HERITAGE RECORD

玉泉寺

隋の開皇年間、晋王楊広は天台宗の高僧智顗のために当陽の玉泉山に道場を営建した。北宋の嘉祐六年、郝言と伯母の韓氏が鉄を寄進し、両浙の工匠が十三層の仏牙舎利宝塔を鋳成した。宋末の戦乱の後、寺院は一時「日に廃敗を加え」たが、元代に広鋳が殿閣を再建した。万暦三十年、僧の正誨が大殿の修築を発願し、居士の任乘舟が助修に加わった。現存する大殿にはなお元代の下檻と明代の斗栱が残る。

時代
地域
湖北
LOCATION
湖北省当陽市
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玉泉寺 - yuquansi old 01
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はじめに

隋の開皇年間、天台宗の高僧智顗が荊州当陽県の玉泉山に来て修行した。当時晋王であった隋の煬帝楊広は、かつて智顗から戒を受けている。智顗が玉泉山を選ぶと、碑記によれば関羽が死後ここに霊を顕し、土地を献じて仏寺とすることを願い、智顗から戒を受けて仏法を護持することを発願したという。実際の営建では、楊広が智顗の建寺の請いを朝廷に奏報し、勅旨を奉じて伽藍を営建した。地元の信者もまた「あるいは材を施し、あるいは瓦を投ず」るようにして、ともに殿閣と僧房を建てた。開皇十三年(593)、朝廷は「玉泉寺」の額を賜った。

玉泉寺の完成から約一世紀後、寺の前にはすでに煉瓦石造の舎利塔があった。武周の長寿三年(694)、玉泉寺の僧弘景は武則天の賜った舎利を塔下の地宮に安置した。北宋の天聖初年、寺院が経蔵を重修した際にこの地宮が発見された。嘉祐六年(1061)になると、住持の務本が僧俗を募って舎利を改めて安葬し、塔の建立を主催した。玉陽郷山口村の仏教居士郝言と伯母の韓氏大娘が生鉄七万六千百斤を寄進し、両浙から来た金属鋳造の工匠が鋳造を担当し、十三層の鉄塔は八月十五日に落成した。鉄塔は舎利を奉安し郝・韓両家の亡き親族を追薦するとともに、国泰民安の願いも託された。銘文はまた玉泉の水勢に即して「塔を作りて当陽を鎮む」と記した。

北宋の元豊年間、蜀の僧承皓が住持を引き継いだとき、玉泉寺の堂宇は広大であったが、すでにいたるところ漏り損なわれていた。彼は関廟を重建し、三年後には関羽の子を祀る三郎祠を建てた。寺内の法堂・方丈・寝堂・鐘楼・慈氏閣も取り壊して重建された。宋末、荊門は兵衝(戦略の要衝)にあたり、玉泉寺は修整する力を失っていた。元に入って、僧の恵珍が興復を始めたばかりで世を去り、後任の有瑄もその業を継ぐことができず、寺院は「日に廃敗を加え」た。至大二年(1309)、恵珍の弟子広鋳が請われて住持に就任すると、寺では再び大規模な営建が行われ、毗盧殿・万仏閣・鐘楼・僧堂などの建築が相次いで完成した。

万暦三十年(1602)、明代の文人黄輝・袁宏道が玉泉寺を訪れ、大雄宝殿の建築を準備していた寺僧正誨(号は無迹)を訪ねた。その後、二人は沮水と漳水の合流点で仏教居士の任乘舟(字は慈航)の家に投宿した。任乘舟は常年自宅で粥を施し、行脚僧を宿泊させていた。黄輝・袁宏道は彼にその布施を玉泉寺にも用いるよう勧めた。任乘舟は大殿の助建に応じた。袁宏道の弟袁中道が後にこのことを記したとき、大殿はすでに完成に近づいていた。大殿はその後も修繕を経た。現存する下檻は元代の部材で、斗栱は明代のものであり、全体としてはなお宋元時期の建築様式を保っている。

20世紀になると、屋根の雨漏り、木構造の腐朽、シロアリの侵食が再び大殿の安全を脅かし、1982年から1984年にかけて全落架(全面解体)修理が行われた。鉄塔も塔身の傾斜・裂損・錆蝕のため、1993年から1995年にかけて解体・扶正(起こし直し)された。清代に交換された塔刹を除き、その余はなお宋代のオリジナルである。

歴史文献

『国清百録』

弟子总持和南。奉旨于荆州当阳县境玉泉山陲,为建造伽蓝,招提行道,图写地形,具以赐示。伏以布金徧地,买园建立,奉置三尊,永流万代。唱诵所不能赞,筭数所不能量。孰意轻微,顿蒙创造,循复来旨,爽然失厝。既事出神心,理生望表,无容违拒,苟作形迹,即具闻奏,嘉号乃覃,名符天冠道场,声满恒沙世界。福报仰归,逊辞难涉。谨和南。

弟子総持和南す。旨を奉じて荊州当陽県境の玉泉山の麓に、伽藍を建造し招提行道せんため、地形を図写し、具さにもって賜示した。伏して思うに、金を布きて地に遍くし、園を買いて建立し、三尊を奉置して、永く万代に流れんことを。唱誦の賛じ尽くす能わざるところ、筭数の量り尽くす能わざるところなり。たれか思わん、軽微なる身が頓(にわか)に創造を蒙るとは。来旨に循い反復するに、爽然として措くところを失う。すでに事は神心より出で、理は望表(思望の外)より生ず。違拒するを容れず、いやしくも形跡を作さば、すなわち具さに聞奏せん。嘉号はすなわち覃(ひろ)く、名は天冠道場に符し、声は恒沙世界に満つ。福報は仰ぎ帰するところ、遜辞は渉り難し。謹んで和南す。

『国清百録』巻二「晋王謝答智者大師造玉泉寺書」、隋 釈灌頂輯

皇帝敬问修禅寺智𫖮禅师,省书,具至意。孟秋余热,道体何如?熏修禅悦,有以怡慰。所须寺名额,今依来请。智遂师还,指宣往意。开皇十三年七月二十三,兼内史令蜀王臣秀宣,内史侍即武女子臣李元惨,本内史舍人长坦男臣郑子良行。

皇帝、敬みて修禅寺の智顗禅師に問う。書を省み、至れる意を具えたり。孟秋、余熱なお残る。道体いかが。薫修禅悦、怡(よろこ)び慰むる所以あらんことを。須(もと)むるところの寺名の額、今来請に依る。智遂師(智顗)還らば、指して往意を宣べよ。開皇十三年七月二十三日、兼内史令蜀王・臣秀宣し、内史侍郎武女子・臣李元惨、本内史舍人長坦男・臣鄭子良が行なう。

『国清百録』巻二「文皇帝敕給荊州玉泉寺額書」、隋 釈灌頂輯

弟子总持和南。适逮近旨,用慰驰情。春暄,愿道体康胜。玉泉创立,道场严整,禅众归集,静慧新随喜之深,难以辞谕。弟子始服三石散竟,调息劳心,秋仲归蕃,请夏讫,沿下在于。拜觐差当,匪奢其间。珍德今遣统军鲁子誉往祗承。谨和南。

弟子総持和南す。たまたま近旨に逮び、もって馳情を慰む。春は暄(あたた)かなり。願わくは道体康勝ならんことを。玉泉の創立、道場は厳整、禅衆は帰集す。静慧、新たに随喜すること深く、辞をもって諭し難し。弟子、始めて三石散を服し終え、息を調え心を労し、秋仲に蕃に帰り、夏を請うて終え、沿下に在り。拝覲は差当(ほどよ)く、その間に奢らず。珍徳、今統軍の魯子誉を遣わし、往きて祗承せしむ。謹んで和南す。

『国清百録』巻二「王在京重遣書」、隋 釈灌頂輯

「玉泉寺碑」

盖闻乾元资始,三辰著象于天;坤道资生,万物动形于地。皇王于是建国,贤圣所以垂文。起名教而莫同,制威仪而有别。至如画卦观爻,盖取随时之象;综经织纬,会通为政之辞。大礼同和,大乐同节,安上治民,移风易俗。斯廼生前之事,略矣可言,死后问知,仲尼弗语。纵使绛雪萦空,玄霜拂𣗳,饵金丹而九转,吞玉髓而千年。乗云也,驾几色之玄龙,游汉焉,控三山之素鹄。逍遥瑀台之上,容与琳阙之间,未窥解脱之门,终趣盖纒之境。

けだし聞く、乾元は始めを資(たす)け、三辰は象を天に著し、坤道は生を資け、万物は形を地に動かす、と。皇王はここにおいて国を建て、賢聖の文を垂るる所以なり。名教を起こすも同じからず、威儀を制して別ちあり。卦を画き爻を観るに至っては、けだし随時の象を取り、経を綜え緯を織りては、会通して政の辞を為す。大礼は和を同じくし、大楽は節を同じくし、上を安んじ民を治め、風を移し俗を易う。これすなわち生前の事にして、略ぼ言うべきなり。死後のことを問うて知らんとするは、仲尼の語らざるところなり。たとえ絳雪(こうせつ)が空に縈(めぐ)り、玄霜が盤を拂い、金丹を餌として九転し、玉髓を呑んで千年を保つとも、雲に乗りては几色の玄龍を駕し、銀漢に游びては三山の素鵠を控すとも、逍遥す瑀台の上、容与す琳闕の間、いまだ解脱の門を窺わずして、終に蓋纒(煩悩の繋縛)の境に趣くのみ。

唯正觉渊冲,真如妙有,不生不灭,无相无言,随縁应质,则假色成形;随类观音,则因声示说。故有白银千尺之髓,紫金文六之身,八部般若之文,四种悉檀之义,神通自在,慧力无穷,因尊化行,开示悟入。归依者尽发菩提;回向焉,普登常乐。是以弥猴建塔,遂生忉利之天;野鴈㘅华,复往弥陀之国。岂直日藏沙门孤游正道,月。光量子独见如来,四生因兹度脱,六道借此昭苏,实火宅之髙车,昬河之大筏。

ただ正覚は淵冲(ふかく虚ろ)にして、真如は妙有なり。不生不滅、無相無言、縁に随いて質に応ずれば、すなわち色を仮りて形を成し、類に随いて音を観ずれば、すなわち声に因りて説を示す。ゆえに白銀千尺の髄、紫金の丈六の身、八部の般若の文、四種の悉檀の義あり。神通自在、慧力無窮、尊き化行に因りて、開示悟入す。帰依する者は尽く菩提を発し、回向すれば普く常楽に登る。これをもって彌猴が塔を建てて遂に忉利の天に生まれ、野鴈が華を㘅(くわ)えてまた弥陀の国に往く。あにただ日蔵沙門のみ孤り正道に游び、月光童子のみ独り如来を見るに止まらんや。四生はこれに因りて度脱し、六道はこれを借りて昭蘇す。まことに火宅の高車、昏河の大筏なり。

若乃周室昭王之世,影夺恒星;汉朝明帝之时,光梦如日使旋西寓,化渐东都,置像南宫,申心北面。自摩腾入洛,罗什游秦,名教更弘,道风斯炽。经台像阁,寳塔香山,丽溢岩阿,绮盈都邑。岂期后魏真君之歳,后周建德之年,灵庙一除,伽蓝再灭,形容废毁,文字散遗,响落琼钟,声沉寳铎。修禅耆旧,卷其舌而不谈。护戒先贤,改其形而晦影,世绝调心之路,时亏汲引之途,无出世之津梁,失生民之大望。

もし周室昭王の世、影は恒星を奪い、漢朝明帝の時、光は日のごとく夢に現れ、使いはすぐに西に寓り、化は漸く東都に及び、像を南宮に置き、心を北面に申す。摩騰の洛に入り、羅什の秦に游びしより、名教は更に弘まり、道風はここに熾(さか)んなり。経台像閣、宝塔香山、麗は岩阿に溢れ、綺は都邑に盈つ。あに期せんや、後魏真君の歳、後周建徳の年、霊廟一たび除かれ、伽藍再び滅び、形容は廃毀し、文字は散遺し、響は瓊鐘に落ち、声は宝鐸に沈む。修禅の耆旧はその舌を巻きて談ぜず、護戒の先賢はその形を改めて影を晦(くら)ます。世は調心の路を絶ち、時は汲引の途を亏(か)き、出世の津梁なく、生民の大望を失う。

我大隋皇帝乗干御宇,握镜披图,父爱苍生,君临赤县。天地同其大德,曰月。合其重光,鼓之以雷霆,润之以风雨,除暴乱,致太平,张四维,朝万国,功成作乐,治定制礼,正道无为,区𠏟有截。辟泥洹之路,开般若之门,宣十二分之经,流四千年之法。精勤耆旧,又舍俗归僧,净住初之。童,持心乗戒,非直法轮再转,法鼓还鸣,四海于是无虞,兆民同而有頼。委羽乗毛之国,慕风化以来庭;灵禽嘉贶之祥,应图书而萃苑。巍巍也,非镜智之思量;荡荡乎,岂言谈而能尽。

わが大隋皇帝は乾に乗りて宇を御し、鏡を握り図を披き、父として蒼生を愛し、君として赤県(中国)に臨む。天地はその大徳を同じくし、日月はその重光を合わす。雷霆をもってこれを鼓し、風雨をもってこれを潤し、暴乱を除き、太平を致し、四維を張り、万国を朝せしめ、功成りて楽を作り、治定まりて礼を制す。正道は無為にして、区夏(天下)は截(ととの)えり。泥洹(涅槃)の路を辟き、般若の門を開き、十二分の経を宣べ、四千年の法を流す。精勤の耆旧、また俗を捨てて僧に帰し、浄住の初の童(童子)は心を持して戒に乗ず。ただ法輪の再び転ずる、法鼓の還(ま)た鳴るのみならず、四海はここにおいて虞(おそれ)なく、兆民は同じく頼るところあり。委羽・乗毛の国、風化を慕いて来庭し、霊禽・嘉贶の祥、図書に応じて苑に萃(あつ)まる。巍巍たるや、鏡智の思量にあらず。荡荡たるかな、あに言談にして尽くしえんや。

玉泉寺者,基此山焉。智𫖮禅师之卜居也,𠡠㫖正名著额。其山嵬蕚,生我,崎岖前嶷。峰疑偃盖,峦似覆船,巨力穷奇之象,洪崖谲诡之形。岗曲抱而成垣,水萦廻而结乳。青枫动叶,逺照金霞;翠栁揺枝,低临玉沼。援吟白云之上,鸎帝碧树之间。日月为之蔽亏,霄液由之散聚。前瞻江路,却望荆岑,左带昭丘,右通巴峡。

玉泉寺とは、この山に基づく。智顗禅師が卜居(住地を占めた)にあたり、勅旨もって正しく名を著して額とした。その山は嵬蕚(高くそび)え、嶔として、崎岖にして前に嶷(そび)ゆ。峰は偃盖(伏せた蓋)に疑われ、峦は覆船に似たり。巨力・窮奇の象、洪崖の谲诡の形。岡は曲り抱きて垣を成し、水は縈廻して乳を結ぶ。青楓は葉を動かし、遠く金霞を照らし、翠柳は枝を揺り、低く玉沼に臨む。猿は吟ず白雲の上、鶯は啼く碧樹の間。日月はこれがために蔽い亏け、霄液(雲気)はこれに由りて散聚す。前には江路を瞻(み)、却(しりぞ)いて荊岑を望み、左は昭丘を帯び、右は巴峡に通ず。

禅师本姓陈氏,颍川人也。少禀生知,童真剃落,从师南岳,蕴道天台。唇智洪才之响,非直播于江南;知机妙辩之声,固亦闻于河朔。皇帝外子太尉公晋王,性禀孝慈,情包隐恻,能臣能子,匡国匡家,蕴机神之智,垂泛爱之心,布君子之风,偃生民之草。往以伪陈纳叛,受律行师,策妙指纵,威棱江海,遂克定金陵,化平铜柱,三吴雾卷,百越尘清。师乃因王利涉,王遂因师受戒。师至此而头陀,王奏闻而起寺。于是异域才情之客,慕其道而云臻。他乡錬行之僧,味其风而雨集。师乃精言导理,尽意谈玄,语证禅支,心开定本,幽宗博义,若挹海而无穷,辩句清辞,似悬河而自泻。居朋之友,虽盈量而争归;处少之徒,从穷崖而莫反。

禅師は本姓は陳氏、潁川の人なり。少くして生知を禀け、童真にして剃落し、師に従いて南岳に学び、道を天台に蘊(ひ)めたり。唇智・洪才の響き、ただ江南に播かれたるのみならず、知機・妙弁の声、固よりまた河朔に聞こえたり。皇帝の外子(皇子)太尉公晋王、性は孝慈を禀け、情は隠惻を包み、能く臣たり能く子たり、国を匡(ただ)し家を匡し、機神の智を蘊め、泛愛の心を垂れ、君子の風を布き、生民の草を偃(なび)かしたり。むかし偽陳が叛を納れたるをもって、律を受けて師を行(おこな)い、策は指縦に妙にして、威稜は江海に振るい、遂に金陵を克定し、化は銅柱に平らぎ、三呉は霧のごとく巻き、百越は塵のごとく清んだり。師はすなわち王に因りて利渉(わた)り、王は遂に師に因りて戒を受けたり。師はここに至りて頭陀(ずだ)の行を修め、王は奏聞して寺を起こしたり。ここにおいて異域の才情の客、その道を慕いて雲のごとく臻(いた)り、他郷の錬行の僧、その風を味わいて雨のごとく集まる。師はすなわち精言に理を導き、意を尽くして玄を談じ、語は禅支に証し、心は定本に開く。幽宗博義、海を挹(く)むがごとくして窮まりなく、弁句清辞、河を懸くるがごとくして自ら瀉(そそ)ぐ。朋を居する友、量に盈つるも争うて帰し、少(わか)きに処る徒、窮崖に従いて反(かえ)ることなし。

尔乃信心檀越,积善通人,咸施一材,俱投一瓦。慿兹众力,事若神功。营之不日而成,饰矣经时而就。层台逈阁,复殿连房,寒暑异形,隂阳殊制。雕簷绣拱,与危岫而争髙;凿硖镌基,共磐岩而等固。风光出其户牖,云雾生其栋梁。华炫耀于金盘,气芬芳于玉𣗳。工图相好,湛若金山;匠写真容,凝如满月。殿起三层之柱,悬于自响之钟;堂开千修之华,莲捧飞来之座。灯光不灭,灌海逾明;刹柱俱低,承幡自举。吉祥柔滑之草,烂嫚依庭;逆风和气之香,氛氲芋院。斜通洞穴,直注凝泉,色似瑠惑。璃,味同甘露。波投鼐鼎,浪泻阶堂,饮腹消痀,四浇躯愈疾。石柱铜棣之状,影入连池;桃源菊四浦之华,香浮奈苑。可谓山类耆阇,寺同离越,似龙宫而出现,疑鹿野以飞来。窃以前王凿鼎,唯论体国之功;今共刋碑,永记菩提之道。余任宰属城,寺居山部,文虽写意,书不尽言。其词曰:

ここに信心の檀越、積善の通人、咸く一材を施し、俱に一瓦を投ず。この衆力に慿(よ)れば、事は神功のごとし。営むこと日を経ずして成り、飾ること時を経て就(な)る。層台逈閣、複殿連房、寒暑に形を異にし、陰陽に制を殊にす。雕簷繍拱は危岫と高きを争い、硖を凿り基を镌(ほ)ることは磐岩と固きを等しくす。風光はその戸牖より出で、雲霧はその棟梁に生ず。華は金盤に炫耀し、気は玉盤に芬芳たり。工は相好を図して湛かなること金山のごとく、匠は真容を写して凝かなること満月のごとし。殿は三層の柱を起こし、自ら響く鐘を懸け、堂は千修の華を開き、蓮は飛来の座を捧ぐ。灯光は滅せず、海を灌ぎていよいよ明らかなり。刹柱は俱に低きも、幡を承けて自ら挙がる。吉祥柔滑の草、爛嫚として庭に依り、逆風和気の香、氛氲として院に満つ。斜めに洞穴に通じ、直に凝泉を注ぐ。色は瑠璃に似、味は甘露に同じ。波は鼐鼎に投じ、浪は階堂に瀉ぎ、飲めば腹の痀(せむし)を消し、身に浇(そそ)げば躯の疾を愈す。石柱銅棣の状、影は連池に入り、桃源・菊浦の華、香は奈苑に浮かぶ。謂うべし、山は耆闍(霊鷲山)に類し、寺は離越(毘舎離)に同じ、龍宮の出現するに似、鹿野の飛来せるに疑う、と。窃(ひそ)かに思うに、前王の鼎を凿(うが)ちしは、ただ体国の功を論ずるのみ。今共に碑を刋(けず)るは、永く菩提の道を記さんとてなり。余は属城の宰を任とし、寺は山部に居る。文は意を写すといえども、書は言を尽くさず。その詞に曰く、

二仪开廓,四气氛氲。方以类聚,物以群分。通贤通圣,明后明君。随机设教,观化重文。乐章既造,礼仪方制。定彼亲疎,决兹疑滞。披图辩物,属辞明例。唯化一生,不论三世。玄都玉简,紫阙银经。解尸遗骨,饮液吞猜。乗龙万纪,控鹄千龄。终非实相,犹是尘情。唯有大雄,湛然常住。不生不灭,无来无去。千门妙㫖,一音演谕。度脱众生,涅槃双𣗳。梦通刘后,感应姫王。恒星掩耀,满月。澄光。写形东国,指圣西方。慈悲愿海,善逝津梁。法显还晋,摩腾入洛。华散经台,香流像阁。释教郁起,桑门盛作。露泫珠幡,风吟寳铎。真君建徳,运钟灭道,沦没四生,毁除三寳。我皇启圣,徳侔苍昊。妙法更弘,真仪再造。陈氏僣号,王赫斯征。勾吴雾卷,闽越廓清。因逢智者,延谒山庭。珠生浮汉,玉出深荆。华峰峍屹,石洞渊悬。芬芳菊浦,滴升琼泉。盘过似谷,覆岭疑船。来仪宴坐,触地萧然。妙辩悉檀,深穷般若。缁素云㑹,挹其河泻。或施之材,或投之瓦。经始不曰:翻,成大厦。更起龙宫,还开鹿野。山连紫盖,江抱黄牛。西临月峡,东接昭丘。栴檀围绕,琳碧环周。春牎夏牖,水殿山楼。座吐芙蓉,龛悬石镜。白毫相好,绀髪辉映。银鷰徘徊,锦鳞游泳。腾猴心静,怖鸽影定。猗欤哲王,命也蕃屏。自天生德,孝诚俱秉。旦奭非传,间平讵并。出緫连辔,入调钟鼎。搆此伽蓝,实资力请。魔殿蹇铲,须弥郁律。倐覩劫终,俄看烧讫。岂如彼岸,生死皆出。金石不朽,天地可异。镌勒岩阿,永垂懋实。

二儀は開廓し、四気は氛氲たり。方は類をもって聚まり、物は群をもって分かつ。通賢通聖、明后明君。機に随いて教を設け、化を観て文を重んず。楽章すでに造られ、礼儀まさに制せらる。かの親疎を定め、この疑滞を決す。図を披きて物を弁じ、辞を属(つ)ぎて例を明らかにす。ただ一生を化すのみ、三世を論ぜず。玄都の玉簡、紫闕の銀経。屍を解き骨を遺し、液を飲み丹を呑む。龍に乗りて万紀、鵠を控えて千齢。終に実相にあらず、なおこれ塵情なり。ただ大雄あるのみ、湛然として常住し、不生不滅、無来無去。千門の妙旨、一音に演諭す。衆生を度脱し、涅槃は双樹に入る。夢は劉后に通じ、感応は姫王に及ぶ。恒星は耀きを掩い、満月は光を澄ます。形を東国に写し、聖を西方に指す。慈悲の願海、善逝の津梁。法顕は晋に還り、摩騰は洛に入る。華は経台に散り、香は像閣に流る。釈教は郁として起こり、桑門は盛んに作(な)る。露は珠幡に泫(きら)めき、風は宝鐸に吟ず。真君・建徳(北魏太武帝と北周武帝)の世、運は道を滅ぼすに鐘(つ)どい、四生を淪没し、三宝を毀除す。わが皇は聖を啓き、徳は蒼昊(天)に侔(ひと)しい。妙法は更に弘まり、真儀は再造せらる。陳氏は僭号し、王は赫(かがや)きこれを征す。勾呉は霧のごとく巻かれ、閩越は廓(きよ)め清めらる。因りて智者に逢い、山庭に延謁す。珠は浮漢に生じ、玉は深荊より出づ。華峰は峍屹(そびえ立)ち、石洞は淵として懸かる。芬芳たる菊浦、滴り昇る瓊泉。盤(まわ)るは谷に似、覆える嶺は船に疑う。来儀して宴坐し、地に触れて蕭然たり。妙弁は悉檀、深く般若を窮む。緇素は雲会し、その河の瀉ぐるを挹む。あるいは材を施し、あるいは瓦を投ず。経始するに日ならずして、翻(あやう)く大厦を成す。更に龍宮を起こし、還た鹿野を開く。山は紫盖に連なり、江は黄牛を抱く。西は月峡に臨み、東は昭丘に接す。栴檀は囲繞し、琳碧は環周す。春牎夏牖、水殿山楼。座は芙蓉を吐き、龕は石鏡を懸く。白毫の相好、紺髪の輝映。銀鷰は徘徊し、錦鱗は游泳す。騰猴は心静まり、怖鴿は影定まる。ああ哲王、命や藩屏。天より徳を生じ、孝誠を俱に秉(と)る。旦・奭(周公・召公)も伝(なら)ぶにあらず、間・平(河間・東平王)もあに並べん。出でては連轡を総(と)り、入りては鐘鼎を調う。この伽藍を搆うる、実に力請(ひたすらの請い)に資る。魔殿は蹇(たたず)み铲(けず)られ、須弥は郁律(そびえ)たり。たちまち劫の終わるを睹、俄かに焼け訖るを看る。あに彼の岸(涅槃)のごとく、生死皆出でるに如かんや。金石は朽ちず、天地は異なるべくも、岩阿に镌勒(けずり刻)み、永く懋実(盛んなる実績)を垂れん。

『国清百録』巻四『玉泉寺碑』、隋 当陽県令 皇甫毗撰(『続古文苑』では皇甫昆と作る)

「唐玉泉寺大通禅師碑」

𬤥夫总四大者,成乎身矣;立万治者,主乎心矣。身是虚哉,即身见空,始同妙用。心非实地,观心若幼,乃等真如。名教入焉,妙本乖;言说出焉,真宗隐。故如来有意传要道,力持至德,万劫而遣付法印,一念而顿受佛身。谁其弘之?实大通禅师其人也。禅师尊称“大通”,讳“神秀”,本姓李,陈留尉氏人也。心洞九漏,悬解先觉,身长八尺,秀眉大耳。应王伯之象,合圣贤之度。少为诸生,游问江表,老庄玄旨,书易大义,三乘经论,四分律仪,说通训诂,音参吴晋。烂乎如袭孔翠,珍然如振金玉。既而独鉴潜发,多闻旁弛,逮知天命之年,自拔人间之世。企闻蕲州有忍禅师,禅门之法胤也。自菩提达磨天竺东来,以法传惠可,惠可传僧璨,僧璨传道信,道信传弘忍。继明重迹,相承五光。乃不远遐阻,翻飞谒诣,虚受与沃心悬会,高悟与真同彻。繣指忘识,湛见本心,任寂灭境,行无是处。有师而成,即燃灯佛所;无依而说,是空王法门。服勤六年,不舍昼夜。大师叹曰:“东山之法,尽在秀矣。”命之洗足,引之并坐。于是涕辞而去,退藏于密。仪凤中,始隶玉泉,名在僧录。寺东七里,地坦山雄,目之曰:“此正楞伽孤峰,度门兰若,荫松藉草,吾将老焉。”云从龙,风从虎,大道出,贤人睹。岐阳之地,就去成都。华阴之山,学来如市,未去多也。后进得以拂三有,超四禅,升堂七十,味道三千,不是过也。尔其开法大略,则惠念以息想,极力以摄心。其入也,品均凡圣;其到也,行无前后。趣定之前,万缘尽闭;发慧之后,一切皆如。特承楞伽,递为心要。过此以往,未之或知。久视年,禅师春高矣,诏请而来,跌坐觐君,肩与上毁。屈万乘而稽首,洒九重而宴居。传圣道者不北面,有盛德者无臣礼。遂推为两京法主,三帝国师。仰佛日之再中,庆优昙之一现。然处都邑,婉其秘旨。每帝王分座,后妃临席,鹓鹭四匝,龙象三绕。时炽炭待矿,故对默而心降;时诊饥投味,故告约而义领。一雨溥沾于众缘,万籁各吹于本分。非夫安住无畏,应变无方者,孰能焉尔乎?圣敬日崇,朝思代积。当思轼闾名乡表德,非拟一局厌𬤎辇,长怀虚壑,累乞还山。既听中驻久矣衰惫,无他患苦报魄散神全形遗力谢。神龙二年二月二十八日夜中,顾命扶坐,泊如化灭。禅师武德八年乙酉受具于天宫,至是年丙午复终于此寺,盖僧腊八十矣。生于隋末,百有余岁,未尝自言,故人莫审其数也。三界火心,四部冰背。欀崩梁坏,雷动雨泣。凡诸宝身,生是金口,故其丧也,如执亲焉。诏使吊哀,侯王归睊。三月二日,册谥“大通”,展节终之义,礼也。时厥五日,假安阙塞,缓及葬之期,怀也。宸驾临决至午桥,王公悲送至伊水,羽仪陈设至山龛。仲秋既望,还诏乃下,帝诺先许,冥遂宿心。太常卿鼓吹导引,城门郎护监丧葬。是日,天子出龙门,泫金衬,登高停跸,目尽回舆,自伊及江,扶道哀候,幡花百辇,香云千里。维十月哉生魄明,即旧居后冈,安神起塔,国钱严饰,赐逾百万。巨钟是先帝所铸,群经是后皇所锡,金牓御题,华幡内造,塔寺尊重,远称标绝。初,禅师形解东洛,相见南荆,白雾积晦于禅山,素莲寄生于坐树,则双林变色,泗水逆流,至人违代,同符异感。百日卒哭也,在龙花寺设大会八千人度二七人,二祥练缟也,咸就西明道场,如前会。万回菩萨乞于后宫,宝衣盈箱,珍价敌国。亲举宠费,侑供巡香。其广福博因,存没如此。日月逾迈,荣落相推。于戏!法子永恋宗极。痛慈舟之遽夫,恨涌塔之迟开。石城之叹也不孤,庐山之碑焉可祚。窃比子贡之论夫子也,生于天地,不知天地之高厚;饮于江海,不知江海之广深,强名迹以慰其心。铭曰:额珠内隐,匪指莫效。心镜外尘,匪磨莫照。海藏安静,风识牵乐。不入度门,孰探玄要。倬哉禅伯,独立天下。功收密诣,解却名假。诣无所得,解亦都舍。月影空如,现于悟者。无量善众,为父为师。露清热恼,光射昏疑。冀将任世,万寿无期。柰何过隙,一朝去之。嗟我门人,忧心断续。进忆瞻仰,退思付嘱。尽不离定,空非灭觉。念兹在兹,敢告无学。

ああ、四大を総ぶる者は、身を成す。万治を立つる者は、心を主とす。身はこれ虚なり、身に即いて空を見れば、始めて妙用に同じ。心は実地にあらず、心を観じて幻のごとくせば、すなわち真如に等し。名教入れば妙本乖(そむ)け、言説出づれば真宗隠る。ゆえに如来は意に要道を伝え、力に至徳を持し、万劫に法印を遣付し、一念に仏身を頓受せしむ。たれかこれを弘むる。まことに大通禅師その人なり。禅師の尊称は「大通」、諱は「神秀」、本姓は李氏、陳留尉氏の人なり。心は九漏を洞(うが)ち、懸解して先覚し、身の長さ八尺、秀眉大耳。王伯の象に応え、聖賢の度に合す。少くして諸生たり、江表に游問し、老荘の玄旨、書易の大義、三乗の経論、四分の律儀、説は訓詁に通じ、音は呉晋に参ず。爛乎として孔翠を襲(かさ)ぬるがごとく、珍然として金玉を振るうがごとし。すでにして独鑒潜かに発き、多聞は旁(かたわ)らに弛(ゆる)み、天命を知るの年に逮んで、自ら人間の世を抜き出たり。企ねて聞く、蘄州に忍禅師あり、禅門の法胤なり、と。菩提達磨の天竺より東来し、法をもって恵可に伝え、恵可は僧璨に伝え、僧璨は道信に伝え、道信は弘忍に伝う。明を継ぎ跡を重ね、相承くること五代なり。すなわち遐阻を遠しとせず、翻(ひるがえ)り飛んで謁詣し、虚受は沃心と懸会し、高悟は真と同じく徹す。指を繣(つな)ぎて識を忘れ、湛かに本心を見、寂滅の境に任(まか)せ、行は是るところなし。師ありて成れば、すなわち燃灯仏の所、依り無くして説けば、これ空王の法門。服勤すること六年、昼夜を捨てず。大師歎じて曰く、「東山の法、尽く秀に在り」と。これに洗足を命じ、これを引きて並び坐せしむ。ここにおいて涕き辞して去り、退きて密に蔵る。儀鳳中、始めて玉泉に隷し、名は僧録に在り。寺の東七里、地は坦らかにして山は雄なり。これを目していわく、「これ正に楞伽の孤峰、度門の蘭若。松に蔭し草を藉(し)き、われ将に老いんとす」と。雲は龍に従い、風は虎に従う。大道出でて賢人これを睹る。岐陽の地、就くは成都を去るがごとく、華陰の山、学び来ること市のごとし。未だ去ること多からざるなり。後進、三有を拂い、四禅を超え、堂に升ること七十、道を味わうこと三千、これに過ぎることなし。それ法を開く大略は、念を恵(わす)れて想を息め、力を極めて心を摂す。その入るや、品は凡聖に均しく、その到るや、行は前後なし。定に趣くの前、万縁尽く閉ぢ、慧を発くの後、一切皆如なり。特に楞伽を承け、遞(つ)いで心要と為す。これを過ぎて以往、未だこれを知ることあらざるなり。久視年、禅師の春秋高し。詔して請いて来らしめ、趺坐して君に覲え、肩輿にて殿に上る。万乗を屈して稽首せしめ、九重にあらわれて宴居す。聖道を伝うる者は北面せず、盛徳ある者は臣礼なし。遂に推されて両京の法主、三国の帝師と為る。仏日の再び中(あた)るを仰ぎ、優曇の一たび現るるを慶す。しかれども都邑に処りて、その秘旨を婉(つつし)む。帝王の座を分かち、后妃の席に臨むごとに、鵷鷺は四に匝(めぐ)り、龍象は三に繞る。時に熾炭に鑛を待つがごとく、ゆえに対えて黙して心降(くだ)る。時に飢を診して味を投ずるがごとく、ゆえに告げて約にして義領す。一雨は溥(あまね)く衆縁に霑(うるお)い、万籟は各々本分に吹く。安住無畏、応変無方ならざれば、たれかよくせんや。聖敬は日に崇く、朝の恩は代を積む。当に軾閭して名郷に徳を表すべしと思うも、一局に擬せず。輦下(都)を厭い、長く虚壑を懐い、累(かさ)ねて山に還るを乞う。すでに中駐を聴すこと久し。久しく衰憊し、他の患苦なく、魄散じ神全うし、形遺り力謝す。神龍二年二月二十八日夜中、命を顧みて坐を扶(たす)け、泊如として化滅す。禅師は武徳八年乙酉に天宮にて具戒を受け、この年丙午に至りてまたこの寺に終わる。けだし僧臈八十なり。隋末に生まれ、百有余歳、未だかつて自ら言わず、ゆえに人その数を審らかにする莫し。三界は火に心を焦がし、四部は氷の背(すがた)のごとく悲しむ。欀崩れ梁壊れ、雷動き雨泣く。およそ諸の宝身、生きてはこれ金口なれば、ゆえにその喪や、親を執(と)るがごとし。詔使は哀を吊い、侯王は賻を贈り帰す。三月二日、冊して「大通」と諡し、節を終えるの義を展ぶるは、礼なり。時にその五日、仮に闕塞に安んず。葬るの期に緩やかに及ぶは、懐(なつかし)みなり。宸駕は午橋に臨訣し、王公は伊水に悲送し、羽儀は山龕に陳設す。仲秋既望、還りて詔すなわち下る。帝は先許を諾(うけ)い、冥途に宿心を遂ぐ。太常卿は鼓吹して導引し、城門郎は護監して喪葬す。この日、天子は龍門に出で、金襯を泫(なが)し、高きに登りて蹕(たちどま)り停め、目は回輿に尽く。伊より江に及ぶまで、道を扶(かか)えて哀候す。幡花は百輦、香雲は千里。惟れ十月哉生魄明(月の生じたる頃)、旧居の後岡に即き、神を安んじて塔を起つ。国の銭は厳飾し、賜うこと百万を逾ゆ。巨鐘はこれ先帝の鋳たるところ、群経はこれ后皇の錫(たま)いしところ。金牓は御題、華幡は内造。塔寺は尊重にして、遠く標絶と称す。初め、禅師の形が東洛に解け、南荊に相見えしとき、白霧は禅山に積晦し、素蓮は坐樹に寄生す。すなわち双林は色を変え、泗水は流れを逆らす。至人の代に違(そむ)くや、符を同じくして感を異にす。百日の卒哭や、龍花寺に在りて大会を設くること八千人、二七(十四)人を度す。二祥の練縞や、咸く西明道場に就き、前の会のごとし。万回菩薩、後宮に乞う。宝衣は箱に盈ち、珍価は国に敵す。親ら寵費を挙げ、供を侑(たす)け香を巡らす。その広福博因、存没かくのごとし。日月は逾迈し、栄落は相推す。ああ、法子は永く宗極を恋う。慈舟の遽(にわか)なりしを痛み、涌塔の開くる遅きを恨む。石城の歎も孤ならず、廬山の碑、あに祚(さいわい)あらん。窃かに子貢の夫子を論じしに比す。天地に生まれて天地の高厚を知らず、江海に飲みて江海の広深を知らず、強いて名跡をもってその心を慰む。銘に曰く、額珠は内に隠れ、指に匪(あら)ざればあらわれ莫し。心鏡は外に塵あり、磨に匪ざれば照ること莫し。海蔵は安静、風識は楽を牽(ひ)く。度門に入らずんば、たれか玄要を探らん。倬(たか)くなるかな禅伯、独立して天下。功は密詣に収まり、解は名仮を却く。詣は得るところ無く、解もまた都(すべ)て舎つ。月影は空如、悟れる者に現ず。無量の善衆、父と為り師と為る。露は熱悩を清め、光は昏疑を射る。願わくは将に世に任せ、万寿无期ならんと。いかんぞ隙を過ぐる、一朝にしてこれを去る。ああ我が門人、憂心断続す。進みては瞻仰を憶い、退きては付嘱を思う。尽く定を離れず、空は覚を滅せず。茲を念じ茲に在り、敢えて無学に告ぐ。

『張説之文集』巻二十「唐玉泉寺大通禅師碑」、唐 張説撰

『宋高僧伝』

释恒景,姓文氏,当阳人也。贞观二十二年敕度,听习三藏,一闻能诵,如说而行。初就文纲律师隶业“毗”尼,后入覆舟山玉泉寺,追智者禅师习止观门。于寺之南十里别立精舍,号龙兴是也。自天后、中宗朝,三被诏入内供养为受戒师。以景龙三年奏乞归山,敕允其请。诏中书、门下及学士于林光宫观内道场设斋。先时追召天下高僧兼义行者二十余人,常于内殿修福,至是散斋,仍送景并道俊、玄奘各还故乡。帝亲赋诗,学士应和,即中书令李峤、中书舍人李乂等数人。时景等捧诗振锡而行,天下荣之。景撰顺了义论二卷、摄正法论七卷、佛性论二卷。学其宗者,如渴之受浆。至先天元年九月二十五日卒于所住寺,春秋七十九。弟子奉葬于寺之西原也。

釈恒景、姓は文氏、当陽の人なり。貞観二十二年に敕度せられ、三蔵を聴習し、一たび聞けばよく誦し、説くがごとくにして行った。初め文綱律師に就いて毗尼(律)の業に隷(つ)き、後に覆舟山玉泉寺に入り、智者禅師に追い従いて止観の門を習う。寺の南十里に別に精舎を立て、号して龍興、これなり。天后・中宗の朝より、三たび詔されて内に入り供養を受け、受戒師と為る。景龍三年をもって奏して山に帰るを乞い、敕してその請を允(ゆる)す。詔して中書・門下および学士をして林光宮観内の道場に斎を設けしむ。先時、天下の高僧で義行を兼ねたる者二十余人を追召し、常に内殿に福を修せしめ、これに至り斎を散じ、なお景ならびに道俊・玄奘を送りて各々故郷に還らしむ。帝は親ら詩を賦し、学士は応和す。すなわち中書令の李嶠、中書舎人の李乂ら数人なり。時に景らは詩を捧げ錫を振るいて行く。天下これを栄えとす。景は『順了義論』二巻、『摂正法論』七巻、『仏性論』二巻を撰す。その宗を学ぶ者、渇きて漿を受くるがごとし。先天元年九月二十五日に至り、住する所の寺に卒す。春秋七十九。弟子これを寺の西原に奉葬す。

系曰:江陵玄奘与三藏法师形影相接,相去几何。然其名同实异,亦犹蔺相如得强秦之所畏,马相如令杨雄之追慕。然则各有所长短,亦可。

系に曰く、江陵の玄奘と三蔵法師と、形影相接する、相去ること幾何ぞ。しかれどもその名は同じくして実は異なる。また猶お藺相如の強秦の畏るるところを得、馬相如(司馬相如)が楊雄に追慕せしめたがごとし。然ればすなわち各々長短あるところあり、また可なり。

『宋高僧伝』巻五「唐荊州玉泉寺恒景伝」、宋 賛寧ら奉敕撰

「荊門玉泉皓長老塔銘」

略云:师姓王,眉州丹棱县坼头镇人。天圣元年,依大力院出家,法名承皓。明道二年普度为僧,景祐元年受戒。庆历二年游方,至复州见北塔思席禅师,发明心要,得游戏如风大自在三昧。制赤犊鼻,书历代祖师名而服之曰:“惟有文殊、普贤,犹较些子。”且书于带上,自是诸方以皓布裈呼之。慧南居黄龙,设三关语以接物,罕有契其机者。师教一僧往,南曰:“我手何似佛手?”答曰:“不相似。”南曰:“我脚何似驴脚?”答曰:“不较多。”南笑曰:“此非汝语,谁教汝来?”僧以实告,南曰:“我从来疑这汉。”熙宁间至襄阳为谷隐首座。有蜀僧依止师席,师怜其年少有志,稍诱掖之。僧亦效师制犊鼻,浣而曝之。师见之曰:“我裈何故在此?”僧曰:“某甲裈也。”师曰:“具何道理敢尔?”僧礼拜曰:“每蒙许与,切所欣慕。”师曰:“此岂戏论?与汝半年,当吐血死。”后半年,其僧呕血死于鹿门山,闻者异之。元丰二年四月,予奉使京西南路,闻师之名,致而见之。问师法嗣何人,师曰:“北塔。”问北塔有何言句,师曰:“为伊不肯与人说。”遂请师住郢州大阳。谷隐大喜曰:“我山中首座出世。”盛集缁素,请师升座,以为歆艳。师曰:“承皓住谷隐十年,不曾饮谷隐一滴水,嚼谷隐一粒米。汝若不会,来大阳与汝说。”携拄杖下座,不顾而去。居数月,知荆南李公审言、转运使孙公景修同请住当阳玉泉景德禅院。师机锋孤峭,学者不能凑泊。人阙首座,维那曰:“某人某人曾于某处立僧,为禅众所归,宜依诸方例请充。”师叱曰:“杜杜!”又曰:“孟八郎!孟八郎!”一日,师从厨前过,见造晚面,问曰:“有客过耶?”对曰:“众僧造药石。”师呼知事称之曰:“吾昔参禅,为人汲水舂米。今见成米面,蒸炊造作,与供诸佛、菩萨、罗汉无异;饱吃了,并不留心参学,百般想念,五味馨香,假作驴肠,膳生羊骨鳖臛,喂饲八万四千户虫。开眼随境摄,合眼随梦转,不知主禄判官、掠剩大王随从汝,抄札消凿禄料簿,教汝受苦有日在。”于是徒众不堪寂寥,谮之于县令曰:“长老不能安众,惟上来下去点检寒碎。”县令召师至县,责之曰:“大善知识不在方丈内端坐,两廊下、山门来去得许多。”师曰:“大通智胜佛,十劫坐道场,佛法不现前,不得成佛道。长官以坐是佛耶?坐杀佛去也。”长官茫然,益敬礼之。狗子在室中,僧入请益,师叱一声,狗出去,师云:“狗子却会,汝却不会。”玉泉冬市,四远云集,师于廊下画一圆相,顾视大众曰:“贱卖!贱卖!”良久画破曰:“自家买,自家买。”冬至上堂曰:“晷运推移,布裈共赤。莫笑不洗,无来换替。”正大观知荆南,问:“如何是佛?”截断脚跟。又问:“如何是佛?”师曰:“截断脚跟。”又问:“如何是法?”师曰:“掀了脑盖。”师有顶相,自赞曰:“粥稀后坐,床窄先卧。耳聩爱声高,眼昏宜字大。”其应机答话,隐显不测,大致若此。玉泉寺宇广大弊漏,前后主者以营葺为艰。师曰:“吾与山有缘,与僧无缘,修今世寺,待后世僧耳。”悉坏法堂、方丈、寝堂、钟楼、慈氏阁、关庙,而鼎新之,皆求予记其本末。师住山无笔砚文字,箱箧无兼衣囊钱。元祐六年遣人至江西,口白曰:“老病且死,得百丈肃为代可矣。”余以喻肃,肃不顾往。十二月二十八日示寂,临行,门人迫以作颂,师笑曰:“吾年八十一,病死舁尸出。儿郎齐着力,一年三百六十日。”师灭时地三震。会余移漕淮西,召还谏省,谪官金陵,不复详师后事。今年十月,被恩知洪州,途次太平,有德鸿者来谒,泣言师之死。鸿适归闽中,自闽闻讣,奔诣玉泉,师已葬于斗山下。鸿营塔于始就绪,念先师神交道契莫如公者,故间关数千里,诣公求文,铭师之塔。予哀鸿不忘其师,乃追掇绪余而铭之曰。(文多不录。)

略していわく、師の姓は王、眉州丹棱県坼頭鎮の人。天聖元年、大力院に依りて出家し、法名は承皓。明道二年に普度して僧と為り、景祐元年に受戒す。慶歴二年に游方し、復州に至りて北塔思席禅師に見(まみ)え、心要を発明し、游戯如風大自在三昧を得たり。赤き犊鼻(ふんどし)を製し、歴代祖師の名を書してこれを服して曰く、「ただ文殊・普賢あるのみ、なお些子(いささか)較(まさ)れる」と。かつ帯上に書す。これより諸方は皓布裈と呼ぶ。慧南、黄龍に居り、三関の語を設けてもって物に接し、まれにその機に契う者あり。師、一僧を教えて往かしむ。南曰く、「我が手は何ぞ仏手に似たる」と。答えて曰く、「相似ず」と。南曰く、「我が脚は何ぞ驢脚に似たる」と。答えて曰く、「較(たが)うこと多からず」と。南笑いていわく、「これ汝の語にあらず。たれか汝を教えて来らしめた」と。僧実をもって告ぐ。南曰く、「我従来この漢を疑う」と。熙寧間、襄陽に至りて谷隠の首座と為る。蜀僧ありて師の席に依止す。師その年少にして志あるを憐れみ、ややこれを誘掖す。僧もまた師に效(なら)いて犊鼻を製し、浣(あら)いてこれを曝す。師これを見て曰く、「我が裈、何故にここに在る」と。僧曰く、「某甲の裈なり」と。師曰く、「何の道理を具えて敢えてしかる」と。僧礼拝して曰く、「毎に許与を蒙り、切に欣慕するところなり」と。師曰く、「これあに戯論ならんや。汝に与うること半年、当に血を吐きて死すべし」と。後半年、その僧血を嘔きて鹿門山に死す。聞く者これを異とす。元豊二年四月、予、京西南路に奉使し、師の名を聞き、致してこれに見ゆ。師に法嗣は何人ぞと問う。師曰く、「北塔」と。北塔に何の言句かあると問う。師曰く、「伊(かれ)が人に説き与えるを肯(あえ)てせざるが為なり」と。遂に師を請じて郢州大陽に住せしむ。谷隠大いに喜びて曰く、「我が山中の首座、出世す」と。盛んに緇素を集め、師に請いて座に升らしめ、もって歆艶(羨望)と為す。師曰く、「承皓、谷隠に住すること十年、かつて谷隠の一滴の水を飲まず、谷隠の一粒の米を嚼(か)まず。汝もし会せずんば、来たれ大陽に、汝に説かん」と。拄杖を携えて座を下り、顧みずして去る。居ること数月、荊南を知る李公審言、転運使孫公景修、同じく請いて当陽玉泉景徳禅院に住せしむ。師の機鋒は孤峭にして、学者は湊泊(取りつ)くこと能わず。人、首座を闕く。維那曰く、「某人某人、かつて某処にて僧を立て、禅衆の帰するところと為る。よろしく諸方の例に依りて請じ充てるべし」と。師叱って曰く、「杜杜(とと)!」また曰く、「孟八郎!孟八郎!」と。一日、師、厨の前を過ぎ、晩の麺を造るを見て問うて曰く、「客の過(よぎ)るか」と。対えて曰く、「衆僧、薬石(晩食)を造る」と。師、知事を呼びてこれに称して曰く、「吾、昔参禅の時、人の為に水を汲み米を舂(つ)きし。今、成れる米面を見、蒸炊造作すること、諸仏・菩薩・羅漢に供するに異ならず。飽き喫(くら)い了えて、並びに心を参学に留めず、百般に想念し、五味馨香して、仮りに驢腸を作り、膳には生羊の骨・鼈の臛(あつもの)を生じ、八万四千戸の虫を喂飼す。眼を開けば境に随いて摂せられ、眼を合わせば夢に随いて転ず。主禄判官・掠剩大王が汝に随従し、抄札して汝の禄料簿を消鑿(けず)り、汝をして苦を受けしむるに日あることを知らず」と。ここにおいて徒衆、寂寥に堪えず、これを県令に譖(そし)りて曰く、「長老、衆を安んずる能わず、ただ上り下りして寒碎(些細なこと)を点検す」と。県令、師を召して県に至らしめ、これを責めて曰く、「大知識は方丈内に端坐せずして、両廊下、山門に来去すること許多(かずおお)いは何ぞ」と。師曰く、「大通智勝仏、十劫道場に坐すれども、仏法現前せず、仏道を成ぜず。長官は坐をもって是れ仏と為すか。坐は仏を殺し去るなり」と。長官茫然として、いよいよ敬礼す。狗子、室中に在り。僧入りて益を請う。師一たび叱れば、狗出で去る。師云く、「狗子は却って会す、汝は会せず」と。玉泉の冬市、四遠雲集す。師、廊下に一円相を画き、大衆を顧視して曰く、「賤売!賤売!」と。良久にして画き破りて曰く、「自家買う、自家買う」と。冬至に上堂して曰く、「晷運推移す。布裈、赤(あか)を共にす。笑うなかれ洗わざるを、換替するに来る無きを」と。正、大観に荊南を知りて問う、「如何なるか是れ仏」と。〔師曰く、〕「脚跟を截断せよ」と。また問う、「如何なるか是れ仏」。師曰く、「脚跟を截断せよ」と。また問う、「如何なるか是れ法」。師曰く、「脳蓋を掀(まく)れ」と。師、頂相あり。自ら賛して曰く、「粥稀き後に坐し、床窄きに先に臥す。耳聵(と)くして声の高きを愛し、眼昏くして字の大なるに宜し」と。その機に応じて話に答うる、隠顕測るべからず、大致かくのごとし。玉泉寺の宇は広大にして弊漏し、前後の主者、営葺を以て艱(かた)しとす。師曰く、「吾、山と縁あり、僧と縁なし。今世の寺を修め、後世の僧を待つのみ」と。ことごとく法堂・方丈・寝堂・鐘楼・慈氏閣・関廟を壊し、これを鼎新す。皆予に求めてその本末を記せしめんとす。師の山に住するに筆硯の文字なく、箱篋に兼衣・嚢銭なし。元祐六年、人を江西に遣わし、口に白して曰く、「老病死せんとす。百丈粛を得て代と為せば可なり」と。余、粛に喻(さと)すに、粛顧みず往かず。十二月二十八日に示寂す。行くに臨み、門人迫りて頌を作らせんとす。師笑いて曰く、「吾が年八十一、病死して屍を舁(かつ)ぎ出す。児郎、斉しく力を着けよ、一年三百六十日」と。師の滅する時、地三たび震う。ちょうど余、漕を淮西に移し、諫省に召還され、官を金陵に謫せられ、また師の後事を詳らかにせず。今年十月、恩を被りて洪州を知り、途は太平に次(とど)まる。徳鴻なる者来たりて謁し、泣きて師の死を言う。鴻、ちょうど閩中に帰り、閩より訃を聞き、奔りて玉泉に詣るに、師はすでに斗山下に葬られていたり。鴻、塔を始めに営みて就緒す。先師と神交・道契するは公に如くは莫しと念い、ゆえに間関数千里、公に詣りて文を求め、師の塔に銘せんとす。予、鴻のその師を忘れざるを哀れみ、すなわち追って緒余を掇(ひろ)いてこれに銘す。(文多くして録せず。)

『仏祖歴代通載』巻十九所収『荊門玉泉皓長老塔銘』節録、宋 張商英撰

「唐貞元十八年重建関将軍廟記」

玉泉寺在覆船山东,去当阳县三十里,叠障回拥,飞泉迤逦,信金人之净界,域中之绝景也。寺西北三百步,有蜀𡺃军都督荆州事关公遗庙存焉。将军姓关名羽,字云长,河东解人,公族功绩,详于国史。先是,陈光大中,智𫖮禅师著至自天台,宴坐乔木乏下,夜分忽与神遇,云:愿舍此地为僧坊,请师出山,以观其用。指期之夕,万壑震动,风号雷虩,前劈巨岭,下堙澄潭,瑰材丛什,周匝其上,轮奂之用,则无乏焉。帷将军当三国之时,负万人之敌,孟德且避其锐,孔明谓之绝伦。其于徇义感恩,死生一致,斩良擒禁,此其效也。呜呼!生为英贤,没为神明,精灵所托,此山之下,邦之兴废,岁之丰荒,于是乎系。昔陆法和假神以虏任约,梁咨以巨林令次乙今入寺,皆若严官在傍,无敢亵渎。荆南节度使、工部尚书、江陵尹裴公,政成事时,典从礼顺,以为神道之教,依人而行,攘彼妖昏,祐我蒸庶。而祠庙堕毁,𫷷县断绝,岂守宰牧人之意耶?乃命令张愦,始经其事,爰从旧址,式展新规,栾栌博敞,容卫端肃,惟曩时礼坐之树,今则延袤数十围矣。神明扶持,不凋不衰,胡可度思!初营建之,白龟出于新桥,若有所感,寺僧咸见,亦笃异也。尚书以小子曾忝下介,多闻故𦈆,见命纪事,文岂足徵。其增创制度,则列于碑后。

玉泉寺は覆船山の東に在り、当陽県を去ること三十里。畳障回り擁し、飛泉迤逦(連なり流)れたり。まことに金人(仏)の浄界、域中の絶景なり。寺の西北三百歩、蜀の前将軍・都督荊州事関公の遺廟存す。将軍の姓は関、名は羽、字は雲長、河東解の人。公族の功績、国史に詳らかなり。これに先だち、陳の光大中、智顗禅師、天台より至り著(とどま)り、喬木の下に宴坐す。夜分、忽ち神と遇う。云く、願わくはこの地を舎てて僧坊と為さん。師に請うて山を出で、もってその用を観ん、と。期を指すの夕、万壑震動し、風号び雷虩(おそ)れ、前に巨嶺を劈(さ)き、下に澄潭を堙(ふさ)ぐ。瑰材は叢什(群がり集ま)り、周匝してその上にあり。輪奐の用、すなわち乏しきことなし。惟れ将軍、三国の時に当たり、万人の敵を負い、孟徳(曹操)すらその鋭を避け、孔明これを絶倫と謂う。その義に徇(したが)い恩に感ずるや、死生一致。良(顔良)を斬り禁(于禁)を擒(とら)うるは、これその效(あらわれ)なり。ああ、生きては英賢、没しては神明。精霊の託する所、この山の下。邦の興廃、歳の豊荒、ここにおいて繋がる。昔、陸法和、神を仮りて任約を虜(とりこ)にし、梁、咨(もう)して巨林をして次乙をして寺に入らしめしとき、皆厳官の傍に在るが若く、敢えて褻瀆する者なし。荊南節度使・工部尚書・江陵尹の裴公、政成り事成りて、典に従い礼に順う。思うに、神道の教は人に依りて行わる。彼の妖昏を攘(はら)い、我が蒸庶を祐けん、と。しかるに祠廟堕毀し、祭祀断絶す。あに守宰・牧人の意ならんや。すなわち張愦を命じて始めてその事を経(へ)さしむ。ここに旧趾に従い、式に新規を展ぶ。欒櫨(斗栱)は博敞、容衛は端粛。惟れ曩時礼坐の樹、今はすなわち延袤して数十囲なり。神明扶持し、凋まず衰えず。なんぞ度(はか)り思わん。初めこれを営建の時、白亀新橋より出で、感ずる所有るが若し。寺僧咸く見る。また篤(あつ)く異なり。尚書、小子(わたくし)のかつて下介に忝(かたじけな)く、故実を多く聞くを以て、命を見て事を紀す。文あに徴(あかし)に足らん。その制度を増創するは、すなわち碑後に列ねたり。

『漢前将軍関公祠志』巻八所収「唐貞元十八年重建関将軍廟記」、唐 董挺撰

「宋元豊四年重建関将軍廟記」

道出陈、隋,闲有大法师,名曰智𫖮,一时圆证诸佛法门,得人揔持,辩说无碍,敷演三品,摩诃正观,是三非一,是一主三,即一,是三,三是一,随众生根而设邪。后至自六台,止于玉泉,宴坐林间,一心湛寂。此山先有大力鬼神,真其眷属,怙恃凭据,以神通力,故法行业,即见种汗,诸可恬畏。虎豹号掷,蛇蟒盘瞪,鬼魅嘻啸,隂兵悍怒,皿唇劒齿,毛音会,音僧。鬅𫘽,限髪貌。妖形丑质,剡然千变。法师愍言:汝何为者,生死于幻,贪著余福,不自悲悔。作是语巳,音迹消绝,颀然文夫,鼔髯而出,我酒关羽,生于汉末,值世纷乱,九州爪裂。曹采不仁,孙权自保,虎臣蜀主,同复帝室,情诚激发,凋贯金石,死有余烈,故主此山。惟杀是嗜,往腥是食。谛观法师,具足殊胜。我从昔来,本未闻见。今我神力变见已尽,而师安定,曾不省视。汪洋如海,匪我能测。大悲我师,哀愍我愚,方便摄受,愿舍此山,作师道塲。我有爱子,雄鸷类我,相与发心,永护佛法。师问所能,授以五戒。神跪受巳,复白师门:营造期至,幸少避之。其夕晦㝠,震霆掣电,灵鞭鬼箠,万壑浩汗,漱潭千丈,化为平址。黎明往视,精蓝焕丽,簷楹阑楯,巧夺人目,海内四绝,遂居其一。以是因缘,神亦庙食。千里内外,祠供云委。玉泉之田,实神之助。岁越千棇,魔民出世,寺纲颜紊,槌拂虚设,神既不祐,庙亦浸弊。元丰庚申,襄有蜀僧,名曰承皓,行年七十,月作巳辨,以大众请,倐然赴感。有陈氏子,忽作神韶,自今以行,祀我如初。远近拯传,瞻祷愈肃,明,是可有恃而尽居。甲说是事,以偈賛曰:关侯子为蜀将,气盖中原绝等伦。喑呜叱咤山岳摧,义不称臣曹孟德。愤烈精忠贯金石,英灵死主玉泉山。隂兵十万部从严,铁骑咆哮汗金甲。架鹗鞲鹰走獒犬,鞭笞虎豹役龙蛇。脍肝脯肉饮头颅,无上菩提岂知有?智者南来为利益。默然宴坐乔木隂。法力广大不思议,溪山动荡失安据。妖怪百千诸怖畏,神通究竭𣈆归依。大威大猛大英豪,弃置爱恋如泥滓。将此山峦奉佛土,受持五戒摄身心。仰山南岳及高山,佛佛道同无异化,见在住持承皓老,宗风孤峭神所钦,未来补虔出家人,万木岩前希审细,宏我如来像季法,长松十里碧云寒。

道は陳・隋に出で、間に大法師あり、名を智顗と曰う。一時に円証して諸仏の法門を得、人の揔持(だらに)を得て、弁説碍(げ)なく、三品を敷演し、摩訶止観を説く。是れ三にして一に非ず、是れ一にして三を主(と)す。即ち一、是れ三、三は是れ一、衆生の根に随いて設くるなり。後、天台より至り、玉泉に止まる。林間に宴坐し、一心湛寂なり。この山、先に大力の鬼神あり、その眷属を率い、怙恃して憑据し、神通力を以て、法の行業にことさら〔妨げをなし〕、すなわち種々の〔畏怖を〕見せ、諸の畏るべきをなす。虎豹は号び掷(う)ち、蛇蟒は盤し瞪(みつ)め、鬼魅は嘻嘯し、陰兵は悍怒(あらいか)り、皿唇劔歯、毛は鬅𫘽(ざんばら)として髪貌〔異様なり〕。妖形丑質、剡(や)ばく千变す。法師愍(あわ)れみて言わく、汝ら何を為す者ぞ。幻に生死し、余福を貪著し、自ら悲悔せず、と。この語を作し已(おわ)りぬれば、音跡消絶す。頎然(うやうやし)たる丈夫、髯を鼔(ふるわ)せて出で〔曰く〕、我はすなわち関羽。漢末に生まれ、世の紛乱に値い、九州爪裂(つめさ)けたり。曹操は不仁、孫権は自保す。虎臣たる蜀主に仕え、同じく帝室を復さんと、情誠激発し、誠は金石を貫く。死して余烈あり、ゆえにこの山を主どる。ただ殺を是れ嗜(この)み、往きて腥(なまぐさ)きを是れ食らう。諦かに法師を観れば、具足して殊勝なり。我、昔より来りて、もと未だ聞見せず。今、我が神力、変現已り尽くせども、師は安定、かつて省視せず。汪洋として海のごとく、我が測る能うところに非ず。大悲なる我が師、我が愚を哀愍し、方便にて摂受したまえば、願わくはこの山を舎てて、師の道場と作さん。我に愛子あり、雄鷙にして我に類す。相与に心を発さん、永く仏法を護らん、と。師、その所能を問い、五戒を授く。神、跪きて受け已り、また師に白して曰く、営造の期至らん、幸い少しくこれを避けよ、と。その夕、晦冥(くら)く、震霆掣電、霊鞭鬼箠(たたき)、万壑浩汗として、潭を漱(すす)ぐこと千丈、化して平址と為る。黎明、往きて視れば、精藍煥麗、簷楹欄楯、巧み人目を奪う。海内四絶、遂にその一に居る。この因縁を以て、神もまた廟食す。千里内外、祠供雲委(あつま)る。玉泉の田、実に神の助なり。歳、千載を越え、魔民世に出づ。寺綱は頽紊し、槌拂は虚設す。神すでに祐(たす)けず、廟もまた浸(ひた)り弊(やぶ)れたり。元豊庚申、襄に蜀僧あり、名を承皓と曰う。行年七十、なすべきこと已に弁(わきま)え、大衆の請を以て、倐(たちま)ち感に赴く。陳氏の子あり、忽ち神の声を作して曰く、今より以降、我を祀ること初めのごとくせよ、と。遠近、救い伝え、瞻祷いよいよ粛なり。これ恃(たの)むべきありて尽く居るべし。かの者、この事を説き、偈を以て賛して曰く、関侯、子(関平)は蜀将と為り、気は中原に蓋(おお)い等倫を絶す。喑嗚叱咤(いんおしった)、山岳摧(くず)れ、義は曹孟徳に臣と称せず。憤烈精忠、金石を貫き、英霊、死して玉泉山を主どる。陰兵十万、部从厳にして、鉄騎咆哮、金甲に汗す。鶚を架し鷹を鞲(つ)け、獒犬を走らせ、虎豹を鞭笞し龍蛇を役す。肝を膾(なま)し肉を脯(ほ)し、頭顱を飲む。無上の菩提、あに知ることあらんや。智者、南より来たりて利益を為す。黙然として喬木の陰に宴坐す。法力広大、思議ならず。渓山動蕩し、安據を失う。妖怪百千、諸の怖畏、神通究め竭(つ)きて帰依す。大威大猛大英豪、愛恋を棄置すること泥滓のごとし。この山巒を将(も)って仏土に奉り、五戒を受持して身心を摂す。仰山・南岳および高山、仏々道同じくして化を異にすること無し。見在の住持承皓老、宗風孤峭、神の欽(うやま)うところ。未来の補虔(寺を補い敬う)たる出家人、万木岩前に希にして審細(つまびらか)ならんことを。我が如来の像季の法を宏めん、長松十里、碧雲寒し、と。

『漢前将軍関公祠志』巻八所収「宋元豊四年重建関将軍廟記」、宋 張商英撰

「元祐初建関三郎廟記」

李冰去水患,庙食于蜀之离堆,而其子二郞以灵化显;云长死国事,神凭于楚之玉泉,而其子三郞以英异著者。有子克家,干父之蛊,如易之乾坤,不居正位,而寄功用于六子与索之而若虚,迹之而非无。福祥简类间以介其善,灾祸𧈅𧈅以惊其愚。疾而祷之,有时而瘳,暵而祷之,有时而濡。孕珍草而发嘉禾,驱魑魅而屏夔魑。林薮幽深,亡蛇虺之蛰;槛穽不设,亡虎豹之虞。盖人力有所不能者,其鬼神之所司乎?呜呼!关侯父子骁雄猛锐,生于乱离之时,以金革战鬬为事,身死家破,客魂魄于覆船山之下,一且遇大士,发明真谛,心生欣厌,以刹那善念,其福力遂与玉泉相表里。佛力之方便,真不可思议哉!初,皓老新关侯庙,属子记其所以施山造寺受戒之始末矣。后三年,三郞祠成,当阳院明府叉以书来言曰:承皓七十老子,布衣粝食,而勤于营缮,以维耕像教为志者,足尚有公其再书之。迺承其说,为之记。

李冰、水患を去り、蜀の離堆に廟食し、その子二郎は霊化を以て顕れたり。雲長、国事に死し、神は楚の玉泉に凭(よ)り、その子三郎は英異を以て著われたり。子ありて家を克(よ)くし、父の蠱(こと)を干(あつ)めるは、易の乾坤のごとく、正位に居らずして、功用を六子に寄す。索(もと)むれば虚なるが若く、跡(たど)れば無きに非ず。福祥は簡々として、その善に介(たす)け、災禍は𧈅𧈅(げきげき)として、その愚を驚かす。疾してこれに祷れば時に瘳(い)え、暵(ひで)りてこれに祷れば時に濡(うるお)う。珍草を孕(はら)みて嘉禾を発し、魑魅を駆りて夔魑を屏(しりぞ)く。林藪幽深にして、蛇虺の蟄(とじこも)ること亡く、檻穽(落とし穴)設けずして、虎豹の虞(おそれ)亡し。けだし人力の能わざる所有るは、それ鬼神の司るところか。ああ、関侯父子、驍雄猛鋭、乱離の時に生まれ、金革戦鬬を以て事と為し、身死し家破れ、魂魄は覆船山の下に客(よ)る。一旦、大士に遇い、真諦を発明し、心に欣厭を生じ、刹那の善念を以て、その福力、遂に玉泉と相表裏す。仏力の方便、まことに思議すべからざるかな。初め、皓老、関侯廟を新たにし、予に属(しょく)してその山を施し寺を造り戒を受くるの始末を記さしむ。後三年、三郎祠成る。当陽院明府、また書を以て来たりて言わく、承皓七十の老子、布衣糲食にして、営繕に勤し、耕して像教を維(たも)つを以て志と為す者は、足(た)り。なお公その再びこれを書け、と。すなわちその説を承け、これが記を為す。

『漢前将軍関公祠志』巻八所収「元祐初建関三郎廟記」、宋 張商英撰(原書は「前人」と署る)

「元延祐元年新建武安王殿記」

延祐甲寅岁尽秋,武安王新殿贼,圣像端拱,百神像设,曲尽其妙。是举也,至大戊申岁,今之住持钟山大师,为见古祠朽腐,不称观瞻,遂于祠之后冈所伐荆蓁林木,削平丘阜,营治殿基,方定其隅向,而掘彼旅株,忽现出础甎,而露其阶砌,星被綦布,旧迹宛然,与今时规画若合符。即于是擒材陶瓦,接续兴工,越七载而其功圆,增林泉之伟观,孰谓数百年埋没之故址,一旦重辉。虽然,道假人弘,亦隂相潜翊之所就也。若夫雄文杰句,光讃神休,昭若日星,勒之金石,实于名公硕德有待焉。玆以台岸毕工,就嵌片石于其中,以纪岁月云尔。

延祐甲寅の歳、秋尽きんとす。武安王の新殿成り、聖像は端拱(うやうやしく手を拱く)し、百神の像設、曲(くま)なくその妙を尽くす。この挙や、至大戊申の歳、今の住持鐘山大師、古祠の朽腐して観瞻に称(かな)わざるを見、遂に祠の後岡において荊蓁の林木を伐り、丘阜を削り平げ、殿基を営治す。まさにその隅向を定めんとして、彼の旅株(群がる株)を掘るに、忽ち礎甎を現出し、階砌を露(あら)わす。星に被(かぶ)さり碁(き)に布(しか)れたるがごとく、旧跡宛然として、今時の規画と符を合わせるが若し。すなわちここにおいて材を集め瓦を陶(や)き、接続して工を興し、七載を越えてその功円(まろ)くなれり。林泉の偉観を増す。たれか謂わん、数百年埋没の故址、一旦に重ねて輝く、と。然りといえども、道は人に仮りて弘まり、また陰(かげ)ながら相い潜かに翊(たす)くるところの就(な)るなり。もし雄文杰句、神休を光賛し、日星のごとく昭かにして、これを金石に勒(ろく)さば、実に名公碩徳に待つところあらん。ここに台岸(たいがん)の工畢(おわ)るを以て、片石をその中に嵌(は)め就け、もって歳月を紀するのみ。

『漢前将軍関公祠志』巻八所収「元延祐元年新建武安王殿記」、元 毛徳撰

「答族姪僧中孚贈玉泉仙人掌茶」

余闻荆州玉泉寺近清溪诸山,山洞往往有乳窟,窟中多玉泉交流。其中有白蝙蝠,大如鸦。按仙经:蝙蝠一名仙鼠,千岁之后,体白如雪一作银,栖则倒悬,盖饮乳水而长生也。其水边处处有茗草罗生,枝叶如碧玉,惟玉泉真公常采而饮之,年八十余岁,颜色如桃花。而此茗清香滑熟,异于他者,所以能还童振枯,扶人寿也。余游金陵,见宗僧中孚,示余茶数十片,拳然重叠,其状如手,号为仙人掌茶。盖新出乎玉泉之山,旷古未觌,因持之见遗,兼赠诗,要余答之,遂有此作。

余聞く、荊州玉泉寺は清渓の諸山に近く、山洞に往々乳窟あり。窟中に玉泉多く交流す。その中に白蝙蝠あり、大きさ鴉のごとし。仙経を按ずるに、蝙蝠は一名仙鼠、千歳の後、体は雪のごとく白く(一に銀と作る)、栖(す)めばすなわち倒懸す。けだし乳水を飲みて長生するなり。その水辺に処処茗草ありて羅生し、枝葉は碧玉のごとし。ただ玉泉の真公のみ常に採りて飲む。年八十余歳、顔色桃花のごとし。しかもこの茗は清香滑熟にして、他に異なり。能く童に還り枯を振(おこ)し、人の寿を扶(たす)くる所以なり。余、金陵に游び、宗僧中孚に見ゆ。余に茶数十片を示す。拳然として重畳し、その状手のごとく、号けて仙人掌茶と曰う。けだし玉泉の山より新たに出づ。曠古(いにしえより)未だ覿(み)ざるなり。因りてこれを持ちて見遺(おく)られ、兼ねて詩を贈り、余に答えんことを要(もと)む。遂にこの作あり。

『李太白集注』巻二十一『答族姪僧中孚贈玉泉仙人掌茶』序、唐 李白撰、清 王琦注

「広鋳禅師塔銘」

荆门当阳玉泉景德禅寺者,智者大师道场也。智者,荆州人,自天台还止此山。相传有神自称汉前将军关羽,殁而藏神于此,愿佐师,遂建伽蓝焉。自隋历唐至宋,主之者皆名世之士。元丰中,蜀僧承皓来主之,道行孤峻,张公商英为著法堂记。及殁,又著塔铭,其文具在。其后大慧三弟相继主之,赫然荆楚间,他刹莫之及也。宋季,郡当兵冲,不能有所安辑。及内附国朝,荆为乐土,有惠珍师经理兹寺,粗能创始而化去。至大二年,珍之弟子广铸应请以来,大有建立,凡廿二年而殁。藏舍弟于县之青阳坪,其弟子福祐自其寺如京师,介奎章阁学士典签斡克庄,请用皓公故事来求塔铭。其言曰:“我佛氏家,应机致用,随时显迹,非一端也。或严戒律以制心,或专禅定以启悟,或妙庄严以生信,或广经典以明教,一期方便,等无差别。”先师一座道场垂及两纪,风雨不动,安如须弥,为法为人,炽盛圆满。自非夙有记受,其福德讵能尔耶?张君,予乡人,固非予所敢望。而克庄,予僚友也,儒业之外,深明内典,故重其言而述焉。师讳广,姓黄氏,父某,母伏蒙城人。至元丁丑岁,伏夫人梦大香象背负圆光而至,寤即生师。稍长,不与群儿嬉戏,每闻佛经,顺口依之,即能成诵。行履端严,如素守律。年十三,辞亲入玉泉,礼藏山珍禅师,受具落发,盖松源岳禅师之第五传也。年十五,游方未远,闻珍殁而还。师尝梦见三佛,相好殊胜,光明希有。其中尊舒金色臂摩其顶,呼之为掬多者九。傍有圣僧谓师曰:“世尊命尔为掬多,何不礼拜。”师遂具礼,恍然而悟,一时俨然在前,心源清凉,三叹奇事。指授绘者,写其所睹,至今存焉。珍之治景德也,仅能起废。有瑄者,弗克嗣其业,日加废败。寺众迎师归继珍席,曾未逾时,百为具举。至大二年,入见武宗皇帝出玺书护其寺,赐香,俾诵大藏经。满散之日,师升座说法,天雨宝华,缤纷满空,不至地者才及丈许。万目惊异,叹未曾有。皇庆元年,入见仁宗皇帝,上知师无杂食,以马湩为赐。泰定四年,赐号曰佛光慧日普照永福大师。帝师亲为授记,名之曰僧嘉斡节儿,授以伽黎衣,仍归主其山。凡珍之未备者,既皆成之。别建毗卢,高十丈,以贮藏经像华严五十三参于壁下,严两金刚,高四丈五尺。又建万佛阁,高十丈,上奉佛像万躯,下为法堂。又作钟楼,皆高十丈,其像设严悉以黄金。僧堂、行堂、两方丈、旃檀林、庖库之属,其高广大抵与诸阁相称。又别建关将军庙、龙王祠于寺侧,尤极宏丽。又以伏夫人故宅为永福报隆寺,在当阳县中,吏民祈祷以为首刹。凡有营建,不惮寒暑,皆身先之。建阁时,材木之巨且修者,水运多湾洄,莫能致。一夕水忽大涨,尽至近地,余筏溯溪,挽者徧履田畔不绝。田主欲因夜断引绠,至则见若於菟守之,乃悔愧以惧,更为推致云。环寺种松杉数万株,增广寺田以赡众。先夺于豪家者复之,可购者购之。设有水旱虫蝗之菑,师默祷辄应,环寺百数十里间,未尝有凶岁。刻华严、法华、楞严、圆觉、楞伽、金刚般若诸经论,模印流通,前后所施凡数万部。度经之余地,又广购儒书、道书以实之。修水陆大醮一百余会,日诵华严经两函,礼观音十拜,领众说法,清规严整,夙兴夜坐,至老不变,谈辨文慧,江湖尚之。至顺二年四月二十四日,师集众叙别,众举座元至吉嗣寺事,师肯之,遂跏趺而逝。空中如闻有妙乐之音,白云覆地,山谷悲惨,南土早炎,骤变寒栗。入龛逾夕,颜貌如生。阇维之余,收舍利无数,惟舌根牙齿数珠不坏。世寿五十五,僧腊四十二。有诗偈语录若干卷,门人传焉。昔智者大师立精蓝三十六所,玉泉其一也。千百年中,或存或废,或显或徵,岿然鼎盛于圣元治平之世,若兹山者,岂偶然哉。今丛林学者知死生之大究竟已事,岂乏其人,而依止启发,则存乎得所宗者尚多。智者大师在时,楞严未至震旦,尝西望踟蹰而愿见焉。今师首刻是经,庶几智者之遗意矣。铭曰:

荊門当陽玉泉景徳禅寺とは、智者大師の道場なり。智者は荊州の人、天台より還りてこの山に止まる。相伝う、神ありて自ら漢の前将軍関羽と称し、没して神を此に蔵し、願わくは師を佐けん、と。遂に伽藍を建つ。隋より唐を歴て宋に至るまで、これを主どる者は皆名世の士なり。元豊中、蜀僧承皓来たりてこれを主どる。道行孤峻なり。張公商英、これが為に法堂記を著し、および没して、また塔銘を著す。その文具さに在り。その後、大慧の門弟三代相継いでこれを主どり、赫然として荊楚の間、他刹の及ぶところ莫し。宋季、郡は兵衝に当たり、安輯する能うところなし。国朝(元)に内附するに及び、荊は楽土と為る。恵珍師ありて此の寺を経理す。粗ぼ創始する能うも化(おわ)り去る。至大二年、珍の弟子広鋳、請に応じて以来、大いに建立あり。およそ廿二年にして没す。舎利を県の青陽坪に蔵す。その弟子福祐、その寺より京師に如(ゆ)き、奎章閣学士典籤の斡克荘を介し、皓公の故事を用いて来たりて塔銘を求む。その言に曰く、「我が仏氏の家、機に応じて用を致し、時に随いて跡を顕すは、一端に非ず。あるいは戒律を厳にして心を制し、あるいは禅定を専にして悟を啓き、あるいは妙荘厳を以て信を生じ、あるいは経典を広めて教を明らかにす。一期の方便、等しく差別なし」と。先師、一座の道場、垂んとして両紀(二十四年)に及ぶ。風雨動かず、安きこと須弥のごとし。法の為人の為、熾盛円満なり。夙(つと)に記受(予記)有るに由らざれば、その福德、あによくしからんや。張君は予が郷人、固より予の敢えて望む所に非ず。克荘は予が僚友なり。儒業の外、深く内典を明らかにす。ゆえにその言を重んじて述ぶ。師の諱は広、姓は黄氏。父は某、母は伏蒙城の人。至元丁丑の歳、伏夫人、大きな香象の円光を背負いて至るを夢む。寤(さ)めればすなわち師を生む。やや長じて、群児と嬉戯せず。毎に仏経を聞けば、口に順いて依れば、すなわち能く誦を成す。行履端厳、素より律を守るがごとし。年十三、親を辞して玉泉に入り、蔵山珍禅師に礼し、具戒を受け落髪す。けだし松源岳禅師の第五伝なり。年十五、游方未だ遠からず、珍の殁せしを聞きて還る。師、かつて三仏を夢見し。相好殊勝、光明希有なり。その中尊、金色の臂(ひじ)を舒(の)べてその頂を摩(な)で、これを掬多と呼ぶこと九たびなり。傍に聖僧ありて師に謂いて曰く、「世尊、爾を命じて掬多と為さしむ。何ぞ礼拝せざる」と。師、遂に具礼し、恍然として悟る。一時、儼然として前に在り。心源清涼なり。三たび奇事を歎ず。絵者に指授し、その睹る所を写さしむ。今に至るまで存す。珍の景徳を治めしや、僅かに廃を起こす能うのみ。有瑄なる者、その業を嗣ぐに克(あた)わず。日に廃敗を加う。寺衆、師を迎えて帰りて珍の席を継がしむ。かつて時を逾えずして、百の為具(ことごと)く挙がる。至大二年、入りて武宗皇帝に見ゆ。璽書を出して其の寺を護り、香を賜いて大蔵経を誦せしむ。満散の日、師座に升りて法を説く。天、宝華を雨(ふら)し、繽紛として空に満ち、地に至らざること才(わず)か丈許なり。万目驚異し、未曾有を歎ず。皇慶元年、入りて仁宗皇帝に見ゆ。上、師の雑食無きを知り、馬湩(馬乳酒)を以て賜う。泰定四年、号を賜いて曰く仏光慧日普照永福大師。帝師、親ら授記し、これを名づけて僧嘉斡節児と曰い、伽黎衣を授け、仍(よ)って帰りて其の山を主どらしむ。およそ珍の未だ備わらざりし者、すでに皆これを成す。別に毗盧殿を建つ。高さ十丈、以て蔵する所の経像、華厳五十三参を壁下に具え、両金剛を厳(いつくし)む。高さ四丈五尺。また万仏閣を建つ。高さ十丈、上に仏像万躯を奉り、下を法堂と為す。また鐘楼を作る。皆高さ十丈。その像設の厳、悉く黄金を以てす。僧堂・行堂・両方丈・旃檀林・庖庫の属、その高広、大抵諸閣と相称す。また別に関将軍廟・龍王祠を寺の側に建つ。尤も宏麗を極む。また伏夫人の故宅を以て永福报隆寺と為し、当陽県中に在り。吏民、祈祷して以て首刹と為す。およそ営建有れば、寒暑を憚(はばか)らず、皆身を以てこれに先んず。閣を建つる時、材木の巨にして修(なが)き者、水運は湾洄多く、致す能わざる莫し。一夕、水忽ち大いに漲り、尽く近地に至る。余筏、渓を溯(さかのぼ)り、挽く者、田畔に遍く履(ふ)み絶えず。田主、夜に因りて引綆を断たんと欲し、至ればすなわち於菟(虎)のこれを守るが若きを見る。すなわち悔愧して懼れ、更に推致すと云う。寺を環(めぐ)らして松杉数万株を種(う)え、寺田を増広して衆を贍(たす)く。先に豪家に奪われし者はこれを復し、購うべき者はこれを購う。水旱虫蝗の菑(わざわい)有らば、師、黙祷すれば輙(すなわ)ち応ず。寺を環ること百数十里の間、未だかつて凶歳有らず。華厳・法華・楞厳・円覚・楞伽・金剛般若の諸経論を刻し、模印流通す。前後の施す所、およそ数万部。経を度すの余地、また広く儒書・道書を購いて以てこれを実(みた)す。水陸大醮を修すること一百余会。日に華厳経両函を誦し、観音十拝を礼し、衆を領して法を説く。清規厳整、夙興夜坐、老に至るまで変わらず。談弁文慧、江湖これを尚(たっと)ぶ。至順二年四月二十四日、師、衆を集めて叙別す。衆、座元の至吉を挙げて寺事を嗣がしめんとす。師これを肯(うべな)う。遂に跏趺して逝く。空中、妙楽の音有るを聞くがごとし。白雲地を覆い、山谷悲惨なり。南土、早く炎(あつ)きも、驟(にわか)に変じて寒栗す。龕に入ること夕を逾えて、顔貌生けるがごとし。闍維(だび)の余、舎利を収むること無数。ただ舌根・歯牙・数珠のみ壊れず。世寿五十五、僧臘四十二。詩偈・語録若干巻あり、門人これを伝う。昔、智者大師、精藍三十六所を立つ。玉泉その一なり。千百年の中、あるいは存しあるいは廃し、あるいは顕れあるいは微かなり。岿然として聖元治平の世に鼎盛たる、この山のごとき、あに偶然ならんや。今、叢林の学者、死生の大、究竟の已事を知る、あにその人乏しからんや。しかれども依止し啓発するは、すなわち宗とする所を得るに存する者なお多し。智者大師、時に在りて、楞厳未だ震旦に至らず。かつて西に望みて踟躕して見んことを願う。今、師、首めてこの経を刻す。庶(こいねが)わくは智者の遺意ならん。銘に曰く、

“我闻鞠多,于法大护。筹盈石室,不可量数。应缘出世,宿因现前,九呼其名,佛口亲宣。弘教一方,起于早岁;树大法幢,江汉之埃;前哲寥寥,鼓鱼绝音;师始为之,愿力如心。宫殿楼阁,金瑰珠璧;缨络幡盖,充满严饬。田池园林,材用所生;来献来归,不烦度营。百万忆佛,诸菩萨众;圣僧法宝,摄受妙供;大威力神,忠勇之资;乃暨龙君,并安厥祠;既安既成,广大坚同。师于是时,鸣大法鼓;四众安然,肃恭轨仪;晨香夕灯,师率先之;二十二年,常如一日;天华散队,以赞皇锡;大乘诸经,沛然四驰;凡有见闻,自决其疑。大圆宝光,初现妙相;俄归大寥,仍以象往。千山之阴,万杉之林;付托有传,龙天具钦。”

我聞く、掬多、法を大いに護る、と。籌は石室に盈ち、量り数うべからず。縁に応じて世に出で、宿因現前す。九たび其の名を呼ぶ、仏口親ら宣ぶ。教を弘むること一方、起こること早歳より。大法幢を樹(た)つ、江漢の地に。前哲寥寥、鼓魚音絶え、師始めてこれを為す。願力、心のごとし。宮殿楼閣、金瑰珠璧、纓絡幡蓋、充満して厳饬なり。田池園林、材用の生ずる所、来献し来帰す、度営を煩わさず。百万億の仏、諸の菩薩衆、聖僧法宝、摂受の妙供。大威力の神、忠勇の資、すなわち龍君に及び、并せて其の祠に安んず。既に安く既に成る、広大堅同なり。師この時において、大法鼓を鳴らす。四衆安然、粛恭して軌儀あり。晨香夕灯、師率先す。二十二年、常に一日のごとし。天華散じて隊を成し、以て皇錫を讃す。大乗の諸経、沛然として四馳す。およそ見聞有れば、自ら其の疑を決す。大円宝光、初めて妙相を現ず。俄かに大寥に帰し、仍って象を以て往く。千山の陰、万杉の林。付托伝うる有り、竜天具(ことごと)く欽(うやま)う。

『道園学古録』巻三十二「広鋳禅師塔銘」、元 虞集撰

「唐賢留題玉泉詩序」

田少与中州士人遗名者,第天下佳山水处,或道荆门之玉泉、升之栖霞、齐之灵岩、台之国清诸寺,以为四绝。景德中,天子知其地胜异,率诏召择名僧居之,又以年纪表其额。故结方外之游者,迹或不至,不足为好事。庆历七年冬,田自武当再谪郢,且走荆州宁母兄。荆距玉泉才再宿,心窃幸之,意平昔之慕,今遂适焉。明年春,始造山。山之雄迤崛起,上薄气象,长松万株,夹道十里,如六师介胄,申令既定,奋然将作。高盘孤撑,虎凤轩翥,寺挂岩腹,翠微旁来,危楼横桥,下走清籁。流径西北玉泉之源,累累明珠,直出数窦,风霁日皎,鉴人毛发。时无友人,独携二三子留山中,攀幽览胜,下上晦显,或啸天外,却醉水边,回顾身世,使人羞耻。之郢之明日,道出军下,军守曲台谢公,好古博雅君子也,喜田之游,且曰:“玉泉,予之境土,恨守符未能往前。使寺僧录唐贤留题,自曲江而下,止近代浮图齐己,才得八篇。僧云异日诗殊多,第往有大水漂去。予惜其遂散亡,欲镵石以记其事,子为我序焉。”敢拜命,因道山之崖略。八年七月七日,谨序。

田、少くして中州の士人の名を遺(のこ)す者と、天下の佳山水を第(あらそ)うに、あるいは荊門の玉泉、升州の栖霞、斉の霊岩、台の国清の諸寺を道い、以て四絶と為す。景徳中、天子、その地の勝異なるを知り、おおむね詔して名僧を択びて居らしめ、また年紀を以てその額を表す。ゆえに方外の游を結ぶ者、跡あるいは至らざれば、好事と為すに足らず。慶歴七年冬、田、武當より再び郢に謫せられ、まさに荊州に走りて母兄に寧(やすん)じ問わんとす。荊、玉泉を距つること才(わず)か再宿なり。心窃(ひそ)かにこれを幸いとし、平昔の慕、今遂にここに適(ゆ)かんと意す。明年春、始めて山に造(いた)る。山の雄迤崛起、上は気象に薄(せま)る。長松万株、道を夾(はさ)むこと十里、六師の介冑のごとく、申令すでに定まり、奮然として将に作さんとす。高く盤し孤り撐(ささ)え、虎鳳軒翥(けんしょ)す。寺は岩腹に挂(かか)り、翠微は旁(かたわ)らより来たる。危楼横橋、下に清籟を走らす。流れは西北の玉泉の源に径(いた)る。累累たる明珠、直ちに数竇より出づ。風霽(は)れ日皎(かがや)けば、人の毛髪を鑑(かが)む。時に友人無く、独り二三子を携えて山中に留まる。幽を攀(よ)じ勝を覧て、下上晦顕し、あるいは天外に嘯(うそぶ)き、却(しりぞ)いて水辺に酔う。回顧すれば身世、人をして羞恥せしむ。郢に之(ゆ)くの明日、道は軍下(荊門軍城)に出づ。軍守の曲台謝公、古を好み博雅の君子なり。田の游を喜び、且つ曰く、「玉泉は予の境土なり。守符の往く能わざるを恨む。寺僧に唐賢の留題を録せしめ、曲江(張九齢)より下り、近代の浮図斉己に止まるに、才(わず)かに八篇を得たり。僧云く、異日の詩殊に多し、ただ往し大水に漂わされ去れり、と。予、その遂に散亡せんを惜しみ、石に镵(ほ)りて以てその事を記さんと欲す。子、我が為にこれに序せよ」と。敢えて命を拝し、因りて山の崖略(概略)を道う。八年七月七日、謹んで序す。

『安陸府志』巻三十一所収『唐賢留題玉泉詩序』、宋 張田撰(文字は『全宋文』巻一〇四二を参校)

「重修漢寿亭侯廟碑記」

松山子校士过当阳,自彝陵午憇玉泉寺,周览壮丽,特胜。荆南以覆舟山祀汉夀关侯也,乃诣玉泉,观侯庙将颓于草木莽莽中,乃言曰:山如覆舟,玉泉出焉。侯致命地也。玉泉寺胜,以侯致命覆舟山,则寺因侯胜多年矣。浮图立不经说,诬侯愿护法,玉泉弗治其庙,岂知所自与?乃属承天知府吴君惺,督知县侯嘉祥董沙门修葺之,𡬶落成。时予朞月竣事全楚,归节武昌,嘉祥以知府意来求记。

松山子、士を校(考)えて当陽を過り、彝陵より午(ひる)に玉泉寺に憇(いこ)う。周く壮丽を覧て、特に勝れたり。荊南は覆舟山を以て漢寿関侯を祀る。すなわち玉泉に詣り、侯廟の将に草木莽莽の中に頽れんとするを観る。すなわち言わく、山は覆舟のごとく、玉泉これより出づ。侯の致命(身命を賭した)の地なり。玉泉寺の勝れるは、侯の覆舟山に致命するを以てなれば、すなわち寺は侯に因りて勝れること多年なり。浮図(僧)の経なき説を立て、侯の願わくは法を護らんと誣(しい)るは、玉泉その自(よ)って来たる所を知らざるなり。あに自らを知らんや。すなわち承天知府呉君惺に属し、知県侯嘉祥を督して沙門に修葺せしめ、ほどなく落成す。時に予、朞月(ひとつき)して全楚に事を竣(お)え、節を武昌に帰す。嘉祥、知府の意を以て来たりて記を求む。

予惟古今人臣,未有不本于精忠,而能射精光于霄壤,与曰月争明者也。侯之精忠,从昭烈于四海鼎沸,顚沛流离中,虽操权百计私交,不一少渝。从致昭烈跨有荆、益,祀汉偏安,固孔明筹策肤公,而侯之熊虎疆场,真如云雨拥翊蛟龙,此其功岂小补于昭烈哉?

予思うに、古今の人臣、未だ精忠に本づかざりて、能く精光を霄壌に射、日月と明きを争う者有らざるなり。侯の精忠、昭烈(劉備)に従うこと四海鼎沸、顛沛流離の中、操(曹操)・権(孫権)の百計私交するも、一も少しく渝(かわ)らず。昭烈を致して荊・益を跨有し、漢に祀りて偏安せしむるは、固より孔明の筹策膚公(おおきく公明)なり。しかるに侯の熊虎として疆場に臨むは、まことに雲雨の蛟龍を擁翊するがごとし。これ其の功、あに昭烈に小補ならんや。

及以新得荆州,𡹅侯镇后,天若祚之,则威震华夏有终。荆州之军必向宛洛,益州之众得出秦川,乃高帝南郑入关中,光武南阳定河北,筭也。而孔明草庐,计不徒矣。无何,吴、魏合谋,掩侯不备,孔明所谓拥百万之众,不可与争锋,贤能为用而不可图者,一旦戮力倾侯矣。使照烈悉蜀土甲兵,恐亦应援之难。观于幸峡窥吴一面,往事可知矣。况侯围樊,倦罢孤军,当此两雄平,其致命覆舟山者,天也。

および新たに荊州を得て、侯をして後を鎮めしむるに、天若しこれを祚(たす)けば、すなわち華夏を威震するに終わり有らん。荊州の軍、必ず宛洛に向かい、益州の衆、秦川より出づるを得ん。すなわち高帝の南鄭より関中に入り、光武の南陽より河北を定むるが筭(はかりごと)なり。しかれば孔明の草廬の計、徒(いたずら)ならざらん。無何(ほどなく)、呉・魏合謀し、侯の不備を掩(おそ)う。孔明の所謂「百万の衆を擁すれば、与に争鋒すべからず。賢能、用を為すも図るべからず」、一旦戮力して侯を傾(たお)さんとす。昭烈をして悉く蜀土の甲兵を率いさせば、恐らくはまた応援の難きなり。幸峡に於いて呉の一面を窺うを観れば、往事知るべし。況んや侯、樊を囲み、倦罷(つかれや)みの孤軍、この両雄に当たりて平(あいな)らぐ。その覆舟山に致命するは、天なり。

故侯亡则荆州失,荆州失,则宛洛无东向之望。宛洛无东向之望,则益州之众,竟不能出秦川而兴汉室也。昭烈、孔明所以竭力经营者,末提无成焉耳巳。此侯亡,汉室不兴之兆先见矣,何待永安驾晏,渭滨星殒哉?

ゆえに侯亡びればすなわち荊州失われ、荊州失われれば、すなわち宛洛に東向の望み無し。宛洛に東向の望み無ければ、すなわち益州の衆、竟(つい)に秦川より出でて漢室を興す能わざるなり。昭烈・孔明の竭力経営する所以の者、末(すえ)提(ひ)えて成る無きのみ。この侯の亡び、漢室興りざるの兆、先に見えたり。何ぞ永安の駕晏(崩御)、渭濱の星殞(孔明の死)を待たんや。

故侯之精忠,信昭当年,其精光宜射霄壤间,与日月争明者也。鲁爱侯庙成,辄论其大较,俾良牧奉之覆舟山,以表侯忠精光以风天下后世,为人臣者,因以警玉泉寺,俾勿壤侯庙,毋重忘所自,毋诬侯愿护法云。嘉靖二十二年癸亥正月

ゆえに侯の精忠、まことに当年に昭(あきら)かなり。その精光、よろしく霄壌の間に射、日月と明きを争うべきなり。魯(孫継魯)、侯廟の成るを愛し、すなわちその大較を論じ、良牧をしてこれを覆舟山に奉らしめ、以て侯の忠の精光を表し、以て天下後世に風し、人臣たる者に因らしめ、以て玉泉寺を警(いまし)め、侯廟を壊(こぼ)つ勿からしめ、重ねて自らを忘るる毋(なか)れ、侯の願わくは法を護らんと誣(しい)る毋からしめんと欲す。嘉靖二十二年癸亥正月。

『当陽県志』巻十六所収『重修漢寿亭侯廟碑記』、明 孫継魯撰、嘉靖二十二年

「重修玉泉山漢寿亭侯関公廟碑記」

荆州为汉夀亭候关公,捍患御灾,驰驱经营之地,而其以死勤事,则在当阳今县治西,侯墓存焉。按志,随开皇初,侯显烈于智者禅师,此玉泉寺显烈祠所由建也。当侯攻曹仁于樊,决汉水灌于禁屯,七军皆没,斩魏将厐德。梁、郏、陆浑间群盗皆遥受印号,威震中原。曹议徙许都避之,一时功烈赫然盛矣。顾天不祚汉,因不佑侯,而卒以其身及于难。此古今忠臣义士,冯吊其地,所为流连悲愤而不能自巳也。夫侯自许先主以来,不自有其身久矣。死而化为日星河岳之气,充塞天地,无所不之,何有遗体之足念,又何俟智者之显烈哉?而人心有感而动,于侯所归藏与所显烈之处,尤无不肃然敬,喟然叹,若侯之降鉴冯依,专在是者。故侯庙祀遍天下,惟玉。泉山最著,于祀典亦最合。乃歴年既远,庙渐圯,而余鞅掌治戎,未遑修举废坠。适天官尚书即邵君鳯翔,待御史高君永彻,镶黄旗叅领郞君应斗,啣命来楚,废兴之感,具有同心,遂各捐俸钱若干缗,鸠工庀材。经始于康熈十五年十月,兴工,落成于十七年六月。金碧轮奂,视昔有加。侯之赫声濯灵,俨然如在,将使人人知所观感而激发于忠义,亦侯之心也哉!方今乱臣负固,禁旅南征,正率土臣民抱忠思奋之日,而侯之鼎然庙貌,适当其时,于以见忠义激发之端,天人协应之象。

荊州は漢寿亭侯関公の、患を捍(ふせ)ぎ災を御ぎ、馳駆経営したる地なり。しかしてその死を以て事に勤むるは、すなわち当陽に在り。今の県治の西、侯の墓存す。志を按ずるに、隋の開皇初、侯、智者禅師に顕烈す。これ玉泉寺の顕烈祠の建つる所以なり。侯、曹仁を樊に攻めしに当たり、漢水を決めて于禁の屯を灌ぎ、七軍皆没し、魏将厐徳を斬る。梁・郟・陸渾の間の群盗、皆遥かに印号を受け、中原に威震す。曹、許都を徙(うつ)してこれを避けんと議す。一時、功烈赫然として盛んなり。顧(かえ)りみれば天漢を祚(たす)けず、因(よ)って侯を祐(たす)けず、而して卒にその身を以て難に及ぶ。これ古今の忠臣義士、その地を馮(よ)り吊(とむら)うに、流連悲憤して自ら已む能わざる所以なり。それ侯、先主に許し以来、自らその身を有すること久し。死して化して日星河嶽の気と為り、天地に充塞し、之(ゆ)かざる所無し。何ぞ遺体の念に足る有らん、また何ぞ智者の顕烈を俟たんや。しかれども人心、感じて動く有り。侯の帰蔵する所と顕烈する処とに於いては、尤も粛然として敬い、喟然として歎き、侯の降鑑・馮依(よりどころ)、専ら是に在るが若し。ゆえに侯の廟祀は天下に遍しといえども、ただ玉泉山最も著わるく、祀典に於いてもまた最も合す。すなわち歴年すでに遠く、廟漸く圯(くず)れ、しかも余、鞅掌(忙しく)として戎を治め、未だ廃墜を修挙する遑(いとま)あらず。ちょうど天官尚書の邵君鳳翔、侍御史の高君永徹、鑲黄旗参領の郎君応斗、命を啣(ふく)みて楚に来たる。廃興の感、具(ことごと)く心を同じくす。遂に各々俸銭若干緡を捐(す)て、工を鳩(あつ)め材を庀(そな)う。康熈十五年十月に経始し、工を興し、十七年六月に落成す。金碧輪奐、昔を視るに加(まさ)る有り。侯の赫声濯霊、儼然として在るが如く、将に人々に观感する所を知らしめて忠義に激発せしめんとす。また侯の心ならん哉。方今、乱臣、固(かた)く負(たの)み、禁旅南征す。まさに率土の臣民、忠を抱き奮いを思うの日なり。しかして侯の鼎然たる廟貌、まさにその時に当たる。以て忠義激発の端、天人協応の象を見るべし。

指日执讯获丑,底定南服。余将与诸君子飮至而告成功于庙焉,不独当阳一邑蒙被神麻巳也。是为记。

日を指して訊(と)らえ醜(あらぶる敵)を獲(え)ん。南服を底定せん。余、将に諸君子と飲至(いんし)して成功を廟に告げんとす。独り当陽一邑、神庥(神の加護)を蒙被るのみならず。是れ記と為す。

『当陽県志』巻十六所収『重修玉泉山漢寿亭侯関公廟碑記』、清 蔡毓栄撰

『当陽県志』

慕容玉泉寺僧。宋天禧末,诏修玉泉寺,赐三千金,置常住田,并赐龙眉龙角镇寺。

慕容は玉泉寺の僧。宋の天禧末、詔して玉泉寺を修め、三千金を賜い、常住田を置き、并せて龍眉・龍角を賜いて寺を鎮(しず)めた。

『当陽県志』巻十三「仙釈・慕容」の条、清 阮恩光修

元广铸,号钟山玉泉寺住持。时唐贤诗碑芜没于荆门,铸请舁回本寺。

元の広鋳、号は鐘山、玉泉寺住持。時に唐賢の詩碑、荊門に蕪没す。鋳、請うて本寺に舁(かつ)ぎ帰る。

『当陽県志』巻十三「仙釈・広鋳」の条、清 阮恩光修

明正诲,号无迹,邑人刘氏子。幼读书,多解义。十岁祝发于石宝山。年一十,诣荆南访天柱和尚,柱器之,留三年,遍阅大藏。柱没,乃之两都登讲席,慈圣太后赐千金修玉泉寺。正诲自都归省,访度门于玉泉东七里,见古寺荒凉,榛棘满目,慨然修复,遂老度门,闭关静修。天启六年正月,先期告逝,至期端坐说偈,说毕而逝。塔于楞伽峰神秀塔旁。著有八识略、庄子注及诸文诸稿。

明の正誨、号は無迹、邑人劉氏の子。幼くして書を読み、多く義を解す。十歳、石宝山にて祝髪す。年一十(十一歳)、荊南に詣りて天柱和尚を訪う。柱これを器とし、留まること三年、遍く大蔵を閲す。柱没すれば、すなわち両都に之(ゆ)きて講席に登る。慈聖太后、千金を賜いて玉泉寺を修めしむ。正誨、都より帰り省(かえりみ)、度門を玉泉の東七里に訪う。古寺の荒凉たるを見、榛棘目に満つ。慨然として修復し、遂に度門に老い、関を閉じて静修す。天啓六年正月、期に先だちて逝くを告げ、期に至りて端坐して偈を説き、説き畢(おわ)りて逝く。楞伽峰の神秀塔の傍に塔す。『八識略』『荘子注』および諸文・諸稿を著す。

『当陽県志』巻十三「仙釈・正誨」の条、清 阮恩光修

『大明一統名勝志』

玉泉山,在县南三十里,色白而莹,又日珠泉。泉南为天台智者道塲,即关将军遣鬼工所造。按郭璞游仙诗序谓此泉潜行九万八千里,通天竺,注震旦者也。唐李白诗自序云:玉泉寺中有日蝙蝠,大如鸦,栖则倒悬,饮乳水,谓之乳窟。又有仙人掌茶,出于玉泉山巅,罗生枝叶,类碧玉,其状如掌,清香异他茗。盖发乎中孚禅子及青莲居士李白也。初名覆船山,自智觊居之,始易为玉泉。唐初,神秀亦居之,学徒万人,时号南能北秀。碑日云:唐国初玉泉寺大通禅师碑,燕公张说撰,侍郎卢藏用八分书,甚古。碑尚存。贞元间玉泉庙记,大理评事董挺撰。又有二碑,其一邵子明,其一李安期也。僧正诲诗云:断碑有字埋芳草,废塔无名起暮烟。按寺有铁塔,高五丈余,宋嘉祐年立。关将军祠,当记亦董挺撰。又有五代时石马洞碑,在花溪之下、清溪之上,其庙神即关壮缪也。宋绍兴中,渔者获汉寿亭侯印于洞庭,纳之长沙库中,光熖异常,因送玉泉山关公庙。后。淳熙中,主僧欲献于东宫,印旋失去。玉泉唐贤题咏诗碣,张九龄、常建、李白、孟浩然、周朴、白居易、僧齐巳也。宋张田序,张仲回篆额,碑尚鲜整。又有题梳妆楼诗云:画楼不可见,寥落秋草荒。镜作空山月,无人更理妆。盖为宋章献后梳妆处。后本成都人,随父龚美游玉泉,感梦于神,及册为皇后,赠赐甚隆。

玉泉山、県の南三十里に在り。色白くして瑩(ひか)り、また珠泉と曰う。泉の南は天台智者の道場、すなわち関将軍が鬼工を遣わして造りし所なり。郭璞の游仙詩の序を按ずるに、この泉は潜行すること九万八千里、天竺に通じ震旦に注ぐ、と謂う。唐の李白の詩の自序に云く、玉泉寺中に蝙蝠あり、大きさ鴉のごとく、栖めばすなわち倒懸し、乳水を飲む。これを乳窟と謂う、と。また仙人掌茶あり、玉泉山の巔(いただき)に出づ。羅生する枝葉、碧玉に類し、その状掌のごとく、清香、他の茗に異なり。けだし中孚禅子および青蓮居士李白より発せり。初めの名は覆船山、智顗これに居りてより、始めて玉泉と易う。唐初、神秀もまたこれに居る。学徒万人、時に南能北秀と号す。碑に曰く、唐国初の玉泉寺大通禅師碑、燕公張説撰、侍郎盧蔵用八分書、甚だ古し、と。碑なお存す。貞元間の玉泉廟記、大理評事董挺撰。また二碑あり、その一は邵子明、その一は李安期なり。僧正誨の詩に云く、「断碑字ありて芳草に埋れ、廃塔名無くして暮煙起こる」と。按ずるに、寺に鉄塔あり、高さ五丈余、宋の嘉祐年に立つ。関将軍祠、当(まさ)に記すべしもまた董挺撰。また五代時の石馬洞碑あり、花渓の下、清渓の上に在り。その廟神はすなわち関壮繆(関羽)なり。宋の紹興中、漁者、漢寿亭侯の印を洞庭に獲て、これを長沙の庫中に納む。光熖異常なり。因りて玉泉山関公廟に送る。後、淳熙中、主僧、これを東宮に献ぜんと欲す。印、すなわち失去す。玉泉の唐賢題詠の詩碣、張九齢・常建・李白・孟浩然・周朴・白居易・僧斉己なり。宋の張田序し、張仲回篆額す。碑なお鮮整(あざやかに整)なり。また「題梳粧楼」の詩ありて云く、「画楼見るべからず、寥落として秋草荒る。鏡は空山の月と作り、人無くして更に粧を理(おさ)めず」と。けだし宋の章献后の梳粧の処の為なり。后、もと成都の人、父龔美に随いて玉泉に游び、神に夢を感ず。および冊して皇后と為るや、贈賜甚だ隆し。

『大明一統名勝志』巻四「荊門州・当陽県」、明 曹学佺撰

「隋大業当陽県玉泉山寺鉄鑊字跋」

丁丑春,余过当阳玉泉寺,得见隋铁镬字,拓之,凡四十有四字,每字方径二寸许。其文曰:“隋大业十一年岁次乙亥十一月十八日,当阳县治下李慧达建造镬一口,用铁今秤二千斤,永充玉泉道场供养。”考此镬乃彼时民间所造,民间所写,其写字之人亦惟是当时俗人,其字亦当时通行之体耳,非摹古隶者也。而笔法半出于隶,全是北周、北齐遗法。可知隋唐之间字体通行皆肖乎此。而赵宋各法帖所称钟、王者,其时世远在此等字前,何以反与后世楷字无殊耶?二王书犹可云江左与中原所尚不同,若钟书则更在汉魏之间,其伪也不爽然可想见乎?

丁丑の春、余、当陽玉泉寺を過り、隋の鉄鑊の字を見るを得、これを拓(と)る。およそ四十四字、字ごとに方径二寸許り。その文に曰く、「隋大業十一年歳次乙亥十一月十八日、当陽県治下の李慧達、鑊一口を建造す。鉄を用うること今秤じて二千斤。永く玉泉道場の供養に充つ」と。この鑊を考うるに、すなわち彼の時の民間の造る所、民間の写す所なり。その字を写す人もまたただ是れ当時の俗人、その字も当時通行の体のみ、古隷を摹(うつ)す者に非ず。しかれども筆法は半ば隷より出で、全く是れ北周・北斉の遺法なり。知るべし、隋唐の間、字体の通行、皆此に肖(に)たり、と。しかるに趙宋の各法帖の称する所の鐘(繇)・王(羲之)なる者、その時世は遠く此等の字の前に在る。何を以てか反って後世の楷字と殊なること無きや。二王の書はなお江左と中原と尚(とうと)ぶ所同じからずと云うべし。鐘の書のごときはすなわち更に漢魏の間に在り。その偽なるや、爽(あき)らかに想見すべからずや。

『研経室集』研経室三集巻一「隋大業当陽県玉泉山寺鉄鑊字跋」、清 阮元撰

「北宋玉泉寺鉄塔」

右塔十三级高七丈款略云嘉祐六年八月十五曰郝言铸在当阳玉泉寺尝间胡明经虔云玉泉发源于罗汉山青溪岭之西数窦中出又曰珍珠泉晋郭璞游仙诗序称玉泉潜行九万八千里通天竺注震旦盖指此玉泉与青浮异源同流水经注载青溪而不及玉漏也

右の塔、十三級、高さ七丈。款(刻銘)に略して云く、「嘉祐六年八月十五日、郝言鋳る。当陽玉泉寺に在り」と。かつて胡明経虔に聞いて云く、玉泉は羅漢山青渓嶺の西に発し、数竇の中より出づ、と。また珍珠泉と曰う。晋の郭璞の游仙詩の序に、「玉泉、潜行九万八千里、天竺に通じ震旦に注ぐ」と称すは、けだしこの玉泉を指す。青渓と源を異にして流れを同じくす。水経注は青渓を載せて玉泉に及ばざるなり。

泉源地中行九万八千里未曾注襄江挽留作陂水窃恐水化龙奔腾莫肯止作塔镇当阳祥光变成紫奇香旦夕焚祝龙莫迁徙永庇一方人乐岁从此始塔𫝑接云霄铭词亦可喜听说胆塔人塔前多绿芷

泉源、地中を行くこと九万八千里。未だかつて襄江に注がず、挽留して陂水を作る。窃(ひそ)かに恐らくは水、龍と化して奔騰し、止まることを肯(あえ)てせざるを、と。塔を作りて当陽を鎮む。祥光、変じて紫と成る。奇香、旦夕に焚き、祝して曰く、龍、遷徙する莫れ、と。永く一方の人を庇い、楽歳、此より始まらん。塔は雲霄に接し、銘詞もまた喜ぶべし。聞くところ、塔を守る人のいわく、塔の前に緑芷多し、と。

『湖北金石詩』巻一「北宋玉泉寺鉄塔」、清 厳観撰

「元玉泉寺鐘」

按王楚《博古图》、薛尚功《钟鼎款识》等书载,三代钟高不过一丈。此钟至五尺九寸,围一丈二尺,失古制矣。款题僧宝镜铸于至大元年四月佛诞日。

按ずるに、王楚の『博古図』、薛尚功の『鐘鼎款識』等の書に載す、三代の鐘、高さ一丈を過ぎず。此の鐘は五尺九寸に至り、囲り一丈二尺。古制を失えり。款に題す、僧宝鏡、至大元年四月仏誕日に鋳る、と。

宝鼎无从觅,单符何处寻。欣于玉泉上,钟扣得清音。度岭惊啼鸟,穿山绕碧岑。传能警饿鬼,不恨夜沉沉。佛法何妨设,顽愚望转心。雨霖不到处,高处每分阴。解得牟尼意,捐金我亦钦。静中参妙诀,花落不知深。

宝鼎、覓(もと)むるに従(よ)りどころ無く、単符、何れの処か尋ねん。欣(よろこ)んで玉泉の上、鐘扣(たた)きて清音を得たり。嶺を度(わた)りて啼鳥を驚かし、山を穿ちて碧岑を繞る。伝う、能く餓鬼を警(さと)す、恨みず夜の沉沉たるを。仏法、何ぞ妨げん設くるを。頑愚、心を転ずるを望む。雨霖の到らざる処、高き処に毎に陰を分かつ。牟尼の意を解得せば、金を捐(す)つる我もまた欽(うやま)わん。静かなる中に妙訣を参じ、花落ちて深きを知らず。

『湖北金石詩』巻一「元玉泉寺鐘」、清 厳観撰

「元過髪鐘」

右钟款正书,至大元年八月中秋节,僧绍阡铸于玉泉山景德寺。寺即宋天禧五年遣翰林学士宋绶、宋祁与僧道源修《传灯录》处。钟纽有断痕,发皆可涡,悬之不坠,故名。今悬于荆门州治楼上。

右の鐘、款は正書。至大元年八月中秋節、僧紹阡、玉泉山景徳寺に鋳る。寺はすなわち宋の天禧五年、翰林学士宋綬・宋祁を遣わし、僧道源と『伝灯録』を修めし処なり。鐘紐に断痕あり、髪をもって皆渦(通)す可く、之を懸くるに墜ちず。ゆえに名づく(過髪鐘と)。今荊門州治の楼上に懸く。

蒙山对古寺,接引谢奇峰。不至云深处,焉知遇发钟。云鬟堆作髻,似鬓不蓬松。千缕自缭绕,一纽击从容。不解其中理,神工火内镕。事同窃变相,灵气天所钟。偶阅《传灯录》,花间僧喜逢。当年著书处,此地是芳踪。

蒙山、古寺に対し、接引は奇峰に謝す。雲深き処に至らずんば、いずくんぞ髪鐘に遇うを知らん。雲鬟、堆(うずたか)く髻(もとどり)を作す。鬢に似て蓬松(ほうしょう)ならず。千縷、自ら繚繞し、一紐、撃つこと従容(しょうよう)なり。その中の理を解せず。神工、火内に鎔(と)く。事は変相を窃(ぬす)むに同じく、霊気、天の鐘(あつ)むる所。たまたま『伝灯録』を閲す。花間に僧、喜び逢う。当年、書を著しし処、この地是れ芳蹤なり。

『湖北金石詩』巻一「元過髪鐘」、清 厳観撰

「元景徳禅寺鐘」

右钟款正书,铸于延祐七年十月,在荆门州当阳景德寺。钟纽已鄙,今置于地。

右の鐘、款は正書。延祐七年十月に鋳る。荊門州当陽景徳寺に在り。鐘紐已に鄙(や)ぶれ、今地に置く。

范金铸钟镛,岂为警宵寐。名同久不分,铭功改铭寺。高悬佛殿前,今古无同异。问僧义云何,僧亦不知意。望报众何深,列名同一事。福锡想千年,心事何遂遂。请易菩提心,销钟铸农器。农器永流传,何人肯捐弃。

金を范(かたど)りて鐘鏞を鋳る。あに宵寐(よいのね)を警さんが為のみならんや。名は同じく久しく分かたず、功を銘じて改めて寺を銘ず。高く仏殿の前に懸かれ、今古同異無し。僧に問う、義は云何(いか)ん、と。僧もまたその意を知らず。報いを望む衆、何ぞ深き。名を列ねること同一事。福の錫(たまわ)ること、想うに千年。心事、何ぞ遂遂(はかどら)ざる。請う、菩提心に易え、鐘を銷(と)かして農器を鋳らん。農器、永く流伝し、何人か肯(あえ)て捐弃(す)てん。

『湖北金石詩』巻一「元景徳禅寺鐘」、清 厳観撰

「元玉泉寺双鉄釜」

右釜二款俱正书。一题:“至正五年岁次乙酉十一月吉日铸造,生铁三千斤。”一题云:“玉泉禅寺至正□卯四月日置。”

右の釜、二款、俱に正書。一に題して曰く、「至正五年歳次乙酉十一月吉日鋳造、生鉄三千斤」と。一に題して云く、「玉泉禅寺、至正□卯四月日に置く」と。

铁镬铸于前,双釜铸于后。一寺获三金,玉泉福何厚。物因不便移,转得常相守。纵有羡慕人,欲问难开口。置于广厦前,或为张天酒。我思赴当阳,饮期必濡首。并拓《古摭言》,墨久积如斗。何时帆影悬,待访同三友。

鉄鑊、前に鋳られ、双釜、後に鋳られたり。一寺、三金を獲たり。玉泉の福、何ぞ厚き。物、便(べん)ならずして移らざるに因り、転じて常に相守るを得たり。縦(よし)い羨慕する人有りて、問わんと欲するも、口を開き難し。広厦の前に置き、あるいは張天(席を張り)酒を為さん。我、当陽に赴かんことを思う。飲期、必ず首を濡らさん。并せて『古摭言』を拓す。墨、久しく積りて斗のごとし。何れの時か帆影懸からん。同じく三友を訪わんを待つ。

『湖北金石詩』巻一「元玉泉寺双鉄釜」、清 厳観撰

「北宋玉泉院唐賢留題詩序碑」

右碑在当阳玉泉山显圣寺前桥南路侧。庆历八年,荆门军守曲台谢公使寺僧悟空录唐张九龄、孟浩然、周朴、常建、白居易、僧齐己六人诗八篇,大理评事张田为之序。

右の碑、当陽玉泉山顕聖寺前の橋南の路側に在り。慶歴八年、荊門軍守の曲台謝公、寺僧悟空をして唐の張九齢・孟浩然・周朴・常建・白居易・僧斉己の六人の詩八篇を録せしめ、大理評事張田これが序を為す。

宋人辑唐诗,有关玉泉者。刊碑立道旁,过客辄勒马。墨云里溪烟,常傍青山下。读书不记名,但解重风雅。倘欲索新诗,和者应亦寡。此泉合清溪,异源而同泻。颇以集诸贤,重结香山社。宋座倘无人,诗成我愿写。

宋人、唐詩を輯(あつ)むるに、玉泉に関わる者あり。碑を刊(けず)りて道旁に立つ。過客、輙(すなわ)ち馬を勒(とど)む。墨雲(碑の文字)、渓煙の裡(うち)。常に青山の下に傍(そ)う。書を読みて名を記せず、ただ風雅を重んずるを解す。もし新詩を索(もと)めんと欲せば、和する者応(まさ)にまた寡(すく)なからん。此の泉、清渓に合す。源を異にして瀉(そそ)ぐを同じくす。頗(すこぶ)る以て諸賢を集め、重ねて香山社を結ぶ。宋座、もし人無からんば、詩成らば我、願わくは書かん。

『湖北金石詩』巻一「北宋玉泉院唐賢留題詩序碑」、清 厳観撰

「元玉泉景徳禅寺田地界碑」

右碑正书,皇庆二年季冬立,在当阳。

右の碑、正書。皇慶二年季冬に立つ。当陽に在り。

僧家护牒文,如农宝稼稽。贮之紫荷囊,不敢同若初。田地倘相关,每见金石勒。力知而来长,敕字无定式。以宋较元碑,如花不一色。恐事涉相争,彰明省窥测。法佛既云空,僧何务在得。临文不多论,知白守其黑。

僧家、牒文を護ること、農の稼穡を宝とするが如し。これを紫荷の囊に貯(おさ)め、敢えて初めのごとく粗末にせず。田地、もし相関わらば、毎に金石に勒(ろく)すを見る。力(つと)めて知りて来たりて長(なが)くす。敕字、定式無し。宋を以て元碑に較(くら)ぶれば、花の一色ならざるが如し。恐らくは事、相争うに渉らんことを。彰明にして窺測を省(ふせ)ぐ。法仏、すでに空と云う。僧、何ぞ務めて得に在らん。文に臨みて多く論ぜず。白を知りてその黒を守る。

『湖北金石詩』巻一「元玉泉景徳禅寺田地界碑」、清 厳観撰

「元皇慶二年玉泉寺僧鐘山奉漢寿亭侯印献于朝奉命仍帰旧所碑」

右碑正书,在当阳。玉泉寺僧钟山奉汉寿亭侯印献于朝,奉命仍归旧所,僧邀朝士纪之以诗。

右の碑、正書。当陽に在り。玉泉寺の僧鐘山、漢寿亭侯の印を奉じて朝に献じ、命を奉じて仍(よ)って旧所に帰る。僧、朝士を邀(もと)めてこれを紀して詩とせしむ。

玺没楚山畔,钟沉汉水隈。披图思旧刻,何意见奇瑰。英雄遗王印,光忽照三台。按印尘埋久,名僧献玉台。为因呈法物,天语亲陪。纪遇邀词客,朝中披紫回。至今玉泉上,佳作锦成堆。不倦看题品,奚奴心暗催。

璽、楚山の畔(ほとり)に没し、鐘、漢水の隈に沈む。図を披きて旧刻を思う。何ぞ思わん、奇瑰に見(まみ)えんとは。英雄、王印を遺(のこ)す。光、忽ち三台を照らす。按ずるに印、塵に埋るること久し。名僧、玉台に献ず。因(よ)って法物を呈すれば、天語、親ら陪(とも)に賜わる。遇を紀して詞客を邀う。朝中、紫を披きて回(かえ)る。今に至るまで玉泉の上、佳作、錦と堆(うずたか)く成る。題品を看るに倦まず。奚奴(けいど、従僕)、心に暗に催す。

『湖北金石詩』巻一「元皇慶二年玉泉寺僧鐘山奉漢寿亭侯印献于朝、奉命仍帰旧所碑」、清 厳観撰

古写真

20世紀初頃

20世紀初頃の玉泉鉄塔の古写真。スウェーデン国立世界文化博物館蔵、館蔵番号 0964.a.0718。撮影地は湖北当陽、撮影者は未詳。

1906—1909年

ドイツの建築学者エルンスト・ベルシュマン(Ernst Boerschmann)が1906年から1909年の中国調査期間に撮影した玉泉鉄塔。1931年に出版された『Die Baukunst und religiöse Kultur der Chinesen』第三巻第一部『Pagoden』に収録。原書の図注は塔を八角十三級、高さ約二十一メートル、1061年建立、塔刹は1835年に更新と記す。

1917年

アメリカ農務省の植物探検家フランク・N・マイヤー(Frank N. Meyer)が1917年4月12日に玉泉寺で撮影した庭園の牡丹。現在はアメリカ農務省国立農業図書館蔵、ネガ番号 13300。マイヤーはこの牡丹の樹齢が約五六十年で、約七十五輪の淡いバラ色の花を咲かせたと記している。

20世紀上半期

常盤大定・関野貞編著の『中国文化史蹟』第十輯には、玉泉山・玉泉寺および周辺の度門寺・大通寺の現地写真が収められている。

参考文献

  • 袁中道「『玉泉寺十方禅堂碑文』」、『珂雪斎集』巻十八。
  • 周天裕「玉泉見聞録」、『湖北文史』第七十三輯より転載。