HERITAGE RECORD

顕通寺

顕通寺は山西省五台県台懐鎮に位置し、唐の武則天の時代に大孚霊鷲寺から大華厳寺へと改称された。唐代の華厳宗の僧・澄観はこの寺で講経し、『華厳経』の新疏を著した。北宋の朝廷は華厳寺を五台十寺に列して重修し、明の永楽年間には寺に僧綱司を置き、寺院と仏舎利塔を重修した。万暦三十三年から三十四年(1605—1606)、明代の僧・妙峰福登は銅殿を安置し、煉瓦造りの「七処九会」大殿を建成させ、銅殿と無梁殿という中核となる明代の遺構を残した。

時代
唐朝
地域
山西
LOCATION
山西省忻州市五台県
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顕通寺 - xiantongsi old 01
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概要

唐の武則天の時代(690—705)、新訳『華厳経』には、東北方に清涼山という山があり、文殊菩薩が住し説法する地であると説かれた。五台山は当時この清涼山とみなされ、台懐の大孚霊鷲寺はこれにより大華厳寺と改称された。大暦十一年(776)、唐代の華厳宗の僧・澄観は五台巡礼を発願し、続いて峨眉へ向かった。五台に戻ると、澄観は大華厳寺に住し、寺務を掌る僧・賢林の請いで『華厳経』と諸論を講じた。当時流布していた『華厳経』の旧疏は分量が繁雑なわりに、解釈はあまりに簡略であった。澄観は、自分はすでに普賢と文殊の道場を巡礼した以上、『華厳経』を改めて疏解すべきだと考えた。興元元年(784)正月から貞元三年(787)十二月にかけて、澄観は大華厳寺で二十軸の新疏を書き上げ、斎を設けて千僧を供養し、その落成を祝った。

北宋の太平興国五年(980)、宋の太宗は宮廷の内侍・張廷訓を代州五台山に赴かせて金銅の文殊像を造らせ、さらに五台十寺の重修を下詔し、僧・芳潤を十寺の僧務を統括する僧正に任じた。華厳寺と真容院はそれぞれ十寺の名簿に列していた。熙寧五年(1072)、日本の延暦寺の僧・成尋は宋朝廷の許可を得て、官員の護送で五台山に入った。真容院は数百の僧を出して幡を持たせて出迎え、成尋が日本から持参した経巻・鏡と髪・金銀・香料を大華厳寺真容菩薩院文殊聖容殿に安置した。宋代の大華厳寺の範囲は今日の顕通寺よりも広く、真容院は当時大華厳寺の傘下にあり、後に今日の菩薩頂へと発展した。成尋が供養した文殊殿は真容院にあり、今日の顕通寺の中にはない。

明初には、寺名はすでに大顕通寺と書かれていた。永楽三年(1405)、明朝廷は五台山の僧綱司を顕通寺に置き、僧官に全山の僧衆を統率させて祝釐に当たらせ、本州は月ごとに僧糧を支給した。永楽年間、明の成祖は烏斯蔵から来たチベット仏教の高僧・葛哩麻(カルマ)を金陵に迎え、大宝法王に封じた。葛哩麻はもともと五台山を遊歴するつもりで、また山林を愛し、金陵にとどまり続けると修行の妨げになるのではないかと案じ、五台山行きを請願した。明の成祖は儀仗を賜り、使者を派遣して葛哩麻を五台山へ護送させ、宦官の楊昇に顕通寺と阿育王の仏舎利塔を重修させて、法王の居所とした。葛哩麻が亡くなった後、楊昇は再び命を受けて顕通寺の法堂に彼の像を塑った。

明代の僧・妙峰福登は後に、峨眉・普陀・五台の三大名山のためにそれぞれ銅殿一座を造ることを発願した。万暦三十三年(1605)春、妙峰福登は自ら民間の施資で鋳造された五台の銅殿を台懐に届け、顕通寺に安置しようとした。皇帝は御馬監の宦官・王忠を、皇太后は近侍の陳儒を遣わし、それぞれ帑金を携えて寺に入り勘察させ、銅殿を安奉する位置を選定した。万暦三十四年(1606)五月、妙峰福登はまた寺内で工事の興起を主催し、煉瓦で「七処九会」の大殿を築いた。煉瓦殿は前後に六層に分かれ、周囲に楼閣が環列し、『華厳経』を講演する道場を構成した。工事の竣工後、千二百名の僧衆が寺に集まり、十人の法師が『華厳経』を開講した。この工事が残した銅殿と煉瓦造りの無梁殿は、今も顕通寺の中軸線上に立っている。

顕通寺は漢伝仏教の寺院である。明清以降、顕通寺などの青廟(漢伝仏教の寺院)と菩薩頂などの黄廟(チベット仏教の寺院)は台懐で長く併存し往来し、五台山における漢伝仏教とチベット仏教が交融する宗教的構図を共に形作ってきた。

歴史文献

『宋高僧伝』

大历十一年,誓游五台,一一巡礼,祥瑞愈繁。仍往峨嵋,求见普贤,登险陟高,备观圣像。却还五台,居大华严寺。专行《方等》忏法。时寺主贤林,请讲大经,并演诸论。因慨《华严》旧疏,文繁义约,惙然长想:“况文殊主智,普贤主理,二圣合为《毗卢遮那》,万行兼通,即《大华严》之义也。吾既游普贤之境界,泊妙吉之乡原,不疏《毗卢》,有辜二圣矣。”观将撰《疏》,俄于寤寐之间,见一金人当阳挺立,以手迎抱之,无何咀嚼都尽。觉即汗流,自喜吞纳光明遍照之征也。起兴元元年正月,贞元三年十二月毕功,成二十轴,乃饭千僧以落成也。

大暦十一年、五台に遊ぶことを誓い、一一巡礼すると、祥瑞はますます多かった。引き続き峨嵋に赴き、普賢に見えようとし、険しい高みに登り、聖像をくまなく拝観した。そして五台に帰り、大華厳寺に居した。ひたすら『方等』の懺法を行った。時に寺主の賢林が、大経を講じ、あわせて諸論を演じるよう請うた。そこで『華厳』の旧疏が文は繁く義は約すぎることを慨き、惙然として長く思いを巡らせた。「そもそも文殊は智を主とし、普賢は理を主とする。二聖が合わさって『毘盧遮那』となり、万行を兼ね通ずるのは、すなわち『大華厳』の義である。私はすでに普賢の境界に遊び、妙吉の郷原に泊まったのだから、『毘盧』を疏しなければ、二聖に背くことになる。」観が『疏』を撰じようとした時、にわかに寤寐の間に、一人の金人が陽に当たってそびえ立ち、手をもって迎え抱くのを見、まもなく咀嚼してことごとく尽きた。覚めるとたちまち汗が流れ、光明遍照を呑み納れた瑞相であると自ら喜んだ。興元元年正月に始め、貞元三年十二月に功を毕え、二十軸を成し、ここに千僧を飯して落成とした。

《宋高僧传》 (『宋高僧伝』) 巻五「唐代州五台山清涼寺澄観伝」、宋、賛寧撰

『仏祖統紀』

五年正月,敕内侍张廷训往代州五台山,造金铜文殊万菩萨像,奉安于真容院。诏重修五台十寺,以沙门芳润为十寺僧正。十寺者,真容、华严、寿宁、兴国、竹林、金阁、法华、秘密、灵境、大贤。

五年正月、内侍の張廷訓を代州五台山に赴かせることを敕し、金銅の文殊・万菩薩像を造り、真容院に奉安した。五台十寺の重修を詔し、沙門の芳潤をもって十寺僧正とした。十寺とは、真容・華厳・寿寧・興国・竹林・金閣・法華・秘密・霊境・大賢である。

《佛祖统纪》 (『仏祖統紀』) 巻四十三「法運通塞志」、宋、釈志磐撰、北宋太平興国五年(980)

『参天台五台山記』

大宋国河东道代州五台山大华严寺真容菩萨院文殊圣容殿,今月二十八日,有大日本国延历寺阿阇梨、大云寺主、传灯大法师位、大宋国赐紫僧成寻赉到大日本国故右丞相从一位藤原朝臣第六女子、为太皇太后宫亮藤原师信朝臣家室产生去逝。藤原朝臣以亡室亲身物所施:镜一面、发三结。右前件物寻附文殊师利真容殿内如法安置,持伸供养。所集善因,朝臣家室,伏愿追随三岛之仙,镜智澄辉,证悟一乘之位;更冀居家赞国,咸承吉善之因,莅公处私,悉获安宁之报。文殊在圣力昭彰。谨祝。

大宋国河東道代州五台山大華厳寺真容菩薩院文殊聖容殿、今月二十八日、大日本国延暦寺阿闍梨・大雲寺主・伝灯大法師位・大宋国賜紫の僧成尋が、大日本国故右丞相従一位藤原朝臣の第六の女子で、太皇太后宮亮藤原師信朝臣の家室に生まれ逝去した方のために齎らした。藤原朝臣は亡き室の親身の物を施す。鏡一面、髪三結。右の前件の物を、成尋は文殊師利真容殿内に如法に安置し、もって供養を伸べる。集められた善因により、朝臣の家室が、伏して願わくは三島の仙に追随し、鏡智は澄み輝き、一乗の位を証悟せんことを。さらに冀わくは家に居り国を賛け、ことごとく吉善の因を承け、公に蒞き私に処り、ことごとく安寧の報を得んことを。文殊の聖力の昭彰たらんことを。謹んで祝す。

《游历日本图经》 (『遊暦日本図経』) 所収『参天台五台山記』巻第五、日本、成尋撰、北宋熙寧五年(1072)

『山西志輯要』

大显通寺古名大孚灵鹫寺。汉明帝时,摩腾、法兰西来,见此山乃文殊住处,奏帝建寺,以山形若天竺之灵鹫,即以为名,加以大孚二字。后魏孝文帝重葺,复置院十二,以拥护兹刹。前有杂花园,亦名花园寺。唐则天朝,以新译华严经中载此山名,改为大华严寺,明改大显通寺。迨我朝恩赉,迥轶前代,古刹重光矣。

大顕通寺の古名は大孚霊鷲寺。漢の明帝の時、摩騰と法蘭西が来て、この山は文殊の住する所であると見て、帝に奏して寺を建て、山の形が天竺の霊鷲に似ていることから、すなわちこれを名とし、大孚の二字を加えた。後魏の孝文帝が重ねて修葺し、さらに十二の院を置いて、この刹を擁護した。寺の前に雑花の園があり、花園寺とも名づいた。唐の則天朝に、新訳華厳経の中にこの山の名が載っていることから、大華厳寺と改め、明に大顕通寺と改めた。わが朝に至り恩賚は前代をはるかに超え、古刹は再び光を放った。

《山西志辑要》 (『山西志輯要』) 清涼山志輯要巻下「台懐仏刹」、清、雅徳纂修

『天下名山記』

花园寺,汉明帝所题大孚灵鹫者也,西域滕兰以天眼观,见文殊住此,此刹最古。梁明府先期左去,犹得藉其饮啖。寺既伟盛,而中宫以金瓦其殿,且修无遮斋,钟鸣鼎食,魄气甚张。晋大饥,数千人走活,夜则裸而窟焉,蜀僧主之,此功德不作未来者也。

花園寺は、漢の明帝が大孚霊鷲と題したもので、西域の滕蘭が天眼をもって観て、文殊がここに住するのを見た。この刹は最も古い。梁明府は先んじて去ったが、なおその飲食にあずかった。寺はすでに偉大で盛んであり、しかも中宮が殿に金瓦を葺き、また無遮斎を修して、鐘を鳴らし鼎で食す有様は、魄気がたいへん張っていた。晋に大いに飢饉があり、数千人が走りて活を求め、夜には裸で窟のように宿った。蜀の僧がこれを主とした。この功徳は未来のために作すものではない。

《天下名山记》 (『天下名山記』) 巻五「遊五台山記」、明、王思任撰、清、呉秋士選、汪立名校訂

『清涼山志』

大宝法王,名葛哩麻,乌斯藏人也。道怀冲漠,神用叵测,声闻于中国。永乐间,我太宗文皇帝遣使西土迎之,师适有五台之游,应命至金陵,道启圣衷,诰封如来大宝法王、西天大善自在佛。师性乐林泉,朝廷之下,恐妨禅业,奏辞游五台。上眷注殷勤,留之不已,乃赐銮舆、旌幢伞盖之仪,遣使卫送于五台大显通寺。更敕太监杨升重修其寺,兼修育王所置佛舍利塔,以饰法王之居。先是,上与法王幸灵谷寺斋,感塔影金光之瑞。及法王入台山,上眷恋不释然,因思前瑞,再幸灵谷。上默有所祷,睹瑞倍前。丁亥四月,上制书遣使于台山大宝法王、大善自在佛。其书略曰:朕四月十五日,与弘济大师诣灵谷,观向所见塔影,文彩光明,珍奇妙好,千变万态,十倍于前,虽极丹青之巧,言论之辩,莫能图说其万一。

大宝法王、名は葛哩麻、烏斯蔵の人である。道の懐は冲漠とし、神用は測りがたく、声は中国に聞こえた。永楽の間、わが太宗文皇帝は使者を西土に遣わしてこれを迎え、師はちょうど五台への遊があり、命に応じて金陵に至り、道をもって聖衷を啓き、誥して如来大宝法王・西天大善自在仏に封じられた。師は性、林泉を楽しみ、朝廷の下では禅業を妨げることを恐れ、奏して五台への遊を辞した。上は眷注すること殷勤で、引き留めてやまなかったが、ついに鑾輿・旌幢傘蓋の儀を賜り、使者を遣わして五台の大顕通寺まで衛送させた。さらに宦官の楊昇にその寺を重修し、あわせて育王の置いた仏舎利塔を修することを敕し、もって法王の居を飾った。これより先、上は法王とともに霊谷寺に幸して斎し、塔影の金光の瑞に感じた。法王が台山に入るに及び、上は眷恋して释然とせず、前の瑞を思い、再び霊谷に幸した。上は黙して祷るところがあり、瑞を睹ること前に倍した。丁亥の四月、上は書を制して台山の大宝法王・大善自在仏に使者を遣わした。その書におおむね曰く、朕は四月十五日、弘済大師とともに霊谷に詣り、先に見た塔影を観たが、文彩は光明で、珍奇妙好、千変万態、前の十倍であり、たとえ丹青の巧を極め、言論の弁を尽くしても、その万一を図説することはできない。

此皆如来大宝法王、大善自在佛,道超无等,德高无比,具足万行,阐扬六通,化导群品,寔释迦佛再现世间,而乃显兹灵应,不可思议。朕心欢喜,难以名言,略此相报,如来亮之。明年,师奏疏别上,入灭,火化无遗物。是年,函谷关吏见师适西,贻上所赐玉玦回奏,上惊叹追慕,敕太监杨升塑像于显通法堂。

これはみな如来大宝法王・大善自在仏が、道は無等を超え、徳は無比に高く、万行を具足し、六通を闡揚し、群品を化導し、まさに釈迦仏が世間に再び現れたもので、ここにこの霊応を顕したのは、不可思議である。朕の心は歓喜し、名言をもってしがたい。略してこれをもって報いる、如来これを亮せよ。明年、師は奏疏を上げて別れ、入滅し、火化して遺物はなかった。この年、函谷関の吏は師が西に適くのを見、上の賜った玉玦を貽して回奏した。上は驚き嘆き追慕し、宦官の楊昇に顕通の法堂に像を塑ることを敕した。

《清凉山志》 (『清涼山志』) 巻第八「如来大宝法王伝」、明、釈鎮澄選、清、聚用校訂

『憨山老人夢遊集』

师素愿范渗金三大士像,造铜殿三座,送三大名山。己亥春,杖锡潞安,谒沈王。王适造渗金普贤大士送峨嵋,师言铜殿事,王问:费几何?师曰:每座须万金。王欣然愿造峨嵋者,即具辎重送师至荆州,听自监制,用取足于王。殿高广丈余,渗金雕镂诸佛菩萨像,精妙绝伦,世所未有。殿成,送至峨嵋,大中丞霁宇王公抚蜀,闻师至,请见,问心要有契,公即愿助南海者。乃釆铜于蜀,就匠氏于荆门。工成,载至龙江。时普陀僧力拒之,不果往,遂卜地于南都之华山,奏圣母赐建殿宇安置,遂成一大刹。师乃造五台者,所施皆出于民间,未几亦就。乙巳春,师躬送五台,议置台怀显通寺。上闻,遣御马太监王忠、圣母遣近侍太监陈儒各赍帑金往视,卜地于寺,建殿安奉。以丙午夏五月兴工,鼎新创立,以砖垒七处九会大殿,前后六层,周市楼阁,重重耸列,规模壮丽,赐额敕建大护国圣光永明寺。工竣,乃建华严七处九会道场,上下千二百众,请十法师演华严经,所费皆出内帑。道场之盛,盖从前所未有也。

師は素より渗金の三大士像を範し、銅殿三座を造り、三大名山に送ることを願っていた。己亥の春、錫を潞安に曳き、瀋王に謁した。王はちょうど渗金の普賢大士を造って峨嵋に送るところで、師が銅殿のことを言うと、王は問うた「費はいくほどか」。師は曰く「毎座、万金を要す」と。王は欣然として峨嵋のものを造ることを願い、すぐに輜重を具えて師を荊州に送り、自ら監制するに任せ、用は王に取り足らせた。殿の高さも広さも丈余りで、渗金に諸仏菩薩像を彫鏤し、精妙絶倫、世に未だかつてないものであった。殿が成ると、峨嵋に送られ、大中丞の霽宇王公が蜀を撫しており、師の至るを聞き、見えることを請い、心要を問うて契るところがあると、公はすぐに南海のものを助けることを願った。ここに銅を蜀に採り、匠氏を荊門に就かせた。工が成ると、龍江に載せ至った。時に普陀の僧が力めてこれを拒み、ついに往くことを果たさず、そこで南都の華山に地を卜し、奏して聖母に殿宇を賜建させ安置し、ついに一大刹となった。師が次いで造った五台のものは、施はみな民間から出て、まもなくこれも就いた。乙巳の春、師は躬ら五台に送り、台懐の顕通寺に置くことを議した。上は聞き、御馬太監の王忠を遣わし、聖母は近侍太監の陳儒を遣わし、それぞれ帑金を齎して往き視させ、寺に地を卜し、殿を建てて安奉した。丙午の夏五月をもって工を興し、鼎新して創立し、煉瓦をもって七処九会の大殿を塁き、前後六層、周囲に楼閣を巡らし、重々聳え列なり、規模は壮麗で、額を賜り勅建大護国聖光永明寺とした。工が竣くと、ここに華厳七処九会の道場を建て、上下千二百衆、十法師を請じて華厳経を演じ、費するところはみな内帑から出た。道場の盛んなるは、おそらく従前に所未有であった。

《憨山老人梦游集》 (『憨山老人夢遊集』) 「勅建五台山大護国聖光寺妙峰登禅師伝」、明、徳清撰

『五台山顕通寺碑文』

山分五顶,亘右辅之雄区;地接三霄,显西方之化域。惟大士栖真之所,高揭狮床;为竺兰演教之场,群标雁舍。靡不矗琼梯于碧汉,耀琳宇于丹岩。兹显通寺者,创自永平,辟大孚之灵迹;拓于元魏,增善住之崇基。唐宗始易前称,胜代再颁嘉号。玉花园畔,绀雨缤纷;甘露津边,璇源滴沥。神灯焕彩,散列𪩘以千星;飞阁翔空,绚明霞于万叠。洵台怀之上刹,恒朔之名蓝也。朕驾銮辂以时巡,望鹫峰而企向。身云忽涌,陟初地之清凉;心月常圆,烛慧光之鸿朗。特捐净施,香界重开,聿改旧观,熏修倍肃。石上辟支现影,显示吉祥;函中舍利升辉,尽生欢喜。葳蕤紫菌,宛同四照交枝;曲折红泉,即是八功衍派。上以绵慈闱之景算,寿岳弥崇;下以锡兆姓之繁禧,祥河普润。爰镌片碣,用诏来兹。

山は五頂に分かれ、右輔の雄区に亙り、地は三霄に接して、西方の化域を顕す。惟れ大士の真に栖む所、高く獅床を掲げ、竺蘭の教を演ぶる場として、群れ雁舍を標す。瓊梯を碧漢に矗て、琳宇を丹岩に耀わさないものはない。この顕通寺は、永平に創められて大孚の霊跡を闢き、元魏に拓かれて善住の崇基を増した。唐宗に始めて前称を易え、勝代に再び嘉号を頒った。玉花園の畔、紺雨は繽紛とし、甘露津の辺、璇源は滴瀝たり。神灯は彩を煥かし、列峰に散じて千の星、飛閣は空に翔け、明霞を万叠に絢す。まことに台懐の上刹、恒朔の名藍である。朕は鑾輅を駕して時に巡り、鷲峰を望んで企い向う。身雲は忽ち湧き、初地の清涼に陟り、心月は常に円く、慧光の鴻朗を燭す。特に浄施を捐い、香界を重ねて開き、旧観を改め、薫修は倍して粛し。石上の辟支は影を現し、吉祥を顕示し、函中の舎利は輝を升べ、尽く歓喜を生ず。葳蕤たる紫菌、宛ら四照の交枝に同じく、曲折する紅泉、すなわちこれ八功の衍派。上はもって慈闈の景算を綿ぎ、寿岳はいよいよ崇く、下はもって兆姓の繁禧を錫い、祥河は普く潤す。ここに片碣を鐫り、もって来兹に詔う。

《山西通志》 (『山西通志』) 巻百八十二所収『五台山顕通寺碑文』、清、聖祖撰

『顕通寺』

兰若翠微重,诸天第一峰。金轮开汉日,紫府觅仙踪。雪映交窗迥,云封阁道浓。夕阳松影外,处处报疏钟。

蘭若は翠微に重なり、諸天第一の峰。金輪は漢日を開き、紫府に仙蹤を覓む。雪は交窗を映えて迥く、雲は閣道を封じて濃し。夕陽は松影の外、処処に疎鐘を報ず。

《山西通志》 (『山西通志』) 巻百八十二所収『顕通寺』、清、聖祖撰

『題顕通寺』

马头山色向人来,林里泉声带雨回。秋兴不随孤鹜去,傍君相看百花开。

馬頭山の色は人に向かって来たり、林裡の泉声は雨を帯びて回る。秋の興は孤鶩に随って去らず、君に傍らって相看れば百花開く。

《五台县志》 (『五台県志』) 「芸文・詩」所収『題顕通寺』、明、閔煦撰

古写真

1907年

1907年、フランスの漢学者エドゥアール・シャヴァンヌとドイツの建築学者エルンスト・ベルシュマン(Ernst Boerschmann)が、それぞれ五台山で顕通寺を撮影した。シャヴァンヌの写真は1909年に出版された『北中国考古図録』に収められ、台懐中央の寺院群、顕通寺の主殿、無梁殿、銅殿、五基の銅塔を記録し、形制の異なる四基の銅塔それぞれに近景を一枚ずつ残している。ベルシュマンの写真は後に1931年出版の『Die Baukunst und religiöse Kultur der Chinesen』第三巻第一部『Pagoden』に収められ、銅塔台の近くから銅塔・銅殿・無梁殿の相対的な位置を記録している。

1920年代から30年代

常盤大定・関野貞は1920年代から30年代に五台山を調査し、関連する写真は1941年に出版された『中国文化史蹟』第一輯に収められた。顕通寺の一組は寺院全景、大文殊殿、無梁殿、千鉢殿、銅殿前の五塔を含み、建築群の全体的な輪郭、単体の殿宇の正面、銅塔台をそれぞれ保存している。