概要
懸空寺の歴史は通常、北魏後期から語られる。太和十五年(491年)、孝文帝は平城の城内にある道壇[1]を「都の南、桑乾の陰、岳山の陽」に移すよう詔を下し、なお崇虚寺と名づけた。今日よく見られる491年創建説は、まさにこの崇虚寺と懸空寺を結びつけるものである。しかし崇虚寺が磁窯峡の中の懸空寺であったかどうか、詔書は明らかにしていない。
六百余年後、金の大定十六年(1176年)、重陽の翌々日、名を残さなかった一人の旅人が商旅の駅路に沿って磁窯峡に入った。道は崖の間で折れ曲がり、彼はふと屋宇が半空に懸かっているのを見た。上は山の頂に接せず、下は谷地に落ちず、石壁を鑿って龕室とし、木の架構が楼榭を支えていた。この時、寺にはすでに石龕・木榭・懸空の屋宇があったが、旅人にはそれがいずれの代に建てられたのか分からなかった。
懸空寺に登ると、旅人は四十九歳の住持・普慈と七十二歳の行満に出会った。二人とも雲中宣寧石仏院の僧であった。旅人の筆に写された崖の間の日々はまことに清苦で、僧は麻衣を着、草木を食とし、年がら年中門を閉ざして客を謝絶していた。欄のそばから谷底を望めば、駅路の人馬は蟻の行進のように小さい。旅人はもともと途中で立ち寄っただけだったが、結局、帰るのを忘れるほど遊賞し、去り際にこの一日と寺での見聞を碑記に書き留めた。
明代になると、周炳謨は仲間とともに桟路に沿って細々と攀じ登った。窓の正面には蓮岳嶺が臨み、見下ろせばすぐ鉄門関である。周炳謨はここにかつて兵を屯して関を守った日々を思い起こし、あらためて寺の老僧が静かに修行するさまを見た。車に登って去るとき、山寺の磬の音がなお渓湾を越えて伝わってきた。
崇禎六年(1633年)、徐霞客もまた磁窯峡に入った。彼はまず両側の崖壁に上下に並ぶ石坎を見て、水が溢れた時にここに木を挿して道を架けた者がいたのだろうと推測した。旧い桟道[2]はすでに荒廃し、高いところに二本の大木が懸かって残るのみであった。さらに三たび曲がると、峡谷はますます狭く、崖壁はますます高くなり、懸空寺の層楼曲榭が西崖の半ばから姿を現した。蜃気楼に重なり合う亭台のごとくである。徐霞客は仰ぎ見て心を奪われ、勇気を奮って独り寺に登った。門を入ると、楼閣は高低錯落とし、欄道は曲がりくねって連なっていた。僧房には禅龕・明るい窓・暖かい榻があり、逼仄たる崖壁の間にありながら、整然と静かに整えられていた。
二世紀余り後、懸空寺の楼閣には動揺し欠損した部材が出ていた。渾源の士紳は寺院がさらに荒廃するのを案じ、早くから修繕を望んでいたが、崖下に足場を組む場所がないためたびたび先送りになっていた。咸豊九年(1859年)、大工の劉山玉が官に修繕の請負を願い出たが、着工しようとした矢先に疫に罹って亡くなり、修寺は再び中止された。四年後、渾源の士紳はあらためて工匠を集め、大工の張廷彦は足場を立てない工法を提案した。一本の縄の輪を腰に束ね、もう一本を足の下に踏み、縄の端を椽板に結びつけ、人は崖の外で作業位置に応じて昇降し、動揺する部材を固め、欠損した部分を補った。懸空寺はもとより半空に懸かり、寺を修める人もまた半空に懸かった。一年たらずで工事は完成した。
今日見られる建築は明清に重修された楼閣が主体で、なお峭壁に沿って南から北へ順次高くなっている。龕室は岩壁に嵌め込まれ、木構は外へ張り出し、人が楼の間を行き来する間、足の下に平らな地はない。振り返ってみれば、谷底の道はいまもこの懸空の屋宇の下を通り抜けている。
歴史文献
魏書
太和十五年秋,诏曰:“夫至道无形,虚象为主。自有汉以后,置立坛祠,先朝以其至顺可归,用立寺宇。昔京城之内,居舍尚希。今者里宅栉比,人神猥凑,非所以祗崇至法,清敬神道。可移于都南桑乾之阴,岳山之阳,永置其所。给户五十,以供齐祀之用,仍名为崇虚寺。可召诸州隐士,员满九十人。”
太和十五年秋、詔にいう。「それ至道は形なく、虚象を主とす。漢より後、壇祠を置き立て、先朝はその至順に帰すべきをもって、寺宇を立てた。昔、京城の内は居舎なお希なり。今や里宅は櫛比し、人神は猥りに湊り、至法を祗崇し神道を清敬する所以に非ず。都の南、桑乾の陰、岳山の陽に移すべし。永くその所を置き、戸五十を給し、もって斎祀の用に供せしめ、なお名づけて崇虚寺とす。諸州の隠士を召し、員九十人に満てよ」と。
懸空寺記並詩
碑高一尺六寸七分,广一尺九寸,二十四行,行字不一,字径七分,行书。今在浑源州。
碑の高さ一尺六寸七分、幅一尺九寸、二十四行、行の字数は一定せず、字径七分、行書。今、渾源州にある。
大定拾陆年,重九后二日,天晴气爽,月朗风轻,日口口龺同𣸯邑之南六七里,石峡槁栈阁,若巴蜀之道,则经商大驿路也。风逥路转,仰自临壑之数峰,犹羙目不系,舍,信悬空之𪨷。古之遗迹,始自建兴扵何代,又不知栖隠者口也,明巍峩之万丈中焉凿石为龛,植木为榭,上不至扵山之巅,下不至扵陆地,悬空置屋,山山晻映,似愽壁之翆幈,流水潺湲泻清声。之淑玉,非丹青而图画者哉!嗟乎!一废一兴,迄今几千百年矣。余闭目想之,昔时游行乐所,了然可数,若比扵斯,未之有也。真物多𫠦韬之地也。居此者以息其心,俱忘物我。久口富贽扵浮云,甘受贫𥨪,不忧戚,弃骨肉,佀栖枝宿鸟,时口同居,凭槛视行人徃还,有如移蚁。不生七情,屏绝六𫻎,衣麻布食,可以草木实为吾有形。已知县患,体轻清而圎同太虚,遗骨骸而复㱕地大,遇患难而不屈,临死生而不惧,然后与天相终,是为常也。访二禅者,乃敦朴之人也,系云中宣寕县石佛院僧也。普慈四十有九,住持,不入俗门;行满七十二岁,荷真未甞有惮。相挈八𥝝,水乳难公顺味,犹周一日,真大善知炽也。始我乐而忘归,髙述其游焉,故为记耳。
大定十六年、重九(重陽)の後二日、天は晴れて気は爽やか、月は朗らかに風は軽し。日□□(欠字)……同𣸯の邑(渾源)の南六七里、石峡に高く桟閣あり、巴蜀の道のごとく、これ商旅の大駅路なり。風に沿い路は転じ、壑に臨む数峰を仰ぐ。……まことに懸空の庵か。古の遺跡、いずれの代に建ち始めしかを知らず、また棲隠の者□(欠字)を知らず。巍峩たる万丈の中に石を鑿ちて龕と為し、木を植えて榭と為し、上は山の巅に至らず、下は陸地に至らず、空に懸かりて屋を置く。山山は晻映し、愽壁の翠幈に似たり。流水は潺湲として清声を瀉く。……丹青に非ずして図画なるものかな。ああ、一廃一興、今に至るまで幾千百年か。余、目を閉じてこれを想うに、昔時の游行の楽しみの所、了然として数うべし。これに比すれば、未だこれ有らざるなり。ここに居る者はもってその心を息め、ともに物我を忘る。久しく富貴を浮雲の贄とし、貧窶を甘受して憂戚せず、骨肉を棄て、枝に栖む宿鳥のごとく、欄に凭りて行人の往還を視れば、移る蟻のごとし。七情を生ぜず、六塵を屏絶し、麻布を衣て草木の実を食らい、もって吾が有形となす。……患難に遇うても屈せず、死生に臨んでも懼れず、然る後に天と相終わる、これを常と為す。二禅者を訪うに、いずれも敦朴の人なり。雲中宣寧県石仏院の僧なり。普慈は四十有九、住持にして俗門に入らず。行満は七十二歳、真を荷うて未だ甞て惮ること有らず。……はじめ我、楽しみて帰るを忘れ、その遊を述べ、故に記と為すのみ。
识破尘缘万事休,翛然归去罢追求。踈人垒壁凿石磴,厌俗悬崖置屋楼。朙月清风真徇用,皴松痩栢旻吾俦。经年掩戸绝賔客,独乐玄中玄更幽。
塵縁を見破れば万事休し、翛然として帰り追求を罷む。人を疎んじ垒壁に石磴を鑿ち、俗を厭うて懸崖に屋楼を置く。明月清風はまことに用に従い、皴松痩栢は天と我が儔。年を経て戸を掩い賓客を絶ち、独り玄中に楽しみ、玄はさらに幽なり。
在望村内头陁僧行口立石
望村の内に在る頭陀僧の行□(欠字)、石を立つ。
望岩村施主王公庭马信马囗口马口口
望岩村の施主、王公庭・馬信・馬□□・馬□□(欠字)。
此悬空寺记并诗。悬空寺一统志在浑源州南磁窑峡内,石壁巉崖,悬空结构,楼阁相望,下临无地。寺创自后魏,此刻未见著录。
これは懸空寺記並びに詩である。懸空寺は『一統志』によれば渾源州の南、磁窯峡の内にあり、石壁の巉崖、懸空の結構、楼閣相い望み、下は地に臨むこと無し。寺は後魏より創まる。この刻は未だ著録を見ず。
素雯斎集
香地凭虚结构空。廊檐千叠翠阴中。莲花月漏堪分影,水国波光足悟空。不住心原生象界,有为法亦窍鸿蒙。登来自在天无际,面壁峰前好课功。
香地は虚に凭りて結構空し。廊檐千畳、翠陰の中。蓮花は月漏れて影を分かつに堪え、水国の波光、空を悟るに足る。住せざる心はもと象界より生じ、有為の法もまた鴻蒙に竅を開く。登り来れば自在にして天の際なく、壁に面する峰の前にて好く功を課さん。
存家詩稿
一寺空虚里,危栏高几层。悬崖惟度鸟,无路去斋僧。云隐多罗树,天垂宝月灯。尘心何处觉,孤磬下崚嶒。
一寺は空虚の裏、危欄の高さ幾層なるか。懸崖にはただ度る鳥のみあり、斎僧の行く路無し。雲は多羅樹を隠し、天は宝月の灯を垂る。塵心をいずくにか覚えん、孤磬は崚嶒を下る。
世美堂詩集
梵宫遥望挂青山,栈路相将细细攀。窗外平临莲岳岭,尊前下视铁门关。当年斥堠屯兵苦,此日焚修老衲闲。徙倚登车思往事,数声清磬渡溪湾。
梵宮を遙望すれば青山に掛かり、桟路を相将れて細細と攀ず。窓外に平らかに臨むは蓮岳嶺、尊前に下視するは鉄門関。当年、斥堠に兵を屯せしは苦しみなりき、この日、焚修の老衲は閑なり。徙倚し登車して往事を思えば、数声の清磬、渓湾を渡る。
徐霞客遊記
循之抵山下,两壁削立,一涧中流,透罅而入,逼仄如无所向,曲折上下,俱成窈窕,伊阙双峙,武夷九曲,俱不足以拟之也。时清流未泛,行即溯涧,不知何年两崖俱凿石坎,大四五尺,深及丈,上下排列,想水溢时插木为阁道者,今废已久,仅存二木悬架高处,犹栋梁之巨擘也。三转,峡愈隘,崖愈高。西崖之半,层楼高悬,曲榭斜倚,望之如蜃吐重台者,悬空寺也。五台北壑亦有悬空寺,拟此未能具体。仰之神飞,鼓勇独登。入则楼阁高下,槛路屈曲,崖既矗削,为天下巨观,而寺之点缀,兼能尽胜。依岩结构,而不为岩石累者,仅此僧寮位置适序,凡客坐禅龛,明窗暖榻,寻丈之间,肃然中雅。既下,又行峡中者三四转,则洞门豁然,峦壑掩映,若别有一天者。
それに沿って山下に至ると、両壁は削ぎ立ち、一涧が中を流れ、罅を透かして入れば、逼仄として向かうところ無きがごとく、曲折上下、みな窈窕を成す。伊闕の双峙も武夷の九曲も、いずれもこれに擬するに足らない。時に清流未だ泛らず、行けばすなわち涧を溯る。いつの年か両崖にともに石坎を鑿ち、大きさ四五尺、深さ丈に及び、上下に排列する。想うに、水溢るる時に木を挿して閣道と為したものであろう。今は廃れて久しく、ただ二本の木が高きところに架かりて残るのみで、なお棟梁の巨きなるもののごとし。三たび転ずれば、峡はいよいよ隘く、崖はいよいよ高し。西崖の半ばに、層楼は高く懸かり、曲榭は斜めに倚り、望めば蜃気楼が重台を吐くがごときは、懸空寺である。五台山北壑にもまた懸空寺があるが、これに擬してもその全体の姿を成すに及ばない。仰いで神飛び、勇を鼓して独り登る。入れば楼閣は高下し、檻路は屈曲す。崖はすでに矗削として天下の巨観を為し、寺の点綴もまた勝を尽くし能う。岩に依りて結構し、しかも岩石に累わされざるは、この僧寮の位置の序に適えるのみ。すべて客坐・禅龕・明窓・暖榻、尋丈の間に、粛然として中に雅あり。下りて後、また峡中を行くこと三四転すれば、洞門豁然として、峦壑掩映し、別に一天あるがごとし。
雲中郡志
悬空寺州南十里磁窑口,崖悬穴三百余丈,后魏建。
懸空寺は州の南十里、磁窯口にあり。崖は懸かり穴は三百余丈。後魏の建。
[雍正]山西通志
悬空寺,在州南恒山下磁窑峡,悬崖三百余丈,崖峭立如削,倚壁凿窍,结构层楼,危梯仄磴,上倚遥空,飞阁相通,下临无地,恒山第一景也。后魏时建。
懸空寺は州の南、恒山下の磁窯峡にあり、懸崖三百余丈、崖は峭立して削れるがごとく、壁に倚りて竅を鑿ち、層楼を結構し、危梯仄磴、上は遥空に倚り、飛閣相い通じ、下は地に臨むこと無し。恒山第一の景なり。後魏の時に建つ。
長沙府岳麓志
忆己未秋游恒岳,自浑源州南入,可二十里至山足。其间有所谓悬空寺者,峭壁百丈,寺县其中,观之令人惊心骇目。时秋将半,白草黄沙,塞雁哀鸣,边城景色,莾苍弥望。路委折,不甚陡峻,骑行可至山腰,过此则拾级而登。土人指十鳌相告,因与同游诸子分韵赋诗。及至顶谒岳帝,日正中天,秋阳暴烈,俯视山下,则已黑云宻布,大雨忽作,雷声殷殷,反在足下。噫嘻,岂不一大观也哉!
己未の秋、恒岳に遊んだことを憶う。渾源州の南より入り、二十里ばかりで山足に至る。その間にいわゆる懸空寺があり、峭壁百丈、寺はその中に懸かり、これを観れば人をして心を驚かし目を駭(おどろ)かせる。時に秋まさに半ばならんとし、白草黄沙、塞雁哀しく鳴き、辺城の景色、莾蒼として望みに弥り渡る。路は委折してさほど陡峻ならず、騎行すれば山腰に至り、これを過ぎれば階級を拾い(上り)て登る。土人は十鰲を指して告げ、よって同遊の諸子と韻を分かちて詩を賦す。頂に至り岳帝を謁するに及び、日まさに中天に在り、秋陽は暴烈にして、山下を俯視すれば、すでに黒雲密布し、大雨忽ち作り、雷声殷殷として、かえって足下に在り。ああ、豈に一大観ならずや!
欽定大清一統志
悬空寺。在浑源州南磁窑峡口。石壁巉岩,悬空结构,飞阁相望,下临无地。寺创自后魏,盛于元时,近增三殿,称奇观焉。
懸空寺。渾源州の南、磁窯峡口にあり。石壁巉岩、懸空の結構、飛閣相い望み、下は地に臨むこと無し。寺は後魏より創まり、元の時に盛んとなり、近ごろ三殿を増し、奇観と称せられる。
恒山志
遥闻十里钟,在山忽在水。盘折叩山门,老僧闲如此。戏严缀虚空,石阁轻如纸。携手说飞登,白云檐外止。
遥かに聞く十里の鐘、山に在り忽ち水に在り。盤折して山門を叩けば、老僧の閑なることかくのごとし。けわしき巖は虚空に綴り、石閣は紙より軽し。手を携えて飛登を説けば、白雲は檐外に止まる。
刬石成香地,凭虚结构工。梵宫依碧𪩘,栈阁俯丹枫。涛壮磁窃雨,僧寒谷口风。跻攀真不易,遥望意无穷。
石を刬(けず)りて香地を成し、虚に凭りて結構工なり。梵宮は碧巖に依り、桟閣は丹楓を俯す。濤壮なり磁峡の雨、僧寒し谷口の風。躋攀まことに易からず、遙望して意無窮なり。
鴻爪前遊日記
复望悬空寺,又为之神色飞越。盖其横粘千仞壁上,凌空妙凑,仰可见底。寺状则旁耸而中凹,乍合为三,乍离而成九,莫不架殿戴阁,傍阁撑台,面面风棂,仿佛浮图之鼎峙。中间飞桥交绾,雕槛斜穿,人行其间,只觉风飏云流,互相容与,为之伫立想象者久之,盖诧神工匪由人造矣。须臾,因崖南一线,沿之以升,其中或如来、弥勒同龛,或老子、纯阳异室。虽方丈之地,而禅房蒲室、奥馆凉台,缭曲往复,幻化不测,只觉千门万户,俨入建章宫阙,奇矣哉!
再び懸空寺を望み、またこれがために神色飛越す。そもそもそれは千仞の壁上に横たわり粘り、空を凌ぎて妙に湊まり、仰げば底まで見える。寺の状は、傍ら聳えて中凹み、たちまち合して三となり、たちまち離れて九を成し、いずれも殿を架し閣を戴き、閣に傍って台を支え、面面の風櫺(風を通す欄窓)、髣髴として浮図の鼎峙のごとし。中間には飛橋交わり綰び、雕檻斜めに穿ち、人その間を行けば、ただ風の飏がり雲の流れ、互いに容与するを覚え、これがために佇立して想象すること久しく、そもそも神工の人の造るところに非ざるを詫き嘆く。しばらくして、崖南の一線に因り、それに沿うて升る。その中、あるいは如来・弥勒は同じ龕に在り、あるいは老子・純陽は室を異にす。方丈の地と雖も、禅房・蒲室・奥館・涼台、繚曲往复し、幻化測るべからず、ただ千門万戸、儼として建章の宮闕に入るを覚えるのみ。奇なりかな!
古写真
1937年
傅増湘は1936年4月22日から30日までの北岳の行程を『北岳遊記』に記し、1937年に『芸林月刊:遊山特集号』第九巻に発表した。同巻に載る懸空寺の旧影は、谷底の方向から崖に臨む建築群の全体の輪郭を伝えている。画像の出典は恒山風景名勝区管理センターの転載ページを参照。
参考資料
- 靳瑋「懸空寺金代碑記考」、『山西大同大学学報(社会科学版)』2021年第2期。
- 渾源県人民政府「懸空寺」、2024年10月24日。
- 恒山風景名勝区管理センター「古建築アーカイブで見る山西|恒山懸空寺」。
- 恒山風景名勝区管理センター「古代の名士、三たび懸空寺を観る」。
- 『文匯報』「懸空寺修繕:崖の縁に舞い、再び千年立つ」、2016年5月25日。
- 李玉明・王雅安主編、陳学鋒分冊主編『三晋石刻大全・大同市渾源県巻続編』、三晋出版社、2015年。