岳陽楼

岳陽楼は湖南省岳陽市岳陽楼区に位置し、唐代にはすでに岳州城の洞庭湖に臨む城楼であった。北宋の滕宗諒が重修して范仲淹が『岳陽楼記』を作り、現存する主楼は清の光緒六年に再建された際の形制を受け継ぐ。本文は唐・宋から明・清に至る詩・記・碑記と方志を原文のまま収録し、さらに1900年頃から日本軍占領時期までの古写真によって、その城垣・湖岸・街巷・院落の旧貌を留める。

時代
唐
地域
湖南
所在地
湖南省岳陽市岳陽楼区
『亜細亜大観』第三輯:洞庭湖の側から遠望した岳陽楼と城垣の全景の旧影、1926年撮影
『亜細亜大観』第三輯:洞庭湖の側から遠望した岳陽楼と城垣の全景の旧影、1926年撮影

はじめに

唐の開元四年(716)、宰相の張説が岳州に出守すると、しばしば文士を招いて洞庭湖に臨む西城門の楼に登り、詩を賦した。もともと城防に属する楼門であったこの建物は、これによって岳陽楼の名で知られるようになった。その後に岳州を経た詩人もまた、その多くは遷謫の身であり、登臨の作にはつねに旅と時局が刻んだ憂いが滲んでいた。大暦三年(768)の冬、杜甫は病をおして岳州に漂泊し、かねて聞き及んでいた岳陽楼についに登った。目の前には呉・楚を東南に裂く湖面が横たわり、そばにあるのは一葉の孤舟のみで、北方の戦乱はなお止まなかった。翌年の春、杜甫は当地の長官に陪して再び岳陽楼に登った。湖岸の梅はすでに開き、泥の中には新たな草が萌えていた。詩末の一句「これより更に南征せん」には、さらに南へ向かう決意が書き留められている。

三百数十年後、滕宗諒は罪を得て岳州の知州として赴任した。楼に登った彼は、旧来の規模の狭さを嫌うだけでなく、文集や楼の壁面に散見される歴代の題詠が将来失われることを憂え、まず僚属に命じて唐・宋の文士の文集から登臨の作七十八首を選び出し、時代順に石に刻んで楼内の南北二つの壁に嵌め込んだ。慶暦五年(1045)の春、滕宗諒は工匠を集めて旧楼を拡張した。同年六月、彼は『洞庭秋晚図』を范仲淹に贈り、遠く鄧州にいるこの友人に、新しい楼のための記を求めた。范仲淹は自ら岳州を訪れはしなかったが、洞庭湖の陰晴の風雨を借りて「天下に先んじて憂え、天下に後れて楽しむ」と書いた。一地方の城楼は、これによってこの文章とともに後世に伝えられることとなった。

三十余年後の元豊元年(1078)十月、岳州の州治のある内城の西南隅で火災が起こり、炎は岳陽楼にまで及んだ。楼中の石刻は倒れて裂け、「謝仙」の二字だけがなお判読できたが、出火の由来についての記録は残らなかった。翌年の春、岳州知州を代行していた鄭民瞻は僚属とともに旧観の回復を決め、折よく洞庭湖に百余本の巨木が漂い着いたので、地元の人々に命じてこれを引き上げ、楼の修理の材とした。南宋の嘉熙元年(1237)、岳州知州の李曽伯はなおしばしば公務の合間に楼に登っていた。十四年後、荊州への赴任の途中で再び岳州を通った彼の目には、かつての棟宇はすでに灰燼と化しており、火災の年月も由来もすでに考証することができなかった。そのまた一年後、岳州知州の趙汝帰が廃址に新しい楼を建て上げ、図面を李曽伯に送って、この再建のための記を求めた。

成化三年(1467)、岳州知府の呉節は、当時の岳陽楼の規模の狭さを見て、古い楼を取り壊して新築したいと考えた。しかし当地はちょうど飢饉に見舞われ、府庫にも余裕がなく、呉節はやむなくいったん棚上げにした。成化七年(1471)、倉廩に蓄えができ、府庫にも剰余が生じると、呉節は僚属とともに府庫の余剰金を割り出し、さらに自らの俸禄を加えて、その年の冬に着工し、翌年の夏に完成させた。崇禎十二年(1639)六月、岳陽楼は再び火災に遭ったが、出火の由来はやはり記録されていない。岳州推官の陶宗孔と知府の戴光裕はすぐに再建を倡議し、陶宗孔が工事を取り仕切った。工匠が楼基の東南隅から梅花の模様を帯びた石を掘り出したため、楼の左にはこの石を収める仙梅堂が新たに加えられた。

明清の交替の折、岳州城は戦乱の中で瓦礫と化し、人口は流散した。岳陽楼は倒れずに済んだものの、楼身もすでに傾き損なわれていた。順治八年(1651)、江防を担当していた楼晟と岳州知府の李若星は、すぐに楼を修めるのではなく、まず流民を呼び戻し、駐屯の軍を律した。城中に再び人烟が戻ってから、両人は資金を捐じて工を募り、楼体を補修した。康熙十八年(1679)、李遇時が岳州知府に任じられたとき、当地は呉三桂の乱とそれに続く飢饉を経たばかりで、城中はなお安定せず、岳陽楼も傾いて今にも倒れかけていた。李遇時は楼の修理をいったん先送りにし、まず農事・賑済・治安に取り組んだ。地方がやや落ち着くと、彼は巴陵知県の趙士珩とともに資金の調達を始めたが、思いがけず康熙二十二年に岳州の西門で大火が起こり、岳陽楼は再び損害を受け、翌年になってようやく修まった。その四年後、別の城の火災が再び楼を焼いた。岳州知府の孫道林が康熙四十年(1701)に再建に着手したが、未完の工事はまた洪水に押し流された。巴陵知県の王国英と湖広巡撫の布蘭泰は、その後それぞれ康熙五十四年(1715)と雍正四年(1726)に修建を引き継いだ。

乾隆五年(1740)、湖広総督の班第(バンディ)が資金の拠出を奏請して岳州城を修整し、あわせて岳陽楼を重修することとなり、岳州知府の田爾易と巴陵知県の張世芳が工事を取り仕切った。翌年に落成した新しい楼は三層からなり、四面に廊軒が張り出し、平面は十字のようであった。乾隆三十九年(1774)、岳州知府の蘭第錫と巴陵知県の熊慰奨が再び楼の修理を奏請した。翌年、楼の左に仙梅亭が再建され、楼の右に望仙閣が増築され、主楼の両側にはここにそれぞれ一つずつ付属の楼亭が並ぶこととなった。

咸豊二年(1852)、岳州知府の廉昌と巴陵知県の胡方谷は西門外の月城[1]を修築した際、あわせて岳陽楼も修葺した。咸豊の中期、清軍と太平軍は岳州で十余次にわたって交戦し、主楼と周囲の城垣はいずれも破壊された。同治六年(1867)になってようやく、湖北巡撫の曽国荃が岳州の関卡の税収を割き、主楼・斗姆閣・仙梅亭が重修された。斗姆閣もこの工事で三醉亭と改名された。十余年後、洞庭湖の水は再び楼基を洗い裂いた。岳州知府の張徳容は元の場所での補修を続けるのではなく、光緒六年(1880)に主楼と二つの亭を城内へ六丈余り移し、湖に臨む側に駁岸[2](護岸)を築いた。今日の主楼が受け継いでいるのは、まさにこの再建で確立された形制である。

民国期には軍閥が混戦し、岳陽楼の内部は兵営や馬廐として使われ、門窓・匾聯・碑刻は絶えず損なわれた。民国二十一年(1932)、湖南省政府は資金を拠出するとともに地方への募金を募り、岳陽警備司令の段珩と県教育局局長の廖莘耕の主宰のもとで大修を行い、二年後に主楼・仙梅亭・三醉亭・門楼が一斉に整えられた。民国二十七年(1938)十一月、日本軍は岳陽県城を占領し、さらに楼内を岳陽から武漢一帯の軍事・経済情報を収集する警察分署とし、弾薬や油料を堆積して、中国人の立ち入りを禁じた。日本軍が岳陽を占領した七年の間に、楼中の貴重な文物も大量に盗まれた。民国三十四年(1945)に日本が降伏した後、国民政府軍第十八軍第十八師が九月初めに駐岳の日本軍の降伏を受け入れ、師団の司令部を楼内に置いた。同年十一月、湖南省政府主席の王東原は名勝を保護する告示を発し、軍がこれ以上占有し続けないよう求めた。

1950年、岳陽県人民政府は初めて資金を拠出して岳陽楼を維修し、腐朽した木部材を取り替え、梁柱を補強し、楼身に油彩を塗り直し、登楼の道路を整えた。1955年に城門と湖に臨む岸基を維修した際には、残存していた詩文・図像の石碑四十二塊を主楼の後ろの壁に嵌め込んだ。1975年と1978年には、三醉亭とすでに傾いていた仙梅亭が相次いで落架重修された。1980年代初めには、白蟻と長年の雨漏りが主楼の多くの梁柱を再び腐朽させた。国家文物部門の批准を経て、岳陽市は1983年3月15日から岳陽楼を全体として落架し、取り外した部材を一つずつ検査し、引き続き使える旧部材はできる限り修復して残した上で、光緒六年に形成された清代の形制に則って組み直した。1984年5月1日、修復後の岳陽楼は再び公開された。千有余年のあいだ、楼身はたびたび水・火・兵燹を経て、梁柱は取り替えられ、位置も城内へ移った。一代また一代の人々が旧址と旧制のあいだで楼を新たに起こし続け、唐宋以来の登臨と題詠もまた、それとともに今日へと残された。

歴史文献

『杜工部集』

昔闻洞庭水,今上岳阳楼。吴楚东南坼,乾坤日夜浮。

昔より洞庭の水を聞き、今、岳陽楼に上る。呉楚、東南に坼(さ)け、乾坤、日夜に浮かぶ。

亲朋无一字,老病有孤舟。戎马关山北,凭轩涕泗流。

親朋よりの音信(一字)は無く、老病の身に孤舟あるのみ。戎馬は関山の北にあり、軒に凭(よ)れば涕泗流る。

『杜甫集』巻五「登岳陽楼」、唐 杜甫撰、四部叢刊景南海潘氏蔵宋刊本

湖阔兼云雾,楼孤属晚晴。礼加徐孺子,诗接谢宣城。

湖は闊(ひろ)くして雲霧を兼ね、楼は孤(こ)にして晩晴に属す。礼は徐孺子に加えられ、詩は謝宣城に接す。

雪岸丛梅发,春泥百草生。敢违渔父问,从此更南征。

雪の岸に叢梅(むらうめ)発き、春の泥に百草生ず。敢えて漁父の問いに違(たが)わず、これより更に南征せん。

『杜工部集』巻十八「近体詩六十一首」所収「陪裴使君登岳陽楼」、唐 杜甫撰、刻本

「岳陽楼記」

庆历四年春,滕子京谪守巴陵郡。越明年,政通人和,百废具兴,乃重修岳阳楼,增其旧制,刻唐贤今人诗赋于其上,属予作文以记之。予观夫巴陵胜状,在洞庭一湖。衔远山,吞长江,浩浩汤汤,横无际涯,朝晖夕阴,气象万千。此则岳阳楼之大观也,前人之述备矣。然则北通巫峡,南极潇湘,迁客骚人,多会于此,览物之情,得无异乎?若夫霪雨霏霏,连月不开。阴风怒号,浊浪排空。日星隐耀,山岳潜形。商旅不行,樯倾楫摧。薄暮冥冥,虎啸猿啼。登斯楼也,则有去国怀乡,忧谗畏讥,满目萧然,感极而悲者矣。至若春和景明,波澜不惊,上下天光,一碧万顷,沙鸥翔集,锦麟游泳,岸芷汀兰,郁郁青青。而或长烟一空,皓月千里,浮光跃金,静影沉璧,渔歌牙答,此乐何极!登斯楼也,则有心旷神怡,宠辱偕忘,把酒临风,其喜洋洋者矣。嗟夫!予尝求古仁人之心,或异二者之为,何哉?不以物喜,不以己悲。居庙堂之高,则忧其民;处江湖之远,则忧其君。是进亦忧,退亦忧。然则何时而乐耶?其必曰:“先天下之忧而忧,后天下之乐而乐乎!”噫!微斯人,吾谁与归?时六年九月十五日。

慶暦四年の春、滕子京は巴陵郡に謫守(左遷されて郡守となっ)た。明年を越えて、政は通り人は和し、百廃は倶(とも)に興った。すなわち岳陽楼を重修し、その旧制を増し、唐の賢人と今人の詩賦をその上に刻し、予に属して文を作りてこれを記さしめた。予、それ巴陵の勝状を観るに、洞庭の一湖に在り。遠山を銜(ふく)み、長江を呑み、浩浩湯湯(しょうしょう)として、横に際涯無く、朝に暉き夕に陰り、気象は万千なり。これすなわち岳陽楼の大観なり。前人の述べたるところ、備われり。然れども北は巫峡に通じ、南は瀟湘に極まり、遷客・騒人、多くここに会す。物を覧るの情、異なること無からんや。それ霪雨は霏霏(ひひ)として、月を連ねて開けず。陰風は怒号し、濁浪は空を排し、日星は耀を隠し、山岳は形を潜め、商旅は行われず、檣(ほばしら)は傾き楫(かじ)は摧け、薄暮は冥冥として、虎は嘯き猿は啼く。この楼に登れば、すなわち国を去り郷を懐い、讒(そしり)を憂え譏(そしり)を畏れ、満目蕭然として、感極まりて悲しむ者あり。至れるかな、春和らぎ景明るく、波瀾は驚かず、上下天光、一碧万頃、沙鴎は翔け集い、錦鱗は泳ぎ遊び、岸芷・汀蘭は郁郁として青青たり。あるいは長煙一空(ひとそらに晴れわたり)、皓月は千里、浮光は金を躍らせ、静影は璧を沈め、漁歌は互いに答う。この楽しみ、何れにか極まらん。この楼に登れば、すなわち心は曠(ひろ)く神は怡(よろこ)び、寵辱は偕(とも)に忘れ、酒を把りて風に臨み、その喜び洋洋たる者あり。嗟夫(ああ)。予かつて古の仁人の心を求む。あるいは二者の為すところに異ならんか、何をしてか。物をもって喜ばず、己をもって悲しまず。廟堂の高きに居れば、すなわちその民を憂え、江湖の遠きに処れば、すなわちその君を憂う。これ進んでも亦(また)憂え、退いても亦憂う。然らばすなわち何れの時にか楽しまん。その必ず曰く、「天下に先んじて憂え、天下に後れて楽しまん」と。噫(ああ)。この人微(な)くば、吾、誰とか与(とも)に帰せん。時に六年九月十五日。

『范文正公集』所収「岳陽楼記」、北宋 范仲淹撰、四部叢刊本

「求記書」

六月十五日,尚书祠部员外郎、天章阁待制、知岳州军州事滕宗谅,谨驰介致书,恭投邠府四路经略安抚资政谏议节下:窃以为天下郡国,非有山水瑰异者,不为胜,山水非有楼观登览者,不为显,楼观非有文字称记者,不为久,文字非出于雄才巨卿者不成著。今古东南郡邑,当山水间者比比,而名与天壤同者,则有豫章之滕阁,九江之庾楼,吴兴之消暑,宣城之叠嶂,此外无过二三所而巳。虽寝历于岁月,挠剥于风雨,潜消于兵火,圯毁于难患,必须崇复而不使随圯者,盖由韩吏部、白宫傅以下,当时名贤辈各有纪述,而取重于千古者也。巴陵西跨城𬮱,揭飞观,署之曰岳阳楼,不知倜落于何人。自有唐以来,文士编集中无不载其声诗赋咏,与洞庭君山率相表里。宗谅初诵其言,而疑且未信,谓作者夸说过矣。去秋以罪得兹郡,入境而疑与信俱释,及登楼,而恨向之作者所得仅毫末尔。惟有吕衡州诗云:襟带三千里,尽在岳阳楼。此粗标其大致。自是日思以宏大隆显之,亦欲使久而不可废,则莫如文字。乃分命僚属,于韩、柳、刘、白、二张、二杜逮诸大人集中,摘出登临寄咏,或古或律,歌咏并赋七十八首,暨本朝大笔如太师吕公、侍郎丁公、尚书夏公之作,榜于梁栋间。又明年春,鸠材僝工,稍增其旧制。古今诸公于篇咏外,率无文字称纪。所谓岳阳楼者,徒见夫屹然而踞,岈然而负,轩然而竦,伛然而顾,曾不若人具肢体而精神未见也,宁堪久焉?恭惟执事文章器业,凛凛然为天下之时望,又雅意在山水之好,每观送行还远之什,未尝不神游物外,而心与景接。矧兹君山、洞庭,杰然为天下之最胜,切度风旨,岂不摅遐想于素尚,寄大名于清赏者哉!冀戎务尠退,经略暇日,少吐金石之论,发挥此景之美,庶漱芳润于异时,知我朝高位辅臣,有能淡味而远托思于湖山数千里外,不其胜与!谨以洞庭秋晚图一本,随书贽献,涉毫之际,或有所助。干冒清严,伏惟惶灼。

六月十五日、尚書祠部員外郎・天章閣待制・知岳州軍州事の滕宗諒、謹んで使いを馳せて書を致し、恭しく邠府四路経略安撫資政諫議の節下に投ず。竊(かく)に思うに、天下の郡国は、山水の瑰異あるにあらざれば勝れを為さず、山水は楼観の登覧するにあらざれば顕れを為さず、楼観は文字の称記するにあらざれば久しきを為さず、文字は雄才・巨卿より出づるにあらざれば著われを成さず。今古、東南の郡邑で山水の間に当たるものは比比(ひひ)とするが、その名、天壌と同じくするものは、豫章の滕閣、九江の庾楼、呉興の消暑、宣城の疊嶂あり。このほかは二、三か所に過ぎない。たとい歳月に寝(ふ)り、風雨に撓(たわ)め剥(むか)れ、兵火に潜かに消え、難患に圯(やぶ)れ毀(こぼ)たるとも、必ず崇く復して随(つ)いて圯れしめざるは、けだし韓吏部(韓愈)・白傅(白居易)以下、当時の名賢らがおのおの紀述を有ち、千古に重きを取ればなり。巴陵は西に城𬮱(城壁)を跨ぎ、飛観を揭げ、これを岳陽楼と署す。いずれの人に創められしかを知らず。唐あるよりこのかた、文士の編集(文集)の中、その声詩・賦詠を載せざるはなく、洞庭・君山とあらかた相ひ表裏(照応)す。宗諒、初めその言を誦して疑いていまだ信ぜず、作者、誇説(こぜい)過ぎたりと謂えり。去秋、罪を以ってこの郡を得(任ぜられ)、境に入りて疑いと信と倶に釈(と)け、楼に登るに及びて、むかしの作者の得る所、僅かに毫末に過ぎざるを恨む。ただ呂衡州の詩に云う有り、「襟帯三千里、尽く岳陽楼に在り」と。これ、粗(あら)ぽその大致を標す。これより日に、これを宏大・隆顕ならしめんことを思い、また久しくして廃すべからざらんことを欲すれば、すなわち文字に如(し)くはなし。すなわち僚属に分かち命じ、韓・柳・劉・白、二張・二杜、および諸大人の集の中より、登臨・寄詠するものを摘出す。あるいは古、あるいは律、歌詠ならびに賦、七十八首。および本朝の大筆、太師呂公・侍郎丁公・尚書夏公のごときの作を、梁棟の間に榜(は)げたり。また明年の春、材を鳩め工を僝(よろこ)ばせ、稍(やや)、その旧制を増せり。古今の諸公、篇詠のほか、あらかた文字を以って称紀する無し。いわゆる岳陽楼なる者は、徒らにそれ屹然として踞り、岈然として負い、軒然として竦み、傴然として顧るを見るのみ。曾て人の肢体を具えて精神、未だ見えざるに若(し)かず。寧(なん)ぞ久しきに堪えんや。恭しく惟(おも)うに、執事の文章・器業、凛凛然として天下の時望を為し、また雅意、山水の好みに在り。送行・還遠の什(しん、詩篇)を観る毎(ごと)に、未だ嘗て神を物外に遊ばせ、心を景に接せしめざるは无し。矧(いはん)やこの君山・洞庭、杰然として天下の最勝を為すをや。切に風旨を度(はか)るに、あに遐想を素尚(平生の志)に摅(の)べ、大名を清賞に寄せざらんや。冀(こいねが)わくは、戎務の尠(すくな)く退き、経略の暇日、少しく金石の論を吐きて、この景の美を発揮し、ほとんど芳潤を異時に漱(すす)がしめ、わが朝の高位・輔臣に、能く淡味にして遠く思いを湖山数千里の外に託する者有るを知らしめんことを。その勝にあらずや。謹んで『洞庭秋晚図』一本を以って、書に随えて贄献す。毫(ふで)を渉(わた)るの際、あるいは助け有ること有らんか。清厳を干冒(かんぼう)す。伏して惟るに惶灼(こうしゃく)す。

『[乾隆]湖広通志』巻九十六所収「求記書」、北宋 滕宗諒撰、清 邁柱等監修、夏力恕等纂

『岳陽紀勝彙編』

东南之国富山水,惟洞庭于江湖名最大,环占五湖,均视八百里。据湖面势,惟巴陵最胜。濒岸风物,日有万态,虽渔樵云鸟,栖隐出没,同一光影中,惟岳阳楼最绝。古今才人巨公,登临寄傲,流叹声藻,散在编简,或传诵于人口者,才不过一二。惟唐相张燕公文字最著,询之耆旧,则曰:楼得名始命于公矣。

東南の国々は山水に富むが、ただ洞庭は江湖の間にて名、最も大なり。五湖を環り占め、均しく八百里と視(み)なす。湖面の勢いに拠れば、ただ巴陵が最も勝れたり。岸に瀕する風物は日に万態あり、漁樵・雲鳥のごとく、栖まい隠れ出で没すとも、同じ光影の中にあって、ただ岳陽楼が最も絶えたり。古今の才人・巨公、登臨して傲(おごり)を寄せ、歎を流し藻(あや)を声(よ)むも、編簡に散じ、あるいは人口に伝誦される者は、わずかに一、二に過ぎない。ただ唐の宰相張燕公(張説)の文字が最も著わる。耆旧にこれを問えば、すなわち曰く、楼の名を得たるは公に始めて命ぜられたり、と。

即指导往迹,参传其说,皆略而不书。顷罹三国,兹实战冲,镇守者间有贤杰,非尚智力,则任权术,处清境,殆距炉炭,岂暇优游坐啸,摅发清蕴也哉?六朝通三百三十七年,惟颜延年、阴子铿见于章句,余皆寂寥无闻。李唐恢宇,享祚甚宏远。岳去长安尤僻,在当时名贤辈出,能至此者,率自迁谪而来,故所属篇,类多离骚叹惋之意,然于徘徊幽觉,未尝出盈厌之语。殊俗移人,果如是乎?天宝中,苏源明刺东明,因石潴仿佛遐致,号小洞庭,芳晨良夜,以为留客宴喜之地。每冠盖盛集,酒行思缨,苏必雅吟自放,四顾赓唱,雕词丽句,传诵不泯。粤自元和五年,令狐楚节制汝上,相去方八十载,咨考故处,已茫然无得矣。既叹而愤,乃引金石以永好事之意。切寻古人之旷怀高韵,缅慕天末,写千里于一局之水,使彼时风月独异于他郡,所乐也犹如此,后贤惜其遗音逸事,孜孜重显之,盖于赏情爱景之心无少负也。

すなわち往迹を指し導き、その説を伝え参ずるも、みな略して書かず。頃(しばら)く三国に罹(かか)り、これ実に戦衝(戦場の要衝)たり。鎮守する者の間に賢杰ありとも、智力を尚び、権術を任じて、清境に処れば、殆ど炉炭に距(さ)いだつがごとく、あに暇あって優游坐嘯し、清蘊を摅(の)べ発さんや。六朝は通じて三百三十七年、ただ顔延年・陰子鏗が章句に見ゆるのみ、その余は皆寂寥として聞こえず。李唐は宇(天下)を恢め、祚を享くること甚だ宏遠なり。岳は長安を去ること尤も僻遠なり。当時において名賢輩出すれども、よくここに至る者は、あらかた遷謫より来たる。ゆえに属する篇は、類(たぐ)い多く離騷・歎惋の意あり。しかれども徘徊・幽覚(幽玄の趣)において、未だ嘗て盈厭(あまり厭く)の語を出さず。殊俗は人を移す、果たしてこのごときか。天宝の中、蘇源明は東明を刺(し)し、石潴に因りて彷彿として遐致あり、号して小洞庭と曰い、芳晨・良夜、もって客を留め宴喜する地と为す。冠盖の盛んに集まるごとに、酒行われ纓(えい)を思うとき、蘇は必ず雅吟自放し、四顧して賡唱(あい唱)し、雕詞・麗句、伝誦して泯(ほろ)びず。これより元和五年に、令狐楚が汝上を節制す。相去ること方に八十載、故処を咨(と)い考うるも、すでに茫然として得るところなし。すでに歎じて憤り、すなわち金石を引きてもって好事の意を永くせんとす。切に古人の曠懐・高韻を尋ね、天末を緬慕し、千里を一局の水に写し、かの時の風月をして独り他郡に異ならしめ、楽しむところもなおこのごとし。後賢はその遺音・逸事を惜しみ、孜孜として重ねてこれを顕す。けだし賞情・愛景の心に少しも負くところなきなり。

况仆忝宰于今,旦暮为湖山主事,弗虑乎?一旦众作,与桡栋同沦委,则后之议我者以为何如,亦将恐风月仇人不浅矣。遂用崇新基址,遍索墙堵间,及本朝诸公歌诗古赋,纪以时代,次以岁月,不以官爵贵贱为升降,俾镵石置于南北二壁中,庶几他日有闻韶忘味,君子知仆之志也。然历世寝远,必多遗难备,直以所存者笔之。如其删繁撷英,请俟来者焉。

況(いは)んや仆(ぼく)、忝くも今、宰たり、旦暮に湖山の主事を为す。慮らざるべけんや。一旦、衆作、桡棟(たるき)と同じく淪委せんか、すなわち後の我を議する者、何如と思わん。また風月の仇人となること浅からざるを恐れん。ついに用いて基址を崇く新たにし、あまねく墻堵の間に索(もと)め、および本朝の諸公の歌詩・古賦を、時代をもって紀し、歳月をもって次(つら)ね、官爵の貴賤をもって升降となさず、石に镵(きざ)ましめて南北の二壁の中に置く。ほとんど他日、韶を聞きて味を忘るる〔こと〕あらんか、君子、仆の志を知らん。しかれども世を歴ること寝(い)つき遠く、必ず多く遺れて備わり難し。ただ存する所の者をもってこれを筆す。もし繁を删(けず)り英を撷(と)らば、請う、来者を俟たん。

『岳陽紀勝彙編』巻四所収「岳陽楼詩集序」、北宋 滕宗諒撰、清 方功恵輯、碧琳琅館叢書本

岳阳楼在洞庭之滨,延庚挹辛,于登临最胜,创者寝不可考。自唐相张燕公出守于此,其名始著。庆历中,滕子京作而新之,时人以范记、苏书、邵篆,与兹楼号为天下四绝。元丰元年十月,不幸火起于牙城之西南隅,延及于楼。已而同宾僚登古址,石刻皆仆地而裂,独谢仙二字存焉。夫谢仙者,雷部中之神也。神能保其碑,而不能及其屋,何其异也!明年春,议复旧观,适湘神涌水浮至巨木百余,亟命邦人取以为用,若相厥役者,又何异耶?楼成,因镵诸石,一以彰雷笔之灵,一以侈湘神之助。他如登临知胜概者,自得之心目,何待予言。亦有范公记。

岳陽楼は洞庭の浜に在り、庚(にし)を延(の)べ辛(にし)を挹(すく)う。登臨において最も勝れたり。創めた者は寝(い)つきて考うべからず。唐の宰相張燕公、ここに出守するより、その名始めて著わる。慶暦の中、滕子京これを作りて新たにす。時の人、范記・蘇書・邵篆をもって、この楼とともに天下の四絶と号す。元豊元年十月、不幸にも火、牙城の西南隅より起こり、楼に延び及ぶ。已にして賓僚と同じく古址に登れば、石刻は皆仆れ地に裂け、独り「謝仙」の二字存す。それ謝仙なる者は、雷部の中の神なり。神はよくその碑を保して、その屋に及ばざるは、何ぞそれ異なるや。明年春、旧観を復すを議す。適(たまた)ま湘神、水を涌かせ巨木百余を浮べ至らしむ。亟(すみや)かに邦人に命じて取りて用と为さしむ。厥(そ)の役を相(たす)くるがごときは、また何の異ならんや。楼成り、因りて諸を石に镵る。一にはもって雷筆の霊を彰かにし、一にはもって湘神の助けを侈(ほこ)る。他、登臨して勝概を知る者のごときは、心目に自ら得、何ぞ予の言を待たん。亦た范公の記あり。

『岳陽紀勝彙編』巻四所収「重建岳陽楼記」、北宋 鄭民瞻撰、清 方功恵輯、碧琳琅館叢書本

『可斎雑稿』

洞庭天下之胜,岳阳楼又擅洞庭之胜。庆历之记尽矣,后有作者,未易加一辞。岁嘉熙丁酉,曾伯守是邦,每公余登眺,令人浮沤溟渤,培塿大块。缅怀唐开元而后,李、杜、张、孟诸贤,更赋迭咏,不可胜数。

洞庭は天下の勝れ、岳陽楼はまた洞庭の勝れを擅(ほしいまま)にす。慶暦の記、尽くせり。後に作る者、未だ一辞を加え易からず。歳、嘉熙丁酉、曽伯、この邦を守る。公余に登眺するごとに、人をして、溟渤(大海)に浮かぶ浮漚(うたかた)、大塊(大地)に踞る培塿(つちくれ)たるを覚えしむ。緬かに懐う、唐の開元より後、李・杜・張・孟の諸賢、更に賦し迭(かわ)り詠じ、数え勝(あ)ぐべからず。

至我朝文正范公,惓惓焉以天下为忧乐,斯文一出,斯楼之伟观增重。去今二百载,星回物换,而江涛滚滚,与公风烈,盖巍然独存也。后十有四祀,曾伯以牧荆道过之,亟访徙倚,殆山川不可复识,乃知昔之栋宇久已灰烬,今楼非故楼矣,怆然为之感慨。越明年九月,郡侯浚仪赵汝归书来,以图示,则危栏杰观,葺废址而新之,君山本来面目,欣然如对立,属为之记。曾伯俯仰畴昔,虽不能忘情于此,率尔援笔,多见其不知量也。顾人事有因革,地势无古今,世之出新奇之见者,每至越故常,安简陋者又惮于改作,此天下事不能尽如人意者十八九。非有英材磊落之士,心眼轩豁,起古意于寂寥,舒世虑之郁勃,将视此为传舍,岂屑置念哉?如侯之心,足以经营四方,不以一楼而止。侯帝室之胄,所至有治行,及是楼与政俱成,会命提点本路刑狱,仍郡牧,徂重湖,泛巨波,川后山灵方尽听弹压,匪是亦畴克胜?余虽未获从侯凭高举酒,挹胜概于几席,意岳之人士将复见庆历气象,已于斯占之,庸记岁月云。楼之楹若干,暨费计若干,抑末耳,不书。

わが朝の文正范公に至りて、惓惓焉(けんけんえん)として天下をもって憂楽と为す。この文一たび出づれば、この楼の偉観、重きを増せり。今を去ること二百載、星は回り物は換われども、江濤は滚滚として、公の風烈とともに、けだし巍然として独り存す。後十有四祀、曽伯、荊を牧するをもって道これを過ぐ。亟(しき)りに訪ね徙倚(しくゐ)すれども、殆ど山川、復た識るべからず。すなわち知る、昔の棟宇は久しくすでに灰燼と为り、今の楼は故の楼にあらざるを。愴然としてこれが感慨を为す。明年九月を越え、郡侯の浚儀趙汝帰、書を来たし、図をもって示す。すなわち危欄・傑観、廃址を葺きてこれを新たにす。君山の本来面目、欣然として相ひ対するがごとく、属(つ)けてこれが記を为さしむ。曽伯、疇昔に俯仰し、これに忘情すること能わざるも、率爾(そつじ)として筆を援(と)るは、多くはその不知量を見るのみ。顧みるに人事には因革あり、地勢には古今なし。世の新奇の見を出す者は、毎(つね)に故常を越ゆるに至り、简陋に安んずる者はまた改作を憚る。これ天下の事、尽く人意のごとくなる能わざる者、十八九なり。英材磊落の士、心眼軒豁(けんかつ)にして、寂寥に古意を起こし、鬱勃に世慮を舒(の)ぶるにあらざれば、将にこれを視んとすること伝舎(宿駅)のごとく、あに屑(いさぎよ)く念を置かんや。侯の心のごときは、もって四方を経営するに足り、一楼をもって止まらず。侯は帝室の胄(みうじ)、至る所治行あり、この楼と政と倶に成るに及び、会(たまた)ま本路刑獄を提点するを命ぜられ、仍(よ)りて郡牧たり。重湖に徂(い)き、巨波に泛べば、川后・山霊、方に尽く弾圧を聴く。これに匪(あら)ざれば、また畴(たれ)かよく勝たん。余、未だ侯に従いて高きに凭り酒を挙げ、勝概を几席に挹(すく)うを獲ざれども、意うに岳の人士、将に復た慶暦の気象を見んとす、すでにこれをもってこれを占う。庸(つ)いで歳月を記すと云う。楼の楹若干、および費計若干、抑(そもそ)も末なり、書さず。

淳祐辛亥良月,覃怀李某记。

淳祐辛亥の良月(十月)、覃懐の李某記す。

『可斎雑稿』巻二十一所収「重建岳陽楼記」、南宋 李曽伯撰

『岳陽風土記』

岳阳楼,城西门楼也。下瞰洞庭,景物宽阔。唐开元四年,中书令张说除守此州,每与才士登楼赋诗,自尔名著。其后,太守于楼北百步复创楼,名曰燕公楼。山海经言:洞庭沅、澧之交,潇湘之渊,是为九江之门。按澧、鼎、沅、湘合诸蛮、黔南之水,汇为洞庭,至巴陵与荆江合而东,州据其上。水经云:湘水右会小青口,资水也,世谓之益阳江,右则沅水注之,谓之横房口,东到微湖,世谓之糜湖,西流注为江,谓之糜湖口。左则澧水,谓之武陵江。凡此五水,注为洞庭,北会为大江,名曰五潴。战国策曰:秦与荆战,大破之,袭郢,取洞庭五潴。楚辞帝子降兮北潴。皆其地也。寰宇记云:郡有青草、洞庭、巴丘二湖,青草湖中有青草山,冬春水■,皆■■也。洞庭,洞府之庭,上有洞庭真君庙堂,巴丘之名今不著。

岳陽楼は、城の西門の楼なり。下に洞庭を瞰み、景物は寛闊なり。唐の開元四年、中書令の張説、この州の守に除せられ、才士と毎に楼に登りて詩を賦す。これより名著わる。その後、太守、楼の北百歩に復た楼を創り、名づけて燕公楼と曰う。『山海経』に言う、「洞庭は沅・澧の交わり、瀟湘の淵、これ九江の門を为す」と。按ずるに、澧・鼎・沅・湘、諸蛮・黔南の水を合して、匯ねて洞庭と为り、巴陵に至りて荊江と合して東す。州、その上に拠る。『水経』に云う、「湘水、右に小青口に会す、資水なり。世これを益陽江と謂う。右はすなわち沅水これに注ぐ、これを横房口と謂う。東に微湖に到る、世これを糜湖と謂う。西流して注ぎ江と为る、これを糜湖口と謂う。左はすなわち澧水、これを武陵江と謂う。およそこの五水、注ぎて洞庭と为り、北に会して大江と为る、名づけて五潴と曰う」と。『戦国策』に曰く、「秦、荊と戦い、大いにこれを破り、郢を襲い、洞庭五潴を取る」と。『楚辞』に「帝子降りて北潴に」と。皆その地なり。『寰宇記』に云う、「郡に青草・洞庭、巴丘の二湖あり。青草湖の中に青草山あり。冬春、水■、皆■■なり」と。洞庭とは、洞府の庭なり。上に洞庭真君の廟堂あり。巴丘の名は今著われず。

『岳陽風土記』、北宋 范致明撰、明 呉琯校、呉琯刻本

「重建岳陽楼記」

岳阳楼在岳州府治西南右瞰洞庭左挹君山波光峦影万景在目诚一郡伟观也图志莫详创始然考之唐李杜诸贤皆有赋岳阳楼诗其来巳久至宋庆历间郡守滕宗谅子京重建范文正公希文作记而后岳阳楼之名益显于世庆历至是四百余年中间兴废不知其几矣成化丁亥进士眉山吴节以郎官有声出守兹郡登览之余怃然有感谓湖山景象不减旧闻而楼之规模大非昔比询之则后来郡人所构卑陋弗称亟欲改作还于旧观适视篆之初年饥用乏力未暇及久之政务渐举𡻕时渐稔廪有积粟库有积贰乃谋诸僚住稍出羡余兼助巳俸募工饬材撤其旧而新之始事于辛卯冬十一月讫工于壬辰夏五月杰栋峥嵘层檐翚飞高宏壮丽有加于前落成之日众皆欣悦以为盛事不可无述于是太守具事状介太仆寺丞邓君廷瓒来征予记嗟乎物不自美因人而美此理也夫以岳阳为楼据有洞庭之胜既云美矣而范公为记又历叙阴晴变态之妙以寓夫先忧后乐之心使人诵而味之非惟不出户庭而湖山景物尽在目中凡素存忧国忧民之念者自将惕然警省而油然兴起矣然则是楼之建岂为游观之好哉盖深有慕于公之为人而追寻芳躅思欲企而及之者也予闻太守治岳廉慎有为九载之间士安其教民安其政而吏亦怡然于禁令之下无敢侈然以肆者夫为郡而能仁于其民无愧于公之心也建楼无愧于公之文也公何人也希之则是子于太守有取焉于是乎书

岳陽楼は岳州府治の西南に在り、右に洞庭を瞰み、左に君山を挹(すく)う。波光・峦影、万景、目に在り。誠に一郡の偉観なり。図志、創始を詳らかにする莫し。しかるにこれを考うるに、唐の李・杜の諸賢、皆岳陽楼に賦する詩あり。その来ること已に久し。宋の慶暦間に至り、郡守の滕宗諒(子京)重ねて建て、范文正公(希文)記を作りて、しかる後に岳陽楼の名、世に益々顕れたり。慶暦よりこれに至るまで四百余年、中間の興廃、その几(いく)たびなるを知らず。成化丁亥、進士の眉山呉節、郎官をもって声あり、出でてこの郡を守る。登覧の余(あま)り、憮然(ぶぜん)として感あり。謂うに、湖山の景象、旧聞に減ぜず、しかれども楼の規模、大いに昔に比ぶべくもなし、と。これに問えば、すなわち後来、郡人の構えたる所、卑陋にして称(かな)わず。亟(しき)りに改め作りて旧観に還らんと欲す。適(たまた)ま篆を視(政務に就く)の初め、年饑え用乏しく力なし。未だ及ぶ暇なし。久之しくして、政務漸く挙がり、歳時漸く稔(みの)り、廩に積粟あり、庫に積財あり。すなわち諸僚に謀り、稍(やや)羡余を出し、兼ねて己の俸を助け、工を募り材を飭(ととの)え、その旧を撤してこれを新たにす。事を始むるは辛卯の冬十一月、工を訖(お)えるは壬辰の夏五月。傑棟は崢嶸(そうこう)として、層檐は翬飛(けいひ、雉の飛ぶがごとく反り上が)り、高宏壮麗、前に加えて有り。落成の日、衆皆欣悦し、盛事に述ぶべからざる無しと为す。ここにおいて太守、事状を具え、太仆寺丞の鄧君廷瓚を介し、来たりて予の記を徴す。嗟乎(ああ)、物自ら美ならず、人に因りて美なり。これ理なり。それ岳陽をもって楼と为す、洞庭の勝れを拠有し、すでに美と云う。しかるに范公、記を为して、また歴々として陰晴変態の妙を叙べ、もってかの先憂後楽の心を寓す。人をして誦してこれを味わわしむれば、惟れ戸庭を出でずして湖山の景物、尽く目中に在るのみならず、およそ素(もと)より国を憂え民を憂うの念を存する者、自ら将に惕然として警省し、油然として興起せんとす。然らばすなわちこの楼の建つるや、あに游観の好みのためならんや。けだし深く公の为人に慕い、芳躅(かおれる跡)を追尋し、企(あが)ぎてこれに及ばんと思欲するなり。予聞く、太守の岳を治むるや、廉慎にして有為。九載の間、士はその教えに安んじ、民はその政に安んじ、吏もまた禁令の下に怡然として、敢えて侈然として肆(ほしいまま)なる者なし。それ郡を为りてよくその民に仁なるは、公の心に愧(は)じ无し。楼を建つるは、公の文に愧じ无し。公は何人ぞ。これを希(ねが)う。すなわちこの子、太守に取るところ有り。ここにおいて書す。

『商文毅公集』巻七所収「重建岳陽楼記」、明 商輅撰、隆慶六年刊本

「仙梅堂記」

崇祯十二年六月晦,岳阳楼灾。其明年冬,余衔天子命至其地,则郡守告成事矣。楼左筑掌大室,附耳为仙梅亭。讯之云:建楼时,掘东南隅数拏,获石,长尺许,阔三之一,石上有墨迹,斜折一枝,错落数萼,墨高于石,可半米,凌凌然具衔霜茹雪之致,观者诧为神物。此仙梅堂所由与楼伊始也。今其石故在壁间,予熟视之,良然。予闻之,掘土得石,譬则破肉得骨也。石之有画文,譬天之有云气,万象百怪,无所不可,何独于梅而异之。天下岂真有神仙出没人间哉?予于此窃有感也。

崇禎十二年六月晦、岳陽楼災(やか)る。その明年冬、余、天子の命を銜(ふく)みてその地に至れば、すなわち郡守、成事を告ぐ。楼の左に掌大の室を筑き、耳(脇屋)を附けて仙梅亭と为す。これに訊(と)うに云く、「楼を建つる時、東南隅を掘ること数拏(てのひら数度ばかり)、石を獲たり。長さ尺許り、闊さその三の一。石上に墨蹟あり、斜めに折れて一枝、錯落として数萼。墨、石より高くして半米ばかり。凌凌然として霜を銜み雪を茹(ふく)むの致を具う。観る者、詫(わ)びて神物と为す」と。これ仙梅堂の楼と伊始まる所由なり。今その石、故(もと)のごとく壁間に在り。予、熟くこれを視るに、良(まこと)に然り。予これを聞く。土を掘りて石を得るは、譬(たと)えれば肉を破りて骨を得るがごとし。石に画文あるは、譬えれば天に雲気あるがごとく、万象百怪、不可なる所なし。何ぞ独り梅においてのみこれを異とするや。天下、あに真に神仙の人間に出で没する有らんや。予、これにおいて竊(かく)に感ずる所有り。

当夫赤焰浃月,寒烬经年,湖山黯淡,乌鹊栖迟,潸然顾之,大难为怀。一日而役千夫,兴百堵,居人过客,怂恿观成,而瑞呈若此,盈城罢市,相顾动色,人人如有所获,岂偶然之故乎?自昔祸福同门,其来莫测。是故,涸川可以得珠,崩崖可以得玉,亦莫不以其所损为其所益,以其所不祥为其所祥。引而伸之,外宁者必内忧,先忧者必后乐,理势实然,天下事皆应作如是观也。

それ赤焔、月を浃(あまね)くし、寒燼、年を経るに当たり、湖山は黯淡として、烏鵲は栖遅(とどま)る。潸然(さんぜん)としてこれを顧みれば、大いに懐に堪え難し。一日にして千夫を役し、百堵を興す。居人・過客、慫慂(しょうよう、勧め励まし)して成るを観る。しかるに瑞、呈することこのごとし。城に盈ちて市を罷(や)め、相顧みて色を動かし、人人、獲る所有るがごとし。あに偶然の故ならんや。昔より禍福は同門、その来るや測る莫し。ここの故に、涸川もって珠を得べく、崩崖もって玉を得べし。また莫くもその損するところをもってその益するところとなし、その不祥とするところをもってその祥とする。引きてこれを伸ぶれば、外寧なれば必ず内憂あり、先に憂うる者は必ず後に楽しむ。理勢、実に然り。天下の事、皆応(まさ)にこのごとき観を作すべきなり。

且夫以梅之从来久远也,商、周之际,往往言之。然《说命》言味,《召南》言实,而皆略其华。故桃李舜英,竞胜于《国风》;江蓠杜若,齐芳于《楚骚》。独千百余年,梅无显者。崎岖六朝南北,而梅一日以花闻于天下。积渐至唐与宋,然后极盛。今兹之成形于石,埋光于土,迟之又久,达可而后大行,岂养晦待时,天地亦自然欤?君子观一物之得所、一物之失所,莫不有盛衰兴废之感焉!才人嗟遇,劳臣忧国,睹此将无动心欤!

且(か)つそれ梅の从来久遠なるをもってすれば、商・周の際、往々にしてこれを言う。しかれども『説命』は味を言い、『召南』は実を言い、しかも皆その華を略す。ゆえに桃李・舜英(しゅんえい)、『国風』に勝を競い、江蘺・杜若、『楚騒』に芳を斉(ひと)しくす。独り千百余年、梅に顕るる者なし。六朝南北に崎嶇(けんく)して、しかる後に梅、一日にして花をもって天下に聞こゆ。積漸、唐および宋に至りて、しかる後に極盛なり。今ここに形を石に成し、光を土に埋め、遅きことまた之(こ)れ久しく、可に達してしかる後に大行す。あに晦(くら)きを養い時を待ちて、天地もまた自然ならんや。君子、一物の所を得、一物の所を失うを観れば、莫くも盛衰興廃の感有らざるはなし。才人、遇を嗟(なげ)き、労臣、国を憂う。これを睹て、将に心を動かさざらんや。

予闻之,物之神者,其生也必有以,其出也必有为。云门之桃,可以疗饥;太原之枣,可以克贼,其往事也。今日者,戎马生郊,饥馑荐至。登斯楼也,诵杜老“凭轩涕泗”之句,聚麋子国循良之吏与介胄之士,究图荒政,箸筹牧圉,后乐先忧,梅其与有助焉。吾以是为梅祝,梅果仙矣!若为是区区藏石在土、画文在石而异之,而神仙之也,天下岂真有神仙在人间哉!

予これを聞く。物の神なる者は、その生ずるや必ず以(ゆえん)あり、その出づるや必ず为(な)すところあり。雲門の桃は、もって飢えを療すべく、太原の棗は、もって賊を克(か)つべし。その往事なり。今日なるや、戎馬、郊に生(おこ)り、飢饉、荐(しき)りに至る。この楼に登れば、杜老の「軒に凭りて涕泗流る」の句を誦し、麋子の国の循良の吏と介冑の士を聚め、荒政を究め図り、牧圉(ぼくぎょ)を箸籌(はかりごと)す。後に楽しみ先に憂う。梅、それ助け有らんか。吾、これをもって梅に祝す。梅、果たして仙なり。もしこの区区たる蔵石の土に在り、画文の石に在るをもってこれを異とし、これを神仙となさば、天下、あに真に神仙の人間に在らんや。

今天子文武,维后太平可俟,老成过计,或以外宁为忧,而好事者将侈谈蓬莱,以广大帝德。予不佞,断断然不敢以仙名梅,以自附于不著封禅之义,即以是记仙梅堂可矣!

今の天子は文武なり。ただ后(のち)、太平俟つべし。老成、計を過ごし、あるいは外寧なるをもって憂いとなす。しかるに好事の者、将に侈(おご)りて蓬莱を談じ、もって帝徳を広大ならしめんとす。予、不佞なれども、断断然として敢えて仙をもって梅を名づけず。もって自ら封禅を著わさざるの義に附(つ)かん。すなわちこれをもって仙梅堂を記す可きのみ。

『洞庭湖志』巻九所収「仙梅堂記」、明 厳首升撰、清 綦世基輯

『念園存稿』

湖之有洞庭,楼之有岳阳,东南巨观也,详宋范文正公记中。历今数百年,兵燹之后,山川不改,而人民已非。楼虽岿然仅存,亦倾圯非故。顺治八年,江防兵备楼公晟、知府李公某来莅岳郡,郡则虚无人焉。盖自明末群盗所薮,虎狼榛莽,争此瓦砾之场。大清受命,王师底定楚疆,始留兵戍守,灶垒之外,虚无人犹昔也。赖两公竭力招徕之,然后负耒占茆者稍集。逾年,烟火渐繁,又以威辑兵,俾民与兵画然相安,郡称无事。两公乃登楼纵观而叹曰:域民不以封疆之界,固国不以山溪之险,威天下不以兵革之利,信乎吾与吾民乃今而后乐有斯楼也。于是捐金募役,因其坏缺而修葺之,计费不征派,劳不动众,楼之旧观顿复。

湖に洞庭あり、楼に岳陽あるは、東南の巨観なり。宋の范文正公の記中に詳らかなり。今を歴ること数百年、兵燹の後、山川は改まらず、しかれども人民は已に非ず。楼、岿然として僅かに存すといえども、また傾圯して故に非ず。順治八年、江防兵備の楼公晟、知府の李公某、来りて岳郡に莅(のぞ)む。郡はすなわち虚しくして人なし。けだし明末より群盗の薮(かや)となり、虎狼・榛莽、この瓦礫の場を争う。大清、命を受け、王師、楚疆を底定(してい)し、始めて兵を留めて戍守す。竈塁の外、虚しくして人なく、なお昔のごとし。頼(たの)むに両公、力を竭(つ)くしてこれを招徠す。しかる後に耒(らい、すき)を負い茆(かや)を占(う)づる者、稍(やや)集まる。年を逾えて、煙火漸く繁し。また威をもって兵を輯(やわら)げ、民と兵とをして画然として相い安からしむ。郡、无事と称す。両公すなわち楼に登り縦観して嘆じて曰く、「民を域するは封疆の界を以ってせず、国を固くするは山谿の険を以ってせず、天下に威あるは兵革の利を以ってせず」と。信(まこと)にか、吾と吾民と、今より後にしてこの楼有るを楽しまん。ここにおいて金を捐(す)てて役を募り、その壊缺に因りてこれを修葺す。費を計るに征派せず、労に衆を動かさず。楼の旧観、頓(とみ)に復る。

八年孟冬,予以使过而登之,两公具述其役,因属予为记。今夫孩提之童,父母爱之,不徒欲其饱暖之而已,或导之游戏之区,授之玩乐之具,凡以教之适心志,忘疲病也。岳父老子弟困极矣,彼习见知其地有大湖之奇、楼观之美,一旦沦废,未有不愀然伤之,不后其衣食者。今即嗷嗷者未息,而斯楼既复,郡之荒陋,楼之崇丽,足以盖之。朝夕登楼一望,犹见湖波晏然,估舶渔艇,往来停泊于楼之下,伊何人之赐邪?则两公今日之役,固所以率作其乐生之心,而两公之能乐民之乐,亦可知已。愿以嗣文正先忧后乐之旨。

八年孟冬、予、使をもって過ぎてこれに登る。両公、具さにその役を述べ、因りて予に属して記を为さしむ。それ孩提の童、父母これを愛するや、徒らにその飽暖ならんことを欲するのみならず、あるいはこれを游戯の区に導き、玩楽の具を授く。およそこれを教えて心志を適(さき)らしめ、疲病を忘れしむるなり。岳の父老・子弟、困極まれり。かれ、見慣れて知る、その地に大湖の奇、楼観の美あるを。一旦淪廃せば、未だ愀然(しゅうぜん)としてこれを傷(いた)み、その衣食に後(おく)れざる者あらざるなり。今、すなわち嗷嗷(ごうごう)たる者いまだ息(や)まず、しかれどもこの楼すでに復る。郡の荒陋、楼の崇麗、もってこれを盖(おお)うに足れり。朝夕に楼に登り一望すれば、なお見る、湖波晏然として、估舶・漁艇、往来して楼の下に停泊するを。これ何人の賜ぞや。すなわち両公の今日の役、けだしもってその生を楽しむの心を率い作(おこ)す所以なり。しかも両公のよく民の楽しみを楽しむこと、また知るべきのみ。願わくば、もって文正の先憂後楽の旨を嗣(つ)がん。

『念園存稿』巻四所収「重修岳陽楼記」、清 白胤謙撰

『岳州府志』

山首衡岳,波首洞庭,此吾楚之大观也。洞庭浩淼八百里,纳九水而吞吐之,而惟岳阳收揽湖山之气,以约束其精华,故形胜甲于天下,此楼所由昉乎?楼之创始莫考,自子京增其式廓,希文力为表章,楼观直与湖山并传。后此兴废靡常,陵谷变迁,而兹楼如日星河岳之不可易。

山は衡岳を首とし、波は洞庭を首とす。これ吾が楚の大観なり。洞庭、浩淼として八百里、九水を納れてこれを吞吐す。しかもただ岳陽、湖山の気を収攬して、その精華を約束(まと)め、ゆえに形勝、天下に甲なり。これ楼の昉(はじ)まる所由か。楼の創始、考える莫し。子京、その式廓を増し、希文、力めて表章を为すより、楼観、直に湖山と并び伝う。後、この興廃常なく、陵谷変遷すれども、しかしてこの楼、日星・河岳の易(か)わるべからざるがごとし。

今上偃武修文,图成王会。我郡伯李公,于退食之暇,登临怀古,慨然以修复为己任,鸠工庀材,踵华增美,规模宏敞,顿复旧观。既成,属予纪其事。予惟湖山胜概,昔人已先我言之,何敢以不文续貂焉。读先忧后乐之语,未尝不三复流连也。姑即以往事证之:荆山铸鼎,骑龙上升,是帝子之所凭依也;张乐广野,钧天奏响,是神人之所窟宅也;湘灵鼓瑟,泪竹成斑,是妃子之所倘佯也。厥后祖龙浮湘,风涛大作,焚山赭树;武帝索酒香山,竟为东方生窃饮。两人求仙,而仙卒不至,山川似亦有灵焉。

今上、武を偃(や)め文を修め、王会の成らんことを図る。わが郡伯李公、退食の暇に、登臨して古を懐い、慨然として修復をもって己の任となす。工を鳩め材を庀(ととの)え、華に踵(つ)ぎ美を増す。規模宏敞にして、頓に旧観を復す。すでに成り、予に属してその事を紀さしむ。予惟るに、湖山の勝概、昔人已に我に先んじてこれを言う。何ぞ敢えて不文をもって貂を続がんや。先憂後楽の語を読めば、未だ嘗て三復流連せざるなし。姑(しばら)く即ち往事をもってこれに証す。荊山に鼎を鋳て、龍に騎(の)りて上昇す。これ帝子の凭依する所なり。広野に楽を張り、鈞天、奏で響く。これ神人の窟宅する所なり。湘霊、瑟を鼓し、涙竹、斑を成す。これ妃子の倘佯する所なり。厥(そ)の後、祖龍(秦始皇)、湘に浮かび、風濤大いに作(おこ)り、山を焚き樹を赭(あから)む。武帝、香山に酒を索むも、竟(つい)に東方生の窃飲する所となる。両人、仙を求め、しかるに仙、卒(つい)に至らず。山川、似たり、また霊あるがごとし。

夫山川之气,与天地相为表里。天地之所爱惜者,山川亦输诚效款;天地之所妒忌者,山川亦惨淡改观。勿谓此薮泽之微,无关于治乱剥复之数。由斯以观,有道之世,天河绳,器车出,醴泉涌,非虚语也。小范先忧后乐之旨,不旷世而同揆乎!比者河清海晏,湖光时露蜃楼之奇,是亦山川效灵之一证。

それ山川の気は、天地と相ひ表裏を为す。天地の愛惜する所は、山川もまた誠を輸(おさ)め款(まこと)を効す。天地の妬忌する所は、山川もまた惨淡として観を改む。この薮沢の微、治乱・剥復の数に関わり無しと謂う勿れ。これに由りて以って観れば、有道の世には、天河、縄(のごとく真っ直ぐに)なり、器車出で、醴泉涌く。虚語に非ざるなり。小范(范仲淹)の先憂後楽の旨、世を曠(あ)けずして揆(はかり)を同じくせん乎。比者(このごろ)、河清く海晏(や)すみ、湖光、時に蜃楼の奇を露(あら)わす。これまた山川の霊を効すの一証なり。

我公以政通人和之余,为此修废举坠之事,于以作镇方州,绍休芳轨,裨益于风俗、人心者不小,岂南楼之风月、黄鹄之烟云所能颉颃哉!是役也,力不劳于民,财不取于帑,经始于癸亥首春,落成于甲子仲夏。遥望层城,丹楼如霞,目之者不能发一语。游者熙熙,如登春台。吾有以卜:公之后天下之乐而乐矣!

わが公、政通り人和ぐの余をもって、この廃を修め墜を挙ぐるの事を为す。ここをもって方州に鎮を作(な)し、芳軌に休(よ)きを紹(つ)ぐ。風俗・人心に裨益するところ少なからず。あに南楼の風月、黄鵠の煙雲の頡颃(けっこう、対抗)し得る所ならんや。この役や、力、民に労せず、財、帑(ど、国庫)に取らず。経始は癸亥の首春、落成は甲子の仲夏。遥かに層城を望めば、丹楼、霞のごとし。これに目する者、一語を発すること能わず。游する者、熙熙(きき)として、春台に登るがごとし。吾、有りて以って卜す。公の天下の楽しみに後れて楽しむを。

『[康熙]岳州府志』巻二十七下所収「重修岳陽楼記」、清 楊柱朝撰

岳郡介在湖滨,西城上有岳阳楼,历年永久,兴废无常。予于己未秋叱驭至此,见楼欹斜将圯,宜葺而新之。然而君子居是官,则当尽是职。太守一官,主于勤农、赈贫、察奸、决讼、兴革利弊、鼓舞人文。昔贾琮升车褰裳,而百姓震悚;孙成赈发救饥,而户口益增;文翁兴学校于成都,能令风同齐鲁;龚遂卖剑刀于渤海,辄使俗务农桑。凡此政绩,迄今颂述不衰,未闻以楼台亭阁为事而播声誉于无穷也。况郡当逆陷,后继以饥馑,荆榛遍野,瓦砾盈城,窜者未归,窃者未靖,朴者不暇耕耘,秀者不遑弦诵,劳于王事者不得休息。若以修楼为先务,毋乃轻重失衡、缓急倒置,而大违致泽之初心乎?于是作而止,议而寝,以专精其思于吏治,不顾斯楼之日就圯。

岳郡、湖濱に介在し、西城の上に岳陽楼あり。年を歴ること永久にして、興廃常なし。予、己未の秋、馭を叱(いそ)ぎてここに至る。楼の欹斜して将に圯れんとするを見る。よろしく葺きて新たにすべし。しかれども君子、この官に居れば、すなわち当にこの職を尽くすべし。太守の一官は、農を勤め、貧を賑(すく)い、奸を察し、訟を決し、利弊を興革し、人文を鼓舞するを主とす。昔、賈琮、車に升り帷(裳)を褰(かか)げて、百姓震悚(しんしょう)す。孫成、賑発して飢を救い、戸口益々増す。文翁、成都に学校を興し、よく風をして斉魯に同じからしむ。龔遂、渤海に剣刀を売らしめ、輙(すなわ)ち俗をして農桑に務めしむ。およそこの政績、今に迄(いた)りて頌述衰えず。未だ楼台・亭閣を事として声譽を無窮に播(ま)くを聞かざるなり。況んや郡、逆(賊)に陥(おと)されしに当たり、後に飢饉を継ぎ、荊榛、野に遍(あまね)く、瓦礫、城に盈ち、窜(に)ぐる者未だ帰らず、窃(ぬす)む者未だ靖まらず、朴(くる)しい者は耕耘に暇なく、秀れる者は弦誦に遑(いとま)なく、王事に労する者は休息を得ず。もし楼を修むるをもって先務と為さば、毋乃(なか)れ軽重、衡を失い、緩急、倒置し、大いに沢を致すの初心に違(たが)うか。ここにおいて作(おこ)して止み、議して寝(や)む。もってその思を吏治に専精にして、この楼の日に圯に就くを顧みず。

越三年,滇黔荡涤,四境晏如,疮痍起色,以暇以宁,融融然,彬彬然,非复昔日景象。夫然后登君山,瞻乌石,览洞庭,眺天岳,倍饶佳致,惜斯楼益欹斜不堪。予惟揽辔问俗以来,兴废举坠,罔敢传舍视也,独斯楼任其倾颓,宁不获罪创修诸先辈耶?乃从万难拮据中,点金匡正之,俾勿即于废。苦更桷加榜,置楹易楠,增陶瓦,立墉垣,施黝垩,图厥完壮,费实不赀,予何能胜任?恭请上台,捐囊首倡,谋诸僚庶,各输镪有差。远近欣然,而集者又复有人。遂购材募匠,弗烦民力,并日鸠工,而次第竣事焉。

三年を越えて、滇黔蕩滌(とうてき)し、四境晏如(あんじょ)として、瘡痍、起色あり。暇をもって寧(やす)んじ、融融然、彬彬然として、復(ま)た昔日の景象に非ず。それ然る後に君山に登り、烏石を瞻(み)、洞庭を覧、天岳を眺む。倍々佳致を饒(おお)くすれども、惜しむべし、この楼、益々欹斜して堪えず。予惟るに、轡を攬(と)りて俗を問うより以来、廃を興し墜を挙げ、罔(な)く敢えて伝舎(宿駅)視せり。独りこの楼、その傾頽を任す、寧(なん)ぞ創修の諸先輩に罪を獲ざらんや。すなわち万難・拮据(きっきょ、苦労)の中に従い、金を点(な)してこれを匡正し、廃に即(つ)く勿からしむ。苦(くる)しみて桷(たるき)を更(か)え榜(はり)を加え、楹(はしら)を置き楠を易(か)え、陶瓦を増し、墉垣(かき)を立て、黝堊(ゆうあく、黒白の漆喰)を施し、その完壮を図る。費、実に貲(はか)るべからず。予、何ぞよく勝任せん。恭しく上台に請う。囊を捐(す)てて首唱し、諸僚庶に謀る。各々镪(こがね)を輸(おさ)むること差あり。遠近欣然として、集まる者また復た人あり。ついに材を購(あがな)い匠を募り、民力を煩わさず、日を并せて工を鳩め、次第に事を竣(お)えたり。

考斯楼,唐以前不甚显。自开元初,中书令张燕公出守是郡,登临歌咏,日相播扬。暨宋庆历间,郡守滕子京重建,希文范公作记,流传海内。高人名士、缙绅先生,无不愿见之也。先是楼右有净土庵,废之久矣;今复构室三间,召浮屠栖之,则循古以为辙也。先是楼左有屋数楹,以有纯阳之梅在,谓之仙梅亭,然而其实非亭;今于故址建亭,以副厥名,此则更新以为弦也。岁在甲子,运届上元,斯楼焕然一新。士女讴吟,渔樵唱答,游人辐辏,则又天人之会合也。诸父老请予以示永久。嘻,有范公之记,予妄言之,岂非听白雪之音、观绿水之节,而东野巴人不自觉其蚩鄙,载笑载言也哉!诸父老固请无已,笔斯以勒于石,又置二碑:一以重刊文正公之记,一以胪列各捐修之数。俟后君子征前事,复征今事也。

この楼を考うるに、唐以前、甚だ顕れず。開元の初めより、中書令張燕公、出でてこの郡を守り、登臨・歌詠、日に相ひ播揚す。宋の慶暦間に暨(およ)び、郡守滕子京重ねて建て、希文范公記を作る。海内に流伝し、高人・名士、縉紳・先生、見んことを願わざる无し。これに先だち楼の右に浄土庵あり、廃すること久し。今、復た室三間を構え、浮屠(僧)を召してこれに栖ましむ。すなわち古に循(したが)いて以って轍(わだち)と为すなり。これに先だち楼の左に屋数楹あり、純陽の梅在るを以って、これを仙梅亭と謂う。しかれどもその実、亭に非ず。今、故址に亭を建て、以って厥(そ)の名に副(かな)わしむ。これすなわち更に新たにして以って弦(いと)と为すなり。歳、甲子に在り、運、上元に届く。この楼、焕然として一新す。士女、謳吟し、漁樵、唱答し、游人、輻輳す。すなわちまた天人の会合なり。諸父老、予に請いて以って永久に示さんとす。嘻(ああ)、范公の記有りて、予、妄りに言うや、あに白雪の音を聴き、緑水の節を観て、東野の巴人、自らその蚩鄙(しひ、野卑)を覚えず、笑いを載せ言を載せるに非ずや。諸父老、固く請いて已まず。これを筆して以って石に勒(きざ)む。また二碑を置く。一は以って文正公の記を重ねて刊し、一は以って各々の捐修の数を臚列す。後の君子、前事を徴し、復た今事を徴せんを俟つ。

『[康熙]岳州府志』巻二十七下所収「郡侯李公重修記」、清 李遇時撰

『大明一統名勝志』

岳阳楼著名海内,创始不知为谁。唐开元年,张说出守是邦,日与才士登临,赋咏其中,自尔名著。宋庆历间,膝宗谅作而新之,范希文为之记,苏子美书丹,邵竦篆额,时称四绝。

岳陽楼、海内に著名なり。創始、誰たるかを知らず。唐の開元年、張説、出でてこの邦を守り、日に才士と登臨し、その中に賦詠す。これより名著わる。宋の慶暦間、滕宗諒、これを作りて新たにす。范希文、これが記を為し、蘇子美、丹を書し、邵竦、額を篆す。時に四絶と称す。

诗记云:中书今张说,徙知岳州,为文凄婉,人以为得江山之助。贾至贬岳州司马,初至马陵,兴李白泛洞庭诗:枫岸纷纷落叶多,洞庭秋水晚来波。乘兴经舟无远近,白云明月吊湘娥。太白诗:洞庭西望楚江分,水尽南天不见云。日落长沙秋色远,不知何处吊湘君。孟浩然诗:八月湖水平,涵虚混太清。气蒸云梦尘,波撼岳阳城。欲济无舟楫,端居耻圣明。坐观垂钓者,徒有羡鱼情。杜子美诗:昔闻洞庭水,今上岳阳楼。吴楚东南圻,乾坤日夜浮。亲朋鱼一字,老病有孤舟。戒马关山北,凭轩涕泗流。按元稹作杜甫墓铭曰:子美扁舟荆楚间,竟以寓卒,旅殡岳阳。后四十年,子美之孙嗣业启枢葬于偃师,时元和之癸巳岁也。

『詩記』に云く、中書令の張説、徙りて岳州を知る。文を為すこと凄婉にして、人、江山の助けを得たりと为す。賈至、岳州司馬に貶(おと)さる。初めて巴陵に至り、李白と洞庭に泛ぶの詩を興(おこ)す。「楓岸、紛紛として落葉多し。洞庭の秋水、晩(く)れ来る波。興に乗じて舟を泛ぶるに遠近無し。白雲・明月、湘娥を吊う」と。太白の詩、「洞庭、西に望めば楚江分かつ。水尽きて南天、雲を見ず。日、長沙に落ちて秋色遠し。何れの処にか湘君を吊わんことを知らず」と。孟浩然の詩、「八月、湖水、平らなり。虚を涵えて太清に混ず。気、雲夢を蒸(た)て、波、岳陽城を撼(うご)かす。済らんと欲すれども舟楫無く、端居、聖明に恥づ。坐して垂釣の者を観るも、徒らに魚を羨むの情有り」と。杜子美の詩、「昔より洞庭の水を聞き、今、岳陽楼に上る。呉楚、東南に圻(さ)け、乾坤、日夜に浮かぶ。親朋、一字無く、老病、孤舟有り。戎馬、関山の北。軒に凭りて涕泗流る」と。按ずるに、元稹、杜甫の墓銘を作りて曰く、「子美、扁舟、荊楚の間。竟(つい)に寓(かりずまい)にて卒し、岳陽に旅殯(かりとま)る。後四十年、子美の孫嗣業、柩を啓きて偃師に葬る。時に元和の癸巳の歳なり」と。

滕子京岳阳集序云:六朝通三百三十七载,惟颜延年、阴子坚见于章句子。按延之有始安郡还都兴,张湘州登巴陵作,阴铿有渡青草湖诗,似非颛指岳阳楼者。然初盛唐诗但作巴陵城楼,未当名岳阳楼也。大历间,杜子美有今上岳阳楼之句,故后人颛目为岳阳耳。宋范致明有岳阳风土记三卷,国朝有岳阳纪胜巢编四卷。

滕子京の岳陽集序に云く、「六朝、通じて三百三十七載、ただ顔延年・陰子堅、章句に見ゆ」と。按ずるに、延之に「始安郡より都に還る」および「張湘州と巴陵に登る」の作あり、陰鏗に「青草湖を渡る」の詩あり。似たり、専ら岳陽楼を指すに非ず。しかれども初盛唐の詩、ただ巴陵城楼と作す。未だ当に岳陽楼と名づくべからざるなり。大暦間、杜子美に「今、岳陽楼に上る」の句有り。ゆえに後人、専らこれを岳陽と目するのみ。宋の范致明に『岳陽風土記』三巻あり。国朝(明)に『岳陽紀勝彙編』四巻あり。

风土记云:岳阳楼,城西门楼也。南楼、杨公台,皆见岳阳诗。访今并无遗迹可践。或云楚泽门,旧南楼也。又云:楚泽门、碧湘门,皆瓮城门,而楚泽门以经火不复治。

『風土記』に云く、「岳陽楼は、城の西門の楼なり。南楼・楊公台、皆、岳陽の詩に見ゆ。今を訪ぬれば、并せて遺蹟、践(ふ)むべき無し。あるいは云く、楚沢門は、旧き南楼なり。また云く、楚沢門・碧湘門は、皆、甕城の門にして、しかも楚沢門は火を経て復た治めず」と。

『大明一統名勝志』「岳州府」、明 曹学佺撰、崇禎三年刻本

『王太初先生五岳遊草』

楼阁古有名者,仲宣楼在荆州城上,所见惟平楚,亦非其旧址也。太白楼在济宁州城上,济、汶、泗水横络其前,帆樯千百,过酒楼下,时有胜致。及登南昌王阁,章贡大水西来注北,阁与水,称杰然大观,然不若武昌黄鹤楼。虽水与王来公不殊,而楼制工巧奇丽,立黄鹄矶上,且三面临水,又西对晴川楼、汉阳城为佳。总之又不若岳州岳阳楼。君山一发,洞庭万顷,水天一色,杳无际涯,非若滕王、黄鹤,眼界可指,故其胜为家。三楼皆西向,岳阳更雄

楼閣、古より名有る者、仲宣楼は荊州城の上に在り。見る所、ただ平楚(平野の楚木)なり。またその旧址に非ず。太白楼は済寧州城の上に在り。済・汶・泗の水、その前を横絡し、帆樯千百、酒楼の下を過ぐ。時に勝致有り。南昌の王閣(滕王閣)に登るに及び、章貢の大水、西より来りて北に注ぐ。閣と水、傑然たる大観と称す。然れども武昌の黄鶴楼に若(し)かず。水は王来公に殊ならざれども、楼制、工巧にして奇麗、黄鵠磯の上に立ち、且つ三面、水に臨み、また西に晴川楼・漢陽城に対して佳なり。之(こ)れを総(あ)げてまた岳州の岳陽楼に若かず。君山一髪、洞庭万頃、水天一色、杳として際涯無し。滕王・黄鶴のごとく、眼界、指す可きに非ず。ゆえにその勝れるはこれを第一とす。三楼、皆、西向す。岳陽、更に雄なり。

『王太初先生五岳遊草』巻十二、明 王士性撰、康熙 馮蘇刻本

『湖南通志』

岳阳楼在县西。风土记:城西门楼也。下瞰洞庭,景物宽阔。唐开元四年,中书令张说除守此州,每与才士登楼赋诗,自尔名著。其后,太守于楼北百步复创楼,名日燕公楼。三才图会:岳阳楼,其制三层,四面突轩,状如十字,面各二溜水。方舆胜览:岳阳楼宋滕宗谅作而新之,范希文为之记,苏子美书丹,邵竦篆额,时称四绝。府志:岳阳楼自明成化以后,屡圯。康熙二十二年重建,复灾。乾隆五年复修,始还旧观。

岳陽楼、県の西に在り。『風土記』、「城の西門の楼なり。下に洞庭を瞰み、景物寛闊なり。唐の開元四年、中書令張説、この州の守に除せられ、毎に才士と楼に登りて詩を賦す。これより名著わる。その後、太守、楼の北百歩に復た楼を創り、名づけて燕公楼と曰う」と。『三才図会』、「岳陽楼、その制、三層、四面に軒を突き出し、状、十字のごとく、面、各々二溜の水あり」と。『方輿勝覧』、「岳陽楼、宋の滕宗諒、これを作りて新たにす。范希文、これが記を為し、蘇子美、丹を書し、邵竦、額を篆す。時に四絶と称す」と。『府志』、「岳陽楼、明の成化以後より、屡(しばしば)圯れたり。康熙二十二年、重ねて建つ。復た災(やか)る。乾隆五年、復た修む。始めて旧観に還る」と。

『[乾隆]湖南通志』巻一百三十七「岳州府・巴陵県」、清 陳宏謀監修、范咸・欧陽正煥纂修、乾隆二十二年刻本

古写真

1900年頃—1912年

ブリストル大学の Historical Photographs of China プラットフォームには、三つの年代にわたる湖畔の旧影が保存されている。Banister Family コレクションの Ba-s050 は1900年頃の撮影、G. Warren Swire が1906—1907年に撮影した Sw13-043 と1911—1912年に撮影した Sw16-055 は、原版がいずれもロンドン大学東洋アフリカ研究学院のアーカイブ・特別コレクションに蔵され、著作権は John Swire & Sons Ltd に帰属する。三枚の写真は、異なる距離から、岳陽楼・城門・長く連なる城壁・湖畔の民居・停泊する船と洞庭湖面との関係を留めている。プラットフォームはこれらの低解像度の画像を CC BY-NC-ND 4.0 ライセンスで公開している。

1926年

『亜細亜大観』第三輯には、洞庭湖の側から岳陽楼と城垣を遠望した全景の旧影が保存されている。原刊には1926年の撮影と記されている。

1920年代から1930年代

常盤大定・関野貞編『中国文化史蹟』第三輯には、岳陽楼の街に面した外観と楼内の旧影が収録されている。

1932年—1938年

岳陽市档案館 の蔵する二枚の岳陽楼の旧影は、それぞれ民国二十一年(1932)の大修後と民国二十七年(1938)に撮影されたものである。前者は主楼・側亭・院落の姿を至近距離から留め、後者は「南極瀟湘」の門外から門楼・側亭・主楼を撮影している。同館が2025年の「岳陽楼の日」に公開したこの所蔵特集には、ほかにも宋元明清歴代の『岳陽楼図』絵画、1983—1984年の落架大修前後の写真と図面、および米芾・祝允明・文徴明ら歴代の書家による『岳陽楼記』の書の画像が集められている。

1938年

『亜東印画輯』第十冊第163回「洞庭湖附近」には、1938年2月の岳州城の俯瞰が掲載されており、密集した民居が湖岸に沿って広がっている。

1938年—1945年

日本軍占領時期に発行された一枚の岳陽楼の絵葉書で、楼前の院落から主楼と側亭を撮影したものである。原件の画像は現在 Wikimedia Commons からパブリックドメイン資料として提供されている。

参考文献