に合せずして著名す。余是を以ていよいよ国初の士風の孕めるを嘆ず。これを師道の尊きに本づく。而して書院は廃すべからざるなり。乾道元年、故師枢密劉公珙、能く門宝の旧を復す。已に浸く治に費し、今直徽猷閣潘公畤、亟くこれを践修す。某、官を桂陽に得たり。長沙に於いて属邑と為す。姑く大府に詣りて事を請う。時に公、鎮に至ること適々数月なり。九郡守と要束し、咸く寛簡を以てし、闔部晏然として、民吏意を得、かつて凡目の以て有司に再三すべき者無し。因りて別駕の後に陪して書院に至ることを得、諸先生の祠下に謁す。会す修事且にして、諸生を輯め穆然として志専なり。徘徊しこれを楽しみ、去るに忍びず。
既去,州教授兼山长顾杞、堂长吴猎以讫役,属为之记。某尝获诵侍讲张先生所为记,及于治心修身之要,湖湘之俊亦既知所指归。近岁以其论述由大学礼部奏名,及对大廷,连为天下第一,他未试,可略睹矣。虽欲有言,无以出讲闻之外者,而公于今卿大夫为先进,年益高,闻望益尊重,人人能道之,又何待余言者?故但次书院所从废兴之故,繋以岁月,而强附名焉。是岁淳熙十有五年。
既に去る。州教授兼山長の顧杞・堂長の呉猟、役を訖えたるを以て、属して記を為さしむ。某かつて侍講張先生の為す所の記を誦するを得、治心修身の要に及べり。湖湘の俊もまた既に指帰する所を知れり。近歳、その論述を以て大学礼部に由りて名を奏し、大廷に対するに及び、連ねて天下第一と為る。他は未だ試みず、略ぼ睹るべし。言有らんと欲すと雖も、以て講聞の外に出づる無し。而して公は今の卿大夫に於いて先進と為り、年いよいよ高く聞望いよいよ尊重す。人人能くこれを道う。又何ぞ余の言を待たん。故に但だ書院の廃興する所以の故を次ぎ、歳月を以て繋ぎ、而して強いて名を附す。是の歳淳熙十有五年。
「潭州委教授措置岳麓書院牒」
契勘本州州学之外,复置岳麓书院,本为有志之士,不远千里,求师取友,至于是邦者,无所栖泊,以为优游肄业之地。故前帅枢密忠肃刘公特因旧基,复创新馆,延请故本司侍讲张公先生往来其间,使四方来学之士,得以传道授业解惑焉。此意甚远,非世俗常见所到也。而比年以来,师道陵夷,讲论废息,士气不振,让者惜之。当职叨冒假守,蒙被训词,深以讲学教人之务为寄,顾恨庸鄙,弗克奉承。到官两月,又困簿书,未能一往谒殿升堂,延见诸生,询考所合罢行事件,庶革流弊,以还旧规。除已请到醴陵黎君贡士充讲书职事,与学录郑贡士同行措置外,今议别置额外学生十员,以处四方游学之士。依州学则例,日破米一升四合,钱六十文,更不补试,听候当职考察搜访,径行拨入者。庶几有以上广圣朝教育人才之意,凡使为学者知所当务不,专在于区区课试之间,实非小补。牒教授及帖书院照会施行,仍请一面指挥合干人排备斋舍几案床榻之属,并帖钱粮官于本州赡学料次钱及书院学粮内通融支给须至行遣。
契勘す。本州州学の外、復た岳麓書院を置く。本と為す所は、有志の士、千里を遠しとせず、師を求め友を取り、是の邦に至る者、栖泊する所無からんことを為し、以て優游肄業の地と為すなり。故に前帥枢密忠肅劉公、特に旧基に因り、復た新館を創り、故本司侍講張公先生を延請して其の間に往来せしめ、四方来学の士をして、以て道を伝え業を授け惑いを解くことを得しめんとす。此の意甚だ遠く、世俗常見の到る所に非ず。而して比年以来、師道陵夷し、講論廃息し、士気振るわず。譲りし者これを惜しむ。当職、叨冒して仮守たり。訓詞を蒙被り、深く講学教人の務を以て寄と為す。顧みて庸鄙なるを恨み、奉承するに克たず。官に到ること両月、また簿書に困み、未だ一往殿に謁し堂に升り、諸生を延見し、罷行すべき事件を詢考する能わず。庶くは流弊を革め、以て旧規に還さんとす。已に醴陵黎君貢士を請到して講書職事に充て、学録鄭貢士と同行措置せしむる外、今議して別に定員外学生十員を置き、以て四方遊学の士を処らんとす。州学の則例に依り、日に米一升四合・銭六十文を破り、更に補試せず、当職の考察捜訪を聴候して、径ちに撥入する者。庶幾くは以て上に聖朝の人材を教育するの意を広め、およそ学者をして務むべき所を知らしめ、専ら区々たる課試の間に在らざらしめん。実に小補に非ず。教授に牒しおよび書院に帖して照会施行せしめ、仍ほ一面合干人に指揮して斎舎・几案・床榻の属を排備せしめ、併せて銭糧官に帖して本州の贍学料次銭および書院学糧の内に於いて通融支給せしめ、行遣に至るべし。
李東陽「重建岳麓書院記」
东阳昔省墓长沙,尝渡湘江,发岳麓,访宋人所谓书院者,得断碑遗址于榛莽间。慨晦翁、南轩两先生之余风遗泽未有以复也,顾有寺存焉耳。越二十余年,通判陈君捐俸治材,为中门,为左右庑,甃石数级,上为讲堂,又上为崇道祠,以祀两先生,复名之曰岳麓书院。构亭其巅,名之曰极高明。又买田若干亩,以成陈志。比王君来知府事,帅僚属师生行舍菜礼,诸所未及,如开道路、备器用、广旁舍、储置经史、延师领教,皆次第举行,而同知某佐其事。
東陽、昔、長沙に墓を省み、かつて湘江を渡り、岳麓に発ち、宋人の謂う所の書院を訪ねて、断碑の遺址を榛莽の間に得たり。晦翁・南軒両先生の余風遺沢、未だ以て復する有らざるを慨き、顧みて寺の存するのみ。越えること二十余年、通判陳君、俸を捐して材を治め、中門を為し、左右の廡を為し、石数級を甃き、上は講堂を為し、また上は崇道祠を為し、以て両先生を祀り、復たこれを名づけて岳麓書院と曰う。その巓に亭を構え、これを名づけて極高明と曰う。また田若干畝を買い、以て陳の志を成す。王君来たりて府事を知るに比べ、僚属の師生を帥いて舎菜の礼を行う。諸々の未だ及ばざる所、道路を開き、器用を備え、旁舎を広め、経史を儲置し、師を延きて教を領するが如き、皆次第に挙行し、同知某その事を佐く。
盖兹院自宋初郡守朱洞始建,真宗时,李允则请藏书,国子监簿周式教授其间,乃请赐额,遂与应天、白鹿、石鼓并称为四大书院。及南渡,毁于兵,安抚刘公珙复建。孝宗时,两先生实会讲焉。光宗时,晦翁为安抚,更建于兹地,学者多至千人,田至五十顷,庙舍至百余间。今殿故在,遗址废田为僧卒势家所据,历三百余年,而兹院始复其旧。于是王君遣使属记于予,亦陈昔所尝请者也。
けだし茲の院、宋初の郡守朱洞より始めて建つ。真宗の時、李允則蔵書を請い、国子監簿の周式其の間に教授し、乃ち額を賜わらんことを請う。遂に応天・白鹿・石鼓と並び称して四大書院と為す。南渡に及び、兵に毀れ、安撫劉公珙復た建つ。孝宗の時、両先生実に会講せり。光宗の時、晦翁安撫と為り、茲の地に更に建つ。学者多くは千人に至り、田は五十頃に至り、廟舎は百余間に至る。今、殿故く在り。遺址廃田は僧卒勢家の据える所と為り、三百余年を歴て、而して茲の院始めてその旧を復す。ここにおいて王君、使を遣わして予に記を属す。亦た陳の昔かつて請いし所の者なり。
惟古者学校徧天下,其教与学者皆圣贤之道,故能以一德同俗。及世裒政弛,道晦不明,上择官以教,下择师以学,穷什一之力而后得。世之少治而多乱,奚惑哉?今学有恒制,师有定员,第玩常愒久,不能无望乎什一之外如书院者。故士或起于乡塾,则于此为培养之地;或籍于郡学,则藉游息以广见闻。使斯道之在天下,体用一源,显微无间者,随厥穷达,皆可为成已成物之用,乃可以言学。不然,虽学于此,犹学于彼,无益也。且南轩得衡山胡氏言仁之旨,观所为书院记,亦倦倦以是为辞。晦翁之学,固有大于彼,然亦资而有之。后之学者,曾不逮其万一,而不百倍其功,恶可哉?由南轩以介晦翁,又等而上之,以希所谓古之人者,庶几为兹院重,以为山川之光。若其程格条绪,则存乎教与学,吾于吾大夫士望之矣。
惟うに古は学校天下に徧し。その教と学とは皆聖賢の道なり。故に能く一徳を以て俗を同じくす。世の裒け政の弛むに及び、道晦く明らかならず。上官を択びて以て教え、下師を択びて以て学び、什一の力を窮めて後に得。世の治める少なく乱るる多きは、奚ぞ惑わんや。今、学に恒制あり、師に定員あり。第に常を玩び久を愒れば、什一の外の書院の如きに望まざる能わず。故に士或いは郷塾より起これば、則ち此に於いて培養の地と為し、或いは郡学に籍すれば、則ち遊息に藉りて以て見聞を広ぐ。斯の道の天下に在るや、体用一源にして顕微間無き者、厥の窮達に随い、皆成己成物の用と為すべくして、乃ち以て学を言うべし。然らざれば、此に学ぶと雖も、なお彼に学ぶがごとし。益無きなり。且つ南軒、衡山胡氏の仁を言うの旨を得たり。為す所の書院記を観るに、また倦々として是を以て辞と為す。晦翁の学、固より彼より大なる有り。然れどもまた資としてこれを有つ。後の学者、かつてその万一に逮ばずして、而してその功を百倍せざれば、惡ぞ可ならん。南軒に由りて以て晦翁に介し、またこれに等しくして上り、以て謂う所の古の人を希えば、庶幾くは茲の院の重と為り、以て山川の光と為らん。其の程格条緒の若きは、則ち教と学とに存す。吾、吾が大夫士にこれを望む。
『湖南通志』
翠𪩘层层护讲堂,西征何幸挹辉光。湘江北去源流远,衡岳南来地脉长。昭代人文重荆楚,宋贤心学赖朱张。青衿指点峰头石,古刻相传夏禹王。
翠𪩘層々として講堂を護り、西征何ぞ幸いに輝光を挹ぐる。湘江北へ去りて源流遠く、衡岳南より来たりて地脈長し。昭代の人文荊楚を重んじ、宋賢の心学朱張に頼る。青衿指さす峰頭の石、古刻は伝う夏禹王なりと。
『新修岳麓書院志』
巡抚偏沅等处地方、提督军务兼理粮饷、都察院右副都御史臣丁思孔谨题:为恭请御书赐额,颁给讲义诸书,以光旧制,以昭化成事。康熙二十五年四月初六日,臣准礼部咨开:仪制清吏司案呈,奉本部送礼科抄出,该本部覆偏沅巡抚丁题前事内称:该臣等议得:偏沅巡抚丁疏称:长沙府岳麓书院,原为四大书院之一,查第二疏巡旧志,张栻、朱熹等相继于此讲学,伏恳皇上万几之暇,御书匾额,并日讲解义诸经书,统祈颁赐。等因前来。查康熙二十四季五月内,臣部以江西南康府白鹿洞书院系唐时李渤读书,宋时朱熹讲学之处,请给御书匾额,并给经书。等因,具题,准行在案。今该抚丁疏称:旧志内有岳麓书院张栻、朱熹讲学等语。臣部移咨翰林院,查取湖广长沙府新志,书内止载有张栻在岳麓书院作记,并未载有张栻、朱熹在岳麓书院讲学之处。志书系一处之志书,旧志内有张栻、朱熹在岳麓书院讲学,该省所送翰林院新志,又未载有张栻、朱熹在岳麓书院讲学。相应敕下该抚确查明白,具题,到日再议可也。等因。康熙二十五年三月初三日题。本月初五日,奉旨依议。钦此,钦遵,抄部送司。奉此,相应移咨。为此,合咨前去,查照匜行。等因,咨移到臣。
巡撫偏沅等処地方・提督軍務兼理糧餉・都察院右副都御史臣丁思孔謹題す。御書賜額を恭請し、講義諸書を頒給し、以て旧制を光らし、以て化成を昭かにするの事。康熙二十五年四月初六日、臣、礼部の咨を准ず。開く、儀制清吏司案呈、本部の送る礼科の抄出を奉じ、該本部の偏沅巡撫丁の題する前事を覆す内に称す。該臣等議得す。偏沅巡撫丁の疏に称す、長沙府岳麓書院、もと四大書院の一なり。第二疏に巡りて旧志を査するに、張栻・朱熹等相継いで此に於いて講学す。伏して皇上万幾の暇に、御書の匾額、並びに日講解義の諸経書を懇願し、統ねて頒賜を祈る、等因前来す。査するに康熙二十四年五月内、臣部、江西南康府白鹿洞書院は唐の時李渤の読書、宋の時朱熹の講学の処に係るを以て、御書の匾額を請給し、並びに経書を給す、等因、具題し、准行し在案す。今、該撫丁の疏に称す、旧志内に岳麓書院張栻・朱熹講学等の語有り。臣部、翰林院に移咨し、湖広長沙府の新志を査取するに、書内止だ張栻の岳麓書院に於いて記を作るを載せ、並びに張栻・朱熹の岳麓書院に於いて講学するの処を載せず。志書は一処の志書に係る。旧志内に張栻・朱熹の岳麓書院に於いて講学する有り、該省の翰林院に送る新志、また未だ張栻・朱熹の岳麓書院に於いて講学するを載せず。相応に勅して該撫に下し、確査明白にして具題し、日到りて再び議すべきのみ、等因。康熙二十五年三月初三日題。本月初五日、旨を奉じて議に依る。欽此欽遵、部に抄して司に送る。此を奉じ、相応に移咨す。此の為に、合咨して前去り、査照の上施行すべし。等因、咨移して臣に到る。
准此。该臣看得岳麓书院为先儒讲学之所,原其初意,以郡县庠序师生所重在制举之业,而书院之设,则待四方学者相聚切磋,专务修明道德,甚盛事也。故自始建以来,兴理修举,代不乏人。伏惟我皇上文德武功,人安区宇,宵衣旰食,念切民生,加以圣学高深,穷幽极显,绍尧、舜之正绪,阐孔孟之微言。历观史册所载,帝王之学术事功,未有北隆于我皇上者也。臣本以庸愚,特蒙简任,朝夕宣布圣德,抚育庶民,顾兹凿井耕田,咸已乐生兴事,因仰体我皇上重道崇儒之至意,惟以劝学为先务。伏查岳麓书院,系宋开宝季间,郡守朱洞始建,历四十余年,州守李允则为请于朝,乞以书藏。祥符八年,周式为山长,召见便殿,拜国子监主薄,使归教授。诏以岳麓书院为名,增赐中秘书籍。于是书院之称闻于天下,与嵩阳、白鹿洞等称四大书院。然嵩阳等皆民间所建,惟岳麓创自郡守,其名尤著。乾道元年,刘珙为安抚使,重加修葺,请张栻主教事,因为之记。时栻家于潭州。乾道三年,朱熹自闽来潭,访栻,留止两月,讲学于院中。手书忠孝廉节四字及道乡台等题额。是年,刘珙自湖南召为同知枢密院事。史称其陈圣王之学,以明理正心为纲,并荐张栻等学行于上,良有由也。绍熙四年,以朱熹知潭州,增广学舍,主百余间,田五十顷,学者千余人。故朱熹到任谢表,有学兼岳麓,壤接洞庭,假以师帅之任,责以治教之功等语,当时诚以此为重云。嗣后真德秀以安抚使知潭州,魏了翁以资政殿学士知潭州,皆以周、程、张、朱之学勉励士子,教化大行。元延祐元年,郡判刘安仁重修,有吴澄为之记。明弘治七年,通判陈钢等重修,又建崇道祠以祀张栻、朱熹,有李东阳为之记。皆历历言张栻、朱熹讲学于此甚祥。自弘治以后,间有废兴,顷遭逆乱,遂至荒芜。臣倡率司道等官,捐赀修造,规模如旧,置田三百亩,以资膏火,令四方有志之士,得共讲学其中。伏念必蒙御书赐额,并颁给解义诸经书,使士子恭睹宸章,仰窥圣学,益深忠爱之思,更明理学之统,不惟增光旧制,而于治化实有裨焉。臣前疏不敢多为援引,以滋繁冗,今令臣确查明白,因考长沙新旧府志暨宋史及文集诸书,张栻、朱熹确曾于此讲学。其新修本省通志,虽书院本条之下,未经备载,而亦散见于岳麓山图注及祠祀古迹、名宦诸条之中。用敢再疏题请。伏乞皇上睿鉴,敕部议覆施行。康熙二十五年七月初三日。
此を准ず。該臣看るに、岳麓書院は先儒講学の所と為す。其の初意を原むるに、郡県庠序の師生の重んずる所は制挙の業に在り、而して書院の設は、則ち四方の学者の相聚まり切磋し、専ら道德を修明するを待つ。甚だ盛なる事なり。故に始建より以来、興理修挙、代に人を乏しからず。伏せ惟るに我が皇上、文徳武功、人区宇に安んじ、宵衣旰食、念は民生に切し。加以聖学高深、幽を窮め顕を極め、尭・舜の正緒を紹ぎ、孔孟の微言を闡く。歴観す史冊の載する所、帝王の学術事功、未だ我が皇上より隆き者有らざるなり。臣、本と庸愚を以て、特に簡任を蒙り、朝夕聖徳を宣布し、庶民を撫育す。顧みて茲の鑿井耕田、咸く已に生を楽しみ事を興す。因りて仰ぎて我が皇上の道を重んじ儒を崇ぶの至意を体し、惟だ学を勧むるを以て先務と為す。伏して査す。岳麓書院は、宋の開宝年間に係り、郡守朱洞始めて建て、四十余年を歴て、州守李允則為に朝に請い、書を蔵さんことを乞う。祥符八年、周式山長と為り、便殿に召見し、国子監主簿を拝し、帰りて教授せしむ。詔して岳麓書院を以て名と為し、中秘の書籍を増賜す。ここにおいて書院の称、天下に聞こえ、嵩陽・白鹿洞等と四大書院と称す。然れども嵩陽等は皆民間の建つる所にして、惟だ岳麓は郡守より創る。その名尤も著し。乾道元年、劉珙安撫使と為り、重ねて修葺を加え、張栻を請じて教事を主らしめ、因りて之が為に記す。時に栻、潭州に家す。乾道三年、朱熹、閩より潭に来たり、栻を訪ね、留止すること両月、院中に講学す。手書す忠孝廉節の四字および道郷台等の題額。是の年、劉珙湖南より同知枢密院事に召さる。史、其の聖王の学を陳べ、理を明らかにし心を正すを以て綱と為し、併せて張栻等の学行を上に薦むるを称す。良に由有るなり。紹熙四年、朱熹を以て潭州を知らしめ、学舎を増広し、百余間に至り、田五十頃、学者千余人。故に朱熹の到任の謝表に、学は岳麓を兼ね、壌は洞庭に接し、師帥の任を仮り、治教の功を責む、等の語有り。当時誠に此を以て重しと為すと云う。嗣後、真徳秀安撫使を以て潭州を知り、魏了翁資政殿学士を以て潭州を知る。皆周・程・張・朱の学を以て士子を勉励し、教化大行なり。元の延祐元年、郡判劉安仁重修し、呉澄有りて之が為に記す。明の弘治七年、通判陳鋼等重修し、また崇道祠を建て以て張栻・朱熹を祀る。李東陽有りて之が為に記す。皆歴歴として張栻・朱熹の此に於いて講学すること甚だ祥かなるを言う。弘治より以後、間に廃興有り、頃に逆乱に遭い、遂に荒蕪に至る。臣、司道等官を倡率し、貲を捐して修造し、規模旧の如く、田三百畝を置き、以て膏火に資し、四方有志の士をして、共に其の中に講学することを得しむ。伏せ念う、必ず御書賜額を蒙り、併せて解義諸経書を頒給し、士子をして恭しく宸章を睹、仰いで聖学を窺い、いよいよ忠愛の思を深くし、更に理学の統を明らかにせしめば、惟だ旧制に光を増すのみならず、而して治化に於いて実に裨有らん。臣前疏、敢えて多く援引せず、以て繁冗を滋く。今、臣に確査明白を令す。因りて長沙新旧府志および宋史並びに文集諸書を考するに、張栻・朱熹確かにかつて此に於いて講学せり。其の新修本省通志は、書院本条の下、未だ備載するを経ずと雖も、而してまた岳麓山図注および祠祀古跡・名宦諸条の中に散見す。用て敢えて再び疏して題請す。伏せ乞う、皇上の睿鑑、部に勅して議覆施行せしめんことを。康熙二十五年七月初三日。
衡山之峰七十二,考古志,以回雁峰为首,绵亘数百里,至星沙之西南隅,而始为山之麓,此岳麓所由名也。赵宋开宝间,刺史朱公洞创建书院至乾道三年,考亭夫子访南轩于其地,相与考道问业。时士子云集景从,正学丕振,人谓潇湘间彬彬有沬、泗之风焉。其后兴废相仍,多历年所。暨康熙甲寅,值吴逆之变,叛寇称戈,文教歇绝,书院将鞠为茂草。幸王师荡平,大中丞丁公开府湖南,首披图籍,慨然曰:郡国有先贤之遗迹而不为修。复,是在位之责也。遂捐俸为倡,片甍尺椽,不以需之闾里,庀材鸠工,浃岁告竣。自文庙尊经阁而下,与夫崇道之祠、四箴之亭,以及六君子堂,后先相望。中丞公又妙简名流以董帅之,每公余之暇,课其会业,用相鼓舞,父老扶扙感叹,以为睹记以来所未有也。
衡山の峰七十二。古志を考するに、回雁峰を以て首と為し、綿亘すること数百里、星沙の西南隅に至りて、而して始めて山の麓と為る。此れ岳麓の名づくる所由なり。趙宋開宝の間、刺史朱公洞、書院を創建す。乾道三年に至り、考亭夫子、其の地に南軒を訪ね、相与に道を考え業を問う。時に士子雲集景従し、正学丕く振るう。人謂う、潇湘の間、彬彬として沬・泗の風有り、と。其の後、興廃相仍ぎ、年所を歴ること多し。康熙甲寅に暨り、呉逆の変に値い、叛寇戈を称え、文教歇絶し、書院将に鞠として茂草と為らんとす。幸いに王師蕩平し、大中丞丁公、湖南に開府し、首めに図籍を披き、慨然として曰く、郡国に先賢の遺跡有りて修めざれば、復た是れ在位の責なり、と。遂に俸を捐じて倡と為し、片甍尺椽も、以て閭里に需めず。材を庀め工を鳩め、浹歳にして竣を告ぐ。文廟尊経閣より下、与に夫の崇道の祠・四箴の亭、および六君子堂、後先相望む。中丞公また妙く名流を簡び以てこれを董帥し、毎に公余の暇、その会業を課し、用て相鼓舞す。父老扙を扶えて感嘆し、以て睹記以来未だ有らざる所と為す。
今年夏,偶大过三湘,而孝廉郭君金门踵门来请曰:愿有述。窃谓地灵与人事常相□者也。昔昌黎谓南方之山,巍然高而大者以数百,独衡为宗。中州清淑之气,蜿蟮扶舆,伤礴而郁积。而书院又适当其麓,则又气之所萃,毓灵而钟秀者也。然上下千百年,大盛于考亭,而又将复盛于今,岂偶然之数欤?闻中丞公之抚楚,整躬率属,儆贪黩,赈穷乏,□荒芜,厘行户之艰,蠲夫船之役,豪右畏威,甘澍应祷,善政不能枚举。而学校为王化所基,低徊于弦诵揖让之间,更为观风者所不能略也。况我皇上始终典学,比年来,亲洒宸翰,以万世师表之额,风厉学宫,并求先圣先儒之裔,荣以世秩。而中丞公当下车之初,早倦倦以建学育才为务,若有不期而合者焉。盖圣朝之有名世,运会所屇,一德交孚,固不徒地灵人事之相因巳也,殆亦天意将开文治之盛,化行俗美,而以比阴于唐虞三代也哉!遂拜手为之记。
今年夏、偶さ大いに三湘を過ぎ、孝廉郭君金門、門を踵めて来たりて請うて曰く、願わくは述有らんことを、と。窃かに謂う、地霊と人事とは常に相□する者なり、と。昔、昌黎謂う、南方の山、巍然として高く大なる者数百を以てすれども、独り衡を宗と為す。中州清淑の気、蜿蟮扶輿し、傷礴して欝積す。而して書院また適々其の麓に当たる。則ちまた気の萃まる所、霊を毓し秀を鐘する者なり。然れども上下千百年、大いに考亭に盛え、而又た将に今に復た盛えんとす。あに偶然の数ならんか。聞く、中丞公の楚を撫するや、躬を整え属を率い、貪黷を儆し、窮乏を賑し、荒蕪を□め、行戸の艱を厘し、夫船の役を蠲ぎ、豪右威を畏れ、甘澍祷に応ず。善政枚挙する能わず。而して学校は王化の基と為る所なり。弦誦揖譲の間に低徊するは、更に観風者の略する能わざる所なり。況んや我が皇上、始終学を典にし、比年以来、親しく宸翰を洒い、万世師表の額を以て学宮を風厲し、併せて先聖先儒の裔を求め、世秩を以て栄えらす。而して中丞公、下車の初めに当たり、早くより倦々として建学育才を以て務と為す。期せずして合する者有るが若し。けだし聖朝の名世有るや、運会の屇く所、一徳交孚す。固より徒らに地霊人事の相因るのみならず。殆どまた天意、将に文治の盛を開き、化行り俗美しく、以て唐虞三代に比陰せしめんとするか。遂に拝手して之が為に記す。
古写真
1917年から1926年の間(1939年刊載)
常盤大定・関野貞が調査撮影したこの三幅の写真は、1939年に法蔵館刊行の『中国文化史蹟』第三輯に収められた。書院大門の写真の門楣には「湖南公立工業専門学校」の額が懸かっている。同校は1917年に書院旧跡に移って校を開き、1926年に新成立の湖南大学に併合されたことから、この組の写真は1917年から1926年の間に撮られたことが分かる。
第一幅の図版説明は「岳麓書院全景」と題され、画面は山前の道路上の亭式建築と遠くの岳麓山である。
第二幅は書院大門で、門の前には長袍の男子数人が立ち、門聯は「惟楚有材、於斯為盛」。大門越しに、中にある二門の姿も望見できる。第三幅は二門の近景で、門聯は「納于大麓、蔵之名山」。
1930年(刊載)
『亜東印画輯』第74回「長沙及び其の附近」(1930年9月刊)に岳麓山の写真二幅が収録されている。書院の一幅の説明カードはそれを「今日已に湖南大学と為る」と称し、門壁に朱熹の書した「忠孝廉節」の四大字および唐代の李邕の書した麓山寺碑が刻まれていると記す。もう一幅は書院文廟前の水池の中の吹香亭で、説明カードは亭は宋代に始建されたと称する。
1932年(刊載)
成嘉森編『岳麓小志』(湖南新聞社、1932年10月)巻首に赫曦台の写真一幅が収録されている。
参考文献
- 歴史沿革(湖南大学岳麓書院)
- 『岳麓小志』、成嘉森編、湖南新聞社1932年刊本、国家図書館蔵