昭仁寺

昭仁寺は陝西省咸陽市長武県、唐代の豳州宜禄県にあたる浅水原の古戦場にある。武徳元年(618)、秦王李世民が薛仁杲を破った地で、貞観3年12月の戦没者供養のための造寺詔を受け、翌4年正月に完成した。朱子奢が勅命により「大唐豳州昭仁寺之碑」を撰した。楷書の筆者名はなく、虞世南・欧陽通・王知敬などの説がある。1988年、「昭仁寺大殿」が唐代の建築として第3次全国重点文物保護単位に指定された。『元和郡県図志』『玉海』『集古録跋尾』『金薤琳琅』『石墨鐫華』『金石萃編』などの原文と訳文を収め、1927年『昭仁寺碑』、1932年『亜細亜大観』、1940年『中国文化史蹟』の図版を紹介する。

時代
唐
地域
陝西省
所在地
陝西省咸陽市長武県
1932年『亜細亜大観』掲載、長武県の黄土の崖沿いの窰洞集落
1932年『亜細亜大観』掲載、長武県の黄土の崖沿いの窰洞集落

はじめに

武徳元年(618)11月、秦王李世民は浅水原で薛仁杲を破った。やがて唐の太宗となった李世民は、挙兵以来の戦場それぞれに寺を建て、戦没者の冥福[1]を祈るよう命じた。昭仁寺はその浅水原の戦場に建ち、貞観4年正月に完成した。現在の陝西省長武県、唐代の豳州宜禄県にあたる。

朝廷は朱子奢に碑文を命じ、戦乱を平定した功績を石に刻ませた。三千字を超える文章の多くは太宗への賛辞だが、誰のための寺なのかも書かれている。戦死した唐軍の将兵を仏法によって救うこと、そして敵として戦った死者も供養することだった。高い門と堂宇が建ち、僧侶が暮らし始めた。かつての戦場は、亡き人々のために祈る寺となった。

北宋の治平元年(1064)、この碑文を読んだ欧陽修は、建寺の意図に異を唱えた。太宗が乱世を平定した功績は認めながらも、将兵の供養にかこつけ、自らの殺人の罪を償おうとしたのだと考えたのである。商の湯王や周の武王も暴君を倒す際に多くの人を殺したが、公心から民を害悪から救ったため、天の加護を得た。太宗の平定も称賛に値するなら、なぜ仏寺を建てて罪を償う必要があるのか。欧陽修はこの批判を跋文[2]に記し、一方で書を「字画甚だ工なり」と褒め、自分の金石収集記録に収めた。

元豊5年(1082)11月7日、地元の張淳が欧陽修の跋文を碑の裏に書いた。表には太宗の功績、裏には建寺の意図への疑問が刻まれた。裏面の拓本[3]を手にすれば、後世の人もその批判を読めた。明代の書画・碑帖研究者、安世鳳も欧陽修の文章を読み、さらに裏面の拓本を入手したが、その判断には疑いを持ち続けた。探し続けた末、ある家の旧蔵品から傷んだ拓本四部を高額で買い求めた。

碑文を読んだ安世鳳は、今度は欧陽修を批判した。主な目的は戦死した唐軍将兵の供養で、敵方の死者にも及ぶことが、本文にはっきり書かれている。欧陽修は仏教を退けることに急で、朝廷が戦没者を悼む意図を見落としたというのである。殺人に心を痛める君主まで嘲笑すれば、かえって殺戮を好む心を助長しかねないとも懸念した。『墨林快事』では太宗を擁護し、建寺を死者への思いやりと、人を殺すに忍びない心の表れと捉えた。

乾隆49年(1784)、金石学者の王昶は軍を率いて長武に駐屯し、公務の合間に昭仁寺の碑を訪ねた。碑は石の台に建つ亭の中にあり、傷みはなかった。牧童が火を起こすために石を打つことも、牛が角をこすることもできない高さだった。後に『金石萃編』を編んだ王昶は、同じく戦没者のために建てられた等慈寺碑と読み比べ、両者とも太宗の功績を大いに称える一方、将兵への哀悼は文章の十分の一にも満たないと指摘した。そのため「碑を建てて功績を記した」とする見方に賛成した。

王昶の訪問から三十数年後、亭は荒れ、碑の基礎も傷んで倒れる危険が生じていた。蘭州へ向かう途中に立ち寄った清の官僚、費濬は修理費と資材を出し、地元の官僚、許復昌に監督を託した。工事は約二十日で終わった。帰途に再び訪れた費濬が見たのは、丈夫に修復された亭と補強された基礎、そして新たな欄干だった。表に太宗への賛辞、裏に欧陽修の批判を刻む碑は、修復された亭に守られ続けた。

歴史文献

『元和郡県図志』

宜禄县,本汉浅水县地,属上郡。后魏为东阴盘县地,废帝以县南临宜禄川,因改名,隶泾州。暨周、隋又为白土县。贞观二年,分新平县又置宜禄县,后魏旧名也。浅水原,即今县理所。初,金城人薛举称兵,攻破郡县。武德元年,举寇泾州,屯兵于安定县之折摭城。太宗亲征,相守六十余日。会举死,其子仁杲统其众,并羌胡十余万数来挑战。上遣总管庞玉自此原南出贼之右,因高而陈。上率大兵自原北出其不意,斩首万余级,贼大溃。仁杲惧而请降,俘其精兵万余人,男女五万口,故城犹在今县北五里。阴盘城在县西北二十五里。昭仁寺在县西十步浅水原上。王师讨平仁杲,诏于此置寺。碑,谏议大夫朱子奢之词也。长武城,在县西五十里。隋开皇中筑,在泾河南岸。武德元年废。大历初,郭子仪置兵以备西戎。

宜禄県はもと漢の浅水県の地で、上郡に属した。後魏には東陰盤県の地となり、廃帝は県の南に宜禄川があることから改名し、涇州に属させた。周・隋には白土県となった。貞観2年、新平県を分けて再び宜禄県を設け、後魏の旧名を復した。浅水原は現在の県庁所在地である。初め金城の薛挙が兵を挙げ、郡県を攻略した。武徳元年、涇州に侵入し、安定県の折摭城に駐屯した。太宗は自ら出征し、六十余日対峙した。その間に薛挙が死に、子の仁杲が軍を継ぎ、羌・胡を合わせ十余万でたびたび挑戦した。皇帝は総管の龐玉を台地の南から敵の右翼へ出し、高所に布陣させ、自ら大軍を率いて北から不意を突いた。一万余の首級を挙げ、敵は大敗した。仁杲は恐れて降伏し、精兵一万余、男女五万人を捕虜とした。旧城は今も県の北五里にある。陰盤城は県の西北二十五里。昭仁寺は県の西十歩、浅水原上にある。王師が仁杲を平定した後、詔によって寺が置かれた。碑文は諫議大夫朱子奢の作である。長武城は県の西五十里、隋の開皇年間に涇河の南岸に築かれ、武徳元年に廃された。大暦初年、郭子儀が西方の敵に備えて兵を置いた。

《元和郡县图志》(元和郡県図志)、巻3「関内道三・邠州」、唐・李吉甫撰、清・嘉慶2年岱南閣叢書本

『玉海』

唐贞观纪功业碑铭。旧纪:“贞观三年十二月癸丑,诏建义已来交兵之处,各立一寺,命虞世南、李百药、褚亮、颜师古、岑文本、许敬宗、朱子奢等为之碑铭,以纪功业。”会要:“贞观二年十二月一日,诏破刘武周于汾州,立洪济寺;破宋老生于吕州,立普济寺;破薛举于邠州,立昭仁寺;破宋金刚于晋州,立慈云寺;破王世充于邙山,立昭觉寺;破窦建德于汜水,立等慈寺;破刘黑闼于洺州,立昭福寺。”并贞观四年正月建造毕。

唐の貞観年間の功業を記す碑銘。旧紀には「貞観3年12月癸丑、挙兵以来の交戦地にそれぞれ寺を建て、虞世南・李百薬・褚亮・顔師古・岑文本・許敬宗・朱子奢らに功業を記す碑銘を命じた」とある。会要には「貞観2年12月1日、劉武周を破った汾州に洪済寺、宋老生を破った呂州に普済寺、薛挙を破った邠州に昭仁寺、宋金剛を破った晋州に慈雲寺、王世充を破った邙山に昭覚寺、竇建徳を破った汜水に等慈寺、劉黒闥を破った洺州に昭福寺を建てるよう命じた」とある。いずれも貞観4年正月に完成した。

《玉海》(玉海)、巻194「献功」、宋・王応麟撰、四庫全書本

『集古録跋尾』

右昭仁寺碑,在豳州,唐太宗与薛举战处也。唐自起义,与群雄战处,后皆建佛寺,云为阵亡士荐福。汤、武之败桀、纣,杀人固亦多矣,而商、周享国各数百年,其荷天之祐者,以其心存大公,为民除害也。唐之建寺,外虽托为战亡之士,其实自赎杀人之咎尔。其拨乱开基,有足壮者,及区区于此,不亦陋哉!碑文朱子奢撰,而不著书人名氏,字画甚工,此余所录也。治平甲辰秋分后一日书。

この昭仁寺碑は豳州にあり、唐太宗が薛挙と戦った場所である。唐は挙兵以来、群雄と戦った地に後から仏寺を建て、戦没兵士の冥福を祈るためだとした。湯王と武王が桀・紂を倒した際にも多くの人が死んだが、商・周はそれぞれ数百年続いた。天の加護を得たのは、公心によって民の害を除いたからである。唐の造寺は表向き戦没者のためといいながら、実は自らの殺人の罪を贖うものだった。乱を治め王朝を開いた功績は壮とすべきなのに、このようなことにこだわるのは浅ましくないか。碑文は朱子奢の作で、書者の名はない。文字がたいへん巧みなので記録した。治平甲辰、秋分の翌日に記す。

《欧阳文忠公文集》(欧陽文忠公文集)、集古録跋尾巻5「唐豳州昭仁寺碑」、北宋・欧陽修撰、四部叢刊影印上海涵芬楼蔵元刊本

『石倉歴代詩選』

危栏凭绝壑,欲奈此时何。但有夕阳处,就中秋色多。与谁同徙倚,空自发吟哦。便觉成羁旅,归心逐雁过。

高い欄干から深い谷を見下ろす。このひとときをどう過ごそう。夕日の差す所には、ひときわ秋の色が濃い。誰とともにたたずもうか。ひとり詩を口ずさむばかり。ふと旅の身が胸に迫り、故郷への思いは雁を追って飛んでゆく。

《石仓历代诗选》(石倉歴代詩選)、巻155「宜禄昭仁寺後軒」、宋・文同作、明・曹学佺編、四庫全書本

「豳州昭仁寺碑」

守谏议大夫、骑都尉臣朱子奢奉敕撰。

守諫議大夫・騎都尉である臣、朱子奢が勅命を奉じて撰す。

大哉乾元,寒暑违而成岁;赫矣上圣,禅代乖而为道。斯则淳源既往,弧矢开戡翦之利;天下为公,揖让盛皇王之业。是知圣无自我,不背时以成务;仁惟济物,乃当流而义行。岂好异哉,盖因世而已矣。若乃执契提象,继天理物,张八极,叶五纬,坐玄扈,游翠受昭华而锡天佩,观荥河而巡温洛。补石于娲皇之世,奠山于文命之初。殊质文于车服,改正朔于寅丑。顺天地而财成,奄宇县而光宅。斯固神宗与汜水一致,文祖将㙁野同归者也。

偉大なる天の元気は、寒暑が異なることで一年を成す。輝かしい聖王の道も、禅譲と征伐という異なる継承によって成り立つ。純朴な時代が去れば弓矢が平定に役立ち、天下を公とすれば譲り合いが王業を盛んにする。聖人は私心なく時勢に逆らわず事を成し、仁は万物を救い、時に応じて義を行う。異を好むのではなく、世に応じるのである。天命を受け万物を治める王は、八方を広げ五惑星を調和させる。玄扈や瑞玉、天の佩玉、滎河や温洛の故事に始まり、女媧が石で天を補い、文命が山々を定めた時代まで、車服の質朴と華美、暦の正月は変わっても、天地に従って世界を整え、天下を明るく治めた。神宗の事績と汜水の戦い、文祖と牧野の戦いも、帰するところは同じである。

随政悖道,区夏歼溃。星亡日斗,天瘥地反。驭朽无秋驾之术,履薄罕春冰之惧。竭人力于醉饱,轻神器于弈棋。玉杯非藜藿之用,金柱乃骄淫之靡。旌跸遍天下,驰道穷华裔。暴师韩濊,宿兵辽碣。贪石田之地,忘金镜之宝。骏𫘧之乘,骛燕山而不息;鼋鼍之梁,泛苍波其无已。五岳维尘,三川咸震。大盗负其扃𫔎,长鲸冲其漏网。介胄不能匡其祸,衣冠无以靖其乱。伊尹去而夏亡,辛甲奔而殷灭。人怨神怒,众叛亲离。触瑟无汉臣之忠,梦骖成秦宫之酷。于是九畿幅裂,窃名假号,四方圜视,蜂飞猬结。赤眉起刘樊之众,白梃奋陈吴之兵,徇赵北而图王,反淮南而称帝。钩爪锯牙,递相吞灭。茫茫禹迹,沟壑无归,苍苍彼天,何其罔极!

隋の政治は道に背き、中国は崩れた。星は消え、日は争い、天災と地変が起こった。腐った手綱を操りながら慎重さを欠き、薄氷を踏みながら恐れなかった。民力を酒食に費やし、神器たる帝位を碁のように軽く扱った。玉杯は粗食のためでなく、金柱は驕奢のためだった。行幸は天下に及び、馳道は内外に延び、軍は韓・濊にさらされ遼東・碣石に留まった。不毛の土地を貪り、善政の鏡を忘れ、駿馬は燕山へ走り続け、黿鼉の橋は波上に絶えず架けられた。五岳は塵に覆われ、三川は震え、大盗は門と錠を奪い、巨鯨は網を破った。武将も文官も禍と乱を救えない。伊尹が去って夏が亡び、辛甲が逃れて殷が滅んだように、民は怨み神は怒り、衆は背き親族も離れた。琴に触れる忠臣の故事とは異なり、馬車の夢は秦宮の残酷さを示す。天下は裂け、僭称する者が四方に蜂起した。赤眉の劉・樊、白梃を持つ陳・呉のごとき兵が現れ、趙の北に王を求め、淮南で帝を称した。鉤爪と鋸歯で互いを食い合い、禹の広大な国土では人々が溝に倒れ、帰る所もない。蒼天よ、なぜこの苦しみは尽きないのか。

若乃崇替相袭,天地恒其道;灵贶所归,三五更其运。是以秦人弛御,丰沛膺赤帝之符;夏道云衰,景亳得白狼之瑞。殷忧启圣,必将有主,扑原静海,上玄有属。我皇帝受之。皇帝兆出震之灵,禀枢电之精,开日月之明,审正气之贞。潜德而隐,凝玄姑射之侧;感而遂通,应迹庙堂之上。乘龙之梦,夙符于神道;断鳌之心,早发于灵鉴。蕴风云于藏用,纳宇宙于胸怀。濡足授手,救焚是急。于是御太乙,挹勾陈,驱天驷,回地轴。乾行岳止,雷惊麟震。得兵钤于玄教,吞戎韬于黄石。龙飞晋水,凤翥河干。命苍以泛流,麾鸟旗以长迈。以仁为本,扶义而西,传檄百城,转斗千里。战无交兵之虏,攻无汤池之固。望凤墟而一息,登灞上而回首。观衅而动,俟天休命。壶浆溢陌,厥篚盈涂,鬼神叶赞,华夷载伫。𫄬秦婴于枳道,拜殷士于商旌台之珠,毕散于邦国;诸侯之玊,不留于服御。眷言兆庶,企景来苏。

盛衰は交代しても天地の道は常であり、霊験の帰する所に応じて帝王の運は移る。秦が統御を失えば豊・沛に赤帝の符が現れ、夏が衰えれば景・亳に白狼の瑞が現れた。深い憂いは聖人を起こし、大地と海を鎮める主を天は定める。我が皇帝がそれを受けた。震の霊と枢の電光の精を受け、日月の明と正気の貞を備える。徳を隠して姑射に静まり、感応して朝廷に現れた。龍に乗る夢は早くから神道に合い、巨鼇を断つ志は霊知に生じた。風雲を力の内に蓄え、宇宙を胸に収め、足を濡らし手を差し伸べ、火中の救済を急いだ。太乙を御し、勾陳を引き、天馬を駆って地軸を回す。天のごとく進み山のごとく止まり、雷のごとく驚かせ麒麟のごとく振るう。玄妙な兵法と黄石公の韜略を得た。晋水に龍が飛び、河岸に鳳が舞う。舟を流れに乗せ、鳥旗を掲げ、仁を本とし義を助けて西へ進み、百城に檄を送り千里を転戦した。敵軍も堅城も抗し得ない。鳳の故地を望み、灞上から振り返り、機を見て天命を待った。道には飲み物と食物が満ち、鬼神は助け、華夷は待ち望んだ。秦の子嬰の降伏や殷の臣の帰順の故事が重ねられ、珠玉は天下に分かたれ、私物には留められなかった。万民を顧み、民は救いを仰いだ。

薛举往因天隙,偷安陇坻,藉九州之险,成五幡之暴。推锋东向,结垒西夏,同恶如市,转相煽合,带州连郡,豺虺为群。无窦融之先觉,有隗嚣之迷谬。游魂放命,豕突豳梁。虽大风之作梗青丘,有苖之称乱丹浦,均强比逆,异代同年。岂不以道丧鹑居,让王义隐,时惟龙战,争帝理开者乎?是以轩辕五十一伐,殷后二十七征,暴寿华之泽,戮凶绝辔之野,非文德之可绥,乃雄略之攸震。天子躬御武节,亲总元戎,洒沉灾而括地象,正斗极而清天步,倚长剑以肃威,伫中区以傍瞩。运投水转规之智,蓄礼乐慈爱之兵。韬百战百胜之谋,总天关天梁之术。驱驾韩白,鞭击雷电。命招摇以启行,诏参伐以前扫。殉义之士,听鼓鼙而窃誓;蹈恩之众,望旌笳而张胆。呼吸则河海沸荡,指麾则昆岱掎拔。圣上顺天道好生之德,体周王掩瘠之仁,将欲克乱在权,善师非战,兵交使在,弘其自革。而茅旌不建,舆榇莫从,告舍既违,行迷遂往。吠尧之犬,终成桀用;刺由之客,俱为跖徒。鸟啄兽穷,来犯锋刃,比角为城池之固,召雨恣屈强之力。非折箠之可笞,岂亭长之攸制?于时摄提在岁,黄钟纪月,义勇同奋,贲育争先。下神兵于九天,决睿图于万里。逆顺斯悬,轰然大溃。僵尸蔽莽,委甲成山。拥秦泾而不流,投过涧而自满。焚巢扫窟,野无遗正倾旻于西北,纽缺地于东南,卷氛祲于辰象,反光华于日月。九伐已施,载櫜于武库;五兵罢用,偃伯于灵台。分蒨旆于应毕,誓山河于将率。

薛挙は天の隙に乗じて隴の地に拠り、地勢を頼んで暴威を振るった。東へ進み西方に砦を結ぶと、悪を同じくする者が集まり、州郡を連ね、山犬や毒蛇の群れとなった。竇融の先見はなく、隗囂の迷いを抱き、命に背いて豳・梁に突進した。青丘の大風、丹浦の苗の乱と同じく、強暴と反逆は古今変わらない。道が失われ禅譲の義が隠れれば、龍が戦い帝位を争う。ゆえに軒轅は五十一度、殷の王は二十七度征伐し、寿華や絶轡で暴を討った。文徳だけでは鎮められず雄略が必要だったのである。天子は自ら大軍を統べ、災いを払い天地の秩序を正し、長剣を帯び天下を見渡した。水や円の動きのように自在な智を運び、礼楽と慈愛の兵を養い、百戦百勝の謀と天関・天梁の術を備えた。韓信・白起を凌ぎ雷電を駆り、招揺と参伐の星に先導させた。義に殉ずる士は鼓声に誓い、恩に報いる者は旗と笛に勇んだ。一息で河海を沸かせ、一指で崑崙・泰山を動かすほどだった。皇帝は天の好生と周王の死者を葬る仁に従い、戦わずして乱を治めようと、両軍の間に使者を置き敵の改心を待った。だが敵は降伏の旗も棺も示さず、救いを拒み迷いを続けた。堯に吠える犬が桀に仕え、刺客が盗跖の徒となるように、追いつめられた獣として刃に向かった。兵の密集を城壁とし、雨を呼ぶほどの力を頼んだ彼らは、細い鞭や一介の亭長では制せなかった。歳は摂提、月は黄鐘、義勇はともに奮い、孟賁・夏育のように先を争った。神兵が九天より下り、英知は万里に及ぶ。逆と順は明らかで、敵は大敗した。屍は野を覆い甲冑は山となり、秦・涇の流れを塞ぎ谷を満たした。巣窟を焼き払った後の本文には欠損がある。傾いた天地を正し、星の凶気を払い日月の光を戻した。征伐を終えて武器を納め、霊台に戦を止め、将帥に旗と封土を与え、山河に誓った。

帝图咸举,邦政斯澄。革污俗于维新,正王风于旧物。鼓之以道德,怀之以仁义。春雨以润之,秋阳以暴之。解罔深汤帝之慈,焚书下汉王之诏。布以新政,刑用轻典。四海之内,靡然向风;八荒之表,奔走无𭣧。却塞蹛林之北,开郡铜柱之南。苑葱山而池盐泽,逾盘水而跨热阪。郡生环海,自入提封;方朔炎洲,同归王会。岂止菌鹤短独、西鹣东鲽之贡而已哉!若夫至人忘已,义期拯物,黄屋非汾水之荣,玄圭岂具茨之贵?圣道运而不积,神功为而莫宰。虽复大横固祉,长发启祥,犹且置玺陈谦,避河为让,道外天下,情遗尊极。而岩廊余事,人神之望难拒;符命傥来,历数之期安避?仰追上玄之心,俯顺域中之请。然后履乘石,握神珠,开黄玉之图,临紫辰之位,冠百王而称首,与三代而同风。巍巍乎,荡荡乎,粤不可名也。于是衢室辟扉,宾门启路,延揽英彦,鉴昧幽仄。用人不偏于世族,得贤无弃于农琐。故非熊非螭,致光景之佐;为舟为楫,获营求之士。等五臣之亮采,同六相之𬣙谟。崇台非一木之枝,珍裘乃千金之丽。济济多士,皇家以宁。重以制礼作乐,移风也;胜残去杀,刑措也。藏金舜岭,菲膳尧宫。雉裘非先王之服,宝马岂鸾旗之用?运玄览以照物,推赤心以期下。万方罪已,轸推沟之虑;百姓为心,顺天从之欲。若乃上嗣重光之美,元良万国;棣华璇萼之宗,本支百世。咸幼陶慈训,言提自昔。奉审喻于宸极,得乐善于轩殿。非藉保传之勤,宁因师友之力。逾启诵而高视,越郇韩而上征。既而休气和年,祥风荐祉。威凤为宝,麟趾游郊。若烟非烟,浮晓空而下映;似月非月,丽宵天而成象。祯不绝书,灵无遁迹,猗与伟与,事高图史。至于登舆下辇,省方巡岳,应感必彰,形言弥著,道盛金奏,美盈玉简,叶睿思于泉涌,谐神功于日用,陋柏梁之词,掩南风之曲,圣作物睹,永贻千载者焉。

帝業が成り政治は澄み、悪俗を改め王道を復した。道徳で励まし仁義で懐かせ、春雨のように潤し秋陽のように照らす。湯王の網を開く慈悲を深め、漢王の書を焼く赦免に倣い、新政を布き刑を軽くした。四海は従い、八荒の外からも帰順した。境は蹛林の北、銅柱の南へ延び、葱嶺と塩沢を園池のように包み、盤水と熱阪を越え、遠い島々も版図に入り南北の国も朝会に集った。珍鳥や比翼・比目の貢物だけではない。至人は己を忘れ他を救い、汾水の聖人や具茨の故事のように帝位の栄華を求めない。道は働いて蓄えず、神功は成して所有しない。吉兆があっても印璽を置いて謙譲し、川を避けて位を譲ろうとした。しかし人神の期待と天命は避けがたく、上は天、下は天下の願いに従い、乗石を踏み神珠を握り黄玉の図を開いて紫宸の位に臨んだ。百王の首となり三代に並ぶ盛徳は、広大で名づけようもない。朝廷を開いて俊才を招き、隠れた賢人を見出した。家柄に偏らず農家の人材も捨てず、太公や傅説に比すべき臣、五臣・六相に並ぶ補佐を得た。高台は一本の木では建たず、名裘は多くの毛皮から成る。多士が皇室を安んじた。礼楽で風俗を変え、残虐と殺戮を止め刑を用いなくした。舜・堯に倣い財宝を退け食を慎み、華美な衣や名馬を求めなかった。洞察と赤心で下に接し、天下の罪を己の責とし、民を溝へ押したかのように憂え、民心と天意に従った。皇太子は光を継ぎ、宗室の枝葉は百世へ続く。幼時から慈訓を受け、帝の教えによって善を好み、師傅や友の力だけに頼らず、啓・誦、郇・韓を凌いだ。瑞気が年を和らげ、鳳凰と麒麟が現れ、煙とも月とも異なる吉兆が朝夕の空を飾った。記録は絶えず、史書を超える盛事となった。行幸・巡察の際にも感応と言葉は徳を示し、楽章や玉簡に満ちた文は泉のように湧き、日常の神功と調和した。柏梁の詩や南風の歌を凌ぐ聖作は千載に伝わる。

抑又闻之,羲、农遐邈,轩、顼悠 绝,传信于故老,非取接于闻见。百世可知,斯言殆息,七代更立,求之岂易?今之视昔,遥然未睹。将何以分素青于三后,辨天地于九皇,遂能历选列辟,详观群帝,得茂实于千古,验英声于万叶。斯道何哉?将由孔丘登岱,纪金绳者七十;管仲对齐,陈玉检者十二。亦有汉廓帝图,魏开王业,树丰碑于泗水,𬤥贞石于繁昌。莫不垂鸿名,腾显号,播休风于六舞,歌盛德于九韶,与天壤而无穷,悬贞明而可久。刊勒之美,不其懋与!

伏羲・神農、軒轅・顓頊は遠い時代で、見聞ではなく古老の伝承を信じるほかない。百世を知るという言葉さえ難しく、七代の交代を確かめるのも容易でない。見えない古代の帝王を比較し、その実績と名声を後世に確かめることができるのはなぜか。孔子は泰山に登り金縄を用いた七十王を記し、管仲は斉侯に玉検を用いた十二王を述べた。漢は帝図を広げ、魏は王業を開き、泗水に大碑を立て繁昌に石を刻んだ。大名を伝え、六舞に風を広め九韶に徳を歌い、天地とともに尽きず、明らかに長く存する。刻銘の価値はなんと大きいことか。

然则事止寰中,道外,未辨西方之圣,莫知东被之法。求真之理,我则未闻。虽御辩崆峒,非 涅盘之岸;乘云谷口,宁游波若之门?莫不同陟耶山,俱沉业浪,生死无际,苦集相因。讵照重昏之日,谁翦稠林之树?比夫真如实相,解脱妙津,道王三千,功弥百亿,何异吹剑首于雷门,策蚊睫于鹏运者哉!是知伊兰无实,有为终假,漂溺四流,邅回九结,践畏涂而卒岁, 捷径其长往。大梦无晓,可为叹息。粤若能仁,深弘慈奖,虽寂泊为道,无来无去,乘机诱发,垣玺必追。住一子地,开方便门,翔八正道,示如来藏。飘香风于有顶,洒甘露于无边。慧炬明而幽夜朗,法桥搆而冯河息。但为仁由已,履道自衷,表立影从,因果非外。今我所以仰胜缘于十号,纪武功于七德,真俗二谛,兼而两之。

しかしこれらは世界内の事業にとどまり、本文の一部は欠けているが、西方の聖人と東へ伝わった仏法、真理を求める道を知らないという。崆峒の問答も涅槃の岸には達せず、谷口で雲に乗っても般若の門には入れない。邪の山に登り業の波に沈み、生死は尽きず苦と原因が続く。誰が闇を照らし密林を切り開くのか。真如実相と解脱の妙津、その三千世界を治め百億に及ぶ功徳に比べれば、世俗の功は雷門で剣の柄を吹き、鵬の飛翔に蚊の睫毛で競うようなものだ。伊蘭に善果はなく、有為は仮で、四流に溺れ九結に迷い、危険な道を年々歩む。続く句には欠落がある。大夢は覚めず、嘆かわしい。能仁すなわち仏は慈悲を広げ、来去のない寂静を道としつつ、機に応じて導く(伝本の一部は不明瞭)。万物を一子のように見る境地に住し、方便の門、八正道、如来蔵を示す。香風は有頂へ、甘露は無辺へ届く。智慧の灯が夜を照らし、法の橋が危険な渡河をなくす。仁も道も己の心からで、柱を立てれば影が従うように因果は外にない。ここに仏の勝縁を仰ぎ、武の七徳を記し、真諦と俗諦の双方を備える。

皇上昔居因地,早弘誓力,应迹忍土,负荷群生。属忧火燎原,稽天方割,飙林无自静之木,震海岂澄源之水。东戡西翦,南征北怨,旄钺所次,酣战兹邦。君轻散千金之赏,士重酬九死之命。莫不竞凌锋镝,争赴水火。虽制胜之道,允归上略,而兵凶战危,时或殒丧。褰裳不顾,结缨荒野。忠为令德,没有余雄。同艰难于昔晨,异欢泰于兹日。有怀亮烈,用切旒扆。仍于战地,爰搆神居。变秽土于宝城,开莲花于火宅。高𤇺罢昭,慈灯载朗;鸢旌辍警,胜幡斯立。拔无明于棘林,𨗳焦热于渴井。尽诸有结,永除苦际。虽复去顺效逆,同归各徒,中涓颍从,寔惟义重。而上忍所被,旃檀与利刀兼忘;大慈所覃,怨贼将义夫齐指。俱润法雨,同乘大辕,回向菩提,无上平等。

皇帝はまだ因位にあった時から大誓願を立て、忍土に現れて衆生を担った。憂いの火が野を焼き、水が天に迫り、嵐の林に静かな木も震える海に澄んだ水もない時、東西を平定し南征すれば北の民が来訪を待った。旗と斧鉞はここに至り激戦となった。君は千金の賞を惜しまず、士は命で報い、刃と火水に先を争って向かった。勝利は上略によるが戦は危険で、死ぬ者もあった。顧みず進み、荒野で冠の紐を結んで死に、忠義と勇名を残した。昔の苦難をともにした人が今日の安泰をともにできないことを、皇帝は深く悲しみ、戦場に仏寺を建てた。穢土を宝城に変え火宅に蓮を開き、烽火に代えて慈灯、軍旗に代えて勝幡を立てた。無明の茨を抜き、焦熱に苦しむ者を水へ導き、存在の束縛と苦をなくす。反逆に従った者もそれぞれの主に忠義を尽くした。中涓や潁の従者の故事が示すように義は重い。最上の忍は栴檀も利刀も区別せず、大慈悲は敵も義士も等しく包む。ともに法雨に潤い、大乗に乗り、菩提へ向かって無上の平等に至る。

尔乃仰图景宿,东井躔其分野;下料物土,西河限其封域。雕戈是锡,尸臣启邦之所;豳馆斯开,公刘建都之地。梁山南枕,甘泉东指。面雕云之郁蓊,想玉树之青葱。沃野千里,平原超忽。先王之桑梓,西州之都会。于是诏司空,相原隰。四衢如砥,八道傍通。考极星之曜,测土圭之景。选耜梓于南郢,征琬琰于西昆。匠石奋斤,公输审墨。高门洞启,层甍有亢。藻井瞰烟霞之路,步檐拖虹霓之色。徘徊珠柱,陆离璇题。春牖前临,秋窗左辟。月殿含影,金波上而相照;日宫吐曜,羲和沉而犹朗。何止四柱成台,高多罗之树;五王立寺,临伽尸之水。信足上图驾御,傍拟醍醐,望鹫山而非远,想鸡林而可即。法徒萃止,应供来游,咸珠戒无缺,威仪莫犯。杖锡四禅之林,摄𪗋三朗之路。有宝所焉,有名僧焉。至矣哉,伽蓝之为盛也!虽复高天已烬,大海成田,我皇基与净刹,终永永而常传。

天では東井の分野にあたり、地では西河に境を接する。彫戈を賜った臣が国を開き、公劉が豳に都を建てた土地である。南に梁山、東に甘泉、瑞雲と玉樹を思わせる景色が広がり、沃野千里、平原は果てしない。先王の故郷で西方の都会である。詔により司空が原野と湿地を調べ、四方八方へ平坦な道路が通じた。北極星を見て土圭の影を測り、南の郢から材木、西の崑崙から美玉を選ぶ。匠石のように斧を振り、公輸のように墨縄を正した。高門と重なる屋根、雲を望む藻井、虹色の回廊、珠玉の柱と額が輝いた。春と秋を迎える窓が開き、月殿は光を映し、日宮は日没後も明るい。四柱の台や多羅樹、迦尸の川の五王の寺にとどまらず、仏の聖地と教えにも比せられ、霊鷲山も鶏林も近く感じられる。僧が集い応供が来て、戒と威儀を守り、四禅の林に錫杖を携え、明知への道を歩む(伝本の一語は不明)。宝処と名僧があり、伽藍の盛大さは極まる。天が焼け海が田となっても、皇基と浄刹は永遠に伝わる。

其词曰:三界云扰,六趣波扬。苦流方割,忧火炎岗。俱迷津济,莫导舟航。长夜无晓,非徒未央。于昭十号,四生是愍。道王大千,智周上忍。慧刀已裂,化城斯引。教有殊涂,乘无异轸。甘露朝洒,慈云夕布。品物以亨,群迷式悟。捷迳坦道,耶山启路。不有善权,谁澄恶趣。炎行弛德,废道毁常。玊弩惊焰,金宿腾芒。俯震瀛壑,仰紊乾纲。九野鲸奋,八极鸱张。乱离瘼矣,孰济生灵。黄星表曜,赤伏开祯。大君应历,粤御神兵。乃圣乃武,如雷如霆。于铄王旅,除凶靖暴。关右长驱,唐郊大号。壤裂逋丑,家离浞傲。刷野屠祅,空山剿盗。见危殒辔,怀忠死绥。惊燐宵远,穷魂夜飞。我有慈被,深仁莫违。建斯净域,永树归依。归依伊何,俱消五䌸。净域伊何,同升妙觉。架汉开宇,凭霞竦阁。朱丽琼丹,地严金雘。鹫山非远,鸡林可求。七宝低树,八解疏流。瑞莲开晓,天花不秋。戒定攸息,应供来游。凡厥慈众,俱弘上善。稠林以辟,爱枝爰翦。九结冰泮,四禅自。 彼岸可归,法轮恒转。金刚不坏,璇保惟长。慧室长湛,皇基载昌。僧祗可筭,恒沙易量。悠哉天历,永配无疆。

銘にいう。三界は乱れ六趣は波立ち、苦の流れが地を割り憂いの火が丘を焼く。皆渡し場に迷い導く舟もなく、長夜に暁はない。十号を具える仏は四生を憐れみ、大千世界を治め最上の忍を知る。智慧の刀で束縛を断ち、化城へ導く。教えは異なっても乗り物の行き先は同じ。朝は甘露、夕は慈雲、万物は栄え迷いは覚める。邪の山に平坦な近道を開く方便なくして、悪趣を誰が清めよう。隋は徳を失い道と常を壊し、天の徴は燃え輝き、海と天の秩序は震え乱れた。四方に反乱が広がり、誰が民を救うのか。黄星と赤い符が瑞を示し、大君が天命を受け神兵を率いた。聖にして武、雷霆のごとく、王師は凶暴を除いた。関右を進み唐の郊で声を挙げ、逃亡する賊を散らし悪逆の家を破り、野と山の妖賊を討った。危険に臨んだ忠士は死に、燐火は夜に遠く、孤魂は闇を飛ぶ。我らの慈悲は覆い、深い仁は捨てない。浄域を建て永遠の帰依とする。帰依とは五縛を解くこと、浄域とはともに妙覚へ昇ること。天河を跨ぐ堂、雲を背にする楼、朱と玉の彩り、金と丹の地。霊鷲山も鶏林も遠くなく、七宝が木に垂れ八解脱の水が流れる。瑞蓮は朝に開き天花に秋はない。戒定が安住し応供が集い、慈しむ衆は上善を広げる。密林を払い愛着の枝を切り、九結は氷のように解ける。四禅の句は欠損する。彼岸へ帰り法輪は常に転じ、金剛は壊れず宝は長く保たれる。智慧の室は澄み皇基は栄える。僧祇の劫は数えられ恒河の砂は測れても、天の暦は悠久に、無窮とともにあれ。

右昭仁寺碑,唐守谏议大夫骑都尉朱子奢𬤥。欧阳公爱其字画甚工,惜无书人氏名。金石录尝载其目,亦不言为何人书也。惟通志金石略以为虞永兴书。永兴书之传世者,有孔子庙堂碑,然与此不类,而金石略乃谓出于虞公,当必有所据。昭仁寺在邠州西八十里,昔唐太宗与薛举战争之处。正德癸酉,予以使事道邠,得搨其本,字画完好,若初刻者,真可宝也。朱公,予乡先生,唐史有传,其文字人间罕存,可见者仅有此耳。

この昭仁寺碑は唐の守諫議大夫・騎都尉朱子奢の撰である。欧陽公は字の巧みさを愛し、書者の名がないのを惜しんだ。『金石録』も目録に載せるが筆者を記さず、『通志』金石略だけが虞永興の書とする。伝存する孔子廟堂碑とは似ないが、虞公とするには根拠があったはずだ。昭仁寺は邠州の西八十里、唐太宗と薛挙が戦った地にある。正徳癸酉、私は使事で邠を通り拓本を得た。字は新刻のように完全で、まことに宝とすべきものだった。朱公は郷里の先人で唐史に伝があるが、その文章はほとんど残らず、見られるのはこれだけである。

《金薤琳琅》(金薤琳琅)、巻13「豳州昭仁寺碑」、明・都穆撰、四庫全書本

『滎陽外史集』

右昭仁寺碑,在今豳州宜禄镇,唐师及薛举战地也。碑为阵亡士荐福而作,世以为虞永兴公书。宋元丰、绍圣诸君子题识刻于碑阴,若欧阳公取其字法之精,而不定为何人所书,其余但纪观碑岁月,谓为世南少年书者,河南张威甫也。以予观之,此碑视庙堂碑笔锋为露,而运意略同,至于辞语亦有相类者,亦一时士大夫习气然耶。越章立可自陜右入觐,用以为贶,既装潢成什,摭其指意,系长歌于后云:

この昭仁寺碑は今の豳州宜禄鎮、唐軍と薛挙の戦場にある。戦没者の冥福のために立てられ、世では虞永興の書とする。宋の元豊・紹聖年間の諸氏の題記が碑陰にある。欧陽公は書法を評価しながら筆者を定めず、他は観碑の年月を記すだけで、虞世南の若年の作としたのは河南の張威甫である。私には廟堂碑より筆鋒が露わだが、意趣はほぼ同じに見える。文章にも似た箇所があり、当時の士大夫の習慣だろうか。越の章立可が陝西から入朝した際これを贈ってくれた。冊子に装裱したので、その趣旨を拾って長歌を添える。

隋家天子普六茹,五儿一气夸胤祚。噬脐追悔废立乖,忍死空惭独孤误。大业改号朝新君,北南乐土无惊尘。锦帆楼船驾河汴,琼花看遍江都春。春梦繁华眼前别,纵意淫奢宁改辙。乱离四海金铁鸣,杀人如麻川流血。咸阳不见翠华归,独夫剚刃谁其悲。寰宇皇皇望真主,秋风晋水神龙飞。秦王上将天日表,草昧群雄如电扫。锁枷械钮俘累累,献凯归来京阙晓。蕞哉小丑据豳岐,奉将天讨森熊貔。两军一战胜负决,倒戈弃甲愁疮痍。阵前骈首就诛戮,百里僵尸京观筑。惊燐明灭艳青红,长夜冥冥听鬼哭。贞观年来歌太平,恩波直欲流泉扃。丹碧楼台五云起,金身宝座联珠缨。吁嗟死者焉可作,冥福全资大皇觉。茫茫苦海渡慈航,净土西天归极乐。贝叶翻经白马驮,神人现相严㧑诃。法师上奏帝颜悦,倾心事佛真如何。龟趺螭首穹碑树,谏议文章重回护。书丹仿佛虞永兴,独怪当时名弗署。银钩铁画睹斯文,摩空鳌背愁斜曛。片言诛意凛斧钺,遐思渺渺凌秋云。自古明王严放伐,汤武吊民宁嗜杀。往事悠悠且莫论,要与书家论波磔。

隋の天子は普六茹の姓を持ち、五子は同じ血筋の繁栄を誇った。廃立を誤った悔いは遅く、死を前に独孤の誤りを恥じた。大業となり新君が立ち、南北は平穏に見えた。錦帆の楼船は汴河を行き、江都の春の花を見尽くす。繁華の夢は消えても奢りを改めず、四海には武器の音、麻のように倒れる人と血の川。翠華は咸陽に帰らず、刺された独夫を誰が悲しむか。天下は真主を待ち、晋水の秋風に神龍が飛んだ。秦王は日輪の相を持つ大将として群雄を雷のように掃い、鎖の捕虜を連ね、朝の宮門に凱旋した。豳・岐の小賊に天罰の猛軍が向かい、一戦で勝敗が決し、戈を捨て甲を脱ぐ兵には傷が残る。戦場で首を並べて殺され、百里の屍は京観となった。青赤の燐火が点滅し、長夜に鬼哭が聞こえる。貞観には太平が歌われ、恩は墓にも及ぼうとした。丹碧の楼台が五雲に立ち、金像の宝座には珠の飾り。死者は戻らず、冥福は仏に頼る。苦海を慈航で渡り西方極楽へ帰る。白馬の運ぶ貝葉経、威厳ある神像。法師の奏上に帝は喜ぶが、その仏への帰依はいかなるものか。亀趺螭首の大碑に、諫議の文章が重ねて弁護する。虞永興に似た書なのに、名がないのは不思議だ。銀鉤鉄画を仰ぎ、鼇の背に夕日が傾く。動機を責める一言は斧鉞のように厳しく、遠い思いは秋雲を越える。古来明王は征伐を慎み、湯武は民を慰めたのであって殺を好んだのではない。昔事はひとまず置き、書家と筆の波磔を語ろう。

《荥阳外史集》(滎陽外史集)、巻96「題昭仁寺碑」、明・鄭真撰、四庫全書本

『石墨鐫華』

碑在长武县,朱子奢撰,无书者姓氏。余观其笔法,大类庙堂,庙堂丰逸,此稍瘦劲。庙堂五代重勒,此伯施真迹也。欧公亦不言谁书,郑樵直以为伯施,都玄敬谓必有据,而曹明仲曰欧阳通书。通书道因诸碑,殊与此不类。按旧唐书:贞观三年,诏建义以来交兵处,为殒身戎阵者,各立一寺,令虞世南、朱子奢等为之碑,此破薛举处也。又通本传,少孤,母徐氏教以父书,仪凤中始知名。贞观三年至仪凤元年,四十八年。道因碑书在龙朔三年,去贞观三年亦三十五年,则此非通书明甚。而虞与朱同事,其为虞书无疑。曹明仲又以虞恭公碑在宜禄巡检司。虞恭公,温彦博也,陪葬昭陵,碑正在醴泉。宜禄巡检司,即今长武县,明仲盖误以昭仁为恭公耳。且恭公碑亦是信本书,非通也。明仲之误如此,据其言者,可谓无目矣。

碑は長武県にあり、朱子奢撰、書者の姓氏はない。筆法は廟堂碑によく似て、廟堂は豊かで逸れるが、こちらはやや痩せて強い。廟堂は五代の重刻で、こちらこそ伯施の真筆である。欧陽公も筆者を記さず、鄭樵は伯施と断定し、都玄敬は根拠があるはずといい、曹明仲は欧陽通とする。しかし通の道因碑などとは全く似ない。『旧唐書』には貞観3年、挙兵以来の戦場に戦没者のため寺を建て、虞世南・朱子奢らに碑文を命じたとある。ここは薛挙を破った場所だ。また通の伝には、幼く父を失い母徐氏から父の書を学び、儀鳳年間に初めて名を知られたとある。貞観3年から儀鳳元年までは四十八年。道因碑の龍朔3年でも三十五年後だから、通の書でないのは明らかだ。虞と朱は同僚であり、虞の書に疑いはない。曹はさらに虞恭公碑を宜禄巡検司にあるとするが、虞恭公は温彦博で、昭陵に陪葬され碑は醴泉にある。宜禄巡検司は今の長武県で、昭仁を恭公と取り違えたのだろう。しかも恭公碑は信本の書で、通ではない。こうした誤説に従う者は、目がないに等しい。

《石墨镌华》(石墨鐫華)、巻2「唐昭仁寺碑」、明・趙崡撰、清・倪濤編『六芸之一録』巻76所引、四庫全書本

『庚子銷夏記』

昭仁寺碑为朱子奢文,不著书者名。郑樵金石略以为虞世南。细阅之,笔致娟秀尔雅,非永兴不能也。旧唐书载贞观三年诏建义以来交兵处,为陨身戎阵者各立一寺,令虞世南、朱子奢等为之碑。此碑立于豳州,乃破薛举处也。文既为朱,则字为虞,更足据耳。

昭仁寺碑は朱子奢の文で書者の名はない。鄭樵の金石略は虞世南とする。細見すると筆致は優美で雅正、永興でなければ書けない。『旧唐書』によれば貞観3年、挙兵以来の戦場に戦没者のため寺を建て、虞世南・朱子奢らに碑文を命じた。この碑は薛挙を破った豳州に立つ。文が朱なら字は虞という判断は、さらに根拠がある。

《庚子销夏记》(庚子銷夏記)、巻6「虞世南昭仁寺碑」、清・孫承沢撰、四庫全書本

『雍州金石記』

昭仁寺碑正书,今在长武县城东隅。碑首篆书大唐豳州昭仁寺之碑九字,题曰豳州昭仁寺碑文,守谏议大夫、骑都尉臣朱子奢奉敕撰。碑文三千余字,完好如新,残缺者十余字耳。集古录云:字画甚工,信不虚也。按旧唐书:贞观三年,诏建义交兵之处,各立一寺,此其一也。而碑中无年月。金石文字记云:贞观四年十一月。

昭仁寺碑は楷書で、今は長武県城の東隅にある。碑首には篆書で「大唐豳州昭仁寺之碑」の九字。題は「豳州昭仁寺碑文」、守諫議大夫・騎都尉臣朱子奢奉勅撰とある。三千余字は新しいもののように良好で、欠損は十余字だけ。『集古録』が書をたいへん巧みとするのは真実だ。『旧唐書』の貞観3年、挙兵以来の戦場ごとに寺を建てる詔の一つである。ただし碑に年月はなく、『金石文字記』は貞観4年11月とする。

《雍州金石记》(雍州金石記)、巻2、清・朱楓撰、惜陰軒叢書本

『平津読碑記』

右豳州昭仁寺碑在长武县。碑与郑州等慈寺碑同时敕建。元和郡县志:昭仁寺在宜禄县西十步浅水原上。王师讨平薛仁杲,诏于此置寺。碑,谏议大夫朱子奢之词也,即此。旧唐书高祖本纪:武德元年六月,薛举寇泾州。八月壬午,薛举死,其子仁杲复称帝,命秦王为元帅以讨之。十一月己酉,秦王大破薛仁杲于浅水原,降之,陇右平。碑云:于时摄提在岁,黄钟纪月,又云仍于战地,爰搆神居,碑所言皆与史合。

豳州昭仁寺碑は長武県にある。鄭州の等慈寺碑と同時に勅命で建てられた。『元和郡県志』は、昭仁寺は宜禄県の西十歩、浅水原にあり、王師が薛仁杲を平定したため寺を置き、碑文は諫議大夫朱子奢の作だという。この碑がそれである。『旧唐書』高祖本紀では、武徳元年6月に薛挙が涇州を侵し、8月壬午に死去、子の仁杲が再び帝を称したため秦王を元帥に任じた。11月己酉、秦王が浅水原で大勝し降伏させ、隴右は平定された。碑の「摂提の歳、黄鐘の月」「戦地に神居を構えた」という記述は、史書と合う。

《平津读碑记》(平津読碑記)、巻4「唐・豳州昭仁寺碑」、清・洪頤煊撰、光緒11年李氏木犀軒叢書本

『金石萃編』

又,昶于乾隆甲辰四月,值宁夏回人之叛,率兵防御于长武者五阅月,军事暇即往观之,通体完好。盖因寺中斫石材丈余,方正巩固,乃立亭其上,置碑于中,牧童敲火,牛厉角皆不能及,所以全无损坏。凡守土好古之君子,所当仿而行之也。

私は乾隆甲辰4月、寧夏の回民の反乱に際し、兵を率いて長武を五か月守った。軍務の暇に碑を見に行くと、全体が完全だった。寺では一丈余の角形で堅固な石を加工し、その上に亭を立て中に碑を置いていた。牧童の火打ちも牛の角研ぎも届かないため、全く傷んでいない。古物を愛する地方官は皆これに倣うべきである。

《金石萃编》(金石萃編)、巻43「豳州昭仁寺碑」附記、清・王昶撰、嘉慶12年刊本

『関中勝蹟図志』

昭仁寺。一统志:在长武县治东。元和郡县志:寺在宜禄县西十步浅水原上。太宗平薛仁杲,诏于此置寺。碑文谏议大夫朱子奢之辞也。

昭仁寺。『一統志』では長武県庁の東にある。『元和郡県志』によれば宜禄県の西十歩、浅水原上にあり、太宗が薛仁杲を平定してここに寺を置くよう命じた。碑文は諫議大夫朱子奢の作である。

《关中胜迹图志》(関中勝蹟図志)、巻27「古蹟」、清・畢沅撰、四庫全書本

古写真・拓本

1927年(刊行)

1927年、書家の比田井天来が『昭仁寺碑』を編印し、書学院後援会が刊行した。唐碑の拓本全体を切り分け、冊頁に仕立てて収録している。同年、常盤大定・関野貞の『中国仏教史蹟』第三評解にも、この碑と解説が掲載された。下図は『昭仁寺碑』の一頁で、楷書の文字と石面の剝落が見える。

1932年(刊行)

1932年、亜細亜写真大観社の調査隊は隴海鉄道と西蘭公路に沿い、河南から陝西・甘粛へ入った。『亜細亜大観』第九輯はその旅を記録する。一行は西安、永寿を経て長武県に入り、県城から三十里の窯店駅を西へ抜けて甘粛の涇州へ進んだ。道沿いには清代の左宗棠が植樹を奨励した「左公柳」が残っていた。次の二枚は長武県で撮影されたもので、黄土台地の縁の窰洞集落と、崖に設けられた穴居寺院を写し、県内の黄土の谷と洞窟住居を伝える。

1940年(刊行)

1940年6月、法蔵館から常盤大定・関野貞編『中国文化史蹟』第九輯が刊行された。長武の昭仁寺に残る唐碑、朱子奢撰「大唐豳州昭仁寺之碑」の全形拓本を収める。