皇沢寺

皇沢寺は四川省広元市の嘉陵江西岸にあり、摩崖造像は北魏末期に開凿が始まり、西魏・北周・隋から唐代にかけて開窟が続けられた。本稿は唐代の仏閣、後蜀の武則天旧廟、宋代の武后真容殿、清代の遊歴の記録をたどり、ベルシュマンと梁思成の古写真をあわせて収録する。

時代
北魏
地域
四川
所在地
四川省広元市利州区
1939年から1940年の川康調査期間、梁思成が撮影した皇沢寺摩崖造像の主龕
1939年から1940年の川康調査期間、梁思成が撮影した皇沢寺摩崖造像の主龕

はじめに

広元の市街地の西、嘉陵江は烏龍山の麓を流れる。皇沢寺は西岸の崖壁に沿って建ち、江の東岸には千仏崖があり、二つの石窟は嘉陵江の両岸に分かれて並ぶ。北魏末期、工匠は皇沢寺側の岩壁に窟を開き像を造り始めたが、最初に開窟を主導した者は名を残していない。西魏・北周の時代にも工匠は窟を鑿ち像を刻み続け、隋代にも開鑿が続き、初唐から盛唐に至って、皇沢寺の開窟造像は頂点に達した。

七世紀初めごろ、工匠は現在の第28龕を穿ち終えた。貞観二年(628年)には、唐の建国の功臣で利州都督を務めた武士彠と妻の楊氏——二人は武則天の父母である——が、龕の前に西龕仏閣を建てた可能性がある。龕内は阿弥陀如来[1]を本尊とし、観世音菩薩と勢至菩薩が左右に並ぶ。仏閣は別の石窟ではなく、龕の前に接続する木造建築である。石像は崖の中に鑿たれ、仏閣は崖の外に建てられ、二つの部分は一体となって人々の礼拝に供された。

宝暦二年(826年)には、龕中の仏像はすでに風雨に侵されていた。修繕を主導した利州太守の姓名は伝わらず、残碑には彼の郡望[2]「北平」と姓の「崔」だけが残る。この太守は財を施し、工匠に仏閣の重修を命じた。この修繕を記録する碑は高さ三尺八寸、幅一尺三寸で、碑額には仏龕が刻まれ、その外周を蟠龍が巻き巡る。本文の残損は甚だしいものの、太守が銭を施し工を命じたことと、仏閣を重修した経緯はなお読み取れる。

遅くとも後蜀の広政二十二年(959年)までには、皇沢寺の境内に武則天を祀る祠廟があった。昭武軍節度使[3]の李奉虔はこの年に旧廟を重修し、『大蜀利州都督府皇沢寺唐則天皇后武氏新廟記』を立てた。利州で水害や旱魃が起きると、軍民は廟に赴いて武則天に祈りを捧げた。

北宋の頃、皇沢寺にはすでに「唐武后真容殿」があり、武則天の真容が祀られていた。寺内には崖に沿って穿たれた仏教造像と、武則天を祀る廟殿とが併存し、両者の用途は異なっていた。

嘉慶十五年(1810年)、郷試を主催するため蜀に入った陶澍は広元を通過した。彼は嘉陵江を渡って皇沢寺に入り、寺の中で比丘尼の装束をした武則天像を見た。彼の遊記はさらに、寺内に一基の梳粧楼があったことにも言及する。

1954年に宝成鉄道を建設した際、作業員は寺内の呂祖閣前の斜面からこの後蜀碑を掘り出した。歴史学者の郭沫若は後に、後蜀碑と唐代の詩人李商隠の「利州江潭作」、地方の古い言い伝えとを結びつけ、武則天は広元で生まれたと主張した。しかし碑の中の出生地に関わる肝心な文字はすでに欠損しており、楊氏が龍に感じて孕んだという説も後世の伝説であって、これをもって武則天の広元出生を断定することはできない。1961年、皇沢寺摩崖造像は第一陣の全国重点文物保護単位に指定された。

歴史文献

再修西龕仏閣記

再修西龛佛阁记

再修西龕仏閣記

益昌郡城江岸之□□□□十里有凿石古龛:有释迦如来像设并诸圣贤 / 为侍卫之仪□□□□□□□□则□□。圣唐贞观二载,郡□武都督杨夫□ / 灵异如响,建其□□□□□□□居诸而□□□兆圣仪容□□为风雨所侵。 / 我太守北平公崔于□□□□□□□□□□□□□舍净缗□□□□□□ / 胜因,遂令良工□□□□□□□水□□□□一方□□□□□荣。

益昌郡城の江岸から[…]十里ほどに、石を鑿った古い龕がある。釈迦如来の像と諸聖賢の[…]侍衛の儀[…]。聖唐貞観二載(628年)、郡の[…]武都督・楊夫人[…]、霊異は響のごとく、その[…]を建て、[…]歳月は流れて[…]聖なる儀容[…]風雨に侵された。我が太守・北平公崔[…]において[…]浄緡を捨て[…]勝因により、遂に良工に命じて[…]水[…]一方[…]栄。

大唐宝历二年岁次□□□□□□日□。

大唐宝暦二年、歳次[…]日[…]。

右碑高三尺八寸,广一尺三寸,额镌佛龛,环以蟠龙。额下前两行有转运使崔字,不见其名。□戌上元,亦无由考为何年。后七行左行标题云:再修西龛佛阁,记中有贞观二载字,当是述创建佛阁之事。又云:我太守北平公崔,未审即转运使其人否?益昌郡本义成郡,天宝元年更名。补访碑录作皇泽寺转运使崔□造象。残碑上方有横列十字,非古刻也。碑文阙字,据三巴孴古志补注之。

右の碑は高さ三尺八寸、幅一尺三寸。額には仏龕が鐫られ、蟠龍をもってこれを環らす。額下の前二行に「転運使崔」の字があり、その名は見えない。[…]戌上元についても、何年に当たるか考える由がない。後の七行は左行で、標題に「再修西龕仏閣」と云い、記の中に「貞観二載」の字があるのは、仏閣創建の事を述べたものであろう。また云う、「我が太守北平公崔」と。転運使その人であるかどうかは審らかでない。益昌郡はもと義成郡で、天宝元年に名を改めた。『補訪碑録』は「皇沢寺転運使崔[…]造象」と作す。残碑の上方に横列する十字があるが、古い刻ではない。碑文の闕字は、『三巴孴古志』に拠って補注したものである。

《八琼室金石补正》卷七十一《再修西龛佛阁记》,清陆增祥撰;碑文据《三巴孴古志》补注 (『八瓊室金石補正』巻七十一「再修西龕仏閣記」、清・陸増祥撰。碑文は『三巴孴古志』に拠り補注)

唐皇沢寺造象碑二種

碑连额高三尺八寸,广一尺七寸,九行;大字二行,行十六字;小字七行,行三十字。大字径寸余,小字径八分,正书。

碑は額に連なり高さ三尺八寸、幅一尺七寸、九行。大字は二行、行は十六字。小字は七行、行は三十字。大字は径一寸余り、小字は径八分、楷書。

右碑在广元县西二里嘉陵江岸,倚岩建寺。相传唐武士彟镇蜀,生武后于此。后临朝,建此寺。碑已泐,不可读。

右の碑は広元県の西二里、嘉陵江の岸にあり、岩に倚りて寺が建てられている。相伝えて、唐の武士彠が蜀を鎮め、ここで武后を生んだという。武后が朝に臨んだ後、この寺を建てた。碑はすでに泐損して読むべからず。

《金石苑》卷三《唐皇泽寺造象碑二种》,清刘喜海辑 (『金石苑』巻三「唐皇沢寺造象碑二種」、清・劉喜海輯)

元豊九域志

古迹。皇泽寺,有唐武后真容殿。按士彟为利州都督,生后于此。望乡台、邓艾城。

古跡。皇沢寺には唐の武后真容殿がある。按ずるに、士彠が利州都督となり、ここで武后を生んだ。望郷台、鄧艾城。

《元丰九域志》卷八 利州路 利州 古迹,北宋王存等撰 (『元豊九域志』巻八 利州路 利州 古跡、北宋・王存ら撰)

利州江潭作

神剑飞来不是销,碧潭珍重驻兰桡。自携明月移灯疾,欲就行云散锦遥。河伯轩窗通贝阙,水宫帷箔卷冰绡。他时燕脯无人寄,雨满空城蕙叶雕。

神剣は飛び来たりて消え去ることなく、碧き潭にいと重んじて蘭の櫂を留める。自ら明月を携えて燈を移すこと疾く、行雲に就きて錦を散らさんと遥かに望む。河伯の軒窓は貝闕に通じ、水宮の帷箔は氷のごとき綃を巻き上げる。いつの日か燕脯を寄せる人もなく、雨は空しき城に満ち、蕙の葉は凋む。

《李义山诗集》利州江潭作,唐李商隐 (『李義山詩集』「利州江潭作」、唐・李商隠)

輿地紀勝

古迹天后梳洗楼,在州城西北渡江二里。一统志无城字。

古跡。天后梳洗楼は州城の西北、江を渡って二里の所にある。『一統志』には「城」の字がない。

太后故宅报恩寺在州城北一里,即唐□□□□,

太后の故宅報恩寺は州城の北一里にあり、すなわち唐の[…]、

一统志作在利州北一里。报恩寺。

『一統志』には利州の北一里にあると作す。報恩寺。

顺圣皇后庙,唐李义山有感孕金轮所诗,意即此地也。按义山诗注所作处。

順聖皇后廟。唐の李義山に「感孕金輪所」の詩があり、その意はすなわちこの地であろう。義山の詩注に記された所による。

《舆地纪胜》卷一百八十四 利州 古迹,南宋王象之 (『輿地紀勝』巻一百八十四 利州 古跡、南宋・王象之)

蜀中広記

今之临清门川主庙,即唐皇泽寺也。九域志云:利州都督武士护生武后于此,因赐寺,刻其真容。李商隐利州江潭诗注:感孕金轮,乃武则天事也。诗云:神剑飞来不是销,碧潭珍重驻兰桡。自携明月移灯疾,欲就行云散锦遥。河伯轩窗通贝阙,水宫帷箔卷永稍。他时燕脯无人寄,雨满空城蕙叶雕。盖后母感漑龙而有孕也。

今の臨清門の川主廟は、すなわち唐の皇沢寺である。『九域志』に云う、利州都督の武士護はここで武后を生み、これにより寺を賜り、その真容を刻んだ。李商隠の「利州江潭」詩の注に「感孕金輪」とあるのは、武則天の事績である。詩に云う、神剣は飛び来たりて消え去ることなく、碧き潭にいと重んじて蘭の櫂を留める。自ら明月を携えて燈を移すこと疾く、行雲に就きて錦を散らさんと遥かに望む。河伯の軒窓は貝闕に通じ、水宮の帷箔は氷のごとき薄絹を巻き上げる。いつの日か燕脯を寄せる人もなく、雨は空しき城に満ち、蕙の葉は凋む。蓋し后の母は漑龍に感じて孕みたり。

《蜀中广记》卷二十四 保宁府一 广元县,明曹学佺 (『蜀中広記』巻二十四 保寧府一 広元県、明・曹学佺)

道光保寧府志

皇泽寺在县西一里嘉陵江岸,倚岩建寺,峭壁如削。

皇沢寺は県の西一里、嘉陵江の岸にあり、岩に倚りて寺が建てられ、峭壁は削るがごとし。

《道光保宁府志》卷十三 广元县 寺观,清道光二十三年刻本 (『道光保寧府志』巻十三 広元県 寺観、清・道光二十三年刊本)

山行力苦疲,乍喜乘流适。鼓棹下嘉陵,豁然双峡拆。苍厓无寸肤,苔色千年积。尚留斧凿痕,知是架栈迹。仰视白云端,人马行络绎。奔濑送轻舫,回头忽已失。出峡见危峰,横江起律崒。杰阁踞其巅,势若排风翮。曾闻徐佐卿,化鹤此栖息。仙踪半眇茫,松响自萧槭。前头石壁来,古佛千万亿。龛传韦抗劖,记出苏颋笔。倏见利州城,突兀在江侧。空潭感行云,古寺访皇泽。急雨川上来,停桡系椓𣏾。稍霁复前行,乌奴山翠滴。团团岩树青,溅溅石泉白。江鸟与江花,一一入画格。舣舟登葭萌,援笔记所历。清景追亡逋,十已遗六七。

山行は力苦しみ疲れ、乍ち流れに乗る心地よさを喜ぶ。櫂を鼓して嘉陵を下れば、豁然として双峡裂け開く。蒼き厓には寸肤なく、苔色は千年の積もり。なお斧凿の痕を留め、是れ桟を架けし跡と知る。仰ぎ視れば白雲の端、人馬絡繹として行く。奔瀬は軽舫を送り、回頭すれば忽ち已に失せたり。峡を出でて危峰を見る、江を横ぎり律崒として起つ。傑閣はその巓に踞り、勢いは風を排する翮のごとし。曾て聞く、徐佐卿、鶴と化して此に栖息せりと。仙蹤は半ば眇茫として、松の響き自ら蕭槭たり。前頭より石壁来たり、古仏千万億。龕は韋抗の劖りしと伝え、記は蘇頲の筆より出づ。倏ち利州城を見る、突兀として江の側に在り。空潭に行雲を感じ、古寺に皇沢を訪ふ。急雨は川上より来たり、橈を停めて木杭に繋ぐ。稍や霁れて復た前に行く、烏奴山は翠滴るがごとし。団団として岩の樹は青く、濺濺として石泉は白し。江鳥と江花、一一として画格に入る。舟を舣げて葭萌に登り、筆を援けて所歴を記す。清景を追ふも亡逋し、十に已に六七を遺つ。

《道光保宁府志》广元县 艺文 郑王臣《乘舟下嘉陵江》 (『道光保寧府志』広元県 芸文、鄭王臣「乗舟し嘉陵江を下る」)

蜀輶日記

五里宿广元县,古葭萌国,賨夷所居。魏以后为利州,舟航四达,西蜀要冲。唐武士彟为利州都督,生武后于此。皇泽寺是其故宅,中有像,作比邱尼。又有梳妆楼,西望山势波起,作金水形,为入栈来所罕见。

五里して広元県に宿す。古の葭萌国で、賨夷の住んだ所である。魏以後は利州となり、舟航は四方に達し、西蜀の要衝である。唐の武士彠は利州都督となり、ここで武后を生んだ。皇沢寺はその故宅で、中に像があり、比丘尼の姿を作す。また梳粧楼があり、西を望めば山勢は波のごとく起ち、金水の形を成し、桟道に入って以来稀に見る景であった。

《蜀輶日记》卷二 十八日,清陶澍 (『蜀輶日記』巻二 十八日、清・陶澍)

丁亥入都紀程

闰月二十三日行,出城三里,渡桔柏津,即杜工部纪行诗之桔柏渡,今仍称桔柏渡,或称桔柏潭。但古有笮桥,五代时尚然,今则用舟在嘉陵、白水二江合处,下流里许。未至渡口,有坊题唐县令何易于腰笏挽舟处。既渡,上坡,又有坊,题唐明皇双鱼来舟处。五里榆钱树,十里张家湾,十里皀角铺尖。二十五里,过渡,抵广元城外宿。城外长街一条,为往来要道,过客多不入城。广元,古苴国,賨夷所居。华阳国志:周显王时,蜀王封其弟葭萌于汉中,号曰苴侯,命之邑曰葭萌。苴侯与巴王为好,巴、蜀雠也。蜀王怒,伐苴,苴侯奔巴,求救于秦。秦遣张仪伐蜀,灭之,并灭巴。是也。秦置葭萌县,汉因之。先主初入蜀,屯于葭萌,既而西袭成都,留霍峻守葭萌,刘璋将扶禁等帅兵由阆水上攻围峻,为峻所败,均即此。隋改绵谷为利州治,唐亦曰利州。武士彟为利州都督,生武后于此。今对江有皇泽寺,云是故宅也。山势开展,河下小船颇多,可上溯至略阳以北之白水江汛为止。蜀中有事西北者,其将以广元为转运之要津乎?是日晴,夜小雨。

閏月二十三日に出発し、城を出て三里、桔柏津を渡った。杜工部の紀行詩の桔柏渡であり、今もなお桔柏渡と称し、あるいは桔柏潭ともいう。ただ古くは笮橋が架かり、五代の時もなおそうであったが、今は嘉陵・白水の二江が合流する所の下流一里ほどで舟を用いる。渡口に至らない先に、「唐の県令何易于が腰に笏を挟んで舟を挽いた処」と題する坊がある。渡り終えて坂を上ると、また坊があり、「唐明皇の双魚舟を来たらしめし処」と題する。五里に楡銭樹、十里に張家湾、十里の皀角舗で昼食した。二十五里で渡しを過ぎ、広元城外に着いて宿した。城外に一条の長街があり、往来の要道で、過客は多くは城に入らない。広元は古の苴国で、賨夷の住んだ所である。『華陽国志』に、周の顕王の時、蜀王はその弟葭萌を漢中に封じ、号を苴侯といい、その邑を葭萌と命じた。苴侯は巴王と好を結んだが、巴と蜀は讐敵であった。蜀王は怒って苴を伐ち、苴侯は巴に奔り、秦に救いを求めた。秦は張儀を遣わして蜀を伐ってこれを滅ぼし、あわせて巴をも滅ぼした。このことである。秦は葭萌県を置き、漢はこれに因った。先主(劉備)が初めて蜀に入ったとき、葭萌に駐屯し、まもなく西へ成都を襲い、霍峻を残して葭萌を守らせた。劉璋の将・扶禁らが閬水から兵を率いて上り霍峻を攻め囲んだが、霍峻に敗れた。みなこの地のことである。隋は綿谷を利州の治所と改め、唐もまた利州と呼んだ。武士彠は利州都督となり、ここで武后が生まれた。今、江の対岸に皇沢寺があり、故宅であるという。山勢は広く開け、川下には小船が多く、略陽以北の白水江の汛地まで遡上できる。蜀中で西北の用兵があれば、将たる者は広元を転運の要津とするであろうか。この日は晴れ、夜に小雨が降った。

《黎氏家集》丁亥入都纪程卷下 闰月二十三日,清黎庶昌 (『黎氏家集』「丁亥入都紀程」巻下 閏月二十三日、清・黎庶昌)

古写真

1906—1909年

エルンスト・ベルシュマンは四川での考察期間中に皇沢寺を撮影した。写真は後に1926年刊行の『中国の建築と景観』(Baukunst und Landschaft in China)に収められた。一枚は「武后記念寺」と題され、もう一枚は「武后廟上方の崖壁仏像」と題される。

1939—1940年

中国営造学社の川康調査期間中、梁思成は皇沢寺摩崖造像の主龕を撮影した。写真は後に梁思成著・林洙整理の『梁思成西南建築図説(手稿本)』に収められた。

参考文献