概要
青蓮寺のある硤石山は丹河に近い。北斉の頃、この一帯にはすでに仏教道場があった。山に入る小道は二つの峰の間を抜け、「硤石」はもともとこの道の名であり、山寺もまたこれによって「硤石寺」[1]と呼ばれた。僧の慧遠[2]はのちに近くの丹谷に室を築いて経を講じ、学びに来る者が次第に増えた。伝えるところでは、彼は『涅槃経』の注疏を書き終えると筆を空中に投げたが、筆はなんと止まって落ちず、山上の石台はこれによって「擲筆台」の名を得た。唐の宝暦元年(825)、僧の紫羽が人を請うて台上に碑を刻し、この伝説を記した。
唐の大和二年(828)、山寺はすでに長く荒廃していた。僧の懐公[3]がここに来たが、もともとさらに嵩山へ赴き、『法華経』を修習する場所を探すつもりであった。沢州の太守は自ら山門に駆けつけて彼を引き留め、俸禄を差し出し、官僚らに資を助けるよう勧め、寺院の税役[4]を軽減した。郷里の二十八人の信者が結ばれて供養し、山上に僧院が建てられ、普賢道場[5]が開かれた。信者はそれぞれ『法華経』の一品を誦した。一二年後には大半の者が散ったが、なお六七人が寺院の冬・春二季の税と割賦を供給した。大和七年(833)に碑を立てた頃には、山上に新たに造られた閣と弥勒の画像があり、出資し経を誦した者の名も石碑に刻まれた。
唐の咸通八年(867)、朝廷は地方の奏請に応じ、山下の旧寺に「青蓮」の額を賜った。伝承では、この名は四周の山々が水より出た蓮花のごとき山容から採られたという[6]。北宋の太平興国三年(978)、沢州は青蓮寺への賜額を奏請し、朝廷は山上の院落に「福厳」[7]の名を賜り、新たな額を書き刻み懸けることを命じた。元祐四年(1089)、上院の釈迦殿はすでに建てられており、殿内の石柱にはこの年の施柱題記[8]が刻まれている。
崇寧年間に至り、寺院は年久しく修理を欠き、断片的な補修ではもはや維持できなくなっていた。住持の鑑巒はそこで東の山崖を鑿ち開き、西の溝澗を埋め、低き所を高く盛って、寺院の用地を拡げた。彼はここに仏殿[9]・法堂・蔵経閣・僧房を建てた。金の大定三年(1163)、鑑巒の建てた仏殿はまた破漏して壊れかけ、僧の福裕が資を募って再び構えた。恵珍はもと三間[10]の法堂を五間に拡げようとしたが、志を遂げないまま世を去った。のちに寂・定の二僧がこの工事を助け成し遂げた。
元統三年(1335)、蔵経閣の梁柱は腐朽し、屋架は傾いていた。住持の秀公は僧衆を集めて材を募り匠を請い、春から夏まで修繕した。梁を換えるにあたり、下方の木部材は互いに連なり、上には重い屋根が圧しかかっていた。もう一人の僧は自ら財を出し、七百に近い方匣を作らせ、五千余巻の仏経を匣に納めて、風雨と虫鼠に備えた。
康熙三十八年(1699)、上院は東廊を再建した。四十五年(1706)、また西廊の地蔵殿を再建した。山下の古青蓮寺は乾隆十一年(1746)に殿宇の傾圮・仏像の剥落に直面し、住持の円林は方々で資を募り、南・北の両殿を重修し、また殿中の旧像を補塑して描き直した。
1984年の連日の大雨で、上院は山体が渗漏して崩壊し、寺基が脅かされた。下院の傍らの丹河は増水して河岸が続けざまに崩れ、南殿の後壁まであと約二メートルしかなかった。文物部門は上院の排水を疎通し寺前の石堰を加固するとともに、下院の河辺に堤を築いて水を防いだ。1994年、地元の民衆は資金を集めて上院の法堂(後殿)を復建した。かつて三間から五間に拡げられたこの殿堂は、復建前には基址・残壁と六本の前檐石柱を残すのみであった。現在、山下の古青蓮寺には六尊の唐代彩塑が保存され、山上には北宋の釈迦殿と、幾度もの修繕を経た蔵経閣が残っている。
歴史文献
《続高僧伝》
释慧远,姓李氏,炖煌人也。后居上党之高都焉。天纵疏朗,仪止冲和,局度通简,崇履高邈。幼丧其父。与叔同居,偏蒙提诱,示以仁孝。年止三岁,心乐出家,每见沙门,爱重崇敬。七岁在学,功逾常百,神志峻爽,见称明智。十三辞叔,往泽州东山古贤谷寺。时有华阴沙门僧思禅师,见而度之。思练行高世,众所宗仰,语远云:“汝有出家之相,善自爱之。”初令诵经,随事训诲,六时之勤未劳呼策,登为虐暴不安。携以南诣怀州北山丹谷,每以经中大义,问师。皆是玄隐,深知长有成器也。年十六,师乃令随阇梨湛律师,往邺。大小经论普皆博涉,随听深隐,持蒙赏异。而偏重大乘,以为道本。年满进具,又依上统,为和上,顺都为阇梨,光师十大弟子并为证戒。时以为声荣之极者也。便就大隐律师,听四分律。流离请诲,五夏席端,淘简精粗,差分轨辙。灭诤揵度前后起纷,自古相传莫晓来意,远乃剖析约断,位以单重,原镜始终,判之即离。皆理会文合,今行诵之。末专师上统,緜笃七年。迥洞至理,爽拔微奥。负笈之徒相𬤎亘道,讲悟继接,不略三余,沐道成器,量非可筭。乃携诸学侣,返就高都之清化寺焉。众缘欢庆,叹所未闻,各出金帛,为之兴会。讲堂寺宇一时崇敞。韩魏士庶通共荣之。
釈慧遠は、姓は李氏、炖煌(敦煌)の人である。のちに上党の高都に居を定めた。天より疏朗を与えられ、儀止は冲和にして、局度は通簡、履み崇(たっと)ぶところは高邈であった。幼くして父を亡くし、叔父と同居して、偏(ひと)えに提誘を蒙り、仁孝を示された。年わずか三歳にして心に出家を楽しみ、沙門を見るたびに愛重崇敬した。七歳で学に入り、功は常の百倍を超え、神志は峻爽で、明智と称えられた。十三にして叔父に別れ、沢州東山の古賢谷寺に往いた。時に華陰の沙門・僧思禅師がおり、見てこれを度した。僧思は行を練ること世に高く、衆の宗仰するところであり、遠に語って曰く、「汝には出家の相あり。善く自ら愛せよ」と。初めは経を誦させ、事に随って訓誨したが、六時の精勤は呼び策するまでもなかった。まもなく〔その地で〕虐暴に遭い安からず、〔師は〕これを携えて南に懐州北山の丹谷に詣った。遠はつねに経中の大義をもって師に問うたが、みな玄隠なる〔問いで〕、〔師は〕その長じて器を成すことを深く知った。年十六にして、師は闍梨の湛律師に随って鄴に往かせた。大小の経論に普く博く渉り、聴くに随って深隠を〔会得し〕、持して賞異を蒙った。偏(ひと)えに大乗を重んじ、もって道の根本とした。年が満ちて具足戒を受け、また上統を依って和上とし、順都を闍梨とし、光師(慧光)の十大弟子が並んで証戒となった。時の人はこれを声栄の極みとした。ついで大隠律師に就いて四分律を聴いた。流離して誨を請い、五夏を席端に〔過ごし〕、精粗を淘簡し、軌辙を差分した。滅諍揵度は前後に紛争を起こし、古より相伝わるもその来意を暁る者はいなかったが、遠はこれを剖析して約断し、単重を位づけ、始終を原め鏡い、判じて即座に分かち離した。みな理に会し文に合い、今も行われ誦されている。末に専ら上統を師とし、緜々として篤きこと七年。至理を迥(はる)かに洞達し、微奥に爽やかに抜きん出た。笈を負う徒が道に相次ぎ連なり、講悟は継ぎ接ぎし、三余を略することなく、道に沐れて器を成す者は、その数は計り知れない。乃ち諸々の学侶を携え、高都の清化寺に帰り就いた。衆縁は歓喜し、未だ聞かざるを嘆じ、各々金帛を出して、このために法会を興した。講堂・寺宇は一時に高く開けた。韓・魏の士庶はともにこれを栄えとした。
及承光二年春,周氏克齐,便行废教,敕前修大德,并赴殿集。武帝自升高座,序废立义,命章云:“朕受天命,养育兆民,然世弘三教,其风弥远,考定至理,多皆愆化,并令废之。然其六经儒教文弘治术,礼义忠孝于世有宜,故须存立。且自真佛无像则在太虚,遥敬表心。佛经广叹,而有图塔崇丽,造之致福,此实无情。何能恩惠?愚民向信,倾竭珍财,广兴寺塔,既虚引费,不足以留。凡是经像尽皆废灭,父母恩重,沙门不敬,勃逆之甚,国法岂容?并退还家,用崇孝始。朕意如此。诸大德谓理何如?”于时,沙门大统法上等五百余人,咸以帝为王力,决谏难从,佥各默然。下敕频催答诏,而相看失色,都无答者。远顾以佛法之寄,四众是依,岂以杜言,情谓理伏?乃出众答曰:“陛下统临大域,得一居尊,随俗致词,宪章三教,诏云:真佛无像,信如诚旨。但耳目生灵,赖经闻佛,籍像表真。若使废之,无以兴敬。”帝曰:“虚空真佛,咸自知之,未假经像。”远曰:“汉明已前,经像未至此土,众生何故不知虚空真佛?”帝时无答。远曰:若不藉经教,自知有法,三皇已前,未有文字,人应自知五常等法。尔时,诸人何为但识其母,不识其父,同于禽狩?帝亦无答。远又曰:“若以形像无情,事之无福,故须废者,国家七庙之像,岂是有情,而妄相尊事?”武帝不答此难,乃云:“佛经外国之法,此国不须废,而不用。七庙上代所立,朕亦不以为是,将同废之。”远曰:“若以外国之经,非此用者,仲尼所说,出自鲁国,秦晋之地亦应废,而不行。又以七庙,为非将欲废者,则是不尊祖考。祖考不尊,则昭穆失序,昭穆失序,则五经无用。前存儒教,其义安在?若尔,则三教同废,将何治国?”帝曰:“鲁邦之与秦、晋,虽封域乃殊,莫非王者一化,故不类佛经。”七庙之难,帝无以通。远曰:“若以秦鲁同遵一化,经教通行者,震旦之与天竺,国界虽殊,莫不同在阎浮,四海之内,轮王一化,何不同遵佛经,而令独废?”帝又无答。远曰:“诏云退僧还家,崇孝养者,孔经亦云:立身行道,以显父母,即是孝行何必还家父母恩重交资色养,弃亲向疏,未成至孝。”远曰:“若如来言,陛下左右皆有二亲,何不放之,乃使长役五年,不见父母?”帝曰:“朕亦依番,上下得归侍奉。”远曰:“佛亦听僧,冬夏随缘修道,春秋归家侍养。故目连乞食饷母,如来担棺临葬,此理大通,未可独废。”帝又无答。远抗声曰:“陛下今恃王力,自在破灭三宝,是邪见人。阿鼻地狱不拣贵贱,陛下何得不怖?”帝勃然作色大怒,直视于远曰:“但令百姓得乐,朕亦不辞地狱诸苦。”远曰:“陛下以邪法化人,现种苦业,当共陛下,同趣阿鼻,何处有乐可得?”帝理屈言前,所图意盛,更无所答。但云:“僧等且还,后当更集。”有司录取论僧姓名。当斯时也,齐国初殄,周兵雷震,见远抗诏,莫不流汗。咸谓粉其身骨,煮以鼎镬,而远神气嵬然,辞色无挠。上统衍法师等执远手,泣而谢曰:“天子之威如龙火也,难以犯触,汝能穷之。大经所云,护法菩萨应当如是。彼不悛革,非汝咎也。”远云:“正理须申,岂惟顾此形命?”即辞诸德曰:“时运如此,圣不能遣,恨不奉侍目下,以为大恨,法实不灭,大德解之。愿不以忧恼。”遂潜于汲郡西山,勤道无倦,三年之间,诵法华、维摩等,各一千遍,用通遗法。
承光二年の春に及び、周氏は斉を克(か)ち、便(すなわ)ち廃教を行い、前修の大德に敕して、並んで殿に集まらしめた。武帝は自ら高座に升り、廃立の義を序べ、章を命じて云く、「朕は天命を受け、兆民を養育す。しかるに世は三教を弘め、その風はいよいよ遠く及ぶも、至理を考定するに、多くはみな化に愆(あやま)る。並びてこれを廃せしめん。ただその六経の儒教は文は治術を弘め、礼義忠孝は世に宜しきあり。ゆえに存立すべし。かつ真佛は像無きときは太虚に在り、遥かに敬いて心を表すべきのみ。仏経は広く歎ずれども、しかるに図塔を崇麗にし、これを造りて福を致すは、これ実に无情なり。何ぞ恩惠することを得んや。愚民は向信し、珍財を傾竭(かた)くし、広く寺塔を興す。すでに虚しく費を引く、留むるに足らず。およそ経像はことごとく廃滅すべし。父母の恩は重きに、沙門は敬わず、勃逆の甚だしきは、国法あに容れんや。並びて退けて家に還し、もって孝を崇ぶを始めとせん。朕の意はかくのごとし。諸大德は理をいかにと謂う」と。この時、沙門大統の法上ら五百余人は、みな帝は王力あるをもって、決し諫めても従われ難しとし、僉(みな)各々黙然とした。敕を下して頻りに答诏を催すれども、相い看て色を失い、答える者はいなかった。遠は顧みて、仏法の寄する所は四衆これに依る、あに言を杜(ふさ)がんや、情は理に伏すを謂う、と。乃ち衆より出でて答えて曰く、「陛下は大域を統臨し、一を得て尊に居り、俗に随いて辞を致し、三教を憲章す。诏に云く、真佛は像無し、誠に旨のごとし。ただ耳目の生灵は、経に頼りて仏を聞き、像に籍(よ)りて真を表す。もしこれを廃せしめば、敬を興すこと無からん」と。帝曰く、「虚空の真佛は、おのずからこれを知る、いまだ経像を仮らず」と。遠曰く、「漢明以前は、経像いまだこの土に至らず、衆生はなんの故にか虚空の真佛を知らざりし」と。帝時に答えなし。遠曰く、「もし経教に藉(よ)らずして自ら法有るを知らば、三皇以前、いまだ文字有らざりしに、人は応に自ら五常等の法を知るべし。あの時、諸人はなんぞただその母を識りてその父を識らず、禽獣に同じかりしや」と。帝もまた答えなし。遠また曰く、「もし形像は无情にして、これに事えて福無し、ゆえに廃すべしと以(おも)わば、国家の七廟の像は、あに是れ有情ならんや、しかして妄りに相い尊事するや」と。武帝はこの難に答えず、乃ち云く、「仏経は外国の法、この国は廃するを須(もち)いず、ただ用いざるのみ。七廟は上代の立つる所、朕もまた是を以て是とせず、将に同じくこれを廃せんとす」と。遠曰く、「もし外国の経は此の用に非ずと以わば、仲尼の説く所は、魯国より出づ、秦晋の地もまた応に廃して行われざるべし。また七廟を以て非として将に廃せんと欲せば、すなわちこれ祖考を尊ばざるなり。祖考を尊ばざれば、すなわち昭穆は序を失い、昭穆が序を失えば、すなわち五経は用无し。さきに儒教を存す、その義はいずくにか在らん。もし然らば、すなわち三教同じく廃し、将に何をもって国を治めん」と。帝曰く、「魯邦と秦・晋とは、封域は殊なりといえども、王者の一化に非ざるは莫し。ゆえに仏経に類せず」と。七廟の難には、帝もって通ずるなし。遠曰く、「もし秦・魯は同じく一化を遵い、経教は通行すと以わば、震旦と天竺とは、国界は殊なりといえども、同じく閻浮に在らざるは莫く、四海の内、輪王の一化なり。なんぞ同じく仏経を遵いして、独り廃せしめざる」と。帝また答えなし。遠曰く、「诏に云く、僧を退けて家に還し、孝養を崇ぶと。孔経にもまた云く、身を立て道を行い、もって父母を顕す、すなわち是れ孝行、何ぞ必ずしも家に還らん。父母の恩は重し、交わり資(たす)け色養す。親を棄てて疏に向かうは、いまだ至孝を成さず」と。遠曰く、「如来の言のごとくんば、陛下の左右はみな二親あり、なんぞこれを放たずして、乃ち長く五年役せしめ、父母を見ざらしむる」と。帝曰く、「朕もまた番に依り、上下は帰りて侍奉することを得」と。遠曰く、「仏もまた僧に聴(ゆる)し、冬夏は縁に随いて道を修し、春秋は家に帰りて侍養す。ゆえに目連は食を乞いて母に餉(おく)り、如来は棺を担ぎて葬に臨めり。この理は大通、いまだ独り廃すべからず」と。帝また答えなし。遠は声を抗げて曰く、「陛下いま王力を恃み、自在に三宝を破滅す、これ邪見の人なり。阿鼻地獄は貴賤を揀(えら)ばず、陛下なんぞ怖れざるを得んや」と。帝は勃然として色を作し大怒し、直に遠を視て曰く、「ただ百姓をして楽を得しめば、朕もまた地獄の諸苦を辞せず」と。遠曰く、「陛下は邪法をもって人を化し、現に苦業を種(う)う。当に陛下と共に、同じく阿鼻に趣(ゆ)かん。いずくの処にか楽の得るべき有らん」と。帝は理は言に屈し、図る所の意は盛んにして、さらに答うる所なし。ただ云く、「僧らは且(しばら)く還れ、後に当にさらに集まるべし」と。有司は論ずる僧の姓名を録取した。まさにこの時、斉国は初めて殄(ほろ)び、周兵は雷震す。遠の诏に抗するを見て、汗を流さざるは莫し。僉にその身骨を粉し、鼎鑊をもって煮られんと謂えども、しかるに遠の神気は嵬然として、辞色に撓みなし。上統の衍法師らは遠の手を執り、泣きて謝して曰く、「天子の威は龍火のごとし、犯触し難し、汝能くこれを窮めたり。大経の云う所、護法の菩薩は当にかくのごとくあるべし。彼の悛革(あらた)めざるは、汝の咎に非ず」と。遠云く、「正理は申ぶべし、あにただこの形命を顧みんや」と。即ち諸徳に辞して曰く、「時運かくのごとし、聖も遣(や)る能わず。恨むらくは目下に奉侍せざるを、もって大恨と為す。法は実に滅せず、大德これを解したまえ。願わくば憂悩を以てせざれ」と。遂に汲郡西山に潜み、道を勤めて倦まず、三年の間、法華・維摩等を誦すること、各々一千遍、もって遺法に通ず。
开皇五年,为泽州剌史千金公,请赴本乡,此则像法再弘,桑梓重集,亲疏含庆,何以加之?七年春,往定州,途由上党,留连夏讲,遂阙东传。寻下玺书,殷勤重请,辞又不免,便达西京。于时,敕召大德六人,远其一矣。仍与常随学士二百余人,创达帝室。亲临御筵,敷述圣化,通孚家国。上大悦,敕住兴善,劳问丰华,供事隆倍。又以兴善,盛集法会是繁。虽有扬化,终为事约,乃选天门之南大街之右,东西冲要,游听不疲,因置寺焉。名为净影,常居讲说,弘叙玄奥,辩畅奔流,吐纳自深,宣谈曲尽。于是四方投学,七百余人,皆海内英华。法轮前辙,望京趣寺,为法道场。但以堂宇未成,同居空露,蘧蒢庵舍。巷分州部,日夜祖习,成器相寻。虽复兴善,诸德英名一期,至于归学,师寻千里继接者,莫高于远矣。形长八尺,腰有九围,十三幅裙可为常服。登座震吼,雷动蛰惊,充惬群望,斯为盛矣。开皇十二年春,下敕令知翻译,刊定辞义,其年卒于静影寺,春秋七十矣。冕旒哀感,为之罢朝。帝呼嗟曰:国失二宝也。时,远与李德林,同月而丧,故动帝心。
開皇五年、沢州剌史の千金公のために、本郷に赴くことを請われた。これすなわち像法の再び弘まり、桑梓に重ねて集まり、親疎ともに慶を含む、何をもってこれに加えんや。七年春、定州に往き、途は上党に由り、留連して夏講し、遂に東伝を闕(か)いた。尋(つ)いで玺書を下し、殷勤に重ねて請う。辞すれどもまた免れず、便ち西京に達した。于(こ)の時、敕して大德六人を召す、遠はその一人である。仍(よ)って常随の学士二百余人とともに、初めて帝室に達した。親しく御筵に臨み、聖化を敷述し、家国に通孚した。上は大いに悦び、敕して興善に住せしめ、労問は豊華にして、供事は隆倍であった。また興善を以てすれば、法会を盛んに集めることは繁し。化を揚ぐるありといえども、終に事に約(か)らる。乃ち天門の南、大街の右を選び、東西の冲要にして、遊聴するに疲れず、因りて寺をここに置いた。名づけて浄影と曰う。常に居りて講説し、玄奥を弘叙し、弁は暢びて奔流のごとく、吐納はおのずから深く、宣談は曲尽す。ここにおいて四方より学に投ずる者、七百余人、みな海内の英華である。法輪の前辙、京を望京して寺に趣き、法の道場と為す。ただ堂宇いまだ成らず、同じく空露に居り、蘧蒢の庵舎たるを以てす。巷は州部に分かれ、日夜祖習し、器を成すこと相い尋ねた。興善に復(ま)たすといえども、諸徳の英名は一期を極め、帰学の師に至っては、千里を尋ねて継接する者、遠より高きは莫し。形は長さ八尺、腰は九囲あり、十三幅の裙をもって常服と為す。座に登りて震吼すれば、雷動き蟄は驚く。群望に充愜し、これをもって盛んと為す。開皇十二年春、敕を下して翻訳を知らしめ、辞義を刊定せしむ。その年、静影寺に卒す、春秋七十である。冕旒(天子)は哀感し、これがために朝を罷めた。帝は呼嗟して曰く、国は二宝を失えり、と。時に、遠は李徳林と同じ月に喪われた。ゆえに帝の心を動かした。
《硤石寺大隋慧遠法師遺跡記》
硖石岩岩,灵气膺侯,千载之口,不囗详其志。自北齐周堕,物接耳目,远公之居,以成其道。既修涅盘藏,疏,绝笔石巅,掷上太虚,得以明真契,示其同。法师称号惠远,生炖煌李氏之族,家数世居霍秀里,本宅犹存旧𡐝与硖石西北连岗甸附前晋,有匡山慧远,南朝时论所宗,四百余年。至法师占泽州,远当周氏,经齐并除塔庙,异人大集,独抗震霆,实文之下,正辞无屈,面折武帝,以阿鼻地狱,不论贵贱,向非幽证,其能及此。竟隐汲郡西山。大隋受命,出诣上京,文帝始引昙延为大师,诏公掌校译经,行僧中统理。耀临一时,表仪八尺,立众清庄。开皇十二年,没于京净影寺,是曰辍朝,帝曰:丧吾国宝矣。验掷笔故处,丹流中贯,危石最峭,后之人实目曰掷笔台。邑里时朝礼之,想在容声。有唐宝历元年夏四月,传学沙门紫羽,请刻石台上,河东薛重元刊录。故志云。
硤石は岩岩として、霊気は膺(まさ)に侯たり。千載の□、詳らかにその志を囗(うが)たざるなり。北斉より周の堕(ほろ)ぶるに自(よ)り、物は耳目に接し、遠公の居は、もってその道を成せり。すでに涅槃蔵を修め、疏し、石の巅に筆を絶ち、太虚に擲(な)げ上げ、もって明らかに真契を得、その同じきを示す。法師の称号は恵遠と曰い、炖煌李氏の族に生まる。家は数世、霍秀里に居り、本宅はなお旧𡐝(きょ)を存し、硤石の西北、連なる岡甸に附す。前の晋に匡山の慧遠あり、南朝の時、論の宗とする所なり。四百余年を経て、法師は沢州に占(わ)ち居る。遠は周氏に当たり、斉を経て並びて塔廟を除かんとするに、異人は大いに集まるも、独り震霆に抗し、実文の下に、正辞は屈せず。武帝に面して折れ、阿鼻地獄を以てし、貴賤を論ぜず。嚮(さき)に幽証に非ざれば、あに能くこれに及ばんや。竟(つい)に汲郡西山に隠る。大隋は命を受け、〔遠は〕出でて上京に詣る。文帝は始めて曇延を引きて大師と為し、公に诏して校訳の経を掌らしめ、僧中に行じて統理せしむ。耀臨すること一時、表儀は八尺、衆に立ちて清荘なり。開皇十二年、京の浄影寺に没す。是に曰く朝を輟(とど)むと。帝曰く、吾が国宝を喪(うしな)えり、と。筆を擲つる故処を験(しら)ぶに、丹流は中を貫き、危石は最も峭(けわ)し。後の人は実に目して曰く擲筆台と。邑里は時にこれを朝礼し、容声を想い在(おも)す。有唐の宝暦元年夏四月、伝学の沙門紫羽、請うて石を台上に刻し、河東の薛重元が刊録す。故に志して云く。
慧远法师遗迹记:宝历元年四月,今在凤台县东南三十五里藏阴寺后。凤台县志:沙门紫羽刻石。记称慧远为泽州霍秀里人,俗本炖煌李氏,故居尚存,与晋慧远同名,相距四百余年,别为一人。周武欲废寺塔,抗辞折服,入隋,文帝命公参校经义,卒,深悼惜之。考太和释紫羽碑,以慧为惠,与此不同。其云宝历元年,则敬宗乙巳也。
慧遠法師遺跡記:宝暦元年四月。今、鳳台県の東南三十五里、蔵陰寺の後に在り。『鳳台県志』に、沙門紫羽が石を刻す、と。記は慧遠を沢州霍秀里の人と称し、俗はもと炖煌李氏、故居はなお存し、晋の慧遠と同名にして、相距ること四百余年、別に一人を為す。周武は寺塔を廃せんと欲し、〔遠は〕辞を抗して折服し、隋に入り、文帝は公に命じて経義に参校せしめ、卒するに、深く悼惜せり。考するに、太和〔七年〕の釈紫羽碑は、慧を以て恵と為し、これと同じからず。その宝暦元年と云うは、すなわち敬宗の乙巳なり。
《福岩禅院読法華経姓名記》
郡城东南三十余里,丹流湾曲,山罨翠屏,云霞生双髻之峰,碧霞吐香炉之石,谷深景邃,地近出幽。藏阴南连礼浮,北接硖石之名,本非寺号,径通人行,时共称焉。初有昙始禅师,大齐起义之首,奏藏阴寺讲涅盘经,感野雉来听,藏神遗绢,猕猴奉果,山神献飧,时之异人乎,其难识矣。周朝有惠远法师,即晋城霍秀人也。制涅盘疏,掷笔升空,精义入神,以验其旨,名振古仐,号掷笔台,巳现存焉。近专代宗之运神墨禅师,唐之贵叶,学究典坟,善闲庄老,舍荣慕逍,晦迹亡名。藏阴,宴坐林薮,行节孤迅,人难可俦。贞元之时,有智通法师,近朝供奉,聪惠天假其灵,善谈涅盘真口,制六波罗密疏,流于世也。令有惠愔禅师,业善儒门,博通子三史,高道不事,弃笔从缁,究禅理而真心自闲,习心观,定惠双运,居无定所,云林是家。远寻灵迹,来届此山。时有智岑切善讲天台教门,深远妙源,精义尤博,誓为佛使,行化人间,来亦于此。知山灵秀,景胜处幽,名僧继踵。其时怀公至此,欲过嵩岳,志求法华道场之处。土地时运,宿缘所追,乃感文邦伯邀留,及有清信长老,结邑请住去。太和二年,上方创造侩院,兼置普贤道场。为山寺荒废岁久,杜绝人来,道者难居,盖为差税。时太守王公,以善理人,慈爱育物,敬崇三宝,荷护伽蓝,自至山门,殷懃留请,兼舍禄粟,及劝官僚资助弁,咸降差科。时有清信之士,以议助济差科,时有廿八。人囗经囗年间,人即沦散,出邑今有六七人,同为竭力崇供,山寺科四,并造阁一所,兼素画弥勒,兼诸方信施者,并邑外持念经人,具历此石。法华之应,事亦具载矣。邑人司徒映等,宿植深厚,菩提种成,法雨润根,善四开发,又能晦迹藏名,隐遁州城縓肆,和光混俗,乐道安贫,共结良缘,同修福利,心贞志固,刻石记文,感集陈情,命余题述。
郡城の東南三十余里、丹流は湾曲し、山は翠屏を罨(おお)い、雲霞は双髻の峰に生じ、碧霞は香炉の石に吐く。谷は深く景は邃(ふか)く、地は近きに出でて幽なり。蔵陰は南に礼浮に連なり、北は硤石に接す。硤石の名は、もと寺号に非ず、径は人行に通ずるを以て、時に共に称す。初めに曇始禅師あり、大斉の起義の首たり。蔵陰寺に奏して涅槃経を講ぜしめ、野雉の来たり聴くに感じ、蔵神は絹を遺(おく)り、獼猴は果を奉り、山神は飧(ひる)を献ず。時の異人か、その識り難きかな。周朝に恵遠法師あり、すなわち晋城の霍秀の人なり。涅槃の疏を制し、筆を擲ちて空に升る。精義は神に入り、もってその旨を験す。名は古仐(こん)に振い、号けて擲筆台と曰う。巳(もう)に現に存す。近くは専ら代宗の運、神墨禅師、唐の貴葉なり。学は典墳を究め、善く荘老に闲(た)け、栄を舎て逍に慕い、跡を晦(くら)まし名を亡ぶ。蔵陰に、宴坐すること林藪、行節は孤迅、人は俦(なら)ぶ可からず。貞元の時、智通法師あり、近く朝の供奉たり。聡恵は天その霊を假(か)し、善く涅槃の真□を談じ、六波羅密の疏を制し、世に流る。令に恵愔禅師あり、業は儒門に善く、博く子・三史に通ず。高道は事(つか)えず、筆を棄てて緇(し)に従う。禅理を究めて真心は自ずから閑に、心観を習い、定慧は双運す。居は定所無く、雲林これ家なり。遠く霊跡を尋ね、来たりてこの山に届(いた)る。時に智岑あり、切に天台の教門を講ずるに善く、深遠なる妙源、精義は尤も博し。誓いて仏使と為り、行化すること人間、来たるもまた此にあり。山の霊秀、景の勝れて幽に処るを知り、名僧は踵を継ぐ。其の時、懐公此に至る。嵩岳を過ぎんと欲し、志は法華の道場の処を求む。土地の時運、宿縁の追う所、乃ち文邦伯の邀留に感じ、および清信の長老あり、邑を結びて住を請い去る。太和二年、上方に侩院(僧院)を創造し、兼ねて普賢道場を置く。山寺の荒廃すること歳久しく、人来を杜絶し、道者は居り難し、けだし差税の為なり。時に太守王公、善く人を理め、慈愛は物を育み、三宝を敬崇し、伽藍を荷護す。自ら山門に至り、殷懃に留請し、兼ねて禄粟を舎(施)し、および官僚を勧めて資を助け弁(てさば)きせしめ、咸く差科を降(へら)す。時に清信の士あり、以て差科を助け済わんことを議す。時に廿八人なり。□年間を経るに、人は即ち淪散し、邑に出づるは今六七人有り、同じく力を竭くして崇供す。山寺は科を四にし、並びて閣一所を造り、兼ねて素画の弥勒、兼ねて諸方の信施する者、並びに邑外の経を持念する人、具にこの石に歴す。法華の応、事もまた具に載す。邑人の司徒映ら、宿植は深厚、菩提の種は成り、法雨は根を潤し、善きは四に開発す。また能く跡を晦し名を蔵し、州城の縓肆(せんし)に隠遁し、光を和し俗を混え、道を楽しみ貧に安んじ、共に良縁を結び、同じく福利を修す。心は貞に志は固く、石を刻み文を記し、感集して情を陳べ、余に命じて題述せしむ。
硖石寺造上方阁记右硖石寺造上方阁记在凤台县访碑录作青蓪寺碑太平寰宇记硖石山在晋城县东南三十里上有青莲寺西有掷笔台即远大师置涅盘疏藏之所与记所言合
硤石寺造上方閣記 右、硤石寺造上方閣記は鳳台県に在り。訪碑録には青蓪寺碑と作す。『太平寰宇記』に、硤石山は晋城県の東南三十里に在り、上に青蓮寺あり、西に擲筆台あり。即ち遠大師が涅槃疏を置き蔵せる所。記の言う所と合す。
《青蓮寺山田石碣記》
唐青莲寺山田石碣记,无撰人姓氏,后列张靖境书记两。泽州东南三十里,敕号青莲寺。北齐初,禅师口奏,藏阴所管三庄田地二十余顷,轮税若干。至太和九年,僧惠愔说郡主王中丞,减税若干亩,会昌三年,沙汰若干亩。又咸通八年,孟员外闻奏请敕赐青莲为额,剖地若干亩。考太和九年,文宗乙卯,会昌三年武宗癸亥,咸通八年懿宗丁亥。所谓郡守王中丞、孟员外闻,府州志俱失载。
唐青蓮寺山田石碣記。撰人の姓氏無く、後に張靖・境書・記両(りょう)を列す。沢州の東南三十里、敕号は青蓮寺。北斉の初、禅師□奏す。蔵陰の管するところの三荘の田地二十余頃、輪税若干。太和九年に至り、僧の恵愔は郡主王中丞を説き、税を減ずること若干畝。会昌三年、沙汰すること若干畝。また咸通八年、孟員外聞が奏請して敕して青蓮を額に賜り、地を剖くこと若干畝。考するに、太和九年は文宗の乙卯、会昌三年は武宗の癸亥、咸通八年は懿宗の丁亥。いわゆる郡守王中丞・孟員外聞は、府州志ともに載せるを失う。
《太平興国三年賜額牒》
宋太平兴国二牒石刻:一在松岭寺,牒额法轮;一在曰莲寺,牒额福岩。前俱列中书门下泽州奏准行,所管存留有无名额僧尼寺院廿三十二所。灵严院宜赐法轮,青莲寺宜赐福岩为额。敕命指挥书勒悬挂,准敕,故牒。太平兴国三年五月二十曰,牒中书门下平章事、右仆射羕门下侍叩平章事、右仆射兼门下侍郎、平章事、录事参军胡推官王、大理寺丞、权知军州事韦刺史齐。按牒文与真宗景德时稍异,州官不传其名,中书门下官亦不书姓与花押,或宋初体制使然。考太平兴国三年,太宗戊寅,所谓中书平章者卢名逊,右仆射为沈伦,左仆射则薛居正也。
宋太平興国二牒石刻:一つは松嶺寺に在り、牒額は法輪。一つは曰蓮寺に在り、牒額は福岩。前に俱に列ねて、中書門下・沢州が奏准行する所、管するところ存留する名額有無の僧尼寺院廿三十二所。霊厳院は宜しく法輪を賜り、青蓮寺は宜しく福岩を賜りて額と為すべし。敕命して書勒懸掛を指揮し、敕に准ず、故に牒す。太平興国三年五月二十日、牒す。中書門下平章事・右仆射羕、門下侍叩平章事・右仆射兼門下侍郎・平章事・録事参軍胡、推官王、大理寺丞・権知軍州事韋刺史斉。按するに、牒文は真宗の景德の時と稍や異なり、州官はその名を伝えず、中書門下の官もまた姓と花押を書さず。あるいは宋初の体制の然らしむるか。考するに、太平興国三年は太宗の戊寅。いわゆる中書平章は盧名遜、右仆射は沈倫、左仆射は則ち薛居正なり。
《青蓮寺石柱題名》
青莲寺石柱题名记元符三年,今在凤台县。凤台县志从后逆书元符戊寅十月十四日,高平郡别乘河南段绍同晋城令耿敏、尉黄叔敖,因按田,自琵琶浤至青莲寺,登掷笔台,步月临流,传觞赋诗。明日去,宿景德寺。考宋无高平郡,盖泽州而书古郡也。又记崇宁元年。凤台县志前书石柱一,永为供养。熙宁九年至崇宁元年二月初九日,不书施主姓名。考熙宁九年为神宗丙辰,崇宁元年为徽宗壬午,石柱非一时所施,或至徽宗时始告竣。又记宣和七年。凤台县志从后逆书陈子镇、子庚、贾山王越胡。考宁祥、宗清以宣和七年十月十四日同游,道逢上人启元不期而会,游人俱不可考。宣和七年徽宗乙巳,金兵围太原,明年为钦宗靖康元年,金兵犯泽州、高平。当此时登临山水,真所谓燕雀处堂,不知大厦之将倾也。
青蓮寺石柱題名記 元符三年。今、鳳台県に在り。『鳳台県志』は後より逆書す。元符戊寅十月十四日、高平郡別乗・河南の段紹は、晋城令の耿敏・尉の黄叔敖と同じく、田を按するに因り、琵琶浤より青蓮寺に至り、擲筆台に登り、月を歩み流れに臨み、觴を伝え詩を賦す。明日去り、景德寺に宿す。考するに、宋に高平郡無し。けだし沢州にして古郡を書せるなり。また崇寧元年を記す。『鳳台県志』は前に書して曰く、石柱一、永く供養と為す。熙寧九年より崇寧元年二月初九日に至り、施主の姓名を書さず。考するに、熙寧九年は神宗の丙辰、崇寧元年は徽宗の壬午。石柱は一時の施に非ず、あるいは徽宗の時に至りて始めて竣を告げしか。また宣和七年を記す。『鳳台県志』は後より逆書して曰く、陳子鎮・子庚、賈山、王越、胡。考するに、寧祥・宗清は宣和七年十月十四日に同游し、道に上人の啓元に逢い、期せずして会す。游人は俱に考うべからず。宣和七年は徽宗の乙巳、金兵は太原を囲み、明年は欽宗の靖康元年、金兵は沢州・高平を犯す。まさにこの時に山水に登臨す。真にいわゆる燕雀は堂に処り、大厦の将に傾かんとするを知らざるなり。
青莲寺石柱题名记:承安五年,今在凤台县。凤台县志:河间许道真古笔也。记称承安二年闰二月十六日,同张君玉、吴寿夫来游,遂与寂公无二登凤凰。山周览青莲之胜,钧幕河间许古题。考古父安仁,以明昌五六年出守泽州,古于明昌五年登词赋进士第,承安间,正安仁节度汾阳时也。考古本传,宣宗贞祐初,自右拾遗拜监察御史,距登第时已十九年,或此时随侍父任,否则作此郡幕职。记中称张君玉、吴寿夫、僧寂公,大抵为进士。张天祐、吴芝、宝寂和尚,皆其父所与游者。记又称登凤皇山,安仁诗亦云:卧看月落凤皇山。山名不可考。据寺僧云,即青莲寺山,以山形名青莲寺。
青蓮寺石柱題名記:承安五年。今、鳳台県に在り。『鳳台県志』に、河間許道真(許古)の筆なり。記に称して曰く、承安二年閏二月十六日、張君玉・呉寿夫と同じく来游し、遂に寂公と二つ無く鳳凰に登る。山を周覧して青蓮の勝を覧る。鈞幕・河間の許古題す。考するに、許古の父安仁は、明昌五六年を以て出でて沢州を守り、許古は明昌五年に詞賦の進士第に登り、承安の間は、正に安仁の汾陽を節度する時なり。許古の本伝を考するに、宣宗の貞祐の初、右拾遺より監察御史を拝す。第に登りし時より距ること已に十九年。あるいはこの時、父の任に随侍し、否らずんばこの郡の幕職と為れりしか。記中に称する張君玉・呉寿夫・僧の寂公は、大抵進士と為す。張天祐・呉芝・宝寂和尚は、みなその父の与(とも)に游ぶ所なり。記はまた鳳皇山に登ると称す。安仁の詩もまた云く、臥して月の鳳皇山に落つるを看る、と。山名は考うべからず。寺僧の云うに拠れば、即ち青蓮寺山、山の形を以て青蓮寺を名づく。
《福厳浄影山場記》
福严净影山场记县福严净影山场之记将仕郎详定一司敕令薮删定官杨之道述书刊字王信𡶾大宋崇宁四年岁次及酉三月一日因下院净影寺斋会有住持福润预日赴上寺请峦禅师说法师曰余自住院来未暇至彼今必赴焉师忻然而往到彼升座演法开示会毕游看祖师遗迹四顾峰峦秀丽嵯峨陡峻师乃叹曰真圣贤依栖之地也又见古碑曝落上有山场四至隐隐而吕乃大隙开皇七季昙馥禅师之所立也遂鎤之迥还时本寺营造殿阁斋厨一新功毕命匠砻石以俟口口纪其岁月遂请宣德郎知蓝田县事黄公为文命予记其三寺山场予辞不己遂摭峦禅师之说勒之碑阴略为其记一福严禅院山场四至东至马鞍岮南北随山势为界南至珏山顶西南至风门岭东西随山势为界西至高家岭棘针林南北随曲尺地形为界北至交河水心西北至柳泉南分水岭东西随河岭为界一净影寺山场四至东至箭豁子东南至孔杨坂南北随山势为界南至大回沟西南至梯岩山东西随水心为界西至大河南北随河势水心为界北至耍子崜东西随山势为界一南关观音堂四至东至庙南至街西至濠北至濠为界崇宁四年七月日住持沙门鉴峦净影寺住持沙门福润同立此福严净影二寺山场记在凤觉县东南九十里蟠龙山崇宁乙酉三月一日青莲寺僧鉴峦赴净影开座说法毕因访昙法师遗迹清查山场立石峦祎师即鉴峦寺又有政和六年峦公塔铭即其人也记云本寺营造殿阁斋厨请宣德郎知蓝田县事黄灿为文命子记三寺山场勒之碑阴是此碑有碑阳而未拓或转砌墙内亦未可知三寺者福严寺净影寺观音堂额署福严净影山场记二寺有山场观音堂在南关无山场也金石记载净影寺山场碑落福严二字又云令所官王之道书桉碑详定一司敕令所删定官不得称所官又姓杨非王金石记误
福厳浄影山場記 県の福厳浄影山場之記。将仕郎・詳定一司敕令藪(そう)删定官の楊之道述書。刊字は王信𡶾。大宋崇寧四年歳次及酉三月一日、下院浄影寺の斎会に因り、住持の福潤ありて、日を預(あらかじ)めて上寺に赴き、巒禅師に説法を請う。師曰く、余は住院より来りて、いまだ彼に至る暇あらず。今必ず赴かん、と。師は忻(よろこ)びとして往く。彼に到り、座に升りて法を演べ開示す。会畢(おわ)り、祖師の遺跡を游看す。四顧すれば峰巒は秀麗にして、嵯峨陡峻たり。師乃ち嘆じて曰く、真に聖賢の依栖の地なり、と。また古碑の曝落するを見る。上に山場の四至あり、隠隠として吕(ともがき)なり。乃ち大隙、開皇七季、曇馥禅師の立つる所なり。遂にこれを鎤(ひか)り迥(かえ)りて還る。時に本寺は殿閣・斎厨を営造して一新す。功畢り、匠に命じて石を砻(と)がせ、もって□□その歳月を紀るを俟つ。遂に宣徳郎・知藍田県事の黄公を請いて文を為さしめ、予に命じてその三寺の山場を記さしむ。予辞すれども已まず。遂に巒禅師の説を摭(ひろ)い、碑陰に勒し、略してその記を為す。一、福厳禅院の山場四至:東は馬鞍岮に至り、南北は山勢に随いて界と為す。南は珏山頂に至り、西南は風門嶺に至り、東西は山勢に随いて界と為す。西は高家嶺棘針林に至り、南北は曲尺の地形に随いて界と為す。北は交河の水心に至り、西北は柳泉南の分水嶺に至り、東西は河嶺に随いて界と為す。一、浄影寺の山場四至:東は箭豁子に至り、東南は孔楊坂に至り、南北は山勢に随いて界と為す。南は大回溝に至り、西南は梯岩山に至り、東西は水心に随いて界と為す。西は大河に至り、南北は河勢・水心に随いて界と為す。北は耍子崜に至り、東西は山勢に随いて界と為す。一、南関観音堂の四至:東は廟に至り、南は街に至り、西は濠に至り、北は濠に至りて界と為す。崇寧四年七月日、住持沙門鑑巒・浄影寺住持沙門福潤、同立。〔胡聘之の桉に〕此の福厳浄影二寺山場記は、鳳覚県の東南九十里蟠龍山に在り。崇寧乙酉三月一日、青蓮寺僧の鑑巒は浄影に赴き座を開きて説法す。畢り、因りて曇法師の遺跡を訪い、山場を清查して石を立つ。巒禕師は即ち鑑巒、寺にはまた政和六年の巒公塔銘あり、即ちその人なり。記に云く、本寺は殿閣・斎厨を営造し、宣徳郎・知藍田県事の黄燦を請いて文を為し、子に命じて三寺の山場を記し、碑陰に勒す、と。是れこの碑は碑陽有りて未だ拓せず、あるいは転じて牆内に砌(みぎ)るもまた未だ知るべからず。三寺とは福厳寺・浄影寺・観音堂。額に署して福厳浄影山場記と曰う。二寺には山場あり、観音堂は南関に在りて山場無し。金石記は浄影寺山場碑に載せて福厳の二字を落とす。また云く、令所官の王之道書す、と。桉ずるに、碑は詳定一司敕令所の删定官にして、所官と称すべからず。また姓は楊にして王に非ず。金石記は誤れり。
《硤石山福厳禅院鐘識》
硖石山福严禅院,始自北齐天保年中,昙始禅师创立道场,距大金大定之岁,年将六百,中间高僧硕德,相继兴葺。朱甍绀宇,像设𦈑诰,罔不具备,唯无法钟,警悟情识。今有论师惠玠,特发济苦利生之意,不惮劳苦,命良工鏄成,以补寺之不足,诚可嘉尚。占贤谷禅林院讲论僧闻悟,为之铭曰:寺唯欠钟兮,铸金以成。绝壁深林兮,铮然奏声。大千普闻兮贤圣聚灵。铿𮣳长应兮,𣇦破无明。三𭏚远震兮,苦轮便停。菩提种性兮,聆音发萌。以兹功德兮,利乐有情,天子万寿兮,国人永宁。大定三年岁次癸未十一月甲子二十七日甲寅,记。
硤石山福厳禅院は、始めは北斉の天保年中より、曇始禅師が道場を創立す。大金大定の歳に距ること、年将に六百ならんとす。中間、高僧碩徳は相継いで興葺す。朱甍・紺宇、像設・𦈑誥、具備せざるは罔し。ただ法鍾無くして、情識を警悟せず。今、論師の恵玠ありて、特に済苦利生の意を発し、労苦を憚らず、良工に命じて鏄(たが)ね成し、もって寺の不足を補う。誠に嘉尚すべし。占賢谷禅林院の講論僧・聞悟、これが銘を為して曰く:寺はただ鍾を欠く兮(や)、金を鋳て以て成す。絶壁・深林兮、铮然として声を奏す。大千に普く聞ゆ兮、賢聖は霊を聚む。鏗𮣳(こうこう)として長く応ず兮、𣇦(あか)らかに無明を破る。三𭏚(さい)は遠く震う兮、苦輪は便(すなわ)ち停まる。菩提の種性兮、音を聆きて萌を発す。兹の功徳を以て兮、有情を利楽し、天子は万寿兮、国人は永寧ならん。大定三年歳次癸未十一月甲子二十七日甲寅、記す。
此福严院钟铭,僧闻悟撰铭铭止二面,余皆人名。序云:自北齐天保中,昙始禅师建立道场,距大金大定之岁,年将六百桉昙始,北齐高僧寺所由始,拓本完善无阙。通志金石记云:有阙,想拓工未精耳。
此の福厳院鍾銘は、僧の聞悟が銘を撰す。銘は二面に止まり、余はみな人名。序に云く、北斉天保中より自り、曇始禅師が道場を建立す。大金大定の歳に距ること、年将に六百ならんとす、と。桉ずるに、曇始は北斉の高僧にして、寺の由って始まる所。拓本は完善にして闕無し。通志金石記に云く、闕有り、と。想うに拓工の未だ精ならざるのみ。
《福厳院重修仏殿記》
硖石道场,其来尚矣。爰自唐大顺中,有法师玄依,誓就远公掷笔台下,筑室栖息,其徒相继兴造。至宗崇宁閒,得大师鉴峦修新易陋,方见完备。今僧福裕复顾峦所创殿疏漏欲坏,乃于皇朝大定三祀,募缘重构,辉华壮丽,照映山林,宜立碑石,以传后裔。裕来古贤谷,恳请法亲闻悟,述其所以,系以辞曰:猗欤远公,僧中之龙。法嗣蕃衍,世世有功。乃至福裕,能继高风。重新宝殿,巧极良工。金碧光耀,人天顺恭。砻石镌记,昭示无穷。大金大定四年九月二十五日,修造主持院事僧福裕立。
硤石の道場、その来ること尚(ひさ)し。爰(ここ)に唐の大順中より自(よ)り、法師の玄依ありて、遠公の擲筆台下に就き、室を築きて栖息せんことを誓う。その徒は相継いで興造す。宗(ほん)崇寧の閒に至り、大師鑑巒を得て新に修め陋を易え、方(まさ)に完備を見る。今、僧の福裕、復た顧みて巒の創る所の殿は疏漏して壊れんと欲すを、乃ち皇朝大定の三祀に、縁を募りて重ねて構う。輝華壮麗、山林に照映す。宜しく碑石を立て、以て後裔に伝うべし。裕、古賢谷に来たり、懇に法親の聞悟を請うて、その所以を述べ、辞を以て系(つな)げて曰く:猗欤(いい)かな遠公、僧中の龍。法嗣は蕃衍、世世功あり。乃至福裕、能く高風を継ぐ。宝殿を重新し、巧は良工を極む。金碧は光耀し、人天は順恭す。石を砻き記を镌(え)りて、昭示すること無窮ならん。大金大定四年九月二十五日、修造・主持院事の僧福裕立つ。
此记福裕重修佛殿而作。掷笔台。一统志:青莲寺在凤台县东南三十五里峡石山。北齐时建掷笔台。隋长教译经法僧慧远居此,注涅盘经,注成,掷笔台上,曰:若疏义契理,笔当驻空。既掷,果悬空不堕,时人因以名台。宋名福严寺,后改今额。金时想仍旧名也。金石记未著录。
此の記は福裕が仏殿を重修するに作る。擲筆台。『一統志』に、青蓮寺は鳳台県の東南三十五里、峡石山に在り。北斉の時、擲筆台を建つ。隋の長教・訳経の法僧慧遠は此に居り、涅槃経を注す。注成りて、擲筆台上に曰く、若し疏義理に契わば、筆は当に空に驻(とどま)るべし、と。既に擲ちて、果たして空に懸りて堕ちず。時人因りて以て台を名づく。宋は福厳寺と名づけ、後に今の額に改む。金の時は想うに仍(な)お旧名なりしならん。金石記は未だ著録せず。
《沢州硤石山福厳禅院記》
硖石山福严院碑大金泽州硖石山福严禅院记,奉政大夫、中都、西京等路按察副使郭候篆额。奉政大夫、泽州刺史兼军州事杨庭秀撰,并书。泽之硖石山青莲寺,河东之胜槩也。余为儿童时,闻之熟矣。盖华之与泽相去不远故也。太和壬戌冬暮,余由右司谏补河閒之献。乙丑夏五月,自献移泽,私心喜曰:泽佳郡也。又与余乡近,向之所闻青莲寺者,余得而游焉。泽之俗俭而淳,熹儒学,比他州为易治。不逾月,事理讼息。孟秋中休日,余骑至硖口,山,主僧宝贤逆之。硖路险而下,舍骑而步,峰峦回合,穷而复通,杖筇转侧于乱石之间,路益狭,山益奇,行三里许,双峰归然若门。山之阴有二古篆字曰硖石。余谓宝贤曰:此硖石山乎?贤闻先师珍唯识言硖石山,盖取两山夹路之义也。山阴之刻,不知某氏,实好事者为之。硖石乃此山之总称也。峰之北有嵌岩,岩下有池,深丈余,广倍之。岩之奥有罅,高深不能测。夏秋暴雨,罅中若雷鸣状,须臾池水满,寺僧饮食之费,岁伸给焉。峰之西南,孤峰挺然,高数丈,峰顶平若砥,纵广十余尺,此远公掷笔台也。台之西八十步有涧曰弥勒,盖往时弥勒化现其上。台之北,石壁峭拔,如环堵然。壁之上乱峰向背,草树丛翠。南望珏山,下瞰丹水,屏障横列,水墨粲然,即青莲上方也。刘轲谓似庐山黄石岩者,此也。台之南曲折行二百步,古青莲寺,寺额咸通八年所赐也。寺之东五里古藏阴寺,即北齐昙始禅师之所建也。祖师慧远,器识弘伟,风神爽澈。昙始见而度之,曰:子有出家之相,善自爱之。乃礼为师。既冠,游学邺都,回翔十余年,慱涉经论,无不该贯。乃携学侣,卜藏阴寺之西丹谷,筑室而居焉。弘演大乘教,朝夕不倦,远近归依,于是建大阿兰若,即青莲寺之权舆也。承光二年,周武帝集沙门于殿庭,宣废佛教意,众皆喑默。帝五问,师五对,抗声厉色,不为之屈。教之不废,师力居多。师退隐青莲,造华严、地持等经疏。一夕,梦登须弥山顶,瞻礼卧佛像。觉谓其徒曰:吾著述有益,感此灵征,不敢多让。遂避纷入谷,结𤲅孤峰下,制涅盘经疏。疏成,掷其笔曰:若疏义契理,笔当驻虚空中。灵应果然,道俗称庆。师示寂后,遭隋室乱,法席久虚。太和初,有慧愔禅师,自并汾来,少习庄易,晚学天台止观,见远公遗迹,叹曰:忍使圣贤依栖之地,反为墟落。乃辟翳荟,壮栋宇,以空假中通之教,开剔聋盲,是吕苾𫇴之流,多依附焉。𬙆有玄二依法师,驻锡上方,栖心胜地,驾济世艗,行利他行。开平二年,邑民程行立施山前田二十顷,以充禅悦之须。逮太平兴国三年,赐名福严禅院。崇宁间,鉴峦禅师𬙆主其教,以其寺基久远,岁坏月隳,虽补罅苴漏,不胜其弊,乃刻意规画,度越前辈,凿东崖,陻西涧,培薄增卑,以广寺址。由是供佛有殿,讲法有堂。搆宝藏以贮圣经,敞云房以栖法侣。宾寮香积,法鼓斋鱼,涣然大备。皇朝大定初,福裕、惠珍二法师嗣之。福裕补獘易陋,内主寺事;惠珍持戒炼慧,外阐玄风。珍好因明、瑜伽二大论,晚悟唯识之趣。松岭龙门,开大道场,提耳接人,学者辐凑。寺旧有法堂三楹,不称殿阁,规而广之为五楹,未果谢世,赖寂、定二师兄左右辅翼,乃克就绪。自远公而来,几七百余岁,子孙绳绎,经营堂搆,成于今日。寺有藏经五千卷,以为悟入之阶;有山田二千亩,以给斋粥之费。僧不出户庭,坐以办道,此皆灯灯相续之力也。宝贤膺老师宿德之荫,弗蚕弗耕,而服而食,远离火宅之苦,安受福田之禄,而不知所谢,能无愧乎?此寺经几废兴,而无刻识可考,俾开山圣贤之迹晦昧而不彰,难逃弗嗣之责矣。碑石砻之久矣。近年泽守如许安仁子静、李仲略简之,皆一时之文士也。法堂未成,不敢以文为请。今福严海会,润色圆满,公盍为我记之,以报祖师之德,以种天人之福,使丰功隐行,传诸不朽可乎?余谓贤曰:昔欧阳文忠公赴夷陵,舟次浔阳,舟贾李迁砻石载于舟。公问其故,曰:迁修讫湘潭县药师院殿,欲归而记其始造岁月也。视其色,若欲得予记而不敢言也。公欣然书之。况宝贤磨砻琬琰,待余之文,余何辞焉?噫嘻!天壤之间,半山水潺湲而流,靳岩而峰者如尘沙,著赫赫之名者无几,皆自古昔圣贤依栖而称导之,然后能辉映于后世。水之洙泗,山之沩、仰是也。硖石去州治远,悬崖列壑,撑拄含呀于无人之境。然一经远公盘桓,使狐虺寝庙,虎狼窟宅,而化为庄严宝坊,岂不伟欤?余景仰古圣灵迹,又喜宝贤不忘先师之言,故余摭贤之说,校吕僧史而为之记。泰和乙丑十一月晦日。泰和六年正月十日,住持沙门宝贤立石。副院沙门宝安,法眷青莲寺主僧洪湛,知库沙门宝定,尊宿沙门宝顺,典座沙门洪涓,府城社李皋刊。
硤石山福厳院碑 大金沢州硤石山福厳禅院記。奉政大夫・中都・西京等路按察副使の郭候篆額。奉政大夫・沢州刺史兼軍州事の楊庭秀撰し、并びに書す。沢の硤石山青蓮寺は、河東の勝槩なり。余は児童の時、これを聞くこと熟(つまび)らかなり。けだし華(州)の沢と相去ること遠からざるが故なり。太和壬戌の冬の暮れ、余は右司諫より河閒の献(州)に補す。乙丑夏五月、献より沢に移る。私心に喜びて曰く、沢は佳郡なり。また余が郷に近し。嚮(さき)に聞く所の青蓮寺は、余これを游ぶことを得ん、と。沢の俗は倹にして淳、儒学を熹(よろこ)び、他州に比べて治め易し。月を逾えずして、事は理(おさ)まり訟は息(や)む。孟秋の中休の日、余は騎して硤口に至る。山に、主僧の宝賢これを逆(むか)う。硤路は険しくして下る。騎を舎てて歩む。峰巒は回合し、窮まりて復た通ず。杖筇は乱石の間に転側し、路はいよいよ狭く、山はいよいよ奇なり。三里許り行くに、双峰は帰然として門の若(ごと)し。山の陰に二つの古篆の字ありて硤石と曰う。余は宝賢に謂いて曰く、此れ硤石山か。賢は先師珍唯識の言に、硤石山とは、けだし両山の路を挟むの義を取る、と聞く。山陰の刻は、某氏なるを知らず、実に好事者の為す所なり。硤石は乃ち此の山の総称なり。峰の北に嵌岩あり。岩の下に池あり。深さ丈余、広さはこれに倍す。岩の奥に罅(か)あり、高深は測る能わず。夏秋の暴雨には、罅中は雷鳴の状の若く、須臾にして池水は満つ。寺僧飲食の費は、歳伸びて給す。峰の西南に、孤峰は挺然として、高さ数丈。峰頂は平らかにして砥の若く、縦広十余尺。此れ遠公の擲筆台なり。台の西八十歩に澗ありて弥勒と曰う。けだし往時、弥勒は其上に化現す。台の北は、石壁峭抜して、環堵の然り。壁の上は乱峰向背し、草樹は叢翠す。南に珏山を望み、下に丹水を瞰(みおろ)す。屏障は横列し、水墨は粲然たり。即ち青蓮の上方なり。劉軻の謂う、廬山の黄石岩に似たりとは、此れなり。台の南、曲折して二百歩行くに、古青蓮寺あり。寺額は咸通八年の賜る所なり。寺の東五里に古蔵陰寺あり。即ち北斉曇始禅師の建つる所なり。祖師慧遠は、器識は弘偉、風神は爽澈なり。曇始は見てこれを度して曰く、子に出家の相あり、善く自ら愛せよ、と。乃ち礼して師と為す。既に冠りて、鄴都に游学し、回翔すること十余年、経論に慱渉して、該貫せざる無し。乃ち学侶を携え、蔵陰寺の西、丹谷に卜して、室を築きて居る。大乗教を弘演して、朝夕倦まず、遠近は帰依す。ここにおいて大阿蘭若を建つ。即ち青蓮寺の権舆なり。承光二年、周武帝は沙門を殿庭に集め、仏教を廃するの意を宣ぶ。衆はみな喑黙す。帝五たび問い、師五たび対え、声を抗げ色を厲(か)しくして、これが為に屈せず。教の廃せられざるは、師の力多く居る。師は退きて青蓮に隠れ、華厳・地持等の経疏を造る。一夕、須弥山頂に登り、卧仏像を瞻礼するを夢む。覚めて其の徒に謂いて曰く、吾が著述は益あり、この霊徴に感ず、敢えて多くは譲らず、と。遂に紛を避けて谷に入り、𤲅を結びて孤峰の下に、涅槃経疏を制す。疏成りて、その筆を擲ちて曰く、若し疏義理に契わば、筆は当に虚空中に驻(とどま)るべし、と。霊応果たして然り。道俗は慶を称す。師の示寂の後、隋室の乱に遭い、法席は久しく虚(あ)く。太和の初、慧愔禅師あり、并・汾より来たる。少にして荘易を習い、晩に天台の止観を学ぶ。遠公の遺跡を見て嘆じて曰く、忍びんや聖賢の依栖の地をして、反って墟落と為らんことを、と。乃ち翳薈を辟(ひら)き、棟宇を壮にし、空・假・中の通ずるの教を以て、聾盲を開剔す。是の吕(ともがき)、苾𫇴の流、多く依附す。継いで玄二依法師あり、上方に駐錫し、勝地に心を栖め、済世の艗(よく)を駕し、利他の行を行う。開平二年、邑民の程行立は山前の田二十頃を施して、以て禅悦の須(もちいる)に充つ。太平興国三年に逮び、名を福厳禅院と賜う。崇寧の閒、鑑巒禅師継いで其の教を主る。其の寺基の久遠にして、歳は壊れ月は隳(こぼ)るを以て、罅を補い漏を苴(おぎな)うといえども、其の弊に勝えず。乃ち刻意に規画して、前輩を度越し、東崖を鑿ち、西澗を陻(ふさ)ぎ、薄(ち)きを培い卑(ひく)きを増して、以て寺址を広む。是に由りて仏を供うるに殿あり、法を講ずるに堂あり。宝蔵を搆えて以て聖経を貯え、雲房を敞きて以て法侶を栖む。賓寮・香積、法鼓・斎魚、涣然として大いに備わる。皇朝大定の初、福裕・恵珍二法師これを嗣ぐ。福裕は弊を補い陋を易え、内は寺事を主り、恵珍は戒を持し慧を練り、外は玄風を闡く。珍は因明・瑜伽の二大論を好み、晩に唯識の趣を悟る。松嶺の龍門に大道場を開き、耳を提げて人に接し、学者は輻凑す。寺旧(もと)法堂三楹あり、殿閣に称(かな)わず、規りてこれを広めて五楹と為さんとす。未だ果たさずして世を謝す。寂・定二師兄に頼りて左右に輔翼し、乃ち克く就緒す。遠公より而(しこう)して来る、幾(ほぼ)七百余歳。子孫は繩繹として、堂搆を経営し、今日に成れり。寺に蔵経五千巻ありて、以て悟入の階と為し、山田二千畝ありて、以て斎粥の費に給す。僧は戸庭を出でずして、坐して以て道を弁(ととの)う。此れ皆、灯灯相続くの力なり。宝賢は老師宿徳の蔭を膺(う)けて、蚕せず耕さずして、服し食う。火宅の苦を遠離し、福田の禄を安受して、しかも謝する所を知らず。能く愧(は)ぢざらんや。此の寺、幾たびか廃興を経るも、刻識有って考うべき無く、開山聖賢の跡をして晦昧にして彰れざらしめば、弗嗣の責を逃れ難し。碑石の砻くこと久し。近年の沢守、許安仁子静・李仲略簡之の如きは、皆一時の文士なり。法堂未だ成らざれば、敢えて文を以て請と為さず。今、福厳の海会は、潤色円満す。公盍(なん)ぞ我が為にこれを記し、以て祖師の徳に報い、以て天人の福を種(ま)き、豊功隠行をして、諸(これ)を不朽に伝えしめんことを、可(べ)からずや。余は賢に謂いて曰く、昔、欧陽文忠公、夷陵に赴くに、舟は潯陽に次(とどま)す。舟賈の李遷、石を砻きて舟に載す。公其の故を問う。曰く、遷は湘潭県の薬師院殿を修め訖(おわ)りて、帰りて其の始造の歳月を記さんと欲す、と。其の色を視るに、若(まる)で予が記を得んことを欲して敢えて言わざるに似たり。公は欣然としてこれを書す。況(いは)んや宝賢は琬琰を磨砻し、余が文を待つをや。余何の辞かあらん。噫嘻(いい)!天壤の間、半山の水は潺湲として流れ、岩を靳(いば)りて峰と為る者は塵沙の如く、赫赫の名を著す者は幾(いく)ばくも無し。皆古昔の聖賢の依栖して称導するに自りて、然る後に後世に輝映する能うなり。水の洙泗、山の潙・仰は是なり。硤石は州治を去ること遠く、懸崖は壑を列べ、撑拄含呀として無人の境にあり。然るに一たび遠公の盤桓を経れば、狐虺の寝廟、虎狼の窟宅をして、化して荘厳の宝坊と為らしむ。あに偉ならざらんや。余は古聖の霊跡を景仰し、また宝賢の先師の言を忘れざるを喜ぶ。故に余は賢の説を摭(ひろ)い、僧史に校(かんが)えて以て記を為す。泰和乙丑十一月晦日。泰和六年正月十日、住持沙門宝賢立石。副院沙門宝安、法眷・青蓮寺主僧洪湛、知庫沙門宝定、尊宿沙門宝順、典座沙門洪涓、府城社の李皋刊す。
桉通志金石记云:记称慧远受昙始衣钵,周武帝承光二年,诏集沙门,欲废释教,远公面折之。此段与唐司徒太常僧紫羽记合。至所称示寂后遭隋乱,与唐记不符。凤台县志:慧远,泽之霍秀里李氏子,生时,昙始感梦,至其家,抚摩之。至六岁,度为弟子,戒律精严,契合真诠。建寺于藏阴西,注涅盘经成,掷笔云:若疏合禅理,笔当驻空。隋文帝召至京,参校经义,卒于京邸,文帝深悼惜之。桉:碑青莲寺起自远公,唐太和初,慧愔禅师修复,宋太平兴国三年,赐名福严禅院。崇宁间,鉴峦禅师又广寺址,大定初,增广法堂。至泰和就绪,以创寺七百余年,未有记。主僧宝贤请泽州刺史杨庭秀为之。碑。所云近年泽守许安仁、子静、李仲略简之。以金史考之,许安仁传,字子静,献州交河人。大定七年进士,历官礼部郎中兼左补阙。明昌四年,上将幸景明宫,安仁与同列谏,疏奏,遂罢幸,出为泽州刺史。在郡二年,徙同知河南府事。李仲略,昭义节度使晏子,字简之,大定十九年词赋进士,由左司都事转员外郎,以亲病求侍,特授泽州剌史。父丧免,起为户部郎中。又李晏传:明昌六年,归老得疾,诏除其子仲略为泽州刺史。碑立泰和六年,故称近年。碑为泽州刺史杨庭秀撰,并书,中都、西京等路按察副使郭俣篆额。凤台县志:杨庭秀字德懋,华州人,大定中进士。泰和初,自献州剌史移剌泽州,政平讼理,民用康。乂雅善文词,以平凉同知致仕。金史郭俣传:字伯有,泽州人,大定二十二年进士,历官同知真定府事,改中都、西京按察副使,迁国子祭酒。泰和六年伐宋,充山东安抚副使。今通志金石记以误已迁国子祭酒,而复书中都按察副使为疑。桉:金史本纪:泰和六年四、五月始伐宋,碑立是年正月,此时俣仍未迁耳。县志:青莲寺在县城东南三十五里硖石山。碑云:南望王山,下瞰丹水。桉:一统志:玨山,在凤台县东南四十里,两山对立,如丫角,一名角山。有款月台。丹水在凤台县东。水经注:丹水又南流,注于丹谷。碑见寰宇访碑录、通志金石记
桉ずるに、通志金石記に云く:記は慧遠が曇始の衣鉢を受け、周武帝承光二年、詔して沙門を集め、釈教を廃せんと欲す、遠公は面してこれを折る、と称す。此の段は唐の司徒太常・僧紫羽の記と合す。称する所の示寂の後に隋乱に遭うに至っては、唐記と符せず。『鳳台県志』に、慧遠は沢の霍秀里李氏の子。生まるる時、曇始夢に感じ、其の家に至り、之を撫摩す。六歳に至りて、度して弟子と為す。戒律は精厳、真詮に契合す。蔵陰の西に寺を建て、涅槃経の注成りて、筆を擲ちて云く、若し疏禅理に合せば、筆は当に空に驻(とどま)るべし、と。隋文帝は京に召して、経義を参校せしめ、京邸に卒す。文帝深く悼惜せり、と。桉ずるに:碑は青蓮寺は遠公より起こる、唐太和の初、慧愔禅師修復し、宋太平興国三年、名を福厳禅院と賜う。崇寧の間、鑑巒禅師また寺址を広め、大定の初、法堂を増広す。泰和に至りて就緒す。寺を創りてより七百余年を以て、未だ記有らず。主僧宝賢は沢州刺史楊庭秀を請うて之が為にせしむ、碑〔を立つ〕。云う所の近年の沢守許安仁・子静、李仲略・簡之。金史を以て之を考うるに、許安仁伝に、字は子静、献州交河の人。大定七年の進士。官を歴て礼部郎中兼左補闕。明昌四年、上将に景明宮に幸せんとす。安仁は同列と諫め、疏奏すれば、遂に幸を罷む。出でて沢州刺史と為る。郡に在ること二年、同知河南府事に徙る。李仲略は、昭義節度使晏の子、字は簡之。大定十九年の詞賦進士。左司都事より転じて員外郎。親の病を以て侍を求め、特に沢州剌史を授かる。父の喪に免じ、起きて戸部郎中と為る。また李晏伝:明昌六年、老に帰り疾を得、詔して其の子仲略を除して沢州刺史と為す。碑は泰和六年に立つ、故に近年と称す。碑は沢州刺史楊庭秀の撰し、并びに書し、中都・西京等路按察副使の郭俣の篆額。『鳳台県志』に、楊庭秀は字は徳懋、華州の人、大定中の進士。泰和の初、献州剌史より移りて沢州を剌す。政は平らぎ訟は理まり、民用(たみ)康(やすん)ず。乂(よ)く雅(みや)びに文詞を善くす。平涼同知を以て致仕す。金史郭俣伝:字は伯有、沢州の人、大定二十二年の進士。官を歴て同知真定府事、改めて中都・西京按察副使、遷じて国子祭酒。泰和六年、宋を伐つに、山東安撫副使を充(あ)つ。今、通志金石記は誤りて已に国子祭酒に遷りしと以て、復た中都按察副使と書するを疑と為す。桉ずるに、金史本紀に:泰和六年四・五月始めて宋を伐つ。碑は是の年正月に立つ。此の時俣は仍(な)お未だ遷らざるのみ。県志に:青蓮寺は県城の東南三十五里、硤石山に在り。碑に云く、南に王山を望み、下に丹水を瞰す。桉ずるに、一統志に:玨山は鳳台県の東南四十里に在り、両山対立して丫角の如し。一名を角山と曰う。款月台あり。丹水は鳳台県の東に在り。水経注に:丹水はまた南流して丹谷に注ぐ。碑は寰宇訪碑録・通志金石記に見ゆ。
《秋澗集》
至元甲戌夏四月戊午,予以分阅滭、潞州兵,且需后命,乘暇同州尹皇甫琰来游兹山。相与登福严佛阁,置酒小酌。欻林风振响,山雨骤至,烦襟尘思,洒然□醒。少焉,返照入壑,其西南诸峰,云起曳缕,及顶而散,萦纡披拂,殆六铢曹衣,空蒙法身。既暮,群动俱阒,溪流有声,潨浍丹壑,如万马而兵,崩赴敌场。静夜远闻,耿耿忘寐,顾谓皇甫君曰:“此岂非山灵化现,以清雄之状,娱游人之耳目邪?”凡所得唱和诗若于首,因留题禅院壁间,以为它年林下故事。从游者沁水尹太原李汝翼,属吏丘山甫,承直郎、平阳路总管府判官汲郡王恽题,子翁孺侍行。
至元甲戌夏四月戊午、予は滭(州)・潞州の兵を分閲するを以て、且つ後命を需(ま)ち、暇に乗じて州尹の皇甫琰と同じく来たりて兹の山に游ぶ。相与に福厳の仏閣に登り、酒を置きて小酌す。欻(たちま)ち林風は響を振い、山雨驟(にわ)かに至る。煩襟・塵思、洒然として□醒む。少焉(しば)らくして、返照は壑に入り、その西南の諸峰は、雲起こり縷(る)を曳き、頂に及びて散ず。縈紆披拂して、殆ど六铢の曹衣、空蒙の法身なり。既に暮れて、群動は俱に阒(しず)まり、溪流は声あり。潨浍は丹壑に、万馬の兵(いくさ)なるが如く、崩れて敵場に赴く。静夜遠く聞き、耿耿として寐(いね)を忘る。顧みて皇甫君に謂いて曰く、「此れあに山霊の化現に非ずや。以て清雄の状、游人の耳目を娱(たのし)まするか」と。およそ得る所の唱和の詩若干首、因りて禅院の壁間に留題し、以て它年の林下の故事と為す。従游する者は、沁水尹・太原の李汝翼、属吏の丘山甫。承直郎・平陽路総管府判官・汲郡の王惲題す。子の翁孺侍行す。
薰风吹雨不沾衣,马趁清凉入翠微。硖石两楹天斧断,好山四面画屏围。我来胜地清心地,僧说禅机与教机。剩有文章贤判府,徘徊登眺久忘归。斜分一迳下林峦,金碧觚棱紫翠间。群岭秀攒青菡萏,孤峰突出玉湖山。凿开一握乾坤小,占断千年日月閒。浩浩兵尘满河朔,天风吹不到禅关。
薫風は雨を吹きて衣に沾(ぬ)らさず、馬は清凉に趁(お)うて翠微に入る。硤石の両楹は天斧の断ち、好山は四面に画屏を囲む。我は胜地に来たりて心地を清め、僧は禅機と教機を説く。賸(あま)さえ文章の賢判府あり、徘徊登眺して久しく帰るを忘る。斜めに一逕を分かちて林巒を下れば、金碧・觚稜は紫翠の間。群嶺は秀でて青菡萏を攅(あつ)め、孤峰は突出して玉湖山。鑿き開きて一握、乾坤は小さく、占め断じて千年、日月は閒なり。浩浩たる兵塵は河朔に満ち、天風は吹きて禅関に到らず。
《青蓮寺福厳院重修法蔵記》
𮑮泽郡之硖石,太行之名山也,其佳丽匪佗山可等曩有明。师远公择是而处焉。福严精舍,权舆于此也。考之他碑,迄今八百余载矣。中间先后缔构,王宫梵刹,曰堂、曰殿,曰室、曰洞,宏敞相接,惟有所谓法藏者,置大藏经之阁也。历世代之绵远,缘风雨之摧剥,以致梁楹腐朽,栋宇挠折,将恐有就毁之患焉。元统乙亥,讲经律论弘义大师住持讲主秀公,一旦欲补葺而更新之,僧众复从而乐翼之。于是度费计工,募材召匠,竞趋其役,而无一倦焉耳。檀越闻之者,争施其财,经始于是年之春,比迨夏而告成焉。腐朽者于是乎鲜,挠折者于是乎平,其功倍于前,其固愈于旧。峻檐危楹,轮焉奂焉。琉璃脊光夺日月,金碧吻势踊蛟龙,上凌苍穹,下瞰丹水,旁顾峰峦,巍峨然峥嵘于霄壤之间,其雄哉!兹所以壮佛宫而竦人之瞻敬也。僧通口独捐巳财,造方匣几七百个,盛圣经余五千卷,其严整也,无风雨之损,其致密也,无虫鼠之伤,尊佛敬法之恳到,于斯尤见焉。爰当换易梁楹栋宇之初,下则众木相衔,上有万钧之重,难矣哉!然一动之若泰山之安,举之如鸿毛之易,无纤毫之失,其故何哉?或者谓匠氏智巧技艺之能也。殊不知秀公贞如之德,僧众不二之诚,与夫恭勤精修之所感,自有不期然而然者矣。越明年,有僧善裕、通遇踵门求文以为记。仆辞曰:予朴鄙不敏,而所谓文者,未之学也。僧曰:岂冀为华藻而衒于人哉?特纪其工役岁月之实,刻诸完青,俾后之嗣功者,有以知识之。故书。大元至元二年岁舍柔兆困敦清和望日,功缘主沙门僧通口立石。
𮑮(惟)沢郡の硤石は、太行の名山なり。その佳麗は佗山の等しきに匪(あら)ず、曩(さき)より明らかなり。師遠公は是を択びて処(い)る。福厳の精舎、ここに権舆す。他碑を以て之を考うるに、今に迨(およ)び八百余載なり。中間、先后の締構、王宮・梵刹、堂と曰い殿と曰い、室と曰い洞と曰い、宏敞は相接く。ただいわゆる法蔵有るのみ。大蔵経を置くの閣なり。世代の綿遠を歴、風雨の摧剥に縁りて、以て梁楹の腐朽、棟宇の撓折を致し、将に恐らくは毀に就かんの患有り。元統乙亥、講経律論弘義大師・住持講主の秀公、一旦、補葺して之を更新せんと欲す。僧衆はまた従って之を翼(たす)けんことを楽しむ。ここにおいて費を度(はか)り工を計り、材を募り匠を召す。競いで其の役に趨りて、一の倦むる耳(のみ)無し。檀越の之を聞く者、争いて其の財を施す。経始は是の年の春、夏に迨(およ)びて告成す。腐朽する者は是に於いて鮮(あたら)しく、撓折する者は是に於いて平(たい)らかなり。其の功は前に倍し、其の固は旧に愈(まさ)る。峻檐・危楹、輪焉・奂焉たり。瑠璃の脊は光は日月を奪い、金碧の吻は勢は蛟龍を踊らし、上は蒼穹に凌ぎ、下は丹水を瞰(みおろ)し、旁(かたえ)に峰巒を顧み、巍峨然として霄壤の間に峥嵘たり。其の雄なるかな!茲れ、仏宮を壮にして人の瞻敬を竦(すこ)しむる所以なり。僧通□、独り己の財を捐(す)て、方匣を造ること幾(ほぼ)七百個。聖経余(あま)り五千巻を盛(い)る。其の厳整なるや、風雨の損無く、其の致密なるや、虫鼠の傷無し。仏を尊び法を敬うの懇到、斯に於いて尤も見ゆ。爰(まさ)に梁楹・棟宇を換易するの初に当たり、下は則ち衆木相い銜(つらな)り、上は万鈞の重き有り。難きかな哉!然るに一たび之を動かすこと泰山の安きが若く、之を挙ぐること鴻毛の易きが如く、纎毫の失無し。其の故は何ぞや。或る者は謂う、匠氏の智巧技芸の能なりと。殊に知らず、秀公の貞如の徳、僧衆の不二の誠、与(およ)び夫(か)の恭勤精修の感ずる所に、自ずから期せずして然る者の有ることを。明年を越え、僧の善裕・通遇有り、門に踵(きびす)を接して文を求め以て記と為さんと。僕は辞して曰く、予は朴鄙にして敏ならず、而もいわゆる文は、未だ之を学ばざるなり、と。僧曰く、あに冀(こいねが)わくは華藻を為して人に衒(てら)わんことをや。特に其の工役歳月の実を紀し、諸(これ)を完青(碑石)に刻し、後の嗣功する者をして、以て之を知識せしめんのみ、と。故に書す。大元至元二年、歳は柔兆困敦に舎(お)り、清和の望日。功縁主・沙門僧通□立石。
《山西通志》
泽州青莲寺 在州之东南三十里砍石山上。北齐时建,在宋名福严寺。西有掷笔台,下有嵌。
沢州青蓮寺 州の東南三十里、砍石山の上に在り。北斉の時に建つ。宋に在りて福厳寺と名づく。西に擲筆台あり、下に嵌(かん)あり。
《沢州府志》
峡石山县东南三十五里。两石对峙若门,丹水湍奔其下,上有青莲寺。有嵌崖,袤文余,广倍之,暴雨骤发,中罅如雷鸣。西有掷笔台,相传慧远注涅盘经成,掷其笔日:若疏义契理,笔当驻空。已而果然。
峡石山 県の東南三十五里。両石は対峙して門の若く、丹水は其の下に湍奔す。上に青蓮寺あり。嵌崖あり、袤(なが)さ文(ひろ)余り、広さは之に倍す。暴雨驟(にわ)かに発すれば、中罅は雷鳴の如し。西に擲筆台あり。相伝えて慧遠は涅槃経の注成りて、其の筆を擲ちて曰く、若し疏義理に契わば、筆は当に空に驻(とどま)るべし、と。已にして果たして然り。
珏山县东南四十里。两山玉立,若了角然,故又曰角山。中秋月涌正中,适当其缺,玉台明镜,光景绝奇。上有款月台。山顶建真武庙。
珏山 県の東南四十里。両山は玉立して、了角の然(よう)なり。故にまた角山と曰う。中秋、月は正中に涌き、適(あた)うその缺(あな)に当たる。玉台・明鏡、光景は絶奇なり。上に款月台あり。山頂に真武廟を建つ。
藏阴寺青莲东五里,北齐僧昙始建。寺西即丹谷。
蔵陰寺 青蓮の東五里。北斉の僧曇始建つ。寺の西は即ち丹谷。
青莲寺在城东南三十五里峡石山。北齐建。宋赐名福岩院。峭壁如环堵,壁之上乱峰向背,草树丛翠,丹水湍奔。屏障横列,水墨粲然,即青莲上方也。寺西有掷笔台,北周僧远公注涅盘经成,掷笔处。院藏经七百函,合五千卷。
青蓮寺 城の東南三十五里、峡石山に在り。北斉建つ。宋は名を福岩院と賜う。峭壁は環堵の如く、壁の上は乱峰向背し、草樹は叢翠し、丹水は湍奔す。屏障は横列し、水墨は粲然たり。即ち青蓮の上方なり。寺の西に擲筆台あり。北周の僧遠公、涅槃経の注成りて、筆を擲ちし処。院は経七百函を蔵し、合わせて五千巻。
郡东南青莲寺,寺左掷笔台,相传晋慧远禅师建刹,著涅盘经成,掷笔驻空,得名。是说也,余尝疑之。按莲社高贤传,法师姓贾氏,雁门楼烦人。幼好学,欲渡江从学范宁,有志不遂。时沙门道安建刹太行,闻安师请般若经,顿然开悟,遂与母弟慧持投簪,受业于晋武帝太元六年,至浔阳,见庐山闲旷,乃立精舍于一峰,制涅盘疏,因名掷笔峰。是远公结社于东林者为是,未尝建利于太行也。岂法师随安师听经,后遂讹为建刹欤?又考青莲寺有唐太和七年碑碣云:周有惠远法师晋城霍秀人,制涅盘疏,掷笔升空,精义入神,以验其吉。台之名由是始。按霍秀村在泽州城东南,去寺不远。再考青莲寺下院净影寺,明万历元年,郡人孟颜重修碑记云:隋开皇年间,高侩远公,俗姓李氏,卓锡千此,春秋七十卒。本寺所云隋开皇间,正与前碑北周时人语合,其非东林之慧远明矣。况著涅盘疏,掷笔腾空一事,在莲社已属幻妄,后人因其名偶同,又从而附会之。古迹之传讹类如此,不可不辩。
郡の東南の青蓮寺、寺の左に擲筆台あり。相伝えて晋の慧遠禅師が刹を建て、涅槃経を著して成り、筆を擲ちて空に驻(とど)まり、名を得たりと。是の説は、余嘗(かつ)てこれを疑う。按するに、『蓮社高賢伝』に、法師は姓は賈氏、雁門楼煩の人。幼にして学を好み、江を渡りて范寧に従学せんと欲すも、志有りて遂げず。時に沙門道安は太行に刹を建つ。安師の般若経を請するを聞き、頓然として開悟し、遂に母弟の慧持と簪を投じ、晋武帝太元六年に受業す。潯陽に至り、廬山の閑旷を見、乃ち一峰に精舎を立て、涅槃疏を制し、因りて擲筆峰と名づく。是れ遠公の東林に社を結ぶは是なり。未だ嘗て太行に刹(てら)を建てず。あに法師の安師に随いて経を聴きしが、後遂に訛りて建刹と為せるか。また考うるに、青蓮寺に唐太和七年の碑碣有りて云く、周に恵遠法師あり、晋城霍秀の人。涅槃疏を制し、筆を擲ちて空に升る。精義は神に入り、以て其の吉を験す。台の名は是に由りて始まる、と。按するに、霍秀村は沢州城の東南に在り、寺を去ること遠からず。再び考うるに、青蓮寺下院の浄影寺、明万暦元年、郡人孟顔の重修碑記に云く、隋開皇年間、高侩遠公、俗姓は李氏、此に卓錫し、春秋七十にして卒す、と。本寺の云う所の隋開皇間は、正しく前碑の北周の時人の語と合す。其の東林の慧遠に非ざるは明らかなり。況(いは)んや涅槃疏を著し、筆を擲ちて空に騰るの一事は、蓮社に在りて已に幻妄に属す。後人は其の名の偶(たま)さ同じきに因り、また従って之に附会す。古跡の伝訛は此に類す。弁ぜざるべからず。
《金石文跋尾》
许古题名右许古题名四行,行书。文云:承安五年闰月廿五日,同张君玉、吴寿夫来游,遂与寂公无二。登凤皇山,周览青莲之胜。钧幕河间许古道真题。在泽州青莲寺石柱之侧。青莲祠横石古刹,石柱周遭,宋金人题刻殆徧,予惟得其一尔。钧幕者,钧州幕职,古登第后尝为之,而金史本传失书姚。半塘云:古父安仁,于明昌中尝守泽州。张君玉、吴寿夫疑即进士张天祐、吴芝之字,皆其父所与游者。寂公谓僧宝寂也。
許古題名 右、許古題名四行、行書。文に云く:承安五年閏月廿五日、張君玉・呉寿夫と同じく来游し、遂に寂公と二つ無し。鳳皇山に登り、青蓮の勝を周覧す。鈞幕・河間許古道真題す、と。沢州青蓮寺石柱の側に在り。青蓮祠・横石の古刹、石柱の周遭、宋金人の題刻は殆ど徧(あまね)し。予はただ其の一を得るのみ。鈞幕とは、鈞州の幕職。古は第に登りて後嘗てこれを為す。しかるに金史本伝は書を失う。姚半塘に云く:古の父安仁は、明昌中に於て嘗て沢州を守る。張君玉・呉寿夫は、疑うらくは即ち進士張天祐・呉芝の字。皆其の父の与(とも)に游ぶ所なり。寂公は僧宝寂を謂うなり。
硖石山福严禅院记右硖石山福严禅院记,奉政大夫、中都、西京等路按察副使郭俣篆额,奉政大夫、泽州刺史兼军州事杨庭秀撰并书。凡碑刻篆额人,例在撰书者之次。俣官阶与庭秀相埒,且系部民,乃列于庭秀前者。记为庭秀自书,谦不欲先人也。记云:近年泽守许安仁子静、李仲略、简之,皆一时文士。许、李二人,金史皆有传,而庭秀亦有诗名,书法方整,规𬂠颜鲁公,足徵金时泽守之得人也。记又云:承光二年,周武帝集沙门于殿庭,宣废佛教。按承光,齐幼主年号,纪元甫一年,而为周所灭,承光无二年也。齐灭而地入于周,当以周建德纪年,不当更称承光矣。史载周武帝建德三年,初断佛、道二教,沙门道士并令还俗。其时寺在齐境,无由禁断。及灭齐之后,甫逾年而武帝即世,此禁遂弛,故僧寺佛像之在齐境者皆得不毁。而缁流好事者以为远公之力,殊未足信也。
硤石山福厳禅院記 右、硤石山福厳禅院記。奉政大夫・中都・西京等路按察副使の郭俣篆額、奉政大夫・沢州刺史兼軍州事の楊庭秀撰し并びに書す。およそ碑刻の篆額人は、例として撰書者の次に在り。俣の官階は庭秀と相埒(ひと)しく、且つ部民に系る。乃ち庭秀の前に列するは、記は庭秀の自書を為し、謙りて人に先んぜんことを欲せざればなり。記に云く:近年の沢守許安仁子静・李仲略・簡之は、皆一時の文士、と。許・李二人は、金史に皆伝有り。しかして庭秀もまた詩名有り。書法は方整にして、顔魯公を規𬂠(もとな)す。金時の沢守の人を得るを徴するに足れり。記はまた云く:承光二年、周武帝は沙門を殿庭に集め、仏教を廃するを宣ぶ、と。按するに、承光は斉の幼主の年号、紀元甫(はじ)めて一年にして、周の為に滅ぼさる。承光は二年無きなり。斉滅びて地は周に入る。当に周の建徳を以て紀年すべし。更に承光と称すべからず。史は載す、周武帝建徳三年、初めて仏・道二教を断つ。沙門・道士は並びて還俗せしむ。其の時、寺は斉境に在り、禁断に由(よ)る無し。斉を滅ぼすの後に及び、甫(はじ)めて年を逾えて武帝即世す。此の禁は遂に弛む。故に僧寺・仏像の斉境に在る者は皆毀れざるを得たり。しかるに緇流の好事者は以て遠公の力と為す。殊に未だ信ずるに足らざるなり。
《寰宇訪碑録》
青莲寺碑,僧道振撰,司徒映正书,太和七年十月,山西凤台。
青蓮寺碑、僧道振撰、司徒映正書、太和七年十月、山西鳳台。
福严院牒,正书,太平兴国三年五月,山西凤台。
福厳院牒、正書、太平興国三年五月、山西鳳台。
《補寰宇訪碑録》
硖石寺法华会记,正书,太和七年,山西凤台。
硤石寺法華会記、正書、太和七年、山西鳳台。
古写真
1962年
1962年、建築史学者の張馭寰は中国建築科学院建築歴史研究室の派遣を受けて晋東南に赴き、古建築を考察した。当時、青蓮寺は晋城県寺南荘に属していた。考察の成果は『上党古建築』にまとめられた(北京・科学出版社の初版。ここに拠るのは天津大学出版社2009年の第二版)。同書には上院中殿・下院の唐塑・慧峰石塔の写真が収められている。書中では当時の認識に基づき中殿を唐の構えと著録した。中殿とはすなわち上寺の釈迦殿であり、現在は殿内の北宋元祐四年の施柱題記に基づき宋代建築と定められている。
参考文献
- 張馭寰『上党古建築』、天津大学出版社2009年第二版(北京・科学出版社1962年初版)。1962年の晋東南古建築考察の成果で、青蓮寺中殿・唐塑・慧峰石塔の写真五葉を収める。
- 李会智・高天「『山西晋城青蓮寺史考』」、『文物世界』2003年第1期。上院後殿の遺址および1994年の復旧を記す。
- 杜正貞「『地方伝統の構築と文化転向——宋金元期の山西沢州を中心として』」、『歴史人類学学刊』2006年第4巻第1期、31—32頁。唐代の法華邑の人数および寺院の冬・春の税科を記録する。
- 「『档案の中の山西古建築:晋城青蓮寺建築』」、晋城通2022年転載。青蓮寺の蔵経の散佚、1984年の護岸工事および現存建築を記す。
- 青蓮寺古建芸術博物館「青蓮寺概要」、晋城市文物保護研究センター。寺院の現状と唐代彩塑を記す。
- 晋城博物館「青蓮寺附属文物賞析」。清の康熙年間に東西廊を再建し、乾隆十一年に下院を重修した碑記を著録する。
- 「『千年古刹青蓮寺』」、晋城市人民政府(晋城新聞網)、2026年9月。
- ウィキペディア「青蓮寺」の項目(現存建築・彩塑・修繕史の近現代資料の集成。晋城博物館などの資料を引く)。